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第二部

     (七)

 五人揃っての夕食が済むと、マリアはコーヒーを満たした大きなポットを運んできた。テッドはまだコーヒーが飲める年ではない。だからジュースでご相伴だ。

 隙間だらけの室内を、川面からの夜風が吹き抜けていく。それが肌に心地よかった。灯りとなっている燭台やランプの炎が、その風にゆらりと揺らいだ。波の音が微かに響く。

 暗闇に沈み込んだ熱帯林からは、獣達の喧噪がひっきりなしに響いてきて、間近では蛙や虫の声がやかましいほどだ。だがそれがかえって静寂を強く意識させた。

 そして隙間から這い込んだ蜥蜴達が、天井や梁の辺りでかさかさと乾いた音を立てる。

 その夜の定時連絡から、ジャックはボートを確保できたといういい知らせと、それを運ぶ人間がいないという悪い知らせを伝えた。

 コーヒーを呑んでくつろぎながらの一時だった。結局、男と理恵はボートでの旅が可能になるまで、ここに留まることになった。

  そこで理恵は、明日の朝早くテッドと釣りに行く約束をする。喜んだテッドは、早速釣りの準備をするために部屋に戻った。

 マリアもカップを置いて立ち上がった。

 「私は、もう寝ることにするわ。」

 そう言って、意味ありげに理恵の方に眼を向けた。ジャックの話をよく聞くようにというサインだった。理恵はにこやかに頷いた。

 「ありがとうございます。」

 理恵が言うと、マリアもにこりと笑った。そして満足げに部屋から出ていった。

 しばらくすると、ジャックは喫煙具を取り出して、パイプに煙草の粉を詰め始めた。喫煙者は、三人の中でジャックだけだ。

 やがて、ジャックはパイプをくゆらせながら、思い出したように言った。

 「そういえば。」

 ジャックは男に視線をふり向ける。

 「彼女が寺沢教授のお孫さんなら、我々のことや寺沢教授の状況について、一応全て知っておいて貰った方がいいのではないかね。」

 すると、今度は男が視線を理恵に向けた。

 「私も知っておきたいですわ。」

 きっぱりとした口調で理恵が応じる。

 「どうかね?」

 ジャックは男に同意を求めた。

 男は思案気に眉を寄せた。

 「まあ、確かにそういうことだろうな。」

 男があっさり頷いた。

 「だが、そういう話はあんたに任せる。どうも俺は、そのての話は苦手なんだ。」

 男は大きく伸びをした。

 「俺も、そろそろ失礼するよ。何しろ、昨日はあまり寝ていないんだ。」

 そう言って、そのまま部屋を出ていった。

 部屋には理恵とジャックの二人が残った。やがて、ジャックは理恵の方に向き直った。

 そして徐に口を切った。

 「我々が、故ケネディ大統領直属の特殊部隊の兵士だったことは聞いていますか?」

 「はい、ちらりと小耳に挟みました。」

 ジャックの問いに、理恵が答える。

 「わかりました。では、その辺りから話を始めましょうか。」

 その物言いは、あくまでも丁寧だった。

 「当初、我々はアメリカ軍の中で特殊戦闘用部隊に所属していました。」

 やがてジャックは口火を切った。

 「しかし当時は、ヨーロッパ大戦の名残から市街戦思想が中心で、アジアでのゲリラ戦やジャングルファイト等は邪道視されて、軍内部では閑職に等しい存在でした。」

 その頃を思い出すような口ぶりだった。

 「ところがケネディ大統領の登場で、そんな状況が一変しました。彼は朝鮮戦争以降の戦闘形態や世界の情勢変化をつぶさに調査して、改めてゲリラ戦略や特殊部隊の重要性に着目しました。それにより、頭の固い上層部も考え方を変えざるを得なくなったのです。

 そして大統領は、そこからさらに大統領直属の部隊を秘密裡に選抜創設しました。」

 「秘密裡に?」

 理恵は怪訝そうに顔を上げた。

 「そうです。きっかけはピッグズ湾事件でした。あなたは一九六一年のピッグズ湾事件というのをご存じですか?」 

 「ええ。確かキューバ革命によってアメリカに亡命したキューバ人一五〇〇名が、アメリカの援助でキューバ奪還の為にカストロのキューバへ侵攻した事件でしたね。」

 大学で国際政治を専攻していた理恵にとって、その記憶はまだ生々しい。

 結局その侵攻は三日で失敗した上、アメリカの関与が世界に知られてしまい、ケネディ内閣は発足当初から窮地に立たされたのだ。

 「しかし実を言えば、あの作戦は前大統領アイゼンハワー政権下で、既にCIAによって立案されていたものなのです。」

 全く思いがけない言葉だった。

 ケネディ大統領の就任時には、既にCIAはグアテマラの秘密基地で亡命キューバ人達を組織し、アメリカの全面的な軍事支援を前提に作戦準備を進めていたというのだ。

 仰天したケネディ大統領は作戦中止を要請するが、CIAは強く反対する。アメリカの一切の軍事支援なしでも絶対に成功する作戦だと保証したのだ。大統領は仕方なく、何があってもアメリカは軍事支援しないということを条件に作戦を許可する。ところがCIAは、亡命キューバ人達にはアメリカの全面的な軍事支援を約束していたのだ。典型的なダブルトーク(二枚舌)の情報操作である。

 結局、大統領は軍事支援を最後まで許可せず作戦は失敗に終わった。そのため、軍事支援を信じ切っていた亡命キューバ人達は、大統領を裏切り者として憎むようになる。

 事件後、大統領は状況をつぶさに調査してその背景にあったCIAの情報操作の事実を突き止めた。愕然とした大統領は、当時のCIA長官のアレン・ダレスと副長官のチャールズ・カベルの両名を馘首したのだ。

 理恵には、全く思いがけない言葉だった。

 「この一件を機に、大統領は既存の各機関の活動をチェックでき、しかも自らも活動可能な直属の組織の設立を決意したのです。

 その結果、アメリカ軍の各部隊の兵士達から、二十七人が選抜され、九人ずつの三チームが編成されました。私はその中のCチームのチームリーダーに任命され、軍事顧問としてこの国にやってきたわけです。」

 「他のチームはどうされたのですか。」

 興味津々といった面持ちで理恵が尋ねる。

 「Aチームの九人は、当時ソ連との摩擦が懸念されていたベルリンに派遣されました。

 キューバ危機の際に、彼等のもたらした情報が非常に大きな役割を果たしたということを後になって聞きました。」

 「キューバ危機とは、ソ連がキューバにミサイルを持ち込もうとした事件ですね。」

 「あの事件の最終的な決定打は、ジョン・スカリというABCネットワークの記者がセットアップした、ケネディ大統領の弟のロバート・ケネディと駐米ソ連大使アナトリー・ドブルィニンとの極秘会談でした。その場でロバートは、シベリアやウラルにある、ソ連の全てのミサイル基地の配置図をドブルィニンに突きつけます。今すぐキューバから核ミサイルを撤退させなければ、我々はこのミサイル基地全てに徹底した攻撃を加えるという強烈なメッセージです。震え上がったドブルゥニンは、大慌てでフルシチョフに連絡します。その結果、ソ連はキューバのミサイル基地を解体し、核兵器を撤去せざるを得ませんでした。そして、その決定打となったミサイル配置図を調べ上げたのがAチームだったという話を聞いています。」

 ごく平板な口調だった。だがその内容は、世界を震撼させるほどのインパクトだ。理恵はごくりと唾を飲み込んだ。ジャックからどうにも眼が離せない。

 しかし、ジャックはそんな理恵の思いをよそに、淡々と言葉を紡いでいく。

 「そしてBチームは、要人の身辺警護のために残りました。当初は東南アジア方面へ派遣される筈だったのですが、チームリーダーのアイスピックがその命令をはねつけたのです。我々全員が、アイスピックを支持しました。当時、大統領の弟のボビー率いる司法省がマフィアを中核とする組織犯罪グループと全面対決に入りかけていたからです。」

 マフィアとは初めて聞く言葉だった。改めてそのことを尋ねると、ジャックはちょっと意外そうな表情をした。

 ジャックによれば、マフィアとは地縁・血縁を基盤としたイタリア系の犯罪組織のことで、元々はシシリー島やコルシカ島等の自警団が起源なのだそうだ。それが長い年月を経て徐々に犯罪組織へ変貌していき、今ではアメリカを縄張りとするシシリアンマフィアと東南アジアに活動の基盤を置くコルシカンマフィアに大別されているという。この二系統は、以前は活動範囲がはっきりと分別されていたが、最近ではジョイントビジネスの傾向が強くなってきているそうだ。

 例えば、コルシカンマフィアが東南アジア産のヘロインをヨーロッパに運び、シシリアンマフィアがマルセイユでそれを精製し、アメリカ国内で売り捌くというような図式だ。いわゆるフレンチコネクションである。

 彼等は禁酒法時代を経てさらに勢力を伸ばし、黒人系やユダヤ系等の他の犯罪組織も統合しつつあるという。その連合体はシンジケートと呼ばれ、その頂点に立つのがコミッションと称される代表者会議だ。それぞれの犯罪組織の代表者達はコミッションを通して、全てを合議制で決定していくのだ。

 「そのシンジケートに、ボビーは司法省を率いて敢然と戦いを挑みました。そしてFBIにも協力を要請しました。しかし当時のFBI長官エドガー・フーバーは、それに対してあからさまな反発を示したのです。」

 一九五七年の上院マクレラン委員会の提言によって、ボビー率いる司法省がFBI内にシンジケートをターゲットとする部隊を作ろうとした時、フーバーはこれを拒絶する。

 彼は同年に起こったアパラチン会議事件の時まで、公にはマフィアやシンジケートの存在さえ認めてはいなかったのだ。それに、それ程巨大な犯罪組織を相手にすれば様々な弊害が眼に見えている。とりわけ彼が自慢としていた検挙率は、低下せざるをえない。

 だが、ボビー=ロバート・ケネディはひるまなかった。司法長官という立場から、しゃにむにFBIをシンジケート撲滅に駆り立てたのだ。

 長年FBIの支配者として君臨してきたフーバーに、かつてこれ程強圧的な態度で臨んだ者は皆無だった。

 切羽詰まったフーバーは、ついに大統領に直談判に及んだ。彼の直談判の際の常套手段は、必ず手土産を持参することだった。その手土産というのは、配下のFBIを使って調べ上げた談判の相手のスキャンダルである。それが要求を通すネタに使われるため、それまで彼の要求が通らなかった例はなかった。

 だが、ケネディだけは例外だった。彼はそうしたフーバーのやり口に強烈な拒否反応を示し、その恐喝まがいの手段や公私混同はかえってフーバーを窮地に追い込む破目になった。そして、フーバーは馘首にこそ至らなかったが、ボビーに協力せざるを得なくなる。FBIを配下に置いたボビーは、水を得た魚のようにさらにマフィアを追い詰めていく。

 当時の、マフィア傘下の合法的組織の核とされるチームスターユニオンのボスであるジミー・ホッファとボビーの対決は、今でも語り草になっているほどだ。

 追い詰められたマフィアの首領達は、当時ケネディ兄弟に最も近いと目されていた歌手のフランク・シナトラにケネディ兄弟の説得を要請する。だが、それをいち早く察知したボビーはシナトラとの関係を断ち切ってしまう。シナトラがそれをボビーの裏切りととらえ、終生彼を憎み続けたのは有名な話だ。

 一方、ボビーの締め付けはさらにステップアップされ、彼等はついにお得意の非常手段に訴える決定を下す。

 当時、組織の中のナンバー2であったカルロス・マルセロが、『リバルシ・ナ・ペトラ・ディ・ラ・スカルパ』(俺の靴の中の石を取れ。)という言葉を発したのだ。これはマフィア内部で使われる最もクラッシックな暗殺指令の隠語である。そしてそのターゲットは、もちろんロバート・ケネディだった。

 「この情報を得たアイス・ピックは、状況を極めて危険と判断し、東南アジアへの派遣命令を蹴りました。そして独断で、極秘活動に乗り出します。その結果、今回のヒットはコルシカンマフィアとのジョイントオペレーションであることまで突き止めたのです。」

 ところが理恵には、今度はそのヒットという語の意味がわからない。

 「ヒットとは、マフィア用語で暗殺のことです。つまり、今回の暗殺計画はシシリアンマフィアとコルシカンマフィアの共同作業になるということです。」

 ジャックは、丁寧に注釈を加えた。

 「国内のマフィアメンバー達を使えば犯罪歴や交友関係から足がつきやすいので、海外からコルシカ系の選り抜きのヒットマンを呼び寄せるのです。彼等は一般の旅行客を装って入国します。そして仕事を終えるとさっさと帰国してしまいます。国内では犯罪歴のない連中なので、当局の捜査は困難を極めるわけです。彼等は国内のシシリアン達と比べて洗練されてはいませんが、タフで獰猛な連中です。シシリアン達は、彼等をズィップとかマフィオーゾと呼んで恐れています。」

