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第三部

   (九)

 「こいつは美味いな。」

 思わず若者が声をかけた。たとえ美味くなくてもそう言うつもりだったので、本当に美味くてよかったと思った。

 「今夜の料理は理恵が腕をふるったのよ。」

 マリアが自慢気に言った。

 「何より感心したのは、理恵が日本にはない材料を、実にうまく日本風にアレンジして料理したことだわ。」

 「そうだ。その通りだ。」

 マリアの言葉に、若者がすかさず相槌を打つ。そんな若者を眺めながら、男とジャックは顔を見合わせてにやりと笑った。

 夕食が済むと、テッドは明日の準備の続きがあると言ってさっさと自室に引き上げた。残った五人は、居間に移ってくつろいだ。マリアと理恵が、さっそくコーヒーを運んでくる。和やかな雰囲気だった。

 「本当に料理が上手なんだな。」

 改めて感心したように若者が言った。話題を引き戻した格好だった。

 「料理とお裁縫は、私の得意分野なの。」

 コーヒーを口に運びながら、理恵は自慢気に応える。

 「お裁縫はソードの身体で証明済みだし。」

 すかさず、横合いからマリアがからかうように口を挟んだ。男は飲みかけていたコーヒーにむせて、恨めしげな表情で彼女を窺う。

 「ソードの身体を縫うのは、雑巾を縫うより簡単だったのでしょう?」

 マリアは更に追い打ちをかけた。

 「ええ。雑巾よりずっと丈夫だったから、心おきなく縫えました。彼の身体は、ちょっとやそっとじゃ毀れそうもないから、今後もまた使わせて貰いたいですわ。」

 すました顔で理恵が言った。マリアとジャックが笑い、若者はわけが分からないという表情をした。男だけが渋を舐めたような表情で、顎の先をボリボリ掻いた。一頻り続いた笑い声が収まった後、早速若者が理恵に尋ねる。

 「日本人の女性は、みんなあんたみたいなのかい?」

 「私は、料理やお裁縫は両方とも母に習ったの。だけど最近は、こんなことはナンセンスだと言って、やらない人も随分増えたわ。」

 若者の質問に、そう理恵が応じる。

 「でも、私は母に習ったこういうことを大切にしたいわ。母は他にもいろんなことを教えてくれたわ。私は将来、それを全部私の子供にも教えるつもりよ。」

 「母親というのは、いいものなんだな。」

 しみじみとした口調で若者が呟く。

 「小さい頃に死んじまったから、俺はお袋のことを何一つ覚えていない。」

 「あなたのことも聞きたいわ。あなたの生い立ちや家族のことを。」

 理恵は言いながら、無邪気に小首をかしげた。若者は思わずどぎまぎした。

 「私も聞きたいわ。」

 マリアも興味津々といった面持ちになる。

 「別に大したことじゃないさ。」

 若者は軽く肩を竦めた。

 「でも、私はやっぱり聞きたいな。」

 改めて理恵は言った。その素直なものいいとまっすぐな視線が、若者にはひどく眩しかった。そんな瞳で見つめられれば、抗する術のあるはずがない。

 「俺も、何だか話したくなってきたよ。」

 気づくと、そんな台詞を口にしていた。

 「嬉しいわ。」

 理恵は屈託なく笑った。若者はコーヒーで喉を湿らせると、やがてぽつりぽつりと語り出した。

 「俺の親父は大地主だった。中世の貴族みたいな暮らしをしていたんだ。おふくろは小さい頃に死んじまって、俺はずっと一人ぼっちだった。召使や使用人は大勢いたけど、親身な口を聞いてくれる奴は誰もいなかった。親父の土地は広大なもので、その中にかなり大きな村が三つあって、学校も二つあった。だけど俺はその学校には通わないで、屋敷の中で家庭教師について一人で勉強させられていたんだ。いいところのお坊ちゃんってわけさ。くそ面白くもない生活だった。親父はそんな俺には一切構わず、どういうわけか自分の土地を増やすことにだけ夢中だった。」

 思い出すように、若者は視線を漂わせた。 

 「当時の俺は、外に出るのが嫌いだった。外へ出ると俺と同じくらいの年の餓鬼共が素っ裸みたいな恰好で、川や森でわあわあきゃあきゃあ楽しそうに遊んでいやがるんだ。俺はいつもそれを横目で見ながら、詰襟の服を着て、馬車でその脇を通り過ぎなきゃならなかった。それがたまらなく嫌だったんだ。」

 カップを弄びながら、彼は言葉を続けた。

 「そんなある日、使用人の一人が自分の息子を連れてきたんだ。そいつは真っ黒に日焼けしていてがっちりした体つきだった。眼がぎょろりとしていて俺より二歳年上だった。そいつは俺を見るなり、葱の白みたいだと抜かしやがった。そして、どうせ何も出来ないんだろうと鼻の先で笑いやがったんだ。それまでに、俺にそんな態度をとった奴はいなかった。だから、俺は思わずかっとなって怒鳴り散らしたんだ。今じゃ何と言ったか忘れちまったけど、そいつは俺の気にしてることを見事に言い当てやがったんだ。奴は顔色を変えてまくしたる俺を、にやにやしながら眺めていたよ。そして俺が一息つくと、証拠を見せてやるからついて来いと言ったんだ。」  

 若者はそこで言葉を切って、くすくすと思い出し笑いをした。

 「今思えば、くだらない餓鬼の意地の張り合いさ。だけどその時は、絶対に後に退けない気持ちだった。そいつは俺を屋敷から連れ出して、奴の仲間たちの処へ俺を連れて行ったんだ。そいつは親父の土地の中の、三つの村の子供全部を束ねる餓鬼大将だった。」

 空になった若者のカップに、マリアはコーヒーを注いだ。ありがとうと頷きながら、若者は更に言葉を続けた。

 「そして結果は、奴の言った通りだった。俺は何一つまともに出来なかった。泳ぎも木登りも、奴の仲間の一番年下の奴にも敵わなかった。奴の仲間達は俺を笑いやがった。ところがそいつは一睨みで彼等を黙らせた。そいつだけは笑ってなかったんだ。それからそいつは俺に向かって、どうだ分かったかと言った。分かるも糞もあるもんか。それ以来、俺は毎日屋敷を抜け出して奴等のところに行くようになった。絶対奴等を見返してやる。いつか奴等を追い抜いて、俺が一番になってやる。そう決心したんだ。」

 その時の気持ちを思い出したように、若者はカップの中身を一気に飲み干す。ひどく乱暴な仕草だった。

 「最初から喧嘩腰の俺に対して、奴等も敵意むき出しで接してきた。実際何度も喧嘩をしたよ。そいつはいつも近くにいて、けしかけもしなければ止めもしない。ただ、眺めているだけだった。喧嘩はいつも素手で、一対一の勝負だった。奴等も、みんなで待ち伏せをかけるというような卑怯な真似は一切しなかった。そして俺は何度も泣かされた。ぼろぼろになった服をごまかすのに苦労した。なんでこんなひどい目に合わなきゃならないんだと何度も思った。だが、不思議なことにそれでも行くのを止めようとは思わなかった。」

 今度のコーヒーは理恵が注いだ。若者は話に夢中で、それにも気づかぬ様子だった。

 「そんなある日、奴等の中の一番のちび助が河に落ちて鰐に襲われたんだ。俺は夢中で手近の奴のナイフをひったくって、一番に河に飛び込んだ。すぐに、そいつと仲間達も後に続いた。なんとか助けることが出来た後、奴等の俺に向ける目付きが変わっていた。奴等はその時から、俺を本当の仲間だと認めるようになったんだ。それまでの俺は、いわばお客さんみたいなものだったのさ。」

 「お客にしては、随分手荒い応対をされたもんだな。」

 感心したような口調で男が言った。

 「うん、まあそうだな。だが、子供の世界なんてそんなもんさ。」

 若者はそう応じた。無意識に手の中で、むやみに飲みかけのカップを玩んでいた。

 「もちろんその後も喧嘩は何度もしたさ。けれど、それからは奴等と一緒にいるのが楽しくて仕方なかった。相変わらずぼろぼろになった服をごまかすのには苦労したがね。」

 そう言って若者はにやりと笑った。

 「それから二年くらい経って、そいつは都会へ働きに出ることになった。そしてそいつは、俺をそいつの後釜のリーダーに据えたんだ。意外なことではあったけれど、俺の方には異存なかった。親父の村の中の話だし、その頃には度胸でも腕っ節の面でも俺が一番だという自信があった。だから心のどこかで、そいつの後を継いで奴等を束ねるのは至極当然と思い込んでいたんだ。当時の俺は、ちょいとばかり自惚れていたってわけさ。ティアラと会ったのは、ちょうどそんな頃だった。」

 若者はそこで言葉を切って、がぶりと飲みかけのコーヒーを口に運んだ。

 「ティアラというのは、当時一人で山に住んでいる男だった。がっしりとした体つきのひどく無口な奴だった。みんなからは、何故か怖れと畏敬の眼で見られていた。俺はといえば、その頃は随分派手にやっていて、大人達からも一目置かれる存在だった。

 その日、俺達は村はずれの路地裏にたむろしていたんだ。奴は俺を見かけると、いきなり俺のところにやってきて、お前はいい気になっていると言った。面と向かって抜かしやがったんだ。そばにいた俺の仲間達は、驚いた表情で突っ立ったままだ。彼等がいくらか怯えているのが俺にも分かった。確かに俺はいい気になっていた。ここでこいつをぎゃふんと言わせてやれば、仲間達にもっといい顔が出来ると踏んだんだ。俺は奴を馬鹿にしきった口調で嘲弄し、挑発的な言葉をぶつけたんだ。そんなことは誰もやらねえ。仲間達は信じられないという顔つきだった。固唾を呑んで、事の成り行きを眺めていた。ティアラは黙って俺を見つめた。そして突然、俺を山へ連れて行くと言い出したんだ。俺は本気にしなかったし、たとえ奴が本気だとしても、そんなつもりは毛頭なかった。やれるもんならやってみろという気持ちだった。 するといきなり、ティアラは俺を睨み据えた。突然、ティアラの身にまとっていた気配が変わった。俺は睨み据えられたまま、すくんで動けなくなっちまったんだ。ティアラが突然、途轍もない化け物になったように感じられた。奴の眼から矢が放たれて、俺の心臓を刺し貫いたように感じたんだ。俺は立ち尽くしたまま、指一本動かせなかった。廻りの者は、訳が分からないという顔つきだった。俺は必死に歯を喰いしばって、動こうとしたが駄目だった。全身が汗まみれになった。それを見ると、不意にティアラがにやりと笑った。そしてそれからその気配を消した。俺はがくりと膝が砕けて、尻餅をつきそうになった。だが、仲間の手前それだけは出来ない。俺はかろうじて体を支えて喘ぎ続けた。そんな俺を眺めながら、奴は俺について来いと言ったんだ。そしてさっさと先に立って歩き出した。俺がついてくることを信じて疑わない様子だった。実際のところ、逆らうことなど思いもよらなかった。俺は取り憑かれたように、ただふらふらと、奴の後についていくことしか出来なかった。そういうわけで、それから一年以上ティアラと二人きりで山で暮らす破目になっちまったんだ。」

 そこで一旦言葉を切って、若者は感慨深げに息を吐き出す。

 「凄い人ね。」

 驚きも露わに理恵が言った。

 「ああ、俺もそう思うよ。だが、一緒に暮らすうちに俺はティアラが好きになり、山が好きになり、その暮らしをずっと続けたいと思うようになったんだ。」

 若者は照れ臭そうに、小さく笑ってうつむいた。子供みたいな仕草だった。

 「そんな暮らしが一年以上も続いた後のある晩のことだった。不意にティアラが、山の暮らしで何が分かったか俺に尋ねた。少し考えてから、俺は答えた。

 『山は特別なものを嫌う。自分だけは特別だと思い込んでいる全てのものを嫌う。だから山で生きるためには、そういう思い上がりの全てを捨て去り、廻りに呼吸を合わせ、静かに意識を沈み込ませて、山の一部になりきることが何より大事だ。そうすれば山は、豊饒ないろいろなものを分け与えてくれる。』

 もっと言えと、彼は言った。

 『山は銃や機械を嫌う。それらは自分だけは特別だと思い上がった人間が、奪い取るためだけに作った道具だからだ。俺達人間は特別なものじゃない。だから思い上がって山を荒らす権利などないんだ。』

 もっと言えと、彼は言った。

 『俺達人間の間だって同じことだ。誰かが多く獲ろうとすれば、その分誰かの取り分が減る。自分一人だけが貪ろうとするのは悪いことだ。もしかしたら、それは全ての中で最も悪いことかもしれない。何故なら、それが全ての悪の出発点だからだ。』

 よし。彼は大きく頷いた。そして言った。

 『お前はもう山を降りる時が来た。』

 俺はびっくりして顔を上げた。

 『いやだ。俺はここにいる。』

 俺は更に続けた。

 『俺はもっとここにいたい。ここであんたとずっと暮らしたいんだ。』

 だが、彼は首を横に振った。

 『駄目だ。お前にはもっと他にやるべきことがある。』

 『じゃあ、あんたはどうなんだ。あんたは何故山を降りない?』

 ティアラの答えは明確だった。

 『俺のやるべきことはここにある。お前のような者に、山の気持ちを伝えることが俺の仕事だ。』

 その意味はよく分かった。山はしゃべれない。山の気持ちを伝えることは、特に今のような時代には絶対に必要なことだ。俺は少し考えてから言った。

 『でも、あんたが死んだらどうなる。山の気持ちを誰が伝える。俺はあんたの跡を継いで、山の気持ちを伝える者になりたい。』

 彼は苦笑した。ちょっと持て余した感じだった。だが、嬉しそうだったよ。今思うと、彼のあんな笑いを見たのはその時が初めてだった。あの笑顔は今でも忘れられない。」

 若者は天井を見上げて、心底懐かしそうな表情になった。自分の言葉を噛みしめていたのだ。若者は更に話を続けた。

 「しばらくしてから彼は言った。

 『それはお前の問題だ。だがその前に、お前にはやるべきことがある。やるべきことを全てやり終えてから、もう一度ここへ来い。その時に自分で考えて決めればいい。』

 そういうわけで、俺は山を降りることになった。一年以上経っていたけど、仲間達は変わらず俺を待っていてくれた。だから全ては元通りというわけだ。しかし、それは所詮見かけだけのことだった。実際には、俺の心の中ではいつも嵐が吹き荒れていた。俺にはやるべきことがあるとティアラは言ったが、それが何だか、皆目わからなかったんだ。いつも何かに急き立てられているような、苛々した気分だった。ティアラに認められた者だということで、廻りの者はさらに俺を特別扱いした。それが俺には一層こたえた。ごくたまに村でティアラを見かけることがあったが、もう彼は俺に見向きもしなかった。見捨てられたような気分だった。もちろん俺の方でもまともに彼の顔を見ることは出来なかった。何しろまだ何も始めていないどころか、何をしていいかさえわからないんだ。

 親父が大学へ行くことを勧めてきたのは、ちょうどそんな頃だった。さんざん迷った挙句、結局行くことにしたよ。何かに縋りつきたい気持ちだったし、大学のあるその都市は俺の前の餓鬼大将だった、例のあいつが働きに出た都市だったからだ。

 無性にあいつに会いたかった。会って話がしたかった。だから入学すると同時に、俺はあいつに会いに行ったんだ。ところがあいつはとっくの昔に、働いていた店を馘首になっていた。それどころか危険思想の反乱分子ということで、お尋ね者の身になっていやがった。何もかも信じられなかった。俺は八方手を尽くして、必死にあいつを探し回った。

