安曇邸
ようやく着きました。
ここは自然豊かで素敵な町です。特に、満開のソメイヨシノが窮屈に並ぶ駅前の通りが気に入りました。春らしい陽気の中、美しい自然を見たり、田舎のおいしい空気を味わいながら歩くのは楽しいだろな、と思ったのですが、四十分も歩かないといけなかったので疲れました。駅からここまで徒歩で来るのは、これっきりになりそうです。
私は今、『安曇邸』と呼ばれる大きなお屋敷の正門前にいます。事前に間取り図を確認してはいましたが、私が思い浮かべていたものよりずっと大きいです。防犯のため塀に囲まれ、周囲には警察の警備が敷かれています。
門をくぐって敷地内に入ると、お庭を横切るように玄関に至る石畳が通っています。定期的に庭師が手を入れているのでしょうか。芝や樹木がきれいに刈り整えられています。今は若葉が瑞々しいお庭ですが、もう少し暖かくなれば花が咲いて、大きく印象が変わるのかもしれません。
西洋風二階建てのお屋敷は、三年前に建てられたようです。住んでいるのは、安曇さまと家事使用人とコック。家事使用人は全員女性のようです。ここでいう家事使用人には、コックは含まれません。それと、少し複雑な話になりますが、このお屋敷は主人である安曇さまの所有ではありません。この国の最重要人物である安曇さまのために、国が用意した住居です。
今日からこの『安曇邸』が、私の職場になります。十二人いる家事使用人の一人として、住み込みで働くのです。とはいえ、ただの家事使用人とは言えないのかもしれません。掃除や洗濯など、家事使用人としての本来の仕事は、もちろんしなければなりません。それだけでなく、もう一つ仰せつかっていることがあります。安曇さまからではありません。家事使用人を選定する立場にあるお役人さんから伺ったことです。こういうお話でした。「これはここだけの話ですが」と前置きされた上で、
「安曇暦という男は人付き合いにまるで興味がないんですよ。ましてや恋愛など、頭の片隅にもない。しかしながら彼の天才的頭脳はわが国の国宝というべきもので、彼の遺伝子を次世代に残さない手はありません。いやもちろん、あなたに彼の子を産めと言っているわけではありません。ただ、彼を変えて欲しいのです。恋愛に関心を持つように。もしそれが叶ったのなら、いわばこの国に莫大な貢献をなすようなものですから、十分な報酬を用意させていただきます。家事使用人全員に三千万円ほど——」
安曇さまを変えることができれば三千万円もらえる。お役人さんはここだけの話とおっしゃいましたがこの話は、世間では真偽不明の噂として囁かれています。私は一年以内に、そのくらいのお金を工面する必要があります。嘘かもしれないとは思ったのですが、藁にもすがる思いで家事使用人の募集に応募したところ採用され、このようなお話を伺いました。噂は本当だったのです。
私が玄関に立ちインターホンを鳴らそうとすると、内側からドアが開きました。開けてくれたのは、ベージュがかったロングヘアの女性です。童顔と言えばいいのでしょうか。顔立ちからは幼い印象を受けます。
「はじめまして」私は一礼し、言いました。「一色二葉さんですね。桜月雛と申します。これからよろしくお願い致します」
二葉さんは戸惑った顔をしています。
「よろしく……。なんで私の名前知ってるの?」
「ここで働く方、全員のお名前を憶えてまいりました」
二葉さんは家事使用人の一人です。私の先輩になります。
「うあ、真面目な子がきた」
「二葉さんは十二月生まれで、今は十九歳ですよね。一年前からここで働いています」
「なんかこわ」
私は二葉さんの案内で、二階の部屋に案内されました。
「ここが雛の部屋。そして私の部屋でもある。家事使用人は二人でひとつの部屋を使うの」
