桜の木の下には……
田南福はアイアン・クラウンと名乗る老人を教室の面談室に招き入れ、自分の分と合わせて温かいお茶を出した。
「えーと、アイアン・クラウンさん、でしたっけ。その、指導可能科目を教えていただけますか?」定番の質問をいくつか形だけこなして、さっさと切り上げるつもりだった。
「わしは」老人はそこで一息ためた。「人生、という科目を教えておる」
ん? やべーのが来たな。
「ははは。アイアン・クラウンさんは人生経験豊富そうですからね」おまえはただ年食ってるじじいなだけだろ、ということを婉曲的に言い換えてみた。「で、何の教科を教えていただけますか?」
「おまえさん、悩んどるようじゃの」老人は田南福の質問には答えず、別の質問で返してきた。
「ははは。そうですね、小なりといえど塾の長ですので、経営面において悩みはつきませんね。大学生バイトが突然授業をすっぽかしたり、生徒達の成績があがらなかったり、親御さんのクレームに対応したり……」
「そういう悩みじゃなかろう」老人は田南福の話に割り込んでくる。「もっと個人的なことじゃ」
あー、めんどくさいな。
「それは、生きていればいろいろありますよね。この年で嫁さんがいないとか」田南福は自虐的な笑いを誘ってみたが、老人は真顔のままだった。「それこそ人生経験豊富なアイアン・クラウンさんには釈迦に説法でしょうが」
「ほほう、わしを釈迦と呼びなさるか」
「あ、いえ、もちろん比喩的な意味で、ということですよ」
「おまえさんの悩みは、お釈迦様の手の平の中にある」
お釈迦様の手の平?
「そうじゃ、おまえさんは自分の可能性を、限られた時空間の中に閉じ込めてしまっておるのじゃ」
俺の可能性? 限られた時空間?
「さよう、それは」アイアン・クラウン老人はここで一呼吸ためを作ってから言い放った。「子供部屋じゃ!」
「は? 子供部屋ってまさか……」さっきから心の中でしゃべったことまできかれているような感じがして、田南福は思わず知らず声に出してしまっていた。
「そう、おまえさんは子供部屋おじさんなのじゃよ!」
どーん! ってそんな馬鹿な。たしかにtwitterでトレンド入りしていたけど、こんなじじいにまでリーチしてんのか、子供部屋おじさんという呪いの糞ワードはよ!?
「おまえさんは、子供部屋という、狭く暖かく快適な繭の中に、あまりにも長くいすぎたのじゃ。そこがいかに居心地が良くとも、おじさんになるまで永遠に繭にこもり続ける動物などおらんのじゃ」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い、いまのは痛かったぞー!!!!
「うるせーぞ、じじい! 俺は、俺は、実家にもお金入れてるし、こうして小さいながらも個別学習塾の塾長として、つまり人の上に立つ人間として、リーダーとして、それなりに立派にやってるんだ。ニートみたいに煽ってんじゃねーぞ!」
「そこほど激するということは、効いておるのかの、子供部屋おじさん、ちぢめて、こどおじ、かの!?」
「ポ◯モンを汚すやつは何人たりとも絶対に許さんぞ!」
「汚される心配をするのはポケ◯ンの方なのかの? とにかく、無理をするでない。わしはおまえさんを憐れんでおる、味方じゃ。おまえさんに生まれ変わる機会を与えるため地上に舞い降りた女神、という風貌ではないがの、老いたる神、救いの老神なのじゃ。おまえさんとて、いつまでも老いたる親、老親の野菜たっぷりインスタント袋麺を食べ続けるわけにもいかんじゃろうて」
「うるせー、うちの母ちゃんが作るインスタントラーメンは世界一なんだよ!」
「ニートもすなる異世界転生といふものを子供部屋おじさんもしてみむとてするなり。この塾の裏の公園に桜の木があるじゃろう。春には毎年それはそれは見事な花を咲かせるの。その中で、ひときわ丈の高い、立派な枝ぶりのものがあるじゃろう」
「ブランコの近くにあるやつ?」俺の子供部屋の窓からも見える公園で、小さいころから本当によく遊んだ。「3つ並びの左端のブランコから思いきりジャンプしたときの着地点あたりにある?」
「それじゃ。明日の午後3時、おやつの時間じゃの、その時間に公園で一番のその木のところに行くのじゃ。それに傾きかけた日の光が当たるじゃろう、その光が作る陰の先っぽの地面を掘ってみるのじゃ。そこに異世界へと通じる深い穴がある。そこへ飛び込むのじゃ! おまえさんも子供部屋を巣立つ時がきたのじゃよ」
この時、田南福は、前日の子供部屋おじさん狂騒のため捨て鉢になっていたからか、この老人の荒唐無稽な話をなかば信じていた。というか、信じたかった。
「その異世界への転生の際、いわゆるその、何か特別な能力とかもらえたりするんですか? チートと呼ばれたりするやつですが」
「どんな能力をお望みじゃ?」
このとき田南福の脳裏に、子供の頃の夢と、なぜか低須院長のことが浮かんだ。
「俺、もともとは医学部に行って医者になりたかったんです。残念ながらその時は実家の経済力とか学力不足で行けなかったのですが。なので、どんな異世界か知りませんが、能力もらえるなら、なんらかの特別な治癒能力を授かりたいです」
「ふむ。よかろう。おまえさんにはゴジョレーヌーボーというヒーリング能力を授けてやろう。使い方はこうじゃ。まず、とにかくそのクライアントの話をきく、それも心からの共感をもって丁寧に傾聴するのじゃ。しかるのち、おまえさんのその右の手の平を、相手にかざす。このようにな」
アイアン・クラウン老人は、じっと田南福に手をかざす。なんだかうちの母ちゃんがはまっている新興宗教の儀式に似ているな、と田南福は思った。
するとだんだん身体にほてりを感じて、田南福は、思わず机上のお茶に口をつけた。水面にうっすら映る自分の顔は、半信半疑、と言っていた。
ふと、顔を上げると、老人は煙のように消え失せて、そこには誰もいなかった。ただ、老人に出したぬるくなったお茶だけがそのまま残るばかりだった。