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心の闇

作者: 西郷 隆

  私は、十七才の高校二年の秋の時、青森県金木町にある芦野公園にいた。秋晴れの十月頃の季節だったと思う。公園には太宰治を記念するベルレーヌの石碑があった。

「選ばれてあることの恍惚と不安二つ我にあり」と刻まれていた。若き山田隆は、その記念碑を前にして漠然と理解するのだった。『不安』の言葉は何となく未来を考える時 、リアルな言葉として、理解できるのだったが、『恍惚』の言葉からは、意味不明な響きとして感じとるのだった。 


 時は流れ、高校時代から交際していた横山比佐子と二十七才の時、結婚した。私はこれから、自分の人生の試練ともいえる家庭内の義父とのトラブルを書き進めて行こうと思う。書き進める前に、自分に対してできるだけ客観的に義父の心の闇を、あたかも探偵或いは精神科医のごとく推理していきたいと思う。いわば精神科医的探偵になったつもりである。

  あれはいつ頃のことだったか忘れたが、横山均夫妻がそろそろ老後に向かうライフサイクルの頃だったと思う。娘たちが、中学生の時代だったと思う。私の親父から建てもらった家で生活している時、女房から自分の両親の老後の世話をするために、同居するプランを提示されたことがあった。薄ぼんやりとした記憶であるが、あまり気乗りしない積極的な気持ちになれない自分があったことは確かである。

 女房の性格から言って、将来のビジョンを提示し、アドバル―ンを上げれば、その先からは、突っ走るような勢いで、私が頭の中でためらっているうちにも、そのプランは、積極的に進められた。

 私は、その頃創価学会日蓮正宗の信者であったために、朝晩欠かさず唱題行の勤行をしていた。手っとり早くしゃべれば、義父との最初のトラブルが私の地声である大きな声の勤行が耳障りであったのであろう。同居するにあたって、女房にくどい程この点を妥協してもらうことを条件に同居することを決めた経緯があったのである。しかし、お互いに長い習慣は一朝一夕では変えることはできない。

 或る晩のことであった。忘れもしないあの夜の出来事から、この小説のプロローグは始まるのである。

  或る夜のことであった。酒に酔って帰って来た私の義父横山均は、突然私に対してこんなセリフを吐いた。「隆さん、話があるから座敷に来て欲しい」と、こんな内容の言葉を私に投げかけたのであった。私は義父の含みを帯びた語りぐさから、瞬間的にネガテブな予感を抱いた。

 私は、言われたように、座敷に座った。確かあの時、妻の比佐子もいたような気がする。それほど義父から投げかけられた言葉の内容が、まるで頭をハンマ―で殴られたような強烈なダメージを受けたために、話の前後が今では、鮮明に思い出せない。座敷に座った私は、いきなり「隆さん、このうちの家屋敷をあなた一人にあげるというのは、おかしいと思わないか」と予想だにしない強烈な言葉によるパンチを浴びたのであった。私は瞬間的に血が逆流したような衝撃を感じた。激しい闘争心のようなエネルギ―が、頭に血が上ったような衝撃を感じた。

 あの晩の会話は、たったこれだけの内容を含んだコミュニケーションであったのである。私はその晩、神経が高ぶって眠れなかったような記憶がある。翌朝、目を醒ました私は、決断した。「こんな家にはいられない。」と思ったのである。その後の経緯は鮮明に記憶からよみがえって来ないが、結局、半年も同居したであろうか、横山家を出ることに夫婦で決意したのであった。同居するにあたって、増築したり、改築したり、相当多額な出費があったのであるが、月日が流れて、この時にかかった費用の大部分を、横山の親父が負担したのであったが、決して我々夫婦が何の出費もなしに、元住んでいた外旭川に帰れたわけではない。その辺の経緯をこまごまと書いてもこの小説の主題から遠ざかるわけであるから、簡単な経緯を書いて止めておく。

 今思い出しても、あの晩の横山の親父の私に対する言動は、何と表現していいのやらわからないが、娘の陽子がため息交じりに言ったセリフを思い出す。「同じ屋根の下であのじじいと同じ呼吸をしていると思えば云々」と、ため息を吐いたことを思い出す。経済的な側面と子供たちの環境を考えれば、結局白黒をはっきりさせて同居を断念した判断は、やむを得なかったかもしれないと思う。 あの出来事の夜から直ぐの行動だったと思うが、私は、親父が建ててくれた外旭川のマイホームへ引っ越しを決断したのであった。家財道具を運びこむ時、燐家の川井虎雄が私を見つめて声をかけて来た。この親父は横山均よりも一回り年上であったであろう。「これと衝突したのか?」と親指を立てて聞いてきたことを思い出した。ここでこの家庭内のトラブルが発生した時、義父の年齢は、何歳ぐらいであったかを思い出すのも、意味のあることだと思った。

 あの時代、企業は、五十五才の定年制を採用していたから、おそらく厚生年金の受給開始年齢が、六十才だとして、計算に長けた義父のことであったであろう横山均は、六十五才から受給を開始したから、六十五、六才であったであろうと思われる。

 この家に引っ越しする前に、自分がどれほどの収入を得ているのかを私に自慢げに語ったことがあった。軍人恩給と厚生年金を合わせても、かなりの収入があったようである。私は、義父の語りの中で収入の数字を漠然と聞いていた記憶がある。私は、その時、うわのそらであったのである。ただただ、この義父との同居生活に漠然と不安に駆られていたのである。《後日夫婦の会話で71から72才頃であったことが判明》

