悪の明星(5)
自宅に戻った私を、香ばしい匂いが迎える。既に食卓にはお父さんもお母さんも揃っていた。
玄関に備えられたスキャナーが私の帰宅を感知して発した『リィ様、お帰りなさい』という自動音声を聞き、二人ははっとして振り返る。相変わらず鬱陶しいシステムだ。
「遅かったじゃないか。どこに寄り道をしていたんだ」
「ごめんなさい。綺麗なお花を愛でていたら、時間を忘れてしまいました」
花の名はシエルっていうの。お父さんは知らないだろうけど。
「規則に対する態度とはすなわち心を映す鏡。規則に反することは心の淀みと同義だぞ。よくない兆候だ」
「あら、それは言い過ぎじゃない? 綺麗な花には心惹かれるものよ、貴方」
「お前まで……」
「普段から良い子にしているんだから、このくらいは許してあげましょう」
「わかった……今回までだぞ」
不機嫌そうなお父さんをお母さんがなだめる。
娘の帰りが少し遅れたくらいでよくもまぁ、ここまで話を引き伸ばせるものだ。どこまで牧歌的な人達なんだろう。遅い時間に外をうろついた所で、犯罪に巻き込まれることなどまずあり得ないのに。
犯罪という概念自体が消えるほど平和に調律されたこの時代でも、なぜか人々は古臭いルールやしきたりを重んじる。
秩序の維持そのものが目的化しているから、無意味なモラルを信奉し、ありもしない危険に怯えたがってるのだ。
アガデーにおける秩序とは前時代の宗教によく似ている。“統制者”を教祖とした一神教。しきたりを守ることは徳を積むことであり、ルールなんてあればあるだけ有難いもの。
人々が勝手にお互いを束縛しあっているから、アガデーでは法律すら形骸化してしまった。
「さぁ、晩御飯はオニオンスープよ」
二時間後、私は真っ暗な自分の部屋で、ゴミ箱めがけて夕食をぶちまけていた。嘔吐感が途切れるたび喉に指を突っ込み、余さず胃の中身を吐き出す。
気分は最悪だけど、胃が軽くなるたびに心は晴れていった。
ある時シエルが言った言葉を思い出す。
『おかしいと思わない? 人生のすべてを統制者たちに握られて、満足できてしまうあの人々を』
私はすかさず同意した。反射的に無思考で答えたわけではなく、心からそう思っていた。そもそもシエルの反逆思想に同調したのも、それが理由だったから。
『リィのように反発する人が他にひとりもいないなんて、不自然。いくら価値観の多様性が封じ込められてしまったとしても、少なからず現体制に逆らう人はいないとおかしいわ。でもいない。それこそがこの世界の決定的な綻びなの。綻びすら許さないシステムゆえの綻び』
最初こそ同意してた私も、徐々にシエルの話の着地点が読めなくなってくる。シエルの論点は私が抱く居心地の悪さよりも先を行っている。あるいはもっと根元的な部分。
何が言いたいの? と問うと、シエルはあっさり答えた。
『アガデーの市民は操られてる』
あまりに突拍子もない返答。シエルの言葉には肯定的な私でさえ思わずひるむ。
少し懐疑的になった私を見かね、シエルは諭すように続ける。
『アガデーの食料自給体制をシエルはどこまで知ってる?』
それくらいは大体知っている。私達の住むC区画の真反対、F区画では“農民役”の市民たちが万能豆の生産・管理を担っていて、運び出された万能豆は“天上の階段”で原子組み換えされ別の食品となって各区画に支給される。
発展したナノテクノロジーはいまや、あらゆる食品を豆から再現できるようにまでなった。食卓に並ぶ物は、肉や野菜に至るまでその全てが豆から作られている。
『そう、全ての食品は必ず一度“統制者”の手を経て届けられる。恐ろしいことよね?』
シエルの口ぶりは、原子組み換えの段階で市民を洗脳する物質が混入されている、とでも言いたげだった。
『べつにおかしな話じゃないわ。豆を再構築する際、その食品を再現するために味や香りを付加しなければならない。その時点でも既に、得体の知れない物質が混入しているはずよ。ナノマシン、とでも言えばいいのかしら……そんな代物が混ざっていても、違和感はないはずよ』
完全部外秘とされている原子組み換えの行程。ナノテクノロジーの悪用を防ぐためという口実に着眼点を置いたシエルの言い分は、確かに一理あるように思えた。しかしそれならば、原子組み換えの際に足される味と匂いの物質はどこから調達したのかという疑問も同時に生じる。
まさか無から原子を作り出せるなんてことは“統制者”も言うまい。それを認めてしまえば、一区画のみから収穫されるだけの豆にアガデー全体の食料自給を担わせる意味がなくなる。
謎めくばかりの問答に頭を抱える私を、我が意を得たりと言わんばかりの微笑でシエルが見つめる。
『不可解でしょう? そう、この世界はどうしようもなく不可解で、矛盾してる。でもそれははあなたの理解が及ばない故ではない。本当の世界は謎めいているけれど、アガデーは違う。あなたが思い悩んでいるものは、アガデーが作り出した虚像なの』
いよいよシエルの言葉が解せなくなってくる。彼女は私とは違う世界を見ているというだというのだろうか。
『ここに、あるカプセルを詰め込んだケースがあるわ。……このカプセルはアガデーの謎を深め、同時に真実を近付ける魔法のアイテム。気になるかしら?』
そう言ってシエルが取り出したのは、赤いカプセルがぎゅうぎゅうに詰まれた透明なピルケース。
『このカプセルを毎日一錠ずつ飲めば、食事を取らなくても生きていられる。アガデーの洗脳を取り払うには最適よ』
そんな無茶苦茶な話があるわけない。シエルの言葉とはいえ、さすがに訝しく思えてくる。むしろそれこそ私を洗脳する為の薬剤なのではないか?
しかしアガデーの体制が不可解であることに違いはない。食事を取らないことで何が分かるのかも知らない。
私は純粋な好奇心に突き動かされ、シエルからピルケースを受け取った。
――――あれから一ヶ月半。毎日すべての食事を今みたいに吐き出して、カプセルを飲んでいる。普通に考えればとっくに餓死しているはずなのに、身体が衰弱する様子は全くなく、私は以前と変わらず健康体だ。
シエルはアガデーの謎を深め、同時に真実を近付けると言った。これが私の身体ではなく、アガデーの体制に原因がある異常だとしたら、私はそれを暴かずにはいられない。
ゴミ箱に備えられた自動浄化装置が吐瀉物を分解し、無臭の塵に変える。その静かな駆動音だけが暗い部屋に鳴り続けた。