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貴方の時計をお直しします  作者: 藤 小百合
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旧校舎の地縛霊

 ――カランカラン、と古典的なベルの音が響く。

 その音はいつも新たな出会いと仕事の始まりを告げる。

 誰もいないために気を緩めていたのを姿勢ごと引き締める。

 眺めていた懐中時計をポケットにしまい、立ち上がり音のほうへと体を向ける。出迎えの言葉は昔から決まっている。

「いらっしゃいませ」

 ここは時田時計館。父が館主を自称する時計専門店。古今東西、古きも新しきも揃う、異質な空間。それが我が家。

 右を向けど左を向けど、そこには時計しかない。四方から聞こえる時を刻む秒針の音は、一瞬のズレもなく完璧な重なりを奏でる。

 訪れるお客さんの多くは時計を見に来たか購入かのどちらか。もっとも、残念なことにお客さん自体めったに来ない。なぜなら、時計が欲しいだけならわざわざ専門店に来る必要もないからだ。それでも我が家――もとい、この店に来てくれる人はインテリアとしての時計が欲しい人か、珍しい物好きか、もしくはこの店の販売以外のもう一つの仕事である、修理の依頼かのどれかだ。

 時計を専門に扱うこの店では当然として修理や電池交換も行う。館長を自称するほどの時計マニアな父が、店を飛び出し各地の時計を求めて駆け回っているときは、大体俺が店番をするのだが、それ以外にも簡単な修理ぐらいなら俺がすることもある。

 基本は父がやるのだが、その父がいないのであれば出来る人がいなくなってしまう。その場合、依頼を断ることも申し訳ないのでひとまず受けて、父に連絡しすぐに帰ってきてもらうというのが少し前までの流れだった。

 生まれてからずっと秒針の音を聞き続け、時計をいじる父の背中を見て育てば、ある意味で当然ともいえるが、俺自身が時計に興味を持った。不本意だが、壊れた時計を修理する父の背中はなぜか格好よく見えて、小さいころはよく隣に座って作業を見ていた。その時に父の解説もあり、気が付けば知識がついて、技術が身に付き、いつの間にかこの店の後釜のようなものになり果てていた。

 別に嫌ではない。時計は……どちらかといえば好きの部類に入るし、親が嫌いなわけでも、家業が絶対嫌なわけでもない。言うなれば、どこか父の思惑通りの掌の上で踊らされた感が少々癇に障るというか、なんというか。

 ほかにも問題のようなものがある。それは、俺の少々変わった体質のこと。

 つい先日も、この体質がもとでいろいろあったばかりだ。ポケットの中で規則正しく時を刻み続ける懐中時計。その元の持ち主の話。儚い出会いと別れの話。


「時田。放課後残って進路相談な」

 風が冷たくなりはじめ木々が色づく秋深まる季節。夏服登校も終わりを迎え、上着を羽織らなければ肌寒いことに少し寂しさを覚える。

 つい先日行われたはずの文化祭も今ではその足跡すら見えないほどに、なんでもない日常というものが戻ってきていた。祭りの後だからこそ余計に寂寥感を覚えるのかもしれない。

 ただ秋は好きだ。四季という移ろいゆく時間の流れの流れと景色の中で、最も風情があると感じる。もちろん、華やかな春や、元気な夏、静謐な冬もいいと思う。だけど、秋の枯れゆく木々が作り出す風景が漂わせる、侘しさ、というのだろうか。あの何とも言えないこの空気感がどことなく気に入っている。ただ町を歩くだけなのに、胸の内をしっとりとした気持ちにさせてくれる。

 もっとも、しっとりしすぎもよろしくないのであるが。

雅高(まさたか)はまた進路相談か。今月何回目だ?」

 高校三年。音の響きだけで、青春の終わりを連想させてきて悲しい気持ちにさせてくる時期。青春らしいことができていない一部の生徒が発狂しながら取り組み始めるのは、もちろん受験勉強だ。ついこの間、高校生活最後のイベントたる文化祭が終わり、一気に受験ムードへと突入した教室には、だけれども、どことなく気だるげな雰囲気が蔓延しているように思える。致し方ないとは思う。お前は楽しいことがあった後にすぐに勉強に切り替えられるかと言われれば、答えは残念ながらノーだ。特に、最後という看板を背負っていれば、なおのこと名残惜しい。

 ただ、もう少し経ったらきっとみんなピリッとするのだろう。時間は止まっても戻ってもくれない。迫るタイムリミットに自分の気持ちを、将来のためと押し殺して、重たいペンを握りだす。そうするほかないのだ、人生というのは。それはそれとしても、殺伐とした空気感になってしまうのも、なんだか嫌な気持ちになってしまうのだけれど。なんて、いつまでも学生気分の抜けきっていない甘えた考えばかりを首から引っ提げているものだから、こうして何度も先生に呼び出しを食らう羽目になり、友人にも呆れられることになるのだ。

「さてね。もう数えるのはやめたよ」

「いい加減、はっきり決めりゃいいのに。つか、家業継ぐんだろ? だったら、テキトーな大学志望して、四年テキトーに過ごしときゃいいだろ。もしなんかあっても最低限の学歴あれば十分でしょ」

「それはそうかもだけど、さ」

 確かに、友人である佐藤の言う通り、家業を継ぐ予定としては進路なんてあってないようなものだ。雑に選んだところで失敗しても家がある。何かの事情で家の仕事に就けなくなるような万が一があっても、最低限の学歴が四年という時間を犠牲に手に入る。

「だからと言って、適当に選ぶのもどうかなと思うんだよ。自分の人生で、一回きりのものなんだし後悔したくないというかなんというか……」

 言いながら、視線を誰もいないはずの教室の隅へと向ける。

 俺には生きる指標というか信念と呼ぶべきものがある。それが『後悔のない選択を』だ。

 たった一度の人生。何かを成し遂げたい、なんて大それたことは考えちゃいないが、同時に、ああもなりたくないと思う。

 視界に移るのは、うつむいたまま一歩たりとも動かない人影。時よりうめき声のようなものを発するが、それ以外は何もしない。真っ黒な影のようなものに覆われていて生物学的な性別すら判然としない。

 そこに、数人の生徒が通りかかる。彼らは何もいないようにその人影を気にすることなく進んでいく。()()が普通の人間ならまず間違いなくぶつかるコース取り。でも彼らは意にも返さない。そうしてそのまま歩き、衝突――することなく、人影をすり抜け向こう側へと変わらぬ足取りのまま進んでいく。人影もまた、何の変化もなくただそこに在る。

「どうした?」

 じっと一点を見つめたままの俺のことを心配したのか、はたまた会話が途切れたことに疑問を呈したのか、佐藤が声をかけてくる。

「何でもない」

 佐藤もまた、目の前の異様な光景に何の反応もしない。

 そう、佐藤には見えていない。あれが。佐藤だけじゃない。ここにいるみんな――いや、大多数の人類が、それを認識できない。

 共有できない複雑な気持ちを深いため息にして吐き出す。

 そう、人には見えないものが俺には見えている。

 物心ついた時から頭を悩ませ続けていることで、後悔のない選択という信念を形成するにあたっての原因となった事柄。

 世にいう、霊感体質。

 初めて見えた時、なんてもう覚えていないし、記憶に残るほどショッキングでもなかったような気がする。とは言ったりするが、普通の人の感性で言えばかなりグロテスクだろう。何せ、お相手さんは死人だからだ。

 しかし、一言に幽霊といっても様々だ。

 守護霊のような優しそうなものもいれば、明らか悪霊なやばそうなやつ。あとは生前の未練からか、あの人影のように在るだけ、だったり。……中でも俺が一番見たくないのは、亡くなったその時の姿で彷徨う悲しき幽霊さんたち。大概が事故や事件で外傷を負っており、場合によってはかなりグロイこともある。焼死体なんてもってのほかだ。

 人には見えていないせいで相談もできないし、共感もされないから俺だけがグロイものをみて嫌な思いをする羽目になったりとか、その他もろもろで今までロクな目には遭ってこなかった。

 そもそも、先祖が陰陽師や神主でも、実家が寺や神社でもない。普通の、とは言えないかもしれないが、一般的な家庭に生まれて、一般的に育った時計屋の息子なのに、どうしてこんな体質で生まれたのか。

 父も母も霊感なんてないのに。

 こういう時の展開で王道の、見えてると訴えても取り合ってもらえない、はない。気がついたころにはそれなりに判別ができていたし、他の人には見えていないことも幼いながらなんとなく悟っていたから。それでも、慣れてしまっているとはいえただ見えるというだけでも精神的にはやっぱり来るものがあるし、霊側にも生者側にも気を遣うから普通の人の倍疲れる。

 ――霊は見えても決して視るな。

 いつしか、俺が自分に課したルールのようなもの。

 霊の中には、ごくたまにだが、こちらに話しかけてくるようなタイプもいる。過去遭遇したケースでは、まことに残念ながら、一見まともに見えて実は……という王道パターンなやつだった。

 奴らに関わっても得にならない。むしろ不幸になるだけ。

 俺は霊媒師じゃないから、お祓いとかもできない。助けたいと思うことが身の丈に合わない傲慢である。からして、成仏させたいとか思うこともない。奴らには一切関わらない。

 そう固く誓っていたのに。


 やってしまった。初めにそう思った。

 進路相談を終えた放課後の帰り道のことだった。

 進路相談はもちろんだが、その後、先生に頼まれて掃除をする羽目になった。

 教室ではない。教室や廊下は当番制で掃除することになっていて、俺は今週の当番じゃない。

 これだけ聞いた人がいたら、ではどこの、という疑問が当然湧くだろう。

 逆に訊きたいけど、教科ごとにある移動教室――例えば化学室とか音楽室とかそういう部屋の掃除はいったい誰がしていると思う?

 部活で使う場合は、その部活の生徒がするのであろう。学校によってはこれも当番制にしているところもあるかもしれない。

 けど、うちの学校はそうじゃないし、絶対に部活で使わないような教室がある。

 当校資料室。

 歴史ある我が校に存在する特殊な教室。その名の通り、当校にかかわる文献や資料が残されている。例えば、歴代の壁新聞、地域の広報誌に載った時の実物、年代ごとにまとめられたその年のことがまとめられた資料とか、コンクール等で入賞した人の名前を集めたものとか。

 大きなもので言うのなら、デザインが変わる前の制服の展示なんかもあったりする。

 生徒の出入りは基本自由だが、誰もそんなところに用なんてないから利用者はかなり少ない。

 部活動等で使用されることもないので、掃除は先生たちがやっているそう。だというのに、本来掃除するはずの先生に頼まれ、俺がすることになったのだ。

「別に用事も約束もなかったけど。でも、なんかこう、釈然としない」

 溜息文句不平不満その他もろもろ。抑えが利かなくなった口からこぼれるこぼれる。

 箒で掃いて集めるのは埃ではなく俺の愚痴かもしれない。

「この学校、昔は学ランとセーラーだったんだな」

 存在は知っていたけど、まったく来なかった教室だ。実際に中に入ってみると意外と好奇心というかなんというか……。興味のなかった博物館だけど、実際来てみたらなんかすごくて帰るころには結構充実した気持ちになる、あの現象に通ずるものが胸の中に湧いていた。

 さらりと見渡す中でも目を引く制服の展示。

 今俺らが来ているのはブレザータイプのものだが、昔は違ったようだ。

「変わったのは……二十年前か」

 書かれていた説明によると、デザインの変更は二十年前らしい。

 だからどうしたともいえるが。

 この学校の卒業生の知り合いがいるかと言われれば何人かはいる。

 うち一人はあの佐藤のお姉さんだ。代で言うなら二つ上。俺らが一年の時に卒業していった。特段仲が良かったわけではない。ただ顔を合わせるたびに挨拶や世間話程度をするほどには関係は持っていた。