 またランプの光が大きく揺れた。ジャックの声だけが室内に響く。理恵は食い入るようにジャックの話に聞き入っていた。

 「彼等海外からのヒットマン達を洗い出すために、アイス・ピックは国内への入国者を徹底的にマークしました。そして五人の男達がそれぞれ個々に入国し、地元マフィアのアジトと目される場所に潜伏し、彼等と共に行動していることを突き止めたのです。

 時間的余裕はありません。アイス・ピックは思いきり苛烈な手段で彼等の排除を決意しました。無論、叱責や馘首は覚悟の上です。」

 ジャックは、理恵の反応を窺うために言葉を切った。理恵は身じろぎもせずにジャックを見つめる。

 天井の蜥蜴たちの動く、かさかさといった乾いた音だけが妙に大きく耳に障った。

 「彼等Bチームは連中のアジトを急襲し、一緒にいた者達を含めて十一人全員を始末しました。当初は殺すつもりではなかったようです。彼等の反撃で、こちらは二人死亡していますからね。純粋な戦闘行為であれば、彼等ごときに遅れをとる筈はありません。」

 さりげないその言葉の裏には、ゆるぎない巌の自信が垣間見られた。

 「そして彼等は、五人のヒットマン達全員の首を掻き切って、ヒットを指令した首領達にその首を送りつけたのです。」

 「首を。」

 理恵は絶句した。あまりに刺激の強すぎる内容だった。

 「この次はお前がこうなるという、最もわかりやすい警告でした。震え上がった首領達は、すぐさま指令を撤回しました。これで当面の危険はなくなったわけです。非常に手荒な手段でしたが、人殺しを何とも思わない連中が相手でしたから、このくらいのことをやらなければ、効果は期待できません。」

 ジャックはこともなげに言った。

 「そしてこの一件にけりがついた後、彼等Bチームは要人警護の任を解かれ、すぐに東南アジアに派遣されることとなりました。

 やるべきことをやり遂げ、後顧の憂いを断ち切った上での出発でした。とはいえ、左遷に等しい人事であるという思いを払拭することが出来なかったのでしょう。輸送機の前に整列した七人の男達の表情は、どこか虚ろで寂し気でした。Aチームは既にベルリンにいたので見送りはCチームの我々だけでした。」

 薄暗いランプの灯りの中で、ジャックはため息のようにパイプの煙を吐き出した。甘酸っぱい芳香が辺りに漂う。

 「ところがそこへボビーが、大統領の弟で司法長官のロバート・ケネディが、ふらりと姿を見せたのです。周囲に護衛の姿はありません。たった一人でした。あまりの不用心さに、アイスピックは血相を変えてなじりました。彼はにやりと笑って言い返しました。

 『君達と一緒ならなんの心配もいらない。そうだろう?』

 あらゆる意味で効果的な一言でした。

 それからボビーは真顔になって、七人の一人一人を見つめながら言いました。

 『大統領はあなた方に感謝している。』

 それから、さらに短くつけ加えました。

 『そして、もちろん私もだ。』

 その言葉には、万感の思いが込められていました。彼等にはそれで十分でした。

 彼等一人一人と固い握手を交わした後、ボビーはアイス・ピックに言いました。

 『ベトナムで何か途轍もないことが起きようとしている。』

 『心配しないでください。我々七人がそこにいます。』

 闘志を漲らせた表情で、アイス・ピックが力強く言ってのけました。先程までの憂いは拭い去ったように消えていました。彼等七人はタラップを勢いよく駆け上がり、ベトナムへと旅立って行きました。

 そしてそれから一週間後、我々Cチームもこの地へ旅立つこととなったわけです。」

 感慨深げに言うと、ジャックは大きく息をついた。そして遠い目つきになって、独白のようにつけ加えた。

 「軍事顧問として現政権と協力しつつこの国を真の民主国家にし、周辺諸国のキューバ化を防ぎ、失墜したアメリカの権威と信用を回復すること。それが我々の任務でした。」

 「大変な仕事ですね。」

 それが偽わらざる感想だった。

 「ええ。純粋な戦闘行為を最も得意とする我々には、なかなかきつい任務でした。」

 ジャックは大きく頷いた。

 「そもそもキューバ革命自体が、共産革命などではなかったのですから。」

 理恵は聞き咎めて、えっという面持ちでジャックを見つめ返す。

 「どういうことですか?」

 訊き返さずにはいられなかった。

 大学では、カストロやゲバラによる共産主義革命だと教わっていたからだ。

 「あの革命の目的は、キューバを共産主義国家にすることではなく、単純にアメリカ勢力を排除することにあったのです。」

 裏を返せば、それ程アメリカは彼等に嫌われていたということだ。

 さらに、ジャックは唐突に話題を変えた。

 「ユナイテッド・フルーツというアメリカ企業をご存じですか?」

 「アメリカでは、かなりの大企業ですね。」

 「あれは、アイゼンハワー政権時代の国務長官だったジョン・フォスター・ダレスと弟のアレン・ダレスが創設した企業なのです。」

 アレン・ダレスといえば、先程の話では確かケネディ大統領に馘首されたCIAの長官だったはずだ。しかもその兄のジョン・フォスター・ダレスが国務長官だったとは、これまた驚きに値する。彼等兄弟はアイゼンハワー政権中枢にあって、絶対的権力をふるっていたというのだ。アイゼンハワーは彼等兄弟のパペット、つまり操り人形だったとも言われている。

 『アイゼンハワーが大きな会議に出席する度に、ダレス兄弟のどちらかが、ぴたりと寄り添うように横に座った。そして何か質疑があると、ダレス兄弟のどちらかが素早くメモを書き上げアイゼンハワーに渡していた。アイゼンハワーはそれを受け取り、ただ読み上げるだけだった。一国のリーダーとしてはあまりに情けない、信じられない光景だった。』

 当時のソ連書記長だったフルシチョフの回顧録に見られるくだりである。

 ジャックによれば、もちろんそれを額面通りに受け取ることは出来ないが、それに類することは確かに随所にあったというのだ。

 「どちらにしても、彼等兄弟がアイゼンハワー政権下において絶大な権力を手中にしていることは事実でした。そしてその権力を背景に、彼等は南米諸国で、ありとあらゆる搾取を行いました。これにより、南米諸国における対米感情は急速に悪化していきます。一般の国民にとっては、自分達の生活を脅かすアメリカ帝国主義そのものと映ったに違いありません。当時、アメリカ人を指すグリンゴという語は、彼等にとっては敵という語と同義でした。特に、キューバはアメリカ本国に近い分、その傾向は一層大きかったのです。」

 ジャックは理恵を見つめながら、冷めたコーヒーを口に運んだ。当の理恵は余りのショックに、コーヒーを飲む余裕すらない。

 「しかも、それに加えて、マフィアの進出も大きな脅威となっていました。せっかく確立したフレンチコネクションという麻薬密売ルートを官憲によって寸断されたマフィアにとって、キューバは新たなルートとしての条件を満たしていました。また、ラスベガスから程近いという地の利は、リゾート地としても理想的でした。もちろん犯罪組織であるマフィアが、まともな手段を講じるはずはありません。当時のバチスタ政権は買収や賄賂の横行で急速に腐敗し、首都ハバナの治安は悪化の一途をたどりました。そうした諸々のアメリカ勢力を駆逐するために、フィデル・カストロは革命を断行したのです。」

 ジャックはここでまた言葉を切った。そして、パイプを口にくわえ直した。

 「その結果、革命は成功しましたがアメリカ勢力の進出を防ぐためにはアメリカ勢力に対抗しうる強力な後ろ盾が必要でした。

 弟のラウルと同志のチェ・ゲバラはもともと共産主義者だったのでソ連の傘下に入ることを主張しますが、フィデルは当初、すぐにはそれに応じませんでした。彼の最初にしたことは、アメリカ勢力に対抗できる資本主義国を探すことでした。

 しかし、結局うまくいきませんでした。超大国アメリカの影響力は、彼の想像を遙かに超えて大きかったのです。切羽詰まった彼等には、やはりソ連の傘下に入る以外選択の余地はありませんでした。そしてその結果、今や彼等はソ連の下僕になり果てています。

 けれどもそれは所詮キューバ国内の問題であり、我々が口出しすべきではありません。

 しかし、それが他国に飛び火するとなれば話は別です。キューバに核ミサイルを持ち込むことに失敗した彼等は、今度はキューバを起点にして、周辺諸国で社会主義革命を起こす策動を始めたのです。そのために、既にチェ・ゲバラがボリビア辺りに潜伏しているという情報も入ってきています。我々はそれらの全てを阻止しなければなりません。なぜならば、彼等キューバやソ連が真の民主主義国家と言える状態ではないからです。」

 相変わらず感情を交えぬ口調だった。

 「しかし当初、我々はこの国の実情を知って驚きました。反政府勢力があちこちに割拠し、軍部が力で押さえ込まなければ国としての体裁さえ保てない状況だったのです。」

 「そんなにひどい状態だったのですか?」

 「ええ、まさに蜂の巣をつついたような有り様でした。おまけに叛徒達は皆、口先で革命を唱えていましたが、その内実は山賊となんら変わるところのない連中だったのです。」

 ジャックは大きくため息をついた。

 「しかも彼等は互いに連絡を取り合い、関係を密にして、一つの大きな反政府勢力として纏まる動きも見せ始めていました。ですから、我々はまず軍部と協力して彼等を討伐することから始めなければなりませんでした。

 そしてその駆逐すべき最大のものはこの地域、つまり今の寺沢ホスピタルと周辺の村を含む広大な地域を支配していた、レオンと呼ばれる男を頭目とする勢力でした。」

 理恵は、はっと顔を上げた。レオン。どこかで聞いた覚えがある。確か、男に目をえぐられ、耳を削ぎ落とされた者だったはずだ。

 「レオンは狡猾な男でした。各地の小勢力を傘下に収め、彼等に略奪や人身売買、麻薬の密売などの犯罪行為をさせて、その利益を吸い上げていました。そしてその一方でそんな動きとは無関係を装い、革命を口にし、理想国家建設を呼びかけ、多くの純粋な若者を味方に引き入れていったのです。」

 理恵の思いをよそに、ジャックは委細構わず話を続ける。

 「悪辣な手段で調達した資金で膨大な武器を揃え、耳障りの良い言葉にだまされた若者達によってその勢力は急速に膨れあがっていきました。政府軍はこれに手を焼き、何度も圧倒的な兵力で攻勢をかけたのですが、いずれも惨めな失敗に終わりました。」

 理恵はひとまずレオンのことは、無理矢理胸の奥にしまい込んだ。そして尋ねる。

 「何故ですか?」

 「その理由の一切は、この地域の地形にあります。ここは、一万平方キロメートルにも及ぶ広大なテーブルランドが千メートル以上の標高差で周囲から隔離されているのです。

 また、標高差がもたらすものか、周囲に比べて気候も温暖で土地も肥沃です。しかもこれ程の高地にもかかわらず、不思議なことに水も豊富で自給自足も可能なのです。

 レオンは、中央政府から独立してここに理想郷を作り上げるのだと主張し、周辺地域にも多くの賛同者を集めていました。

 中央政府としては、到底容認出来ることではありません。しかし、先程も言ったように彼等を排除するのは困難でした。

 攻めあぐねた軍部は、我々に援助を依頼しました。我々としても統一国家としての基盤が揺らぐのは決して本意ではなかったので、その依頼を引き受けることにしたのです。」

 隣の家の引っ越しを引き受けたというような、ごく気軽な言いぶりだった。

 「でも、政府軍が何度も攻撃に失敗しているのですよね。」

 「それは政府軍の作戦が拙かったのです。レオン達がこのテーブルランドを中心に周辺地域と連携して戦う限り、政府軍に勝ち目はありません。逆に言えば、まず彼等と周辺地域との連携を絶ち、彼等をテーブルランドという巣穴に閉じ込めてしまえばいいのです。

 そのため、我々はテーブルランドの外にある彼等の仲間達の拠点を各個に潰しにかかることから始めました。それに対し、レオンが真の革命家なら仲間を見捨てるはずがありません。必ず援軍を差し向けるはずです。しかしレオンはそれをしませんでした。彼は口先できれいごとを並べ立てていても、所詮は平気で仲間を見殺しにする男だったわけです。

 レオンの正体を見切った我々は、その時点でレオンへの直接攻撃を決断しました。周辺勢力が壊滅した彼等はもはや枝葉の全てを削がれて、巣穴にこもる兎同然の有様でした。

 ただ、その時点ではまだ解決されていない幾つかの問題がありました。」

 当時を思い出すようにジャックは言った。

 「その最大のものは、軍部がレオン勢力を駆逐した後のこの地に、軍事施設の建設を目論んでいることでした。軍部の勢力拡大は、この国の真の民主化を目指す我々にとって、歓迎すべきことではありません。」

