タイトル未定2024/04/08 10:35
都内、高級中華料理店「華月」にて冴島は同業の朝霧と夕食を食べていた。
朝霧から
「相談したいことがある」
と誘われ、これに応じたものだ。
高級店ではあるが、朝霧が支払いをするとのことだったため、冴島は喜んで馳せ参じた。
冴島の住まいは千葉県内だが、遊ぶ時はしょっちゅう都内へ来ている。
朝霧は
「この間の事件、本当に藤堂さんって人の判断で方針が ガラっと変わったみたいだね。俺の協力者も『あの人は 凄いね』って言ってた。」
新聞記者は、よく捜査員と仲良くなって、捜査情報をもらったりするが、捜査員のことを『協力者』と表現する。
捜査員は公務員であり、捜査上知り得た秘密を漏らすことはできないが、記者もそれは承知で、ギリギリの線で情報のやり取りが行われる。
冴島は藤堂が褒められたことが嬉しく
「藤堂班長は、別格だよ、やっぱり」
と明るい声で答えた。
朝霧は
「それで、早速、相談なんだけど」
と前置きした後、
「今度、うち、読日で、スポーツ誌の方に力を入れると言う話が出ていて、僕がスポーツ誌部門の『事件記者担当』になるんだ」
冴島は、それはいいけど、何故それを私に伝えるのだろうと不思議に思いつつ
「そうなんですか?スポーツ誌の事件記事か、それは朝 霧さんの希望部署なの?」
と問うと
「ああ、やり甲斐があると思ってる。それで事件記事担 当はいいけど、僕は『藤堂さん』にスポットを当てて、 事件記事を報道しようと思っているんだけど、冴島さん はどう思うかなというのが気になってるんだ。」
冴島は
「うーん、なるほどねえ。藤堂さんは本当に凄いからな あ!私はおもしろいと思うけど、藤堂さん本人はどうな んだろう?騒がれたりするのを嫌がる人もいるからね え。藤堂さんが構わないと言うのであれば、私は賛成だ けど‥」
と思ったことをズバリと話す。
と、ここで朝霧は席を立ち
「ああ、良かった!冴島さんに反対されたら、いきなり 出鼻を挫かれる形かなあって思っていたんだ。」
そして店の奥の方へ向けて右手を挙げた。すると店の奥から、50代くらいの恰幅の良い男性が、朝霧と冴島のテーブルの方へやって来た。
男は頭を下げると、財布から名刺を出し
「読日の専務取締役の山本と申します。」
等と挨拶してきた。
冴島は名刺を受け取ると
「日日の冴島です。」
と挨拶を返し
「驚きました。このお店は、読日さんでよく利用しているお店なんですね?」
と尋ねると
「いやあ、私もこの店は、たまにしか来ません。美味し いけど、値段も一流な感じですから‥‥」
と気さくな感じで返答する。
そして山本は、空いていた席に座ると
「朝霧から『藤堂さん』の話を聞いていて、野球界の大 谷翔平に匹敵する世界的スターになれるんじゃないかと 思ったんです。それを読日スポーツで実現したいと思っ ているんです。」
また
「しかしながら、朝霧以上に冴島さんのほうが『藤堂さ ん』について詳しいとの話でしたんで、冴島さんにも協 力いただけないかと思っていて、それでこの場を設定さ せてもらった次第です」
と話してきた。
冴島は
「そうだったんですね。藤堂さんに関するエピソードで 私が知っているものは朝霧さんにお教えしますよ。藤堂 さん本人が嫌じゃなければ私は断然、応援させていただ きます。」
と告げたが、山本専務は、少し顔をひきつらせて冴島に告げた。
「いや、そうじゃないんですよ。実はまだ読日の上層部 しか知らないんですが、近日中、日日は我が読日に吸収 合併されるんです。そこで冴島さんにも『読日のスポー ツ誌の事件記事担当』として朝霧と一緒に『藤堂さんの 活躍』を記事掲載して欲しいということなんです。吸収 合併の話が出る前は、冴島さんをヘッドハンティングす る予定だったんです。」
冴島は
「えっ、そうなんですか?知りませんでした。記者の仕 事として藤堂班長のことを記事にできるのであれば、私 としては申し分ありません。」
と答える。
これは冴島にとって、正直な気持ちであった。
藤堂を記事にするという話を聞いていて朝霧のことを羨ましく感じていたのだ。
藤堂ネタなら私が書きたい。
それにしても日日は吸収合併か、話の流れで聞くに至ってしまった事実には驚きだが、私としては、いい記事が書けるのであれば読日でも日日でも構わないと思っていた。
その後は店の料理を楽しみ、店を出た後、朝霧と山本と別れた。
冴島はその当日、藤堂妻と連絡を取り合い、おみあげのケーキ持参で藤堂宅を訪れた。
藤堂は、ライバル来訪の知らせを聞き、将棋盤を用意して待っていた。
そして将棋盤を挟んで、冴島が切り出した。
「今度、スポーツ誌で、『藤堂さんの活躍』にスポット を当てて記事を書こうと思っているんですけど‥‥藤堂 さんはそういうの気にしますか?」
藤堂は
「えっ?俺の記事?いいけど、その前に、その歩待って くれない?」
と早速、待ったをかけている。
新聞記事に自分が載ることについては、何の関心も無い様子だ。
側で成り行きを見守っていた妻は
「うちのくそジジイの記事を書いても冴島さんの評判を 悪くするだけじゃない?」
と妻は自分達夫婦のことよりも冴島のほうを気にしている。
冴島は
「今日、伺ったのは、藤堂班長にその承諾をもらいたか ったからなの。!」
と告げると、藤堂も真面目な顔で
「それは、構わないけど、その銀待ってくれない?」
と答えた。
今回は『待った』が二桁に達する勢いだ。
妻は
「それにしても日日の上層部は大丈夫なの?くそジジイ にスポットをあてるって‥‥上層部に大穴狙いのギャン ブラーがいるとか、そんな感じ?」
などと日日と冴島の心配をしている。
それには
「実は日日じゃないの。もうすぐ報道されると思うけ ど、日日は読日に合併されちゃうの‥‥‥だから読日の記 事で藤堂班長にスポットを当てるの!」
と答えたのだった。
藤堂妻は
「ええっ?読日って、新聞社じゃナンバーワンってイメ ージだったけど、ナンバーワンでもギャンブルするんだ あ‥‥‥ギャンブラーは読日の上層部なんだあ‥‥‥」
と感慨深げにコメントする。
結局、この日も藤堂は愛娘舞の前で3回負け
「次こそは、ラオウの実力を見せてやる」
と負け惜しみを言い、冴島は
「合併の話は一応、まだ内緒でお願いします。」
として笑いながら帰っていった。
そして1週間後、予告通り、読日が日日を吸収合併するニュースが世間を騒がせることになった。
藤堂妻は娘の舞を迎えに行った帰り、自宅の郵便受けに差し込まれていた成田市吾妻地区の回覧板を見ていた。
一カ月後、日曜日に成田市吾妻地区の小学生、小学校入学前の幼児を対象とした「腕白相撲大会」が開催されるというお知らせである。
「優勝者」には、家族での温泉旅行がプレゼントされ、また、「大会を盛り上げたで賞」なる賞が設けられており、受賞者には、成田市内の寿司店と鰻店での食事券3万円分がプレゼントされるとの内容だった。
藤堂妻としては、特に家計が苦しい訳ではないが、密かに立てていた目標に沿う内容の回覧板だったのだ。
それは
藤堂と結婚前まで、舞の身長は保育園内で一番下、 それもダントツのビリという状態だったが、それを何 とかしたい
と以前から思っていたのだ。
藤堂と結婚し、舞もよくご飯を食べて、だいぶ改善されて
ダントツのビリ
は回避出来たと自負しているが、であっても今現在も園児の中で一番背が小さい状態だった。
藤堂妻は
この大会に舞を出すということを口実に、舞にご飯をたくさん食べてもらおう
等と閃いたのだ。
ただ食べるだけじゃなく、相撲で体も鍛えるので丁度良い。
相撲じゃなく、女の子らしいスポーツの大会であればもっと良かったけど、この際、贅沢は言ってられない。
ニヤリ、一人ほくそ笑む藤堂妻であった。
その日、藤堂宅では家族会議が開かれた。毎月、15日が家族会議開催日である。
もちろん藤堂妻は回覧板に入っていたチラシを提示して
「私、舞の格好いいところ、見てみたい」