 ようやくあいつを探し当てたのは、半年以上も過ぎてからのことだった。あいつは都会でも餓鬼大将だった。相変わらずたくさんの仲間を引き連れていた。だが、中身は随分変わっていたよ。いかにも高そうな服を着て、ごてごて派手な装身具を身につけて、いやにちゃらちゃらしていやがった。そしてその口許には以前には見られない薄ら笑いが刻まれていたんだ。

 俺はあいつの仲間を一人残らず叩きのめしてから、奴の胸ぐらを掴んで言ったんだ。

 『今のお前は、俺にはただの馬鹿にしか見えないぞ。いったいどうしちまったんだ。』

 奴は答えた。

 『俺にもよくわからない。最初は懸命に働いたよ。俺は金を貯めて、故郷で小さな雑貨屋でもやりたかったんだ。都会はただでさえ金がかかる。だから俺は生活を切り詰めて、それこそ必死になってなって働いたんだ。だけど店のお偉方は、なんやかんや理由をつけて俺の給料を差っ引きやがる。そしてある日、その差っ引かれた俺の給料を奴等が山分けしていることを知ったんだ。俺は奴等をぶっ叩いて、店の金を残らず頂戴した。そのために俺はお尋ね者になっちまった。それからはあちこち転々と逃げ回る毎日さ。最近になって仲間も出来て、ようやく一息つけるようになってきた。そして気がつくと、俺はこいつらを養っていかなければならなくなっていたんだ。』

 言いながら、そこらに転がっている奴等を顎でしゃくった。だから今じゃ金になるなら何でもやるさ。言いながら、いつしか奴は泣いていたよ。

 俺は、奴とよく話し合った。それによると奴と奴等の一味は、この町のやくざ共の使いっ走りのようなことをしていることがわかった。俺は奴にこの町を出るよう言った。仲間を引き連れて、故郷へ帰ればいい。俺の代わりに、昔みたいに向こうの奴等を束ねてほしい。ちょうどそんな奴を探していたんだ。

 奴は、最初は渋っていたが最後には俺の言葉に従う気になった。

 奴は仲間を引き連れて故郷に帰り、俺は一人大学に残った。そして四年間真面目に勉強してみたが、どれもこれも大して重要とは思えなかった。四年間でちゃんと身についたのは、語学とカポエラくらいのものだった。」

 「カポエラというのは、俺とやり合った時に使った不思議な格闘技のことか?」

 不意に男が口を挟んだ。

 「ああ。俺は半年で師範に次ぐ腕前になった。師範は俺を見込んで、ありとあらゆる技を教え込んだんだ。師範には、後を継げとずっと言われ続けていたんだぜ。」

 そう言って、若者は自慢げに胸を張った。

 「道理で手強かったわけだ。」

 男は納得したように頷いた。

 「そして俺は大学を首席で卒業した。」

 「すごいわね。」

 感心して理恵が言った。

 「そうでもないさ。」

 先程とは打って変わって、自慢気な様子は毛程もなかった。

 「だが、学問はもういいと思った。適当にやって首席じゃあ、やる気もなくなる。」

 「もったいないわ。」

 理恵の言葉に若者はただ軽く肩を竦めた。

 「そういうわけで、大学を卒業すると俺はすぐに故郷に帰った。といっても、すぐに元の仲間達の処へは行かなかった。当分は一人でぶらぶらしたいと思ったんだ。

 真っ直ぐ家に帰った俺に対して、親父は自分の客を、次から次へと引き合わせ始めた。俺は強いて逆らわなかった。親父の客がどんな野郎か検閲してやるといった気分だった。親父の客は政府の高官や実業家で、お偉方と呼ばれる類の人間だった。一人残らず鼻持ちならない高慢ちきで、自分の懐を膨らますことしか考えていない、欲の皮の突っ張った胸糞の悪くなる奴等だという点だけが、判で押したように共通していやがった。俺はそんな奴等を相手に、作法通りに上品に食事をしてにっこり笑って挨拶したんだ。ボストン訛りの英語か、神の言葉と言われている正統なスペイン語で自己紹介すると、奴等は目を丸くして感心した。所詮そんなことにしか感心できない連中なのさ。

 そして最後に会ったのは、極めつけの下司野郎だった。脂ぎったデブで、食事の最中に臭いげっぷを吐き散らしながら、金儲けかなんかの屁みたいな小理屈を、自慢たらたらまくしたてていた。俺はその時食っていた料理を、そいつの顔に叩きつけてやりたいという衝動を抑え込むのに苦労したよ。さらに次の日、そいつは親父の農場を見学したいと言い出したんだ。しかも俺は、その案内役を仰せつかった。親父の姿は見えなかった。親父もこいつを嫌っているんだと分かって、ちょいとばかりいい気分だった。同時に、嫌な役を俺一人に押し付けやがったという忌々しい気分だった。だから俺はなるべく奴の顔を見ないようにして、農場の中を引っ張り回してやったんだ。奴はひいひい言いながら、相変わらず下らない能書きを偉そうに並べたてていやがった。もしかしたらその野郎は、俺を教育するつもりだったのかもしれない。俺は腹の中でせせら笑って、何も聞いちゃいなかった。

 だが、奴が農場の中の一人に絡み始めた時には笑ってばかりもいられなかった。その相手が何か一言言い返したので、事態は益々悪くなった。奴は怒りで顔を真っ赤にして、塩辛声で怒鳴り散らした。挙句の果てに、鞭でそいつをひっぱたこうとしやがったんだ。俺は飛び出していってその鞭をひったくった。そして奴の眼の前で鞭をへし折り、奴を睨みつけたんだ。怒りで真っ赤だった奴の顔が、今度は怯えで真っ青になった。まるで信号機みたいだった。もう下らない猿芝居は御免だった。奴があと一言でも口を聞いたら、遠慮なく一発かますつもりだった。

 その時、唐突に背後から声が掛かった。親父の声だった。

息子が何か御無礼を致しましたか、とね。

 振り返ると、親父が気遣わし気な表情で見ていた。親父がまだ猿芝居を続ける気だと知って、俺はついに我慢の尾を切った。

 気がつくと、俺は後も見ずに家を飛び出していた。もうたくさんだという気分だった。あいつらは一人残らず、この国を餌に肥え太ろうとする薄汚い寄生虫共だ。あんな奴等にこの国を任せておけるか。あまりの怒りに眼が眩みそうだった。もう俺の行くところは一つしかなかった。

 俺は再び仲間のもとに戻ったんだ。胸の中は、怒りで燃えたぎっていた。あんな糞野郎共が支配しているこの国を、木っ端微塵にぶち壊してやる。そう心に誓っていた。

 仲間達は、都会から戻ったあいつが一つに束ねていた。あいつと一緒に都会から来た連中も、それなりにうまくやっていた。奴の話によると、仲間達はそれぞれ小グループに分かれて、いろいろ細かい稼ぎで喰っていた。そのためか、最近では地回りとのいざこざが絶えないということだった。要するに、ちょっと大きめの愚連隊かチンピラの集まりみたいになっちまっていたわけだ。

 そこで俺は、俺の決意を奴に話した。俺は反乱軍を作る。そしてこの国を餌に肥え太った特権階級の糞野郎共を、一人残らずぶっ潰してやりたい。そのために仲間から兵を募って基礎から鍛え直す。武器も手に入れ、根城も作り、人数も増やして精強な軍を作り上げて、国を相手に一戦仕掛けてやるつもりだ。そう言ったんだ。あいつは俺の話を最後まで黙って聞いていた。明らかに興味を引かれた様子だった。その挙げ句、突然笑い出してこう言ったんだ。

 するとこれからは、俺はお前を将軍様と呼ばなければいけないのかな。

 俺はその言葉に心底びっくりした。そんなつもりは毛頭なかった。ボスはあんたに決まっているだろ。もともと彼等はあんたを慕って集まったんだし、あんたはそれを束ねて今までうまくやってきたんだ。それを横取りするような真似が出来るか。

 そう言うと、あいつは即座に首を振った。

 俺は彼等を今まで束ねてきたが、一番上に立つのは俺の役目じゃない。出来るなら俺もそうしたいが、残念ながら俺はそんな器じゃない。俺はお前の副官になる。副官として、とことんお前についていく。口をへの字に曲げて、梃子でも動かぬ構えだった。いくら説得しても駄目だった。それで結局俺がリーダーになる破目になったんだ。言い出しっぺなんだから、仕方ないだろう。奴はからかうように言った。そしてそれ以来、あいつはなくてはならない相棒になった。それは今でも変わっていない。」

 「ほう。」

 ジャックが感心したように口を挟んだ。

 「すると、その副官のあいつというのはボーマルシェのことか。」

 「そうさ。そしてあいつが俺の幼馴染さ。俺にとってはいつでもかけがえのない、いい兄貴だった。あいつがいなけりゃ俺は今でも何も出来やしない。」

 若者はそう言って誇らしげに頷いた。

 「それからあいつは、仲間の中の主だった六人を集めて話をした。俺も話したが俺の話なんかより、あいつの存在自体の方が、その六人にとってはずっと大きかったよ。

 奴は言った。ただの町のチンピラだった俺達が、これからは軍としてこの国の腐った部分を叩き潰すために生きていくんだ。奴の言葉を聞いて、六人とも明らかに心を動かされた様子だった。だが、喜びと感激で眼を輝かせていたというわけじゃない。

 ボーマルシェ、あんたは本当にそうしたいと思っているのか?

 一人が念を押すように言った。

 勿論だ。

 あいつはこともなげに答えた。一人が俺のことを指さして、更にしつこく言い募った。

 情に絆されて、というのは御免だぜ。ただこいつに引き摺られているんじゃないのか?

 あいつは断固とした口調で言った。

 俺は自分のくだらない情や義理の類で、仲間を巻き込んだりはしない。

 それを聞くと、そいつは笑って頷いた。

 どちらにしても、こいつは俺達だけじゃ決められないぞ。

 ぽつりと、別の一人が口を開いた。

 それから俺達はいろいろ話し合った。その結果、全員を集めてみんなの気持ちを訊くことになった。まず、俺に話をしろと奴等は言った。ボーマルシェまで、それに賛成しやがった。俺は尻込みしたかった。何しろ大勢の前で話をしたのは、卒業式で答辞を読み上げた時くらいのものだったからな。だが、もちろんそういうわけにはいかない。俺は観念して頷くしかなかった。

 奴等はすぐさま仲間全員に声をかけた。

 三日後の晩、仲間達は怪訝そうな顔で、ぞろぞろ村の広場に集まってきた。全部で百八人もいた。俺の知っている奴等は、せいぜい半分ぐらいのものだった。規律や秩序などとは全く縁のない連中ばかりだった。寝っ転がっている奴や、飯を喰っている奴までいた。

 まず、俺とボーマルシェと最初に声をかけた六人が、彼等の前に立ち並んだ。

 妙に月の明るい晩だった。

 それから俺はそんな奴等に向かって、自分の思いのありったけを並べたてた。彼等は明らかに俺の話に興味を示した。いくらか興奮を抑えきれない様子だった。だが結局のところ、奴等にとってはやっぱりボーマルシェの存在が大きかった。俺の話が終わった後、しばらくは誰も口を開かなかった。

 ボーマルシェ、あんたはどうなんだ?

 唐突に、一人が吼えるように叫んだ。

 広場いっぱいにその声は響き渡った。しんとして、誰も口をきかなかった。

 俺は関係ない。お前等自身の問題なんだ。

 奴はそうやり返した。別の一人が叫んだ。

 そうだ、これは確かに俺達自身の問題だ。俺達が自分で考えて答えを出すべきだ。

 そいつはそこで一旦言葉を切った。それからにやりと笑って、こうつけ加えたんだ。

 それで、あんたはどうするつもりなんだ?ボーマルシェ。

 その言葉に、その場の者の視線の全てがボーマルシェに注がれた。一人残らずボーマルシェを見つめていたんだ。そう詰め寄られて、奴はちょっと考え込んだ。それから決意を漲らせて顔を上げた。奴は俺を指さしてきっぱりと言ったんだ。俺はこいつと共に生き、そして死ぬ。たとえ死ぬ時や場所が違ったとしても、いずれは同じ所へいくつもりだ。

 ボーマルシェの言葉に、奴等の感情が波のようにうねるのを感じた。奴等にとってボーマルシェがいかに大きな存在であるか、改めて思い知らされた局面だった。

 その雰囲気を敏感に察して、前に立っていたうちの一人が前に進み出てきた。本名はわからない。最初の六人の中の一人だった。みんなからはチコと呼ばれていた。チコというのはちびという意味だ。そのくせ二メートル近い背丈だった。その図体にふさわしいでかい声で、チコが奴等を見廻しながら言った。

 これから俺達は軍になるんだ、軍隊式にやろうじゃねえか。

 そう叫んだ。

 ああ、そうしよう。

 そんな声があちこちで上がった。

 整列。

 チコが大声で号令をかけた。全員がぞろぞろ立ち上がると、いかにも面倒臭そうに並び始めた。到底軍隊なんて呼べるような動きじゃなかった。俺は世をはかなみたくなった。もともと軍隊などという規律正しい代物からは、もっとも縁遠い連中ばかりなんだ。

 続いて最初の六人のうちの一人の、ホセという奴が一歩前に出て話し始めた。理論的なことをわかりやすく話す、やせっぽちでひ弱そうな学者肌の奴だ。

 俺達のほとんどは途中で死ぬだろう。だから決して強制はしない。養うべき家族のいる奴もいるはずだ。今脱ければいくばくかの金を渡す事も出来る。よく考えて決めてくれ。

 もはや誰も何も言わなかった。無表情のまま、前に立つ俺達を見つめるだけだ。

 ホセがさらに念を押した。

 これから軍隊式に号令をかける。やる気のある奴は号令に合わせて一歩前へ出るんだ。そうしないからといって誰も責めたりはしない。家族のいる奴は特によく考えろ。これから俺達の行く先はどう転んでも地獄なんだ。

 その言葉の後、しばらく以上の時間を待って、やがてチコが気をつけと怒鳴った。

 奴等はのろのろと号令に従った。全員が気をつけの姿勢を取り終わるまで、かなり以上の時間がかかった。もはや奴等は俺達さえも見てはいなかった。ただ、まっすぐに前を見ているだけだった。

 やがて次の号令の声が響いた。すると信じられないことが起こった。号令に合わせて一斉に百八つの左足が前に出たんだ。そして更に次の号令で、全く同時に百八つの右足の踵がその脇に降ろされた。一糸乱れぬ動きだった。なまじの軍隊顔負けの動きだった。生半可な訓練ではこうはいかねえ。俺は呆気に取られて奴等を眺めた。

 次に俺は感激した。奴等に迷いは寸毫もなかった。百八人全員が、一人残らず志願したってわけさ。内心では、半分残ればいいと思っていたんだ。俺は何も言えなかった。泣くのをこらえるのに精一杯だった。奴等をまともに見てられなくて、俺は傍らのボーマルシェに眼をやった。憎らしいことに、奴はそれが、さも当然だという面つきで突っ立っていやがった。そして俺と目が合うとにやりと笑って、こともなげに言ったんだ。

 これが俺達の仲間だ。

 その言葉を聞くと、俺はとうとうこらえきれなくなっちまった。みっともないが奴等の前で、大声で泣き出しちまったんだ。

 奴等は一斉に笑いやがった。泣いていたのは俺だけだった。

 泣くなよ、リーダー。

 冷やかすように、誰かが叫んだ。またどっと笑い声が起こった。

 馬鹿野郎。

 俺は泣きながら怒鳴り返した。

 あの晩のことは忘れられないし、一生忘れるまいと心に誓ったんだ。」

 若者は感情を抑えきれない声音で言った。

 「成程な。」

 男が納得したように頷いた。

 「それが仲間のことにこだわる理由か。」

 「ああ。どうもそういうことらしい。ことさら意識したつもりはないけどね。」

 若者は否定しなかった。

 「そういうことがあってからも、表面上は俺達の生活は変わらなかった。何しろ金も武器も根城もないんだ。毎日細かい稼ぎで細々とやっていかなきゃならない。けれどそれでよかったんだ。既に最初の敵は決まっていたからな。奴等に、俺達が軍としてまとまったことを知られるわけにはいかなかった。」