 あの頃の自分の行動をふりかえれば、何と短絡的な行動であったのかと反省させられるが、やはり若さゆえであったであろう。横山均の心の闇を解明するに、一番目にあげるとすればにこの夜の出来事であった。まあ思い出せば数々の思い出があるが、この夜の出来事は横山均の戦後のサラリーマン生活の晩年の象徴的な出来事と私は理解している。計算された退職金や厚生年金を受給して老年期送るサラリーマン人生と理解している。だが、横山均には、この尺度だけでは理解できない、何か虚無的な、死んでしまえばそれで終わりという、シンプルな発想があったような気がする。私の精神科医的探偵のモチベーションがさらなる過去の記憶を思い出させようとする。

 第2の記憶が八十二、三才の頃再婚した、考えられないような人生の展開を迎えたことであった。横山均は、享年八十五、萬歳にして八十四だとすれば、死亡する一年か二年前に再婚したことになる。しかも相手は、一回りぐらい年の離れた女性であった。私の記憶では、相手の女性は、昭和十一年生まれの女性であったと思う。我々夫婦も平凡な夫婦関係ではなかったことは確かである。離婚を経験し、やれやれと思って生活を始めた途端に、この義父の再婚の話が私の耳に入って来た。正直言って、戸籍上のややこしい問題が発生すると直感したのであった。横山均は、大正九年生まれであるから、実に概算で十六才ぐらい年の離れた夫婦になったのであった。まあ、後での感想であるが、後妻になった横山昌子は、いわば他人の家に土足であがって来たような気持ちになって来たのであった。土足で上がってきたという表現には、若干説明を要するが、簡潔に述べれば私が横山均が残した土地をこの昌子から買い上げるという結末に至ったのであった。

 荒筋だけを述べれば、以上のことになるが、第三の心の闇を紐解く事柄に、この結末に至る前に、横山均の遺言状を述べておかなければならない。横山均は、自分が亡き後、家庭裁判所において、裁判官立ち会いのもとに、自分が書いた遺言状を開陳せよと言い残している。女房からあとで聞いた話であるが、二人の息子と娘は親不幸で、一切財産をやらないと書かれてあったそうである。私は、この家庭裁判所における遺言状開陳が、強烈に義父の心の闇を象徴する事件だったことを述べておきたい。青森市にある三内丸山遺跡の隣の三内墓地に眠る先祖代々のお墓にお線香をあげるたびに、なぜ横山均は、自分が亡き後このお墓の継承をどの様に考え、横山昌子に託したのであろうかと思っている。結局、やくざな息子は、この問題に関しては、思考の番外であった。娘である我が女房が一切合切お墓の問題を引き継がれなければならない運命になったのであった。夫婦の会話でこの再婚劇において、横山均は、人生のカウントダウンの段階に至って横山昌子に何を期待したのかと素朴な質問をしたことがあった。おそらくギブ&テイクのもとに、自分の身の回りの世話と死んだ後のことを託したのであろうとの思いを述べたことがあった。だが私はこの『死んだ後を託す』という言葉に何か割り切れないもの感じていた。私は、横山均は深くそこまで思考を深めなかったような気がする。いわば刹那主義がなされた技だったような気がする。

 夫婦の会話でこの再婚劇において、横山均は、人生のカウントダウンの段階に至って横山昌子に何を期待したのかと素朴な質問をしたことがあった。おそらくギブ&テイクのもとに、自分の身の回りの世話と死んだ後のことを託したのであろうとの思いを述べたことがあった。だが私はこの『死んだ後を託す』という言葉に何か割り切れないもの感じていた。私は、横山均は深くそこまで思考を深めなかったような気がする。いわば刹那主義がなされた技だったような気がする。

 第四の心の闇を紐解く事柄は、女房の脳裏に刻まれた遠い遠い星屑のような距離感のある過去の思い出に触れなければならない。時々彼女の口から自分の父親の若かりし頃の冷酷ともいえるある出来事を聞かされてきたが、私なりに彼女の思い出を咀しゃくして、想像をめぐらして横山均の心の闇を、この一事からも推し図りたいと考えた。それは、娘の比佐子が、おそらく四、五才ぐらいの少女時代の記憶であろうかと思う。私はこの思い出を聞かされるたびに、自分の過去を思い出して、同じような年齢の時のある光景を思い浮かべるのであった。小銭を持って母親の買い物の用足しをした時の光景である。過去の光景には長屋のような住居があって、その前には、共同で使用する井戸が現れるのであった。しかし、私の記憶には童謡のお馬の親子は仲良しこよしのメロディが流れるのであった。

 女房の記憶には、これと正反対の凍てつく真冬の光景が、あるようである。ある日、親から外に出て水を汲んで来いと言われ、下駄を履いた女の子が真冬の凍結した路面で転んだらしい。そして、その時、口の中が裂けてしまったらしい。その時の傷が七十才の年齢になっても残っているらしい。今でも親の無神経な子供に対するしぐさに腹を立てる彼女である。

 遠い遠い星くずのような過去の話であるがゆえに、断定はできないが、我が家庭の光景とはいささか違うような印象を持っている。

 満州やシベリアを体験して来た横山均にとって、そんな青森の日本の冬は、冬でなかったかもしれない。横山均を理解する上に貴重な彼の戦争中の体験を記した手記が手元にある。全文を乗せることに私はためらいを感じたのであるが、横山均の心の闇を解明するために、あえて全文を載せることに決意した。

 彼の軍歴を簡単に述べておきたい。横山均は、騎兵第三旅団に属して終戦間際には暗号班に配属された。終戦後は、シベリアに抑留されておそらく昭和二十三年か四年に帰国したと思われる。