私はお部屋の中を見て、思わず声を上げました。二人で使うとはいえ、とても広いです。使用人の部屋とは思えません。豪華な客室のように見えます。ベッドが二つ、ドレッサーも二つあります。それにソファ、ローテーブル、テレビ。家具も申し分ありません。ウォークインクローゼットまであります。あまり日当たりは良くありませんが、昼間はお屋敷中で忙しく働くことになります。寝るための部屋だと思えば気になりません。気になることと言えば、一方のベッドの上に部屋着が脱ぎ散らかしてあることくらいです。部屋の端には、段ボールが置いてあります。私は前もって私物をお屋敷に郵送しておりましたので、それでしょう。
「こっち来て」
二葉さんがウォークインクローゼットから私を手招きします。そして、一着の服を私の前に出しました。
「これが制服ですね」
「そう。仕事中はこれ着るの。休みの日も、部屋から出るなら着て」
制服は丈の長いエプロンドレスです。可愛らしいです。頭にはフリル付きのカチューシャを乗せます。二葉さんもいま、同じものを身に着けています。靴下まで用意されているようです。
「じゃあ着替えて」
「はい……」
着替えたいのは山々なのですが、二葉さんの視線が気になります。なぜかじっとこちらを見ています。とはいえ、もたもたしているわけにはいきません。私はワンピースを脱ぎます。
「雛……。あんた何歳?」
下着姿になった私に、二葉さんが訊きました。なんだか胸元を見られている気がします。着古した安物の下着なので、見られるのは恥ずかしいです。
「昨日十七歳になりました」
「むあ」
二葉さんが喉の奥からなにか声を漏らしました。それから、少し不機嫌そうな顔をしました。私の着替えが遅いのが不満なのかもしれません。私は急いで着替えました。
「……それじゃあ、これからご主人様の部屋に案内するから。挨拶するためにね」
私が『安曇邸』の制服に着替え終わると、二葉さんが言いました。
「今日は金曜日なのでこの時間、安曇さまは研究所におられるのではないでしょうか」
事前に伺っていたことですが、安曇さまは週に四日、研究所にお出かけになられるそうです。
「……そうだった」と二葉さんは独り言のように言いました。「何でも知ってそうね。もしかして、私が教えることなんて、ない?」
「いえ。お仕事のやり方はまるで存じませんので、教えていただきたいです」
「それと……」私は言うべきかどうか迷った後、口を開きました。「こんなことを言うのは卑しいかもしれませんが、どうしても三千万円を頂きたいと思っています。安曇さまが恋愛に関心を抱かれるようにすればよいとのことですが、二葉さんは何か良い方法をご存じないでしょうか」
「はーん。なるほどね」二葉さんがニヤリとして言いました。「私もね、もちろん狙ってる。三千万。ご主人様が恋愛に興味を持つようにすればいいのよね。なら私たちは、ご主人様に女の魅力を教えてやればいいのよ」
「女の魅力……、ですか」
「例えばね、可愛い姿をご主人様に見せつけるの。女の子の可愛さに胸がキュンとしたご主人様は、恋したくなるってわけ」
「それはいい考えかもしれません」と私は言いました。「ですが、可愛い姿というのは、少し難しいのではないでしょうか。私たちは制服を着る以外ありませんし」
「私はちょっと違う方向で考えてるわ。女の子が恥ずかしがっている姿って可愛いと思わない」
「恥ずかしがっている姿が可愛い、ですか……。少し分かるかもしれません」
「じゃあ、これでいくわよ。私が雛に恥をかかせる。ご主人様の前で。だから全力で恥ずかしがって」
「え? 私が恥をかくのですか⁉」
思わぬ提案に、つい声を上げてしまいました。
「そうだよ。いいアイデアでしょ」
「そうかもしれませんが……」
悩みましたが、決めました。私にはお金が必要な事情があります。背に腹は代えられません。
「……分かりました」私は覚悟を決めて言いました。「では私は、どのような恥ずかしい目に合うのでしょうか」