等と告げると舞も異論無く
「舞、頑張る。」
と答えたのだった。
舞にとって藤堂の妻たか子は、願い事をかなえてくれる「神」のような存在になっていた。
その神が、「格好いいところが見てみたい」というのだ、気合いが入らないわけはなかった。
それでなくとも、舞は、母さんの前で格好いいことをしたいと常々思っていたのだ。
藤堂夫は
「俺もこの日は予定入れないで、ビデオ撮影する」
と意気込む。
藤堂妻も計画通り事が運び、喜んでいる。
どうなることかと思ったけど、すんなりいったな。
くそジジイは、安定のチョロさだったけど、舞もチョロいな
と藤堂妻は思っていたが、その結論はまだ早かった。
本番を終えるまでは安心してはいけなかった。
藤堂親娘は予想の斜め上をいくからだ。
それから、本番まで、舞の子供用のご飯茶碗を内緒でスケールアップさせて大人用の茶碗に変え、時間を見つけては藤堂夫婦が舞に相撲を教えるという日々が続く。
そんな中、藤堂の携帯電話が鳴ってしまう。
藤堂は
できれば、相撲大会が終わるまで鳴ってほしくなか ったな
と思いつつ電話に出ると案の定
「米山です。旭で、遺体が発見されたんだけど、どう もマルエムっぽい。順番で行くと今回は2班なんだけ ど、藤堂も現場に行ってもらえるか?事件の担当検事 は志村検事なんだけど、藤堂夫婦をご指名なんだ」
とのことだった。
その日は土曜日で、家族で家で休んでいたが、妻と一緒に旭に向かうことになった。
車内で藤堂夫は
「再来週、相撲大会だけど、なんか怪しくなってきた な。」
と話しかけるが、妻は
「まあ、こんなもんでしょ。」
と割り切っている。
それも、そのはず、妻は大会の成績より舞の成長(身長及び体重アップ)を目標にしており、ご飯茶碗のスケールアップのおかげか、明らかに、身長は伸びていると感じられる状態であるとともに、体重は2週間ほどで2キロアップしたことが分かったからだ。
藤堂妻にとっては、もう目標達成の状況なのである。
旭市は成田市から1時間ほどかかる。
藤堂妻の実家がある地区だ。
現場は旭市仁玉100番地の世良方とのことである。
世良方は海岸沿いに位置し、海岸沿いの大通りは100メートルほど、捜査車両が列を作っている。
基本農村地帯であるため、コインパーキング等は無いが、逆に農村地帯であるが故、道路に多数の車両が駐車する状況でも、通行によほど邪魔にならない限りスルーされているのが現状である。
旭市は、今言ったように農村地帯で、市内を縦断する国道126号線沿いに大型の店舗、商業施設等が並んでいるが、この国道を1本入れば、住宅街と田畑が広がっている状態となる。
現場は、住宅街ということではなく、海岸沿いの大通り沿いに点在する別荘地帯の一つと言ってよい場所である。
藤堂夫婦は車両を路上駐車させて、捜査車両が並んで駐車してある先へ向かう。
交差点の角に佇む木造2階建ての家屋に規制線が張られている。
藤堂は、警察バッジを規制線前に立っている制服の警察官に示し
「捜査一課の藤堂です。刑事課の方はいますか?」
と尋ねる。
即座に制服の警察官は無線機を使い
「ただいま、捜査一課の方が来ています。規制線の中に 入れてよろしいか?」
として確認をとっている。
すぐ、許可は下り、制服の警察官は、黄色の「立入禁止」の文字が記載されたテープを持ち上げた。
藤堂夫婦は規制線テープをくぐり、家屋へ向かう。
家屋へ向かう途中は、すでに足跡採取を終えた場所にビニールシートが敷かれているので、そこの上を通る。
ビニールシートの上を歩いていると、顔見知りの機動捜査隊員永田警部補に声をかけられた。
「ご苦労様です。今回も藤堂班長ですか?」
藤堂は
「本当はうちの班じゃないんだけど、行って様子見て 来いって言われました。」
すると永田警部補は笑いながら
「どうりで。1班じゃなく、2班の人がもういっぱい 来てますよ。」
と応じる。
そして
「なんか話によると千葉県だけじゃなく、警視庁も来 るらしいですよ!」
とのことを告げてきた。
藤堂は知らされてなかったので、
「はっ?警視庁が何で?冷やかしか何かですか?それ とも嫌がらせとか?」
と問うと
「何で東京からわざわざ冷やしに来るんですか?バカ なんですか?」
と後ろを歩いていた妻の辛辣なツッコミが入る。
永田は笑いながら
「どうも、殺された東京在住の有名人で、この家は、 その人の別荘らしいです。それに数日前に行方不明と 言うことで届け出されていた方で、事件に巻き込まれ た可能性が高いと見ていたという風に聞いています。
この有名人、世界的な音楽家らしですよ。」
と申し立てた。
そして
「また、最近、変な映画でも見始めましたか?」
と藤堂に尋ねてきた。
前回、前々回のイメージが残っているようだ。
「いやあ、今度、娘が相撲大会に出るんで、『北斗の 拳』とか『あしたのジョー』とかしか見てないんです よ。」
と藤堂は答えるが、妻には『相撲大会』と『北斗の拳』及び『あしたのジョー』の繋がりが全く見えない。
永田もただ笑うだけである。
藤堂は
「そういえば、昨日は『風の谷のナウシカ』を見た よ。」
と付け足したが、やはり『相撲大会』との関係は見出せない。
妻が呆れ出したところ、家屋の玄関へ到着した。
まだ鑑識作業中である。
藤堂夫婦は、いつものエプロン、白手、下足カバー等を身に付けると鑑識作業の邪魔にならないように屋内へ入った。
玄関入ってすぐの廊下は隅に埃が溜まっている状態だったが比較的整然としている。
ただ、廊下を10メートルほど進んだあたりに、直径約7センチメートル大の円形筒状の目覚まし時計が10時04分を指している状態で落ちている。
永田の案内で、家屋1階、南側の10畳間の前まで来ると、永田が
「遺体はこの部屋の中です」
とだけ告げ、襖を開けた。
10畳間の中、中央に白色の毛布が敷かれ、その上に仰向けで50〜60代の男性が横たわっている。
その男性の上、腹部には、青色の毛布が掛けてある。
藤堂は遺体の前で手を合わせ一礼すると、いつもの様に遺体の観察を始めた。
男性は白色ワイシャツに灰色スラックスズボンといういでたちである。
パッと見は、寝ているだけの様子に思えるが、男性の首には、水平に一条の索条痕が見て取れる。
また両耳下の首筋に、引っ掻き傷にも似た表皮剥奪を伴う出血箇所を認める。
俗に言う「吉川線」と言われる傷だ。
この傷がある場合、殺しの可能性が高いと言われる。
両手指の爪には皮膚片が挟まっている。
おそらく、被害者自身の首の皮膚であろう。
また左口角から左耳に向かって1センチメートルほどの白色の涎痕を認める。
次いで、旭警察署刑事課員の助けを借りて被害者の着衣を脱がせると全身を確認した。
そして、遺体の背部を確認するため、遺体を横に向けると、背面非圧迫部に暗紫赤色の死斑が確認できたが、一箇所、直径7センチメートル程の円形の変色部位を認めた。
先程の暗紫赤色の死斑とは明らかに色合いが異なっている。
淡い色合いになっているのだ。
背部の変色箇所が接触していた毛布上には、異物が置かれていた形跡は無い。
毛布の下の畳上にも異物等は認められなかった。
現在時、午後1時35分、室温は8度であるが、直腸温は12度となっていた。
死斑や硬直、直腸温測定結果からすると、昨日午前11時から午後1時くらいまでの間に死亡したと思われる。
藤堂は、毛布の下や10畳間に置かれた家具等を確認すると、他所の部屋も隈なくチェックし、今度は屋外、庭先等を見て回る。
そうこうしていると、旭警察署刑事課員の大友から
「藤堂班長、今、警視庁の方が被害者の関係者と一緒 到着しました。」
との連絡が入った。
遺体のある10畳間に戻ると、家族と思われる40代の女性が遺体の前で泣き崩れている。
またもう一人、50代のスーツ姿の男性が、両手の拳を握りしめ、立ち尽くしている。
そして、いかにも捜査員といういでたちの3名が遺体を取り囲んでいる状態だ。
いかにも捜査員といういでたちの3名のうちの一人が、藤堂に向け挨拶してきた。