 樺林付近の戦闘とその後


 第24連隊 横山均

 私は、昭和十八年六月十五日、弘前の北部二十部隊に入隊した。丙種の私に赤紙がくるようでは戦況はますます容易ならざるものがあるなあ、と非常事態を痛感したものだ。北部二十部隊に一週間もおっただろうか。その間、編成を終わった召集兵達は、北方に、南方に、そしてまた大陸へと、次々に出発していった。私もようやく行き先が決まり、満州の宝清に向けて出発することになった。少年の頃、いや大人になってからも、馬が怖くて傍に近寄れなかったのが、実際に馬を扱う自衛隊に入隊するとは、皮肉にも程があるなと思ったものだ。

 いよいよ、家族や知人らに激励されて、弘前駅を後に関釜連絡線で海を渡り朝鮮を経て満州に入ったが、執着駅は忘れたけれど、そこからトラックに分乗して宝清に到着した。

 途中まで出向いた班長は、昔と違って今はあまりビンタを喰らわせないから安心せい、等と言っていたが、四、五日もたつと毎日のように気合いを入れられビンタを喰らった。

 私は一期検閲が終わってから、中隊の射撃大会で優勝したことがある。その時の商品としてキャラメルを五箱もらったが、甘味品も配給でなかなか手に入らない時だけに非常にうれしかったことを覚えている。

 射撃大会で優勝したために、狙撃手の教育に参加させられ、晩秋の荒野で毎日毎日、絞られてマグレで優勝したことが恨めしくなった。そんな時、暗号手の教育があるので、希望者は申し出るよう通達が廻った。私は班長に話して、それに参加することができた。

 参加者は三九三部隊の隷下から四十人ぐらい、別棟に収容され、そこで教育を受け寝食をともにした。

 丙種の私は体力にまったく自信がなかったので、暗号に全てをかけて、必死で頑張った。毎週テストがあったが、いつも五番以内に入り、最終の卒業テストでは二番の成績であった。一番から六番までの者が三九三司令部勤務を命ぜられたのが、教育を終えて原隊に帰って直ぐであった。

 司令部勤務はまったく極楽であった。旅団長閣下以下の参謀、各部将校が居るので全然ビンタはない。食事も良いし、配給品、衣服等すべてが別待遇だ。

 しかし、良いことは長続きしないものだ。いよいよ南方では敗戦に次ぐ敗戦で、満州の精鋭部隊も続々と南方に転進させられ満州にはロートルの召集兵や開拓団の現地召集兵、鮮人の初年兵で、そして満軍だけが残ったようだ。そんな時、田島彦太郎少将は京都で混成旅団を編成して、レイテ島に渡ったと聞いている。田島閣下の後任として、桑田貞三閣下が着任されたが、それから一年も経たないで、歩兵第一三五師団(師団長人見中将)に編成替えされたとわけだ。

 さて、これからはソ連軍の越境から終戦時までのことについて、実際の体験に基づいて記述しよう。しかし、三十三年も昔のことだから日時などに相違なきにしもあらずで、あらかじめご了解をお願いしたい。

 運命の日、ちょうど私が夜勤で任務についておった。国境監視哨から緊急電報が入って来た。どこの監視哨だか名前に記憶がない。暗号文を直ちに解読した。内容はソ連軍が国境を突破して満州領内に進攻した、国境警備隊員がこれに対して応戦しているが、兵力武器の面から玉砕は必定である旨が記してあった。 

 暗号文を清書して上司(参謀か班長か記憶が定かでないのであえて上司とした。)のところに持参した。直ちに首脳部と連絡がとられ隷下の部隊に対し戦闘態勢に入るよう指令された。

 第一三五師団司令部は十一日の午後五時頃、貨物自動車に分乗して東安を出発して林口に向かった。東安の町をだいぶ離れてから振り返ってみたら東安の街中から炎と煙が出たのが印象的だった。翌十二日の午前に林口に到着した。東安の町を大分離れてから振り返ってみたら、東安の街中から炎と煙が見えたのが印象的だった。翌十二日の午前に林口に到着した。林口で初めてソ連軍の空襲を受けた。

 一番悲惨だったのは、在留邦人の婦女子であった。彼女たちは客車に乗って林口駅を出発する予定であったが、前方に敵の戦車が来ているとの情報で出発ができず、敵機がきたので慌てて客車から降りて線路の上に伏せたわけだ。敵機は客車めがけて機銃掃射を浴びせた。客車を移動させた後には、ハチの巣になった死体が線路の上に長く続いていた。

 また、開拓団の中年の女の方は、皆足袋はだしで、背負っている乳飲み子は、炎天下ですでに死亡していた。そのことを教えても、放心したようになって、別に驚きもしない。四、五歳の子供は、満人に預けたり、そのまま置き去りにしてきたそうだ。兵隊さん、助けてください、と縋りつかれても、どうすることもできないもどかしさ、つくづく情けないと思った。

 私たちは駅の裏庭に大きな穴を掘って暗号書類の焼却をした。最小限必要なものを残して、大部分焼却し終わった頃に、敵機の襲撃があったが、一機だけで、前に婦女子の客車を襲ったものと同一のようだった。こちらは鉄砲で応戦したが、なかなか当たらないものだ。機関銃でもあれば良いのだが、武器らしい武器といえば鉄砲だけでは、まったくお話にならない。徒手空拳とはまさにこのことだろう。