 「その話は知っている。奴等というのはカルロス・リザルトだろう。」

 男が横合いから口を挟んだ。

 「そう。俺達の最初の相手は、カルロス・リザルトのファミリーだった。当時、奴等は執拗に俺達に絡んできていた。奴等から見れば俺達はただのチンピラにすぎない。叩けばすぐに泣くだろうとたかをくくっていやがったんだ。俺達を下部組織に組み込んで、甘い汁を吸う腹積りだったのは見え見えだった。そこで俺は奴等について調べたんだ。俺達にとって、叩き潰すメリットのある相手かどうかということをね。ただの地回りなら、奴等を叩き潰してもこちらは潤わないからな。」

 「大きく出たな。」

 「当り前さ。何しろ仲間の命を賭けるんだ。それなりの代償がなければもったいなくて動けないさ。」

 「そして叩き潰す価値ありという結論になったんだな。」

 「ああ。いざ調べてみると、恰好の相手だということがわかったんだ。奴等は普段は町の中の地回りのやくざとしてかなり派手にやっているが山賊にも片足突っ込んでいて、やばくなると山の中の根城に逃げ込んでほとぼりをさますんだ。そしてその根城に、たっぷり金や武器を貯め込んでいるということも調べ上げた。」

 「それでそいつをそっくり頂くことにしたというわけかね。」

 ジャックが念を押すように言った。

 「そういうことだ。」

 若者はにやりと笑って頷いた。しかし、そこで急に語調が変わった。

 「だがちょうどその頃、俺達がそんな計画を立ててじたばたしていた時に、とんでもないことが起こったんだ。」

 「何だ、それは?」

 男の問いに、若者は微かに顔を歪める。

 「ティアラが死んじまったんだ。」

 若者の声は掠れていた。束の間、辺りを沈黙が支配した。次の瞬間若者の掌の中で、握りしめたカップが音を立てて砕け散った。誰も何も言わなかった。

 「すまない。」

 若者は切れて血の滲んだ掌をぺろりと舐めた。そしてのろのろと破片を拾い集めた。

 「事情はよくわからなかった。だが、開発局の高官の護衛に射殺されたということだった。しかも、親父の鉱区だか農場だかが絡んだ話だったらしい。俺はすぐに、一人で親父に会いに行った。二度と会わないつもりだったが、今度ばかりはそんなことを言っていられなかった。

 俺にとっては到底信じられない話だった。ティアラは大自然の大憑代であり、マットグロッソの化身なんだ。彼が死ぬことなどあるはずがない。そんな思いに駆られながら、俺は屋敷に忍び込んだ。何しろ勝手知ったる自分の家だ。だだっ広いだけが取り柄の、ただでさえ薄暗い屋敷はしんとして灯の消えたようになっていた。

 親父の居間にだけ、煌々と灯りが点いていた。俺は自分の気配を消して、そっとその部屋に入り込んだ。親父は一人だった。たった一人で古い絵をひっぱりだして、とり憑かれたようにその絵を眺め続けていた。俺は驚いた。その絵に描かれていたのはティアラだった。ずっと若い頃のものだったが見間違えようがない。それを眺めながら、親父は泣いていた。その頬が濡れているのを見て、俺は思わず声をかけた。親父は振り向きもしなかった。身振りで座るよう促しただけだった。俺は手近な椅子を引き寄せて座った。それから、親父は独白のように話し始めた。

 それによると、親父も若い頃は家を継ぐのが嫌だったそうだ。画家になりたいと思っていたんだ。そして俺と同じように親に反抗して、そこらをうろうろしているうちに、やはりティアラと知り合ったという話だった。その頃から、既にティアラは偉大な戦士としてみんなから尊敬されていた。大自然の末裔であり、言霊というような存在だったんだ。それから親父はしばらく、俺と同じようにティアラといっしょに暮したんだそうだ。しかしそのうちに、親父はティアラのためにある危機感を抱くようになった。それは、ティアラという存在の拠り所となっている大自然を食い荒らす糞野郎が、将来必ず現れるに違いないという危惧だった。それで親父はさんざん考えた挙句、フランスの大学で絵の勉強をさせて貰うことを条件にして、家を継ぐことを承諾したんだ。親父はこの家の財力の全てをつぎ込んででも、ティアラとこのマットグロッソを守り抜こうと決心したんだ。つまり親父は、俺なんかより遥か先を見通していたってわけさ。いずれこの国の糞っ垂れの政治家共が、ティアラとこの大自然をぐちゃぐちゃいじくり廻すのを予想していたんだ。それを防ぐために、親父はせっせと自分の土地を広げ、この国の権力者達を取り込んでいったんだ。自分がある程度の権力を握れば、自分の発言力も強くなる。そうすれば奴等も、ティアラやマットグロッソにおいそれと手出しが出来なくなる。そう考えたんだ。

 それを聞いて、俺は親父がティアラを守るために必死だったことを初めて知った。穴があったら入りたい気分だったよ。何しろ俺には、親父が権力欲に取り憑かれた我利我利亡者にしか見えなかったんだ。

 その晩、俺と親父は初めて素直に自分の気持ちを曝け出し合ったように思う。ティアラがその橋渡しをしてくれたんだ。そうとしか思えなかった。いろいろな話をして、気がつくと夜がしらみ始めていた。

 帰るために立ち上がりかけた俺に、親父は不意に声を掛けた。

 テントの中にいる奴等に、小便をひっかけてやりたいと思ったら、テントの中に入るのが一番確実だと思わないか?

 そう言ったんだ。それは初めて親父が口にする、気の利いたジョークだった。親父の生き方を表現する言葉だった。そう気づくのに時間がかかった。糞真面目な親父がそんな言い方をするとは、夢にも思わなかったんだ。

 俺はしばらく考えてから答えた。

 同じことなら、そのテント自体をぶっ壊してやりたい。

 親父もしばらく考えてから頷いた。

 それもいいだろう。

 そう言って、それから地図を引っ張り出して二つの村をさし示した。親父の所有地内の村だった。

 この村をお前達の支配下にしろ。村長には話を通しておく。

 その言葉に俺は顔を上げた。親父は何も言わなかった。だが、親父の気持ちはひしひしと感じた。それは抑えきれない怒りだった。親父は俺以上に、ティアラの仇をとりたいと思っていたんだ。

 いいのかい。そんなことをしたら、父さんも犯罪者の片割れになるぜ。

 そう言うと、親父はにやりと笑った。

 その時はお前を売って生き延びてやるさ。

 そして自嘲するようにつけ加えた。

 政治家なんて、所詮性質の悪い原生生物みたいなものだ。半分に切り刻まれても死ぬことはない。そして私も、そんなおぞましい奴等の仲間になりつつある。

 俺は言ってやった。

 そんなことはないさ。父さんはただ、そんな連中に小便をかけるためにテントの中に入っただけだ。但し、いずれそのテント自体を俺がぶっ潰してやるから気をつけてくれよ。

 すると、親父は小気味よさそうに笑った。

 困ったことがあったらここへ来るがいい。但し一度だけだ。一度だけなら何とか助けてやれるだろう。

 そしてその後、更に付け加えた。

 私達は、もう会わない方がいいだろう。

 俺は頷いた。

 ああ。でも毎年この日には、父さんの描いたこの絵を見るためにここに来るよ。

 そう言って立ち上がりかけた俺は、不意に思い当たった。電流のようなショックが体中を走り抜けた。そしてそれはすぐに確信に変わったんだ。

 俺は訊ねずにはいられなかった。

 餓鬼大将時代のボーマルシェを、俺に引き合わせたのはあんただな。

 親父は何も言わなかった。

 いい気になっていた頃の俺を、ティアラに引き合わせたのもあんただな。

 やはり、親父は何も言わなかった。

 しかし、その沈黙が何より雄弁な答えだった。何のことはない、俺は親父の掌の中でじたばたしていたにすぎなかったんだ。昔読んだ中国の話の中の猿と同じさ。ぼんくらの俺にも、ようやくそれがわかったってわけさ。

 ありがとう、父さん。

 俺は言った。俺はとめどもなく素直な気持ちになっていた。

 ティアラとボーマルシェの二人に出会えたことは、俺にとって生涯の宝だ。

 そう言いながら、気がついたら見栄も外聞もなく親父の胸に飛び込んでいたよ。

 今回だけだぞ。

 親父は湿った声で言いながら、俺を力一杯抱きしめてくれた。それからすすり泣く俺を引きはがして、改めて念を押した。

 今回だけだぞ。

 そう言ってから、また力一杯抱きしめてくれたんだ。」

 そこまで話して、若者は傍らの理恵の眼差しに気づいた。彼女の顔は、既に涙でぐしょぐしょだった。若者は驚きの表情で理恵を見つめた。彼女から眼を離せなかった。初対面の、縁もゆかりもない者の話にこれ程感情を露わに出来ることが俄に信じられなかったのだ。だが、同時に痛いところを柔らかくさすられているような気分になった。そこに照れくささを感じて、若者は忌々し気に舌打ちをした。

 「くそったれ。こんなことまで話すつもりはなかったんだ。」

 「でも、いい話だった。」

 理恵が柔らかな声で言った。

 「あとは、あんたらも御存知の通りさ。」

 若者は、やや投げやりな口調で言った。

 「カルロス・リザルト一味を壊滅させてその拠点を奪い、反政府軍の名乗りをあげた。」

 ジャックが言った。

 「ああ。親父の助力のおかげで犠牲はほとんど出さずに済んだ。」

 「その後、さらに大きな軍事的拠点を求めて、寺沢ホスピタルに狙いをつけた。そして俺達とぶつかる破目になって、ひょんなことからこんな関係になっているというわけだ。」

 ジャックの後を引き受けて男が続ける。

 「そうだ。まさにそういうわけだ。」

 若者が笑って頷いた。

 「確かそんな類の諺が、日本にあったな。」

 男が言った。

 「縁は異なものおつなもの、うどが刺身の妻になる。」

 理恵が歌うように続けた。若者は意味がわからず、怪訝そうに理恵を見つめた。理恵の泣きはらした顔には、透き通るような笑みが浮かんでいた。

 「結婚相手の国籍は関係ない。惚れてしまったのなら仕方ないだろうということだ。」

 すました顔で男が言う。ジャックとマリアは大笑いし、若者もやっとその意味を察し、きまり悪げにちらりと理恵に視線を投げる。理恵も真っ赤になってうつむいた。男はほうっという表情になった。

 天井の蜥蜴が動く、かさかさという音がやけに耳に障った。虫の羽音もやけに大きい。

 「ティアラさんが死んだ時のことを、もっと詳しく訊きたいわ。」

 不意に理恵が口を開いた。その一言で、若者の表情が険しくなる。

 「何故そんなことを訊きたがるんだ?」

 若者の声音は尖っていた。

 触れられたくはなかったのだろう。若者がわざと語るのを避けたことはわかっていた。それでも理恵は訊ねずにはいられなかったのだ。

 「ティアラさんが死んだなんて信じられないし、信じたくない。ただそう思うの。」

 駄々っ子じみた物言いだった。それは彼女の、ティアラへの思いに他ならなかった。

 とまどいが若者の顔に広がる。そのとまどいを引き摺ったまま、何とかふんぎりをつけて話し始める。

 「ティアラについては、射殺されたともいえるし、そうでないとも言える。」

 ひどく曖昧な言い方だった。

 「どういうこと?」

 理恵はいつになく執拗だった。

 「政府高官の五人の護衛が、ティアラめがけて三十八口径を一発ずつ発射したんだ。そのうちの三発が命中した。ティアラは負傷しながらも、政府高官を担ぎ上げて、百メートルはある崖の上から飛び降りたそうだ。そしてそれっきりさ。二人の遺体は発見されなかったし、その後二人を見た者はいない。さらに三日後、その五人の護衛の首のない死体が近くの湖に浮いていたそうだ。」

 「なぜ、その政府高官はティアラさんを殺そうとしたの?」

 「奴は開発の名のもとに、ナパーム弾でマットグロッソを焼き払う計画を立てていたんだ。それがティアラを怒らせたんだ。邪魔者は消せというのが、古来からの悪党共の不文律だ。その時なら、ティアラ一人を始末すれば事は済む。だが、ティアラが反対していることを知れば、大勢の者が彼に従うのは眼に見えていた。何しろティアラは大自然の精霊として多大な尊敬を集めていたからな。」

 若者はそこで言葉を切ると、大きくため息をつく。理恵は悲しげに首を振った。

 「親父は急いで現場に駆けつけたが、ぎりぎりで間に合わなかったそうだ。崖から飛び降りる寸前、ティアラは親父を振り返った。そして片手で天を指差して、確かににやりと笑ったそうだ。次の瞬間、政府高官の糞野郎を引っ担いだまま、ティアラの姿は虚空に消えた。そして残された親父は、今でも後悔し続けているってわけだ。」

 若者は寂し気に笑った。また、辺りを沈黙が支配した。マリアは空になったコーヒーカップを握りしめていたし、男は眠ったように腕組みをして眼を閉じていたし、ジャックは静かにパイプをくゆらし続けていた。そして、理恵は潤んだ瞳で若者を見つめ続けていた。

 どれ程時間がたったろうか。

 「随分長々とした話になっちまったな。」

 やがて若者が言った。

 すると、その言葉をしおにマリアがゆっくりと立ち上がった。

 「私は一足先に寝させて貰うわ。明日の朝食はいつも通りでいいわね。」

 「私も、もう失礼させて頂きます。」

 理恵も、後に続いて立ち上がる。

 「なにしろ明日は釣りですから。私もテッドも楽しみにしているわ。」

 そう言って笑いながら、ちらりと若者を一瞥する。若者も理恵に微笑みを返した。

 「長くなっちまった俺の話に、最後までつき合ってくれてありがとう。」

 素直な思いに満ちた言い方だった。

 それから二人は、お休みなさいと言う言葉を残してゆっくりと部屋を出て行った。

 「驚いたな。」

 二人の姿が部屋から消えると、若者は率直に感想を口にした。

 「初めて聞いたティアラのことで、あの娘があんなにむきになるとは思わなかったよ。」

 「あれは、お前さんのために言ったんだ。」

 男は瞑っていた眼を開けて唐突に言った。若者は物問いたげな視線を男に投げた。

 「お前さんが自分の気持ちを曝け出して話したのは、親父さんと話した時以来のことだろう。そして今、そうしたことによって心の負担は随分軽くなった筈だ。」

 男は腕組みをしたまま、言葉を続けた。

 「だがまだ一点、心の奥底に残っていたわだかまりがあった。それは触れられたくはないが、一人で背負うには重すぎる荷物だ。」

 「それがティアラのことだというのか?」

 突っかかるように若者は言った。

 「ああ。親父さんは今も悔やみ続けていると言ったが、それはお前さんについても同じだろう。あいつは敏感にそれを察したんだ。」

 若者は何も言わなかった。憮然とした表情のまま、黙って男の言葉に耳を傾けていた。

 「もちろん、それを意識していたわけじゃない。あいつはいつも無心で、心のままに思ったことを率直に口にするだけだ。」

 「どうも彼女には、そういった能力というか、資質が確かに備わっているようだな。」

 パイプを手にして、ジャックも頷く。

 「彼女は相手の心の内懐に、するりと入り込む術を心得ている。無意識に相手の傷口を探り当てるのだ。しかもそれをそのまま見過ごしには出来ない。相手の気持ちになりきって、泣いたり笑ったりせずにはいられないんだ。だから彼女の眼差しにまっすぐに見つめられると、心の奥底にしまっていたものまで曝け出したくなってしまう。そしてそうすることで、確かに心の負担は軽くなり、癒されるものを感じるようだ。」