 力を込めて頷きながら、ジャックは再びパイプをくゆらした。

 「そこで我々は一計を案じ、その時点で一旦手を引く素振りをしてみせました。すると案の定、軍部は大いに慌てました。何しろ枝葉は枯らしたとはいえ、彼等に散々煮え湯を飲ませ続けたレオンの本隊は、ほとんど無傷のまま、今だこのテーブルランドに居座り続けているのですから。」

 ジャックの顔に、小さく笑みが浮かんだ。

 「彼等軍部は哀願せんばかりの態度で我々にさらなる助力を求めました。我々は、彼等に三つの交換条件を出しました。

 その一つ目は、レオン一派を叩き潰した後のこの地に、国民のための医療施設を建設することです。彼等軍部はこの案に大いに難色を示しましたが、国民の支持を得るために絶対必要なことであると説き伏せました。

 二つ目は、レオンの仲間達を首謀者以外無条件で解放することです。これに対して、軍部はさしたる反対はしませんでした。

 そして三つ目は、直接の攻撃自体は我々のみで行い、さらにその作戦内容については全て我々に一任するという内容でした。それは寧ろ彼等の望むところだったので、全く否やはありませんでした。」

 「我々のみでということは、軍事顧問の九名だけでということですか?」

 「いや、直接戦闘に参加したのは、その中の六人だけでした。」

 「けれども政府軍は大勢で、何度も攻撃を仕掛けて失敗しているのですよね。」

 「戦いの帰趨は、人数の多寡ではありません。特にゲリラ戦の勝敗は、いかにSASの要素が守られるかどうかで決まります。」

 「SASですか?」

 また、意味が分からず理恵が尋ねる。

 「スピード(速さ)、アキュラスィー(正確さ)、サプライズ(不意)の三つです。」

 そうは言われても、ちょっと信じがたい話だった。何しろ政府の正規軍が、何度も攻撃を仕掛けてことごとく失敗しているのだ。

 「作戦はごく単純なものでした。私とシャープナーが政府軍を二手に分けて、今までと同じような通常攻撃を仕掛けます。それに対しては、敵側もまた同じような防御態勢に入らざるを得ません。その間に我々の仲間の六人が敵の目をすり抜けて、レオンのいる司令部に直接急襲をかけるというわけです。まあ一種のフェイントオペレーションですね。」

 フェイントオペレーション、つまり陽動作戦である。それだけは辛うじて分かった。

 「でも具体的にはどうやって?」

 「落下傘降下です。」

 ジャックはあっさり種をあかした。

 「落下傘降下による急襲は最新鋭の戦術ですが、我々特殊部隊員は一人残らず優秀なパラ、つまり落下傘降下兵であり、その手の戦闘は最も得意とするところでした。」

 ジャックは理恵に顔を向けて、誇らしげに言う。学者然とした風貌の向こう側に、ちらりと戦士の地金がほの見えた。

 「我々の中の六人がグルカの操縦する我々専用のチョッパー、つまりヘリコプターに乗り込んでハロー・ドロップを行ったのです。」

 「ハロー・ドロップ?」

 またまた意味のわからない単語である。

 「高高度降下、低高度開傘の通称です。」

 ジャックはにやりと笑ってつけ加える。

 「具体的には、高度一万二千フィート以上の高空から跳んで、二千フィート以下の低空で開傘します。通常の降下とは比較にならぬ程の技術が必要なので、我々は特別にそれをハロー・ドロップと呼んでいるのです。」

 「でも、たった六人だけでですか?」

 「ええ。チョッパーによる急襲は、少人数の方がやりやすいのです。」

 「スピード(速さ)とサプライズ(不意)ということですね。」

 「そうです、その通りです。」

 我が意を得たりという表情だった。

 「それに周辺勢力が枯れたために、彼等の拠点を特定するのも容易でした。アキュラスィー(正確さ)も満たされたわけです。」

 そこでまた、ジャックの口許が綻んだ。

 「六人がチョッパーに搭乗してから三時間後には、レオンとその取り巻きの者達は拘束され、他の者は武装解除されていました。」

 ランプに照らし出されたその貌からいつしか学者然とした雰囲気は完全に払拭され、まごうことなき戦士の顔が明確になる。

 「司令部周辺には、まだ二百人以上の者達がいましたが、彼等は全く抵抗するそぶりを見せませんでした。そこで我々は彼等を捕虜として、レオン達首謀者とは隔離しました。彼等はすぐに解放されるはずでした。少なくとも我々はそう信じていました。

 その五日後、三百人ほどの守備兵を残して政府軍の主力は引き上げていきました。

 事件が起きたのは、その次の日でした。残された守備兵達の司令官は、メンドーサという大佐でした。彼は捕虜達を使って、司令部の裏手に大きな穴を掘らせました。我々はその動きに、何かきな臭いものを感じました。

 彼が捕虜達全員を司令部前の広場に引き出したのは、その日の真夜中近くでした。

 そして訝しげな表情の彼等を前に、彼等全員を処刑する旨を伝えました。

 全く寝耳に水の話でした。私が色をなして詰め寄ると、彼は言いました。

 『彼等は非協力的で、今までに略奪及び密輸してきた武器や金品の類を隠匿したまま供出しようとはしない。これは死に値する重大な犯罪行為である。』

 要約すればそういうことで、それがすなわち彼の言い分でした。

 彼は一歩下がると、右手を高く差し上げました。入れ替わりに、自動小銃を構えた十五人の兵が一歩前に出てきました。そしてその十五挺の銃口が、捕虜達の方へ向けられました。彼等捕虜達は驚愕に凍りついたまま、身動き一つ出来ませんでした。

 『ふざけるな。』

 その時、雷鳴のような声が轟きました。

 次の瞬間、あっという間に十五人の銃手は地面に叩き伏せられていました。

 代わって自動小銃を握っていたのは、我々の仲間の五人でした。その銃口は向きが変わって、大佐達の方を向いていました。今度は彼等が驚愕に凍りつく番でした。

 やがてソードが、捕虜達の中からうっそりと姿を現わしました。

 『俺達はそんな話は聞いていないぞ。』

 ソードは満面に怒りを漲らせて、唸るように言いました。まさに飛びかかる寸前の虎を想わせる形相でした。それを見た大佐とその一味は他愛なく震え上がりました。

 『上からの命令で仕方ないんだ。彼等が貯め込んでいる略奪品を押収出来なければ、皆殺しにするよう言われているんだ。』

 メンドーサ大佐が苦し紛れに叫びました。

 ソードは歩み寄ると、メンドーサ大佐の胸ぐらを掴みました。そして改めて念を押しました。

 『すると、そのありかが分かれば、彼等は間違いなく解放されるんだな?』

 一言一言句切るようなその口調は、剣呑な響きに満ちていました。大佐達は、怯えも露わにがくがくと頷くばかりでした。

 そこへ、アックスがレオンを引きずり出してきました。レオンが何らかの関与をしているのは間違いないことでした。その内容を全員の前で、彼の口から直接語らせる必要があったのです。後日彼等に、曖昧な言い逃れをさせないためです。それから我々は全員の前で、レオンを拷問にかけました。直接それを担当したのはソードでした。」

 理恵はその言葉を聞いて、ようやくあの若い兵士の言っていた意味に思い至った。

 「ソードは薄ら笑いを浮かべながら、まずレオンの両耳をそぎ落としました。しんとした沈黙の中でレオンの悲鳴だけが甲高く夜空に谺しました。レオンはすぐに音を上げました。そして、立て板に水のようにぺらぺらと白状し始めたのです。だが、ソードはさらに右の眼をくりぬきました。誰の目にも、血も涙もない残酷な男と映ったことでしょう。」

 理恵はごくりとのどを鳴らした。

 「しかし、誰かが絶対にやらなければならないことでした。本来ならば、それはリーダーの私のするべき役目でした。」

 苦いものを噛み締めるような口調だった。

 「後になってアックスにそう言うと、『家族持ちになるあんたの手を血で汚させるわけにはいかないさ。最初から、俺かソードがやるつもりだった。』彼はあっさり言いました。」 

 ジャックの言葉はそこで途切れた。そして湿った声でつけ加えた。

 「私は彼等に感謝しました。その気持ちは今でも変わっていません。」 

 ジャックの瞳は僅かに潤んでいた。だが、涙をこぼすことはなかった。ジャックはすぐに話題を戻した。

 「右目がくりぬかれた時点で、私が制止に入りました。まだやり足りなさそうなソードを無理矢理引き離すという演出でした。必要とあれば、またこの冷酷で残忍な男をけしかけるぞ、というポーズでもあります。ソードは、その芝居を上手く演じました。レオンにはもはや一片の気力さえありませんでした。

 その時、彼の白状した内容は他の者達に対する許しがたい裏切りでした。

 彼は、自分一人だけの助命の交換条件として武器や略奪品等の全ての財産を、既に軍上層部に引き渡していたのです。しかもさらにその上前をはねて、メンドーサ大佐達と折半し、自分だけ脱走する手筈まで整えていたのです。そしてその罪全てを、捕虜達に被せて処刑してしまおうという魂胆だったのです。

 それらを知った捕虜達は激高しました。

 さらに許しがたかったのは、軍部の連中の裏切り行為でした。彼等はまだ、この場所に軍事施設を建設するという意図を捨てていなかったのです。メンドーサ達の口から語られたことによれば、彼等はここに医療施設を建設する気などさらさらなく、最初から我々との約束を反故にするつもりだったのです。

 それを聞いたアックスが叫びました。

 『ここに軍事施設は作らせない。ここには病院を建てるんだ。』

 驚いたことにその場にいた捕虜達はもちろんのこと、一般の守備兵達も皆、アックスの叫びを支持しました。そして全員が、その場で協力を申し出てくれました。

 そうした挙げ句、レオンやメンドーサ達は追放され、我々はすぐさま政府軍との戦の準備に取りかかりました。

 ここにいる者達全員の助勢があれば、政府軍に一泡も二泡も吹かせてやれます。

 我々はアメリカ本国に、中央政府と敵対することになった経緯を報告し、大急ぎで戦闘準備に入りました。」

 そこで一旦言葉を切って、ジャックは徐に席を離れた。そして書棚から古いファイルを取り出すと、理恵の前に丁寧に並べた。

 「ところが事態は、全く予期しない方向に進展しました。」

 言いながら、ジャックは顔を綻ばせた。

 「なんとその次の日に、我が合衆国のプレジデントのケネディがこの国のリカルド・ガルシア大統領に、あろうことかコングラチュレイションと直接連絡してきたのです。」

 確かに全く予期しない言葉だった。

 「しかもその詳しい内容を、この国のマスコミにも伝えたのです。彼等はこぞってそのニュースを、翌日の第一面に掲載しました。」

 並べたファイルをぱらぱらとめくって、ジャックはその時の記事の頁を指で示した。

 そして、まだポルトガル語の読み書きが心許ない理恵のために、音読していく。

 「『貴国の中央政府は先日、反政府思想の犯罪組織が支配する地域を我が国の軍事顧問と協力して完全制圧、住民を解放することに成功した。』」

 ランプの揺らぐ薄暗がりの中に、ジャックの音読の声が響く。

 「『今回の件に関して我が国民は、ガルシア大統領の努力と献身に大きな祝福と拍手を送るものであり、また我が国の軍事顧問がその一翼を担っていたことを誇りに思う。

 そしてさらに喜ばしいのは、叛徒が一掃された広大な地域に、国民のための医療施設を建設するという構想を耳にしたことである。

 これは、貴国が真の民主主義実現への道を歩み始めたという何よりの証左だと言えるだろう。我が国は、この事業に対してのあらゆる援助を惜しまない。

 その第一歩として、我々はその医療施設建設のための資金援助を約束するとともに、最新の医療機器や薬品等を寄贈したいと思う。』」

 理恵は黙って聞いていた。

 「どうですか?」

 読み終えて、ジャックが感想を訊ねる。その顔には柔和で優しい笑みが浮かんでいた。

 「相手を非難や恫喝することなく、プレジデントケネディは我々の予想より遙かに大きな援護をしてくれたわけです。」

 「素晴らしいわ。」

 理恵は感極まって、やっとそれだけを口にした。ジャックもうれしげに頷いた。

 「これにより、軍事色・独裁色の強かったガルシア政権に対する国内の反発は和らぎ、その支持率は上昇し、さらにそれは我が国のイメージアップにも繋がりました。

 そして医療施設建設の構想が国民に圧倒的に支持されたため、軍部も少なくとも表向きは、軍事施設建設の計画を放棄せざるを得なくなったわけです。」

 ジャックは言った。

 ランプの光に照らされて、その瞳はきらきら輝いていた。ジャックは子猫みたいな顔をしている。理恵は不意にそう思った。

 「莫大な資金援助と引き替えに、医療施設建設は我々軍事顧問に一任されました。

 そこで我々は政治色の一切を排除するために全てのスタッフを民間から募りました。そしてその頂点となる総責任者を、既に国民から大きな信頼を得ていたあなたの祖父の寺沢教授にお願いすることになったのです。