 私たちは翌日の午後三時頃、無蓋貨車に分乗して林口を出発した。目的地は牡丹江である。まぶたを閉じると、当時のことがありありと浮かんでくる。その時班長が言った。「そろそろ牡丹江の鉄橋に差し掛かるなあ、甘味品でも食べようか。」「そうですね。」と私が甘味品の入っている箱に手をかけた瞬間、バーンという音とともに機関車が止まり貨物車が立ち往生してしまったのだ。誰かが、敵の攻撃だ、と叫んだ。みんなが貨車から飛びおり始めた。私も地上に降りようとしたら、班長から暗号書類の入った軍用行李を死守するように命令を受けた。敵弾がビーユー、ビーユーと音を立てて飛んでくる。弾の来る方向に無線機の機械などを積んで弾よけにした。しかし、どの方向から飛んでくるのか皆目見当がつかない。その時、敵は右前方にあり、と大きな声で指揮をとっている将校が叫んだ。波川中尉である。司令部要員として、たくさんの将校がおったが、それぞれ独自の行動を取っていると見えて、他の将校の声は聞こえなかった。そうしている中に、班長から、行李を下へおろせッ、と命令されたので、死守を命ぜられた四人が立ち上がり、二人で一つの行李の両端を持ち、イチ、ニッのサンと声をかけながら、行李を下へ投げおろした。全部を投げおろし、四人が一緒に貨車から飛びおりた瞬間、一発の戦車砲弾が貨車の車輌に当たった。バーン、と何かで強く叩かれたような気がした。ヌルヌルと生温かいものが体中を流れた。立ちあがうとしたが、立てない。そのまま匍匐前進を続け、草の生い茂った窪地に身を隠した。その時、左の方から友軍の火炎瓶で燃えながらソ連軍の戦車が走って来た。距離にすれば四、五、十メートルぐらいの先だろうか、ちょうど私の真正面に戦車が止まった。私は地中に体がめり込むようにピッタと伏せた。機銃掃射の音がダッ、ダッ、ダッ、ダッ、と激しく聞こえて来た。幸いにも、私の方には弾が飛んでこなかった。機銃掃射の音が止んだら、戦車が再び動き出した。そのまま右の方へ走っていった。しばらくすると左方向からまた戦車が走って来た。二両目からは、そのまま右のほうへ走っていった。数えたら全部で七輌あった。七両の戦車は、我々の貨車の後に続いて来た。野戦銃砲の貨車を目指して攻撃を仕掛けに行ったようだ。時々野重の応戦する音が、ドーン、ドーンと大きく響いてくる。然し、貨車に積んだ野重では動きがとれず、やられたことだろう。

 さて敵戦車がこちらの戦線から去ったので、友軍の集結が行われ、負傷兵は戦友が背負っていくことになった。私は腹巻をほどいて三尺代わりにして、おぶってもらったが、出血のため目まいがするので下ろしてもらった。負傷兵が皆このような状態のため、連れて行くことを断念して、負傷兵は後でトラックで運ぶからと言って、再び貨車に乗せられ、戦友たちは牡丹江を目指して出発して行った。そして多くの戦友が戦死してしまった。「人間万事塞翁が馬」という諺があるが、もし負傷していなければ、或いは次の戦場で戦死したかもわからない。全てが前世の定めであろうか。

 さて、再び貨車に乗せられた私は、翌朝早く目を覚ました。寒さのためであろうか。毛布をかけられていたが、朝方は寒い。私は変わった言葉を聞いて、ハッ、とした。恐る恐る目を貨車の隙間に当てた。満鉄の貨車は内地のそれと違って軌道も広いし、高さも高い。貨車の上から外を見ると、ちょうど下の者を見おろす格好になる。私の目に入ったものはソ連の歩哨の姿であった。この付近一帯はすでに敵の掌握下に入っていたのだ。私は、直感としてここを脱出しなければ助からないと思った。その時、一緒に貨車から飛びおりて同じ戦車砲の破片で負傷した同年兵の横尾公一(現在札幌在住)が、「おい横山、敵の歩哨がおるぞ、ここを脱出しよう」と小声で話した。「ん、俺は前から気が付いていた、ここを脱出しないと危ない」と言って一緒に飛び降り、同時に負傷した四人が打ち合わせをして、いよいよ貨車から脱出することになった。敵の歩哨が巡回して行った間隙を縫って四人(同時に負傷した三人のほかに脱出を希望した一人を加えて)が貨車から飛び降りた。私も飛び降りようと立ち上がったが、右足がズキンズキンと痛んで一分も立っておれない。横尾に「俺は無理だ、一緒に行かれない、お前たちだけ逃げてくれ」と言ったら、死ぬ時は一緒に死のうと横尾が言って、丸太を一本貨車に渡してくれた。私はその丸太を伝わって下に降りた。そして全力を絞って腹這いで草むらの中に身を隠した。私たちが貨車を脱出する時、負傷した将兵の中から苦しい殺してくれと叫んでいたものもおったが、こちらも生死をかけての脱出のため、特別の感情も湧かなかった。

 私たち五人(私の他に横尾、門脇、もう二人の名前はどうしても思い出せない)は貨車から遠く離れた草むらの中でしばらく休憩した。

 それから牡丹江の川岸をめざして進んだ。しばらく行くと敵の飛行機が飛んできた。昼間の行動は危険だ、夜行動しようと話し合った。私が腹這いで進むうちに防空壕の入口を発見した。入口には人の背丈もあるような草が生えていて歩いていては発見できなかったと思う。中に入ったら以外に広くて四人はゆっくり休憩できる場所だ。匍匐前進のおかげで思わぬ安息所を得たわけだ。

 私たち五人は、ここで日が落ちるまで休憩した。あたりがすっかり暗くなった頃、貨車のある方向でクラクションの音がした。あれは日産の音だと内地で運転手をしていた門脇が言ったので、たぶん友軍が負傷兵の収容に来たのだと思い私一人を残して四人が連絡に行った。しかし、幾ら待っていても誰も帰ってこない。随分手間がかかるなあと思っていると、横尾と門脇ともう一人の三人だけ帰って来た。訳を聞くと、友軍のトラックだと思って「オーイ」と声をかけたら、撃たれて一人が死んだとのこと。ソ連軍のトラックになんのためらいもなく合図してしまったのだ。本当に残念なことをした。私達四人は川岸を目指して進んだ。暗い中で流木の音だけが聞こえてくる。川岸の大きな穴に入ってウトウトした。朝早く目が覚めた。四人のうち一人がおらない。夜中にどこかに行ったのか。川岸に沿って歩いて行った横尾と門脇が一隻の船を見つけた。「おーい船を見つけたぞー」と、大きな声で叫んでいた。わかったぞーとこちらも大きな声で返事をしたら、遠くに敵の歩哨がおったのでびっくりした