「警視庁の間島です。亡くなられているのは
世界的な音楽家
住所 東京都新宿区新宿1-1-3タワーマンショ
ン1013号室
氏名 世良 明 52歳
です。
3日ほど前から行方不明になっていて、捜索願いが
出され、探していました。
この家の持ち主も世良さんですが、この家は別荘と して使っていたようです。
行方不明になった時の状況から、誘拐が疑われたの で、秘匿で捜査していました。」
また、泣き崩れている女性を指差し
「あちらの女性が、奥さんの瞳さん42歳です。」
そして、立ち尽くしている男性を指差し
「そちらの男性が被害者の友人で、
世界的なピアニスト
住所 東京都新宿区新宿1-1-3タワーマンショ 790号室
氏名 坂本 竜 52歳
です。
今日の朝、坂本さんの携帯電話に、被害者の携帯電 話で被疑者と思われる男から
世良を殺した
旨の電話があり、居所を尋ねたところ『千葉にある別 荘』との内容だったため、110番通報して遺体発見 となりました。話した内容はそれだけだそうです。」
等と説明した。
藤堂は間島に
「誘拐と思われたのは、どう言った経緯からです か?」
と尋ねると
「行方不明となった翌日に、都内にある世良の事務所 に封書が届いたのです。
その封書には
『世良を誘拐した。金を用意して連絡を待て』
と書かれていました。雑誌とかの切り抜きを使い作ら れたものです。」
とのことだった。
また間島は
「この坂本さんが誘拐される前、世良さんに最後に会 った人物ということで、事情を説明し、協力をいただ いていたのです。昨日は岩手県でコンサートを実施し ていましたが、それを終えて都内の自宅に戻って、今 日、起きた朝に犯人からの電話があったとのことで す。」
との内容を告げた。
流石に警視庁の刑事らしく、要点のみ、簡潔に説明している。
藤堂は、東京から訪れた関係者2人に事情聴取を試みる。
先ず、被害者の奥さん世良瞳である。
藤堂は
「誘拐の関係について教えてください。」
と促すと、奥さんの瞳さんは
「夫は、2月23日金曜日、東京の自宅から午前8時 ころ、東京都世田谷区にある事務所へ向かったので す。私が生きてる夫を見たのは、この時が最後になり ます。その日、仕事を終えると友人の坂本さんと夕食 を食べて、少し飲んだら帰る旨、携帯電話のラインで
連絡があったのですが、結局帰ってこず、翌日朝、坂 本さんに電話で聞いたところ、坂本さんは同じマンシ ョンに住んでいるのですが、タクシーでマンション前 まで一緒に帰ってきたが、その後は分からないとのこ とでした。どうしたんだろうと心配していましたが、 その日、つまり24日の午後1時ころに私の自宅マン ションのポストに、封書が投げ込まれているのが分か ったのです。内容が内容だったので知り合いの警察官 に相談した上、警視庁の刑事さんに連絡したのです。
それから警視庁で捜索願の届け出やら、交友関係の調 査、誰かに恨みを買っていなかったか等々捜査協力を
していました。もちろん、犯人からの連絡がある可能 性がありましたので、昨日はずっと自宅におりまし た。そうしたところ、今日、坂本さんに『世良を殺し た』という電話があったとのことで、しかも『千葉に ある別荘にいる』という内容だったので、警視庁の刑 事さんに顛末を話し、坂本さんと一緒に今来たので す。」
と返答した。
また藤堂が
「それでは、最初の封書に少し書かれただけで、犯人 からの具体的な要求は一切無かったわけですか?」
と質問すると
「そうです。要求は全くありませんでした。」
とのことであった。
次いで藤堂は
「廊下に時計が落ちていたんですが、、別荘に元々置 いてあったものですか?」
と質問すると、それには
「あれは、ずいぶん昔、夫と付き合い出して初めての 誕生日に話が夫にプレゼントしたものです。理由は分 からないんですけど、夫はいつも持ち歩いているよう でした。合鍵をこの別荘の近所の人に預けていたので
余計な物は別荘には置いてありませんでした。」
との回答だ。
更に、藤堂が
「この別荘には、よく来るんですか?」
と尋ねると
「年に1回来るか、来ないかという程度です。元々避 暑地として購入したものですが、東北大震災があって からは足が遠のきました。それからコロナもあって尚 更です。ただ、コロナが収束してきた様子となったの で、昨年は何年振りかで、そちらの坂本さん家族と一 緒に訪れたのです。」
と申し立てた。
次いで藤堂は
「別荘の鍵は誰が管理していたんですか?」
と問うと
「別荘の鍵は自宅で保管しています。他にも、お隣に
池田さんというお宅があるんですが、池田さんの奥さ んに、何か緊急の案件があった時のためということで
合鍵を預けてありました。特に金目になるようなもの
は置いてありませんし……」
とのことだった。
すると藤堂は、機動捜査隊の永田を向いて尋ねる。
「遺体発見時の状況はどうだったんですか?」
と確認すると永田は
「110番で、殺した云々の話が出ていた関係で、緊 急案件ということで池田さんに合鍵を借りて中に入り ました。」
旨申し立てた。
藤堂が世良瞳に向かい
「分かりました。ありがとうございます。」
と頭を下げると思い出したように
「そう言えば、昨年、坂本さんと一緒に来た時、鍵を 無くして、合鍵を複製しています。無くした鍵は見つ かっていません。」
と付け足した。
それから藤堂は、被害者の友人という坂本竜に事情聴取を始めた。
「世良さんの友人と言うことですが、いつから、どう言 った付き合いですか?」
と質問すると
「同じ音大の同級生です。私はピアノで彼はマエスト ロ、つまり、指揮者ですが気があって当時から仲良くし ていました。30年くらいの付き合いになります。自宅 も同じマンションですし、奥さんが話したように、一緒 にこの別荘とかも来ています。所属している事務所も『 東京芸団』と言って同じです。普段もよく一緒に飲みに 行ったりしていました。」
と答える。
藤堂は感心したように
「ほう、マエストロ、それはどの部分ですか?やはりマ グロですか?」
等と言い出した。
すかさず、後ろに控えていた妻が顔を真っ赤にして
「班長!マエストロって寿司ネタじゃないです。オーケ ストラの指揮者とかのことです。」
とツッコむ。
話の流れから、会話に寿司ネタが登場する場面ではなかったはずだと言うのに『マエストロ』を寿司ネタの中トロ、大トロの一種と勘違いしたらしい。
仮に知らなかったとしても、今の発言はあり得ないが……
質問の意味が分からず首を傾げていた坂本は、ようやく、藤堂の勘違いに気付き、笑い出した。
「ははは、すみません!普通の人ってマエストロなんて 単語、あんまり使わないですよね」
と逆に謝ってきた。
「流石ですな、藤堂はん!そのボケは儂の予想の遥か上 を行ってたんでツッコめませんでしたわ。それにしても やっぱり嫁はんはするどいツッコミでしたな。いや、久 しぶりに藤堂節を聞けてなんか安心しましたわ。」
いつの間にか、招集がかかって現場に来ていた赤川が感心している。
藤堂妻は褒められたが、顔を真っ赤にして沈黙を守っている。しかし、流石の藤堂は、何事も無かったように話を続けた。
「遺体をパッと見た感じ、殺害されたのは昨日っぽいん ですけど、昨日はどちらにいらしたんですか?」
と尋ねる。
すると、坂本は真面目な顔に戻り
「ああ、アリバイですか?先程少し話しましたが、岩手 でピアノコンサートがありまして、岩手の方にいまし た。確か『北上』という地名だったはずです。東京帰っ てきたのは昨日の午後8時ころです。」
と答えた。
藤堂は、再び感心したように
「ははあ、ピアノコンサート!小学校の時、休み時間に 友達によくやられましたよ!ウエスタンラリ……」
と言い出したところで妻の
「プロレス技じゃねえよ!」
とのツッコミが入る。
妻の顔には
お前のたわごとなど最後まで言わせねえよ!
