22 夜の一騒動②
顔を上げると、さらっと耳の横で何かが揺れた。
アマリアの髪の房を手に取ったレオナルドは、頬と耳は相変わらず赤いものの、何かを決意したかのように眼差しは真っ直ぐだった。
「……ユーゴの言うとおりですよ、アマリアさん。このまま立っていたらいつまで経っても寝られないでしょう」
「えっ!?」
「……おやすみなさい。いい夢を」
耳元で囁いた後、レオナルドは身を屈めるとアマリアの頬に唇を寄せ――
髪の房越しに、何かが当たる感触があった。
温もりとか、柔らかさとか、そんなのは全く分からない。
ただ、何かが軽くぶつかっただけ、といった感覚。
ふーん、と足元の方でユーゴがつまらなそうな声を上げる中、レオナルドはゆっくり体を起こした。そして微笑み、指先で摘んだままだったアマリアの髪をそっと手放す。
「僕は結構夢見がいい方なので、大丈夫です。それに、アマリアさんさえいい夢が見られたら、僕はそれで十分です」
「……ぃ、え?」
「おやすみなさい。また明日から、よろしくお願いします」
一歩下がり、レオナルドはきれいなお辞儀をした。ユーゴも今ので満足したのか、「ママ、寝よう!」といつものように服を引っ張ってくる。
ユーゴに急かされ、アマリアは足取りも怪しく階段を上がった。正直、頭が煮えたぎりそうなほど混乱しているので、少しでも気を抜けば足を滑らせて一階に転がり落ちてしまいそうだ。
なんとか寝室に上がり、ユーゴを抱きしめてベッドに潜り込む。子ども体温のユーゴはぽかぽかと温かく、いつも通りのおやすみのキスをすると間もなく、静かな寝息を立て始めた。
アマリアは最初、ユーゴの背中をポンポンとリズムよく叩いていたが、彼がすっかり寝入ったのを確認するとぱたっと腕を下ろし、薄暗い天井を見上げた。
まさか、髪越しにキスされるとは思っていなかった。だが身長の低いユーゴの目線からだと、レオナルドの唇とアマリアの頬の間に髪が挟まれていたのは見えなかったようなので、納得してくれたのがありがたかった。
(……レオナルドの方が、ずっと大人じゃない)
ユーゴを起こしてしまわないように、低く、長い溜息を吐き出す。
さっと親愛のキスをすればいいものを、妙に緊張して固まるだけだったアマリアに対し、レオナルドはユーゴの注文をクリアするだけでなく、緊張するアマリアに配慮して髪越しにキスしてくれた。
昔から年のわりに気が利いて頭の回転も速い子だったが、十年という歳月は彼の持ち味を存分に伸ばしていたようだ。それもあり、ただでさえ魔界にいる間年を取れなかったアマリアは、置いていかれたような気になってしまう。
(私も、もっとしっかりしないと……)
ぎゅっとユーゴを抱きしめ、アマリアはまぶたを閉じた。
翌朝。
「おはよう、レオナルド」
「あっ、おはようございます、アマリアさん」
まだ眠そうに目を擦るユーゴの手を引いて階下に降りると、ちょうどレオナルドも起床して毛布を片づけているところだった。元々彼の髪は癖が少ないが、寝起きだからか左の耳の後ろの髪の房だけ、みょんっとはねていた。
「床は硬くなかった? ちゃんと眠れた?」
「はい。毛布が分厚いので、床の硬さは全く気にならなかったです。この集落は静かですし、よく眠れましたよ」
「それはよかった。……っと」
少し目が覚めてきたらしいユーゴにじっと見つめられているのを感じ、アマリアは一つ息をついてレオナルドに歩み寄った。
そしてきょとんとするレオナルドの首の後ろに片手を回し、軽く自分の方に引き寄せると――
「……おはよう。今日もよろしくね」
耳元で囁いた後、頬に唇を押し当てる――フリだけして、体を離した。
レオナルドはアマリアがキスのフリをした箇所に手をあてがい、ぽかんとしている。そして彼は目だけ動かしてアマリアの背後にいるユーゴを見、納得したように苦笑した。
「……あはは。ありがとうございます、アマリアさん」
「どういたしまして。……ごめんね、ユーゴがいるから」
「ええ、お気になさらず」
ユーゴに聞こえないようコソコソと会話して、「おはようのキス(フリだけ)」をするに至った経緯を確認し合ったのだった。
まずは、朝風呂だ。
この家には小さめだが湯船があり、下部で薪を燃やして水を温める仕組みになっている。
本来なら、湯船一杯の水を温めるために一生懸命火を熾さなければならないが、ここにはユーゴがいる。彼がいつも通り「えーいっ!」とすると一瞬で薪が燃え上がった。後は火が急に燃え上がらないようユーゴが火力を調節さえしていれば、簡単に風呂の湯が沸くのだ。
「私は先にご飯を作っておくから、レオナルドが先に入ればいいわよ」
「えっ、そんなの悪いですよ」
髪をまとめ、エプロンを身につけて言うと、アマリアの手伝いで食料庫から野菜や肉を持ってきていたレオナルドは驚いたように目を見開いた。
「ここの家主はアマリアさんでしょう。それなら一番風呂はアマリアさんが入るべきです」
「別にそういうルールはないわよ。……だったら、レオナルドが代わりにご飯を作る?」
「…………すみません、全く自信がありません」
「それなら――ああ、そうだ。私がご飯を作っているから、その間にレオナルドはユーゴと一緒に入ってもらってもいい?」
ぽんと手を打って提案する。
普段、アマリアは朝食を作って食べてから、ユーゴと一緒に風呂に入っている。その後も食器の片づけをしたり風呂の後始末をしたりと結構忙しいので、せっかく男手がいるのだから少々協力を仰ぎたい。
「二人が入っている間に、ご飯を作っちゃうから。それで、よかったら食後に私がお風呂に入っている間にレオナルドには洗い物を頼みたいのだけれど……いいかしら?」
「料理や裁縫以外の家事の手伝いならなんでもしますよ。……まあ、確かに僕とアマリアさんで役割を分担した方が、アマリアさんも楽ですよね」
「……ごめんなさい、甘えてしまって」
「気にしないでください。むしろ、どんどん甘えてください。……それじゃあ、ありがたく先にお風呂に入らせてもらいますね。ご飯、お願いします」
「ええ。……ああ、そうそう。ユーゴは基本的に一人で体も洗うけれど、髪を洗うときだけは手を貸してあげてね」
「分かりました」
レオナルドは頷くと、風呂場の方に向かった。火の様子を見ているユーゴに、「今日は僕と一緒に入ろうね」と申し出ているのが聞こえる。特にユーゴが駄々をこねたり文句を言ったりしている様子はないので、男二人で仲よく入ってくれそうだ。
(レオナルドは孤児院でも、ある程度の年齢になったら年少者の面倒を見ていたし……ユーゴは普通の子どもよりは聞き分けもいいから、やりやすいはずだよね?)
よし、と頷き、アマリアは厨房に向かった。
せっかくレオナルドがユーゴの世話を引き受けてくれたのだから、アマリアは朝食を作ろう。