「それは言えないわよ」と二葉さんはいたずらっぽい笑みを浮かべて言いました。「素で恥ずかしがってもらわないといけないから、そのときまでひみつ」
どんな目に合わされるのでしょうか。少し緊張してしまいます。
いえ、まずは仕事です。『恥ずかしがる姿で安曇さまを魅了する作戦』は、安曇さまが帰ってくるまでひとまず保留です。
それから私たちは部屋を出て、仕事に取り掛かることにしました。家事使用人として最初の仕事は、二葉さんと一緒にする掃除です。掃除をしながら、改めて『安曇邸』の間取りを確認しました。
「そうだ。この部屋は掃除しちゃダメだから。というか、入室自体禁止」
ある部屋の前で、二葉さんが言いました。ドアに鍵穴があります。この部屋に入るには、鍵が必要なようです。
「分かりました」
「何の部屋か、気にならない?」
「興味が高じて入室してはいけませんので、気にしないことにします」
「まじめか。この部屋はただの書斎なんだって。ご主人様の」
「ただの書斎なのに、入ってはいけないのですか?」
「それはそうよ」と二葉さんは言いました。「だって考えてもみて。世界一の天才の書斎よ。すごい研究の成果とか、革新的なアイデアを書き留めた紙とかがきっとあるの。まあ、そんなものを私が見たところで理解できないだろうけど」
安曇さまの功績はあまりにも多すぎて、全て挙げることはできません。広く学問に精通しておられる方です。長年未解決だった数学の難問を解いたとか、次世代コンピュータを開発したとか。ここ最近の研究成果と言えば、世界で流行した、かの感染症のワクチンを全く新しい方法で開発したことでしょう。この国の科学技術が世界を一歩リードすることになったのは安曇さまのおかげ、というのが世間一般の認識です。
私たちは書斎を通り過ぎ、掃除を続けました。
時計の針が五時半を指したころ、一台の車がお屋敷の前に停まるのが、二階の窓から見えました。車には詳しくありませんが、高級車だと思います。
「安曇さまでしょうか」
「そうね」
二葉さんが車を見て言いました。
「お出迎えはしなくてもよろしいのでしょうか」
「まさか。しないわよ。それより、もう掃除は終わり。平日、ご主人様が家にいる間は掃除をしない決まりなの」
「では、私たちはこれから給仕にまわるのでしょうか」
「ううん。給仕は他の人がやる。私たちが給仕をするのは、来客があるときくらい。今日の仕事はこれで終わり」
「そうですか」
私が拍子抜けしていると。
「その代わり、お客様が来た日は本当に忙しいから覚悟してね。政財界の大物とか、海外の要人が訪ねてくるときもあるから、プレッシャーもすごいの。そのときはさすがの私も、おしゃべりせずまじめにやる」
二葉さんが念を押すように言いました。
私と二葉さんは部屋に戻りました。私は安曇さまにご挨拶に伺わなければなりませんが、安曇さまは帰宅されてから程なくして夕食を召し上がり、それから入浴されるそうです。安曇さまの部屋を訪ねるなら、それらが終わったあとにした方がいい、というのが二葉さんのアドバイスでしたので、従うことにしました。
七時半になりました。ソファに座ってテレビを見ていた私は部屋をあとにします。この時間になれば、安曇さまは自室にいらっしゃるようです。
安曇さまのお部屋の前まで来ましたが、本当にいらっしゃるのでしょうか。中から物音一つ聞こえてきません。
私はドアをノックしました。中から返事はありません。入室を拒否する場合にのみ、返事があるようです。つまり、今は入って良いということです。
私はドアを開けました。お部屋の中央には、安曇さまがいらっしゃいます。背もたれの大きい椅子にお座りになられています。お休みになられているのでしょうか、目を瞑られていることが、横顔から判断できます。
お休みのところ邪魔しませんように引き下がろうとしたところ、安曇さまが目を開けられました。起こしてしまったようです。