との意気込みが感じられた。
赤川は
「藤堂はん、今のは流石に無理があります。『ート』し か合ってまへんし……」
やり取りを聞いていた警視庁の捜査員は皆、呆然としている。
事件現場、しかも殺人事件で、こんな聴取が許されるのだろうかと……
また藤堂は
「岩手までの足は何ですか?電車ですか?」
と尋ねる。
坂本は
「昔は免許持ってたんですけど、今は更新してなくて切 らしています。大学生だった頃は車で遠出したりもしま した。今は車も持ってません。新幹線で岩手に行きまし た。」
と答えた。
藤堂の聴取はまだ続く。
「坂本さんはピアノが上手なわけですね?」
と尋ねるが、妻が
「あたりめえだ!世界的なピアニストって説明あっただ ろ。上手どころの騒ぎじゃねえ!」
と口を挟む。
しかし藤堂は止まらない。
「実は、うちに5歳になる娘がいて、何か習い事をと考 えているんですが、時間があればピアノを教えてもらっ ていいですか?」
公私混同も甚だしい質問を繰り出した。
坂本は苦笑しつつ、返答に困っている。
見かねた妻が坂本に助け舟を出す。
「このバカの言うことは気にしないでください。何か 変なものでも食ったのかもしれないんで……」
すると藤堂は
「変なものって、俺は、お前の作った料理しか食って ないぞ。」
と答えるが、ふと見ると妻は鬼の様な形相で藤堂を見つめていた。
赤川は、腹を抱えて笑っている。
警視庁の面々は呆れ返っている。
更に藤堂は坂本に
「世良さんに最後に会った時のことを教えて下さ い。」
と尋ねる。
坂本は
「本人には変わった様子はありませんでした。事務所 近くの居酒屋『しぐれ』で一緒に飲み、タクシーで一 緒にマンション前まで乗ってきたんです。午後7時か ら飲み始めました。マンションに着いたのは午後8時 半ころになります。だから1時間くらい一緒に飲んだ ということです。マンション前の歩道で世良とは別れ ました。マンションの部屋によって最寄りのエレベー ターが異なるため、互いに自宅に近いエレベーターへ 向かったはずでした。もちろん、自宅マンション付近 に不審な人物でもいれば声をかけたりしたかもしれま せんが、少なくとも、私は気付きませんでした。」
と申し立てた。
また藤堂が
「今日の朝にあったと言う電話について教えてくださ い。」
とすると
「今日の午前8時37分、世良の携帯電話から着信が ありました。その時には、もう誘拐のことも知ってい たので、驚いてすぐ電話に出て『世良か?今どこにい る?』とこちらから声をかけたのです。するとボイス チェンジャーって言うんですか、変な声で『世良を殺 した』と言ってきたんです。私は、びっくりして後先 考えず『お前は誰だ、どこにいる?』と聞いたので す。当然相手は名乗りはしなかったんですが、『千葉 の別荘にいる。お前も場所は知っているんじゃない か?』と言ってきたんです。それを言い終えると電話 は切れました。私は自分の耳に自信があるので、他に 何か情報がつかめないかと耳を澄ませましたが、特に 情報はつかめませんでした。」
とのことであった。
藤堂は、世良の奥さんに向かい
「旦那さんの使っていた携帯電話のキャリアは何です か?」
と尋ねると
「ソフトバンクです。」
と即答してきた。
坂本は、次に「携帯電話を見せてくれ」と言われると思ってか、先回りして自分の携帯電話を取り出し、発着信画面を表示させた。
確かに午前8時37分に被害者の携帯電話からの着信が認められる。
一通り、聴取を終えると、藤堂は屋外の大通り沿いを歩き出した。
妻もその後ろに続く。
100メートルほども歩いたころだろうか、海岸沿いに、草の生い茂った公園があった。
その公園内には3つほど青色ビニールシートで作ったテントが設けてある。
そのテントは浮浪者らのテントで、合計4名ほど居た。
皆、60〜70代の男性である。
藤堂は、そのうちの一人に声をかけた。
「こんにちは。警察の者です。この近くで事件があった んで、聞き込み捜査をしています。」
すると
「えっ?警察?事件って何の事件だい?って言っても俺 は先月からここに住み着いているだけで、元々、地元じ ゃないからよく分からねえよ!」
と答えてきた。
藤堂は更に
「事件があったのは、向こうの世良さんって人の家だ。 旦那さんは先月からかい?他の人は?」
と聞くと、声をかけられた男が代表で答える。
「皆、先月からだ。昨日まで50代の『満留』って奴も 居たんだが、どこか行っちまいやがった。」
とのことだ。
藤堂は
「へえ、満留って男が昨日からいなくなったんだあ、な んでかな?」
と尋ねると
「分かんねえよ。ただあいつは、元々付き合い悪かった からなあ。ひょっとしたら2〜3日してひょっこり戻っ てくるかもしれねえけど……テントたたんでリュックに 入れてどこかへ行ったよ」
また脇でやり取りを見ていた2人も
「そうそう、俺らと一緒にされたくねえって顔して た。」
「浮浪者なりたてでさあ、まだ有効期限内で更新の必要 の無い運転免許証なんて持ってたよ。運転免許証持って れば、その気になれば金借りたりできるだろうに……」
「昨日の昼は、どこかでご馳走になったんだか、いい匂 いさせてた」
「いっぱいご馳走もらったんなら、少しくらい分けてく れてもいいのに……」
との話だ。
藤堂は浮浪者らとの話を終えると、世良宅に戻り、妻に言った。
「今日はもういいだろう。帰ろう。」
そして
「いつもは米山補佐に連絡してから帰るけど、今回はど うしようか?」
と言い出したが、あくまで自分らは米山補佐の部下ということで米山補佐に連絡して帰ることにした。
米山補佐に連絡すると補佐は
「分かった。梶山補佐には俺から言っとく。明日、第1 回目の捜査会議だが警視庁も加わるらしいぞ。」
と申し添えたのだった。
翌日2月26日午前9時から、捜査本部の会議が始まった。
旭警察署の4階道場にパーテーションで区切られた簡易の捜査本部が設けられた。
旭警察署から地域課員20名、刑事課員7名、他課4名の38名、旭警察署の周辺署から24名、機動捜査隊から12名、刑事総務課から12名、捜査一課から14名の総勢100名の体制だ。
捜査一課の14名は「捜査2班」12名と「捜査1班」の藤堂夫婦である。
ただ、警視庁の捜査員も25名来ている。
当初から誘拐事件として捜査していた新宿警察署が第一捜査本部、旭警察署が第二捜査本部と言う形となっている。
また、殺人事件の捜査本部ということで、例によって担当検事である志村検事と東京側の検事、田中検事も同席している。
旭警察署長と捜査一課の課長補佐である捜査2班の梶山が挨拶した後、梶山から事件の概要についての説明がなされた。
その後、捜査2班の大場から捜査方針と捜査の割振りについて指示がなされることになったが、事件の発端は新宿であった誘拐事件であるため、梶山はまず、警視庁の捜査員に誘拐事件の経緯について説明を求めた。
会議の進行役である大場が
「警視庁さん、誘拐事件の経緯について説明お願いで きますか?」
と話を振ると警視庁の捜査員である間島が挨拶した。
昨日現場に現れた捜査員である。
昨日は、藤堂夫婦とも知らなかったが間島は警部である。
千葉県では警部は主に管理職で、捜査の前面には出ないが、警視庁では警部の捜査員が前面に出て捜査する。
間島は
「警視庁の間島です。今回の事件は警視庁の新宿警察 署管内で発生した誘拐事件が発端です。被害者の世良
明は2月23日金曜日午前8時ころ、東京の自宅から
東京都世田谷区にある事務所に向かい、仕事を終えて 友人である坂本氏と一緒に食事し、坂本氏と一緒に午 後8時30分ころ、タクシーで帰宅したものの、タク シー降りてからの消息が不明となっている状態でし た。その翌日、つまり2月24日の午後1時ころに、
世良氏の自宅マンションポストに、封書が投げ込まれ ているのが分かりました。封書の内容は『世良を誘拐 した。金を用意して連絡を待て』というものです。そ して昨日2月25日、午前8時37分頃、友人の坂本 竜の携帯電話に『世良を殺した』という電話があり、 その時の電話の会話で『千葉にある別荘にいる』旨の 内容があったことから確認しましたところ世良さんの 遺体を発見したのです。うちとしては、世良さんの別 荘を犯行場所使用した点等を含め、被害者に近しい者 の犯行だと思っています。」
と説明した。
続いて梶山補佐は、筆頭班長の大場に合図すると、大場班長が
「それじゃあ、今回、うちの2班と一緒に捜査するこ とになった1班の藤堂、犯人像について何か言うこと はあるか?」
と尋ねた。
藤堂は、例によってズバッと言い放った。
