悪の明星(2)
実験都市アガデーが本格的に国家から独立したのが七〇年前。戦争が終結したのは今から五十五年前。その二十数年後にゲリラの完全な鎮圧が確認されたのち、今に至るまで三〇年以上もの間、アガデーで人の血が流れたことはない。
アガデーは中心にそそりたつ巨大なタワー、“天上の階段”を取り囲むようにして形成された円形都市。市民は社会への適合性を基準に六つの居住区画に分別され、区画ごとに“統制者”による適切な統治をされている。
ここでは誰もが生まれながらに与えられた役割の通りに生きて、満足げな顔をして死んでいく。区画間の行き来を原則禁ず、という法に反発する市民などまずいない。
とどのつまり、この都市に住まう市民は自分たちの住む区画の外の世界を知らない。そして皆が現状に満足してしまえるなら、犯罪なんて起きようがなくなる。
犯罪という概念が無くなった。通貨の概念もまた無くなった。人の一生は“統制者”がすべてを調律するようになった。労働も報酬も悲喜交交も、何もかもが予定調和となった。アガデーはこの世で唯一の法治共同体、理想郷だ。
私――――リィもまた、そんな世界の一構成員に過ぎなかった。でも、今は違う。
「六つの区画がそれぞれ隔離されてるこの街。……その全ていっぺんに壊すとしたら、リィならどうする?」
しなやかな黒髪が小さく舞い、ルピナスを思わせる甘い香りが鼻をくすぐる。私の隣に座ったシエルは、言葉とは対照的にこのうえなく穏やかな笑顔で告げた。
今では老人くらいしか利用しなくなった、一面に芝生の広がる公園。その噴水前の休憩所が私たちの待ち合わせ場所だった。
「“天上の階段”を爆破する、とか?」
「できると思う?」
「……ううん。警備が厳しいもの」
「そう、それは無理」
各区画の“天上の階段”に隣接する壁には銃を携えた兵士が数人、汎用型の自動兵器が数十体、それぞれ配置されている。仮にそれらを無力化したとして、区画とタワーを隔てる巨大な壁を越える手段を知らない。行き来するための通路自体はあるはずだが、おそらく更に厳重な警備体制が敷かれていることだろう。
頭を抱える私を見つめるシエルの目は、嗜めているようにも見守っているようにも思える。彼女の期待に応えなければ、と必死に考え抜いたが、結局ほかの解答は見出せなかった。
「でも“天上の階段”を攻撃するという目標設定は良いわ。ただ無造作な破壊活動だけじゃ街そのものまでは殺せない…………リィ、貴女はやはり弁えてるわね」
「ふふ……ありがとう」
私含め、アガデーで生まれ育った人間はテロという概念からして知らない。だから爆破テロなどという発想自体、そもそもはシエルから教えられたことなのだ。私はいつも知識を分け与えられる側なので、シエルが考える完璧な解答には中々辿り着けない。
とはいえ最近は私もそれとなくシエルの話についていけるようになった。それはシエルのほうも感じているらしく、眼差しにも徐々に期待の色が濃くなっているように思う。シエルが私の返答に一定の満足感を示すと、私は内心で天にも舞うほど狂喜する。飼い主に忠誠を尽くす犬のように。
「なら、シエルだったらどうするの?」
「たとえば地下……かしら。アガデーは最初、交通機関の多くを地下に集中させていたわ。けど、当時まだ旺盛に活動していたテロ組織に標的にされることがあった。だからゲリラ鎮圧後は街の頭上に張り巡らせた高架に交通手段のほぼ全てを担わせるようにしたのよ」
「それは今でも残ってるの?」
「一部の貨物運搬に使われる専用ラインとして……まぁ小規模ではあるけれど」
アガデーの破壊計画について話し合うのは、私とシエルの日課であり、趣味の一つだった。
今はまだ二人で空想に耽るように話し合っているばかりだけど、彼女は本気でこの街を破壊しようと思っている。そのために必要な下準備をちょっとずつ進めている。
正直なところ、アガデーを破壊するだなんて私にはまだまだ現実味が感じられない。ずっとこうして空想のままにしておきたいような気もする。この計画が本格的に動いたとき、私はどうするのか。そんなことさえずっと先のように思って、実は決心すらついていない。
「ねぇ、シエルはいつもどうやってそんな情報を仕入れているの?」
「……知りたい?」
シエルはふっくらとして整った唇に指を這わせ、私を試すように問い返してくる。情熱的な目。耳から流れ落ちる髪と甘い香り。そのすべてが私を誘惑して、我知らず唇を重ねてしまっていた。
あまりにも唐突なキスに何より私自身が一番驚いていたが、対するシエルはまるで動じていない。それどころか私の唇をひと舐めして微笑み返してきた。
「そう気を急いても仕方ないでしょう? でも可愛かったわ」
久しぶりにシエルの満足げな微笑を見た。そう思ったのもつかの間、次の瞬間にシエルは私を巻き込んで噴水の泉へと飛び込んでいた。