 しかし先程も言ったように、この地は他の目的の利用にも理想的です。

 政府内には軍事施設建設計画の頓挫に対する不満がくすぶっていましたし、反政府勢力の幾つかはまだ残っていて、活動拠点となる地域を欲していろいろ画策していました。

 それらすべての様々な干渉をはね返して中立性と独立性を維持し続けるには、それだけの強さがなければなりません。

 具体的には、完全な自給自足が出来ることと、今回のような不意の攻撃に耐えうるだけの戦闘力を持つことが絶対に必要でした。

 そこで、我々はこの広大なテーブルランド全体を病院施設に付属する一つのエリアと考え、施設関係者の全てはそのエリア内に居住するよう定めました。そして食料等の調達については、エリア内の集落の協力を仰ぎました。住民達にとっても、作物の全てを病院が買い上げてくれるので収入が安定するわけです。彼等は寧ろ喜んで協力してくれました。

 さらに我々はテーブルランドの境界に沿って幾つかの防御拠点を設置し、主要な交通路にはそれぞれ中継基地を設営しました。ここもその中の一つというわけです。」

 ジャックはそうつけ加えた。

 それらの話を聞いて、理恵はため息をつくばかりだ。紡ぎ出される話の全てが、想像できる範疇を大きく逸脱しすぎていた。

 「建設工事は急ピッチで進められました。我々に協力を誓ってくれた兵士や捕虜達も、汗水流して働きました。一ヶ月後には、早速大統領からのプレゼントが届きました。様々な医療機器や薬品を積み込んだ、五機の最新鋭の輸送用チョッパーでした。『患者の搬送や医師の派遣には、ヘリコプターが理想的であると思う。』と一言添えてありました。」

 それから急に、ジャックの声のトーンが変わった。理恵は怪訝そうな眼を向ける。

 「万事が順調でした。全てうまくいくと信じていました。そして素晴らしいリーダーであるケネディの期待には、何が何でも応えなければならない。改めてそう誓いました。」

 ジャックは一旦口をつぐんだ。そしてしばしの沈黙の後、やっとの思いで口を開いた。

 「しかしその年の十一月二十二日、その思いの全てが木っ端微塵に潰え去りました。」

 声音が微かに震えていた。ジャックの顔には、苦痛の色が露わだった。

 「ケネディ大統領の暗殺ですね。」

 理恵は、ためらいがちに声をかけた。

 「あの時の報道、あの時の映像は、今でも忘れることが出来ません。」

 感情の表出を抑えきれぬままに、ジャックは言葉を続けた。

 「半身を切り裂かれたような衝撃でした。一瞬で空気が凍りつき、全てが真空と化したかのような思いでした。」

 そこでまたジャックは言いつぐみ、唇を強く噛み締めた。そしてようやくぽつりぽつりと言葉を継いだ。

 「誰も、何も言いませんでした。ただ呆然と画面に食い入るばかりでした。

 そして沈黙を保ったまま、皆自室へ引き揚げました。その日は誰も食事に出て来なかった。妻は悲しげに言いました。

 最初に来たのは深甚な悲しみと、肝心の時にそばにいることが出来なかった悔いの念です。あの時我々がいたなら、暗殺は絶対に阻止できた筈です。その思いがずっとつきまとって離れません。今でもよく夢に見ます。」

 その言葉に理恵は、いつぞや男がひどくうなされていた光景を思い出した。

 「次に来たのは怒りでした。身を震わせるほどの大きな怒りが、肚の底から湧き上がってきました。相手が誰であろうと、このつけは絶対に払わせてやる。私は、いや我々全員がそう誓いました。何故ならプレジデント・ケネディの死はアメリカ一国のみならず、人類全体の大きな損失だったからです。」

 言い放つジャックの両眼は殺気を帯びて、硬質の光を放っていた。それは、理恵をたじろがせるに十分だった。

 しかしそれでも理恵は、敢えて尋ねずにはいられなかった。

 「犯人は、リー・ハーベイ・オズワルドではないのですか?」

 「そんな戯言、誰も信じてはいませんよ。」

 あざ笑うようにジャックは言った。

 「何故なら、オズワルドは斜め後方のビルの六階から狙撃したことになっていますがケネディに致命傷を与えた弾丸は、間違いなく前方から撃たれたものだからです。」

 ジャックははっきりとそう言い切った。

 「暗殺の時の映像をみれば一目瞭然です。プロの我々が見紛うはずはありません。」

 理恵は何も言えなかった。

 「弾丸は、ケネディに三発、すぐ前にいたコナリー知事に一発命中しています。たった六秒の間にです。

 もっとも、ウォレン委員会はジェット効果とかいう妙な理屈を振り回して、単発だったという主張に固執していますがね。」

 ジャックは皮肉な笑いを浮かべた。

 「ウォレン委員会って何ですか?」

 また理恵がおずおずと尋ねる。

 「ケネディ暗殺後に大統領となったリンドン・ジョンソンが大統領暗殺の真相を糾明するためと称して立ち上げた組織のことです。」   

 言われてみれば、そんな名前を聞いたことがある気がする。

 「ところが彼等のしたことは、とんでもない茶番でした。」

 ジャックは投げ捨てるように言った。

 ずっと後に、委員会内部でメンバーに手渡された極秘メモには『我々の目的は完全な正確さで事実を解明することではなく、オズワルドの単独犯行だったという結論に肉付けをすることにある。』と書かれていたことが明らかになっている。つまりウォレン委員会は、真相を解明する気など全くなく、当時から噂されていた政府内部の陰謀ではないかという説を封じ込めるためだけに設置された組織だったのだ。

 ランプの火がゆらりと揺れて、二人の陰影が微かに動いた。

 「しかし我々には、そんなことはどうでもいいことでした。あったのは、真犯人への激しい怒りと復讐の念だけでした。」

 いつしかジャックの顔に、溶鉄のような怒りの色が露出していた。だが、その声音はあくまでもクールだった。この辺りがリーダーたる所以なのだろう。

 「そしてまもなく、ヨーロッパのAチームから連絡が入りました。『我々はやるべきことをやる。』それだけでした。無論我々Cチームも全く同じ気持ちでした。

 Aチームは一旦アメリカ本国に戻り、ケネディ暗殺の状況を徹底的に調べ上げました。

 すると驚くべき事実が、次々と明らかになってきました。」

 ここでまたジャックは言葉を切って、理恵の顔を見つめた。理恵は深甚なショックを受けていた。それを隠せなかったし、隠そうともしなかった。

 やがてジャックは静かに言った。

 「あなたは、プレジデントケネディの暗殺の真相をお聞きになりたいですか?」

 そう言って、鋭い視線を理恵に向ける。

 「真相を知ることは、敵の標的のリストに書き加えられ、命を狙われることにもなりかねません。つまり、我々と同じ十字架を背負うことになるのです。それでもお聞きになりたいですか?」

 ジャックは執拗に繰り返した。理恵はしばらく逡巡したが、やがて大きく頷いた。ジャックはそれを確認すると改めて口を開いた。

 「この先は、かなり細かい話になります。」

 言いながら、ジャックは傍らから出してきた手頃な大きさの白紙を広げた。そしてその白紙に、まず十文字に線を引いた。

 「横線の方は、ダラス市のメイン通りを表しています。方位的には、右斜め上が北になるため、この通りをやや南東から北西へ真っ直ぐ突っ切るのが、ルーズベルト大統領以来のパレードの慣習でした。だが、このパレードコースは前日に突然変更されました。

 この縦線は、ヒューストン通りです。変更された当日のパレードは、メイン通りを南東から入って、ヒューストン通りとの交差点を右折していきました。」

 それからジャックは、縦線であるヒューストン通りの上部から左斜め下に向かって直線を書き加えた。これにより斜辺が上となる直角三角形が形成される。三角定規の直角二等辺三角形ではない方である。

 「この斜辺にあたるのがエルム通りです。そして、パレードはヒューストン通りを北上した後エルム通りで左折します。」

 エルム通りである直角三角形の斜辺は、底辺になっているメイン通りと合流していた。

 ジャックは更に、ヒューストン通りとエルム通りの交差する処に、ヒューストン通りを挟んで二つの○印を書き込んだ。直角三角形の斜辺の上端に当たる位置だ。そして左の○にTSBD、右の○にDTと書き添える。

 「左の○は、オズワルドが狙撃したとされるテキサス・スクール・ブック・デボジトリービル、右の○はダル・テックスビルです。」

 最後に、三角形の斜辺の三分の一くらいの地点に×印と、エルム通りとメイン通りが合流するすぐ上に、『デーリー広場の一角・急な傾斜・灌木のやや多い芝生』と書き込まれた。その×印は、ケネディ大統領が狙撃された地点を表していた。

 紙面上で確認すると、パレードコースはメイン通りの直線を右から入ってきて、三角形の直角部分に沿って上へ曲がり、六十度部分を左折して、斜辺を斜め左下に下ってくる途中で狙撃されたのだ。ウォレン委員会の主張によれば、オズワルドの狙撃は後方からなされたことになる。

 当日の十二時三十分、大統領のオープンカーはヒューストン通りを曲がり、エルム通りへ入ってくる。エルム通りの緩やかな下り坂を大統領車はゆっくりと進むうちに、後続のシークレット・サービスの護衛車と二十メートル余りも離れてしまっていた。

 エルム通りに入って四十メートル程で、突然乾いた音が響き渡った。次の瞬間、ケネディが苦しげに両手で胸の辺りをかきむしる。前方のデーリー広場の木の茂った丘の向こうから発車された弾丸が、ケネディの首に当たったのだ。

 二発目は、後方のDTビルから発射され、ケネディの右肩下方に命中した。

 ほとんど同時に、オズワルドのいたTSBDビルからも発射されたが、狙いは外れて前方に座っていたコナリー・テキサス知事の胸を貫通した。しかしこれは、六階にいたオズワルドの撃ったものではない。実際には、三階の窓から発射されたものだった。

 四発目は、再びDTビルから発射されているが、これも狙いはそれて、コマート通りのカーブの破片を削るに終わった。

 さらに続けて、初弾と同じデーリー広場の急斜面の芝生から五発目が発射されたが、これがケネディの右頭部を撃ち抜いて致命傷を与える。その瞬間、大統領車の左後方にいたハージス巡査は、白バイもろともケネディの鮮血と脳みそで覆われた。前方からの狙撃でなければ、決してあり得ない角度である。

 これ程はっきりした状況にも拘わらず、ウォレン委員会はあくまでも『オズワルドの単独犯行』『単発発射』に固執している。

 どれ程優秀な狙撃手でも、単独で六秒の間に五発の弾丸を発射するのは物理的に無理があり、標的に命中させることなどまず不可能だ。しかも海兵隊時代のオズワルドの射撃の成績は、中の下という評価である。

 それに加えて、暗殺に使用されたとされるマンリカ・カルカーノという銃は、第二次世界大戦中にイタリア軍に使用され、一九四一年に製造をストップされた代物で、専門家の間では最も信頼度が低く、イタリアが戦争に負けたのはカルカーノのせいだというジョークがあるほどの粗悪銃である。

 ボルトが固く、引き戻すまでに銃身が標的からそれてしまう上に、引き金が二段構造になっていて、照準がぶれやすくなっているのだ。こんな銃ではどんな名手でも、短時間に連続射撃など出来るはずはない。

 後に、ウォレン委員会でも三人のエキスパートにそのライフルを撃たせてみたが、三人とも目標に命中させることは出来なかった。

 しかし、ここまでだけならウォレン委員会に代表される合衆国政府の固執する『オズワルドの単独犯行』『単発発射』に、いかに無理があるかということの証明にすぎない。

 問題なのは、なぜそこまで合衆国政府が前述の二説に固執するのかということだ。

 ジャックの答えは明快だった。

 合衆国政府の正式機関であるCIAと、FBIに加え、犯罪界を支配するマフィアがこの暗殺に関与していたからだというのだ。

 犯人とされるリー・ハーベイ・オズワルドは下っ端とはいえ、歴としたCIAの工作員である。CIAはそのオズワルドを犯人らしく見せるために、暗殺前に様々な小細工を弄している。さらに、当日のパレードコースを変更したダラス市長のアール・カベルは、ピッグズ湾事件でアレン・ダレスと共にケネディによって馘首されたCIAの副長官チャールズ・カベルの実の弟に当たる。

 そしてその実行については、マフィアお抱えのヒットマン達によって為された。具体的には、ニューオリンズの首領のカルロス・マルセロがチャールズ・ハレルソンとジャック・ローレンスという二人を、シカゴのサム・ジアンカーナがリチャード・ケインとチャッキー・ニコルティとミルウォーキー・フィルの三人を、さらにフロリダを支配するサントス・トラフィカンテが二人の亡命キューバ人をそれぞれの配下から選抜し、計七人の殺し屋部隊が現場に配置されていたのだ。