「いやあ、俺が改まって言うことでもないことだと思 うけど、被疑者は音楽家、ピアニストの坂本でしょ う。」
そろそろ、慣れてきた藤堂妻は俯いて沈黙しているが、旭警察署員、警視庁の面々は呆然としている。
藤堂妻の横の席に座っていた警視庁の間島警部は
「はっ?何て?」
と呟いている。
藤堂妻は
そりゃあ、そうだろうな
と思いつつも、なんだかかわいそうになってきた。
道場の皆は、藤堂の言動を理解すると、どよめきが起こり、騒然となった。
そして今回も藤堂は、とどめのセリフを言い放った。
「じっちゃんの名にかけて間違いありません。」
捜査2班の面々からは笑いがこぼれだした。
この時、藤堂妻は違和感を覚えたのだが、ツッコミ役の赤川の反応が無い。
藤堂妻が赤川に目を向けると、反応が全くないというのではなく、顔を真っ赤にして何かをこらえている様子だ。
志村検事も吹き出して笑い出している。
それから進行役の大場は
「それじゃあ、あんまり意味はないかもしれないけど 一応約束事だから聞くよ、根拠は?」
と尋ねると、藤堂夫は待ってましたと言うようにほざきだした。
「あの坂本と言う男は、世界的なピアニストって聞い たから、娘にピアノを教えてくれないかって頼んだ ら、笑って俺の頼みをスルーしたんだ。親の子を思っ ての頼みを鼻で笑ってスルーするなんて……あの性格 の悪さは犯人に間違いない!」
と……
捜査会議はハチの巣を突ついたかのように大騒動となった。
志村検事は顔を赤くして涙目になって笑っている。
志村検事の隣には東京の田中検事さんが座っていたが、志村検事に向かってひそひそと話し出した。
「あれが、志村検事のです推しの捜査官だね?」
内心イラっとしているだろうに、感情を押し殺して平然としている。
流石である。
志村検事は
「そうです。千葉県が誇るスーパー天才捜査官で す。」
等ととんでもないコメントをしている。
しかし、ここで管轄の旭警察署の刑事課員から
「でも、確か、坂本は事件の日、岩手でコンサートを してたはずです。アリバイがあります。」
と至極真っ当な反論が出た。
すると藤堂は
「はっ?アリバイ?そんなん知るか!」
等と大声で言い放ち、場の収拾がつかなくなった。
道場のあちこちで笑い声が響く。
そしてプハッという吹き出し笑いと共に、とうとうあの男も……
「藤堂はん、あんたは流石や!補佐から『捜査会議で あんまり騒ぐな!』って釘刺されたから、今まで黙っ て聞いてましたけど、もう辛抱たまらん!警視庁さん と合同やさかい、少しはおとなしくなるかと思った ら、今までで一番おもろいやないか!ダウンタウンの 年末特番『笑ってはいけない』を思い出してしまった わ。アリバイなんか知るかって名言やわ。あんたは全 国のミステリーファンに挑戦状を叩きつけたようなも んや。」
ついにツッコミを入れてきた。
もちろん赤川である。
捜査会議は今回も笑いの渦に叩き落とされた。
進行役の大場は、笑いの渦の中、なんとか気を取り直して
「志村検事、何かありますか?」
と話を振った。
志村検事は笑いながらも
「相変わらず、すごいですねえ。」
と前置きしつつ、藤堂妻に向かって
「奥さんの方に、根拠の方、聞いてもいいかしら?」
と尋ねてきた。
藤堂妻は、前回と同じ展開だったので、予想していた。
藤堂妻は席を立つと
「これは、うちのくそジジイと一緒に捜査したことか らの私の判断ですが……」
と前置きして
「やはり被疑者は坂本だと思います。理由としては、 不自然なくらい、坂本さんがキーマンになっているこ とです。世良さんと最後に会ったのも坂本さん、被疑 者から『世良を殺した』という電話を受けたのも坂本 さんです。アリバイさへ無ければ、すぐにでも容疑者 というか重要参考人として事情聴取すべき人物です。 アリバイにしても、今回の場合、あまり意味がありま せん。というのも、遺体が移動された形跡があるから です。」
として話し出した。
捜査会議は先程とは別の意味で騒めき出した。
やっぱり坂本なのか
こりゃ、マスコミ大騒ぎだぜ
遺体が移動されてたって?
等の声が聞こえる。
そして藤堂妻が
「つまり、本当の犯行現場は仁玉ではないということ です。殺してから遺体を仁玉に運び入れられた形で す。解剖所見ではっきりするとは思いますが、背面
非圧迫部に死斑の転移と認められる箇所がありまし た。実際の現場では背中というか腰の辺りに何か物が 置かれていて圧迫されていたけど、仁玉の別荘に移動 させた際、圧迫が無くなり死斑が発現してしまったの です。置かれていた物と言うのは大きさから考えて別 荘の廊下に落ちていた目覚まし時計と考えるのが妥当 だと思います。」
と話したところで、大場が尋ねる。
「じゃあ、本当の現場はいったいどこなんだ?」
それには
「これは、これからの捜査で明らかにしなければいけ ないことですが、おそらく車内です。被害者は車のト ランクに押し込められた状態で、首を絞められたと思 われます。坂本は岩手まで新幹線で行ったと言ってま すが、レンタカーか何かで向かったと考えると全て辻 褄が合います。現在坂本は運転免許を持っていません が、大学時代は持っていたようです。これは既に確認 済みです。よって坂本は、車の運転ができます。そし て車のトランクで殺害したからこそ、毛布の下にあっ た目覚まし時計に気付くことが出来なかったのです。 奥さんの話では被害者はいつも持ち歩いていたとのこ とです。それと別荘の鍵ですが、本人が昨年、世良さ んと一緒に来たことがあると言っていましたし、その 際、世良さんが鍵を紛失しています。よって坂本さん がその鍵か、その鍵を複製した物を持っていると思い ます。」
と答えた。
更に
「死斑の転移がある以上、アリバイはあってないよう なものです。逆に完璧なように見えるアリバイを持つ が故に坂本が疑わしいと言わざるを得ません。そして 今回のキモはここです。遺体の発見に至った経緯は、 坂本さんに『世良を殺した』旨の電話が入って奥さん と警察に連絡し、警視庁から旭警察署に安否確認の依 頼がなされた結果になります。逆に言うと本来、世良 さんを殺したことを連絡することは本当に誘拐犯がい た場合何のメリットもありません。当初、身代金目的 の線が考えられたようですが、タチの悪い誘拐犯な ら、実際誘拐した人物を殺していてもそれを秘匿し て、何食わぬ顔で金を要求するケースだってありま す。つまり、坂本さんの証言がなければ、いまだに遺 体発見にすら至っていなかったはずです。では、何 故、坂本さんは奥さん経由で警察に連絡したのかと言 うと、せっかく、完璧とも思われるアリバイが手に入 ると言うのに、遺体発見が遅れれば死亡日時がはっき りしなくなってしまうことを恐れたと考えると辻褄が 合います。」
と申し添えた。
前回同様、道場は静まり返った。
皆、藤堂妻の話に聞き入っている。
それから、藤堂妻は夫の方を向いて
「私は今言った感じだと思うけど、どこか変なところは あるかな?」
と尋ねる。
藤堂夫が
「今言った通りだよ。ただ事件解決には大きな壁があ る。この事件には共犯被疑者ではないが、協力者が不可 欠なんだ!」
と告げると、再び、道場はどよめいた。
藤堂妻は
「うん、分かってる。レンタカーを借りるには運転免許 証を持った人の協力不可欠ってことでしょう?」
と答え、夫は
「その通りだ。そいつを見つけることができるかどうか が勝負だ。」
と答える。
志村検事は「なるほど」と言って頷く。
ここまで来たところで、大場が会議のまとめに入る。
「警視庁さんは、警視庁さんで納得できない部分がある かもしれませんが、うちは、今話に出た藤堂夫婦の推理 の線で捜査を進めます。警視庁さんは警視庁さんで捜査 を独自にやっても構いません。ですが、合同捜査ですの で、情報の共有だけはお願いします。」
と高らかに告げ、警視庁の間島は
「分かりました」
として、これに応じた。
捜査会議終了後、藤堂夫婦は大場のところへやって来た。
「坂本の協力者について、大場の力を借りたい」
と藤堂夫は単刀直入に申し出た。
そして
「今回の事件は早期に解決したい。再来週、舞が相撲大 会に出るんだ。見に行きたい。背に腹はかえられない、 お前の実力を見せてほしい」
と公私混同的な発言をいけしゃあしゃあと言ってのけた。
ある意味流石である。
大場は
「俺の実力?」
と首を傾げたが
「お前の家族の実力は、お前の実力でもある。」
と藤堂夫が言うと
「そういうことか」
と納得し
「でも、協力者って言うのは目星ついてるのか?」
と尋ねてきた。
そこで、今度は藤堂妻が