「お休みのところ申し訳ございません」
私は肩が強張るのを感じながら、頭を下げました。
「単に目を瞑っていただけだよ。構わない。要件は?」
安曇さまは私の方を見ずに訊ねられました。
「ご挨拶に伺いました。本日より家事をさせていただきます、桜月雛と申します。よろしくお願いいたします」
「そう。よろしく」
安曇さまは再び目を閉じられました。よく見ると、指先を軽くこすり合わせておられます。寝ているというより、まるで頭の中での作業に没頭しているかのようです。
私は安曇さまのお部屋をあとにしました。
安曇さまは非常に有名なお方ですが、積極的に表舞台に出られることはありません。メディアでは古い写真が使い回されています。栄誉ある賞の受賞者に選ばれることも少なくないようですが、常に辞退しておられるようです。そのせいでしょうか。安曇さまがどのようなお声の持ち主なのかさえ、広く知られていません。世間では、安曇さまは冷たい方だと語られることがあります。確かに今の安曇さまの応答は、淡々としていたかもしれません。しかしそのお声には、温かみが見え隠れしていたような気がします。
「早かったね」
自室に戻った私に、二葉さんが言いました。
「ご挨拶しただけですので。安曇さまは一休みされているようでした」
私は言いました。
お風呂の時間です。
私は二葉さんと一緒に脱衣所に来ました。もちろん、エプロンドレスの制服を着ています。部屋の外に出るときは制服を着るルールです。お風呂を上がって部屋に戻るときも、制服を着ていなくてはいけません。寝間着に着替えるのは、部屋に戻ってからです。
籠の一つには、どなたかの制服が入っています。まだ入浴中の方がおられるようです。
身に着けていたものをすべて脱いで裸になりました。お風呂場に行こうかと思いましたが、二葉さんを待った方がいいでしょうか。そう思って二葉さんの方を見ると、まだ制服を着たままです。そして私の乳房を睨みつけるようにしています。
「どうかされましたか?」
私は訊ねました。
「雛の胸おおきいなあと思って」
指摘されると少し恥ずかしいです。
「二葉さんのも大きいですよね」
私は言いました。制服の上から見る限りですが、二葉さんの乳房は大きいように思います。
「いや、私は……」
二葉さんはきまりの悪そうな顔をして言いました。それから、二葉さんは制服を脱ぎ、下着を脱ぎました。
ここで一点、訂正しなければなりません。二葉さんの乳房はたいへん小ぶりです。下着の形状に騙されていました。そのことを口に出したはずはなかったのですが、顔に出ていたのでしょうか。またしても睨まれました。とはいえ、本気で私に不満があるわけではないようです。広いお風呂場で、二葉さんに背中を流していただきました。もちろん、私もお返しします。
湯船に入ろうとすると、そうです。脱衣所に制服がありました。先客がいたのでした。
「初めまして。牡丹さん。今日からここで働いております、桜月雛です。よろしくお願いします」
「あー。弥生さんに代わってきた子か。よろしく」
首までお湯に浸かっているその方は、『牡丹さると』さん、といいます。牡丹さん以外の家事使用人の方にはすでにご挨拶したのですが、牡丹さんにはまだお会いできていませんでした。牡丹さんは安曇さまがお乗りになられる車のドライバーなのだそうです。今日は安曇さまに同行して、研究所の方に行っていたようです。
湯船は三人で入ってもスペースが余るほどの広さがあります。手招きされたので、私は牡丹さんの隣に座りました。牡丹さんは髪が短めの方です。たいへん締まった体をしていて、運動神経が良さそうに見えます。
「雛ちゃん」と牡丹さんが言いました。「初めての仕事はどうだった?」
「はい。まだまだ覚えなければいけないことはありますが、今日のところは滞りなくこなすことができました」
