将来
僕は随分ボロい電車に乗って橋梁を渡っている。
隣の電車はピカピカで、程良く人が乗っている。乗車率100%くらいだろうか。
こちらの電車は10%くらいで人はまばらだ。皆生気の無い顔をしている。
ピカピカの電車とは反対方向に走っていく。走っていく。景色から車両が途切れない。ずっと人の景色。
20分くらい経った頃、電車がグンと曲がった。どこに行くのか。
河原沿いの草は青々としていて、反対側の山は太陽でシャープマスクをかけたように緑が際立っている。急に田舎になっていた。
「次は○○駅~、○○駅~」
皆が電車から降りていくので僕も降りた。日が高い。10時くらいだろうか。
ボロい電車はいつの間に発車したのか、消えていた。
「どうして線路の上を自動車が走っているんだろう」
ぽつりと呟く。
田舎っぽいのに4本もある線路も不思議だったが、線路に沿って走る普通車も普通じゃない。ここはどこなんだ。
車は途切れることは無かったが、時速10キロくらいでのろのろと走っていたし、踏切も鳴っていなかったのでそういうものなんだろうと、僕は駅を出て線路を横切ることにした。
駅の北側はすぐ山で、南側は道らしい道が一本しかなく、その一本をとりあえず歩くしかないようだ。
そういえば、駅って反対側のホームがあるものじゃないのか? 快速用の線路が3本もあって、この駅に停まるのは片道一本だけ?
だらだらと歩いていると背の低い白い建物が見えてきた。市役所のような、介護施設のような、白くて、長方形で、二階、あるんだろうか。
建物の入り口に女の子が立っていたので声をかけてみる。
「こんにちは」
「……」
軽く会釈を返された。
「この建物は何なのかな?」
「病気の人がここに隔離されているの」
「病気?なんの?」
「あなたは違うの?」
なんのことだか分からない。
「あぁー……本題が遅れました。実は道に迷ってしまったみたいで、東京に帰るにはどうしたらいいですかね」
「あなた、帰れる人なの?」
「病気じゃないからね。多分」
「でも、一度診てもらった方が良いわ。お医者さんの所に行きましょう」
女の子に手を引っ張られて建物へ向かう。大丈夫なんだろうか。病気って伝染病なわけではないのかな。
伝染病じゃないのに隔離……?
診察室の前まで来た。随分ガラガラというか、受付も素通りなのは何の特権なんだろう。
ドアをノックする。ちゃんと三回。僕は偉い。
「どうぞ」
「失礼します」
医者はマスクをしてなかった。うつらないのか。一安心。
あとは僕が何かの間違いでここへ来てしまって、病気とは関係ないんだってことが分かればいい。
「お名前は?」
「ミフミです。クロダ ミフミ」
「ミフミさん、早速ですが、ご自身がここへ来られた時のことを覚えていますか?」
「え? なんかやたら車両数の多い……は対向車だったな、気付いたらボロボロの電車に乗ってて、なんとなく降りたのがここだったんです」
医者がカルテに何かを書き込み、続けて質問される。
「そうですか。電車に乗る前は?」
「覚えてない……な……あ、思い出した。僕が病気だって話になって、クラスメイトに消しゴムのカスを投げられたんだ。病気ったってよくあるいじめのターゲットで起きるやつですよ。バケツいっぱい消しカスをかけられて、耳や鼻にもいっぱい入って、アレ? でも今は入ってない。どうしてだろう」
「そうですか……ふぅー」
医者、深くため息。
「入院して、極力一人で過ごしてください。すべて個室になっていますから」
「え、入院? お金ないですよ」
「政府から出ますのでご安心を」
「帰れないんですか? 外出とかは?」
「絶対に眠くならないなという時だけ外出できます。帰るのは、難しいと思いますよ」
「どういうことですか」
「道が繋がらないんですよ。病気の間はどうしてもこの町に辿り着いてしまいます」
「ど、どういうことですか」
医者と付き添いの女の子が目を合わせる。
「私から説明しておくわ。診察ありがとうユウ先生」
「君も症状が軽いとはいえ外出には気を付けて欲しいな」
「わかってるわ。行きましょうか」
え、あぁ、と呆けた声を出しながら僕は女の子に手を引かれる。建物の外へ?