 私は全力を傾注して腹這いで進んだ。船の傍に横尾と門脇ともう一人兵隊がおった。三人は私の到着するのを待っていたのだ。四人が船に乗って川を渡ろうとしたら、敵機が飛んできた。運が悪いなと思っていたら、地上から飛行機に向かって射撃が始まった。飛行機はその方に向かって急降下していった。その間隙を縫ってサアーと船を流し向こうの岸に渡った。

 岸に着いたら直ぐ山になっていた。私は山腹を相変わらず這って進んだ。しばらく行くと銃を担いだ兵隊に出会った。彼は私に挙手の敬礼をして「上等兵殿、どうなさいましたか」と聞いた。私は樺林の戦闘で足をやられて歩けないのだと言ったら、自分がおぶってあげますと無理に私をおぶってくれた。しかし、暑いので汗びしょりになり、ハァー、ハァーとあえぎながら歩くその兵隊が気の毒になり、途中で下ろしてもらった。

 それからしばらく行くと小さな部落があって、満人が五、六人屯していた。私はおぶってくれた兵隊(彼は現地招集の初年兵)に通訳させて、二人の使役を求めそして私が座れるくらいの板と縄と棒を持ってこさせ、私を乗せて運ぶよう話をつけた。私は板の上に身体を横たへ、片方の縄をつかんだ。二人の満人は前後の棒を担いで山腹の道を進んだ。三時間も進んだら小さな満人部落に着いた。その頃には日が暮れていた。途中、休憩をとりながら行ったので以外に時間が経っていた。その部落で二人の満人に厚く御礼を言って、彼らの部落に返した。

 この部落で一頭の満馬を手に入れた。私を乗せた満馬は、畑の方にまっしぐらに走っていた。そしてたびたび落馬した。幾ら騎兵の私でも足をやられているので、満馬を御することができない。馬が畑のえさを食べるために走り出すたびに私はふり落とされた。これから牡丹江を目指して進むためには、どうしてもこの馬が必要であった。しかたがないので、縄で鐙をつくり足を乗せた。馬の首に縄をつけ、初年兵に馬を引かせ、暗夜の中を牡丹江の街を目指して進んだ。だんだん進んでいくと、敵機が牡丹江に空襲を仕掛けていると見えて、照明弾が光り、バーンという音がして、地面がピリピリと響いてくる。相当な激戦が展開されている模様である。このまま進むのは危険だと思ったので、部落の近くの畑の中で夜を過ごした。その時もまた、寒さのために朝早く目を醒ました。直ぐそばに私を乗せた満馬が横になっていた。そこは山麓の近くであった。私はここで、繋がれていた馬の縄をほどいて自由にしてやった。どうもお世話になったと馬に言ったが、馬はただ無心に餌を食べていた。私たち五人は山麓まで歩いた。私は相変わらず腹這いである。麓で一服した。山を越すごとに牡丹江に近づくのだ。私たちはその一つの山を目の前にした安心感と、昨夜十分に睡眠をとれなかった寝不足とがたたって、そこで寝込んでしまった。どれくらい寝込んだろうか。ハッとして目を醒ました私は、誰もいないのでびっくりした。夢中で戦友の名前を叫んでみたが返事がない。その時、いよいよこれで1人になったか、死ぬ覚悟で独自の行動をとろうと思った。いったん、死を覚悟すると何も恐ろしいものはない。そこで足の負傷した箇所を点検してみた。踵に入った断片を抜き取り、脚部の膿を絞ったら大分楽になったようだ。その辺にあった枝を杖代わりにして立ち上がり、少し歩く練習を始めた。とにかく今まで、全然立てなかったのが立てた。しかも歩けるようになった。私は勇気が湧いて来た。しばらくその付近を歩く練習をしていると、頂上から、おーいと呼ぶ声がした。見ると先程までいなかった戦友が頂上で合図を送ってくれた。「この山を登ると向こう側の麓に小さな部落がある。その部落で待っているからこい」との事であった。私は大きな声で「よーし、わかったあ。」そう返事をして、目の前の山を登り始めた。

 私は上っては休み、休んでは上ってようやく頂上にたどり着いた。頂上から反対側の麓を見下ろしたら、四、五軒の家が目についた。戦友が言った部落とは、たぶんここの事であろうと思い、そこを目指して山を下りた。ようやくのこと、部落に辿り着いたら、小児を背負った朝鮮の女の人が瓶に水を汲んで持って来てくれた。私は一気にその水を飲んだ。今度は、おにぎりと鰯のような缶詰を持って来てくれた。私は食欲が全くないので、それを謝絶してもう一杯水をもらって飲んだ。その時、女の人が無理やり、私のポケットに入れてくれたおにぎりが、後でどれだけ助かったことか、御礼の言いようもない。水を十分に飲んで、ようやく我に帰った私は、ここに戦友が来なかったかと聞いた。その女の人は、「ああ来ましたよ、でもちょっと休んでから向こうの森の方向に行きましたよ」ということであった。私は、その女の人に厚くお礼を述べて、向こうに見える森へ行こうとしたが、ちょうど前の方に二メートルくらいの小川が流れていた。橋を探してウロウロしていたら、朝鮮人の青年が、ジャブジャブと川の中を歩いて来て、私を背負って森のところまで運んでくれた。森の中で四人が私の来るの待っていてくれた。ここで私たちは、これからの行動について話し合った。一人の兵隊が提案した。これからは日本軍の服装ではまずいので満服に変装しよう。森の向こうに満人部落があるので、そこに行って満服を調達しようということになり、歩けない私を残して四人が満人部落へと出発して行った。

