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1  春の野にて①

(お母さん、お水いる?)


 ――……。


(お母さん? ね、ねえ、目を開けて! お母さん、死なないで……!)


 ――アマリア。ごめん、なさい。もうちょっと、一緒にいたかった……。


(なんで謝るの!? お母さんは悪くないよ! 悪いのは、お母さんを苦しめる病気なんだから! ねえ、元気になって! もうちょっとで春になるよ。暖かくなるから、過ごしやすいから、それまで……!)


 ――ありがとう。でも、もういいの。


(……。……ねえ、私にできること、ない? なんでも叶えるよ! だから、なんでも言って!)


 ――…………。


(お母さん……!)


 ――……。……最期に、もう一度、会いたかった――愛してる……。


(お母さん……待って、やだ、行かないで……おいてかないで……お母さん!!)











 寒風吹き付ける冬が過ぎ去り、ポルクに春がやってきた。

 冬の間は荒涼とした風景が広がっていた野にはぽつぽつと新芽が芽吹き、降り注ぐ日光は優しく肌を温めてくれる。


「ママ、見て! ちょうちょ!」

「そうね。握り潰さないように」

「はーい!」


 金髪の少年が野を駆け回り、ひらひら飛んでいる蝶や地面を跳ねるバッタを追いかけている。彼のふっくらとした手に掴まれたら最後、華奢な昆虫たちは一瞬で絶命するだろうから、「生き物を大切に」精神をしっかり教えなければならない。


 アマリアは被っている帽子を手で押さえながら、空を仰いだ。

 アマリアとユーゴがポルクで暮らすようになって、約半年経過した。


(冬の間は色々ゴタゴタしていたけれど、無事に春を迎えられてよかった……)


 先日、キロスにいるフアナからポルクの代表者宛てに手紙が届いた。そこには、アルフォンスが死んだこと、エスメラルダとブラウリオが投獄されたことなどが書かれていた。


 アマリアが軟禁されたあの離宮は今後、まだ幼い王子を育てる場所になるそうだ。父が死に、母が投獄された王子は結局王太子夫妻に引き取られ、王位継承権を持たない王子として育てられるという。

 メイドのフアナとロレンサは王子の教育係になったので、いずれ王家から離れて公爵位を賜るだろう王子を誠心誠意お育てする、という決意がしたためられていた。


(……アルフォンスは、死んだのね。そしてエスメラルダやブラウリオもきっと、一生外の世界に出ることは叶わない――)


 キロス王はどこまでも利益主義なので、自分の不利益になるようなら実の娘だろうと優秀な黒魔法使いだろうと容赦はしない。冬に起きた光竜襲撃事件を全て娘夫婦とブラウリオの責任にするそうだから、恩赦も望めないはずだ。


 アルフォンスたちのことはやはり憎いし、許せるわけでもない。だが、「死んでよかった」と思えるほどでもない。むしろ、「これからはもう彼らと関わることはないのだ」という安心感にも似た感情が勝り、肩の力が抜けた気分だ。


(私は、この集落で生きていけるだけで十分。これからは私の未来を、私自身で選んでいける……)


「ママ、ママ! これ、なーんだ?」


 物思いにふけるアマリアのもとに、ユーゴが駆け戻ってきた。彼は満面の笑みで、揉み手をするように重ね合わせた両手を差し出してきている。

 あの手の中には何かが入っているのだろうが……嫌な予感しかしない。


 アマリアにとって可愛い息子であるユーゴだが、最近妙な知恵が付いたらしく、いたずらをしてアマリアを驚かせることがしばしばあった。


(この前は、「いいものみつけた!」と言って芋虫を渡してきたんだよね……)


 アマリアは笑顔で、右手をぴっと胸の高さに挙げた。


「はい、そこで止まる。その手の中には、何が入っているのかしら?」

「いいもの!」

「本当に、いいものなの? ママが嫌いなものは入っていない?」

「……は、入ってない」


 嘘がバレバレだというのに「入っていない」と言うあたり、やはり知恵が付いてきたのだろうと思う。さらにここで明らかに動揺するあたり、まだまだ子どもなのだとも感じる。


 アマリアが「そこで手を開いてみせなさい」と指示すると、ユーゴは観念したように手を開いた。予想通り、とてつもなく巨大なバッタがみょんっと飛び出し、アマリアの口元が引きつった。

 田舎で暮らしている身ではあるが、アマリアは虫が嫌いだ。蝶などのひらひら飛ぶものやのそのそ這うものはまだましだが、跳ねるものとカサコソ動き回るものはおしなべて大嫌いだった。


 アマリアは、笑顔でユーゴを見つめる。ユーゴは最初こそ引きつった笑みを浮かべていたが、やがて後ろ手に組むと、「ご、ごめんなさい」とか細い声で謝った。


「あの、すごい立派なバッタだから、ママにも見せたくて」

「そうね、とても立派なバッタだったわ。でもね、ママはバッタが苦手なの。知ってるわよね? もし虫を見せたいのならレオナルドにお願いするように、って言ってるよね?」

「う、うん。でもレオナルド、まだ戻ってきてないし」


 ユーゴはぼそぼそと言った。レオナルドがいないことを寂しがっている様子で、叱っている場面ではあるがほんのりアマリアの胸が温かくなった。


 レオナルドは冬の終わりから、傭兵の仕事に出ている。「一ヶ月はかかると思います」と事前に聞いていたのでそれほど心配はしていないが、会えないのはやはり寂しい。それは、ユーゴも同じなのだろう。


(まあ確かに、レオナルドが戻るまでバッタを何日も捕まえておくわけにもいかないし。……だとしても)


「大きなバッタを自慢したい気持ちは分かるわ。……でも、私はそういう虫が苦手なの。だから、私に見せたとしてもユーゴと一緒に喜んだりはできないのよ」

「……」

「ユーゴも分かっているでしょう? ……もしかして、私が怖がるのを見るのが楽しい?」

「えっ? そ、そうじゃないよ。でも……」

「でも?」

「……怖がっているママも可愛いから、たまには虫にびっくりしているママも見たいんだ」


 もじもじしながらユーゴは白状するが。


(……こ、これは孤児院にもいた、好きな女の子にいたずらをする男の子と一緒じゃない!)


 仲よくなりたいのに、わざと嫌われるようなことをする。相手は嫌がっていると分かっているのに、いたずらをする。男の子をひっ捕まえて叱ったところ、「ぼくのことを見てほしかったから」と泣きながら言っていたではないか。


 やれやれと額に手をあてがい、アマリアはしゃがんでユーゴの両肩に手を載せた。


「ママは、分かっていて嫌なことをしてくる男の子を好きになることはできません」

「えっ、そんなの、やだ! ごめんなさい、もうしないから!」

「本当に?」

「本当に! だからおれのこと、嫌いにならないで!」


 ぎゅっ、とアマリアのワンピースのスカートを掴み、ユーゴは今にも泣きそうな顔で見上げてきた。バッタを掴んだ手で触れられるのは正直ぞくっとするのだが、今はそうも言ってられない。


「……分かったわ。でも、本当にこれが最後だからね。今度やったらお尻ペンペンじゃ済まないわよ。レオナルドにも言うからね」

「うん……分かった」


 素直に頷いたユーゴのつむじにキスをし、アマリアはぷるぷる震える背中をポンポンと叩きながらその場に座った。ユーゴが少々もじもじしながら「ひざ、乗ってもいい?」と聞いてきたので抱き上げてやると、彼はほっとしたように頬を緩めてアマリアの胸元に身を預けて座った。

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