 卒業以来顔を合わせることもなくなったし、何とも思ってなかったが思い出すとなぜだか懐かしくなってその年の資料を手に取った。

 パラパラめくっていくと、イベントごとの集合写真が載っているページにたどり着いた。

「お、発見」

 お姉さんはどの写真も笑顔で写っていた。

「俺らも卒業したらこういうの作られるのか。誰かに見られる可能性が出てくると途端に不安になるな。集合写真とかどういう顔で撮ったっけ」

 少なくともこんなに笑えてはいなかったと思う。

「ま、いいや。さて、さっさと掃除を終わらせよう」

 資料を棚に戻し再度真面目に取り掛かる。

 教室掃除とか普通は一人でやるものじゃない。それを一人でやるというのだから当然時間はかかる。

 おかげで帰るのも少し遅くなった。この件について誠に遺憾であると頼んできた高松先生に陳情書でも提出してやろうかとも思った。

 何しろ、学校を出た時間は俺の最も嫌いである18時過ぎだったから。

『逢魔が時』

 黄昏時とも呼ばれる昼と夜の境目。薄暗いこの時間は、読んで字のごとく魔物に遭遇しそうな時間である。

 そういう経験があるわけじゃあない。ただ、体感として少し怖く感じる。あれらの影が、より色濃くなっているような気がして。

 早く帰りたい思いから、普段は通らない大きな道を通って大回りに帰ろうと、旧校舎の前を通る道を選んだ。

 足早に通り過ぎようとしたところで、俺は見てしまった。

 窓辺に立つ女性を。

 この時点で怪しいと思うべきだったし、何なら無視して通り過ぎればよかった。それができず立ち寄ってしまったのは、自分のことながらわからない。

 偶然を、時として神の悪戯、または運命とルビ振ることがあるように、ある種の運命だったのかもしれない。

 しかして、何も知らなければあくまで偶然だ。

 そう、重なり合った偶然の産物なのだ。百人に言って聞かせれば、百人が偶然だと答えるだろう。

 今時珍しい旧校舎という建物。立て直しや別の場所に新たに校舎を建てるのはわかる。けど、元の建物のすぐ近くに建てて、しかも旧校舎を取り壊すことなく残すのは珍しいのではないだろうか。

 なんでも、この学校はかなり歴史があるらしく、旧校舎も歴史的建造物として残しておきたいとの理由らしい。実際、人が使うには少しばかり無理があるが、すぐに壊れる心配があるほど老朽化もしていない。それもあって、歴史的側面から中の机等もそのままに残されているらしい。

 中でも特に目を引くのは、中庭に建てられた大きな時計塔だ。

 止まってしまってはいるものの、通りがかった人の目を引くほどに存在感がある。

 時計屋として、内部構造は気になるところだが、かと言って積極的に中に入ろうとも思わない。旧校舎の敷地は特別立ち入り禁止に指定されているわけではないが、さすがに時計塔の中までは入れないだろうし。

 そんな折だった。

 ふと視界の端に映った。旧校舎の中から外を見つめる人影が。

 気になってしまった。あんなところに、いったい何の用だというのだろうかと。

 気が付けば、足が動いていた。引き寄せられるように、ゆっくりと。

 開けっ放しの門を抜け、鍵の掛かっていない生徒玄関から中へ入る。

 ギシギシと音を鳴らしながら、床を踏みしめる。

 人影を見つけたはずの三階の廊下にたどり着くと、目的地であろう教室のその扉が少し開いていた。

 誰かが入った形跡を認め、心霊現象の類ではないと安心し、ほっとする。なにせ幽霊なら扉の一枚や壁の一つぐらい簡単にすり抜けてしまうから。わざわざ扉を開けるということは、きちんと両足のある人物が開けて入ったに違いない。

 相手が人間であれば恐れるものはない。何をしていたのか直接問いただせばいい。

 扉を開け、顔を覗かせると残されたままの机が今と変わらない並びでそこにあった。

 その窓際の列の一番後ろ、そこにその人はいた。

 より正確に表現するのなら、椅子の後ろに立っていた。窓に体を向けて、開け放たれた窓から外を眺めて。

 長い黒髪が風に揺れていた。

 肌寒いはずの気候の中で、防寒対策もせずに制服のまま。その制服も、俺の知るものとは違うものだった。

 他校の、ではない。俺は、いやうちの学校に通う人なら一度くらいは目にしたことがあるんじゃないだろうか。そう、俺はこの制服を知ってはいる。

 古い歴史を持つこの学校には特殊な教室が存在する。そこには文字通りこの学校の歴史に関する資料があり、中にはデザインが変わる前の昔の制服も展示されている。

 記憶の糸を手繰るまでもない。なにせ、少し前までその教室にいて、何度も視界に入っていたのだから。

 そう、その人物はセーラー服(古い制服)を着ていた。

 ――嫌な予感がした。

「あの、」

 それでも声をかけたのは、そんな予感を否定したかったからかもしれない。

 そんなはずない。きっと気のせいだ。ハロウィン時期のコスプレに違いない。肯定してくれる誰かはおらず、自分に言い聞かせるように、何度も唱えては飲み込んでいく。

「こんなところで、何をしてるんですか」

 こちらの問いかけが届き、ゆっくりとその人が振り返る。

 その顔は血だらけで肉と骨が見えていた――。とか、いきなり首が落ちた――。とか、正直想像していた。

 散々言い訳を繰り返していたのに、可能性を否定しきれない脳みそが心に反して勝手に想定のイメージ映像を構築していた。

 だが、予想に反して、その人物は、

「私のことが、見えるの?」

 美しい女性であった。

 驚き見開かれた大きな瞳。整った顔立ち。

 一瞬、ドキリとした。

 その風貌はまるで芸能人かモデルさんのように奇麗だった。

 ――が、しかしだ。確かにあった違和感がぬぐい切れず、得てせず遭遇した美人さんに対する思春期男子の高揚感を、一瞬のうちに搔き消してゆく。

 見えるの、と彼女は言った。それが意味するのは、つまり、

「み、見えるとは……?」

「私、幽霊だから」

 恐る恐る尋ねた俺に、あっさりと答えが返ってきた。

 返答が引き出す。棚にしまってあったかつての苦い思い出たちを。

 会話としては中途半端になるが、ここで逃げ出そうかと本気で思った。

「驚いたよ。見える人がいるなんて」

 人間味の残る言葉に、こちらも驚く。なにせまともな会話ができた幽霊など初めてだ。

「今まで誰にも見えなかったから、諦めてたんだけどな」

 どことなく、陰りのある人。だが、アンニュイな表情すらも魅力的だった。

 美しさは行き過ぎるともはや暴力だ。心臓という急所を的確に殴ってくる。

「えと。どうして、旧校舎にいるんですか」

 ここから逃げ去るのはたやすい。用事があるのでこれで失礼します。彼女に告げて教室を出ればいい。ただ、そうすることを想像するだけで、後ろ髪が引かれる思いが胸を支配する。

 彼女の表情が俺をここに繋ぎとめる。

 物憂げで、寂しさが滲んでいて、見える人物に出会えたことの嬉しさが隠しきれてない表情。

 ずっと一人だったのだろう。誰にも認識されず孤独を味わってきたのだろう。それは想像を絶する苦しみだったはずだ。

 俺がその立場なら、どうだろうか。胸がきつく締め付けられる。

 もう少し、一緒に居てもいいのではないだろうか。軽く会話した感じだときちんと言葉が通じる。きっと悪霊とかじゃないはずだ。少しの間でいいから、寂しさを紛らわせてあげたい。

 そんな思いから、会話を続ける選択肢をとる。

「どうして、か。ここから出られないから、かな」

 死者のそれとは思えない瑞々しい唇を、きゅっと横に結ぶ。

 ――地縛霊。

 誰もが知る幽霊の一種。死んだ、もしくはそれに等しい思いの残る場所から、動けない幽霊。

「成仏、しないんですか?」

 成仏。一般に人が亡くなるとその魂は天に召されるとされている。俺は専門家じゃないから詳しくは知らない。本当に天に召されているのかどうかなんて確証なんてないし、そのあとどこに行ってどうなるのかなんかも全く知らない。

 けど、こんなところで一人でいるよりは、たぶんマシだし、成仏するのがきっと正しいあり方なんだろうと思う。

「できたら、苦労してないよ」

「そ、そうですよね。軽率でした。すみません」

「ううん。いいの。もう、何十年もここにいるせいかな。なんか、色々気にならなくなってきちゃって。感情とか記憶とかが段々薄れていってる気がする」

 変わらぬ調子で流れるように言う。

「それ、やばくないですか」

 明らかにヤバそうな情報をさらりと。

「かもね」

 かなりまず状況だろうに、焦りを感じ始めるこちらとは対照的に、彼女はすでに諦めているのか淡く笑った。

「心残り、とか成仏に必要なものとかなんか、なにかないんですか」

 幽霊というと、一般的なイメージとしてこの世に未練を残して死んでも死にきれないから、肉体が滅びた後も現世にしがみついている存在……的な感じだろう。

 その場合、心残りを解消してあげれば、無事成仏できる……というのがありふれた古典的幽霊像。

 実際のところは知らない。霊が見えても見えるだけ。こんなにはっきりと会話ができるほど意識のある霊には会ったことないし、目の前で成仏していったとか、成仏に協力してみました、みたいな経験はない。

 知識源は人づて……というかネットに転がっている情報のみ。幽霊のシステムなんてわかるはずもない。

 このまま、放っておいても俺に害はない……と思う。ない、ないよな……? ないはず……。……けど!

 ここまで来て見過ごすのはこっちの心残りになるし引きずる。それに、こんなにも存在のはっきりしている幽霊がこのまま放置されて悪霊とかになったら嫌だし、どうなってしまうのかわからないままも怖いし、今の会話だけでもうすでに憑りつかれている可能性だってあるわけでその場合早々に何とかしないと霊障とか怖いし。――とにかく! 見捨てるのは嫌だ。できるなら救いたい。

「一つだけ」

 俺の問いに考え込むようにしていた彼女がふと視線を上げた。

「なんですか」

「もう、それが何なのかも忘れてしまった代物なんだけど。失くしたものがあるの。とても大切だったはずの、なにか」

「なにか……」

「ごめん。それ以上分からない。思い出せないの」

「なるほど。わかりました。失せ物探し、ですね」

「え」

「どうかしましたか?」

 霊なのにはっきりとした表情の変化がある。生きている人間と遜色ない驚いた、ポカンとした顔。

「探して、くれるの?」

「はい。ここで知り合ったのも何かの縁ですし」

「いいのかな。何を探せばいいのかもわからないのに」

「いいですよ。何とかなります。何とかします」

「ごめんね。ありがとう」

 そういって彼女は笑った。その笑顔を見れただけで安請け合いしてよかったと思ってしまった。

 実際のところは、よくはなかった。

 進路も決まっていないが、受験生として時間は必要だし、何より、探すものが何かすらわからないのは、失せ物探し的に致命傷だ。

 俺は探偵でもなければ便利屋でもない。警察でもないし、犬でもない。ゼロからものを探すのは不可能に近い。

 でも、それでも。

 ほっとけないでしょ。あんな、泣きそうな顔されたら。

 なんとかして彼女の期待に応えたい。暴力的な顔面に笑顔を咲かせて見せたい。

「俺は、時田雅高って言います。あなたは、ここの生徒だったんですか?」

「うん。そう。橘冬子。それが私の名前。死んだのは、三年生の時だったはず。後は、ごめん。思い出せないや」

「いえいえ、大丈夫です。なんとか、頑張ってみます。探し物」

「お願い」

 これが、冬子さんとの出会い。

 わかりきっていたことだけど、ここからは苦悩が待っていた。


 ゼロから、とは言ったものの、実は手掛かりはあるにはある。

 一つ、この学校の生徒だったこと。二つ、名前は橘冬子さんであること。三つ、三年生の時に亡くなったこと。

 これが、普通の町中で亡くなった誰かだったら、きっと俺は諦めていただろう。

 けれど、一応とっかかりはあるし、あてもある。

 それは、この学校の生徒だった、というところ。

 在学していたのはいつだったのかは、わからない。でも、

「この学校の生徒だったのなら、あるはず」

 翌日から、俺が向かったのは、当校資料室。そう、この学校の歴史が残る部屋。ここなら、冬子さんの生きた証が、在学中のなんらかがあってもおかしくない。

 制服が変わる前の年から遡って当時の資料を漁り手掛かりを探していく。

 まあ、卒業前に亡くなったということだから、載っているかは微妙なライン。けど、一、二年生の頃の学校イベントの写真に写っているはずだし、在校中に亡くなったとあらば多少話題になっているはず。当時の新聞記事とかも残されているからそこから探せば見つかるはず。

