秋、初めての想い。
「さようなら、また明日」
終礼が終わり、ほとんどの生徒は部活動へと向かう。それぞれの部活へと向かう可奈と彩花にも別れを言い、詩織も鞄を持つ。
「行きたくないなぁ…」
初夏に感じ始めた吹奏楽部での違和感は、日を追うごとに増していった。
真面目にやらないだけならまだいい。しかし、真面目にやりたい後輩達の邪魔をして、詩織に反抗しようとする部員には嫌気がさしていた。
今日もまた、何か言われるだろうか。
人から敵意を向けられることは、気持ちの良いことではない。初めのうちは笑って受け流していた詩織も、それが毎日となるとさすがに耐え切れなくなっていた。
「休んじゃおっかな…」
可奈や彩花も各々の部活が忙しい。ましてや自分の部活運営が上手くいってないことを相談するには、詩織はまだ恥ずかしさを捨て切れていなかった。
クラスメイトから見た「しっかり者の詩織」というイメージは、逆に詩織を窮屈にしていたのだ。
鞄を持って、重い腰を上げ、やっとの思いで部室へ向かおうと決心したその時ーー。
「井原」
声を掛けられたことに気がつき視線を上げると、目の前には伊東先生が立っていた。
先生は詩織の前の席に腰を下ろして続ける。
「大丈夫か?」
「え、なにが…」
「いや、見るからに元気無いし。春はあんなに楽しそうに部活に向かっていたお前が、最近はその足取りがやたらと重い」
なんで…と言いかけて詩織はやめた。口を開くと涙がこぼれそうだったから。
そんな詩織の気持ちを察してか、伊東は言った。
「わかるよ。担任なんだから」
詩織は部活でのことを、誰にも相談してこなかった。自分の弱さを見せることは、恥ずかしいことだと思っていた。だから、悩んでることすら悟られないように、友達の前でも、家族の前でも、いつも通りに振る舞ってきたつもりだった。
それをなぜ、この先生だけは気づいたのか。
気がつくと教室にはもう誰も残っておらず、伊東とそのネクタイを見つめて涙を堪えている詩織だけがいた。
そこからどのぐらい時が経っただろうか。
詩織は胸の内を伊東に打ち明けていた。部活運営が上手くいっていないこと、それによって反発を受けていること、それを誰にも相談できずに悩んでいたこと。
あんなに不信感を露わにしていた伊東に対してなぜこんなにも素直に話すことができたのか、詩織にはわからなかった。
なぜだかわからないが、伊東のグリーンのネクタイを見つめていると全てをさらけ出して甘えてしまいたくなったのだ。
それまで黙って詩織の話に耳を傾けていた伊東が、初めて口を開く。
「今までよく、一人で頑張ったな」
その言葉に、ずっと堪えていた涙が溢れた。差し出されたハンカチに、声を押し殺して泣いた。
詩織はこの日、入部以来初めて部活をサボった。
秋の夕暮れが、窓から教室に差し込んでいた。