 これが、私と彼等の最後になったわけだ。私を森のところまで運んでくれた青年がいうには「たぶん、彼等はハルピンに行く道路にぬけたと思う。ここで、あなたは独自の行動をとる以外に方法はないでしょう。」ということであった。それから私は、横道河子でソ連軍の掌握下に入るまで、筆舌に尽くしがたい困難と闘いながら、たった一人で、しかも自分の判断で困難を克服して進んだわけだ。そこには、最早、死とか生とかの問題ではなくて、まさに生死を超越した、ある意味での悟りがあったと思う。

 私は当時、森の所で、ある意味では足でまといの私を置き去りにした彼等に対し、今まで、一度も怨みに思ったことはない。あの状況では全く仕方がなかったのだ。彼等は彼等なりに生きようと努力し、最善を尽くしていたのだと私は解釈している。

 彼等と別れてから、まさに波瀾万丈、前述の体験以上の困難を経験してきた。これを書けばスリル満点かもわからないが、枚数にも制限があるので、私の体験談もこの辺で打ち切らせてもらう。

 最後に、亡くなられた戦友の冥福を祈ってやまない。


 長い長い引用であったが、亡きあとに義父を偲ぶ手がかりの唯一は、この戦争体験を記した手記しか見当たらなかったので、貴重な資料として、全文を乗せることにした。思えば我が父や伯父には、このような手記が残っていない。それゆえに想像を巡らして不確実性のある文章しか創造できない。

 横山均にはこの戦争体験ともう一つ、シベリアに抑留されて帰還を果たした貴重な体験がある。このシベリアの抑留体験は戦争を知らない私が想像を巡らして書くしかないと思った。満州の戦地での体験談を読んで最初に思ったことは、津軽という風土が生み出した県民性を感じるのであった。冒頭で述べた「選ばれてあることの恍惚と不安二つ我にあり」のベルレーヌの詩に帰着するのであった。

 心の闇を精神科医的探偵を自称する私にとって、この津軽を解明するために、毎日新聞に載った或る記事を引用したい。浅学非才な小生が県民性を分析するよりも、専門家が述べた記事を載せておくことが、読者の糧になると信じているからである。

  令和三年三月十四日付けの毎日新聞に興味を引くような記事が載っていた。「時代の風」のコラムの欄には、個人の基本的な世界観や人間観は思春期から二十才頃までに作られるらしいという内容の記事であった。その記事から多少長く引用になるかもしれないが、横山均を理解するアプローチにしたいと考えたからである。

 ・・・・国際的に有名な、米国の社会心理学者のリチャ―ド・ニスベット氏は、南部育ちの男性と北部育ちの男性とで、様々な事柄に対する心理的反応が顕著に異なることに注目した。米国は、自由と平等の精神で移民たちが創った国家だという看板だが、昨今の大統領選挙を巡る断絶でも明らかなように、決して一枚岩なわけではない。黒人奴隷の是非に関する論争が内戦にまで発展したのが南北戦争であった。南部と北部の文化の差は実は非常に大きい。南部育ちの男性は、いろいろなさまつなことでも自分に対する挑戦とみなし、そのけんかに自分が勝つことが重要だと思っている。一方、北部育ちの男性はそうは受け取らず、そんな状況でいちいち勝負を挑むことに意味を見いださない。

 まずはその違いを実験的に明らかにするために、ニスベット氏らは、生粋の南部男性と生粋の北部男性とを被験者として集め、或る実験を行った。被験者たちは、単純な質問紙に回答するように依頼され、その前に唾液を採取される。そして、その質問紙を持って狭い廊下を通り、次の部屋でそれを回収箱に入れる。ところがその狭い廊下には書類棚が置かれていて、研究者が調べ物をしている。被験者はそこを無理に通過せねばならず、すると、その研究者が「まったくもう!」と低い声で文句を言うのだ。そこを通り抜けて質問紙を回収箱に入れた後、被験者は再度唾液を採取される。

 もうわかりだろうが、この実験の本当の目的は、このささいな「侮辱的発言」を聞くことに、被験者がどのように反応したかを調べることなのだ。採取した唾液中に存在する男性ホルモン(テストステロン)の量を調べたところ、南部出身の男性では、「侮辱」の経験後にそれが激増していたが、北部出身の男性ではそんなことはなかった。南部文化で育った男性は、自分に対する他者からの発言を、しばしば侮辱ととらえ、反撃のために攻撃性を高めるのだが、北部文化で座った男性はそういう反応はしない。私は注目したいのは、この違いができるのが、思春期から二十才頃までだということだ。

 人間は自分の頭で考え、それぞれの場面に応じて適切に対処していくことを学ぶ。しかし、基本的な価値観、人生観は、思春期頃までに経験したことに基づいて作られるのだ。それ以後、変化に応じて行動や発言を変えてはいくものの、考え方の基本は変わらない。・・・・


 長い引用になったが、私の脳裏には親父の兄、つまり伯父さん山田清一郎の面影が浮かんでくる。大正九年、生まれた年も同じだし、長男という兄弟の位置関係も共通である。ただし、どちらが北部か南部かは断定はできない。私は、歳月が流れて二人を客観的に思い出せば、明らかに出自の違いにより人格の異質性を覚える。私は横山均の人格の奥底に、津軽の風土が生み出した人格性を洞察するのである。それは、明確に表現できるようなものではない。いわば山田清一郎の延長線上にある私が、内面の中から感じとる動物的な勘のようなものである。この自叙伝で両者の県民性の相違を追求していくのは、本意ではない。あくまでも横山均が、中国大陸、シベリアにおいて過酷な体験が基に、PTSD(心的外傷後ストレス障害)となって終戦後、内地に帰還したことを述べることが、主としての本意なのである。

