月華の舞 11(完)
11
気がつくと、朝になっていた。
路上に、大勢が――いや、街の全員が、倒れ伏し、眠っていた。
自分の傍らにアイナがいた。
揺するとすぐに目覚めた。
その頬を大粒の涙が流れた。
「ジール様……あれは、夢だったのでしょうか?」
「わからない…………」
ジールは自分の手を見つめつつ答えた。
この手に触れた、美姫の手、体――あの感触は、夢ではあり得ない。
いや、感触よりもさらに強く刻みこまれた、共に舞い、共に踊ったあの経験が、夢であるはずがない!
自分の求めるものを完全に与えられた、幸せすぎる心地。
望んだ通りの才能が自分にはあるのだと確信できた。
これ以上の喜びはなく――。
それを共に喜んでくれる相手が傍らにいてくれるということが、さらなる喜びとして重ねられる。
「すまない……幸せすぎて…………止められない」
ジールもまた、アイナと同じように、頬に熱いものを流し続けた。
周囲では、大半の人々が目覚め始めて、異変に戸惑う以前に感動に打ち震えていた。
ぐったりしている者もいた。
楽団員たち。
後からの証言によれば、とにかくもう奏でずにはいられない、自分の意志では止められなかったということで、体力の限界まで演奏し続けて、意識を飛ばしたのだということだった。
不思議なことに、誰一人として楽器を壊した者はいなかった。
「おおおおおお…………!」
高い地位にある者として、屋外で倒れたかたちで眠っている者たちを保護しなければという義務感から歩き回り始めたジールは、奇声をあげうずくまる父親を見出した。
「あのお方だ……忘れるはずがない……私の頭をなでてくださった、あのお手、あの眼差し……そんなはずはない、だがあのお方だ……私が間違えるはずが……」
意味のわからないことをくりかえしむせび泣く。
声をかけることもできず見守るうちに、朝日を浴びて、理性を取り戻してくれた。
自分が何を口走っていたのか、父親は記憶していなかった。
同じように、目覚めた誰もが、昨夜の異常なできごと自体はおぼえていたが、細かいことは頭から抜けていた。
美姫と女神のことは、記憶していない者がほとんどだった。
起きたことをひたすら記述する役目の書記官や、魔法を用いて情景を後に残す魔導師たちは、ジールが『月華の君』に選ばれたところから先のことを一切記憶も記録もしていなかった。
彼らは日々の仕事で疲れ果てた身を自宅でゆったり休めるような心地に包まれて、いつの間にか眠りに落ちていたそうだった。
感涙していたアイナですら、その日の昼にはもう、何だかきれいな人が踊っていた、程度にしか思い出すことができなくなっていた。
異常なことだった。
何らかの呪法――認識阻害か、精神操作魔法が使われた可能性が高い。
本来なら重大な犯罪行為であり、ジールの立場としては訴追しなければならないことだったが。
あの至高の経験を思い出すと、どうしてもそうする気持ちを抱くことができない。
そもそも誰も傷つくことなく、「罪人」にあたるあの『カルナリア姫』のことをおぼえている者すらほとんどいない中で、どうやって彼女の犯罪を証明し、追跡し、捕縛することができようか?
もしかすると、共に踊り心を通わせるという経験をしたために、女神の力は自分には及ばなかったのかもしれない。
(夢…………だった、ということになるのだろう……)
あの姫君の記憶は、ジールの胸の中にだけ残った。
ならば、それをかかえ続けて生きていく以外にない。
(素晴らしいお方。月華の姫君。美しい夢でした。忘れません)
今年の月華祭はとどこおりなく行われ、知事の息子ジールが身元を隠して参加し優勝した――それだけが「事実」として記録された。
※
その後、ジールはアイナと結婚した。
知事の子が結婚したならば、夫婦そろって王都に上り国王に対面して報告する義務がある。
年が変わってからアイナと共に出立し、数日の旅路を経て、王都ダルタシア――の前に、その東にある旧都ナオラリエに到着した。
偉大なる女帝カルナリアが、六十年に及ぶ長い治世の大半を過ごしていた小都市である。
カラント=バルカニア連合王国が成立した後には、グライル山脈の只中にレイマリエという都を築き国の中枢はそこに移動したのだが、『グライルの裁き』により消滅した。
ナオラリエを離れなかったために生き延びた女帝はその後、この街を再び王都とした。
しかし女帝の没後、新王はずっと昔の反乱で廃墟と化していた旧王都ダルタシアに都を移転することを決断した。
玉座が去った後のナオラリエは、人口も減り、王都の東側を守る落ちついた地方都市として今に到っている。
ただこの街には偉大な女帝カルナリアの墓所が存在し、没後二十年を経た今でもなお、威風をしのぶ人々が数多く参詣する。
王都を訪問する地方貴族が、一日を費やしてナオラリエのカルナリア廟に詣でることは、ほとんど義務も同然とされていた。
ジールとアイナもその例に漏れることはなく、王都から馬車で一日のところにあるこの小都市に宿を取り、衣服を整えて女帝廟に向かった。
そこでジールは絶叫することになる。
墓所の通廊に飾られた、女帝の数々の肖像画を目にした途端に。
忘れがたい夢の舞姫をそこに見出して。
――奇怪な行動に出た夫にうろたえる妻や従者たちをよそに、図々しくも商魂たくましい者たちが近づいてきて、こちらの都合など関係なく土産ものを売りつけようとしてくる。
その中に、絵図があった。
『剣聖教団』発行という、美麗な黒髪の剣士フィン・シャンドレンと、彼女に守られた幼き日の女帝カルナリアを描いたもの。
(ああ………………あのお二方だ…………!)
稚拙かつ簡略化されたものではあるが、それを目にしたジールは、全てを理解した。
月華の姫、いや偉大なる女帝と。
女帝を守る、至高の女神。
あの方々は、ひとの世のつとめを終えられた後に、ひとを超えたものとなって、仲睦まじく旅を続けておられるのだろう。
自分とアイナがそうであるように、手に手を取って、時には舞い踊りながら、二人で、いつまでも、どこまでも……。