 僅かな手がかりと希望を持って、探し始めて、――早三日が経過していた。

「全然見つからない」

 進捗はその一言に尽きる。

 制服が変わったのが十年前。そこから、遡っていろんな資料を見ていったのだが、いかんせん見つからない。

 さらには写真なら一枚一枚ずつ注意深く見ていくことになるし、文字系ならざっと全部読まなきゃいけないため結構時間がかかる。あと目も疲れる。

 これは、別の手掛かりから手をつけなきゃかな。と言っても、あとは高校三年生で亡くなったということしかない。

 最初は新聞などで報道されていれば、と思っていたけど、よく考えれば高校生の死亡が載っているかわからないし、死因や当時の状況も不明な故、どのくらいの騒ぎや報道の大きさになっているのかもわからない。そうじゃなくても、わざわざ学校に残していないかもしれない。

 …………万策、尽きたかも。

「そっか。そりゃ見つからないよね」

 あれから一応様子見に旧校舎へと通うようになっていた。

 進捗、ダメです。という報告を聞くたびに、彼女の表所に暗さが増していく。比例するように申し訳なさが膨れ上がっていく。

「すみません。あんな大見得切っておいて、お役に立てなくて」

「ううん。最初から無理言ってるのはこっちだから。それより、大丈夫?」

「何がですか?」

「私のことにかまけて、自分の生活崩れてない? 霊障とか祟りとか、呪いとか。そういうの、自分じゃやってるつもりなくてももしかしたらって。ありもしないものにのめりこんで変になる、とか、よくある話でしょ?」

「確かに、ありますねそんな話も」

 いわゆる魅入られたという状態の話だろう。行き過ぎれば――対象が例えば生きているアイドルとかだってのめりこみ過ぎてしまえば、周りが心配になることもある。自分のすべてを捧げ貢ぎ、やつれていく。

 ホラーやミステリーなんかであるタイプのお話。

 けど、

「今のところ、何の問題もないですよ。橘さんのためにできることって言っても、やっぱ限られますし。普通に授業受けて、調べて、普通に帰って、宿題とかやって……。いつも通りの日常送ってますから大丈夫です」

 意識したこともなかったが、意識することがないほどにいつも通りだということだろう。

「そっか。よかった。……私がこんなこと言うのは違うかもしれないけれど、本当はね、今すぐにでもやめてほしいんだ」

「どうして、ですか」

 突拍子のない発言に驚きを隠さず真意を問う。

「君は生きているから。先があるから。先があるなら前を向いて進まなきゃいけない。なのに、私のために後ろを向かせるのは、ダメなことだから」

「うーん。生者は自分のために時間を使うべき、ですか。それは違うと思います」

「え」

「生きていたら立ち止まることもあります。たまに後ろ振り返るほうがいいことも。そうして気が付くこともあるんです。何より、その理屈が通るなら、大切な人を失った人たちは弔いもせずにずっと止まることになります。死者を見送る。それも、前に進むために必要なんです。葬式とか法事って、だからあるんじゃないですかね。持論ですけど」

「私は、君にとって他人だよ?」

「何言ってるんですか。こうして目の前にいて、会話をしている。お互いの名前も知っている。立派な知り合いじゃないですか」

「……ありがとう。優しいね、雅高君は」

「え」

「うん? 名前、違った?」

「ああ、いえ。あってます」

 あってるけど、いきなり下の名前で呼ばれるとは思っていなくてびっくりした。

 女子に名前を呼ばれたのはいつ以来だろうか。幼少期より人より時計の中身を見続けてきたゆえ、人との繋がりが若干疎かになってしまいながら育ってきた。言うまでもなく、恋愛はおろか異性との関わりすら基本的にはなかった。友人も多くはないのである。

 そんな、ある意味拗らせた思春期男子はこんな些末なことで胸をドキドキさせてしまうのであった。

「と、とにかく! もう少し調べてみます。このまま投げ出すのは嫌ですし」

 俺が諦めて悪霊にでもなったら嫌だしね。

「それにしても、この先どうしましょうか。なにか新しい手掛かりがあれば……」

「ごめんね、思い出せなくて」

「いえ、橘さんが悪いわけではなくてですね」

「ふふっ」

「え?」

「あ、ごめんね。なんだか新鮮で」

「新鮮、ですか」

「うん。いつもみんな私のことは名前で呼んでたから」

「みんな……。それって、生前の記憶ですか!?」

「え。あ、そっか。そうだった。関係ないことかもしれないけれど、少しだけ思い出したみたい」

 そういえば、なにかで見たことがある。記憶喪失の人と会話をする中で徐々に記憶が戻り始めるとかなんとかって。

 ここに通うことにしてはいるものの、こうした何気ない会話が続くのは初めてかもしれない。

 盲点だった。だが、気づいたからには、やってみるほかない。日常会話を続けて、記憶の糸口を見つけていこう。

「他には、なにか」

「うーん。仲のいい人がいた、気がする。ずっと一緒にいた親友が。でも、割とみんなと仲が良かったと思う。いろんな人と話して、そう、名前。呼ばれていたような気がする。そこまで話したことのない人にも名前で」

「人気者、だったんですね」

「そうなのかな」

「友達か。クラスの人とか、知り合いが一人でも見つかれば当時の話が聞けるのに」

「そうだね。でも、だいぶ前のことだから」

 だいぶ前というのも、どのくらい前かがわかればもう少し進展があるんだけど、それを言っても仕方がない。

「雅高君はどう? 友達とか」

「俺ですか?」

 正直、この場で俺のことなんて意味がないのだけれど。

「うん。そういえば、私、雅高君のことよく知らないなって」

「知っても面白くないですよ」

「いいの。聞かせて?」

「友達、ですか。そう呼べるのは一人だけですね」

「一人? たったの?」

「もともと人付き合いが得意なほうではないので。特に、この体質ですし人と距離を置きがちで」

 日常生活において気を付けることが多い俺としては、人間関係にまで頭を悩ませたくない。

 だから他人とは積極的に関わらない。うっかり生者と見分けがつかない幽霊と話してしまったりとか、その手の話題を振ってしまって場を凍らせたりとかしてしまわないよう、始めから生者も死者も分け隔てなく関わらない。それが俺の処世術だ。

「そっか。大変だよね、見えるのも」

「もう慣れました。とはいっても悩み続けることになるでしょうけど。悩みなんて生きていれば――いえ、死んでもなくならないものですし」

「あはは。そうだね。成仏できないとか、記憶喪失とか、手掛かりがないとか。悩みってやつは全く困ったものだね」

「ですね。でも、誰かさんのこと以外にも、悩みはありますよ」

「例えば?」

「学生なので、それらしいことですよ」

「彼女が欲しいとか? 男の子だね」

「いや、恋愛系は別に」

「あれ、そうなの? じゃあ、なんだろう。学生らしいか。勉強?」

「勉強もそうですね。特に今時期になると、積み重ねがどれだけ大切か身に染みてわかりますよ」

「今時期……ってことは、進級が怪しいほどダメダメさんなのかな?」

「単に難しくなってきていて授業受けるだけでも大変だなって話です。成績自体は可もなく不可もなくって感じですね」

「そうなんだ。あれ、雅高君って今何年生?」

「言ってませんでしたっけ。三年です」

「おお。同い年なんだ」

「同い年って……表現あってますかね」

 俺基準にしたら橘さんの年齢については当時は、ということになる。生きていたら年上になる。

「いいんじゃないかな。細かいことは気にしても仕方ないよ。三年の今時期かぁ。進路とか大変な時期だね」

「そうなんですよ。みんなもう決めててちゃんと進んでるのに、俺は何しているんだろうって思います」

「決まってないの?」

「ええ。最悪、実家継ぐって感じで考えてるんで」

「ご実家は何かやってるの?」

「時計屋です」

「時計屋……。雅高君は時計好きなの?」

「嫌いじゃないってだけですね」

「じゃあ、他にやりたいことは?」

「ないから進路に困ってるんですよね」

「それもそうか。うーん、年上としてなにか教えられることないかなって思ったけど、実質年齢は変わらないから、何とも言えないなぁ」

「同い年ですもんね。それで言うと、橘さんはどうだったんですか、学生時代。成績とか進路とか」

「どうだったかな。あ、でも、成績はいいほうだったと思う。記憶があいまいだから何とも言えないけど。進路は、……何か、目指していたものがあったと思う」

「目指していた?」

「うん。何かはわからないけど、でもどうしてもなりたくて、必死になってた。あの人みたいになるんだって」

「あの人……」

「誰だったかも覚えてないけどね。勉強は好きだったなぁ。特に数学が好きだった」

「え。珍しいですね数学好きなんて。嫌いな人多いのに」

「だよね。私の友達もみんな嫌いで、テスト前とかになると、こぞって教えてって集まってくるんだ」

「気持ちわかります。俺もテスト前は焦りますもん。ただ、俺には勉強会するような友達もいないですけど」

「勉強会も青春の醍醐味の一つだと思うだけに、寂しいね。……そうだ、相手がいないなら私とする? 今と昔で変わってることがあるかもだから完璧に教えられるかわからないけど」

「え、いいんですか? 小テスト近くてどうしようって思ってたんですよ。よければ是非お願いします」

「あはは。なんだか生きていた頃みたい。思い出すと私も勉強したくなっちゃった」

「じゃあ、勉強会の時に今の教科書色々持ってきます。一緒に勉強しましょう」

「ホント!? ありがとう。優しいな、雅高君は」

「そんなことないですよ」

「うーん。それじゃ、しばらくは調査は置いておいて、勉強に専念しない? 三年生の大切な時間を取るのもことさら申し訳ないし。テストが近いなら絶対勉強に集中したほうがいいと思う」

「でも」

「私がそうしたいの。お願い」

「……わかりました」

 こうして、幽霊との放課後勉強会が決まった。

 会話の中からヒントになるようなことは正直なかったけど、橘さんのことを知るのは決して無駄なことじゃないだろうし、勉強も無駄にはならない。

 翌日から、放課後は毎日旧校舎にきて、二人だけの勉強会をするようになった。

 今と昔で違うことの話題を皮切りに、他愛のない会話を繰り広げながらノートを埋める。

 橘さんは教えるのがうまく、俺のわからないところも丁寧に教えてくれた。その様子はさながら教師のようで、俺は心の中で橘先生と呼んで敬っていた。

 勉強会の中で、お互いの好きなものや嫌いなもの、趣味や特技といったプロフィール情報を教えあったりして、俺の中の橘さん情報が少しずつ埋まっていった。

 そんな日々が続いたある日。

 その日は、テストも終わり、調査に再度乗りかかろうという報告をしに行った。いつもみたいになんやかんや話す中で、ふと、以前から気になっていたことを訊いてみた。

「そういえば、俺って幽霊のことあんまり知らないんですよね。この間の霊障や祟りの話だって、正直考えもしなかったですし」

「でも、見えるんだよね?」

「見えるだけです。今まで、橘さんみたいに話せる幽霊と出会ったこともなかったので」

「そうなんだ。自分が幽霊だから自分基準で考えちゃってたな。みんながみんな私みたいじゃないんだね」

「むしろ珍しいと思います。なので、この機会にいろいろ聞いてみようかなって」

「いいよ。どんな質問でもウェルカム。なんてね」

 大きく手を広げて受け入れ態勢を取りながら笑顔を向ける彼女は、やっぱり生きている人間にしか見えなくて。

 足もあるし、本当に幽霊なのかと疑ってしまう。

「えっと、ではまず、誰かに憑りついたりとかできるんですか?」

 定番の質問。これが出来る出来ないとじゃ全然違う。

「んー。やったことないからわからないけど、やってみる?」

「……遠慮します」

「冗談だよ」

 ころころ笑う橘さん。笑い事じゃないんですよ。笑って流したいのに頬が引くつくだけだった。

「じゃ、じゃあ次の質問、いいですか」

「うん」

「えっと、ポルターガイストとか、できるんですか?」

 これも定番。心霊現象といえばこれといっても過言じゃない。

「できるよ。そうだな、ペンとか貸してくれる?」

「あ、はい」

 カバンから筆箱を出し、中からいつも使ってるシャープペンを一本橘さんに渡す。

「はい。ポルターガイスト」

「はい?」

 ペンを持った橘さんがヒラヒラペンを動かしながらポルターガイストを自称する。

 訳が分からない。彼女はいったい何をしているのだろうか。

 表情に出てたのか、一発芸が滑ったみたいになった空気に耐えかねたのか、苦笑いしながら補足してくれた。

「鈍いなぁ。それとも慣れ過ぎてるのかな。これ、今は私が持ってるけど、幽霊が見えない人からするとどう見えると思う」

「あ」

 そこまで言われてようやく合点がいった。

 見えない人から見たら、ペンが浮いて見える。つまり、これがポルターガイスト。

「なるほど。ポルターガイストは物理だったわけですか」

「幽霊っていう超常現象を捕まえておいて物理というのも少し違うと思うけど」

「その点で言えば、幽霊も物理法則に縛られるんですか? 想像していたポルターガイストってもっとこう、念じるだけでものを動かせたりとかだったんですけど。幽霊のイメージだと浮いたりしてますけど、橘さんは地に足がついたままですし」