 「俺の場合もそうだったよ。」

 男がぽつりと言葉を挟んだ。

 「死んだ人間より、残された人間の方が可哀想だ。それをよく考えるべきだ。そう言って泣きやがった。俺のために泣いたのだと気づいたのは、しばらくたってからだった。」

 告白するように男は言った。

 「その時は、小娘のくせに何を生意気言いやがると腹がたったが、あいつの涙を眼のあたりにすると、どうしていいかわからなくなった。そして次の日には、背負っていた荷物が随分軽くなっていることに気づいたんだ。」

 「それでか。」

 若者は納得したように頷いた。

 「ひねくれ者のソードが、喉を擽られる猫みたいになっているのはそういうわけか。」

 「お前に言われたくはないな。」

 男は忌々しげに若者を睨む。

 「どちらにしても大変な娘だな、彼女は。」

 ジャックは、改めて感嘆を露わにした。

 「ああ。あいつを嫁さんにした奴は大変なことになる。」

 にやりと笑って、男は若者を一瞥する。ジャックがすかさずつけ足した。

 「何しろ、うっかり浮気などしても自分から白状する破目になるのだからな。」

 「俺は絶対に浮気なんかしないぞ。」

 むきになって若者が叫んだ。男とジャックが同時に笑い出した。

 「そんなことは誰も訊いてやしないさ。」

 男は、なおも笑いながら言った。

 「くそっ。」

 からかわれたと知って、若者は口惜し気に顔を歪める。

 その時、丁度無線の呼び出し音が鳴った。

 「何だ、今時分。」

 ジャックがぶつくさ言いながら無線装置のある別室へ向かう。男と若者は怪訝そうに顔を見合わせた。

 しばらくして、ようやく戻ってきたジャックの顔には動揺がくっきり刻印されていた。

 「西側の中継基地のアローからだ。」

 深刻な面持ちでジャックが言った。

 「どうやら政府軍が展開しているらしい。」

 「なんだって。政府軍は俺の仲間が引きつけているはずだぜ。」

 若者が叫んだ。

 「別の部隊が動いたようだ。しかも二千以上の兵力だという話だ。」

 どうやら非常事態発生という奴らしい。

 「今までになかったことだな。」

 男がジャックに顔を向ける。

 「それに西側からというのも解せないな。」

 ジャックが短く疑問を呈する。

 「ああ。西側の補給路に面した土地のほとんどは、リカルド・ガンビーノの私有地だ。彼は政府内に大きな発言力を持つこちら側の人間で、しかも超大物の一人だ。だから政府軍はそれに遠慮して、西側から進攻してきたことは一度もなかった。」

 「ああ。しかし今回は違うようだ。」

 ジャックは言いながら席を立つと、地図を引っ張り出してテーブルの上に広げた。男とジャックはその地図を覗き込んだ。若者は一言も口を利かなかった。腕組みをしたままうつむいて、身じろぎもせずに二人の遣り取りに耳を傾けていた。

 「今回の政府軍の展開は、明らかにガンビーノの所有地にかかっている。」

 地図を指し示してジャックが言った。

 「ガンビーノが裏切ったということか。」

 ジャックの言葉を受けて男が言った。

 「いや、それはない。」

 黙って聞いていた若者が、その時初めて口を挟んだ。そのきっぱりとした口調に、二人は思わず若者を見つめた。

 「なぜそう言い切れる?」

 男の言葉に若者は軽く肩を竦めただけだ。

 「とにかく、彼の裏切りは絶対にない。」

 ただ、そう断定的に繰り返した。

 「そんなことより大事なのは、今のこの状況をどう打開するかということだろう?」

 「それはそうだ。」

 若者の言葉にジャックが頷く。

 「何か手はあるのか?」

 また、男が若者に尋ねる。若者は立ち上がるとテーブルに歩み寄り、改めて地図に眼を落した。

 束の間沈黙がよぎった。どこからか入り込んだ、灯り目当ての羽虫が何匹か飛び交っている。その微かな羽音が妙に耳に障った。

 「何か手立てがあるというのか?」

 男はまた繰り返した。その声音はやや苛立っていた。

 「ある。」

 地図から視線をひき剥がして、若者は顔を上げた。さらに、断定的に繰り返す。

 「一つだけある。」

 若者の眼がきらりと光った。

 「おそらく方法は、その一つしかない。」

 「それは何だ?」

 急き立てるように男が言った。

 「ガンビーノを動かすのさ。」

 男とジャックは顔を見合わせた。

 「そのガンビーノが動かなかったから、こんな事態を招いたんだぞ。」

 男はいきり立つような口調になった。

 「奴は何かの事情で、動きたくても動けないんだ。あの男は、周到だが慎重すぎるきらいがある。今回もおそらくそうなんだろう。」

 「どうしてそんなことがわかるんだ?」

 若者は、それには答えずに言葉を続けた。

 「だから、こちらで乗り込んでいって奴の尻っぺたを蹴飛ばしてやればいいんだ。」

 男とジャックは、また顔を見合わせた。

 「具体的にはどうするつもりだね?」

 ジャックが尋ねた。

 「奴は自分の広大な所有地を防衛するために、常に二千以上の私兵を抱えている筈だ。それを政府軍にぶつけるのさ。ガンビーノの立場からすれば、政府軍はただの不法侵入者に過ぎない。大義名分はガンビーノの側にあるわけだ。だからおそらく戦にはならない。対峙して時を稼げばいいんだ。そうすれば、やがて国民の知るところになるだろう。政府軍が寺沢ホスピタルを攻略していると知れば国民はこぞって政府を非難する。国民は、圧倒的に寺沢ホスピタルの支持者だからな。そうなれば、政府軍は撤退せざるを得ない。結局いつものパターンと同じになる。どちらにしても、時間的余裕がないのはむしろ政府軍の方なんだ。なにしろ既に一戦やらかしているんだからな。」

 「なるほどな。」

 ジャックが納得して頷いた。

 「それは確かに名案だ。本当に可能ならばそれ以上の策はない。」

 「だが、それは不可能だろう。今の段階で、奴は裏切り行為同然の動きしかしていないんだぞ。それをそこまで説得出来る筈はない。」

 「いや、出来る。」

 若者は短く言い切った。

 「俺が直接話せば、奴は必ずそうする。」

 「何故だ?」

 男が鋭い声音で尋ねた。

 「何故そう言い切れる?」

 有無を言わせぬ口調だった。若者はまた肩を竦めようとしたが、二人の顔を見ると途中で止めた。そんなことでは、到底納得しないと悟ったからだ。若者はため息をつきながら仕方なく言った。

 「俺の本名はマリオ・ガンビーノ。昔、俺は彼を親父と呼んでいたんだ。」

 男とジャックは、呆気に取られて若者を見つめる。すぐには言葉が出て来ない。

 「その話は本当なのかね?」

 ようやく絞り出すようにジャックは言う。

 「こんなことで嘘をついても仕方ないさ。」

 そう言って、若者はまた一つため息をついた。そして一瞬後には、思い切ったようにばねの利いた動作で立ち上がった。

 「時間がない。俺は今すぐ行ってくるぜ。」

 そう言ってから、若者は男に眼を向けた。

 「そういうわけで、明日テッドと釣りに行く話はご破算になっちまった。楽しみにしていたんだがな。テッドに宜しく伝えてくれ。」

 心底残念そうな口調だった。男は黙って頷いた。しかしその顔には、まだ驚きの残骸が貼りついていた。そのまま部屋を出ていきかける若者の動作が、戸口のところで不意に止まった。ドアのノブに手をかけたまま振り返った。

 「この一件が全て片付いたら必ず会いに行くからと、理恵にも伝えておいて欲しい。」

 「ああ、わかった。」

男はゆっくりと頷いた。

 「頼むぜ。」

 最後に懇願するような響きの一言をつけ加えた後、若者は照れ臭そうに渋く笑った。そして、今度こそ部屋を出ていった。

   (十)

 翌日、若者がいないことを知っても、理恵はさしてがっかりした様子を見せなかった。

 「そんな気がしていたの。」

 理恵は言った。

 「この旅は、最後までソードと二人で陸路を行くことになるとね。」

 理恵もいつしか、男をソードと呼ぶようになっていた。朝食後、五人でテーブルを囲んでくつろいでいる一時だった。テッドも緊急事態出来ということで、敢えて異を唱えなかった。

 そしてマリアとテッドが朝の仕事のために部屋を出て行くと、三人は早速出発準備にとりかかる。

 ここから先は徒歩なので、当然荷物は限られてくる。テッドも朝仕事をそこそこに切り上げて、出発準備の手伝いに加わる。背負子に括り付けた荷をそれぞれが背負い、銃身の長いライフル銃とマシェトを男が身に付け、理恵は拳銃を腰に括り付ける。四十五口径のコルトピースメーカーだ。テッドを含めた三人は、それを興味深げに眺める。

 「銃は扱えるのか?」

 唐突に男が尋ねた。

 「撃ったことはあるわ。」

 「三十八口径とはキックが違うぞ。その銃は大丈夫なのか?」

 なおも重ねて男が尋ねる。四十五口径は、女子供にはちょっと扱いかねる代物だ。

 「撃ったことはあるわ。」

 理恵は同じ台詞を繰り返した。

 その言葉に、男とジャックは顔を見合わせる。何しろ西部開拓期に発明された、いかにも武骨で肉厚のリボルバーなのだ。

 男は足元の木切れを拾うと、手近の柵の支柱の上に置いた。

 「その銃でこいつを撃ってみろ。」

 男の言葉に、理恵はジャックの顔を見る。

ジャックは腕組みしたまま頷いた。

 「この先、銃は扱えた方がいい。」

 「大丈夫?」

 心配そうにテッドが訊ねる。理恵はテッドを見て、にこりと笑った。

 徐に腰から銃を引き抜く。華奢な理恵の掌には、四十五口径は桁違いに巨大な造りだ。距離はほんの十メートル程度だ。それに的の木切れは大学ノートくらいの大きさだ。射撃としてはごくたやすい部類である。但し、それは銃を扱い慣れている者の場合だ。

 理恵は両手で銃を握りしめると、腰を落として身構えた。構えは一応様になっている。と、そのままの姿勢で、理恵はくるりと向きを変えた。理恵の構えた銃口の先にあるのは、男の足許の酒瓶だ。

 「おい、ちょっと待て。」

 その意図を悟って、慌てて男が叫んだ。だが、既に遅かった。轟音が鳴り響いて、酒瓶が木っ端微塵に砕け散った。男達はしばらくの間、驚きに声もない。

 「すげえ。」

 やがてテッドが感嘆の声をあげる。

 「どう、なかなかのものでしょう。」

 理恵は会心の笑みを浮かべて、自慢気に銃口からの煙を吹き消す仕草をした。西部劇などでよく見かけるあれだ。

 「なんてことしやがる。」

 男は、歯をむき出して呻いた。

 「この先の旅の間は、ソードには禁酒してもらうわ。だって、私ばかり我慢するのは不公平だもの。」

 理恵は口を尖らせた。男は何も言えなかった。忌々しげに理恵を睨みつけるばかりだ。

 いきなり、背後で笑い声が弾けた。ジャックだった。

 「いや、まさに異議なしというところだ。」

 笑いの発作に身を震わせながら、ジャックは大きく頷いた。そして男に小声で囁く。

 「たとえ中身がただのマテ茶でも、酒瓶をあおる姿は確かに傍目には宜しくない。」

 「わかったよ。」

 男は不承不承頷いた。

 母屋から、マリアも見送りに姿を見せた。二人が荷物を担ぐと、テッドが名残惜し気に声をかける。

 「もう行っちゃうの?」

 「いろいろ教えてくれてありがとう。」

 そう言って、理恵はテッドに微笑んだ。

 「本部にはもう連絡済みだ。グルカとシャープナーが、途中まで迎えに来るそうだ。」

 口調を変えて、ジャックが言った。

 「そいつはありがたいな。」

 男が小さく頷いた。

 「何しろ厄介な荷物だからな。」

 そう呟いて、男が先に立って歩き出した。

 マリアはテッドの肩に両手を置き、そしてジャックは傍らのマリアを抱き締めたまま、いつまでも二人の後ろ姿を見送っていた。

     (十一)

 昼なお暗きという形容にふさわしい熱帯林の中を、二人は喘ぐように進んでいく。密林独特の絡みつくような瘴気と、足首まで潜り込む湿地帯特有の濡れたスポンジのような地面が、二人の行く手を阻み続ける。道はもはや、ほとんど道の呈をなしていない。そんな中を、男は右手の山刀をふるって、密生する枝や下草を切り払いながら歩を進める。決して速くはないが、確実なペースだ。理恵は今のところ、男についていくのに精一杯だ。あちこちに、半ば水に浸かった倒木と覚しきものが転がっている。

 その一つに眼をあてて、突然男が足を止めた。舌舐めずりをしながら、口を開く。

 「今夜はステーキにありつけそうだぞ。」

 ステーキと聞いて理恵はごくりと喉を鳴らした。それ程空腹というわけではなかったがステーキと聞いては後には退けない。期待の眼差しを男に向ける。だが次の一言は、頭から冷水を浴びるに等しかった。

 「新鮮な鰐の肉のステーキは久しぶりだ。」

 今度は、理恵は別の意味で再びごくりと喉を鳴らした。

 「鰐って。あの口と尻尾のやけに長い?」

 理恵は、思わず訊ね返した。

 「背中がやけにごつごつして、動物園なんかでよく見かける?」

 「他にどんな鰐がいるというんだ。」

 男が怪訝そうに訊ね返した。そして改めて前方に目を向けると銃を構える。

 「私、今晩のステーキは遠慮するわ。」

 「なんだ?ステーキが嫌いなのか。」

 「ううん。嫌いというわけじゃないけど。」

 理恵は言い淀んだ。

 「マリアさんの美味しい料理を散々頂いた後だから、これ以上御馳走を食べたら太っちゃうわ。」

 理恵は必死に言い張った。

 「あまりスタイルが悪くなると困るわ。」

 実を言えば、今までそんなものを気にした事はなかった。だが今は、鰐のステーキを回避するためには何でも言うつもりだった。

 男は呆れたように理恵を眺める。

 「そんなことを気にしてるのか。」

 「年頃の女の子は、みんなそうよ。」

 理恵の言葉に、男は軽く肩を竦めた。そして手近の木切れを拾うと前方の倒木の一つに放り投げた。

 その木切れが命中すると、突然その倒木が跳ね上がった。倒木と覚しきものの正体は、四メートルを超す大鰐だったのだ。派手な水しぶきを上げながら、鰐は大柄な体に似合わぬ敏捷な動作で逃走していく。

 理恵は息を吞んでその後ろ姿を見送る。完全に姿が見えなくなった時、初めてほっとしたように大きく息を吐いた。

     (十二)

 目覚めると、抜けるような青空が広がっていた。今日もいい天気になりそうだ。理恵は寝袋から両手を出して、大きく伸びをする。筋肉痛で体中が痛い。上体を起こすにも一苦労だ。だが、気分は悪くなかった。軽く首を振って、身を起こすと辺りを見廻す。

 岩棚の隅では男が火を焚いて、その上に真鍮の鍋を仕掛けていた。ぐつぐつと何かを煮立てて、しきりに中をかき混ぜている。辺りに漂うその香りが、理恵の食欲を刺激した。

 「お目覚めかい?」

 男が、理恵に顔を向けて声をかけた。その声音の穏やかさに、理恵は眼を丸くする。

 男が自ら朝食を作っているのも、穏やかに声をかけてきたのも、理恵にとっては大きな驚きだった。だが、それも悪くない。

 「おはよう、ソード。」

 理恵は気を取り直して挨拶を返す。

 「今朝はもう、腹に何か詰め込めるんじゃないのか?」

 その言葉に、理恵は改めて猛烈な空腹を覚える。男はたっぷりと理恵の分の朝食を食器に盛った。香ばしい匂いが漂ってきた。中身は何かの肉の干物と一緒に煮込んだ粥だった。それにパリーニャと呼ばれる、正体不明の粉末がたっぷりかけてある。この国ではお馴染みの調味料だ。理恵は本能の命ずるままに食器の中身を口に運ぶ。