「この近くの公園で、『満留』という浮浪者がいたよう なんですが、昨日から行方をくらませているということ です。旭警察署の地域課の資料を確認しましたところ、 人定が割れました。職務質問された時の記録が残ってい ました。免許証上の人定事項は
本籍 福島県福島市
住所 千葉県旭市三川500番地
氏名 満留 礼次郎
生年月日 昭和46年10月20日生
で免許は令和7年まで有効です。」
と付け加える。
大場は
「分かった。今日中に免許証写真を入手してくれ」
と告げ、席に戻っていった。
藤堂妻は「大場の実力」の意味が分かっていなかったが言われた通り写真入手の段取りを取る。
藤堂妻が、ふと、警視庁の間島警部を見ると電話で捜査会議の内容を上司に連絡している様子で、しきりに
「申し訳ありません」
と連呼し頭を下げている。
それはそうだろう。
千葉県側の判断によれば、被疑者は警視庁で捜査協力を依頼していた人物で、警視庁は被疑者に踊らされていたと言ってもいい状況だ。
大失態と言われても仕方が無い。
旭警察署は千葉県の中でも田舎の部類に入るCクラスの警察署である。そのCクラスの警察署に面子を潰された形になる。
しかも、これからすぐ警視庁側で報道発表の記者会見が行われる予定だ。
翌日2月27日以降の捜査の進展は物凄いものがあった。
この日、遺体の解剖が行われ、死因は頸部圧迫による絞殺、死亡推定時刻は2月25日午後0時丁度の前後1時間以内、腰部の変色部位も死斑の転移と認められた。
また、被害者の体内からは睡眠薬の成分が検出された。
両手の指の爪に残っていたのは、被害者自身の皮膚片と認められるがDNA鑑定を実施中とのことで結果は後日明らかになる。
総合すると、睡眠薬を飲まされトランクに押し込められた被害者が首を絞められ、一旦、意識を取り戻し、抵抗したため吉川線が残ったが死亡したものと推察できた。
また旭市仁玉地区の地取り捜査で、世良方別荘近くにある飲食店「仁玉飯店」で事件当日の午前11時30分頃、ラーメンと餃子の出前注文がなされ午後3時頃、食器の回収が行われたことが分かった。
これは、殺害現場が旭市ではなく、岩手県であることを否定するようにも思えたが藤堂夫の説では「アリバイを完璧にする意味と協力者に対する報酬の一部でもある。」とのことであった。
浮浪者たちの言「いい匂いをさせていた」にも合致する。
そして翌日、2月28日にはレンタカーが判明した。
旭市干潟地区のレンタカー会社で、2月22日から1週間、満留礼次郎にレンタカーとしてクラウンが貸し出され、2月26日の午前中に返されていることが判明したのだ。
また、3月3日には被害者の携帯電話の過去の位置探査の捜査が行われ、被害者の携帯電話から坂本の携帯電話に発信された際の発信位置は東京都新宿区新宿で坂本の自宅直近であることも判明した。
上がってくる情報は全て藤堂夫婦の推理を裏付ける結果となっていった。
そして3月7日に決定的な進展があった。
協力者、満留礼次郎を確保したのだ。
確保したのは、捜査2班班長の大場である。
藤堂妻は夫に
「本当に大場さんが見つけたね!ところで大場さんの実 力って何なの?」
と尋ねると
「大場の母親って知ってる?」
と逆に質問を返された。
妻が知らないと言うと、何故かドヤ顔をしつつ
「大場の母親は大場流華道の家元をしている。全国的な 華道の流派で千葉県でも多くの支部があるんだ。大場に 探して欲しい人の写真でも渡せば、華道を習っている人 を通じて、結構な確率で見つけてもらえるんだ。大場の 母親は『大場に手柄を立てさせる』のを生き甲斐にして いるみたい……」
と答えたが、何故藤堂夫がドヤ顔をするのかは不明だ。
3月8日午後7時になると捜査本部に赤川が顔を出した。
どうも満留の事情聴取を行っていたらしい。
赤川は、道場に入ってくるなり
「藤堂はんの言うとおりや。裏取れましたで。レンタカ ーを坂本に貸して、3万円もろたそうや。それに当日は
別荘に行って玄関先に置かれたラーメンと餃子を食べた ことで1万円もろたそうや。お金の支払いは別荘の郵便 ポストに入れてあるから大丈夫って説明があったそう や。そんであとは翌日、レンタカーを返して終了や。も う調書化も終わりましたで。坂本の面も覚えていて、坂 本の写真もあっさり引いたんで、それも調書化しました で。」
と申し立てた。
ここまで来たところで志村検事が口を出す。
「ありがとうございます。こんなに速やかに捜査が進む とは思っていませんでした。エックスデイは警察さんの 都合で結構です。決まったら教えて下さい。」
と言ってきた。
しかし、補佐の梶山は、すぐさま
「分かりました。明日と明後日で捜査本部の半分ずつ休 みをとらせるので、エックスデイは月曜日の3月11日 でどうでしょう。」
と即答した。
志村検事は、笑いながら
「分かりました。そうしましょう。」
とのことで話はまとまった。
すると梶山は
「聞いての通りだ。明日と明後日で半分ずつ休む。大場 と藤堂夫婦は日曜日休みを取る予定だから、日曜日に俺 が出る。そのほかは随時、庶務へ話をしてください。以 上、解散。」
とのことで捜査会議はお開きとなった。
会議終了後、藤堂は大場に向かって
「お前も日曜、休みか?」
と尋ねると
「俺の息子も相撲大会出るんだよ」
とのことであった。
通常、殺人事件の捜査本部事件で被疑者逮捕前に休日がもらえるのは珍しい。
もちろん、藤堂夫婦は大喜びだ。
相撲大会当日、3月11日、日曜日、会場である吾妻小学校校庭は異様な雰囲気に包まれていた。
舞の出場する小学生未満の幼児部門には16名が出場する。
男子は普通に上半身裸でまわしを着用するが女子は上下体操着でオーケーだ。
16名の中で女子は1名、舞だけである。
藤堂と妻、そして舞も気合十分だ。
簡単な開会式を終えると早速1回戦が始まった。
舞は2試合目である。
会場は50〜60代の者が多い。
唯一の女子、舞が土俵に上がると会場は盛り上がり「頑張れー」の声があちこちからかかる。
大歓声に気を良くしたか、マイは腰に手を当てていたが、徐に右手を挙げた。
藤堂妻が訝しげに見守っていると舞は、右手の人差し指を天に向け、いきなり
「1ラウンドじゃねえ!1分だ。1分以内に相手を倒 す。」
と宣言した。
観客は皆、一瞬、えっ?と首を傾げたものの、いたるところで笑いと共に
「力石だ。明日のジョーの力石徹だ」
との声が響く。相手の男の子も呆然としている。
ふと見ると、相手の男の子もどこかでみたことのある顔だ。
そして行事が、相手の男の子を「大場君」と名前で呼び出しを行ったことで藤堂妻は思い出した。
捜査2班、班長大場の息子だ。
行事が、見合って・見あってと告げると舞と大場の息子は敷居の白線に拳をつけ、睨み合う。
行事が
「はっけよい・のこったあ」
と叫ぶと、勝負は一瞬だった。
パン・パンと大きな音が響いたかと思うと、大場の息子が膝をついていた。
舞の張り手が、大場の息子の顔面に見事にヒットしたのだ。
最初、舞の右張り手が大場の息子の左顔面にヒットし、続いて左張り手が大場の息子の右顔面にヒットしたのだ。
会場がオオーッという歓声に包まれた。
すると、勝ち誇っている舞を尻目に大場の息子が呟いた。
「二度もぶった。親父にもぶたれたことないのに…」
すると会場は再びオオーッと歓声が上がった。
すかさず舞が
「お前はアムロか!」
と大きな声でツッコミを入れると会場は大歓声である。
会場は先ほども言ったように50〜60代が多い。
ガンダム世代である。
すると行事の男性がマイクを持って舞のところへやって来た。
なんと勝利者インタビューである。
大会主催者も大笑いである。
行事がマイクを舞に向け
「相撲はお父さんに教わったのかな?見事な張り手だっ たね!」
と口にすると舞は
「相撲はお母さんに教わった。全体重を乗せ、まっすぐ 目標をぶち抜く様に打つべしって……。あと、父ちゃん からは『力石徹』と『千代の富士』を教わった。」
と答えた。
その瞬間、歓声が起こった。
インタビュアーの行事が笑いながら
「そうかあ、お母さんに教わったのかあ!令和の丹下段 平だね!」
と言うと会場は更に盛り上がる。
インタビュアーも盛り上げるのが上手い。
しかし舞はこれを否定する。
「違うよ。舞のお母さんは丹下段平じゃないよ!」
たか子は
やったあ、舞が否定してくれたあ
と思ったのも束の間、舞の続く言葉
「父ちゃんがお母さんの誕生日に、お母さんをラオウ認 定した。」
に愕然とする。
会場はどよめき、インタビュアーも吹き出して笑いながら
「なるほど、令和の丹下段平じゃなく、令和の覇者だっ たんだね。つまり、張り手は一子相伝の技って言うこと だね!」
とノリまくる。
藤堂妻は、顔面真っ赤になっていた。
こんなはずじゃなかった。これは完全な想定外!