「うーん。どうなんだろうね。試したことないから。でもそれは私だからかもしれないね」

「他はそうじゃないと?」

「一概には言えないってこと。他には?」

 ペンを返すべく差し出されたそれを受けとるときに、ふと気になる。

「触れることってできるんですか? 物には触れるみたいですけど」

 物には触れることができる。それがポルターガイストになる。なら、生物には触れることができるのだろうか。

 教室に佇むあれには触れることはできなかった。他の人が通るときにすり抜けるし、俺自身も何度もすり抜けた。

 けど、彼女ならどうだろうか。ここまではっきりした幽霊ならあるいは、

「試してみよっか。はい」

 ずいっと目の前に右手を差し出してくる。いわゆる握手の体勢。

 ごくりと唾を飲み込む。幽霊になんて触れられたことなんて一度もない。たいていは教室のあれと同様すり抜けることができる。

 見えることを隠している俺からすれば、日常生活であふれる霊たちに一々反応なんてしていられない。すり抜けられると信じて突っ込むだけ。

 直接触れることができるとして、もし自分自身に何かあったらどうしようか。それこそ呪いとか。考えれば考えるほど不安でドキドキする。

 決して差し出された白くて奇麗な手を握るのに緊張しているわけではない。

 知っておきたいという知的探求心の元、手を伸ばす。

 決して女子と手を繋ぎたいとか下心はない。

 ゆっくりと伸ばしていく。彼女の指がある場所、そこに確かに触れる感触があった。

「あ」

「お」

 声を上げたのは同じタイミングだった。そこから手をスライドさせていき手のひら同士が重なる位置でしっかりと重ねる。

 右手に、生きている人間とするときと同じような感触が伝わってくる。

(さわ)れたね」

 どこか嬉しそうな声音が聞こえてくると同時に、ぎゅっと握りしめられる。痛くはない。むしろ柔らかな感触に包まれるような、普通の握手だった。

 こちらからも握り返してみる。

 感触も、そして熱も、生者と何ら変わりなかった。

 思春期的な喜びよりも先に、驚きが出てきた。

 嘘だろ。他の幽霊じゃこうはいかないぞ。

 審議を確かめるようにフニフニと手を握っていく。

 何も変わらない。急に触れなくなるようなこともない。どうなっているんだ、一体。それだけ彼女が特別であるということなのだろうか。じゃあ、そんな彼女が悪霊にでもなった時には。

 ――ゾッとした。背筋が凍りつくような、浮き出た冷や汗が伝い落ちる前に氷となるような。おぞましさが脳に浮かぶ。

「あの、ちょっと」

 恐怖を断ち切ったのは目の前から発せられた声だった。

「あ、すみませ――」

 トリップしていた意識を戻して顔を上げると、

「もう、そんなに握られると恥ずかしいよ」

 幽霊なのに顔を赤らめていた女の子がいた。

「ご、ごめんなさい」

 慌てて手を離す。

 これはやっちまった。絶対嫌われるやつだ。どうしたら許してもらえるだろうか。腹切りか?

 思考回路は非モテ男子の超ネガティブ思想に支配され、どうすればいいのか、とりあえずもう一回謝っておかなきゃと再度謝罪しようとするも、橘さんは後ろを向いてしまった。かろうじて見える耳まで真っ赤にして……。

 あ、終わった。ガチギレじゃん。

「もう。今度からこういうことしちゃだめだよ」

 こちらを向かずに放たれた言葉。よかった口はきいてもらえそうだ。

「は、はい。もうしません。なのでその、許してもらえればと……」

 勢い良く見られているのかもわからないけど頭を下げ、反応をうかがうように視線を上げようとしたときに、

「何をもうしないって?」

 ここにはいなかったはずの第三者の声がした。

 それは聞き馴染みのある男の声。

 やばい。完璧完全に油断していた。

 驚いて顔を上げて確認するとそこにいたのは、

「佐藤」

 友人の佐藤だった。

「なんで、ここに、」

「ん? いや。外からなんか人影が見えてさ。お前こそ、こんなところで何してるんだ、一人で」

 一人で。佐藤には見えてない。やはり橘さんは。

「佐藤君って、あの唯一の友達?」

 いつの間にかすぐ隣にいた橘さんが必要ないのに耳元で小声で聞いてくる。くすぐったい。

「はいそうです」

「は? なんで敬語?」

「あ、ああいや。何でもない」

 しまった。橘さんに答えたつもりだったが、見えていない佐藤からすれば俺が急に敬語をしゃべるように見えたはずだ。

 うわ。恥ず。漫画とかでよくあるテンプレじゃん。自分がその立場になるとか思わなかった。

 ここは、佐藤との会話に専念しよう。どう言い訳しよう。

 何も思い浮かばない。早く何か言わなきゃ怪しまれる。ごまかさなきゃ。ごまかす……? 友人に対して嘘をつくのはよくないことでは……? いやしかし本当のことをすべて言ったとしても完全に頭のおかしいやつ認定を食らうだけで、そうしたらただでさえ少ない友人がもっと少なくなってしまう羽目になるわけで。あれ、友人って人生において必要でしたっけ? ん? そうしたら話したほうがいいのか? やばい焦りすぎて思考がおかしく――、

「――生きるべきか死ぬべきか」

 唐突に紡がれたかの有名なセリフ。発したのは橘さんだった。

 その言葉がある一つの言い訳を思い起こさせた。

「――演技」

「演技?」

「そう、演技の練習をしていたんだ。この間見た演劇に感銘を受けてね、やってみたいなって思ったんだけど人前で練習したり演劇やってみたいなんて言えないし、三年生のこの時期だから部活に入るわけにもいかないしで、ちょっと一人で練習してみようかなって人気のない旧校舎に来てみたんだ」

 ここまで早口。口からでまかせ。

 よくもまぁありもしないことをつらつらと話せたものだと自分でも感心してしまう。嘘の才能でもあるのかもな。なんだよ嘘の才能って。

「へー。意外だったけど、まあ、そういうことなら」

 よかった。佐藤も納得してくれたみたいだ。冷静に考えると苦しい言い訳だけれど。すまん、佐藤。

「でもさ、どんな役どころだよ。もうしませんって」

「え!? えっと、その、う、浮気したダメ男的な?」

「いや、なんでその役やろうと思ったんだよ」

「な、なんとなくね」

 いや、なんだよダメ男って。本当にその役あったとしてもやりたかねぇよそんな役。

「まあいいや。にしても、こんな場所を選ぶとはね。古いし学校だし、なんかでそうじゃね? 古い学校には七不思議があったりするし」

「七不思議、ね」

 ちらりと橘さんのほうを見る。

 察してくれているのか、さっきから静かにしていてくれているけど、こちらの視線に気づいたのかヒラヒラ手を振ってくる。

 苦笑いを返しておく。

 七不思議どころか心霊現象が目の前にいるんだよなぁ。

 ……ん? そうか、その手があった。

「確かにあるよなそういうの。いかにも幽霊とかでそうだし、若干怖かったんだよね。何か知ってない? 噂とか」

 そう、人に聞いてしまえばいい。世にいう人海戦術。

 万策尽きたと思っていたが、ここは学校で噂話なんかが好きな学生が集まる場所。であれば、七不思議のような過去の伝承として残っていたり、単純に心霊現象として何か残っていれば、橘さんのことのヒントになるかもしれない。

「噂か」

「うん。しばらくここで練習したいんだけど、そういう噂があるとやっぱ怖いし場所移したりしたいかなって」

「なるほどなー。うーん、でも聞いたことねぇな」

「そっか」

 人生そう簡単にうまくはいかないか。

 腕を組んで必死に思い起こそうとしている友人に、申し訳なさを覚える。

「他の奴にも聞いてみるわ。旧校舎だし、卒業生とかのほうがいいかな。部活のOBとか……あーあと姉さんとか、聞いてみるわ」

「ありがとう。助かるよ」

 本当のことを言えないのは、騙しているようで気が引けるが、これで何か進展があればいいなと思う。

「とりあえず、オレは帰るわ。雅高は?」

「もう少しここにいるかな」

「おっけ。じゃ、また明日な」

「うん。またね」

 去っていくその背中を見送り、完全に見えなくなったところで、

「はぁあああああああああ」

 詰まっていた息を吐きだす。

「大変だったね」

「ええ、本当に」

 労ってくれるはずの声が少し楽しげなのは気のせいだろうか。

「それにしても、意外だったな。雅高君が演劇に興味あるなんて」

 気のせいじゃなかった。

 声にも顔にもニヤニヤ揶揄う感情が隠せてない。

「演劇ってヒントくれたのは橘さんじゃないですか」

「そうだっけ?」

「そうです! 生きるべきか死ぬべきかって」

 それは誰もが知る名作。シェイクスピアのハムレットの一台詞。

 だが、どうして彼女はそれを選んだのか。演劇が好きという話は聞いたことがないが。

「ふふふっ。ごめんごめん、冗談だよ」

「まったく。でもどうしてあのセリフを?」

「うん? うーん。どうしてだろう。なぜかあの時浮かんだんだよね」

「自分でもわからない、と」

「うん。それはそうとして、私のおかげで助かったんだよね?」

「そ、そうですね。助かりました」

「じゃあ、お礼を要求してもいいよね」

「え”」

「いいよね?」

「……はい」

「じゃあ。次からは雅高君も私のことを名前で呼んで」

「え”」

「え、じゃないでしょ?」

「う”」

「うでもなくて」

「ふ、冬子さん」

「よくできました」

「楽しそうですね」

「楽しいよ。すごく」

「人のこといじめて楽しいですかそうですか」

「それもあるけど。今までこんな風に人と接してこなかったから、うれしくて。もう死んでるのに、生きてるみたいな感じがして」

「…………」

「ごめん、反応に困るよね。忘れて。それよりも、これから何か見つかるといいね」

「……そうですね。人に聞くというのは盲点でした。といっても、個人名出すわけにもいかないし、根も葉もないような雑多な噂話の中から、ふ、冬子さんの話を見つけるのは大変そうですけど」

「名前呼ぶたびにどもらないでよ。女子と話すの慣れていない男子中学生じゃないんだから」

「男子中学生のほうがまだましですよ」

「自虐?」

「そんなとこです」

「それはもう置いておいて」

「冬子さんから振ったくせに」

「いいから。噂話にフィルターをかけたいってことでしょ? この先、私個人のことを調べるときに他の人に説明することもあるだろうし、その場合正直に話しても信じてもらえないかも知らないよね。だから、こういうのはどうかな」

 その後、冬子さんの口から語られた作戦は、確かに効果はありそうだけど、でも結局幽霊が見えるみたいな荒唐無稽な話と大差ないような気がした。

 かといって代案があるわけでもない。

 冬子さんの懸念点はその通りだったわけだし。

 つまるところ、噂話の中から冬子さんの話題を見つけるのは困難を極めるのは明白。だから話題を絞るために、検索機能のカテゴリーやジャンルといった風な感じでフィルターを付けようということ。

 例えば、七不思議にも有名なトイレの花子さんとかあるけど、明らかにそれは違う。こういった明らかなものを除外していくために、あらかじめ教室の幽霊、とか付け加えておくなどだ。

 あとは、今後の展開次第では俺個人手に余ることが起こるかもしれない。希望を言えば冬子さんの知り合いを見つけること。知り合いなら冬子さんが何を失くして探しているのか知っているかもしれないし。ただ、知り合いの方を見つけても、ただの学生が首を突っ込んでも跳ね除けられるだけだろう。旧校舎の幽霊を知っていますか、なんて不躾にもほどがある。そういったときに、個人名に近い何かがあれば話を聞いてくれるかもしれない。信憑性が増すかもしれない。信頼を勝ち得るかもしれない。そのための小細工を練ろうということだった。

