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捨てられ白魔法使いの紅茶生活  作者: 瀬尾優梨
第1部 秋から冬
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56 花の名前③

 何も言わず、レオナルドは立ち上がった。

 彼に見下ろされるとどうにも恥ずかしくなり、アマリアは顔を逸らして口元を手で覆ってしまう。


 ……アマリアとしては胸のときめきやら恥ずかしさやらを鎮めようと思っての行動だったのだが、レオナルドにとっては逆効果だったようだ。はっ、と短く息を吸った彼は、アマリアに向かって手を差し伸べてきた。


 レオナルドの左手はアマリアの肩に触れ、もう片方の手は親指で唇の端をそっと撫で、残りの指で軽く顎を掬ってきた。


 抵抗できない。

 逃れられない。


 レオナルドは灰色の目の瞳孔を開き、微かに開いた唇から熱い吐息を漏らし、掠れた声でアマリアの名を呼んだ。

 まるで酒に酔ったかのようにアマリアも熱っぽい声で彼の名を呼び返すと、灰色の目が優しく弧を描く。


「……とても、可愛いです」

「……ぇっ?」

「あなたは、可愛い。ずっとずっと、思っていました。子どもの頃から……ずっと」


 低くて少し掠れた声は、アマリアの胸を激しく叩き、腰にも甘い痺れを生じさせてくる。

 レオナルドは少し首を傾げ、アマリアの首筋に唇を寄せてきた。熱く湿った吐息が産毛を擽り、アマリアは一度、びくっと大きく身を震わせてしまう。


「ひっ……!?」

「アマリアさん……僕が怖いですか? こうされるのは、嫌ですか?」


 レオナルドが、囁く。

 ジャージャーのぴりりとした甘辛い香りが脳みそまで染みこんでくるようで、どうしようもなく体がうずく。


 レオナルドが怖いか?

 こうやって抱き寄せられるのは嫌か?


「……やじゃ、ない」

「……嬉しいです」


 ふふ、と安心したような吐息がのど元に触れ――ちゅ、と優しい感覚が鎖骨のくぼみに落とされた。


(あっ……!)


 触れて、ほんの少し音を立てるだけのキス。

 以前エヴァに押しつけられた本に書いていたような、吸うとか噛むとか舐めるとかそういうことはなく、レオナルドの唇はごく紳士的に触れ、すぐに離れていった。


 それだけなのに、暖炉の火に当てられたかのように顔が熱い。口づけられた箇所がじんじんと甘く痺れ、体中がしっとり汗を掻き、息も絶え絶えになってしまう。


 少し体を離したレオナルドは、浅い呼吸を繰り返して胸を上下させるアマリアを、限りなく愛おしそうに目を細めて見つめていた。

 その薄い唇は幸福を表すように緩やかな弧を描いていて――ついさっき、それがアマリアの鎖骨にキスをしたのだと思うと、まともに見ていられなくなった。


「……レオ、ナルド……」

「いきなり、変なことをして申し訳ありません」

「……へ、変なことじゃないよ! あの、ブローチもそうだけど……レオナルドの気持ちも、すごく嬉しい」

「えっ……本当に、迷惑じゃなかったんですか?」

「うん。その……してくれたキ、キスも、嬉しかったし――」


 ひゅっ、と小さく息を呑む声が聞こえ、アマリアはこわごわ視線を上げた。

 そこには、頬を赤く染め、口元を手で覆うレオナルドが。手の平で隠しきれない口の端が笑みを象っているのが見え、彼は「……まずいな」と呟いた。


「どうすればいいんでしょうか……嬉しくて、どうしようもないんです」

「レオナルドも、嬉しいの……?」

「当たり前です! 今日は、あなたの誕生日を祝って、僕の気持ちを少しでも伝えられたら……と玉砕覚悟で挑んだのに、こんなに嬉しい言葉を聞けるなんて……僕、嬉しすぎて死ぬかもしれません」

「えっ、私たちを置いて逝かないで!?」

「もちろんです。……ありがとうございます、アマリアさん。あなたに喜んでもらえて……本当によかった」


 ふわっと笑うと、レオナルドはアマリアの体を優しく抱きしめてきた。彼の腕の力に抗わずに身を預けると、とくとくと普通よりかなり早く鼓動を刻む音が聞こえる。

 これは、アマリアの心臓の音なのか、レオナルドの音なのか。


 抱き合っているとレオナルドの温もりに包まれて心まで温かくなったが、しばらくして、レオナルドがぶるっと身を震わせた。


「……レオナルド? 寒いの?」

「す、すみません。今日はよく冷えますね……アマリアさんは大丈夫なのですか?」

「私はそれほどでもないわ。でも風邪を引いたらいけないし、今日は温かくして寝ましょう。たくさん話したいこともあるけれど……明日にした方がいいわ」

「そうですね。僕は頑丈なので全然平気ですが、あなたが体調を崩してはいけませんし」

「それは私の台詞よ」


 二人は見つめ合うとふっと微笑み、一度強く抱き合ってから体を離した。


(ユーゴは寒さに弱いみたいだから、ちょっと多めに毛布を持って上がった方がいいかしら)


 そう考えながら、アマリアは戸締まり確認のために玄関に向かう。「僕も行きます」とレオナルドが申し出たので、二人手を繋いで廊下に出て――


「……えっ?」


 ひゅお、と開け放たれたままの玄関のドアから吹き付けてくる寒風に、二人は足を止めた。

 夕食の前に、きちんと玄関のドアは鍵を閉めたはず。それなのにドアが開いている以前に、鍵が開いている――


「どうして開いて――」

「……! アマリアさん、下がって!」


 玄関の方に向かいかけたアマリアを、鋭い声でレオナルドが制する。だが、アマリアの方に向かおうとしたレオナルドはがくっと体勢を崩し、廊下の壁に手を突いた。


「……なんだ、これ……!?」

「えっ、何……」


 振り返ったアマリアは、息を呑んだ。

 自分の二歩ほど後ろにいるレオナルド。彼の両脚に青白い光がまとわりつき、動きを拘束していたのだ。


(これって、魔法……!?)


「レオナルド、脚を――」

「いけません! アマリアさん、逃げ――!」


 レオナルドに意識を奪われていたアマリアは、背後への注意を完全に怠っていた。

 

 にわかに、ぐいっと背後から腕を引っ張られた。悲鳴を上げて振り向いた先にあったのは、フードを被った人物の姿。


「えっ!?」

「アマリアさ――!」


 レオナルドの声がした直後、アマリアの周りを七色の光が飛び交い――


 ――ヒュオン、という甲高い音と共に、アマリアの周辺の景色は一転していた。


 薄暗く、ぽつぽつと人家の明かりが灯るだけだったポルクの集落の風景は、本棚で壁を埋め尽くされた室内へと一変する。

 アマリアはフードの男に腕を掴まれたままその場にへたり込み、呆然とあたりを見回していた。


(ここは……?)


「……なんだ、こんな時間に連れてきたのか」


 不機嫌そうな男の声が聞こえ、アマリアはぎょっとし――その声に心あたりがあったので、直後青ざめた。


(まさか……)


 怖々顔を上げる。

 床に座り込んだアマリアを見下ろすように、横柄な態度で立っている男。


 アマリアの記憶の中よりも若干伸びた黒い髪に、鳶色の目。腕を組んで偉そうに立っており、着ている服やマントからも高級感が溢れている。


「……アル、フォンス――?」

「なんだ、俺の名を覚えていたのか。殊勝なことだ」


 男は――十年前、アマリアを見捨てたアルフォンスは、光の灯っていない目を細めてにやりと笑ったのだった。

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