 「おいしい。」

 たちまち二杯を平らげ、三杯目に取りかかる。素朴だが、日本人には懐かしい味だ。

 「醤油ね。」

 理恵が確信を持って言い当てた。

 「ご名答。」

 男も満更でもない表情だった。

 「その干物は俺が作ったんだ。醤油と味醂につけてから何日も干すのさ。漬け加減と干し加減が難しいんだ。」

 男は自慢気に言って、更につけ加えた。

 「味は毒のある方が美味いが、毒のある方はちょいと癖があるし、小骨が多くて喰い辛いんだ。」

 その一言で、理恵の手が止まった。

 「毒?」

 聞き捨てならない言葉だった。うっすらと嫌な予感が頭をもたげる。男は至極当然といった様子で頷いた。そして自慢気な講釈は尚も続いた。

 「それにニシキヘビの方が食いでがある。燻製も美味いが、俺は干物の方が好きだ。」

 「じゃあ、もしかするとこの肉は蛇?」

 おそるおそる理恵が訊ねる。そして改めて食器の中の肉片に眼をやる。

 「ああ。この辺ではよく見かけるボア・コンストリクターというニシキヘビの干物だ。」

 男はあっさりと言ってのけた。

 「人を吞んだという話も聞くが、それはアナコンダの間違いだろう。ボアはそれ程大きくはならない。せいぜい六・七メートルといったところだ。」

 男は安心させるつもりなのか、とりなすような口調で言った。だが、それは全く慰めにならない。要するに、人を呑むかもしれないニシキヘビと、人を呑まないニシキヘビとの違いである。食器の中の肉がニシキヘビの破片であることは間違いないのだ。

 彼女の世代で、南米産のニシキヘビを食べた女子大生は、もしかすると彼女が最初かもしれない。その可能性は、かなり高いように思われる。だが、それが自慢すべき事柄であるとは到底思えなかった。

 なによ、たかが蛇じゃないの。

 そう自分に言い聞かせても、一向に心は浮き立ってはこない。

 理恵は沈黙したまま、恨めしげに食器の中をしげしげと覗き込んだ。時遅く、半分以上は既に腹の中だ。しかも今食べているのは間違いなく三杯目だ。ということは、もはや二杯は確実に胃袋に収まっている。それどころかあまりに空腹だったため、既に胃袋は通過して、腸の辺りにまで到達しているかもしれなかった。後の祭り、覆水盆に返らずといった類の諺の羅列がむやみやたらと脳裏をよぎる。挙げ句の果てに最後にたどり着いたのは、毒喰わば皿までという諺だった。その言葉を心の中で念仏のように唱えながら、食器の残りを一気にかき込む。そして男が更にお代わりを勧めるのを断わった。

 「美味しい朝食をありがとう。」

 それでも何とか艶然とした笑みを浮かべながら、しとやかに礼を言うのを忘れない。だが、言うなりごろりと横になった。行儀が悪いことは百も承知だ。そんなことなど知ったことではない。まさに『あとは野となれ山となれ』という気分だった。

 行儀なんか糞食らえだわ。

 心の中でそう叫んでいた。

 全く災難というものは、いつやってくるかわかったものではない。

だが、不思議なことに気分はよかった。理恵は、仰向けになって空を眺めた。アンデス特有の空の色は驚くほどの濃い青だ。そんな理恵に、男は出発の準備をするよう声をかける。そして一時間後きっかりに二人は出発の準備を整え終えた。それから、ゆっくりとしたペースで歩き始める。

 相変わらずの悪路だったが、湿地帯を抜けたために足許はしっかりしていて、思ったより歩きやすい。傾斜もまだそれ程ではない。その行く手には、岩壁が屏風のようにそそり立って一大パノラマを形成している。見とれるほど素晴らしい景観だった。理恵は満ち足りた気分で男の後に従う。

 だが、しばらく行くと男の足が不意に止まった。理恵は不審そうな顔で男を窺う。

 男はなおも動かなかった。身に纏った雰囲気が一変していた。背嚢を肩から降ろすと双眼鏡を取り出した。それを眼に当て、改めて前方の一点に眼を凝らす。そしてそのままの体勢で、左手だけで理恵を手招きした。訝しげな表情のまま、理恵は男の傍らに立った。

 「アンブッシュだ。」

 囁くように男は言った。だが、その言葉の意味がわからない。

 「俺達を待ち伏せている奴等がいる。」

 言いながら、理恵に双眼鏡を手渡した。

 「一本だけ突き出した灌木の所だ。」

 双眼鏡を受け取ると、理恵は男の指し示す方向に眼を向けて双眼鏡を覗き込んだ。

 最大の倍率でも、容易に捕捉出来ぬほどの遠距離だった。しばらくの間、目標を捕えられなかった。ようやく視野に収めると、理恵は驚きに凍りついた。

 「あの小僧だろう。」

 理恵は黙って頷いた。忘れもしない。理恵が酒場で投げ飛ばした若者だった。

 「しつこい餓鬼だな。」

 男は忌々しげに吐き捨てた。理恵は、他に七人の男達の存在を確認してから双眼鏡を返した。

 「奴等はまだ俺達に気づいてはいない。」

 理恵の不安を払拭するように男が言った。

 「どうやって彼等に気づいたの?」

 「奴等の銃が一瞬きらりと反射したんだ。」

 こともなげな口調だった。

 「プロなら絶対にやらないミスだ。」

 言いながら、男の頬に舌舐めずりせんばかりの笑いがよぎる。手頃な獲物を前にした狼の笑いだ。

 「この後どうするつもりなの?」

 理恵の声音が僅かに震えた。

 怯えのためではない。理恵の気持ちを察して、男はちらりと視線を理恵に投げた。

 本音を言えば、ここで一気にかたをつけたかった。今すぐ彼等を急襲すればいいのだ。不意をつけば、たとえ十人以上であっても五分以内でけりをつける自信がある。今までは必ずそうしてきた。失敗したことはただの一度もない。いつも男はそうやって生き延びてきたのだ。戦場では、そうすることが常に絶対正しいのだ。だが、今回に限ってはそれをしたくなかった。その理由もわかっていた。泣き虫のくせにいっぱしのことを言う小娘の気持ちを尊重したいと思ったのだ。初めて芽生えた感情だった。

 男を見つめる理恵の視線は悲しげだった。相手の身を案じているのだ。そしてそれ以上に、男に人殺しをさせたくないのだ。

 「迂回する。」

 一抹の懸念を引きちぎって、男は言った。

 「一日以上のロスになるし、行程も今以上にきつくなるぞ。」

 不機嫌極まりない口調だった。今までに、自分のやり方を変えたことはない。それを今回だけは変えようというのだ。理恵は明らかにほっとした表情になると、小さく頷く。男は足許の荷物を背負い直して歩き始める。理恵も遅滞なく後に続く。

 それからの行程は、確かに男の言った通りだった。今までは、かろうじて人の踏んだ形跡があった。だが、今二人の進んでいるルートは、もはやそんな痕跡さえない。二人の行く手を遮る山岳は、大空に突き刺さった槍に等しい。二人は、その槍を巻くようにして進んだ。急峻な斜面だった。男は慎重極まりない足取りで歩を進める。自然、ペースは遅くなる。もちろん理恵にとってはありがたいことだ。

 その晩は風の吹き荒ぶ岩壁の中腹で、携帯の食料をかじる破目になった。これは、男の書いたシナリオにはなかったことだ。

 次の日も、朝早く出発する。男は歩を進める程に、寧ろ後方を気にし始める。二人を尾行してくる存在のあることは、とうの昔に察知していた。彼等の尾行を躱すために、様々な手段を講じてみたのだ。だが、彼等を欺くことは出来なかった。前方で二人を待ち受けていたボーイスカウトのような連中とは、技量に格段の差異があった。

 このままいけば、二人は前後から挟撃されるという最悪の事態を招きかねない。

 ことここに至って、ようやく男は尾行者達を排除する決意を固める。今までは理恵の気持ちに対する斟酌が、逡巡や怯みとなって男の行動を束縛していたのだ。そしてこの尾行者達を排除するためには、思いきり苛烈なことをしなければならないだろう。理恵の気持ちを考えればそれはしたくない。だが同時に、理恵を無事に送り届けるためなら何であろうとやってのける覚悟だった。

 その挙げ句理恵は悲しみ、そして男を厭うことになるのだ。それはもはや既成事実に等しかった。

 男の頬に、自嘲するような笑いがよぎる。

 二人がもう一つ険しい尾根を超えた時、男は押し殺したような声音で言った。

 「ここにいろ。絶対に動くなよ。」

 そう言って岩棚の一つを指し示した。そして後方に眼を据える。一点を凝視したまま微動だにしない。やがて男の五体を、殺気が電流のように走り抜ける。目標を捕えたのだ。男は、そのまま幽霊のように姿を消した。

 理恵はしばらく立ち尽くしていたが、やがて悲しげにため息をついた。男が何をしにいったのかはわかっていた。それは、二人が生き延びるために絶対に必要なのだということもわかっていた。だが、それでも男にそれをさせたくはなかった。

 やがて、理恵は男の言葉に従った。これまでの経験から、男の言葉に従うことが最善の道であることは信じて疑わなかった。そこは確かに今までの行程からは信じられぬほど平坦で、しかも灌木が密生している。身を隠すには絶好の地形だった。だがそこから一歩踏み出せば、垂直に切り立った断崖がぞっとするような切り口を曝しているのだ。理恵はゆっくりと手近の岩に腰掛ける。この高度まで上がってくると吹き抜ける風が心地よかった。時間は刻々と過ぎていく。今のところ、危険を感じさせる徴候はなかった。  

しかし理恵は何かしら不安に苛まれていた。男の不在を、この時ほど心許なく感じたことはなかった。そしてある意味、その不安は的中していた。

 「こんな所にいたのかい。」

 突然、茂みの向こうから声がかかった。同時に茂みをかき分けて姿を現す者があった。

 理恵に酒場で投げ飛ばされた、そして双眼鏡に映っていたあの若者である。

 理恵は反射的に立ち上がった。すると、茂みからさらに六人が姿を見せる。いつの間にか、七人の男達に取り囲まれていたのだ。窮地である。それでも、理恵は気丈に若者を睨みつけながら声をかける。

 「何の御用?」

 「殺しはしないから安心しな。何しろ大切な人質だからな。」

 「どういうこと?」

 「あんたとあの男を、あんたの爺さんの病院に巣くう目障りな奴等を追い出すための、取引の材料に使わせて貰うつもりなんだ。」

 若者の言葉に、廻りの男達は勝ち誇って耳障りな笑い声を上げる。

 「そんなこと出来るわけないわ。」

 理恵は強張った面持ちで言い放った。

 「出来るさ。なにしろ、あんたはあの病院の院長の孫娘だ。それにあそこのアメリカ人共は、妙に仲間意識が強いからな。」

 若者は笑いながら、更に言葉を続けた。

 「別にあの病院をぶっ潰すつもりはないから心配はいらない。あそこの糞ったれのアメリカ人共を追い出して、俺達が奴等の後釜に座ろうというだけの話さ。何しろあそこには最新鋭の医療機器が揃っているからな。」

 小面憎い表情でぬけぬけと言ってのける。

 「そして敷地の一部を軍に貸す。軍からそう頼まれているんだ。」

 「そんなこと、祖父は絶対に許さないわ。」

 怒りを露わにして、理恵が叫ぶ。

 「だが、大事な孫娘を人質に取られれば、爺さんも考えを変えざるを得ないだろう。」

 「あなたたちの腕では無理よ。彼等にかないっこないもの。」

 理恵は口を尖らせた。

 「そいつはやってみれば分かることだ。」

 若者は自信満々だった。

 「それに俺達だけじゃない。軍の保証書付きの、腕っこき揃いの傭兵達が助っ人に加わったんだ。アメリカの特殊部隊といっても、奴等は所詮ロートルばかりだろう。そんな連中では到底太刀打ちできるはずがない。」

 その時、頭上から声が降ってきた。

 「そうでもないぜ。」

 同時に撃鉄を起こす音が響き渡る。

 続いて銃口の冷たい感触が、若者の首に押しつけられる。うっと呻いて、若者は体を硬直させた。若者の背後には、うっそりと男が立っていた。男達は、驚愕の面持ちで立ち尽くすばかりだ。男は背後から若者を盾にとると、ゆっくりと理恵のそばに歩み寄る。

 「荷物を一つに纏めるんだ。絶対に必要な物だけを、俺のザックに詰め込んでくれ。」

 理恵は確認するように男の顔を伺い、素早い動作でそれに従う。男は首筋の銃口を背中へずらしながら、改めて若者に声をかける。

 「先刻の話をもう少し詳しく聞きたいな。いったいどこから湧いて出た話だ?」

 「新しく加わった傭兵達が、直接親父に話を持ち込んだんだ。奴等はもともとこの国の軍の出身らしい。軍は、奴等を凄腕の傭兵達だと太鼓判を押していた。」

 「あんな連中が凄腕の傭兵ならば、俺はさしずめワイルドギースの隊長になれるな。」

 男はそう言って嘲笑った。

 「あんたを尾けていた三人はどうした?」

 不意に思い当たって、若者が訊ねる。

 「覚えてないね。」

 素っ気ない答えだった。だが、その素っ気なさが何より雄弁な答えだ。理恵が悲しげに顔を伏せた。

 「準備は出来たか?」

 男は、短く理恵に声をかけた。強張った表情のまま、理恵が頷く。

 「もう少し詳しく話を聞きたい。」

 ごくりと喉を鳴らして若者が答える。

 「彼等のリーダーが言ったんだ。正面切って戦えば、犠牲も出るし世間の耳目を引くことにもなる。国民の為の病院を潰しにかかれば、どうしたって国中の反発を買うことになる。我々は、軍のようなピエロになるつもりはない。要は静かにやることだ。静かにやれば埃も立たない。」

 男の顔色を窺いながら若者は言った。

 「それが女子供を人質に取るって事か。」

 嫌悪に耐えぬといった声音だった。それからちらりと理恵に目を走らせる。

 「荷物を背負って、俺におぶされ。」

 全く予期せぬ言葉だった。だが、四の五を言わせぬ響きがあった。

 「早くしろ。」

 理恵は夢中でそれに従う。

 「しっかりしがみついとけよ。ノンストップで急降下するからな。」

 柔らかな理恵の感触を背中に感じながら、男は念を押すように耳許で囁く。そしてやにわに、若者の体を突き飛ばした。

 「誰にも俺達の邪魔はさせない。」

 叫ぶような一声だった。同時に男は背後の絶壁から身を躍らせた。

 自殺かと思わせる瞬間だった。若者達は息を呑んだ。慌てて駆け寄った時には、既に男は宙を舞っていた。そして数瞬後には、三十メートルあまり下の岩棚に降り立っていた。設置されていたのは脱出用のザイルだ。男は一気にそのザイルを伝い降りたのだ。垂直に切り立った岩壁を蹴りながら、ロープ一本で降下する技術をラペリングという。古強者の兵士ならば、二秒で二十メートル降下してのける。しかし男は、それを背中に一人背負ってやってのけたのだ。

 「凄い。」

 度肝を抜かれて一人が呟く。桁外れの技量だ。残りの者達もあまりの驚きに声もない。眼下の男は理恵を背負ったまま、素早い動作であっというまに視界から消えた。若者が茫然自失から回復するには、かなり以上の時間が必要だった。ようやく我に返ると、傍らの無線機に飛びついた。