「外出っていいのか? 実は僕、今眠いんだが」
「病気の説明をするには丁度いいわ。どこか行きたいところはある? 案内するわ。きっと出来ないけど」
「何を言っているんだか、でも、そうだな、君は悪い人じゃなさそうだし、世話になるよ。とりあえず駅に戻りたいな。帰れない意味が一番わかりそうだ」
「ガッテン!」
「君はそんなキャラじゃないと思っていたよ」
来た道を戻る。当然だが一本道。今正午くらいかな。日が天に昇っている。
「あなたの道は一本しかないのね」
「この町の道路は増えたり減ったりするのか? 面白いな」
「あぁ、でもこういうことなのね」
この線路を渡ると駅だ。駅があるはずなんだ。でもホームは見えなくて、車ばかりが線路を走っている。
さっきよりも交通量が多くて、多くて、多すぎて一台も動けていない。固まった血のようにドロドロとしていた。
「……なんとなく分かってきたよ。僕は夢を見ているんだ」
「正確には、夢が現実になってしまう病に罹っているのよ、あなた」
「この町にいる人は皆?」
「そう、重症の人は町の形を大きく変えてしまうから外出禁止なの。禁止されなくても他の人の夢と混ざってぐちゃぐちゃになるのが嫌で引きこもってるわ」
「君は?」
「どこからともなく子供の笑い声が聞こえるの。サーカスの音や、水の音、楽しいわ」
「その程度なら、君一人なら電車に乗れるんじゃないのか?」
「だめね、電車に乗ってもどこにも辿り着かないの」
「そうか」
「施設に戻りましょうか」
道すがら女の子に尋ねる。
「ずっとここから出られないのかな」
「治れば出られるわ」
「治し方があるのか?」
「夢を見なくなればいいのよ。こんなふうに夢の話をしているだけで余計に夢を見るようになるから、この散歩も会話も逆効果ね。先生もやめろって言うわ」
「君は悪い人じゃないけど悪い子だったか」
施設の中は何でもあった。テレビ、ゲーム、漫画、ジム、プール、キッチン。どう考えても建物に入りきらないのに存在しているのは、誰かの夢で時空が無視されているからだろうか。
「何をする? 気がまぎれるなら何でもいいわ」
「特にないな。暇ならもう少し駄弁っていたい」
「眠っている時の夢について話すと怒られちゃうから、将来の夢について話しましょう?」
「夢じゃないか、君、ここから出る気はあるの?」
何だか頭がぼーっとしていて、実は僕自身も家に帰らなきゃという気分ではなかった。
「夢、将来の夢ね、僕はパティシエになりたいんだ」
「なればいいじゃない。運良くそういう夢が見られれば一流にだってなれるわ」
「そうだね、完璧なテンパリングをして、完璧な色彩で、完璧な味のケーキを作るんだ。でも……」
「でも?」
「ほら、僕、鼻がきかないんだ。嗅覚が生まれつきなくて、何も分からない。夢って経験したことの中から生まれるだろ、だから僕が香りの夢を見ることは無いんだ。食べ物が腐ってても臭いからじゃわからないし、僕の気づかないところで不衛生になるかもしれない。そもそも、香りがちゃんとしてないのに美味しいお菓子なんて作れないでしょ……」
「そっか」
「誰にも言ったことが無かったんだ。親にも。自分の嗅覚が無いことには小学3年生の頃に薄々気付いた」
「あなたの作ったケーキが食べてみたいわ」
「夢から作ったケーキ? それとも現実のケーキかな」
「両方食べてみたいわ。理想のケーキと最高のケーキ。両方」
「じゃあケーキの夢を見たら、ケーキを作ろう」
「あら、目の前にあるじゃない」
見ると、キッチンのまな板の上に苺のチョコケーキがあった。
「あはは、夢の話をしたからかな。じゃあ本物のケーキを作ってくるよ」
大丈夫、昨日も一昨日もその前の日も作ったんだ。上手くいく。ずっとずっと作ってきたんだ。
「ケーキができたよ。召し上がれ」
「美味しそう、夢のケーキから食べてみるわ。いただきます」
ケーキが崩れる。女の子の口が開く。ケーキが消える。
「……どうかな?」
少女は笑顔のまま答えた。
「見た目も味も舌触りも文句ないの、でも何の香りもしないわ。不思議な感じ。」
「そうか、そうか」
「香りが無いってこんな風になるのね。予想はしてたけど変な感じ。」
「そうか、そうか」
僕も味見したが、自分で作るよりも美味しかった。僕にとっては理想のケーキだ。
「じゃあ次は作ってくれたケーキね、いただきます」
材料は良い物を使ったんだ。味見もした。焼き色も、スピードも、徹夜で予行練習したレシピも、何も間違ってない。
それでも目に映るのは最高の笑顔じゃなかった。きっと普通に美味しいとは思ってくれてるだろうけど、気を使ったフォークの使い方だった。
「正直に言ってくれていいんだ」
「美味しいけど、カカオの香りがちょっとキツイかな。ごめんね、素人だから分かんないけど、いちごの香りが弱くなっちゃってる気がするの」
「そうか、そうか……」
嗅覚さえあればバランスが取れたんだろうな。僕の努力ってなんだったんだろう。
「食べてくれてありがとう」
はぁーーっと息を吐く。頭が冴えてきた。僕の努力ってなんだったんだろう。
義手とか、義足とかはあるけど、鼻ってあったっけ。将来的にはできるのかな。
それとも僕が目指すべきものって、研究者になって嗅覚のない人たちを救うことなのかな。
そんなんなりたくないし、違うよな。僕の努力ってなんだったんだろう。
パティシエ学校のクラスメートにお前には無理だって言われてもこんな風には思わなかったのにな。
お客さんに美味しくないって言われたら意味ないよな。僕の努力ってなんだったんだろう。
現実が見えた。僕はパティシエになれない。商店街の安いケーキ屋にならなれるだろうか。なって、香りの分からないものをお客さんに出すのか。死んだ方がマシだ。
現実が見えた。現実が見えた。現実が見えた。
「あれ? 目、見えなくなっちゃった」
女の子の顔には眼球が無かった。
「僕が夢の無い夢を見ているからだ。夢から夢を取ったら現実ってことなのかな」
「私の景色を見る夢が消されちゃったのね」
「どうする? 多分今の僕と一緒にいれば町から出られるよ」
「きっとそれがいいんだわ」
僕は女の子の手を引っ張って駅に向かった。夕日が少し涼しかった。
駅、来た道とは逆に歩けば着くさ。線路を走る車はいないし、もし電車が来ても十分避けられる。
僕はもう夢に流されない。