 小細工を完成させた後は、今日のところは解散となった。といっても俺が帰るだけだけど。

 新しい方法を思いついた今、至急確認したい相手がいるから、急いで帰路に就いた。

 時刻は夕方四時半過ぎ。日が落ちるのが早くなってきたこの時期、もう暗くなり始めている。夕焼けの赤もなりを潜め始める空の下、心は対照的に光差し始めていた。


「母さん。聞きたいことがあるんだけど」

「うん? なあに」

 店の入り口ではなく裏口から入り、すぐ横の階段を上がる。上がった先のドアを開ければ、いつもの家族団らんの我が家の空間。

 帰ってきてからすぐに夕飯の準備をしている母の背中に問いかける。

「母さんは高校時代になんかなかった?」

「なあに、なにかって」

「記憶に残るような事件とか」

 新しい方法。人海戦術。つまりは人に聞きまくるということ。だけど、この場合は関係者にという前置きが付く。

 関係者、と一概に言っても範囲はそこそこ広い。

 在校生。教員。事務。卒業生。学校を去った教職員を含めればさらに。

 年代が判明していればさらに絞れるが、言っても仕方ない。

 つまりはそう。うちの母親も関係者ではあるということ。卒業生というやつだ。

 なので、もし、母の代や前後二年――母の在学中に冬子さんのことがあれば何かわかるかもしれないと思った。三年生で亡くなったということは死因はわからないけれど、在校生にショックを与えたことだろう。記憶に一切残っていないということはないはず。

 正直、望み薄だ。年代が被っていなければまったくヒットしないということだから。

「そうねぇ。とくにはなかったわね」

「そっか」

「ああ、そういえば。高校なんて懐かしいワードで思い出しちゃった。――タイムカプセル! 今はもう埋めてないの?」

「え。うーん。話にも出てこないなぁ。たぶんないんじゃないかな。校舎も変わったし。時代的にも」

「そうよねぇ。思い出の時を止めて後世へと送り届けるのも素敵なことなのにね」

「母さんは埋めたの?」

「うん。ほら、何年か前にお母さん同窓会に行ったでしょ? その同窓会の時に掘り起こしてきたの」

「へえ。母さんは何埋めてたの?」

「うん? 定番だけど、未来の自分に向けた手紙。自分で書いてものとはいえ昔のこととなると覚えていないものね。もう恥ずかしくて読んでられないような内容だったわ」

 言葉とは裏腹に楽し気に話す母さんが少しまぶしく見えた。いい大人とはこういうことを言うのだろうか。

「高校生活は楽しかったんだね」

「どうかしらね。後付け効果みたいなのもあるのかも。でもどうしたの? いきなり変なこと聞いて」

「いや、もう高校生活も終わりだし、自分の親はどうだったんだろうって気になっただけ」

「そう? もうすぐでご飯できるから、制服ぐらい着替えて来たら?」

「そうする」

 リビングを出て自分の部屋へと向かう。

 母さんを含め、家族のだれもに霊感体質のことは言っていない。余計な心配をかけたくないから。だから本当のことは言わずにごまかす。心苦しい時もある。けど、自分一人が我慢すれば問題なく世界が回るのなら、そうするべきだ。

 誰にも言えないというのは苦しい時もあるけど、今は冬子さんがいる。彼女の前では取り繕ったりごまかしたりしなくて済む。それがすごく楽で居心地の良さをいつの間にか覚えていた。相手が生きている人間と大差ないってことが大きいのかも。

 しかし、いや、だからこそ成仏させてあげたいと思う。悪霊化したら怖いのもあるけど、あのままじゃ可哀そうだから。おこがましいかも知れないけれど、友人のような彼女の悩みは解決してあげたい。

 母さんからは何も得られなかったけれど、まだやれることは残されている。少しづつ進んでいこう。

 ――と決意を新たにしていたのだが、案外早く物事は進みだした。


「雅高、昨日のことなんだけどさ。できる限りの奴に聞いてみたんだけど、信憑性の高い話が一つ」

 翌日、登校するやいなやすぐさま佐藤が話しかけてきた。

「仕事が早いな」

 早速教室の隅に移動し、話を始める。

「何でも、二十五年前に事件があったんだって」

「事件?」

「そう。部活の先輩が、そのまた先輩から聞いた話で、さらにその先輩から聞いて」

「うん。名称が一緒で誰が誰だか分らん」

「そうだな、仮称で呼んでいくと、俺の先輩Aが自分の先輩Bから聞いた話で、Bはさらに先輩Cから」

「つまり、代々語りつないできた話ってことね」

「そうそう」

 最初からそう言いなさい。ややこしい。

「肝心のその事件っていうのは?」

「まあ待て。なんでこんなややこしい前置きしたかというとだな、とにかく又聞きで繋がっている伝言ゲームみたいな感じでどこかで真相が歪んでいるかもしれないってことなんだよ」

「噂っていうのはもともとそういうものでしょ」

「それはそうなんだが。ただ実際に起きた話がもとになっているらしい。それは本当だって」

「なるほど。では聞こう」

「ああ。二十五年前、とある女生徒が旧校舎にある時計塔から落ちて亡くなったらしい」

 女生徒。それだけで冬子さんの可能性が上がる。

 ごくりと唾を飲み込み続く言葉を待つ。

「…………」

「…………」

「……え、それだけ!?」

「ああ。その先は派生形があってな。何でも、彼氏を取られた怨念で幽霊になったとか、いじめられていた恨みで、とか、死因も自殺とか事故とか。真偽不明な部分が多いんだよ。どの話にも共通するのが、二十五年前のことらしい。先輩がそう言ってた」

「な、なるほど」

 長い前置きはこのことを言うためか。ってか、内容より前置きのほうが長いのなんなん。

 しかし、二十五年前か。まだ冬子さんであるという確証はないわけだが。それこそ確認してみればいい。

「ありがとう、佐藤。助かった」

「悪いな、あやふやなままで」

「いんや。十分だよ」

 年代がわかれば資料室で確認できる。

 放課後にさっそく資料室へと赴いた。

「二十五年前……。あった」

 見つけた資料を手に取り、いざページをめくろうとしたとき、

「お、珍しいなここに生徒が来るなんて。それも問題児の時田が」

 入口のほうから声をかけてきたのは担任の高松先生だった。先生とは何度も進路指導室で密会を重ねているため、冗談を言い合うほどには親しい。

「高松先生」

「こんな場所で何やってるんだ? ここには将来のことを書いた資料はないぞ。後ろじゃなく前を見ないとな」

「学生にも開放されてる施設ですから、利用していてもおかしくはないと思いますよ。あと、時には後ろを見ることも必要です」

「それはそうだが。けど、普段ここに来る生徒なんて全然いないだろ。進路に悩める三年生が放課後一人でこんなところに」

「勉強はしてますよ」

「まずは進むべき道を決めてほしいところだけどな。で、何してたんだ?」

「探し物です」

「ほー。身内がここの卒業生とか?」

「そんな感じです」

 嘘はついていない。実際母親がここの卒業生だし。

「時田たちのも、もう少ししたら、置かれるからな。ああそうだ、卒アル用の写真、ふざけるなよ?」

「そんなことしませんよ」

「懐かしいな。先生の時は、まだこの制服だったんだ。卒アルのときも、ふざけたやつがいたんだ。あのときは、クラスが暗くなってたからなぁ。最後くらい明るく行こうぜって。馬鹿だったよ、ほんと」

 飾られていた昔の制服を眺めて、どこか遠いところを懐かしむように、先生は目を伏せた。

「高松先生もここの卒業生だったんですか?」

「ああ。もう二十五年も前の話だけどな。探し物、ほどほどにしとけよ? もう寒くなってきたし、暗くなるのも早い。早く家帰った方がいい」

 ――二十五年前! 渡りに船とはこのことかもしれない。

「……一つ、聞いてもいいですか」

 出ていこうとする先生の背中に勇気を出して声をかける。

「なんだ?」

 高松先生が肩越しに振り返る。その目をしっかりと真正面から見る。

「――橘冬子さんって名前に、心当たりはありますか? ここの生徒だった人で、在学中に亡くなったはずの」

「……なんで、お前がその名前を」

 高松先生は心底驚いたように、目を大きく開いた。

 この反応。まさか、こんな身近にヒントがあったなんて。

「知っているんですね」

「あ、ああ。俺らと同級生だよ」

「じゃあ、ここに」

 手にした資料をめくる。

「まて。ちょっと待ってくれ。どうして、時田が橘のこと知っているんだ? 探し物って……」

 数ページをめくり、生徒たちの楽しそうな写真の中、

「見つけた」

 体育祭の時の集合写真だろうか。そこには笑顔を浮かべる冬子さんが確かに写っていた。

 数日前に初めて会って、昨日も会ったあの人。だから、

「間違いない」

「なあ、先生の質問にも答えてくれないか?」

 かなり困惑している様子の高松先生が恐る恐る聞いてくる。

 言い訳、というより小細工は用意してある。こういう時のために、昨日作ったものが。

 この先生は間違いなく、何があったかを知っている。彼女の成仏に必要な、失くしたなにか、を知っているかもしれない。そうじゃなくとも、そのヒントになるようなことを。

 協力を得られれば、間違いなく作業は進む。

 先生から見れば、俺と橘さんは何の関係もない。知っているはずもない存在。なのに探ろうとしている。カードを切るならこのタイミングだ。

 意を決してカバンから例のアレを取り出そうとしたとき、

「もしかして、あれか。自殺したのを噂で聞いたのか」

「自殺?」

 思いがけないワードの登場に動きを止める。

 確か、佐藤から聞いた噂話にもそんなワードがあったような。とにかく、詳しい話を聞きたい。

「興味本位で人の死に首を突っ込むものじゃない。好奇心なら今すぐやめろ」

 突っ込んで聞きたかったのに、触れる前に先生の語気が強くなった。言外に探るなと言われているようなものだ。

 俺を止めようとする理由だけど、なんというか人としての倫理というより、何かこう、触れてほしくない理由が先生にもあるみたいに思えた。

 怒りの感情がどこか抑えきれてないような、そんな気がした。

「とにかく、もう帰れ」

「待ってください!」

 思いは声にも影響し、自分でも意外なほど、大きな声が出ていた。

 立ち去ろうとしていた先生が驚いたように体ごと振り返る。今度は落ち着いて、声を出す。

「詳しく、聞かせてください」

「だから、好奇心なら――」

「そうじゃないです! そうじゃなくて……。頼まれたんです。失くしたものを、探してほしいって」

「頼まれた……?」

「はい。彼女は、生前何か持ってませんでしたか? 死後、見つかってないような、何か」

「何かって。そもそも、誰に頼まれたんだ?」

 ここでさっき出しかけたアレをようやく取り出す。

 それは一枚の文字の書かれたノートの切れ端。

 そこには『誰か、私のなくしたものを見つけて。橘冬子』と書かれている。

 もちろん、冬子さん直筆だ。物理(ポルターガイスト)で書いてもらった。

「旧校舎に、これがあったんです」

 それを先生に見せる。

 突っ込みどころは、正直多いと思う。けど、字は確実に冬子さんのものだし、信じるに値すると思う。

「旧校舎には、噂があります。もしかしたら、今も死に切れていない冬子さんがいるのかも。だから、見つけてあげたいんです」

 嘘偽りのない本当の想いをぶつける。

 じっと冬子さんの字を見つめる先生は、やがて何か諦めたように息を吐きだした。観念したように頭を掻いたと思ったらそのまま出ていこうとする。

「え、ちょ、先生!?」

「明日。放課後に進路指導室に来い。そこで話す。他人に聞かれたい話でもないしな」

 言うだけ言うとそのまま去って行ってしまった。

 ようやく進展があった。でも同時に、謎は増えた。

 今まで、俺は冬子さんの失くしたものを見つけることにしか焦点を置いていなかった。実際、成仏できない=心残りがある=失くしもの、っていうのはスムーズな流れだし。流されたままそこしか見てなかった。けど、相手は死人だ。そこには、死の理由が絶対にあるはずだった。