 「獲物は、真っ直ぐ罠に飛び込んだ。」

 やっとの思いで送信すると、思わずがくりと膝をついた。ここまでは一応作戦通りだ。だが、技量の差は歴然としていた。誰もが先行きの不安を禁じ得ない。

 「大丈夫ですかね?」

 一人が言った。

 「知るもんか。」

 ほとんどやけっぱちで若者が応じた。

      (十三)

 同じ頃、男の方は理恵を背負ったまま、急斜面を更に一気に駆け降りた。

 そしてそこで初めて一息ついて、背中の理恵を傍らに降ろす。理恵は失神していた。ほっぺたを叩いて正気に戻す。文明社会では考えられない荒っぽさだ。やがて理恵はうっすら目を開いた。

 男は、そのおとがいを掴んで仰向かせる。

 「まだ先は長いが、絶対にあんたを無事に送り届けて見せる。」

 そう言って、骨っぽい笑いを浮かべた。そして、改めて前方を指さす。その先には粗末な石作りの仮小屋があった。

 「ずっと以前に切り開いた脱出路なんだ。」

 そう言うと、今や一つになった背嚢とライフルを拾い上げる。そして無造作に、斜面からの灌木をかき分けてその仮小屋に歩み寄ろうとする。全く無警戒の足取りだった。だが、道半ばでその足が不意に止まった。異変を察知したのだ。男はその場に素早く身を伏せた。手真似で、理恵に出て来るなと合図を送る。そしてじっと仮小屋を注視する。

 一拍、二拍、不気味な沈黙が辺りに漂う。

 男はいきなり身を翻して走り出した。途端に仮小屋から銃声が響く。辺りを圧する一蓮射のスタッカートだ。男がもんどり打って倒れ込んだ。理恵の口から悲鳴が上がる。

 束の間、銃撃が途絶えた。戦果確認のために、仮小屋から人影が一つ姿を見せた。新たに何発か、銃声がはじけた。今度の銃声はその人影めがけてのものだった。銃声のした方向には理恵がいた。ほとんど仁王立ちの呈で、両手でコルト四十五口径を構えていた。必死の面持ちで、さらに立て続けにぶっ放した。狙いは不正確だったが、威嚇の効果は十分だった。人影は慌てて身を隠した。同時に男は跳ね起きると、一気に理恵のもとに駆け戻った。不意を突かれて、追いかける銃声はまばらだった。男は理恵のいる岩陰に転げ込んだ。

 「怪我は?どこをやられたの?」

 慌ただしく理恵が尋ねる。

 男は右腕から血を流していた。

 「大丈夫だ。大したことはないさ。」

 理恵は聞く耳を持たなかった。素早く男のシャツの右腕の部分を切り取ると、紐状にして右腕の付け根を縛り上げる。

 それで血は止まった。

 「うまいものだな。」

 男が言った。

 「裁縫が得意分野だけのことはある。」

 こんな時にも軽口を叩く男の心根が頼もしかった。理恵は泣き笑いの表情になる。

 「それにしても。」

 男は理恵から視線を外すと、前方の仮小屋を灌木の陰から窺いながら言葉を継いだ。

 「まさかあいつがいるとは思わなかった。」

 忌々しげに舌打ちをする。

 「先刻の人影は、ちらりとしか見えなかったがマルティネスに間違いない。」

「どういうこと?」

理恵は改めて男を見上げた。

 「あいつは、俺が手塩にかけて育て上げた教え子のような奴なんだ。」

 男は歯ぎしりせんばかりの表情で、口惜しげに答える。

 銃撃はいつしか滞っていた。束の間の静寂が辺りに広がる。

 「俺はあいつに眼をかけて、ありとあらゆる技術を教え込んだんだ。しばらくすると、あいつはめきめき腕を上げ始めた。手塩にかけた者が育っていくのを見るのは実にいい気分だった。俺はそれに目が眩んで、奴の性根の中の歪みに気づけなかった。」

 言いながら、男は拳を固く握り締める。後悔と慚愧の念に満ち満ちた声音だった。

 「その結果は案の定だった。あいつとその仲間達は最初の戦場で血に狂い、残虐な殺戮行為を繰り返した。ジャックは、そんな彼等の排除を命令せざるを得なかった。皆、身を削られるような気持ちで、任務を忠実に実行した。辛くないはずはないんだ。だが、俺にはそれが出来なかった。俺はあいつの声を奪った。あいつは喉を切り裂かれながら、二度と俺の前に姿を現さないことを泣きながら誓った。俺はどうしても、とどめを刺す事が出来なかった。俺は、自分の中の甘さを最後まで克服出来なかったんだ。」

 「その話なら聞いたわ。」

 理恵は頷きながら、ぽつりと言った。

 「でも、ジャックさんはそれを甘さとは言わなかった。優しさだと言っていたわ。決して失って欲しくないものだとも言っていた。」

 更にぽつりと付け加えた。

 「そして私もそう思う。」

 柔らかな声音で言うと、真っ直ぐな視線を男に向けた。男は理恵から眼をそらした。そらしながら、吐き捨てるように自嘲する。

 「その結果がこのていたらくだ。」

 自分の甘さが、結局理恵を危地に陥れてしまった。それが何より我慢ならなかった。それから、男は改めて前方に眼を据えた。マルティネスは唾棄すべき奴だが、技量は相当なものがある。かつては、自分の後継者めいた感情を抱いていた存在なのだ。容易ならぬ相手であることは間違いない。

 男のそんな思いをよそに、眼前の相手は不気味な沈黙を保っていた。

 「奴等は先刻の小僧どもの到着を待って、一気にけりをつけるつもりなのさ。」

 理恵の危惧を察知して男は言った。そんな二人の前を、一陣の風が吹き抜けていく。熱帯にもかかわらず、それはある種の冷たさを帯びていた。やがて、その小僧どもが騒々しく駆け降りてくる気配が届き始めた。プロの目から見れば、不様極まりない動きだった。

 「素人め。」

 男は軽蔑を露わにして低く呟く。だが、たとえそんな素人の撃った弾丸でも、当たればやはり人は死ぬのだ。

 「ここじゃあ、奴等の挟撃をまともに食らう破目になっちまう。今のうちに、この状況を変えておく必要がある。」

 そう言って、男はせり出した岩棚の一つに顎をしゃくる。確かにそこなら高さがある。どちらからの攻撃でも優位に迎え撃つことが出来るだろう。だが、二人がそこまで移動するのを、相手が黙って見過ごすはずはない。

 男は素早く背嚢から手榴弾を取り出す。

 「こいつだけは、まだ腐るほどある。」

 エッグタイプの二・五ヒューズだった。そして改めて理恵を見つめる。

 「ついてこれるな?」

 利恵はこくりと頷いた。そこに全幅の信頼を感じ取って、男はにやりと笑ってみせた。

 「よし。派手にやるぞ。」

 男は言って、その手榴弾を三つ立て続けに宙空に放り投げた。すかさず背嚢と銃を引っ掴むと、目標の岩棚めざして一気に走る。理恵も遅滞なく後に続いた。

 三人が銃撃を加えながら姿を見せる。その頭上でタイミングを図ったように、男の放り投げた手榴弾が次々に爆発した。空中での爆発を、予め意図して投擲したのだ。三人はあっという間に薙ぎ倒された。もとドイツ軍のある兵士から伝授された高等技術だ。度肝を抜かれた残りの者は、建物の陰に釘付けになる。男はその隙を逃さなかった。やすやすと斜面を登りきって、難なく目的の地歩を確保する。理恵も勿論後に続いた。男の桁違いの技量を見せつけられて、もはや後顧の憂いはないかに思えた。男は岩棚の上に陣取ると、素早く理恵に手を差し伸べる。

 だが、その時いきなり理恵の足許の岩が崩れた。差し出された男の手が空しく空を掴んだ。歯軋りしたい一瞬だった。

 「理恵。」

 男は思わず叫んでいた。

 断崖とは言えないが、傾斜はかなり急だった。理恵の体がその傾斜を滑り落ちる。

 男は怒号と共に立ち上がりかけた。だが殆ど同時に、無数の銃声が鳴り響いた。

 上手から、若者達が銃を乱射しながら一気に斜面を駈け降りてきたのだ。下手の仮小屋からも、援護射撃の弾幕が張られる。さらに若者達は倒れていた理恵の身柄を素早く確保した。行きがけの駄賃という奴だ。理恵は全くの無抵抗だ。どうやら意識を失っているらしい。立て続けの銃撃に射竦められて、男は顔を上げることも出来ない。夥しい銃弾に、眼前の岩が次々と削り取られる。

 その銃火が一段落した時には、既に理恵は両手を頭上に括られて、仮小屋の軒下の梁に吊られていた。意識を失った状態で、吊られた両腕にぐったりと顔を預けたままだ。ことここに至って彼等の意図は明らかだ。男を捕えるために、理恵を餌に使おうという魂胆なのだ。卑劣極まりない手段だった。

 「理恵。」

 男は再び大声で叫んだ。その声に、ようやく理恵は意識を取り戻して顔を上げる。

 「何、これ。」

 開口一番理恵は叫んだ。廻りを取り囲んでいた男達が、一斉に下卑た笑い声を上げる。

 「もうちょっとの間、おとなしくしてな。後でたっぷり可愛がってやるからよ。」

 若者が、期待に疼くような声音で言った。その若者の顔めがけて、理恵はいきなりつばを吐きかける。若者は怒りに駆られて、理恵の頬を張った。乾いた音が鳴り響いた。それでも理恵は若者を睨みつける。若者はそんな理恵の髪を掴んで、無理矢理仰向かせた。そして男に向かって大声で叫ぶ。

 「おい、聞いているか?」

 勿論、男の耳には届いていた。だが男は沈黙を保ったままだ。

 「貴様が今すぐ降伏して素直に出て来なければ、この小娘がひどい目にあうぜ。」

 そして好色そうな表情でつけ加えた。

 「まあ、俺達はどっちでも構わないがね。」

 再び、廻りから下卑た笑い声があがる。

 「今からこいつの声を聞かせてやるぜ。」

 命乞いを期待しての若者の台詞だ。

 「せいぜいいい声で助けを求めるんだな。」

 言いながら、若者は改めて理恵の顔を男のいる方向に向ける。やがて、理恵は精一杯の声で叫んだ。

 「ソード。」

 その甲高い声が山間にこだました。

 「あなたの背嚢には、まだ手榴弾が幾つか残っていたわね。」

 「おう、まだぞろぞろあるぞ。」

 ようやく男の声が応じる。

 「その手榴弾で、私もろともこいつ等全員を吹っ飛ばして。」

 全く予期せぬ言葉だった。狼狽する若者達を、理恵は改めて睨み据えた。

 「こんな奴等に弄ばれるくらいなら、死んだ方がましよ。」

 絞り出すように言ってのける。ほとんど同時に、岩棚からライフルの銃口が出現した。若者達は大慌てで身を伏せる。だが次の瞬間、そのライフルが無造作に投げ落とされる。

 「撃つなよ。今、そちらに行く。」

 男の声が響き渡った。そして、両手を挙げて立ち上がる。全面降伏の意思表示だ。

 信じられなかった。

 「何故なの?」

 両手を高々と頭上に吊られた体勢のまま、理恵は口惜しげに叫んだ。その声を無視して男は空身で斜面を駈け降りる。若者達にとっても、全く予想外の展開だった。そのためすぐには動けない。

 男は一気に平地まで駆け降りると、そこからはゆっくりと歩み寄る。それにつられて我知らず若者達は後ずさった。素手で、虎に相対するような気分だった。

 だが、実際には男の姿は無残だった。衣服はぼろぼろで、右腕の銃創は再び開いてひっきりなしに血がしたたっている。それでも男の眼光は炯々として若者達を圧倒していた。

 そんな雰囲気を察して、ねじけた憎悪に顔を歪ませる者がいた。マルティネスだった。すぐ傍らにいたマルティネスに脇腹をせっ突かれて、ようやく若者は口を開いた。

 「やっと状況が分かったようだな。」

 若者の言葉には、幾分ほっとした響きが滲んでいた。理恵は怒気も露わに叫んだ。

 「何故?何故、彼等をやっつけないの?」

 両手を頭上に吊られたほっそりした肢体を身揉ませて男を睨む。

 「全く、日本人のメンタリティはいつになっても変わりばえしないな。」

 男がため息まじりに言った。

 「いざとなると、バンザイアタックでいともあっさり命を捨てる。」

 更に押し殺した声音で付け加える。

 「だが俺達は、一パーセントでも可能性があれば、決してあきらめはしないんだ。」

 若者の傍らで、マルティネスが軋るような声を上げる。それは笑い声だった。

 「可能性は、そんなにはないらしいぜ。」

 若者がマルティネスの言葉を要約した。そして改めてマルティネスを顎で指し示した。

 「覚えているだろう?かつてあんたが声をつぶした男だ。」

 言われて男は顔を向けた。

 「ついでに言うなら、今回の件を親父に持ちかけたのも彼なんだ。」

 だが、案に反して男の眼付きは道端の石ころを眺めるに等しかった。

 「誰だ、お前は?」

 素っ気ない一言だった。

 その一言でマルティネスの顔色が変わる。あっさり無視されるほどの屈辱はない。理恵も不審そうな顔を向けた。男はその相手を知らないはずはないのだ。

 「昔、あんたが面倒見た男なんだぞ。」

 若者はややむきになって言った。そう言われて、男は改めて当の相手に眼を注いだ。そして初めて男は頷いた。

 「ああ、思い出した。かつて俺の足許で、泣きながら命乞いをした小僧だな。その姿があんまり惨めだったから思い出したよ。」

 嘲弄の口調だった。

 「まさか俺の前に、またおめおめと顔を出せるとは思わなかったな。」

 さらに、男は侮蔑の言葉を投げつける。

 「教えてやろう。お前のような奴を、日本語で恥知らずと言うんだ。」

 廻りの者にも通じるように、わざわざ一言一言ポルトガル語に訳してみせる。マルティネスの顔色が、怒りのために朱に染まった。

 「お前に出来ることは、せいぜい縛られた女子供をいたぶるくらいのものだろう。」

 男は、さらに嘲笑った。

 男の嘲弄に満面に怒気を浮かべながらも、マルティネスは意味ありげな視線を男の右手に注いだ。そこには、冷徹な計算が加わっていた。男の肩には包帯が巻かれ、右腕には更に新たな銃創が弾けていた。今こそつけいるチャンスなのだ。

 マルティネスが傍らの若者に、耳障りな声で話しかけた。若者は頷き、男に言った。

 「彼は、今こそあんたと決着をつけると言っている。しかも素手でだ。」

 今の男の状態なら素手でも勝てる。そんな狡猾さが見え透いていた。だが、男の返事はにべもない。

 「嫌だね。」

 そして嘲りも露わにつけ加える。

 「誇り高い男同士の決闘ならいつでも応じる。だが、卑劣な豚には触るのも御免だ。」

 その一言で、マルティネスの理性が消滅した。吼えるように叫ぶと、いきなり男に飛びかかろうとする。それをかろうじて若者達が押さえ込む。

 「あんたに選択の余地はないんだぞ。」

 マルティネスにしがみつきながら、息を切らせて若者が叫んだ。

 「ふん。どうやらそういうことらしいな。」

 男は肩を竦めた。そして尚も嘲笑を浮かべたまま、マルティネスを手招きする。

 「マルティネスという豚をどう料理したらいいか、これからたっぷりと教えてやろう。」

 ここに至って、理恵はようやく男の意図を悟った。怒りに我を忘れたマルティネスの隙を衝こうという算段なのだ。若者達の手から離れたマルティネスは、耦を放たれた虎に等しかった。真一文字に男に襲いかかる。もはや誰にも止められない。

