したたり落ちるは恋の夢
青春漫画の十八番、雨に降られる女子に自分の傘を押し付けて走り去る男子。今ではあまり見かけなくなって寂しい限りだが、俺はそういう男になりたかった。
しかし悲しいかな学校に置き傘をする女子が爆発的に増えたせいでその機会はほとんど零にまで落ち込んでしまったのだ。
俺としては相合い傘も好みではあるが、生まれてから16年と三ヶ月のこのかた、彼女という福音に巡り会う機会はなかったのである。
苦節六年間、きちんと学校と鞄に置き傘をしていた俺は――俺が傘なしで雨に降られては元も子もない――教師と親から『準備のいい子』と思われこそすれ、モテはしなかった。さらになんということだろうか、俺は共学の小中学校を乗り越え、興味の赴くまま、偏差値の誘うままに男子校へと進学してしまったのだ。愚かの極みである。
そこには女子に飢える上級生方と、神に愛されしと評された彼女のいる面々、そして数少ない男子を求める方がいた。残念ながら俺はそちら方面の趣味はない。受験の時はただがむしゃらであったが、入学式のときの絶望といったらなかった。見渡すばかり男である。学年が上がるにつれてむくつけき男が犇めくのである。なぜなら我が校は部活に勉学にと強烈な力を注ぐ高校であるからだ。文化部でさえ筋肉質。それが我が校。かくいう俺も水泳かサッカー部にでも所属しようと思っている。
それはさておき小中学校の女子陣はお世辞にも優しく暖かい聖母であったとは言い難かったが、それでもこの筋肉どもよりは柔らかめではあった。もちろん見た目の話である。万人の肉は柔らかろうが、見た目の話である。触れるなどした暁には鋭い悲鳴と拳が俺を襲ったことだろう。
失礼、話がずれた。
とどのつまり俺に残された最後の希望は、登下校中に雨が降り、かつ雨宿りをする他校の女子を助ける他なくなったということなのだ。
まあ待て君、女子と仲良くなりたい、またはカッコつけたいなら他の方法があるだろうと言いたいのはわかる。しかしこれは浪漫の問題なのだ。夢の問題なのだ。確かに女子とお近づきになりたいのならば巷で言う合コンや他人の紹介に預かればよいとは思う。だがそれでは余りにもつまらないではないか。まだ俺は16と三ヶ月の若造である。夢を見果てるには若すぎやしないだろうか――
――とまあここまでのことを俺は木の陰で雨宿りする女子高校生を目端に捉えた瞬間に考えていた。
考えがまとまる前に体は前傾し、踏み出した爪先は雨粒を掻き分ける勢いでコンクリートを踏んだ。
そのまま傘を軽く閉じ、思いきり直進。その先に人がいないことは考えがまとまる以前に確認したことだ。迷いはない。障害はない。俺はただひたすらに、ひたむきに走ればいいのだ。
ぐらりと流れ出した景色に目も暮れず、俺はいかにも人がいたことに驚いたそぶりで速度を落とす。そして傘を貸すかどうかの迷いを表すように少し止まる。すぼめた傘を軽く上へ開けば、驚いた顔の女子がそこにいた。そこで俺の計算が狂う。よく見えなかった女子の顔が目の前に。
その刹那、俺の心はぶち抜かれた。
かわいい。
ちっちゃい。
さいこうかよ。
俺の言語能力は雨に流された。
「………これ」
驚きのあまり『傘貸すよ、風邪引くぜ』の二言が省略されてしまった。
「……えっ、あの」
当然、女子の返答もまごついたものになる。突然見知らぬ男子高校生に傘を差し出されては戸惑いが先に来るだろう。
しかし俺は二の句を告げることができない。この動揺した気分でモノを言えば声は間違いなく上擦り、驚きに起因するカッコよさまがいの雰囲気は恐らく雲散霧消し、女子を前にしどろもどろになるバカと同じランクにまで引き下がるだろう。それだけは、それだけは確実に避けるべきだ。
思案の結果、俺は傘を自分側へ傾けた。女子へ持ち手を向ける。
「……いいから。ほら」
半分押し付ける形になるがそれでいい。俺はなんとか声を振り絞った。恐らく裏返らなかった。上擦ることもなかった。どもらなかった。それだけで金賞である。
そして、女子はそっと手を伸ばして傘を受け取った。
「あ、ありがとうございます……」
「……じゃ」
傘を無事受け取ってくれたことに心のなかで大歓声を上げながら俺は素早く鞄を頭上に掲げた。
そのまま強い雨足へと駆け出す。女子は何かを言ったようだが答える余裕はない。振りかえれば笑ってしまいそうだ。瞬間最大風速を記録しながら駆ける。鞄はビニール製なのでプリント類も無事であろう。これで明日の予習も安泰である。
あまりの嬉しさに現実逃避する。いやあ、夢は見るものだ。俺の動悸は走っているという事実以上に激しかった。
恋は落ちるものとはよくいったものだ。どうやら俺は見事に墜ちてしまったようだった。
名前も知らないあの女子に。
この男子高校生は頭のいいバカです。
好きなものは唐揚げ。