 自殺。先生はそう言った。

 クラスメイトから名前で呼ばれるほど人気者だった彼女が、どうして。それに、

 いや。この疑問は今は大事じゃない。

 また明日。きっとすべてがわかる。すべてが解決するはずだ。

 この時の俺は、盲目的にそう信じていた。真実は、もう少し奥にあるというのに。


 翌日。思うところはいろいろあるものの、学生の本分は勉強。特に受験生の今は本当に授業に集中するべきだ。これとそれとは別。切り替えていかなければ。

 そんなこんなで、授業を受けて昼を食べて、授業を受けて。

 放課後になったので、進路指導室へと足を運ぶ。

 今月に入って何回目だ、ここに来るのは。まあ、今回はいつもとは用件が違う。

 ノックをすると、中から高松先生のどうぞという声がした。それを聞いてドアを開ける。

「来たか。まあ、座れ」

 向かい合わせに並べられた長机。先生とは対面に座る。

「正直、いたずらかとも思ったんだけどな。あの字には見覚えがあるし、時田が橘の名前を知っているのもあり得ない話だし。とりあえずは信じることにしたよ」

「ありがとうございます」

「とはいえ、さて、どこから、話したものかな」

 切り口に困る様子を見せる先生。

「では、こちらから。自殺、と昨日先生は言いましたけど、どういうことですか」

 代わりにこちらから切り開く。

「……文字通りだよ。そうだな、そこから話すか」

 そうして、先生は語りだした。在りし日のこと。

 ――二十五年前の初夏の日。

 誰も気が付かなかったらしいが、彼女はあの時計塔に上っていた。

 内部に入る整備用の扉があり、中から上って時計盤のところまで行けるらしい。

 かなり高い塔だ。見上げなければ、誰かが上にいることなど、見えないし気づかないどころか、意識すらされないだろう。

 しかも、校舎からは見えない、グラウンド側の時計盤のある方に彼女はいたらしい。

 気が付いたのは、落ちた後だったらしい。いきなりの落下音。何かが潰れる音がして、ついで、悲鳴。

 すぐに騒動になり、警察関係者が学校に来ることも多かったそう。

 警察が探したが、遺書の類はなし。だが、時計塔の扉の前に立つ彼女を見た目撃者がいた。加えて、自殺してもおかしくない出来事があった。

「親友に、当時付き合ってた彼氏を取られたんだ」

 彼氏との別れ。そして、親友との交際の開始。

 当時の彼女は目に見えて憔悴していたそうだ。

「なるほど。だから、自殺」

「そうじゃないかって、噂だった。実際、そうとしか見えなかった」

「そんなことが。……聞いていいですか」

「ああ。なんだ」

「どんな人だったんですか、橘さんって」

「いい奴だったよ。同じクラスだったけど、優しくて気立てがよくて、誰にもでも平等に接する優等生。成績もよかったし、運動もできた。それに、容姿も整っていた。才色兼備ってやつだな。めっちゃモテたらしい」

 でしょうね。あれはもはや芸術だ。

「実際、何人も告白しては玉砕していたらしいしな。いつでも笑顔で明るくて。クラスのムードメーカーって言うのか、まあそんな感じだった。結構、強引なところがあったな。修学旅行とか、あっちこっち引きずり回されたって、同じ班だったやつから聞いたよ」

 そこまで元気っ子には見えなかったけど。幽霊になった影響かな。もしくは、性格が変わるほど彼氏を取られたのが悲しかったのか。

「他に聞きたいことは?」

「あの手紙? のことで。冬子さんが何を探しているか、先生はわかりますか。彼女が大切にしていたものとか」

「ちょっと、思いつかないな。正直、当時はクラス全員でショックを受けてた。あんなにいいやつがなんでって。元カレとか親友とか、めちゃくちゃ責められて。そういう、大変な記憶しか、残ってないな」

「そう……ですか」

 そううまくはいかないか。

 色々、彼女について話は聞けたが、肝心な手掛かりはなし。

 次はどう出るか。

「先生にはわからないが、知ってそうな人ならわかるぞ。実は、この後その人に会いに行く予定なんだが、時田は」

「行きます!」

「お、おう。食い気味だな。どこに行くかって言うと、橘の家だな」

「住所、知っているんですか」

「ああ。何回か、勉強会したんだ。……あれから、もう二十五年。亡くなって数年はみんなで仏壇に手を合わせに行ったり墓参りに行ったりしてたんだがな。いつのころか、行かなくなって。昨日時田から名前を聞いて思い出してな。連絡も取ってみたんだ。住所も連絡先も変わってなくてよかったよ」

 思わぬところに幸運は舞い込んでくる。

 八方ふさがりと思われた中、一筋の光が差し込んだ。

 うまくすれば、失くしたものが見つかるかもしれない。

 先生の車にお邪魔し、走ること十数分。着いたのは、閑静な住宅街にある一軒家。

 何の変哲もない、ただの家。

 年数が経っているためか、どこか古びた印象はある。

 先生がインターホンを鳴らすと、ややあって、はい、という女性の声がスピーカー越しに届く。

「すみません、わたくし先日ご連絡させていただいた。冬子さんの同級生だった高松という者なのですが……」

 ああ、という声の後、応答はなく、少しして玄関の扉が開かれた。

 出てきたのはご年配の女性。

 白くなってしまった頭髪に皺があるものの、ただ枯れていくというよりは、熟していく、と言った表現が似合う美しい人だった。

 どことなく、彼女の面影を感じて、この人が彼女の親類だと一目でわかる。

「こんにちは。どうぞ、上がってください」

 はっきりと、凛とした声を発する。柔和な笑顔と同じく、柔らかく優しい声音。

「あ、はい。お邪魔します。その、今まで来なくてすみません」

「いいのよ。隣の方は……」

「ああ、教え子です。今、僕は母校で高校教師をしてまして」

「あらそうなの。込み入った話は中で。どうぞ」

「すみません。お邪魔します」

 かなり畏まった様子の先生の紹介を受け、軽く頭を下げる。

 先生の後に続いて家の中へと足を踏み入れる。

 家の中は、年代を感じさせないほど壊れているところは見受けられず、むしろ綺麗で整っていた。

 通された居間の隣。開け放たれた扉の向こう側、畳みの部屋に仏壇があった。

 冬子さんの写真と、もう一人。

「数年前に、夫が私より先に旅立ってしまいまして」

 察したのか、橘さんが先に補足する。

「そうなんですね」

 先生と二人、線香をあげ手を合わせる。

「すみません、急なお願いを」

 お参りを済ませた後、先生と横並びに、橘さんとは斜め向かいに座る。

「いいんです。あの子も喜んでいると思います。改めて、冬子の母です。お茶、どうぞ」

「すみません。ありがとうございます」

「いただきます」

 お茶に口をつけ、喉を潤す。

「それで、教え子さんまで、どうしてうちに?」

 まあ、こうなるわけだ。

 先生に見せたアレを橘さんにも見せ、説明する。

「確かにあの子の字ね。でも紙は新しいものよね」

 ――ぎくり。そう、そうなんだよ。突っ込みどころはあるんだよ。そして突っ込まれると大変困る。

「もしかしたら、あの子がまだ、ねぇ。本当にそうなのかもしれないわね」

 セーフ! どうやら信じてもらえたっぽい。

 幽霊のことを隠したかったはずが、むしろ認めていくスタンスな言い訳は、今思い返せば色々おかしい。二人で考え付いたときはなぞに最強なメンタルだったんだけどな。

 それでも、俺が見える体質であることは隠されている。いやもう、ここまで来たら隠す必要もない気がするが。

「化けて出ても、仕方ないものね」

 零すように落ちた言の葉を、拾い上げて問うてみる。母親から見ても何かがあったということは間違いないようだ。

「それって、自殺の原因になったっていう恋愛がらみの……?」

「え? ああ、違うわ」

「違うんですか?」

 驚いて反応したのは先生の方だった。

 元々、自殺の原因は彼氏を親友に取られたからと言っていたのは先生の方だった。そう、思っていたはずのところに、新事実が飛び出したら驚くのも無理はない。

 橘さんは悲しそうに、懐かしい日々を思い返すかのように淡く微笑みながら、知られざる事実を語る。

「確かに、親友が当時付き合っていた彼と付き合い始めたけど、それはあの子が……冬子が自分でそうしたの」

 橘冬子と親友だった荻野梅さんは、冬子さんと同じ人を好きになり、大胆にもそれを冬子さんにも打ち明けていたらしい。

 親友という関係をできるだけ壊したくない、ずるい手を使って出し抜きたくない。まっすぐで素直な勇気ある人だった。

 橘さんは、娘の冬子さんと親子関係は良好で、そう言った思春期ならではの出来事も、包み隠さず話していたそうだ。

 同じ人を好きになった二人は、後腐れないように対等に平等にとお互いに同時に告白をした。どちらが選ばれても、互いを恨まず憎まず嫌わずと、約束を交わして。

 選ばれたのは、冬子さんだった。

 でも、事前に交わした約束の通り、荻野さんは涙を呑んで二人を祝福した。

 その後の学校生活、交友関係も、何一つ悪い方には転がらずに、順風満帆と言える日々を過ごしていたそうだ。

 ……その日までは。

 高校二年の冬頃。奇しくも自身の名と同じ季節に、運命は動き出した。

 体調不良を訴え始めたのだ。

 最初は本人も一過性の物だと思い込み、放置をしていた。

 だが、一向に回復する兆しは見えず、むしろ悪化していくばかり。

 これはおかしいと病院に行くと、下された診断は重く大きい病気だった。

「わたしも冬子も、夫も驚いた。いつの間に、どうしてって」

 そして、さらなる追い打ちが、冬子さんを襲った。

「――余命宣告されたの。卒業は、できないだろうって」

 下された無慈悲な宣告に、しかし、冬子さんは負けず笑っていた。

 入院し少しでも延命するよう治療を受けることもできたが、本人は拒否。最後まで学校に通うと言って聞かなかった。

 それから、みるみる衰弱していき、だが今までと態度を変えず、弱音ひとつ吐かなかった。

「強い子だった。何にも言わないで、ずっと笑顔で。私達にも、誰にも心配かけさせまいと」

 それでも、体は確かに限界を迎えていた。

 三年生になり、数か月後、さすがにこのままの生活は無理だと、近いうちに入院することが決まった。

 彼女が亡くなったのは、その数日後だった。

「明るくて、優しい子だった。自分がいなくなることを考えて、親友に彼氏を譲ったの。本当に好きだった彼を」

 辛い決断だっただろう。何しろ、恋人と離れなければならないのだから。さらに、親友と仲良くしているところを間近で見ることになる。

 俺がその立場だったら、同じことができただろうか。

 きっと塞ぎこんで、部屋から出ようとせず、人生を諦めるだろう。他人の幸せなんて、考えもしないで。

「何か、見つかってない大切にしていたものは、ありませんか?」

「ごめんなさい。あの子のことはずっと覚えておきたいけれど、どうしても少しづつ忘れていってしまうの。だから……」

「そうですか」

 どれだけ、辛いことだろう。大切な人の思い出が、少しづつ消えていくことが。忘れたくないのに、覚えていたいのに、思い出せなくなることが。

 たかが十数年しか生きていない、恋をしたことも、子供ができたこともない俺には、想像すら許されない領域だ。

 けどきっと、すごく苦しくて悔しいことだ。想像を絶する胸の痛みを帯びるのだろう。

「どうして、って。何度も思った。どうしてうちの子が、そんな病気に。そんなに早く死んでしまうのって。神様は残酷ね」

 いっそ神様を恨んでもいいのに、その声は諦めがついたとばかりに、ただただ哀愁と哀悼に濡れ、しっとりと穏やかだった。

「物わかりのいい子でね。自分が死ぬと知って、一番初めにしたのは、片づけだった。遺品整理で困らないようにって。綺麗に、思い出すらすべて。人間関係も整理して、いつ死んでもいいようにって。死ぬことを、受け入れて。生きることを諦めてしまっていた。焦ってよかったのに、怒ってよかったのに」