 男は会心の笑みを浮かべた。

 「かかったな。」

 短く言うと、突進してくるマルティネスの右のパンチを払う。そして襟首を素早く掴むと、その体を一気に肩に担いだ。同時に腰がバネのように弾ける。豪快な背負い投げだった。投げ飛ばされた体は意外な程の宙を舞う。だが、実をいえばそれは男の意図するところではなかった。

 男は足許の地面に頭から叩きつけて、一撃で仕留めるつもりだったのだ。そのために、わざわざ挑発したのだ。しかし負傷した右手がそうは動いてくれなかった。遠くへ投げ飛ばすことは、見た目には派手だが致命的なダメージとはなりにくい。相手に対処の余裕を与えてしまうのだ。案の定、マルティネスは宙空で巧妙に身をひねった。そして躰を丸め、ダメージを殺した。更に追撃を嫌って、その勢いのまま身を転がして跳ね起きる。

 男は舌打ちしたい気分だった。だが、こうなっては仕方ない。

 一方のマルティネスにとっても、仲間達の目の前で派手に投げ飛ばされた屈辱は計り知れない。男を見据える両眼は怒りで正視に耐えぬ程だ。けれども同時に相手の挑発に易々と乗ってしまった失態をも自覚していた。

 今度はマルティネスも慎重だった。油断なく身構えて、少しずつ間合いを詰めにかかる。男も腰を落としてそれに応じる。

 夕日が、くっきりと二つのシルエットを映し出した。それがひどく眩しかった。廻りの者は声もなく、二人の動きを注視している。

 いきなりマルティネスが突っかけた。短い左右の拳の速射を放つ。男も短い連打で応戦する。それが何度も繰り返された。お互い、破壊力のある長い蹴りなど出す余裕はない。二人の上体がめまぐるしく交差する。しかし右手を負傷している男に、全てを捌き切るのは不可能だった。辛うじてジャストミートを避けるのが精一杯だ。マルティネスの拳が、何度も浅く男の顔面を捕えた。それが徐々にダメージを広げる。技量は明らかに男の方が上だった。だが体力差と右腕の負傷は如何ともし難い。男は小さなダメージを受け続けた。既に足元が覚束なかった。だが、最初の教訓を肝に銘じたマルティネスはあくまで慎重だった。一旦離れて、大きく間合いを取り直す。

 短い打撃を浴び続けた男の顔は、血まみれでフットボールのように腫れ上がっていた。

 「まだだ。まだ終わっちゃいない。」

 男は言った。ほとんどろれつが廻っていない。男は傍らに、折れた歯を吐き出した。そして不敵にも笑ってみせる。しかし、所詮それは虚勢にしか見えなかった。

 マルティネスの顔に残虐な笑いが浮かぶ。勝利を確信した薄ら笑いだ。ようやくとどめを刺すべき頃合いがきたのだ。マルティネスは一気にけりをつけるべく、風を巻いて襲いかかった。

 刹那、筋骨のひしゃげる打撃音が響き渡った。そして、マルティネスの体が電撃を浴びたように硬直した。一瞬の逆転劇だった。

 どこをどうされたかも分からなかった。意識はあった。だが、全身の神経が麻痺して指一本動かせない。マルティネスは立ち尽くしたまま、信じられぬ面持ちで男を見つめる。

 「お前にはまだ教えていなかったものだ。」

 言いながら、男は軽くマルティネスのこめかみを突いた。朽ち木のようにマルティネスの体がぶっ倒れる。仰向けに横たわったマルティネスは、無念そうに両目をぱちぱちしばたかせた。しかし、五体は痺れたままだ。

 「二・三時間は動けないさ。」

 こともなげに男は言った。

 そして改めて若者に向き直った。若者は怯えを露わに後ずさる。そんな若者を無視して、男はブーツからナイフを引き抜いた。そのナイフで理恵を戒めから解き放った。

 理恵が泣きながら男にしがみついた。男は慌ててナイフを投げ捨てる。間違っても、理恵に怪我などさせられない。さらに体を預けられて、危うくひっくり返りそうになる。体力も気力も限界だったが、呆気なくひっくり返ってしまうわけにはいかない。そいつばかりは男の矜恃が許さない。男の腕の中で、理恵は小鳥のように身を震わせた。その柔らかな感触が心地よかった。

 「まだ、負けたわけじゃないぞ。」

 若者が口惜しげに喚いた。

 「まだ仲間達は、十人以上いるんだ。」

 その声に促されて、残りの者達が一斉に銃口を二人に向ける。

 「そうでもないぜ。」

 いきなり別の声が割って入った。

 「もう一度算数の勉強をやり直すんだな。」

 のんびりした声音だった。場違いなこと夥しい。同時に三人の人影が現れる。若者は驚きに声もない。

 「お前の仲間は一人残らず始末したよ。」

 ロペスだった。傍らの二人が、立ち尽くす若者達から銃を取り上げる。

 「まさにどんぴしゃりのタイミングだな。」

 男が、理恵を抱きしめたまま声をかける。

 「騎兵隊は、いつだってクライマックスに登場するんだ。」

 ロペスはにやりと笑って軽口で応じる。

 「親父さんの方はけりがついたのか?」

 男の言葉に、ロペスは真顔になった。

 「親父は、最初から自分の私兵をぶつけるつもりでいたよ。」

 それから声を落として地面を見つめた。

 「親父は、やっぱり俺の親父だった。」

 しみじみとした物言いだった。

 「だからひよっこの俺なんかが、尻を蹴飛ばす必要なんて全然なかった。」

 そこで口調を変えて、二人を眺める。

 「その後は理恵に会いたい一心で、ひたすらここまでやってきたってわけさ。」

 そして、まだ理恵が男に抱かれたままの光景に眼をやる。

 「だがどうやら、一番いいところを攫われちまったらしいな。」

 どこか物欲しげな声音だった。

 「そうでもないわ。」

 理恵が嬉しそうに言った。それを聞くと、男はにやりと笑って理恵の体を解き放つ。理恵は改めてロペスに抱きついた。ロペスはたちまち満更でもない表情になった。

 「さて、こいつ等をどうするね?」

 にやにやと笑いながら事の成り行きを眺めていた二人の内の一人の、シャープナーが若者達を顎でしゃくった。

 「もし俺に何かあれば、親父が決して黙っちゃいないぞ。」

 若者が叫ぶ。だが先程までの威勢はない。

 「そうだな。お互い、親の七光りに頼る身の上だからな。」

 同情に堪えぬという口調でロペスが言う。

 その時、倒れていたマルティネスの右手がぴくりと動いた。だが、再会を喜び合う男達は気づかない。その右手が、少しずつ投げ捨てられたナイフの方に伸びていく。

 近くの茂みから、さらに二人がうっそりと姿を現す。にやりとロペスに目配せをする。

 「もはやお前達の仲間はいない。」

 ロペスが改めて若者に目を据えて言った。

 若者と、その場に残った四人の仲間達は、ただ立ち竦んでロペス達を見つめる。既に抵抗の気力は一片もなかった。

 その足許では、マルティネスがやっとのことでナイフを手にすることに成功していた。ごく小さな動きだった。警戒を避けるためではない。硬直した五体は、もはやそんな動きしか出来ないのだ。復讐の一念に凝り固まった者だけになし得る執念の動きだった。

 男の仲間達は、そんなマルティネスには一片の関心さえ払わなかった。

 「お前等には取引の材料になって貰おう。そうすれば俺の親父の手助けにもなる。」

 ほんの少しの思案の後、ロペスが言った。

 「そいつはいい考えだ。この小僧は大物政治家のどら息子だし、他の奴等も軍部の雇ったごろつき共だという証拠にはなる。」

 五人の中のグルカが言葉を続けた。

 相変わらず、マルティネスに関心を注ぐ者はいない。後は全て任せたという態度で、男は自分の荷物の回収にかかる。マルティネスは、じっとチャンスを窺っていた。動きを止めて、男が近づくのをひたすら待つ。そして頃合いとみるや、いきなりその足首を払ったのだ。

 不意を突かれて男の躰がバランスを失う。倒れかけた男の脇腹に、ナイフが深々と突き立った。五体が硬直したマルティネスに、唯一可能な動きである。

 理恵の甲高い悲鳴が上がった。

 一瞬の油断だった。誰一人反応出来なかった。廻りの男達は、驚きに息を?んだ。

 男はマルティネスを払い飛ばした。まだ先程のダメージの残っているマルティネスは抗しきれない。だが、なおその手には血まみれのナイフが握られたままだ。

 「突いた秘孔がほんの少しずれていたか。」

 常にない失態に、男は軽く舌打ちをした。そして脇腹を押さえて苦笑を浮かべる。

 身を起こしたマルティネスが、改めてナイフを構え直した。

 その横合いから、いきなり理恵が山猫のように飛びかかった。ナイフを奪い取ると、凄まじい勢いでマルティネスを投げ飛ばす。五体の利かないマルティネスは、他愛なく仰向けに転がった。さらにその上体に馬乗りになり、理恵は奪い取ったナイフを高々と頭上に振りかぶる。

 「よくもやったわね。」

 怒りに駆られて、一気にナイフを振り下ろそうとする。

 「よせ。」

 鋭い気合いに似た声が響いた。感電したように、理恵の動きが止まる。

 振り返ると、男は脇腹を押さえながら立ち上がっていた。

 「あんたの手は人を救うためにあるんだ。人殺しの手になっちゃいかん。」

 苦しげに喘ぎながら男は言った。

 ロペスが素早く、理恵の手からナイフをもぎ取る。そして改めて理恵を抱き締めた。その腕の中で、理恵はロペスを見上げる。両目から、涙がぽろぽろこぼれ落ちた。

 やがて、がくりと男の膝が折れた。二人は慌てて駆け寄って、崩れかかる男を支える。そのまま、そっと男の身を横たえた。ロペスは再び理恵を強く抱きしめた後、そのか細い顎を掴んで仰向かせた。理恵の虚ろな両目を覗き込むと、切羽詰まった声音で言った。

 「いいかい女医さん、あんたの出番だ。めそめそ泣いている暇はないぜ。俺の一生の頼みだ。あいつを、ソードを何としても助けてくれ。あいつはかけがえのない友達なんだ。」

 ロペスは必死の面持ちだった。理恵の耳許で、何度も何度も繰り返す。ようやくロペスを見つめる理恵の両眼に、力強さが戻ってきた。そして歯を食いしばって言い放つ。

 「私にとっても大切な人よ。そして最初の患者でもあるわ。絶対に死なせはしない。」

 固い決意を漲らせた言葉だった。理恵は涙を拭うと、男の方に向き直った。

 「治療の道具はここにあるぜ。」

 背後から、シャープナーの声がかかった。理恵の足許に、どさりと重そうな荷物が置かれた。更に二人が、様々な荷物を運んできた。仮小屋に備蓄されていたものだ。

 「俺達からも頼む。なんとかソードを助けてくれ。」

 シャープナーも、縋るように懇願する。後ろの二人もこぞって頷く。唇を噛んで頷き返すと、理恵は横たわるソードに向き直った。  

 それから、長い闘いの時間が始まった。

 理恵の額に、何度もふつふつと汗の玉が浮かび上がる。それを拭おうともせずに、理恵は必死に治療を続ける。汗が眼に入りそうになると、ロペスがタオルで拭ってやる。誰も何も言わなかった。食い入るように事の推移を見守っている。

 「血が、血が止まらない。」

 やがて、理恵が悲痛な声をあげた。

 「血がどうしても止まらないのよ。」

 金切り声で理恵が叫ぶ。

 「何とかしてくれ。俺の血を全部くれてやってもいい。」

 ロペスが身悶えせんばかりに叫ぶ。

 「傷口を焼いちまったらどうだ。」

 横合いから、シャープナーが口を挟む。

 天啓に等しい一言だった。もちろん、そんな乱暴なことは出来ない。

 だが、まさにその一言が視野狭窄に陥っていた理恵を、焦慮の呪縛から解き放った。

 理恵の苦闘は、なおも続いた。

 その背後で、マルティネスがそろそろと脱出を企てていた。不自由な体を身もがせて、芋虫のような動作で、少しずつ彼等から遠ざかろうとしていく。しかし、振り向く者は誰もいない。それどころではないのだ。マルティネスごときがどうなろうと、もはや知ったことではない。マルティネスはようやく身を起こすことに成功した。生存を確信したその頬には、薄ら笑いが浮かんでいた。そのまま、ふらふらと頼りない足取りで密林へ向かう。だがその行く手には、二つの人影が幽霊のように佇んでいた。

 「火をつけておいて、火事場から逃げ出す法はないだろう。」

 人影の一つが、むしろ優しげに囁いた。もう一つの人影が黙って頷く。眼前の相手が、自分の及びもつかない手練れだと感じて、マルティネスは自分の死を覚悟した。

 次の瞬間、頭部を粉々に粉砕されてマルティネスの一生は終わったのだ。

    (十三)

 それから二週間がたった。男は太股の辺りに暖かい柔らかな感触を感じて目が覚めた。

 眼を開けると理恵が椅子に座ったまま、男のベッドに突っ伏して眠っていた。太ももの柔らかで暖かい感触は、その理恵のぬくもりだった。泣きくたびれて眠ってしまった幼児のような寝顔をしていた。ずっと看病し続けて、疲れ果ててしまったのだろう。やつれきった様子だった。男は以前にもそんなことがあったような気がした。そして、理恵が親友を徹夜で看病した話を思い出した。

 すると、自然に笑いが込み上げてきた。

 そんな気配を敏感に察してか、理恵がうっすらと眼を開いた。しばらく視線が絡み合って、男がかすれた声音で囁いた。

 「すまなかった。随分待たせちまったな。」

 理恵は何も言わなかった。ただ大きく見開かれた両目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

 男は力を振り絞って、理恵の頭に左手を乗せた。そして優しくその髪を撫でた。

 「お帰りなさい。」

 理恵は男を見つめたまま、やっとの思いでそう言うと、またぽろぽろと涙をこぼした。

 「頼む。もう泣かないでくれ。」

 男の言葉に頷きながらも、理恵はひとしきり泣き続けた。それからうつむいて涙を拭くと、ようやく顔を上げてえへへっと照れ臭そうに笑って見せた。

 「みんなを呼んでいい?みんなずっと待っていたのよ。」

 理恵の言葉に男は頷く。

 「ああ、頼む。」

 男の言葉から五分もしないうちに、病室は満員状態になった。誰も何も言わなかった。ただ、黙って男を見つめていた。これ程注目を集めたことはかつてなかった。

 「ゲティス・バーグの演説でもしなきゃならないような雰囲気だな。」

 男は一同を見廻しながら、軽口を叩いた。だが、誰も何も言わなかった。こうなったからには、確かに何か言わなければならないだろう。だが、何を言っていいか皆目わからなかった。それで思っていたことを率直に口にした。

 「ひどい奴等だ。やっとゆっくり出来ると思いながら、三途の川を渡りかけたところだったんだぞ。」

 半分くらいは本音だった。

 「当たり前だ。そう簡単に、一人だけ楽にさせてたまるか。」

 ロペスが突っかかるような口調で応じた。

 「アックスにも、同じようなことを言われてきたよ。」

 にやりと笑って男が応じる。

 「奴に言わせれば、ここ、この世こそが地獄の一丁目なのだそうだ。そして、この世という奴はどうも刑務所みたいな仕組みになっているらしい。この世という名の地獄の刑務所での刑期を、俺はまだ勤め上げてはいないそうだ。あの世という名の娑婆に出所するのはまだ早すぎると言われちまった。さっさと帰れとさんざん説教されてきたんだ。」