「それは良かった。けど、来週あたりから少し忙しくなるよ」
牡丹さんが意味深に言いました。
「まさか来客ぅ?」
二葉さんが嫌そうな顔をして言いました。
「そう。製薬会社の人が来る。今日ご主人様のところに役人が訪ねて来て、頭下げてた。ご主人様が開発した新薬のことで話したい人がいるから会ってもらえないかって」
「めんどくさいなあ」と二葉さんが呟きました。「ご主人様も断ればいいのに。どうせご主人様の持つ知的財産権で儲けることしか考えてない人なんだから」
「安曇さまのご友人などは訪ねてこられないのでしょうか」
私は今のお話を聞いて気になったことを訊ねました。
「ないない一度も」二葉さんが即答しました。「友達自体いないんじゃないかな」
「いないだろうね。私はご主人様の行く先々に付いて行ってるけど、友達らしき人は見たことない」
「そうですか」
お金のために安曇さまに会いに来る方はいらっしゃるのに、友人はいない、来ない。安曇さまは、そのことを寂しく思われないのでしょうか。広い部屋で一人、椅子に座って目を瞑り、物思いに耽る安曇さまをふと思い出してしまいました。
それから、私たちは取り留めのない話をしました。牡丹さんは運転手としてお屋敷の外に出る機会が多く、色々な人と会うようです。お屋敷の外にあまり出ることのない二葉さんが興味津々といった様子で、牡丹さんのお話を聞いていました。
「さて、私は上がろうかな」
そう言って、牡丹さんは立ち上がりました。
「私も上がろうっと」と言って、二葉さんは湯船から出ました。「雛はどうする?」
「もう少し入っていてもいいですか」
「分かった。じゃあ、最後お湯抜いてきてね」
「分かりました」
二葉さんと牡丹さんはお風呂場を出て行きました。
広いお風呂に一人。とても贅沢な時間です。幸せな気分です。そう思えば、私も一人でいることは嫌いではないのかもしれません。いえ、もしかしたら二葉さんと牡丹さんとお話しした余韻が、そういう気分にさせているだけかもしれません。本当に一人ぼっちだったら、どうでしょうか。
お風呂場から、サウナ室にも行けるようです。まるで旅館のようです。どこを取っても立派なお屋敷です。家事使用人としてですが、このような場所に住むことができるのは、嬉しいかぎりです。私が昨日まで住んでいたところとは、比べ物になりません。
長湯はいけません。そろそろ上がることにします。私はお湯を抜き、お風呂場を出ました。
脱衣所は空気がひんやりしていて、気持ちいいです。二葉さんと牡丹さんは、もう戻ったようです。さて、早く着替えて私も部屋に戻りましょう。
……あれ、れ?
私、着替えをどこに置いたでしょうか。ここの籠に入れておきましたよね。他の籠でしょうか。いえ、見当たりません。え、本当にないですか? ……やっぱりないですね。どうしたことでしょう。あちこち探しますが、やはり着替えが見つかりません。
と、ととりあえず、体を拭きましょうか。いつまでも濡れたままでいるわけにはいきません。タオルが一枚だけあります。体についた水滴を拭きとりながら目を配り、着替えを探します。
が、やはり見つかりません。どうしましょうか。…そうです! お風呂場の方に、呼び出しボタンがあるかもしれません。ないものは仕方ありません。どなたかに着替えを持って来ていただきましょう。呼び出しボタン……。これまた見つかりません……。ああ、大変です。困りました。
まままさか、この格好で脱衣所から出ないといけないのでしょうか。それは無理です! だって、全裸です! 脱衣所を出て、廊下を通って、階段を上り、また廊下を渡って私の部屋に行く。それほど遠くはないのですが、誰かに会うかもしれません。家事使用人は全員が女性です。女性に見られるのは、まだいいかもしれません。いえ、良くないです。今後、白い目で見られます。それに、安曇さまに出くわすかもしれません。ですが、ずっと脱衣所に籠っているわけにはいきません。誰にも見つからず、部屋に戻ればよいのです。