 また、暗殺実行後オズワルドが逮捕されるや、FBIダラス支局長のゴードン・シャンクリンは部下のジェームス・ホスティをダラス警察に派遣して、取り調べにFBIを同席させるようダラス警察側に強く迫る。

 法律的にいえば、大統領暗殺は連邦罪ではないのでFBIの管轄外だ。従って、これは明らかにFBIの越権行為である。

 しかもさらに驚いたことに、暗殺のあった時刻に、現場でFBI捜査官と名のる男達が目撃されている。彼等は狙撃現場の一つである急傾斜の芝生、デーリー広場に一般人が立ち入らぬよう監視していたというのだ。

 ジャックの説明には曖昧なところは一点もなかった。衝撃的な内容だったが、具体的でわかりやすかった。

 「しかし我々にとって、もはやそんな細かい部分はどうでもいいことでした。彼等を逮捕したり、裁判にかけたりする気など毛頭ありませんでしたから。」

 そこで淡々とした口調がわずかに乱れた。燃え上がる怒りを封じ込めるように、ジャックは大きく深呼吸した。

 「本国での調査を終えたAチームが我々の許に到着した三日後、Bチームがベトナムからたどり着きました。

 彼等は満身創痍の状態でした。ケネディの暗殺後、彼等は戦場で体のいい弾よけとして扱われたのです。メンバーは四名に減り、リーダーのアイスピックも戦死していました。しかし、帰還した四人は復讐の念にたぎりたっていました。

 その時のメンバーは、Bチームのその四名とAチームが七名、それに我々Cチームの八名を加えた計十九名でした。他の者は任務遂行の途上で皆、命を落としていたのです。」

 仲間の死については、ジャックは冷静な口調を崩さなかった。

 「準備が整うや、我々十九名は軍事顧問の職を辞して旅立ちました。

 そして仕事自体は、全部で三週間足らずで終わりました。事前の綿密な情報収集と、彼等が一箇所に固まっていたことが幸いしました。我々は、その場にいた実行犯七人と護衛等の二十九人を一人残らず始末しました。物音がするので、銃器の類は一切使いませんでした。それでも十分足らずの仕事でした。」

 あくまで平板な口調を崩さなかったが、語られる内容は、凄まじいの一語に尽きた。

 ゆらりと、またランプの炎が揺らいだ。

 「しかしそれだけでは、到底我々の怒りは収まりませんでした。彼等は所詮、ただのトリガーに過ぎないからです。我々は、ケネディ暗殺に関わった者全てを根絶やしにしなければ気が済まなかったのです。

 我々はその仕事を終えると、一旦この地へ引揚げました。そして改めてその首謀者達全員を始末する算段にかかりました。

しかしそこへ、一通の書簡が届きました。ケネディ大統領の弟のボビーからでした。

 『私はそれを欲していない。兄もそうだ。戦いはまだ始まっていない。戦いが始まった時に備えて、今は力を蓄えていて欲しい。』

 そうありました。その文面には、ボビーの戦う意志が漲っていました。ロバート・ケネディが立ち上がるつもりなら、我々に否やはありません。振り上げた拳を撫でさする気持ちで、我々はその時を待つことにしました。

 そして帰国後、我々はこの寺沢ホスピタルの整備に専念しました。我々がこの地を去るまでに、ここを完璧なものにしておきたかったからです。今やここは、ケネディの遺産同様の存在ですから。」

 しみじみとした声音だった。それからジャックは、にやりと笑ってつけ加えた。

 「そういうわけで、我々はまだ、ここにこうしているわけです。」

 どこかで聞いたような台詞だった。

 理恵は大きくため息をついた。

 その時、柱時計が十一時を知らせた。その音に驚いたように、天井に張り付いた蜥蜴達が動きを見せる。

 「おやおや、もうこんな時間か。明日はおそらくゆっくりとしていられるでしょうが、もう疲れたでしょう。」

 理恵は大きく首を左右に振った。

 「もっとお話を聞きたいですわ。」

 どこか鬱屈した響きを帯びた声音だった。

 「どんなことです?」

 それを敏感に感じ取って、ジャックは改めて居住まいを正した。

 「ミスター・剣崎についてです。」

 理恵は思い切ったように切り出した。

 「マリアさんやあなたからの話を聞いて、彼がどうやら極悪非道の人非人ではないということはわかりました。」

 ためらいを吹っ切るような口調だった。

 「でも、彼は私の目の前で無抵抗の人を殺しているんです。」

 理恵はすがるようにジャックを見つめた。

 「あの光景は、今でも忘れられません。」

 そう言って悲しげに眼を伏せる。そんな理恵に、ジャックは柔和な視線を向けた。

 「あなた自身はどう思うのですか?」

 逆にジャックが訊ねる。細君のマリアの昼間の台詞と同じだった。

 「わからないんです。」

 理恵は悲しげに首を横に振った。

 「最初に会った時には、なんてひどい奴だろうと思いました。がさつで無礼で傲岸で、人の気持ちなどわからない野蛮人だと思っていました。でもそれから、どうやらそれ程極悪非道の人ではないらしいということがわかってきました。そして最近では、がさつで無礼で傲岸な野蛮人を見直し始めてもいたのです。それなのに、あんなことをするなんて。」

 感情を抑えきれず、声が震える。

 ジャックは黙って、そんな理恵の様子を眺めていた。それからゆっくりと声をかけた。

 「私の方でも二人の間にあった出来事を、改めて最初から一つ一つ聞きたいですな。」

 ジャックは足を組み直した。促されて、理恵は初日からの出来事を訥々と話し始めた。

 飾らずに話を進めたつもりだったが、やはり感情を抑えることは出来なかった。

 「山猫に襲われた時、彼は山猫を殺すことなく私を助けてくれました。それが嬉しくてたまりませんでした。だからなおさら、彼のしたことが信じられないのです。」

 理恵は、今にも泣きそうだった。

 「そう。その辺りの話は、特に詳しくお聞きしたいですな。」

 ジャックは、さらに興味深そうに身を乗り出した。そこで理恵は、その日の事の顛末を事細かにジャックに語った。

 その間、ジャックは一言も口を差し挟まずに理恵の話に聞き入っていた。その顔には、感情のかけらもなかった。ポーカーをすれば一人勝ちしそうな無表情だ。

 理恵の話が終わった後も、しばらくはその無表情を崩さない。そしてようやく出た言葉は、全く思いがけないものだった。

 「私が彼の立場だったら、おそらく彼等全員を射殺していたでしょう。」

 理恵は唖然としてジャックを見つめる。平手打ちを喰ったに等しかった。

 「話を聞く限り、その時点で彼等を逃がせば、彼等が加勢として我々の戦闘に加わる可能性もゼロではない。そして小火器が発達した現在では、予期せぬ方向からの一人の参戦が戦局を一気に覆すこともまれではありません。無論ソードとて、経験豊かな戦士です。きっと彼なりの成算があったのでしょう。しかし私がその場にいたなら、敵を逃がした彼の行為を間違いなく叱責します。」

 「それは、彼が全員を殺すべきだったということですか?」

 「ええ。その通りです。」

 ジャックは感情を一切交えず断言した。

 「もちろん、不必要な殺人は避けるべきです。だが、味方が不利になる可能性がわずかでもあるならその要因は断固として排除しなければなりません。従って、その時点での彼の行動は叱責されるべき類のものです。」

 「でも、そこまでしなくても何か方法はあるはずだと思います。」

 「終わってからなら何とでも言えます。しかし、全ては生き残ってからの話です。生き残る可能性を僅かでも阻む要素は、確実に取り除かなければなりません。戦場では、生き残ることが最も重要なことなのです。」

 断固とした口調だった。

 「しかし同時に、戦いは結果が全てです。ソードは他の兵士達を殺さなかったが、私たちは無事に、今ここにこうして座っていられる。つまり彼のその選択が、敵を含めた今回の戦闘の犠牲を最小限に留めたわけです。だから今回に限っては、敵を殺さなかった彼の判断は、殺すべきだったという私の判断より適切だったとも言えるわけです。」

 「でも、彼は一人殺しているわ。」

 理恵はなおもそこにこだわり続ける。

 「それは。」

 言いかけて、ジャックは言い淀んだ。うつむいたまま躊躇している様子だった。だが、やがて意を決したように顔を上げる。

 「あなたが叫んだことが原因なのです。」

 理恵の顔色が変わった。驚きに声もない。

 「そのせいで彼はその兵士を撃たなければならなくなった。」

 迷いを断ち切ったジャックは、今度はきっぱりと言ってのけた。

 「あの時、既に彼は彼等の度肝を抜き、彼等の心を恐怖で縛り上げていました。無論、彼等はそれなりの練度の兵士の筈です。しかし、これなら殺さずにすむ。おそらく彼はそう考えたのでしょう。しかし、あなたの叫び声が、その全てを台無しにしてしまった。」

 もはやジャックの口調はよどみなかった。

 「あなたのその余計な一言が、彼等を恐怖の呪縛から解き放ってしまったのです。」

 ジャックは冷静に、問題点を指摘する。

 「そのために、ソードは再び彼等を恐怖で縛り直さなければならなくなった。しかもそれは思い切り苛烈な手段でなければ効果がない。そしてその方法は一つしかなかった。」

 ジャックはそこで言葉を切った。

 「つまり、あの兵士の死の責任は私にあると言うのですね。」

 理恵の唇がわなわなと震えた。

 「残念ながら、そういうことです。」

 ジャックは容赦なく言い切った。

 「でも、それなら何故、彼は私にはっきりそう言ってくれなかったのですか?」

 理恵は、かろうじてそれだけを口にした。そこには心底知りたがっているといった響きがあった。ジャックはそんな理恵を痛ましげに見つめていたが、やがて徐に口を開いた。

 「あなたへの配慮だとは思いませんか?」

 続けざまの痛棒である。理恵は、あっという表情になった。全く意表を衝かれて、理恵はジャックから眼が離せない。しかし、言われてみれば思い当たるふしは確かにあった。

 「命を賭けた戦闘場面では、誰でも気が動転するものです。経験者でもなかなか正しい判断など出来ません。いわんや、戦争など全く知らない、平和な家庭に育ったうら若い女性ならなおのことです。」

 慰めるような口調だった。

 「あの時、彼がそれを指摘すれば、あなたは自責の念に駆られて打ちひしがれてしまうでしょう。彼はそうさせたくなかった。そうなるくらいなら、自分が甘んじて非難を受けた方がましだ。そう考えたのだと思います。」

 理恵は大きく眼を見張ったまま、ジャックの話を聞いていた。その眼からいきなり大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。だが、しゃんと上体をたてたなりで、まっすぐにジャックを見つめていた。真正面からジャックを見つめて、少しも視線を動かさないのだ。

 (ほう。)

 ジャックは思わず感心した。感心せずにはいられなかった。涙もろい性格らしくすぐに泣く。泣かずにはいられないのだろう。しかし、そのはっきりした悪びれない態度には何かしら、強く心を打つものがあった。

 やがて、涙を拭うと理恵が口を開いた。

 「私、彼を誤解していました。随分ひどいことを言いました。」

 のどに詰まった声音だった。

 「教えてください。私は彼に何と言って、詫びればいいのでしょう。」

 ジャックは片手を上げてそれを制した。

 「そんな必要はありません。」

 眩しげに眼を細めながら、ジャックは断定的に言った。

 「彼は、詫びも感謝も望んではいません。」

 なだめるような口調だった。

 「ただ私の見たところ、彼はどうやらあなたに心を開き始めているようだ。彼は自分のことを他者に語られるのを極端に嫌うタイプの人間です。ところが先程、あなたに我々のことを話すべきだと言った時、彼はあっさりそれを認めました。かつては一度もなかったことです。」