大会は続き、1時間後、2回戦というか準々決勝が行われた。
残念ながら、舞の快進撃はここまでだった。
頑張ったが、体格の良い男の子に押し出しで負けてしまった。
しかし、会場の皆も、行事も舞をたたえた。
大きな拍手が響き渡る。
そして盛り上げ上手の行事がマイクを持って、再び舞に駆け寄る。
行事が
「残念だったね。でもよく頑張ったと思うよ!」
と健闘をたたえていると、舞は、ゼエー、ゼエー、ハアー、ハアーと息を切らせた後一言
「体力の限界!」
と言って俯いた。
それを見ていた観客から
「オオーッ!千代の富士だ」
との声が上がり、会場はまたしても、笑いの渦に包まれた。
優勝は逃したものの、「大会を盛り上げたで賞」は満場一致で舞に決定したのだった。
その日の夕食、早速、寿司店に行き、賞品の食事券で飲食することになった。
藤堂夫婦は、せっかくなので、先日ケーキをもらったお返しに、冴島を誘う。
冴島は仕事中の様子だったが、夕食に来てくれた。
藤堂夫婦は、これでもかという勢いで舞の活躍を冴島に伝え、舞は褒められて照れている。
藤堂妻が
「でも、冴島さん仕事中だったんでしょ、大丈夫?」
と尋ねると
「東京で、世良さんが誘拐されて殺されるっていう事件 があったでしょう。あの事件の関係で取材やら何やらで 最近忙しいの。でも、たまには、息抜きしないとね。」
とのことを言い出した。
藤堂妻は
「ああ、あれねえ、私達も何気に関わってるんだあ」
と呟くと
「あっ、そうか!殺されたのは旭市だから千葉の捜査一 課も出てくるのか!」
冴島は聞き逃さない。
「でも、順番的に捜査2班なんじゃあ……」
とのことに気付くが
「志村検事のご指名で、私達も呼ばれたの。」とのことを藤堂妻が答える。
冴島は頷いて
「ああ、なるほど……、検事さんの異動時期でもあるか ら、千葉にいる間の事件は全部解決しておきたいってこ とね!」
と納得している。
すると藤堂夫は
「そうなんだよ、危うく舞の相撲大会見れないところだ った。梶山補佐がエックスデイ前だけど被疑者が割れた から休みをやるって言ってくれたんだ。」
と冴島がマスコミであることも忘れて話し出した。
冴島は当然、
「えっ?被疑者割れたんですか?しかも、その言い振り だとエックスデイ明日ですか?」
と突っ込んできた。
超ガチな捜査情報の漏洩である。
そのセリフを聞いて藤堂夫もまずいと思ったのか
「あっ!」
と声をあげたが、続いて
「バレつった?バレちゃあしょうがねえ」
と開き直った。
しかも
「全部、あの坂本が悪いんだ、あいつがあんなことしな ければ……」
と豪速球を投げ込んでしまう。
冴島は
「ええ〜っ!!!」
と店内で絶叫してしまう。
藤堂妻は、やり取りを見ていて
「冴島さん!せめて、ネタ元が私達だってバレない様な 書き方でお願いできる?」
と今更ながらのフォローに入る。
冴島は
「ネタ元は絶対書きません。」
と約束したのだった。
この日、冴島は夕食後はそのまま自宅に帰るつもりでいたが、そうはいかなくなった。
藤堂家族と別れると、まだデスクに残っている朝霧に電話した。
午後8時を過ぎている。
朝霧は出るとすぐ
「ああ、冴島さん?藤堂班長の特集記事の下書き見た よ。いいと思うよ。でも、どうしたの?藤堂班長と一緒 に夕食食べたら、そのまま帰るんじゃなかったっけ?」
と尋ねてきた。
冴島は
しまった。朝霧さんに藤堂家族と一緒に夕食を食べ るって言ってしまったんだ
と考えつつも
「朝霧さん、読日の1面差し替えの最終時間って何時だ っけ?」
と質問する。
朝霧は
「内容によって無理する場合もあるけど、基本、7時3 0分だから、もう過ぎてるよ」
と答えた。
何かを察してか、朝霧は
「何、何?なんか良い情報掴んだの?」
と聞いてきたので、
ネタ元は言えないんだけど
と前置きしつつ
誘拐殺人事件の被疑者逮捕が明日であること
被疑者は世界的ピアニストの坂本竜らしいこと
を告げた。
瞬間、読日のデスクでは
な、なにいー
との朝霧の絶叫が響き渡った。
読日の中でも、冷静・沈着として有名な朝霧の絶叫を聞き、デスクに残っていた全員が朝霧を注視した。
案の定、朝霧は
「分かった。すぐ社のデスクに戻ってきて!時間的に無 理だけど上と掛け合ってみる!」
と言い出したのだった。
多分、朝霧にはネタ元が藤堂班長であることはバレたなとは思いつつ、冴島は読日のデスクへUターンしたのだった。
冴島が読日のデスクに到着すると、朝霧が待ち構えており
「冴島さん!明日の1面は無理だったけど、明日、着手
が分かった時点で「号外」を発行することに決まった。 超特大スクープだ。どこのマスコミも気付いていない。 うちの独占だ。それと号外が終わった次の日から藤堂班 長の特集記事を載せる。ネタ元は言えないって言ってた けど藤堂班長と飯食ってたんだろ?千葉県も関わってる んだね?」
とまくし立ててきた。
冴島はネタ元に関しては、曖昧に答え、号外記事を書き始めるのだった。
相撲大会翌日、3月11日、被疑者逮捕の着手日、午前5時旭警察署道場では、続々と捜査員が集まって来ていた。
捜査本部所務係が逮捕状及び捜索差押許可状を封筒に入れ、また押収用のビニール袋、マジック、荷札、付箋等を用意している。
実際、被疑者宅の捜索差押に関わるのは15名程だが、捜索に関わらない者も午前5時に出勤していた。
捜査のクライマックスであるから当然である。
藤堂妻が庶務席で持って行くべき物を準備していると、赤川が
「おはようございます。藤堂はん!」
と声をかけてきた。
最初は夫の方に話しかけたのかと思ったが、どうやら自分の方らしい。
妻が赤川へ振り向くと
「昨日、見ましたで」
等と言ってきた。
藤堂妻は、冴島と一緒に夕食を食べていたところの話かと思い、ドキッとしたが
「令和の丹下段平だったんですね!」
と続く言葉にイラッとする。
「相撲大会見に来てたんですね?」
と尋ねると、
「大場班長の息子さんとの名勝負、最高でしたわ。」
と答えてきた。
一番見て欲しくなかった人に見られていたことが分かり、半分諦めた様に
「それがどうしたんですか?今日は忙しいんですから赤 川さんも用意しないと」
と言うと、後ろに隠し持っていた70〜80センチメートルくらいあるだろうか、長方形の物体を手渡してきて
「藤堂はん、旦那はんと娘はんを乗りこなすのは大変や ろうと思って、良かったら使うてください」
等と言ってきた。
手渡されたのは、分厚い画用紙で作成された「ハリセン」であった。
藤堂妻は、わざわざ、休みの日に何を作っているのか?この人はどんだけ暇なのか?と思わずにはいられなかった。
しかし、このハリセンが後に重要アイテムになる事など、藤堂妻には予想出来なかった。
警視庁の捜査員とは新宿の被疑者宅前で合流する。
この日、午前7時02分より坂本宅の捜索差押が開始された。
坂本宅からは
被害者世良明の携帯電話
別荘の合鍵
睡眠薬
殺害に使用したというロープ
等が押収され、本人から
1年前から世良と仲違いして、殺そうと思っていた
との言動も得られたが、その場では逮捕せず、一旦、千葉県の旭警察署まで任意同行してから通常逮捕という形が取られることになった。
通常は第一捜査本部である警視庁の新宿警察署に任意同行されるべきところであるが、この時には既に千葉県主導での捜査に切り替わっている状態であったことから旭警察署への任意同行となった。
新宿警察署にとっては、ある意味、屈辱的なことだろう。
坂本は警視庁の間島警部、千葉県の捜査一課筆頭班長大場、千葉県の赤川巡査部長の3名と一緒に、捜査車両により任意同行されることになった。
藤堂夫婦は別車両である。
今回事件の取調べ担当者となっているのは一番の功労者、大場班長である。
この事件の一番のキーマンを見つけ出したのだから当然である。
無論、警視庁側からも異論は出なかった。
通常は、誘拐事件の時から捜査している警視庁側が取調べを担当するのが筋かもしれないが、結果を見れば、捜査協力者に設定していた人物が被疑者という大きな失態を犯している状況では何も言えないだろう。
新宿から旭に向かう車内で藤堂妻は夫に