丸裸で脱衣所を出るのは、少し抵抗があります。何かないでしょうか。タオルが一枚あります。けど、少し小さいです。温泉番組で女性リポーターが体に巻くような大きいバスタオルではありません。体の前面に持ってくれば、見えてはいけない部分をギリギリ隠せるくらいのサイズです。隠して、少し廊下を覗いてみましょう。
ゆっくり引き戸を開けます。音を立てないように。そしてわずかに開けたところから顔を出し、廊下を見渡します。朗報です。誰もいません。
そーっと行きます。そーっと。私は廊下に出て、ゆっくり脱衣所の扉を閉めました。背中がとても、すーすーします。
つま先立ちで素早く移動して、階段まで辿り着きました。一段一段、登っていきます。二階まで来ました。良い調子です。まだ誰にも会っていません。もう一息で、自室につきます。
二階の廊下に出ようとしました。そのときです。廊下の先に誰かいるのが見えました。私はその方を存じ上げております。安曇さまです。一体全体なんでこんなところにいらっしゃるのでしょう。
いま私は、隠すべきところをなんとか隠している程度の格好です。それに、後方からの視線にとても弱いです。まさかこんな姿を見られるわけにはいきません。いったん退きましょう。別ルートです。別ルートを探すのです。
私は振り返って、階段を降りようとしました。と、視界の端にヌッ、と人影が現れました。びっくりして、思わず声を上げそうになります。が、なんとかこらえました。そこにいたのは、二葉さんでした。
「行かないの?」
いたずらっぽい笑みを浮かべた二葉さんが、小声で言いました。
「二葉さん。会いたかったです。私、服がないのです。どこかに行ってしまったようです。部屋から何か着るものを持って来てはいただけませんか」
私はまくし立てるように言いました。
「断る」
「えぇ⁉」
「覚えてる? これはあれ、例の『恥ずかしがる姿でご主人様を魅了する作戦』。だからその格好でご主人様の前に出てもらわないと困るの」
「二葉さんのせいだったんですね」
私は少し怒ったような調子で言いました。
「けど、合意だよね」
昼間の、二葉さんとの会話を思い出します。この作戦は、女性が恥ずかしがっている可愛いい姿に胸がキュンとしたご主人様は恋したくなる、という二葉さんの見解に端を発するものでした。それに対して私は……。ああ、思い出してしまいました……。
「……そうでした。合意でした……。いえ、合意ですけど、まさかこのような目に合うとは…」
「大丈夫。今の雛、すごく可愛いから。内股で顔赤らめて、必死にタオル伸ばして大事なとこ隠そうとしてるこの感じ」
二葉さんがからかうように言いました。
「言わなくていいですから……っ!」
「で、どうするの? 行くの? やめるの? 私も鬼じゃないから、雛の着替え、実はここに持って来てるよ」
よく見ると、二葉さんは脱衣所にあった籠を抱えています。私の制服や下着が、そこにはありました。
「ど、どうしたらいいでしょう」
「私に訊かないでよ。早く決めないと、からだ冷えるよ」
私はふと、あのお金を支払えなかった場合のことを考えてしまいました。そうです。それと比べれば、安曇さまの近くを裸同然のこの格好で通り過ぎるくらい、どうということもないのかもしれません。
「私、行きます」
「え⁉ ホントに行くの⁉ いや、提案した私が驚くのはヘンなんだけど…。まあ、行くんなら頑張って」
「はい。頑張ります」
「ちゃんとご主人様に、おやすみなさい言うんだよ」
私は廊下を覗き込みます。安曇さまは先ほどの位置から動いておられません。窓から外をご覧になられています。目的は月や星でしょうか。いえ、視線は下です。どうやら、お庭をご覧になられているようです。