 ジャックは穏やかに言った。

 「あなたはよく泣き、よく笑う、非常に素直なお嬢さんだ。その素直な気持ちを、そのまま彼にぶつけてやればいい。」

 それを聞いて理恵はうつむいた。いつになく、彼女らしくない仕草だった。ジャックの言葉を噛み締めている様子だった。

 ランプの薄暗い炎に照らし出されて、その顎の細い線がひどく頼りないものに映った。

 しばらくたってから、理恵はようやく顔を上げた。そこには笑顔が浮かんでいた。ぎこちないが、確かに笑顔に違いなかった。

 「どちらにしても、私にはそれしか出来ないみたいです。」

 その声音は、曇ったガラスを拭い去ったかのような、透き通った響きを帯びていた。

 「それでいいんですよ。」

 ジャックも笑顔を返しながら頷いた。そして何かを思い出すような遠い目つきになる。

 「もう、ずっと以前のことです。

 アックスが私に、ソードをメンバーから外すよう進言したことがありました。

 『あいつは、これ以上自分の手が血にまみれるのに耐えられなくなってきている。』

 私も全く同感でした。だから、早速アックスと二人で説得しましたが駄目でした。

 『もう手遅れだ。俺は人を殺しすぎた。』

 そう言って、自嘲的に笑うばかりでした。

 私には彼の気持ちがよくわかりました。それは多かれ少なかれ、我々全員が抱いている思いでもあったからです。だからそれを強要することは、私には出来ませんでした。」

 そこで一旦言葉を切って、ジャックは寂しげに笑った。それからぽつりとつけ加えた。

 「そして彼は次の任務をしくじりました。」

 理恵は何も言えなかった。

 「当時我々は、政府側の要請で、特殊部隊の育成に取り組んでいました。あまり気は進まなかったが、断れない状況でした。

 我々の教え子となった若者達は、短期間で長足の進歩を遂げました。だが彼等には、最も肝心な何かが欠けていました。

 しかし、政府側は表向きの結果だけを評価し、時期尚早だという我々の忠告を無視して彼等を早々と実戦に投入しました。

 その結果、我々の危惧した通りのことが起こりました。精神的に未熟なまま戦場に放り込まれた彼等は、突然暴走し始めたのです。

 彼等は自分の技量に酔い痴れ、狂ったように殺人・暴行・破壊などを繰り返しました。

 見過ごしには出来ない事態でした。

 私は彼等全員の排除を命令しました。手塩にかけた者達をこの手にかけることにひどく心が痛みました。だが、仕方ありません。

 私の部下は速やかに出動し、速やかに任務を遂行しました。その中で、一人だけ任務に失敗した者が出ました。」

 ジャックはそこで小さくため息をついた。

 「ソードでした。」

 痛ましげに首を振りながら言葉を添える。

 「若者の声を奪っておきながら、どうしても止めを刺すことが出来なかったのです。」

 遠くから、長く尾を引く獣の遠吠えが聞こえてきた。それに合わせるように、またランプの炎が微かに揺らいだ。

 「そして、彼は空しく帰還しました。」

 独白のように、彼の言葉はなおも続く。

 「彼は廃人同様の有り様でした。私は、彼をメンバーから外さざるを得ませんでした。

 そんな彼を、今の仕事に就くよう説得したのは妻のマリアでした。最初、彼は全く気乗りしない様子でした。しかし、他にすることもありません。彼は渋々承知しました。」

 「今の仕事って、運び屋のことですか?」

 理恵が、そこで唐突に口を挟んだ。

 「いや、彼はわざと揶揄するようにそんなふうに言いますが、必要とされる集落に物資や医薬品を届けるだけでなく、疫病などが流行らないよう衛生面に気を配るといった内容も含まれます。今でもそれは変わりません。」

 要するに、郵便配達と保健所を兼務するようなものだ。理恵は、勝手にそう解釈した。

 「いやいや始めた仕事でした。最初は、やる気も覇気もありませんでした。届けられる側だって、胡散臭い無愛想な外国人が相手なのですから相当警戒したことでしょう。

 しかし、その状況は少しずつ変わっていきました。猩紅熱にかかった一家を、彼が三日間徹夜で看病したのがきっかけでした。回復した彼等一家に感謝され、周囲の見る眼も、そしてソード自身も変わり始めました。

 彼等はソードに気さくに話しかけるようになり、彼も笑顔を見せるようになりました。

 最も大事な何かを彼等から少しずつ分けて貰って、同時に彼の内面の傷も少しずつ回復に向かい始めていったのだと思います。

 しかし、彼の傷はまだ完全には癒えていません。その傷を癒やしてくれるのは、私にはあなたではないかと思えてならないのです。」

 とんでもないことだった。

 「そう言っていただけるのは嬉しいのですが、それは買いかぶりすぎです。人の心に立ち入るなんて、私には荷が重すぎます。」

 だがそこで言葉を切って、理恵は小さくつけ加えた。

 「でも今では、彼のようながさつで武骨な野蛮人も嫌いではないと思い始めています。」

 ジャックは嬉しそうに笑い出した。

 「つまりあなたも、彼から何らかの影響を受け始めているわけだ。」

 「くやしいけれど、そのようです。」

 理恵は仕方なく頷いた。実際、本当に口惜しくてならなかったのだ。

 「だが、彼は一筋縄ではいかないひねくれ者だ。彼があなたくらい素直であればと、つくづくそう思いますよ。」

 理恵がすかさず言い返した。

 「でも、もしひねくれ者でなくなったら、彼が彼でなくなってしまうわ。」

 ジャックの笑い声が一際高くなった。

 「確かにその通りだ。」

 笑いながらジャックが頷く。

 「我々のような特殊な男達をうまく手なずけられる女性は、もはや私の家内が最後の一人だと思っていました。」

 しみじみとした口調だった。

 「しかしどうやら、あなたにもその素質は十分にあるようだ。」

 丁度その時、柱時計が身を震わせて十二時を告げた。その振動に、また天井の蜥蜴たちがかさかさと動いた。

 「おやおや、もうこんな時間か。」

 ジャックが、先程と同じ台詞を口にする。

 「もう寝た方がよくありませんか?疲れたでしょう。」

 「いいえ、まだ大丈夫です。」

 理恵は大きく顔を横に振った。

 「それよりもっとお話を聞きたいですわ。」

 理恵はさらに話をねだった。この際、とことん聞いておこうと腹を括ったのだ。

 ジャックにとっては歓迎すべき状況といえる。だから、にこやかに何でもどうぞという仕草をして、改めて足を組み直す。

 「ロペスという人と、ミスター・剣崎についてお聞きしたいのです。」

 その言葉を聞くと、ジャックは一瞬ぽかんとした表情になる。

 「マリアさんが、あなたに訊くようにと言いました。」

 「ほう。」

 ジャックは興味深げに、改めてパイプを喰わえると、ゆっくりと火種を火口に移してパイプをふかした。新たな煙と芳香が辺りに漂い始める。

 「彼女は、ロペスという人はミスター・剣崎の駆け落ちの相手だと言っていました。」

 それを聞いた途端、ジャックは激しく咳き込んだ。煙にむせながら、まじまじと理恵を見つめる。それから弾けるよう笑い出した。

 「アックスが言い出したことなのです。」

 ひとしきり笑った後、ジャックが言った。その顔にはなおも笑いがへばりついていた。

 「ロペスという若者とその一味は、今でこそ我々の仲間ですが、当時は大都会に根を張る反乱分子達でした。」

 ジャックは懐かしそうに言った。

 「生きのいい街中の不良少年団といったところですかね。反帝国主義、反軍事政権という旗印を掲げて活動していたのです。

 ですから、アメリカの軍事顧問である我々が軍部に協力することが許せなかったのだと思います。同時にアメリカの援助で民間の医療施設を建設するということも、偽善に満ちた許しがたい行為に映ったのでしょう。

 そのため、彼等はこの施設の建設当初の段階から、三人の仲間をスパイとして潜り込ませてきていました。」

 「それは、いつわかったのですか?」

 「彼等三人がどこか異質な匂いを放っていたのは、最初から気づいていました。しかしそれをロペス一味と結びつけることは出来ませんでした。そもそも彼等のことは、あまりよく知らなかったのです。先程も言ったように、せいぜい都会の不良少年団といった印象しか持っていませんでしたから。

 だから五百以上の人数で、いきなり包囲されたときは仰天しました。しかもそこはテーブルランドの中でした。いわば自分の縄張り内のことだったので尚のことです。青天の霹靂とは、まさにあのことを言うのでしょう。」

 ジャックは大きく首を左右に振った。

 「ある日、テーブルランド内の村から病人が複数出たと連絡が入りました。我々がいつも食料を仕入れている村の中の一つでした。

 最初は、寺沢教授と看護師達だけで行くつもりだったのですが、伝染病の可能性があるので我々も同行することになったのです。

 それでも五十人足らずでした。見慣れぬ者の侵入に対しての監視体制が確立されつつあったので、全く油断していました。」

 ジャックは記憶を一つ一つ確認していくように、ゆっくり話を進めていく。

 「現地に着くや、いきなり彼等が現れたのです。気がつくと我々は包囲されて、完全に孤立状態になっていました。我々の動きは逐一掴まれていました。ここに至って、ようやく全てを悟りました。随行していた三人の若者が、密かに連絡をとっていたのです。

 我々を包囲した後、彼等は寺沢教授達だけをこの場に残して立ち去ることを要求しました。そしてさらに、今後一切手を引いて速やかにこの国から立ち去るよう、我々に求めてきたのです。医療施設に他国の、しかも政府側の人間が関わっていることを国民は納得していないということがその理由でした。

 考えるべき内容も含んでいたので、私は寺沢教授にその意向を訊ねました。

 『彼等の言うように、国民が納得していないのであれば、我々は速やかに病院から手を退きたいと思う。あなたの意見を聞きたい。我々はあなたの判断に従う。』

 教授は鼻で笑って答えました。

 『尻の青い小僧共の考えそうなことだ。奴等はあんた達を追い出して、自分達が後釜に座ろうという魂胆なのだろう。そんな連中の言うことに耳を貸す必要はない。』

 断定的な口調でした。

 その言葉を聞いて、私は彼等の仲間である三人の若者を連れてくるよう命じました。

 連れてこられた三人は既に後ろ手に縛られていました。しかし特に慌てた素振りは見られませんでした。そこには死を覚悟した者に特有の、一種の涼やかさが漂っていました。

 『俺達を人質にとっても無駄なことだぜ。とっくの昔に死ぬ覚悟は出来ているんだ。』

 その内の一人が言いました。残りの二人もふてぶてしい笑みを浮かべて頷きました。

 それを聞くと、アックスが一歩足を踏み出して、うっそりと彼等三人の前に立ちはだかりました。それからいきなり一人の胸ぐらを掴みました。そのまま左手一本で彼を眼の高さより上にさし上げたのです。その凄まじい怪力に、三人は仰天しました。アックスは若者をさし上げたまま、太い右手の人差し指を若者の眼前に突きつけました。

 『馬鹿にするなよ、小僧ども。俺達は腐ったってそんなことはしやしねえ。』

 そして、そのまま若者を放り出しました。

 続いて彼等の背後にいたグルカが、トレードマークのグルカナイフを引き抜きました。

 グルカナイフは、ブーメランのように湾曲した独特の形状をしています。

 そのナイフが、眼にも止まらぬ速さで閃きました。三人を拘束していた縄が、ぱらりと足許に落ちました。鮮やかな手並みでした。

 三人は、呆然とした表情をしていました。

 『そういうことだ。』

 あっさり言うと、グルカはそのままナイフを鞘に収めました。

 私は改めて若者達に言いました。

 『戻って伝えろ。我々は卑怯なことは絶対にしない。最後までとことん戦うだけだ。』

 私の言葉に、三人は顔を見合わせました。そこには驚きが、シールのように張り付いていました。自分達が簡単に解き放たれたことを信じられなかったのでしょう。

 『本当にいいのか?』

 縛られていた両手を揉みほぐしながら、一人が念を押すように言いました。

 『ついでに言わせてもらうなら、儂等も銃を持って最後まで戦う。』

 寺沢教授がぽつりとつけ加えました。すると女性六人を含む、傍らの看護師達もこぞって頷きました。

 しばらくの間、三人は呆れたように我々を見つめていました。やがて一人が、大きく首を左右に振りながら口を開きました。

 『お前等は、一人残らず大馬鹿野郎だ。』

 感に堪えたような声音でした。

 『だけど、そんな馬鹿は嫌いじゃないぜ。』

 そう一言つけ加えて、彼等は仲間のもとへ引き上げていきました。

 それから、我々はすぐに戦闘準備にかかりました。しかし敵である彼等の方に、いつまでたっても全く動きがありませんでした。

 徒らに時が流れていきました。

 太陽が傾き始めた頃、敵側から人影が一つひょっこり現れました。その人影はしなやかな身ごなしで、一気に斜面を駆け降りてきました。彼は私達の前で足を停めると、両手を挙げて何も持っていないという仕草をしました。それからよく通る声で言いました。

