Web小説で顔文字やネットスラングはそんなにダメなのか?
以前から気になっていたことの一つだ。
ランキングの上位に載っている作品の感想を読んでいると
「顔文字はやめたほうがいい」
「wwwは嫌う人が多い」
というようなものをたまに見かける。
個人的に好ましくはないというものならば感想としてわかる。
個人的に「w」は嫌いだということならば感想としてわかる。
「やめたほうがいい」と思った理由と、読者の何割が嫌っていて「多い」と判断したかは不明である。
顔文字があろうと「wwwww」を書いていようと、ブクマ数千の支持がされて評価もされて上位にきたことを考慮すれば、顔文字も芝生も多くの読者からすれば大した問題ではないのだと判断されている、とわかるだろう。
僕のように埃カスのごとく底辺を漂うだけの者だからこそ、それがよりわかってしまうのかもしれない。
なお、顔文字も草も使っていながらライトノベル界で累計売上の上位に存在している作品もある。
全体から見ればそうしたことを気にして苦情を言うのは少数で、ストーリーの面から見ても瑣末なことなのだと考えられる読者が多いのだろう。
面白いと判断されればそんなことは気にされないのだ。
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気にする人は「小説とはこうでなくてはならない」や「こうあるべき」といった価値観が強いのかもしれない。
「会話文の最後には「。」はいりません」といった文章作法を指摘する感想もたまにあるが原則でもなければ規則でもない。
現に世界数か国で発売されている作品の日本語版でも会話文の最後に句読点が打たれている。
「三点リーダーは「・・・」ではなくて「……」が正しい」もよく見かける指摘であるが、別にこれも全てにおいて「正しい」のではない。
今では「リア充」「非リア」や「ぼっち」は誰にでも通じるかのように使われているが、これだって元はネットの片隅で極一部が使用していたネットスラングだ。
04年頃某板に居た既卒無職と大学生らによって爆発的に普及していったのは有名だが、意味が変化したものだと理解している人は少ないだろう。
当時の彼らの意を汲めば「会話する相手が一人でもいたらリア充」であったし「現実に居場所がある」ならば罵倒されている。
あと便所飯は当時のあの板の住人であれば珍しいものではなかったようで、その程度では面白い話にもなっていないという風潮も見られ、一般の人には一過性のネタとして話題になっただけで済んでいる。
「リア充」という言葉も流行になるまでは誰にでも通じるというものではなく、他の所で使っても「誰だよお前」と言われるようなものだった。
けれどそんな小さな内輪でしか通じなかった言葉が、十年も経てば若者の当たり前になっている。
流行による一過性ではなく、意味を持って生きた言葉として根付いていることは大変すごいことだ。
近年「こうあるべき」論を他者に強要している傾向を様々なところで感じることはあるが、そういった他人を動かしたがる意志は自由を基盤にしている場所と反りが合うはずがない。
素人作家が続々プロデビューしていく「小説家になろう」であっても、素人の「商業作品にないものを書こう」という自由の意志に対して文章作法の先生のお節介指導は必要かどうか、疑問である。
(デビューを目指している方であればそうした作法も頑張ってください)
口を出したくなるほどに面白いものが読みたければ、好きな条件を以て探して金を払って読んだほうが時間にも精神衛生にもいいと思うのだがどうだろう。
そもそも顔文字やAA自体が元々はネットでも一部しか使用していなかったことを考えてみれば、顔文字が定型文や変換でぱっと出てくるほどに当然として受け入れられている今ってすごいなぁと感じるおっさん世代