 強い人だ。けど、弱い人だと思う。

 あがくべきところなのに。理不尽に抗い、生きることを選んでいれば。

 けれど、ならばどうして、自殺なんてマネを……。

「きっと、死にたくなかったのね。病室で独り寂しくなんて。だから、学校で死ぬことを選んだのよ」

 こちらを見透かしたように、彼女の選択の意図が伝えられる。

 だけれど、やはり、違和感があった。

 だって、そこまで生に拘ってなかったのなら、どうして幽霊なんかに……。

 ……いや、そうじゃない。そこじゃない。もっと何か……。

「ああ。そういえば、時計」

 沈黙を割くように、橘さんが思い出したように、声をあげる。

「時計?」

「そう。あの日、家中の時計が止まっていたのよ。それで、冬子の祖父――私の父があの子にあげた懐中時計、それで時間を確かめたようとしたの」

「懐中時計、ですか」

「ええ。あの子、気に入っていたみたいで、いつも持ち歩いていたの。祖父にはすっごく懐いていてね。教師をしていた祖父が帰ってくるたびに玄関まで駆け寄って。そうそう、あの子ったら『おじいちゃんみたいな先生になるんだ!』なんて言ってて」

 過去の出来事を思い返し、ほころばせた顔は楽しそうで嬉しそうだった。

 前に冬子さんが言っていたことを思い出す。

 あの人みたいになりたかった。夢があった。

 本人は忘れてしまっていたけれど、それはきっと、おじいさんのことだったのだろう。

 おじいさんのような教師になる。それが、彼女がなしえることができなった将来の夢。

「ごめんなさい。話がずれたわね。あの朝、時計が止まっちゃってて電池を変えようとしたのだけれど、電池も見つからなくて。だから冬子に時間を訊いたの。懐中時計を持っていたはずだから。でも……。ずっと大切にして持ち歩いていたのに、失くしたっていうのよ。それで結局時間がわからなくて電池を買いに行ったのよ。そのついでに交番によって落とし物として届いていないか聞いたりしたのだけど、届いていないって。学校とかで落としていたら、誰かが届けてくれるかもと思っていたのだけれど」

「じゃあ、失くしたものっていうのは、」

「たぶん」

 光明が見えた。

 考えていたことが吹き飛んだが、かなりの収穫だ。

 見えてなかった何かが見えた。これで、少しは前進だ。

 その後、少しばかりの思い出話に花を咲かせ、陽が沈む前に解散となった。

 帰りの車中、気になっていたことを先生にぶつける。

「先生は何か知ってますか、懐中時計について」

 ハンドルを握ったまま、先生は考え込むように唸ってから、

「どっかで見た気がするんだよな。冬子が持っていたのを見たんだっけか。あいつ、いつも持ってたからな」

「大切にしていたんですね」

「ああ。昔の同級生にも訊いてみるわ。もしかしたら誰か知っているかもしれない」

「お願いします」

 窓の外は勢いよく景色が後方に流れていく。

 もし、高所から落ちた時、この流れていく景色が上から下に行き、どんどん地面が近づくのだろうか。想像しただけで恐ろしい。

 ……………………。

 無言が続いた。

 何を話していいのかも、正直わからなかった。

 頭にあるのは冬子さんのことばかり。誰も知らなかった彼女の想い。

 わかったことは多くある。でもわからないこともある。

 かねてよりあった疑問が、気が付けばうっかりと口からこぼれ出ていた。

「なぜ。時計塔から飛び降りたんでしょうか」

「え?」

「だって、死ぬと決めたのなら、方法は他にもあったはず。他者を優先するような人柄だった冬子さんなら、学校に迷惑が掛かる方法をとるとは思えないですし。みんなのところでってのはわからなくもないですけど、なんか違う気がして」

「そこまで追い詰められてたってことじゃないのか」

「そうだとしても、です。仮に学校で死ぬと決めていたのなら、誰もが一番最初に思いつく場所があるじゃないですか」

「うん?」

「屋上ですよ。屋上」

「なるほど! 確かに」

 不謹慎だけど、学校で死ぬと言ったら屋上というのは、ドラマや映画なんかの創作物でよく見る、いわば定番だ。

 うちの学校は昔から屋上は解放されている。

 昼休みに晴れた日は、友達と昼ご飯を食べたりする人も多い。

「どうして、すぐに思いつきそうな、行きやすい屋上ではなく、内部のわからない時計塔なんかで……」

 時計。

 かちりと、何かが噛み合う音がした。

「あ、もしかして」

「うん? なんだ、どういうことなんだ」

「いえ、まだ。もう少しだけ」

「なんだよ、気になるなぁ」

「すみません、確証が得られてないので。あ、あと、一つ訊いてもいいですか」

「なんだ?」

「時計塔って、内部もメンテ必要ですよね」

「ああ。内部に時計の機構があって、異常や故障がないか見る必要がある。って、整備用の扉に書いてあるだろ。関係者以外立ち入り禁止って。関係者は入るってことだろ」

「つまり、内部からなら、時計を止められる……?」

「まあ、知識があればな。素人じゃ、中に入ってもなんのこっちゃって感じだろうが」

「もう一つ。登った場合、外に出られるんですか? ――冬子さんが時計塔からって聞いてもどうしてもわからなくて」

「中から上がっていけば、外に出られる部分があるんだ。確か、十二の文字盤のところに窓みたいなのがあるはず」

 見えてきた。

 だけど、わかってもしょうがない気がする。

 兎にも角にも、失くした時計を見つけなければ。

 時計。時間。確か、時間がどうのって会話を最近したはず。冬子さんの考えが、俺の想像通りなら、それなら、

 ――カチ。

 まるで長針と短針が重なり合うように、離れていた二つがかみ合い重なったような気がした。

「――タイムカプセル」

「え」

「先生の時代なら、まだ埋めてましたよね!?」

「あ、ああ。やったな」

「掘り起こしましたか?」

「いや。そういえば、埋めたはいいが掘り起こしてないな。今も埋まっているはず」

「冬子さんは、参加しましたか」

「あ、ああ。もともとやろうって言いだしたのは冬子だからな。埋める場所もあいつが校長に許可とったくらいだし」

 ああ。すべてが一致した。

 でも、どうせならこのまま終わらせたくない。きっと、冬子さんも望んでいない。成仏できないのはきっと、時計を失くしたからじゃない。それはきっと。

「先生、できる限り当時の同級生を集めてもらえませんか」

「いいけど、何する気だ?」

「タイムカプセルを掘り起こす、同窓会です。止まってしまった時を、進めましょう」


 少し時間が経ったとある週末。旧校舎校庭に、私服の大人達が集まっていた。

 高松先生が声をかけ、集まった当時のクラスメイトたち。

 それもほぼ全員だという。素直にすごいと思う。

 みんなタイムカプセルの存在を忘れていたらしく、話を聞いて懐かしくなったのか、みな一様に掘り起こそうとなったらしい。

 その場にいる俺は少しばかり場違いな気がするけど。

「集まったな。みんな忙しい中ありがとうな」

 幹事のような役割の高松先生が一同を見渡す。その手にはシャベル。

「高松、その子は? お前の息子?」

 早速視線が俺に向いた。

「ちげぇよ。教え子だよ。興味あるっていうから、ちょっとな」

「どうも」

「教え子って?」

「言ってなかったっけ。ここの教師やってんだよ、今。今日のことだって校長に許可とったの俺だからな?」

「え、マジ!? 知らなかったぁ。どう、いい先生?」

「ええ。生徒の頼みを聞いてくれるすごくいい先生です」

「おお!」

 俺の言葉に歓声が上がる。照れくさそうな先生の横顔は、普段生徒に見せるものではないものだった。

「そんなことより、タイムカプセルだろ? 早速掘り返そうぜ」

 先生と、自前でスコップを持ってきた人たちで、校庭にある木の下を掘る。

 目印は校舎から五番目らしい。たまたま覚えていた人がいたようで、何から何までする必要がなくなってよかった。

 しばらく掘り進めると、案外あっさりと箱が出てきた。

 興奮する大人たちが箱を開けると、色々なものが出てきた。

 多くは未来の自分に向けた手紙。他には、レコードやおもちゃ、部活で使ったらしいシューズや筆、鉛筆なんかも入っていた。

 そして、

「懐中時計」

 二十五年の歳月が経ってなお金色に輝く、懐中時計。

 趣のある模様。パカリと開くと、中の針は止まっていた。

「ここにあったのか」

 意外そうでけれどもどこか納得したような高松先生の声に、場は静まりを見せる。

「冬子が、入れたの、よね」

「荻野……」

 先生が女性を見止め息をつく。

 この人が……。

「見つからないのはおかしいと思っていたのよ。あの子、すごく大切にしていたから。それをくれたおじいさんのように立派な教師になるんだって。これを見るたびに身が引き締まるって」

「止まってるな。当たり前か」

 高松先生の手の中で、静かになった時計。

「そういや、あの日学校の時計があちこち止まってたよな。ちょうど、それぐらいの時間で」

 指し示す懐中時計の、止まった時刻は四時四十八分。冬子さんが飛び降りたのは、

「夕方の五時過ぎだっけ、あいつが、落ちたの」

「確かな」

 暗い雰囲気が場を覆う。楽しげな雰囲気はとうに消え去り、この場は完全に凍り付いていた。

「悪かった、荻野」

 そんな中、先生が荻野さんに頭を下げた。

 何の脈絡もなく、唐突に起きた出来事に、その場の全員が固まる。

「なにが?」

「ずっと、お前が彼氏を取ったから冬子が死んだと思ってた。でも違ったんだな。誤解してて、すまん」

「どういうこと?」

 事情を知らない他の人たちならまだしも、謝られた荻野さんが訊き返した。

 先生が、橘さんから聞いた真実を語る。

 荻野さんの頬を涙が伝った。

「そんな……。なんで、だって、なにも言ってくれなかった」

 なんでも話す親友。だからこその配慮だったのだろうか。今ではもう確認するすべはない。

 荻野さんもまた、何も聞かされてなかった。

 彼氏を譲られたことだって、

「別な人が気になりだしたからって、振ってきたって。出来れば私と付き合ってほしいって言ってきたって。ただ、それだけで」

 衰弱した理由も、

「仲の良かった良かった親戚が亡くなったからって。辛くて食べ物がのどを通らなくなったって。本当に、何にも聞かされてなかった」

 二十五年越しに、真実を知った面々は、それぞれ悲しみ、涙した。

 彼らの時計が、止まっていた針を動かしだした。

「なんで……言ってくれなかったのよ……冬子……」

「相談してくれても、よかったじゃんか」

「思いつめて、一人で死んじまうくらいなら」

「――違うと思います」

 悔やみの言葉を口々に言う彼らの、つい口を挟んでしまう。

 違う。そう、きっと違う。

 彼女は、冬子さんは、

「死のうとしたんじゃない。止めようとしたんです」

 俺は、俺の中でたどり着いた結論を、話した。

 この人たちは大丈夫。二十五年前に止まった時は、今ここでまた動き出した。

 後は、

「皆さんに、お願いがあるんです」


「ああ、いた」

「雅高君」

「こんにちは」

 あれから、また数日。

 俺は旧校舎の地縛霊、冬子さんに会いに行った。

「ここ数日会いに来なかったのに、今日はどのようなご用件で?」

 若干言葉に棘を感じる。苦笑しつつ、問いに答える。

「進展があったので、その報告に」

「本当に?」

「ええ。だからこうして休日出勤しているんです」

「今日は休日なんだ。だから静かだったんだね」

 窓の外を眺める冬子さんの背中に、かねてより訊きたかったことを訊いてみる。

「この教室、気に入ってるんですか?」

 彼女はいつも同じ教室にいた。

 いつも、窓際に立っていた。

「うん。ここ、私が使っていた教室だから」

「そうだったんですね」

「なんか、ごめんね。大変なことお願いしちゃって。ここ数日来なかったから、もう諦めてくれたのかなって思ったりもしたんだけど、雅高君のことだから、きっとまだ探しているのかななんて思ったりもしてた。もういいよって、取り消したかったけど、雅高君がここに来ないと、私からは会いにいけないから」

「約束しましたから最後まで諦めませんよ。取り消しも受け付けません。さて、用意は、もうできてます。一緒に来てもらってもいいですか」

「? いいけど、どこに? 私、旧校舎から出られないよ?」

「大丈夫です、体育館ですから」

 古びた廊下を、ギシギシ音をたてながら二人で歩く。

 幽霊に体重なんてないのか、響く音は一人分。

 やがてたどり着いた体育館。その扉の前に立ち、軽く二、三回ノックする。

 返事はない。

 冬子さんも疑問に思うように首を傾げる。

 だが、言葉にするより先に、俺はドアを開けた。

「…………!」

 言葉にならない声が隣から漏れ聞こえた。

「卒業生、入場」

 本来は司会の先生がいるんだけど、今日はいないため、俺が代理で声を張り上げる。

 すると、急ごしらえで用意したパイプ椅子に座る、かつての冬子さんの同級生たちが立ち上がり拍手する。

「さ、行きましょう。みんな待ってます」

 冬子さんにだけ聞こえる声量で唖然とする隣の幽霊に伝える。

 周囲にばれないように冬子さんの手を引いて、左右に分けられたパイプ椅子の間を通り、壇の前に用意された椅子の前に立つ。用意されたのは一脚。冬子さんを前に立たせ、俺は壇上へ。