 『俺がリーダーのハイメ・ロペスだ。』

 端正で繊細な顔つきの若者でした。

 『たった一人で来るとはいい度胸だな。』

 アックスが感心したように呟きました。

 『何しに来た?』

 私は彼の前に立って訊ねました。

 『まずは礼を言いに。』

 若者は白い歯を見せて笑いました。しみ入るような、いい笑顔でした。

 『三人を無傷で帰してくれて感謝する。彼等は俺のかけがえのない仲間なんだ。』

 『別に礼を言われる筋合いはねえな。俺達は、決して卑怯なまねはしない。』

 アックスがあっさりと応じました。

 『俺達もそうだ。』

 若者も大きく頷きました。それから例の、人好きのする笑顔でさらに言いました。

 『お互いにそういうことなら、ここで無駄な血を流す必要はない。そう思わないか?』

 『それはそうだ。』

 私はゆっくり頷きました。

 『だったら、チャンピオンファイトでけりをつけたいと思うがどうだろう。』

 『チャンピオンファイト?』

 意味がわからず、私は思わず訊ねました。

 『代表者戦のことですよ。』

 傍らにいたシャープナーの言葉に頷き、若者はさらに補足しました。

 『代表を一人ずつ選んで、その二人が勝負する。そしてその結果に全員の運命を委ねようというわけさ。』

 よほど自信があるのでしょう。こともなげな言い方でした。けれども犠牲者を最も少なくするには、確かにそんな方法が一番です。

 『そちらの代表はあんたかね?』

 私の質問に、若者は大きく頷きました。予想通りの反応でした。

 『そっちは誰だ?』

 アックスの巨?をねめつけながら、若者は訊ねます。しかしその予想に反して、一歩前へ進み出たのはソードでした。

 『具体的には、いつ、どこで、どのような形で行うのかね?』

 傍らの寺沢教授が切り出しました。その実務的な質問は、教授達もその提案に異存がないことを表明していました。

 その結果、一時間後に村外れの広場で四人の介添人を付けて行うということを打ち合わせて、若者は帰って行きました。」

 ジャックはそこで一旦話を切って、またパイプをくゆらせた。

 「時間が近づくと、我々は村はずれの広場に向かいました。私の選んだ介添人は、寺沢教授とアックスとグルカの三人でした。私を入れた四人が着いた時には、相手方は既に待ち受けていました。彼等の介添人の中の三人は、我々の所で働いていた若者達でした。その中の一人が気さくに話しかけてきました。

 『あんた達全員の命は保証するから安心してくれ。あんたらはいい仕事をしてくれたと思う。だから今までの病院でのやり方を変えるつもりはない。ただ、俺達は自分達だけの手でやりたいんだ。』

 人懐っこい笑みを浮かべて言いました。

 『我々の方も君達の命を保証する。何もせずに速やかに引き上げてくれれば文句ない。』

 寺沢教授がそう応じました。

 彼等は自分達のリーダーの勝利を寸毫も疑っていない様子でした。戦いの前に、ロペスが五十回にも及ぶチャンピオンファイトで負け知らずだという話も聞きました。しかし、我々は戦いのプロです。特にソードは素手の格闘では負け知らずです。所詮素人の腕自慢だろうと、内心たかをくくっていました。だから実際に、ロペスのカポエラを目の当たりにした時には非常な衝撃を受けました。」

 「カポエラというのは何ですか?」

 興味津々といった面持ちで理恵が訊ねる。彼女の格闘技好きは、どうやら祖父の血筋らしい。

 「元々は奴隷達の間に伝えられた、反乱用の足技中心の格闘技です。」

 「そんなに凄かったんですか?」

 「ええ。まるで暴風のような足技でした。」

 そう言いながら、またジャックは遠くを見る目つきになる。

 「結局、勝負は引き分けに終わりました。

 一時間余りにも及ぶ凄まじい打撃戦の末、二人はほとんど同時に意識を失い、その場に昏倒ました。夕日がやけに眩しかったのを覚えています。静寂が辺りを支配し、誰もが厳粛な面持ちで倒れた二人を眺めていました。

 しばらくたってからようやく我に返って、私は相手側の四人に大きく頷きました。彼等もまた大きく頷いて応じました。

 双方が二人に歩み寄った時、ロペスがいち早く意識を取り戻しました。

 『俺は負けたのか?』

 ロペスがかすれた声音で訊ねました。

 『いや、引き分けだった。』

 そのロペスの顔を見降ろしながら、アックスが短く応じました。

 『気休めを言うな。俺が倒れた時、あいつは倒れていなかったぞ。』

 ロペスは血まみれの顔を歪めて、ややむきになって言いました。

 『お前に気休めを言わなければならない程の借りはねえよ。あの時、既にソードの意識はなかったんだ。』

 アックスは素っ気なく答えました。

 『それでも、奴は立っていたんだろう?』

 投げ出すようにそう言って、ロペスは放心したような表情になりました。

 『それならやっぱり俺の負けだ。』

 ぽつりと呟いて、ロペスは立会人となった四人の若者に眼を移しました。

 『すまなかった。俺は負けた。俺にリーダーの資格はない。』

 振り絞るようにそう言うと、ロペスはまた意識を失いました。

 無様に横たわるそんなロペスを、彼等はしばらく見降ろしていました。やがて感極まった調子で若者の一人が言いました。

 『あんたは間違いなく俺達のリーダーだ。俺はとことんあんたについていくぜ。』

 他の者は何も言いませんでしたが、同じ気持ちなのはその眼の色から明らかでした。

 しばらくは、誰も何も言いませんでした。

 『それならば、あんた方のリーダーを運ぶのを手伝って貰おうか。』

 不意に寺沢教授が口を挟みました。

 『見ての通り、あんた方のリーダーは手当てが必要な状態にある。だから儂等の病院で手当てをさせて貰いたいと思っている。』

 若者達は驚いて顔を上げました。そして教授を見つめました。

 『俺達はあんたらの敵なんだぞ。』

 一人が噛みつくように言いました。

 『そんなことが関係あるか。彼は確かにリーダーに相応しい男だ。お前さん達も、どうやらこのリーダーに相応しい者達らしい。そして何より病院は怪我人を治療する所だ。』

 『俺達はあんたらを裏切ったんだぞ。』

 若者の一人が、なおもこだわって言いました。幾分後ろめたいような物言いでした。

 『これ以上ごちゃごちゃ言う気はねえ。俺は引っ担いでもこいつを連れていくぜ。』

 面倒臭げに、アックスが終止符を打ちました。そしてぽつりと付け加えました。

 『こいつはそれだけの価値のある男だ。』

 更に言い募ろうとする三人を制すると、残りの一人が口を開きました。事の成行きを黙って注視していた、四人目の若者でした。

 『俺達のリーダーを宜しく頼む。それからこの三人も連れていって貰いたい。彼等もそう望んでいると思う。』

 結論のようにそう言いました。

 三人は戸惑ったように顔を見合わせた後、やがて一斉に頷きました。

 『それでは彼等のリーダーの面倒を、この三人に任せよう。』

 私がそう言うと、その若者は白い歯を見せました。彼等に共通の、ちょっと目を奪われるような笑顔でした。純粋な若者の笑顔を見るのは、いつでも気持ちのいいものです。

 アックスと三人の若者がソードとロペスの移送を引き受けることになり、教授をはじめとする者達が先に出発していきました。 

 最後に残った若者が声をかけてきました。

 『俺はアルフォンゾ・ボーマルシェ。ロペスの次のリーダーだ。』

 そう言って右手を差し出してきました。

 『あんた方に会えて、本当に良かった。』

 しみじみとした声音でした。とりあえず握手を拒否する理由はありませんでした。

 『私は病院の警備の指揮を預かる者だ。ジャックナイフというのが通り名だ。』

 ちょっと気障な言い方かなと照れながら、彼の手を握り返したのを覚えています。どちらにしても、信頼できる若者達だという確かな感触を感じました。いい気分でした。これ程の気分は実に久しぶりのことでした。

 彼の号令一過、我々を包囲していた若者達は整然と引き上げていきました。

 それからアックスと三人の若者達は、まるまる一昼夜、誰にも一指さえ触れさせることなくソードとロペスを運びきりました。病院に着くと、ソードとロペスの二人は同じ病室に放り込まれました。殴り合った敵同士が同じ部屋で、枕を並べる破目になったのです。

 その後すぐに一悶着生じました。反政府勢力のリーダーであるロペスを捕えるために、中央政府が警官達を派遣してきたのです。

 寺沢教授は、まだ傷の癒えていない怪我人を渡せるかと突っぱねました。アックスは病室の前に立ち塞がって、彼等を睨みつけました。三人の若者もそれに追随して、徹底抗戦の構えでした。彼等は恐れをなして、ひとたまりもなく退散しました。

 その後、アックスと三人の若者はつききりで、ソードとロペスの面倒を看ていました。

 そうした庇護のもとで、二人は順調に回復していきました。口を利けるようになってからも、互いに特別に言葉を交わすということはなかったようです。しかし、どこか通じ合うものはあったのでしょう。

 『あいつ等は最近、鼾の?き方まで似てきやがったぜ。』

 アックスはにやにやしながら、そんなふうに表現しました。

 いい機会だったので、その時私はアックスに改めて尋ねました。

 『何故そこまで肩入れするのかね?』

 実を言えば、アックスは自他共に認めるがちがちの白人至上主義者でした。

 ソードは日本人、ロペスはメスティソ、どちらも紛れもない有色種です。私の質問に対して、彼はこともなげに答えました。

 『奴等二人が本当の男だからだ。』

 『しかし彼等は二人とも、君の最も嫌いなはずの有色種だぞ。』

 私はなおも指摘しました。

 『人間誰しも欠点はあるさ。』

 彼はあっさりそう言って、軽く肩を竦めました。私もそれ以上は、何も言いませんでした。彼の気持ちがよくわかったからです。彼はなまじの偏見以上の感情を、彼等二人に抱き始めていたのです。

 偏見などというものの正体は、所詮そんな程度のくだらない代物なのでしょう。

 しばらくすると、また警官達がやって来るという情報が入ってきました。二度目ということであれば、彼等にも面子があります。今度は一筋縄で行かないでしょう。しかも、今回は軍が後ろ盾にいるというのです。その魂胆は明白でした。軍事施設建設にたっぷり未練を残している軍部は、とにかく一悶着起こしてつけ込む隙を見い出したいのです。

ここは慎重に切り抜けるべき局面でした。

 彼等は前触れもなしに、装甲車と供に三十人からの大人数でやって来ました。我々の度肝を抜くつもりだったのは明らかでした。

ところが彼等の目論見は筒抜けでした。

 我々全員は正門の前で整列し、拍手と共に彼等を出迎えたのです。

 機先を制されて、彼等は完全に毒気を抜かれた様子でした。それを見てとったアックスは、噛んで含めるように言いました。

 『病院は、病人や怪我人を治療するところなんだ。わかるだろう?』

 そして押し殺した声音で付け加えました。

 『だから病院に武器は必要ない。ここで全ての武器を預からせて貰う。』

 その傍らで、三人の若者は猛犬のように押し黙って、彼等を睨み据えていました。

 『我々は、邪魔する者や抵抗した者を射殺する許可を貰っている。』

 かろうじて隊長らしき男が抗弁しました。

 『だが、病院に武器は必要ない。』

 素っ気なく、アックスは繰り返しました。

 『どちらにしても、たかが松葉杖をついた若造一人に、この人数はちょいとばかり大袈裟すぎる。そうは思わないか?』

 彼は、むしろ穏やかな口調で続けました。

 『それともそれがあんた方の実力かね?』

 どこか、あざ笑う響きでした。それがいたく彼のプライドを傷つけたようです。

 武器の類をアックスに手渡しながら、彼はアックスを睨みつけて言いました。

 『邪魔するなよ。そうなればお前達も容赦なくしょっぴくからな。』

 『三十人もの大の男が、たった一人の怪我人の小僧をとっ捕まえる大捕物だ。ゆっくり高みの見物をさせてもらうさ。』

 アックスのその一言が、更に彼のプライドを刺激しました。彼は七人を選抜して、その七人をロペスの病室に向かわせました。

 『おいおい、そんな人数で大丈夫かい?なんなら手を貸してやってもいいんだぜ。』

 アックスの冷やかしに、彼は噛みつきそうな眼つきで応じました。

 結果は惨惨たるものでした。同室のソードが七人を簡単に叩きのめして、ロペスとともに、うまうまと脱出してしまったのです。

 後日改めてやって来た連中に、我々は外から見ていただけだ、手を貸そうと申し出たが彼等は聞く耳持たなかったと、アックスはすました顔で証言しました。

 彼等の武器を取り上げたことは問題視されましたが、病院への武器の持ち込みの一切を阻止するのは警備担当として当然のことだという主張が認められるに至りました。」

 理恵は、顔を綻ばせた。

 「つまりは、全てアックスさんの思惑通りに事が運んだというわけですね。」

 「そうです。その通りです。二人の逃走に誰も一切加担していないこと、それを敵側の人間もはっきり目撃していたこと。そういった状況を作り出すことが狙いでした。軍の介入を避けるためには必要な措置でした。」

 ジャックは大きく頷いた。

 「後日、その状況を取り調べに来た担当者に、アックスはすました顔で言いました。

 『奴等は、手に手を取って駆け落ちしたのさ。同じ部屋で寝ているうちに愛が芽生えちまったらしい。愛はそういった小さな事から生まれる代物らしいからな。そして二人がそうなったのは、別に俺達のせいじゃないぜ。』 