「成田の自宅によっていい?」
等と尋ねてきた。
夫が
「いいけど、どうしたの?」
と聞くと
「朝乗って来た私の車、署の駐車場に着いた時、パンク してたっぽい。あんたの車貸して!」
と言ってきた。
これが悪夢の始まりだった。
首都高・東関道・京葉道を経て銚子連絡道を通るのが旭警察署への最短コースであるが、捜査車両の先頭を走っていた藤堂夫婦が、首都高・東関道の次、京葉道に入らずそのまま成田へ向かったことで坂本らを乗せた捜査車両もつられて成田方向へ着いて来てしまったのだ。
坂本らを乗せた車両の運転手赤川がいち早く
「あれっ?藤堂はん旭警察署に向かうんじゃないみたい ですね!」
と気付くが、同上の間島が藤堂夫の携帯電話に電話し成田に向かっていることを確認する。
東関道の富里インターで高速道路を降りると15分ほどで成田市吾妻にある官舎の駐車場に到着した。
あろうことか、被疑者坂本を乗せた捜査車両もそれに続いて官舎の駐車場に入る。
藤堂夫が捜査車両から降車すると、たまたま、官舎の階段に舞の姿を認めた。
丁度、保育園から帰ってきたタイミングらしい。
藤堂は
「舞!俺の車の鍵、持ってきてくれないか?」
と頼むと
「あれっ、父ちゃん!車の鍵?分かった」
と言って405号室へ入っていった。
そして舞が自宅の扉から出て、階段を降り切ったタイミングだった。
坂本を乗せた捜査車両から
バン
という大きな音が響いた。
そして捜査車両の後部座席から、坂本が降りて、何故か拳銃を構えている。
藤堂夫は、意味が分からず、呆然としていたが、坂本が舞に向かって
「お嬢ちゃん、それ車の鍵だね?おじさんによこし て!」
等と言い出した。
また後部座席から、今度は警視庁の間島警部が降りてきたが、右太ももから鮮血が溢れている。
赤川が大声で
「間島警部、拳銃取られた」
というのが聞こえた。
藤堂夫は、ここでようやく状況が把握できた。
通常、被疑者逮捕に向かう場合、被疑者が暴力団員等でない限り、拳銃を携帯する捜査員は限られる。
一般的には、責任者的立場の者ら2〜3名と言ったところだろう。
今回のケースでは千葉県側の責任者として大場が、そして警視庁側の責任者として間島警部が拳銃を携帯していた。
拳銃を携帯した捜査員はホルスターを肩から下げ、ホルスターに拳銃を入れる。
被疑者を捜索差押の現場で逮捕せず、任意同行と言う形をとっていたため、坂本の両手は自由であった。
間島警部に油断があったと言うほかはない。
坂本は、舞に向かって、続けて
「お父さんを殺されたくなかったら、車の鍵よこして」
と再び言った。
舞は呆然と立ち竦んでいたが
「舞は、昨日、父ちゃんと一緒に星を見た。」
と大きな声で話し出した。
坂本は
「いいのかい、父さん、殺すよ」
と再び脅すが
「でも、舞も父ちゃんも死兆星は見ていない!だから拳 銃撃っても死なない。」
と大きな声で謎理論を展開した。
その時、2発目の銃声が
バン
と響いた。
その音がした瞬間、藤堂の肩口と背中から血が噴き出した。
ニャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアー
舞の絶叫とも言える悲鳴が響く。
弾丸が貫通したのだ。
ここからは、まさに神速と言っていいだろう。
何故に猫?とツッコム余裕は無く、藤堂夫がアスファルト舗装された駐車場に倒れる瞬間、藤堂妻は坂本との間合いを一気に詰め、拳銃を持つ坂本の右手へ向かって振り下ろした。
赤川製ハリセンを……
坂本は拳銃を落とし、そこへ、今度は赤川製ハリセンを振り上げた。
ハリセンは坂本の右顔面にヒットし、坂本はその場に倒れた。
すぐさま、拳銃を奪い返し、捜査車両の後部座席に乗せ、今度は坂本に手錠をかける。
公務執行妨害と殺人未遂の現行犯逮捕だ。
藤堂妻は、泣き崩れている舞に向かい
「泣くな!舞!来い!」
と怒鳴った。
舞は、声を聞いて立ち上がると両手を前に伸ばし
「父ちゃーん」
と言って駆け寄る。
藤堂妻は、自分が運転する捜査車両の後部座席に間島警部と夫と舞を乗せ緊急走行する。
前に行った成田日本赤十字病院の場所はまだ覚えている。
病院に到着したのは2発目の銃声から10分と経っていなかった。
夫も間島警部もすぐ手術が始まった。
手術は2〜3時間はかかると言われたため、藤堂妻は、一旦、自宅に戻ることにした。
命が無事だったとしても、入院は避けられないと思い、入院用の着替え等の準備をしようと考えたのだった。
舞は父親が拳銃で撃たれたことで、大きなショックを受けているのは明らかで一人にできないと思い、舞を連れ、
自宅に戻り、30分ほどで病院に戻った。
手術室前の椅子に座り、2時間ほど経過すると、手術をした医師が手術室から出て来た。
医師は藤堂妻に向かい
「手術は終わりました。重要な臓器に損傷はありません でしたが、1週間ほどは安静にしていただかないといけ ません。入院です。命に別状はないと思われます。」
と告げた。
それを聞いて、藤堂妻はようやく安堵し舞に向かって
「父ちゃん、命に別状は無いって!良かったあ!」
と教えてあげると舞も安心した様子だ。
藤堂夫は、入院患者用の大部屋に入れられた。
意識はまだ戻っていない。
藤堂妻が舞と一緒に、藤堂夫が目を覚ますのを待っていると、見習いの看護婦さんと思しき20代の女性が看護婦長と共に部屋へ入って来た。
20代の看護婦は藤堂妻に「入院承諾用の書類」等にサインする様に求める。
そして看護婦が
「何か不便はありませんか?」
と尋ねてきた。
藤堂妻が問題ありませんと答えようとしたところ、隣にいた舞が
「ベッド小さくないですか?」
等と言い出した。
藤堂妻がえっ?と驚いていると、舞は父親が眠るベッドの脇から白色の布団をめくり、来客用の椅子の上に乗って
「失礼つかまつる!」
等と言い出して、父親の隣に寝ようと企てた。
藤堂妻は驚いて舞を制止し
「舞!何してるの!」
と注意するが、舞は何故注意されたのか意味が分からないという素振りだ。
すると見ていた看護婦さんが
「今日は、お父さんと一緒に寝るのは無理なんだよ!」
と優しく声を掛ける。
すると舞は、自宅から持ってきたリュックサックから豚型貯金箱を取り出して看護婦の前に置き、変顔をしつつ
「そこは看護婦様のお力で何とか、ひとつ……」
等と言い出した。
変な時代劇の見過ぎである。
すると20代の見習い看護婦と思しき女性は
「そちも悪よのう、ってあたしゃ悪代官か!」
と言いながら手の甲で舞の胸をポンと小突き、まさかのノリツッコミで返してきた。
その瞬間、看護婦の後ろに控えていた婦長が持っていた決裁板で看護婦の頭を殴る。
「あんたは、何考えてるの!」
と激怒している。
藤堂妻は、舞のせいなのに看護婦さんが怒られたことで、黙っていられなくなり、
「舞!駄目だよ!そんな失礼なことしちゃ!貯金箱しま いなさい!」
と叱るが舞は
「今使わずして、いつ使うのだ!」
と納得がいかない様子を見せる。
藤堂妻は
そういえば、この間、くそジジイと一緒に「風の谷 のナウシカ」見てたなあ
確か似たようなセリフをクシャナという登場人物が
言ってたなあ
と思い出す。
「舞!いい?貯金箱は巨神兵じゃないんだよ!」
と告げるも、まだ納得できない様子だ。
「巨神兵なんてビーム出すだけだからね!舞の貯金箱は 巨神兵より強いんだよ!舞の大好きなシチューを何回も 作れる力を持ってる。だからしまいなさい。!」
我ながら何を言ってるんだろうと首を傾げたくなる謎理論を展開してしまう藤堂妻であった。
いずれにしても、舞も、父親の命が無事と分かって、いつもの調子が出てきたようだ。
間島警部の手術も無事終わったが入院の部屋は別の部屋となった。
そうこうしているうちに、時間は午後3時を過ぎていた。
テレビ各局とも、坂本氏関連の特番をやり出した。
拳銃を奪っての殺人未遂の関係は、まだ報道発表されていない。
翌日の新聞はどの新聞も坂本氏逮捕を1面に持ってきていた。
特に読日のスポーツ誌は、どの新聞より詳しく扱っているのが明らかだった。
また、それから1週間ほど読日のスポーツ誌で藤堂の特集を組んだため、藤堂の名前は全国区となったのだった。