 男の言葉に、その場にいた者は改めてアックスのことを思い出した。理恵以外は、一人残らずアックスのことをよく知っていた。

 「この世という名の刑務所の刑期をちゃんと務め上げて、あの世という名の娑婆へ出たなら、その時こそ飲み明かそうとあいつに約束させられたよ。」

 そう言って、男はまた笑って見せた。

 やがて、ジャックがぽつりとつぶやいた。

 「アックスらしいな。」

 その瞳は濡れていた。

   (十四)

 それから三日後、男は病室のベッドに身を横たえていた。だだっ広い個室だった。他に人影は見えなかった。病室には大きな窓があり、男のベッドはその窓際に置かれていた。窓からは日本の春を思い出させるようなうららかな日射しが降り注いでいた。熱帯地方とは思えない柔らかで暖かい日射しだった。二千メートル以上の標高がそうさせるのだ。窓のすぐ外には大きな楡の木があり、小鳥たちに格好の住居を提供していた。

 男は、ぼんやりと外を眺めていた。

 するといきなり母屋の扉が蹴飛ばされるように開き、テッドが脱兎の勢いで飛び出してきた。テッドはそのまま楡の木の陰に隠れ、飛び出してきた出入り口の様子を伺う。

 続いてロペスが全身ずぶ濡れで、頭から湯気を立てんばかりの剣幕で飛び出してくる。

 「覚えていろよ、あとでたっぷりとお灸を据えてやるからな。」

 口惜しげにロペスがそう怒鳴った。その後ろで、弾けるような理恵の笑い声が響いた。

 「駄目よ。今回はあなたの負けよ。テッドにうまくしてやられたってことだわ。」

 そう言って、理恵がロペスに歩み寄る。

 「どうもそういうことらしいな。」

 理恵の肩を抱きしめながら、ロペスは忌々しげに言った。声は風に乗ってはっきりと聞こえた。午後の平和な一時だった。男はそんな光景を、窓からぼんやりと眺めていた。

 ちょうどその時、ノックもせずにジャックが部屋に入ってきた。そして慌てて言った。

 「失礼。起きているとは思わなかった。」

 男は一旦ジャックに視線を移してから、再び窓の外に視線を戻した。

 「あの騒ぎかね?」

 ジャックも窓の外を一瞥して言った。

 「ロペスが理恵を独り占めするんで、テッドが焼き餅を焼いてロペスに悪戯を仕掛けたのさ。」

 その説明に、男は視線を窓から引き剥がして改めてジャックに眼をやる。心なしか、まだその眼の光は弱々しかった。

 「テッドが頭上に水を入れたバケツを仕掛けておいて、ロペスがそれにまんまと引っかかったんだ。バケツの水で、頭からずぶ濡れにされたというわけさ。」

 ジャックは手前の椅子に腰掛けた。

 「そんな単純な手にひっかかったのか?」

 呆れたような男の声音は掠れていた。

 「伏線があるのさ。まず、テッドはロペスのコーヒーにミミズを入れておいたんだ。もちろんロペスは飲まなかったがね。」

ジャックは愉快そうに言った。

 「だが、テッドを捕まえてお仕置きをしなければならないと考えたロペスは、テッドを追っかけ始めた。テッドはロペスをおびき出すために、バケツの罠の方へ逃げたんだ。ロープに足を引っかけると上からバケツの水が落ちる仕掛けさ。それにもロペスは引っかからなかった。だが、入り口のところにもう一つバケツが仕掛けてあって、頃合いを見て、テッドが自分でロープを引っ張ったのさ。」

 窓から射し入る日射しが、やけに眩しく感じられた。

 「だんだん手の込んだことをするようになってきたな。」

 男の言葉にジャックが頷く。そして改めて男の顔を覗き込んだ。

 「ところで。」

 やや居住まいをただす感じで、ジャックは椅子に座り直した。

 「今回の軍部の動きは、全国民の知るところとなった。」

 男は興味深げな視線を向ける。

 「そしてこの病院を軍事要塞化しようとする目論見に、軍内部でも反対の声が上がったんだ。新聞にすっぱ抜かれて、上層部の人間が二人馘首された。仕掛け人は、どうやらロペスの父親らしい。政治家達は、こぞって軍の独走を非難している。シビリアンコントロールを口にして、一致団結の動きが出始めているんだ。」

 「徐々に変わりつつあるってことか。」

 男が感慨深げに言った

 「そういうことだ。ゴールはまだまだ先の話だが、少なくともこの病院に対する軍部の動きは、当分の間なくなるだろう。」

 「そいつは願ってもない話だ。」

 それから、束の間二人は黙り込んだ。

 「実を言えば、もう一つ話がある。」

 やがてジャックが口を切った。

 「ロペスのことだ。」

 「いい話と悪い話ってやつか。」

 男は、例の符牒を口にする。

 「まあ、そんなところだ。」

 ジャックは軽く肩を竦めた。

 「ロペスは何が何でも理恵と結婚したいと言っている。理恵も承諾してくれたそうだ。」

 「そいつは確かにいい話だが、問題山積という奴だな。第一、寺沢の頑固爺さんの方はどうなんだ?一筋縄ではいかないぞ。」

 「そちらの方は問題ない。」

 ジャックはにやりと笑って頷いた。

 「最初は、大事な孫娘に悪い虫がついたと考えていたようだ。だから自分の助手として身近に置いてこき使っていたんだ。難癖をつけて、なんとか追い出そうという魂胆だったんだろうな。」

 「ほう。」

 「だが、今じゃ欠かすことの出来ない絶妙のコンビになりつつある。見ていて実に面白い。治療のたびに、むきになって怒鳴り合うんだ。患者の方が眼を白黒させている。」

 その光景を思い浮かべて、男はくっくっと含み笑いを洩らした。

 「あの二人らしいな。」

 「私の見たところ、ロペスには医師としての天性の感があるな。」

 「あんたも医療畑の出身だったな。」

 ジャックは小さく頷いた。

 「その私の目から見ても、ロペスはうまく育てばいい医者になる。ロペスも医療に生き甲斐を感じ始めているようだ。理恵と結婚して、この病院で働きたいと言っている。」

 男は眉間に皺を寄せた。

 「どうやらそいつが悪い方の話って奴か。何しろ奴は、お尋ね者の身の上だからな。」

 「確かにそうだ。彼がこのままここで働くということになれば、軍部につけ込む絶好の口実を与えることにもなりかねない。」

 「それに、ロペスと仲間達との兼ね合いもあるだろう。奴の仲間達からすれば、ロペスは自分達や革命の志を捨てて女に走った許しがたい裏切り者ということになる。」

 一拍置いて、ジャックがにやりと笑う。

「実を言えばそれらも全て片がついたんだ。」

 すました表情でそう言ってのけた。

 「先日ロペスと理恵が二人で、彼の仲間達の許へ乗り込んですっかり話をつけてきたんだ。協力の約束まで取りつけたそうだ。」

 「ちょっと待て。」

 男は聞き咎めてジャックを睨んだ。

 「ロペスの奴が行くのはわかる。奴等はあいつに感化されて革命に身を投じたんだからな。だが、なぜ理恵も一緒に行ったんだ?理恵をよけいな危険にさらすことになるぞ。」 

 「まるで娘の身を案じる父親の台詞だな。」

 ジャックはからかうように茶々を入れた。その言葉に、男は一瞬言葉に詰まる。

 「実は、理恵自身が言い出したんだ。」 

ジャックがしみじみとした口調で言う。

 「周囲の者は皆止めたが、彼女は頑として聞く耳持たなかった。自分自身の問題でもあるのに、自分だけが安全な場所で首を竦めてはいられない。たとえ一パーセントの可能性しかなくても全力を尽くす人達の中で、そんな恥ずかしいことは絶対に出来ない。きっぱりと、そう言い切ったよ。」

 どこかで聞いた台詞だった。男は思わず天を仰いだ。どうやら薬が効きすぎたらしい。

 「その頑固さに手を焼いたロペスは、蚊の鳴くような声で誰のせいだとぼやいたんだ。すると即座に、シャープナーはそんなことは聞くまでもないだろうと応じたんだ。傍らで寺沢教授は、苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたよ。」

 「わかったよ。空が青いのも郵便ポストが赤いのも、全部俺のせいにしたいのだろう。」

 男は、からりと投げ捨てるように言った。

 「その通り。だが、同時にうれしいのさ。彼女は亡くなった父親への思いを、どうやらあんたに重ね合わせているようだ。都会育ちの普通の娘さんが、俺達の仲間の一人を父親のように慕ってくれている。」

 「どうもけつの痒くなる話だな。」

 男はきまり悪そうな表情になった。そんな男に、ジャックは真顔になって話を戻した。

 「その結果、ロペスの仲間達が一芝居打つことになったのさ。仲間割れの末に二人は彼等の金を奪って、手に手を取って駆け落ちしたという筋書きなんだ。表向きはロペスと理恵を裏切り者として、仲間達が二人を追うことになる。」

 駆け落ちという言葉に、男は苦笑を禁じ得ない。これもどこかで聞いた台詞だ。

 「その挙げ句、仲間にも政府にも追われる破目になった二人は切羽詰まって日本に国外逃亡というわけさ。ロペスは理恵と一緒に、日本で医学をみっちり学ぶことになる。」

 「早くて四年、普通なら七年かかるな。」

 男はため息まじりに小さくつぶやく。

 「ほとぼりを冷ますには丁度いいさ。」

 慰めるようにジャックは言った。

 「だが、出国手続きはどうする。何しろロペスの奴は正真正銘のお尋ね者だからな。」

 「そちらは寺沢教授の推薦状と、ロペスの父親のコネで何とかなりそうだ。」

 「ロペスが親父さんの世話になるのか。」

 「あの件以来、どうやらロペスは見方を変えたようだ。だからロペスは、理恵を連れて親父さんに会いに行ったんだ。するとロペスの親父さんが、理恵をえらく気に入ったらしい。だから二人は駆け落ちした後、しばらくは彼に匿われることになるだろう。」

 「そいつは何ともありがたい話だな。」

 「そればかりじゃない。」

 ジャックは頷きながら語気を強める。

 「折を見て彼の仲間達の革命軍は解散することに決まったのだが、彼等はどうやら、ロペスの親父殿が引き取るらしい。」

 「ほう。」

 「彼等の中には、ロペス以外にもお尋ね者になっている奴が何人かいるが、彼等は皆親父殿の庇護下に入ることになったんだ。」

 「だが、彼等の革命への初志はどうなるんだ?この国を何とかしたいという気持ちで、彼等は革命軍に身を投じたはずだ。」

 「今後は、親父殿のスタッフとしての改革をめざすことになる。」

 「成程。」

 男は納得してにやりと笑う。

 「直接小便をかけてやるために、テントの中に入る決意をしたってわけだな。」

 「そういうことだ。」

 ジャックも頷きながらにやりと笑った。

 「そして残りの者達は、全てこの病院のエリアで暮らすことになる。仕事も、病院関係のことをすることになるだろう。」

 「万事、一件落着というわけだな。」

 「まだ油断は出来ないさ。何しろ軍部の奴等も生き残るために必死だからな。」

 「それはそうだ。」

 「だから、念のためにロペスと理恵の背後には、グルカとシャープナーをつけてある。だが、本来これは俺達の仕事じゃないと二人は言っているんだ。」

 「どういう意味だ?」

 「わかるだろう?ロペスと理恵の背後は君に守って貰いたいと、みんなが思っているのさ。そして当の二人は、君と一緒に日本へ行くつもりになっているんだ。」

 男はしばらくの間、沈黙した。それから苦しげな表情になってつけ加えた。

 「俺も出来ればそうしたいさ。だが、どうやらそいつは無理な話だ。」

 男は寂しげに笑った。

 「医学の心得のあるあんたなら、わかるだろう?」

 確かにその通りだった。一見順調に回復しているようにも見えるし、まともに受け答えも出来る。話していてもそれほど疲れた様子を見せはしない。しかし、それらは全て男の並外れた気力に支えられたものなのだ。

 「すまなかった。だが、今の話は忘れないでくれ。みんな信じているんだ。」

 ジャックは、そう言って立ち上がった。

 ジャックは部屋の外に出る間際に振り返って、もう一度つけ加えた。

 「君の桁外れの体力と気力を信じている。我々の仲間として、必ず復帰してくれることを信じている。みんなそう信じているんだ。」

 絞り出すような声音だった。

 ジャックが出ていった後、疲労困憊したように、男はベッドに沈み込んだ。その表情は口惜しげに歪んでいた。そしてその眼から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

     (十五)

 次の日、寺沢教授の部屋で、例によってロペスと教授がやり合っていた。

 「意識も取り戻したし食欲もある。話すことだって至ってまともだ。いったい何が不満だって言うんだ。」

 ロペスが大声でがなり立てた。

 「不平不満の話じゃないわい。今生きていることが不思議だと言っているんだ。」

 教授も負けずに怒鳴り返した。

 「だから、何が不思議だって言うんだよ。」

 「血が流れ過ぎたんだ。とうの昔に死んで当たり前の状況だったんだ。」

 「この強欲爺。あの時さんざん俺達の血を採って輸血したじゃねえか。それでもまだ足りないって言うのか。それとも今更、理恵の治療にいちゃもんをつけようって言うのか。」

 「そんな話じゃないわい。このわからずやの唐変木め。あの時の理恵の治療は完璧だった。儂でもあれ以上のことは出来んかったろう。さすがは儂の孫娘だ。」

 腹立たしげに、教授が叫んだ。

 「それならなんで今更そんなことを言うんだ。ソードは順調に回復しているだろう?」

 ロペスの口調は、いつしか哀願するような響きを帯びてきていた。ジャックは一言も口を挟まなかった。壁にもたれかかったまま、無言で二人の掛け合いを見守っている。

 「回復しているように見えるだけだ。いつ力尽きるかわからない。だからお前さん達を呼んだんだ。」

 寺沢教授はそう言って、尚もいきり立つロペスの頭越しにジャックを見やった。その視線を受けて、ジャックは何か言わなければならなかった。そこで仕方なく口を開いた。

 「昨日、別れの挨拶をしてきました。」

 その言葉に、ロペスは口をつぐむ。その場の雰囲気が一瞬にして凍りついた。

 ロペスの唇がぶるぶると震えた。一段声を落として、寺沢教授が更に言った。

 「儂だってこんなことは言いたくないわ。だが、ソードが死んだら理恵とテッドは立ち上がれないほどのショックを受けるだろう。その時、二人を支えられるのはお前さん達しかいない。だから、今からソードの死を受け入れる覚悟を決めておけと言っているんだ。」

 「そんな話は聞きたくない。」

 ロペスは吼えるように言った。その目から涙がぽろぽろこぼれた。それをごしごしと不器用な仕草でぬぐい取る。だが、涙は拭いても拭いてもひっきりなしに流れ落ちた。

 「俺は、絶対そんな話は信じないからな。」

 真っ赤になった眼で、二人を睨みつけながらロペスは叫んだ。そして身を翻すと、荒々しい足取りでドアに向かう。

 「見ていろよ、ソードは絶対回復する。」

 ドアを開けながら捨て台詞のように言い残すと、思いきりドアを叩きつけて部屋を出ていった。

    (十六)

 それからさらに十日がたった。

 男がいたベッドは空だった。広いだけが取り柄の部屋には人影一つ見えなかった。

 大きな窓には、薄いカーテンがかかっていた。そのカーテンを通して、春のような日射しが降り注いでいた。

 窓から見える大きな楡の木の根元には、膝を抱えて座っているロペスがいた。ロペスは空を見上げていた。雲一つない青空だった。抜けるような青さだった。その傍らには理恵がいた。理恵もまた、膝を抱えたまま、憑かれたように空の一点を見上げていた。そしてさらにその傍らにはテッドがいた。テッドも膝を抱えたまま、黙って空を眺めていた。三人とも締め付けられるような思いの中で、一つの時代が過ぎ去ってしまったことを実感していた。

 木陰から、微かに小鳥のさえずりが聞こえてきた。

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