 ぬけぬけと言うアックスの傍らで、私と教授は笑いをこらえるのに苦労しました。

 『こうなったからは旅だった二人を、祝福の気持ちで見送ってやるべきだと思うがね。』

 アックスは、さらにそう付け加えました。」

 もはや我慢できなかった。理恵は弾けるように笑い出していた。

 「そういうことだったんですか。」

 「そうです。そういうことだったのです。」

 ジャックも笑いながら、相槌を打つ。

 「結局この件は、うやむやになりました。こうしてロペスは密かに我々の仲間になり、我々は国民のための病院としての支持を受けつつ、軍部とは微妙な敵対関係にある。そういう形で現在に至っているというわけです。」

 ジャックはそんな言い方をして、改めて壁の時計に眼をやった。

 「話が大分長引きました。今度こそ、もう寝た方が良さそうですな。」

 もっと話を聞きたかったが、テッドと朝早くから釣りに行く約束をしている。

 「よくわかりました。ありがとう。」

 理恵は万感の思いを込めて言った。そしてテーブルの上の食器の片付けにかかる。

 「朝食の時間はいっしょでいいですか?」

 キッチンへ向かう理恵の背に、ジャックはそう声をかけた。

 「ええ。ぜひ、皆さんと御一緒に朝食を頂きたいですわ。」

 素直に頷きながら、理恵が言った。

   (八)

 次の日の朝食は、テッドと理恵が朝早く釣ってきた魚が食卓に並んだ。

 まずまずの釣果で理恵に対して顔が立ったということらしい。テッドはご満悦の呈で、さっそく次の日も釣りに行く約束をする。

 ロペスの部隊から連絡が入ったのは、ちょうどそんな朝食の最中だった。ジャックは怪訝そうに無電室へ向かったが、すぐに顔を綻ばせながら戻ってきた。

 「最優秀の操舵手一人と小型高速艇が、今朝早くこちらに向かったそうだ。遅くとも夕方には到着するだろう。」

 「すると、明日には出発できるな。」

 「もう、行っちゃうの?」

 男の言葉に、テッドは膨れ面になる。

 「理恵と、また釣りに行きたかったのに。」

 「まあ、そんなに急ぐこともないだろう。」

 ジャックも、とりなすように言った。

 「私は二・三日後でも構わないわ。別段急ぐ旅でもないし。」

 理恵も、打って変わって暢気に構える。

 昼食直前に、再び無線で連絡が入った。まもなく到着するということだった。

 「随分早いな。」

 「確かに最優秀の操舵手らしい。」

 ジャックと男は、そんなやりとりをしながら桟橋に出る。

 湖と見紛うばかりの広大な大河の水面は、熱帯特有の強い陽射しを照り返して銀盤のように輝いていた。そこを真一文字に切り裂いて、高速艇が近づいてくる。フルスロットルの猛スピードで、今にも宙を舞いそうな勢いだ。それを絶妙のバランス感覚で抑え込む操舵手の技量は、確かに卓越したものだった。

 彼我の距離をたちまち一気に短絡する。そして、五分後にはもう桟橋の傍らにいた。

 「やあソード、久しぶりだな。」

 艇の中から陽気な声がかかる。浅黒い肌と引き締まった体躯の若者だった。そして、はっとするような美貌の持ち主でもある。

 「大将自ら御出陣とは驚いたな。」

 にやりと笑って男が応じる。

 「最初は他の奴に行かせるつもりだったんだ。高速艇を操れて一番暇そうな奴は誰だと言ったら、奴等全員一致で俺を指差しやがったんだ。全く奴等は自分達のリーダーをなんだと思ってやがるんだ。」

 忌々し気に若者が言った。その言葉に、男とジャックは大声で笑う。

 「素直でいい仲間達じゃないか。それだけリーダーを信頼しているということさ。」

 取り成すようにジャックは言った。それには答えず、若者は不意に真顔になった。

 「実を言えば、昼飯を喰ったらすぐにここを出発したいんだ。」

 「随分急な話だな。」

 若者の言葉に、二人は驚きの色を見せる。

 「午後すぐに出発したとしても、向こうに着くのは真夜中になるが大丈夫か?」

 「俺に関していえば大丈夫さ。この河のことなら皺の一筋、髪の毛一本まで知り尽くしているからな。」

 艇を係留しながら若者は白い歯を見せる。

 「とにかく俺は、一刻も早く戻りたいんだよ。とりあえずボーマルシェに後を任せてきたんだが、俺はどうも心配でならないんだ。」

 「彼はそんなに頼りない副官なのか?」

 「いや、あいつは優秀な指揮官だ。俺より優秀と言ってもいいくらいだ。問題なのはその他の仲間なんだ。我慢が足りない。政府軍を眼の前にして、牡牛みたいに猛りたっていやがるんだ。奴等を抑えるのに一苦労さ。もともとが、猪の生まれ変わりみたいな連中だからな。」

 若者は一気にまくしたてた。

 「奴等は今の膠着状態に我慢がならないんだ。こっちは今のところ、武器も人数も足りてない。まともにやりあえばこっちに到底勝ち目はない。向こうに足りないのは突っかけてくる勇気だけなんだ。だから今は、この膠着状態を続けることが肝心なんだ。ところがとんまな俺の仲間達は、そこのところがまるでわかってない。何かというと闇雲に突っ込んでいきたがる。奴らの皺のない脳みそには突撃の二文字しか刻まれてないんだ。ボーマルシェは状況をよくわかっているが、あいつ一人じゃいつまで抑えきれるか知れたもんじゃない。だから一刻も早く戻りたいのさ。」

 「だが、昼食を摂ってすぐ出発とはあまりに早すぎるだろう。」

 若者の剣幕に、ジャックはなだめるように言った。ジャックの言葉に男も頷く。

 「私は構わないわ。」

 不意に頭上から声がかかった。

 三人が振り返ると、桟橋に続く土手に刻まれた階段の上に理恵の姿があった。

理恵を見た途端、若者の動きが止まった。

雷に打たれたように硬直したまま、大きく目を見開いて理恵を見つめる。そのまま吸い付いたように、理恵から眼が離せない。

 理恵は全くそれに気づかなかった。身軽に桟橋の階段を降りてきて若者の前に立つ。

 「話は今お聞きしました。私のことより、そちらの事情の方がずっと大事だと思うわ。」

 そう言って、柔らかな笑みを向ける。

 その笑顔を目の当たりにすると、若者はさらに身動き出来なくなった。

 「寺沢教授のお孫さんだ。」

 改めてジャックがそう紹介する。若者はやっとのことで我に返った。

 「寺沢理恵です。」

 理恵が右手を差し出した。若者は戸惑いの表情で、むやみやたらと掌を自分の服に擦りつけた。そしてようやくその手を握り返す。

 「するとあんたが、俺が運ばなければならない厄介な荷物ってわけか。」

 思わずそう口走っていた。

 「まあ。」

 「そう言われたから、俺はてっきりテッドくらいの腕白小僧だと。」

 言いかけて、慌てて若者は口を噤んだ。理恵の顔に明らかな怒気が滲んでいたからだ。

 「そう言ったのはミスター剣崎ですね?」

 「いや、別にそうだとは。」

 曖昧に言い淀んで、若者は助けを求めるように男を見た。男はそ知らぬ呈で、顎の先をぼりぼり掻いた。

 それを見てとった理恵の顔に、何かを企む笑みが浮かんだ。理恵は改めて、若者の方に向き直った。

 「あなたがハイメ・ロペスさんですね。」

 若者はぎくしゃくと頷いた。その顔には、はにかみの色が浮かんでいた。かつて一度もなかったことだ。男とジャックは、呆気に取られて若者を見つめる。

 「あなたとは特にお会いしたかったわ。」

 若者は呆けたように突っ立ったままだ。

 「何しろ、ミスター剣崎の駆け落ちの相手だとお聞きしていましたから。」

 背後でジャックが軽く咳払いした。一拍おいて、男と若者がほぼ同時に叫んだ。

 「駆け落ちの相手だって?」

 そして反射的にジャックを睨みつける。

 「そんなことまで喋ったのか。」

 男が眉根に皺を寄せて唸るように言った。

 「なにしろ彼女の欲する情報は、全て提供するという約束だったからな。」

 とぼけた調子でジャックが応じる。

 「そう。情報操作は、何よりやってはいけないことだわ。そうでしょう。」

 言いながら、理恵はにんまりと笑った。

 男と若者は何も言えない。憤懣やるかたないという面持ちで顔を見合わせるばかりだ。

 「まあとにかく、まずは昼食を摂ろう。」

 ジャックはそうとりなした。

 「そうね。マリアさんが腕によりをかけたの。ロペスさんの分までたっぷりあるわ。」

 そう言って、理恵はくるりと背を向けた。そして先に立って歩き出す。

 そのくりくりしたヒップには自信が漲っていた。若者はしばらくの間、その後ろ姿を見惚れたように眺めていた。それから、やれやれといった表情で首を振った。

 「成程。確かに厄介な荷物ではあるな。」

 ため息まじりにそう呟く。

 「何?何か言った。」

 すかさず理恵が振り返った。

 「いや、別に。」

 慌ててそう言うと、若者はそそくさと後に従う。全く無抵抗の感があった。

 ジャックがそれを見ながら口を開いた。

 「ロペスが、特に女性に奥手だという話は聞いたことがあるかね?」

 「いや、そんな話は聞いた覚えがないな。」

 「では、どう思うね?あれを。」

 ジャックは意味ありげに二人の方へ顎をしゃくる。男はにやりと笑って答えた。

 「まるで婦警に補導される中学生だな。」

 それを聞き咎めて、若者は足を停めて振り返った。噛みつきそうな表情だった。

 「どうしたの?」

 その途端、怪訝そうな理恵の声が飛ぶ。

 「いや、別に。」

 若者は慌てて先程の台詞を繰り返した。そして思わず駆け足になって後を追う。まるで無抵抗の感があった。

 四人が母屋に戻ると、料理に精を出す母のマリアをテッドが手伝っていた。

 「やあ、テッド。」

 若者が陽気に声をかける。だが、テッドは返事どころか振り向きもしない。

 「何だよ、随分御機嫌斜めじゃないか。」

 若者はなおも声をかけながら歩み寄った。

 「ロペスなんか大嫌いだ。」

 ようやく、膨れ面でテッドが振り向く。

 「どうしてだよ?」

 眼を丸くして若者が訊ねる。

 「ロペスは食事の後、すぐに理恵を連れていっちゃうんだろ。」

 若者は一瞬ぽかんとした。そしてその意味を悟ると大声で笑い出した。

 「なんだよ。何がおかしいんだ。僕は理恵に、もっと釣りを教えるつもりだったんだ。」

 なおも笑いながら、若者は両手を上げた。

 無条件降伏の仕草だった。

 「わかった、わかった。わかったよ。」

 ひとしきり笑うと、若者は真面目な顔になって頷いた。そしてテッドの両肩を掴んで引き寄せると、その顔を覗き込んで言った。

 「そういうことなら、お前の顔を立てないとな。何しろお前は俺の弟分だからな。」

 若者はそこで言葉を切って、ちょっと考えてから更に言った。

 「よし、じゃあこうしよう。理恵の出発は明後日だ。明日は、みんなで釣りに行こうじゃないか。」

 テッドは驚いて若者を見上げる。ロペスの後ろにいた二人も、思わず顔を見合わせる。

 「但し、明日の釣りには売られている道具は一切使わない。全部自分達で作るんだ。そしてその作った道具だけで釣りをする。昼食後、俺とテッドで道具作りに取りかかるんだ。どうだい、そういうのは。」

 その言葉に、テッドは興奮して頷いた。喜色満面の呈だった。

 「理恵ももちろんいっしょだよね?」

 テッドが確認するように言った。

 「当たり前じゃないの。」

 横合いから、すかさず理恵が口を挟んだ。

 「そんな面白そうなこと、駄目だって言われても手伝わせて貰うわ。」

 その言葉に若者の顔にも喜びの色が走る。

 「いったいどういう風の吹き回しだ。先刻までとは、随分話が違うじゃないか。」

 からかうように男が言った。若者は返事に詰まったが、すぐに慌ててかぶりを振った。

 「いや、先刻のはほんの冗談さ。よく考えてみると、俺の仲間は皆優秀な兵士なんだ。」

 そして更につけ加える。

 「だから、何も考えずに頭から突っ込んで戦況をめちゃくちゃにするなんてことは絶対にない、と俺は思う。何しろボーマルシェがついてるからな。二日くらい好き勝手にさせるのも、奴等にとってはいい訓練さ。」

 「本当にそれだけかね。」

 男が、にやにやしながら混ぜっ返した。若者は、ちらりと恨めし気に男を睨んだ。

 昼食もまた、にぎやかなものに変わった。テッドは何度もはしゃぎまわり、その度にマリアに注意された。昼食が済むと、早速テッドと若者に理恵を加えた三人は道具作りに取り掛かった。

 その日の理恵は大忙しだった。マリアと夕食の準備もしなければならなかったからだ。だが、理恵はそれらの一つ一つを嬉々としてこなしていった。

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