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生を全うした所で待ち受けるのは死のみであり死の装飾は人を不死とせず

作者: 徹夜太郎

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現代社会において、我々が「生きる」という本質的な現実に直面する中で、社会は価値や競争といった指標に支えられて成立しています。これらの数値的に定義される価値は、コミュニティのバランスを保つためには必要不可欠ですが、それらは一過性であり、最終的には消費されて虚無に埋もれていく宿命にあります。人間は、意志的にも生物的にもコミュニティに属し、何かを成し遂げようとするものです。しかし、その努力がもたらす「生きる意味」や「価値」の探求は、理論的には理解できても、実際には根本的に無意味な儀式のように感じられます。

現代社会の価値体系は、絶えず新しい指標を生み出し、消費という形で循環しています。その結果、社会は延命治療のように価値に基づいて存続し続けるものの、虚無がその背後に潜んでいます。無意味な消費や競争が日常化する中で、社会の人々は「生きる意味」を追い求めることなく、ただ無限に回る虚しいルーチンに囚われていきます。そこでの努力はすべて、結局は退屈な空虚な回路の中で消費され、何も残らないのです。

私自身は、生命がただ「存在するために」動く状態、すなわちアメーバのように単純に生き、そして死ぬという本来のあり方こそが最も本質的だと考えます。現代の人間は、価値や意味といった脅迫的な概念に縛られ、巨大な社会システムの中で余裕があるかのように見えながらも、実際には余裕を欠いた矛盾した状態に陥っています。この矛盾は、過剰な娯楽や消費型製品など、余剰から生じる歪みとして現れています。

極論を言えば、もし人類が現代社会をコミュニティの完成形として選び、さらなる発展に熱意を注ぎ続けるのであれば、その勢いを全て停止し、社会の延命を断つべきだと考えます。人間の種の存続に固執することは、無意味な消費の連鎖を永遠に引き延ばすだけであり、私が望むのはその歪んだ価値体系を破壊し、社会を全盛期前の姿に戻すことです。もちろん、社会の存続には何らかの指標が必要ですが、私は価値を生命そのものに無理に付与された埃のようなものと捉えています。

そして価値は、一過性の恩恵にあやかりこの世でも生きながら得ているクソ野郎であり、生の決定権を握らせてはならない。

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