「国歌斉唱」

 壇上端で、足元のプレイヤーの再生ボタンを押す。

 戸惑う冬子さんをしり目に、俺らは歌う。

 視線だけで、冬子さんにもそうするように促して。

 国家の後は、校歌。

 今も昔も変わらない、この学校を象徴する歌。

 そして、

「卒業証書授与」

 集まった皆さんが座る。

 本来校長先生が立つ場所にはこれまた俺が代理で立つ。

 よくある台はさすがにないため、床に置いておいた一枚の紙を取り上げる。

「三年一組、橘冬子」

 名前を呼びあげる。

 冬子さんは戸惑ったまま、おろおろしている。

 俺は視線だけで促すと、小さく、はい、と返事をする。

 さすがにこの空気感を理解したのか、端から壇に上がり俺の目の前に立つ。

「どういうこと? みんなも。だって、みんな見えてないんでしょう?」

 俺の前まで来た冬子さんが、様々感情の入り混じった声で訊いてくる。

「ません。けど、俺がお願いして、冬子さんの卒業式を開いてもらいました」

 小声で応じる。けど、静かな体育館。隠すこともできまい。それは、仕方のないことだ。

 仕方のないことといえば、卒業式というのに華やかさが足りていない。飾りつけもなければ、先生もいないし、卒業証書だって俺らで作った偽物だ。

 ここにいるのは、冬子さんの同級生のみなさんと、俺だけ。

 タイムカプセルの日に、お願いしたのだ。卒業できなかった彼女のために、卒業式を開きたいと。

 快諾してもらい、あの日来れなかったメンバーにも声をかけ、なかなかに無理をしてもらって全員に集まっていただいた。

「旅立ちには、これ以上ないでしょう?」

 みなさんには冬子さんは見えてない。ここには、俺のわがままを聞いてくれた優しい大人たちが、それぞれ、亡き冬子さんへの思いで揃っている。本人がいることは知らない。分からない。ただ、いる体でやってもらっている。

「卒業証書。橘冬子殿。右の者は本校の全課程を終了したことを証する。はい、どうぞ」

 横長の紙とともに、ポケットから取り出した懐中時計を差し出す。

「これ……」

「お探し物はこれであってますか?」

 卒業証書と時計を受けとった冬子さんの視線は、じっと手元に注がれている。

「うん。これ。これだよ。探してたの。でも、これはもう壊れて」

「開いてみてください」

 今にも泣きそうな表情で、顔をあげる。

 目を見て、頷く。

 彼女の手に渡った懐中時計が、開く。

 そこには、きっちりと動く秒針が、短針が、長針があった。

「な、んで……」

「前にも言ったと思いますけど、うち、時計屋やってるんですよ。ちょっと変わってますけど。だから、直しておきました」

「…………」

 時が止まったかのように、冬子さんはじっと時計を見つめたまま動かない。

「冬子、ちゃんとさ、言ってよ。自分のこと。病気なら、そうだって、言ってくれればよかったのに。あんた、なんも言わないんだもん」

 荻野さんが壇上に上がり、虚空に浮かぶ懐中時計の、それを持っているはずの人物に声をかける。

「梅……」

「そうそう。何も言わずに、他に気になる人ができたって。親友と付き合ってくれって。言われたこっちの身にもなれよ」

 また一人、壇上に上がる。

 冬子さんの元カレの藤堂さん。

「藤堂君……」

「気を遣うなんて、いいから、もっと話してくれればよかったのよ」

「下田さん」

「冬子はいっつも俺らのことを考えてくれてたんだから、俺らももっと冬子のこと考えればよかったな」

「高松君」

 どんどんと、壇上に上がって声をかけていく。

 やがて、全員で囲むように立っていた。

「ほんと、もっと話せばよかった。なんで言ってくれなかったのよ、なんで急にいなくなっちゃうのよ、冬子」

「梅……。ごめん」

「時間を、止めたかったんですよね」

 静かに、語る。

 俺のたどり着いた結論に。きっとそうだと不確かな確信を得ながら。

「ずっとみんなと居たかった。もっと遊びたかった。話したかった。笑いたかった、泣きたかった。――卒業、したかった」

 卒業前に、余命が来ると宣告されて。でも、みんなと一緒に、

「みんなと一緒に、卒業したかったんですよね。みんなと同じ時間を生きたかった。自分だけ、止まってしまうのが嫌だった。だから、止めようとした。時間を」

 タイムカプセルの中のこの懐中時計は、止まっていた。

 朝、家中の時計が止まっていた。

 学校の時計も何か所か止まっていた。決して偶然なんかじゃない。そこには冬子さんの影が必ずあった。

 そして、極めつけは、

「時間を止めることなんてできやしない。けど、無駄なあがきとわかっていてなお、せざるを得なかった。そうしないと、心が折れてしまうそうだったから。みんなの前でいつも通りふるまって、家族の前でも気丈にして、物を片づけて。でも、本当は怖かったんですよね」

 時計塔の時間を、止めようとした。

「あの時計塔の時間を止めようと、中に入ったは良いものの、どこをどうすればいいのかわからなかった。だから、針を直接いじろうと思った。上へあがっていき、時計の文字盤のところに出て。けど、止めることなんてできずに、不運にも落ちてしまった。あれは、自殺じゃない、事故だったんですよね」

 冬子さんにとっては、チクタク音を立てながら正確に進む秒針が、あるいは時限爆弾のタイムリミットタイムリミット(終わり)を告げるかのように、逃れられない無慈悲で残酷な死神の足音のように聞こえていたのだろう。だから、時計を止めていった。大切な人たちとの別れまでを告げる時計を。目につく時計を次々と。大切な時計すら。

 そして、ひそかに一人でタイムカプセルを掘り起こし、時計を入れて埋めた。

 未来が来ることを、僅かな希望を留めて。

 いつしか母さんが言っていた。思い出の時間を止めて、未来に送り届けると。

 きっと冬子さんも、未来へと繋ぎたかったんだろう。自分の命を。いつの日かみんなで掘り起こしたとき、実はそんなことがあったんだって、笑いあうことを夢見て。

 そう。あれは、死への恐怖が引き起こした、悲しい事故。

 誰よりもみんなと居たかった少女は、卒業し旅立つことができないまま、この校舎を彷徨い続けた。

 望んでいたのは、みんなと生きること。

 ずっと同じ場所で止まっていることじゃない。

 流れる時間の中に、歩き続けたかったはずなんだ。

「もう、いいんですよ。止まってなくて。たった独りで止まり続けていても、寂しいじゃないですか。先に進みましょう。卒業しても、友情は変わりません。旅立ちは、涙ばかりじゃないんです。先に進めば、新しい出会いもあります。みんなも進み続けているんです。あなただけが、止まる必要はもうないんですよ」

 冬子の目が潤み、やがて大粒の涙をこぼした。

 とめどなくこぼれ続け、嗚咽は言葉となる。

「生きたかった……! みんなと、一緒に、卒業したかった!」

「できたじゃないですか。卒業」

「…………! うん、そうだね。出来たよ! できたんだ!」

「はい」

 涙をぬぐい、顔をあげる。

 そこにはもう、後悔も不安も、悲しみない。晴れやかな、笑顔だった。

「ありがとう、雅高君」

 大輪の花が咲くような笑顔だった。

 彼女の体を光が覆う。光は溶けるように、彼女の体は薄く消えていく。

 天に向かって伸びた光は、やがて、消えていった。

 幻想的で美しくも、儚く悲しいその光景は、彼女の思いが起こした奇跡か、その場にいた全員が見ることができたらしい。

 彼女の止まったままの時計は長い年月を経てようやく動き出した。直すことが出来て、よかった。

「これにて、卒業式を終わります」

 未練を残してとどまりし魂は、卒業し、学び舎から旅立った。

 残された時計が、カシャリと音をたてて落ちた。


 来る翌日。

 すべてが終わった後も、俺には一つやるべきことが残された。

「あら、あなたはこの前の」

「こんにちは。すみません、また来てしまって」

 俺が向かったのは橘さんの家。

「どうぞ、上がって」

「お邪魔します」

 前回と同じように居間に通され、今度は向かい合って座る。

 昨日のことの顛末を、まずは報告した。

「そう。旅立てたのね、あの子も」

「はい。すみません、お誘いせずで」

「いいのよ。あの子が望んでいたのは、みんなとの卒業なのでしょう?」

「ええ、まあ。はい。それで、これ」

 ポケットから取り出したのは、懐中時計。

 冬子さんの置き土産だ。

 タイムカプセルの後、この懐中時計を借りて、家に帰り修理に取り掛かった。

 冬子さんの成仏に必要だったのは、卒業式と、動くこの懐中時計だった。

 卒業式は高松先生に任せて、俺は時計の修理を行った。

 幸い、そこまで複雑に壊れてはいなかったので、俺でも直すことができた。

 そして、卒業式にて冬子さんに手渡し、残されていった。

 適任かと思って、冬子さんの親友だった荻野さんに返そうとしたのだが、冬子さんはきっと俺に託したと思うから持っていてほしいと受け取ってもらえなかった。

 そうは言われても、ちゃんと持ち主に返したほうがいいと、今日この場に足を運んだのだが、

「返さなくていいわ、あなたが持っていて」

「でも……」

「老い先短い老人が持っていても、仕方ないでしょう。私がいなくなった後に誰かの手に渡ったり、売られたりしてしまうくらいなら、あなたに持っていてほしいの」

「…………。わかりました」

 こうして、時計が俺の手に残ってしまった。

 橘さんの家を出ると、高松先生がいた。

「なんとなく、ここにきている気がしてな。少しだけ寄ってみようと思ってきたんだが、ちょうどよかったな。……これから、冬子の墓参りに行くんだ。時田も来ないか」

「是非」

 先生の車に乗り、発進してしばらくしてから、先生が口を開いた。

「お前さ。最初から見えてたんじゃないのか? 冬子のこと」

「さて、何のことでしょう」

「いや、だってあの卒業式の最後……。いや、なんでもない。みなまでいうのは無粋か」

「あ、そういえば先生。俺、進路決めました」

「本当か?」

「ええ。なので冬子さんにもこの後報告しておきます」

「なんで冬子に?」

「だって、」


 ――春。

 桜の花びらが左右から舞う並木道を歩く。

 麗らかな季節の訪れを知らせる儚い花。その姿に、誰かの面影が重なった気がする。

 ピンクの絨毯が敷かれた道を歩いて目指すは、教育大学。言わずと知れた、教師を目指す者たちが通う大学。

 結局自分で自分の道を決めることはできなかった。だからいっそのこと、あの人が生きたかった(行きたかった)道を継ごうとを決めた。

 こういうのもありなんじゃないかと思う。先生には、冬子さんにそこまで縛られなくても、と言われたが決してそういうわけじゃない。あくまで自分で決めたんだ。あの人が見たかった景色はどんな感じなのかと。それに、あの一件でなんやかんや一番協力してくれた高松先生を見て、こういう大人もいいかな、なんて思ったのもある。

 どうせコケても実家継げばいいし。保険があるから迷わず飛び込めた。

 受験については、不安が大きかった。あいにくと頭脳はいうほどよろしくないので。合否発表は結構緊張した。受かってた時は心底ほっとした。

 受験の時も、合否発表の時も、そして今も。ポケットの中からあの懐中時計を取り出す。

 生前の冬子さんと同じように、俺はずっと持ち歩いている。なんだか、ここに冬子さんがまだいるような気がして。お守りのような感じでずっとそばに置いている。

 時計を見ると、最後に見せてくれたあの笑顔を思い出す。おかげで時計を眺めたりすることが多くなった。

 未練がましいのはどっちだ、という話だ。

 中を開くと、正確に時間を示し、先を進み続ける秒針がある。

 時には振り返るのもいいかもしれないけれど、止まるわけにはいかない。

 あの人の見たかった景色は、まだまだ遠く、先にあるから。

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