  私の脳裏には、この県民性と同時に或る夜の場面を連想した。県民性とは直接関係ない事柄かも知れないが、横山均が青森中学時代にかなり優秀な成績で卒業したことを、四番目の弟が証言したことを思い出した。

 或る夜の場面である。私と自分の父と横山均が三人で、酒を飲んでいた夜の光景のことであった。テレビを見ていて、スパイゾルゲの事件の画面があった時のことである。私は、軽薄にもこのスパイゾルゲの事件をその頃知らなかった。私は大正生まれの二人に向かって「この事件は、どういうことか?」と質問したことがあった。二人にとって大東亜戦争の初歩的な歴史の知識であったであろう。その瞬間横山均には、含みのある返答に窮する場面があった。私はなぜか、それ以上追及する気持ちにはなれなかった。現在七十の老人になって、このスパイゾルゲの事件をフィルターとして、横山均を思い出している。青森中学の同窓生には、太宰治や高木彬光などの優秀な人物を輩出している。四番目の叔父さんの証言で、クラスで一番か学年で一番かは、確認はしなかったが、かなり優秀な成績で卒業したことを聞いたことがある。

 シベリアで抑留生活を送り、収容所において共産主義の洗礼を受けた横山均であるが、帰還を果たした彼は、共産党員になっている。おそらく帰還後も、警察にかなりしつこくマークされてあったであろう。横山均にとって、このスパイゾルゲの事件は、日本の軍部が南進政策に出たことを、戦後かなりリアルな感覚で歴史を読み、洞察したであろう事を想像する。終戦間際に、軍隊で暗号班に組み入れられ、歴史的なソビエトが満州に侵入してきた第一報を、どのような気持ちで通信電文を読んだであろう。今となっては、悔しいような、聞いておけばよかったと思う後悔の気持ちがある。おそらく、高度な知能をもった横山均ゆえに、天と地がひっくり返ったごとく、大変なことが始まると、直感したであろう。

 何かの書物で、満州における開拓民を、陸軍は戦略的に、わざと国境線沿いに配置したらしい。ソビエトが侵入したときには、最初に全滅させられるのは、この国境線に配置した開拓団の村であったらしい。実際ソビエトが満州に侵入してきて、悲劇的なドラマが展開された歴史的な事実がある。横山均には、この直感的に物事の展開を洞察する、鋭い感性が備わっていた。

 横山均の心の闇を解明する別の角度は、サラリーマン生活を満五十五才で定年退職した日本の終身雇用制の時代が、関係しているような分析をしている。横山均は、定年退職を想定して料理学校に通い、調理師免許を取得して退職を迎えた。私たちが新婚生活を送った昭和五十二年頃である。自分の父親が、料理などに全然関心がなかったゆえに、調理師免許を取得し、居酒屋を開業したことに対して、非常にハイカラな感覚にとらえた印象があった。しかし、開業した場所と自宅との往復で難点があり、長くは続かなかった。

 五十五才で退職しなければならない、その当時の終身雇用制の日本の企業風土を今の感覚で考えれば、極めて残酷な企業風土があったような気がする。今日の新聞によれば、70才まで雇用を努力義務とするべき報道がなされていた。40年以上の月日の中で、現在は十五才も延長になった時代を迎えて、或る面においては、横山均の人生は、個人が選択するというよりも社会が個人に対して、制約する時代であったようである。私は自分の生活信条として、『ブラブラしていれば、雑念が湧く』と自己暗示をかけて、貧乏根性をもってとにかくがむしゃらに働いた壮年期があった。しかし、横山均には、どこか気位の高いプライド意識が感じられた。私の記憶では、退職をして安定的な働きをしたようなことはなかった。

  心理学の領域では、強い喪失体験に引き続いて気分が沈むものではなく逆に高揚し、過剰なほど活動的になる現象が知られ、『躁的防衛』と呼ばれている。喪失体験に打ちのめされまいとする心の代償作用であるが、しばしば行き過ぎて現実の認識を誤らせ、適応を破綻させることがある。戦後の日本人の心のありようは、集団レベルでの躁的防衛と考えればわかりやすい。ここに述べたことは、横山均個人的な説明ではなく、大正九年から12年生まれの世代に共通する現象を子供の頃ながら観察していた我が心の記憶がある。例えば、私の父親が晩酌のメーターが上がって来て、近所の日蓮宗の住職と意気投合した時、「ヒトラーユウゲント、昭和維新、さすが憲兵!」などと、勇ましく大声を上げたことを思い出した。横山均もサラリーマン生活において、大酒飲みで麻雀などで躁的行動をしたことを想像する。

  横山均を語る上において、最後にシベリアの抑留体験を私なりの想像で語らなければならない。戦後、横山均が二十五、六才の頃抑留体験により、共産主義の洗礼を受けた事実は、後の人生に深く影響をおよぼしたと思われる。今となっては、私の記憶の点描でしかないが、ここに『凍土の青春』軍隊・戦争ーシベリア抑留、著者名が、栗田義一という抑留体験者が書いた書物がある。この書物を参考にしながら横山均の青春を考えたい。 

 捕虜生活を送った収容所のあったところは、ハバロフスクの近くのコムソリスクという土地であった。

 ・・・・箱詰めの列車は、ビワニの駅近くのアムール河沿岸に着きました。そこは広くて、海と間違えそうな河です。大きな船があり、貨車そっくり入るのです。日本の連絡船のようなものでした。

