浮気された妻です。世間のご期待に沿えずすみませんが離婚しません。
夫と出会ったのは大学時代。
互いに医者の家系で育った医学生で、ひと目見たときから気になる存在だった。
在学中はつかず離れずの友人関係。
けれど、卒業間際にその関係は変わった。
――ずっと、好きだった。
思いがけない告白に、「私も」とだけ答えた。
すると彼は、喜びと恥じらいが混ざり合った初めての顔を見せてくれた。
私たちは社会に出て、三年間の遠距離恋愛を経て結婚。仕事は忙しいけれど、とても幸せな日々を過ごす。
――病院を作ろうと思うんだ。
結婚して五年。
彼は大学病院を辞めて、地元で自分の病院を作った。
私は出産・育休を経たものの相変わらず勤務医で、彼の病院を手伝うことも考えたけれど「いざというときのリスクは分散すべき」という彼の意見に賛同する。
順風満帆。
仕事も家庭も、すべてがうまくいっている。
私はそう思っていた。
幸せだった。
けれど、それはある日突然崩れ去る。
――ごめん。浮気相手が妊娠した。
この人は誰の話をしているんだろう。
半ば、理解できぬままその浮気相手とやらの看護師と引き合わされ、とにかく穏便に済ませなくてはとお金を支払うことで合意した。
夫も彼女も、出産を望んでいなかったから。
なんて無責任な。
憤りと情けなさ、そして絶望。
そこへさらに追い打ちをかけるように、地元に噂が広まってしまった。田舎の生きづらさをこのときほど感じたことはない。
自分の勤務先にもいつしか噂が回り、両親や親戚、友人からは同じことを言われた。
――離婚した方がいい。
打ち合わせたかのように、同じことを口にする彼ら。
私があいまいに笑って答えを濁すと、さもそれが正しいかのように決断を促す。誰もが簡単に想像できるような、とってつけた理由を並べて。
――お金ならあるんでしょ?一人で子ども育てることもできるでしょう。
――なんでこんなになってまで一緒にいるの。
――浮気した夫と暮らすなんて、気持ち悪くないの?
心底うんざりする。
そんなことは私が一番わかっている。
一体いつになれば落ち着くのか。
ギクシャクする夫との関係を修復し、子どもとのんびり過ごしたいのに。
そう、私は夫との関係を修復するつもりなのだ。
誰が何と言おうと、この先も私たちは夫婦を続けなけばならない。
そう決めたの。
お願いだから、外野は黙って。
万が一、夫が罪悪感に苛まれて離婚を言い出したらどうしてくれるの?
何もわかっていないくせに。
経済力があるから離婚しろ?
ふざけるな。
これからどうするかという選択は、私の権利だ。
経済力がなくて離婚できない人もいる、そんなことはわかってる。
だから何?
その人たちの代わりに、私に離婚しろって?
女が抑圧されがちな社会で、溜まりに溜まった見ず知らずの女たちの憂さ晴らしのために離婚してくれって?
冗談じゃない。
私は離婚しない。
◆◆◆
夫に裏切られてから三十年。
お互い、六十を過ぎたある日のこと。
「君は最後まで、俺の味方だった」
末期がんを患い、余生は穏やかに自宅で過ごしたいと言った夫が突然にそんなことを口にした。
「ふふっ、ふふふ」
笑ってしまった。
「あなたがそんなことを言ってくれるなんて」
クスクス笑う私を見て、夫ははにかむような笑みを浮かべた。出会った頃のように。
そして私も言った。
「ありがとう」
出会った頃とはまったく異なる、憎悪一色に染まった心で。
「あなたが苦しんで死んでいくところを近くで見られるなんて、本当にうれしいわ」
夫は混乱しているのだろう。
表情がそれを物語っている。
私は、ずっとこの日を待っていた。
「味方?本当にそんな風に思っていたんですか?あはは……、愚かな人」
「何を……」
「ふふっ、ふふふふふ」
今、最高に気分がいい。
「時間が解決してくれる、なんて本当にそう思ってました?肉体に受けた傷ですら一生消えないのに、それより深い精神の傷なんて人間が生きてるうちに消えるわけないじゃないですか」
欲しいのは謝罪じゃない。
慰謝料じゃない。
絶望。
ただ、それだけ。
「その顔が見たかったんです。あぁ、誤解しないでくださいね?あなたの寿命が尽きるまで、まだまだ色々考えてあるんです。今の絶望は、始まりにしか過ぎませんから……」
あなたが以前、言ったんですよ。
引退後は二人で楽しもうって。
「今日から第二の人生を始めましょうね?あなた」