私はゆっくり、安曇さまの方に歩みを進めます。安曇さまに近付くにつれて、心臓が高鳴るのが分かります。
タオルを見て、しっかり隠れていることを確認します。やはり、こんな格好を男の人に見られるのは恥ずかしいです。
私は安曇さまのお隣に立ち、意を決して声を掛けます。
「お、おやすみなさぃ…」
うつむき加減だったうえに、蚊の鳴くような声になってしまいました。安曇さまのお耳に届いたでしょうか。
「おやすみなさい」
お聞きになられていたようです。安曇さまは私の方を一切見ることなく、言いました。お庭に目を向けられたままです。
ガーデンライトが放つ橙色の灯りがほのかに草木を照らすことで闇の中に浮かぶ、幻想的な美しさのお庭。優秀な方が設計したと思われる、芸術的なお庭。
私はそのまま安曇さまの後ろを通り抜け、自分の部屋に向かいました。
部屋に入ると、私はその場にへたり込み、大きく息を吐きました。
私の姿はたしかに——視野の中央ではないにしろ——安曇さまの視界に映り込んでいたと思います。安曇さまの横に立ちましたので。それに、廊下の明るさは十分でした。私は、今の私のような格好をした方が目に飛び込んで来れば、二度見すると思います。しかし、安曇さまは見向きもされませんでした。見ないことが、私に対する優しさだと思われたのでしょうか。いえ、安曇さまは単に、私をよりもお庭をご覧になりたいからそうした、というだけのように思われます。
「いやー。残念だったね。ああいう人なんだよ。女の子に興味がないって言うか、人間に興味がないっていうか。まあ、私もそこまでだとは思わなかったけど」
いつの間にか、二葉さんが部屋に入ってきていました。
「たいへん手ごわい方だということが、身に染みてわかりました」
「なんかごめん。私の提案のせいで恥ずかしい目に合わせたうえに、ガン無視されちゃって」
恥ずかしい目に合わされた上にガン無視されてしまいました。改めて思うと、自分が情けないです。
「いえ、合意ですから。二葉さんは気にしないでください」
「まあ、とりあえず服着たら」
「そうですね」
私は部屋着を着て、自分のベッドに腰を下ろしました。二葉さんが私の隣に座りました。
「ところでさ、雛はなんでお金欲しいの?」と二葉さんが真剣な顔で言いました。「なんか、込み入った事情がありそうな気がするんだよね。私なんて、たくさん服買ったり、良いマンションに住みたいから三千万欲しいだけだし、牡丹さんは何とかって言うスポーツカーが欲しいってだけなんだけど、雛はそういう感じじゃない気がするんだよね。切羽詰まった事情がある感じ。たまに表情に出てるよ」
二葉さんは鋭い方です。
「…そうですね、物が欲しいというわけではありません」
「借金とか?」
「お恥ずかしながら、そんなところです。しかし、申し訳ないのですが、詳しいことはお話しできません」
「ふーん。分かった。じゃあ、これ以上は訊かない」二葉さんは立ち上がって言いました。「けど、これだけは覚えといて。今回のことで、雛は一方的に恥ずかしい思いをした。言い出しっぺの私に代わってね。つまりこれは、雛が私に貸しを作ったようなもの。だから、私に何かして欲しいこととか、手伝って欲しいことがあれば、遠慮なく言って。もちろん、雛が困ってそうなら、私は勝手に手を差し伸べる」
「はい! ありがとうございます」
それから、二葉さんは自分のベッドの上に脱ぎ散らかしてある部屋着に着替え始めました。
二葉さんは良い人です。私のことを心配して、わざわざ私を助ける理由を取り繕ってくれたように思います。
安曇さまの人間関係は、一歩ずつ変えていく必要がありそうです。一足飛びにはいきません。そういう意味で、今日のような作戦は、あまりよくなかったのかもしれません。また明日からは、別の方法を試していくことにしましょう。
家事使用人の朝は早いです。今日はもう、寝ることにします。