 この光景を見てこのアムール河の大きさには再び驚いたものです。前年の十月末頃「トウキョウ・ダモイ」を信じて、シベリア鉄道を走っていて、途中のハバロフスクで、このアムール河を見た時、「海だ、ウラジオだ」と叫び、騒いだのは無理もないことでした。

 アムール河は冬期間の十月頃から翌年の三月頃までは、全部凍結してその厚さは1メートル以上にもなり、氷の上に枕木と線路を並べて水をかけると、高低差のない、水平で立派な鉄道線路ができ上がり、列車は全く揺れることもなく走り、対岸との交通が実に簡単に結ばれるのです。・・・・

  横山均が語った、このハバロフスク地方における極寒の厳しさを、こんな表現を使っていた。小便をすれば、小便が凍り、髪の毛がバリバリと凍った体験を語っていた。


 ・・・・・収容所の大便所は梯子段を上って行き、二階になっていました。一人ごとの区別はあっても仕切りはなく、五、六人ぐらいが並んで、隣同士が顔を見合わせ、話しながら、両足の踏板の間から下へ落とすのです。その下から身を切るような零下の冷たい風がおしりを痛めつけるのです。お尻から排出された大便はその瞬間は生温かく湯気が少し出るのですが、下へ出た時はもう凍ってしまい、直立のままになります。次の人は、前の人の分と重ならないように、お尻を若干右か左へずらさねばなりません。そうしないとたちまち、積み重ねられて、踏板につかえて糞岩の大となってしまうからです。・・・・

 横山均は語った。「収容所において、将校をつるし上げたことがあった」と云々。この横山均が述べたことが、『凍土の青春』の中にあったので紹介しておく。

 ・・・・・しかし、兵隊の間から、支給されていた食事の定量が、自分たちに配分される前に、上官の将校幹部たちが、「ピンハネ」しているのではないかという意見が出始めました。

 こうした意見の高揚とともに、もう軍隊ではないから、将校、下士官などの階級章はもちろん、その意識をも撤廃しようという声が大きく盛り上がり始めて来ました。この運動は全体の八〇%以上が下級の兵隊であったので、たちまち大きなうねりとなって広がり、収容所内に充満するようになって来ました。

 こうしたうねりの中で起きたのが身勝手な幹部の「吊し上げ」であり、幹部の選任は全員の「選挙」によるものとしようという動きでした。

 シベリアの収容所に来てから、もはや二年近くもなり、帰国の望みも断たれて、絶望感と慢性的飢餓状態をますます深め、その日、その日を生きるのに限界の域に達していた時でありました。・・・・・・

  横山均のシベリアの収容所における体験談は、文書として何も残っていない。断片的に、彼の口から聞いた記憶を、述べるしかない。彼はその当時、肉体労働には、ふさわしくない肉体であったようである。それが、災いを転じて無事に内地に帰還させることにもなったようである。すなわち、肉体労働以外の事に従事し、あまり危険な目にはあわなかったようである。例えば、ソビエト軍将校の家族の子守をやったり、床屋さんのような手先を使う散髪の仕事をやったらしい。

 横山均の話の記憶の中で、唯一関心をもったのは、面従腹背ともいえる共産主義洗脳体験の話であった。このことは、探偵を称する私にとって非常に関心の深いエピソードである。すなわち、ヤポスキー・トウキョウ・ダモイ(日本人、日本へ帰る)に象徴される望郷の念が、面従腹背の態度で、共産主義に従順従ったというのである。日本に帰ってから、若かりし頃は、共産党員となって汗を流したようである。私は、壮年期からの人生のライフサイクルしか知らない。面従腹背の共産主義に洗脳された人格が、その後、自民党の支持者に転向した事実を語らなければならない。私は横山均の二重人格について語りたいのだが、浅学非才の小生にとっては、ちとこの問題は、厄介である。だから、この問題は、さらりと触れるだけにしようと思う。

 精神科医的探偵を称する私にとって、最後に横山均の心の闇を解明するために、芥川龍之介の短編小説『手巾』からインスピレーションを得て、生命のエネルギー不滅の法則に基づいて、心の闇を理解したのである。 PTSD なども包括的にこのエネルギー不滅の法則に基づくものであろう。満州、シベリアの体験は戦後、逆説的に彼の人生にインパクトを与えたと思う。

  「選ばれてあることの恍惚と不安二つ我にあり」この詩の『不安』は十七才の我が青春の一時期の予感として、将来を的確に予感したものであった。しかし、『恍惚』という言葉がその当時どのような未来を予感させるものか、全然予想だにしなかった。しかし、我が自叙伝とも言える『我が家の大東亜戦争顛末記』を書き終えるにあたって、こじつけかもしれないが、この『恍惚』に関してコメントを残さなければ、終われないような気持ちになって来た。私は現在七十一才、四人の孫がいる。好々爺のじじいであるが、コロナ禍で山形の孫に会えない寂しさが、スマホの画面に写る映像で何となく満足しているが、ふと仏教的な発想になっている自分に気が付く時がある。すなわち、生命の連続性ということである。このことは、高校生の時、山本有三の小説で読んだことがあるが、子供たちの遊びでボールを次々と後ろにリレーしていくゲームが連想されたのである。小説の題名は確か『風』或いは、『波』だったような気がする。生命の連続性というリレーにおいて、ご先祖様の誰かが欠けていれば、現在の存在はありえない。或る面において、反目しあった親子関係であったが、横山均という義理の父がもし、満州やシベリアで死んでいたならば、我が妻横山比佐子、そして四人の孫も存在しなかったであろう。現在、過去、未来と思いをはせれば、この『恍惚』という言葉が五十年以上の月日が流れて、やっと分かったような気がする。

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