2/Soft expression
「目、覚めた?」
誰かの柔らかい手が私の頬をなでた。
「あ……」
ゆっくりと瞼を開けると、凛乃が私の顔を覗きこんでいた。
「オハヨウ。よく眠れた?」
「うん、おはよう。一応はね」
私はゆっくりと上体を起こし、眠気の残る目をこする。
白い壁に囲まれた清潔感溢れる部屋。あまり大きくない部屋にベッドが二つ。今が何時かはわからないけれど、私と彼女はここで寝ていた。
私がまだ眠たそうにしていると、凛乃はまた私の方を覗きこんできた。
「顔、赤いよ? どうしたの」
「ん」
顔? 鏡なんて無いから自分の表情なんてもちろんわからない。でも、まあ彼女がそう言ってるんだからそうなんだろう。
思い当たる節もあるわけだし。
「ちょっとね、夢を見てたんだ」
「夢?」
「うん、夢。私が凛乃と初めて会ったときの」
凛乃は少しだけ首を傾げた。
「初めて? 入学式?」
「ううん。違う。ほら、あのとき。地下講堂で」
そこまで言うと、凛乃はなるほどと頷いた。
そう、あの時の夢だった。もうだいぶ前のことのように思える。
「あれからどれくらい時間が経ったんだっけ」
「三十一日と十九時間五十七分」
間髪入れない無機質な答えに、私はつい苦笑い。
「そっか。もう一月経つんだ。ここに来てからは?」
「十七日とちょうど二時間」
「そっかあ」
私はベッドから立ち上がるとゆっくりと目を閉じた。視界は一旦黒へ。でもすぐに明るい景色に切り替わる。
私の持つ力。普通の人とは少し違う視界。
そこは広い広い海の真ん中。絶海に浮かぶ塔。
バベルと呼ばれるこの塔に、私は凛乃に連れられやってきた。
太平洋。ポリネシアのほぼど真ん中に位置する海上の超巨大建造物だ。
あまりにも巨大で、人間の創ったものとは思えないこの塔は、誰も知らないはずの、歴史から隠された塔だということだった。
なぜ私たちがそんな場所にいるかというと、いろいろと込み入った事情がある。
ただ、少なくとも凛乃はもともとこの場所を目指していたらしい。
目を開ける。
凛乃がそこにいる。
凛乃。火屋凛乃。私のクラスメイトであり、今となっては一方的にだけれども私の親友。
でも、彼女は人間じゃないのだ。
彼女の赤い瞳は常に遠い先を見つめている。
彼女はこの塔に来る前に私に自分の正体を明かした。
つまり、彼女が人間ではなく、人間に近くヒトの手によって創られた生命体「AH」であるということ。
最初は何もかも信じられないことばかりだったけれど、どうにも世界というものは私の知らないことばかりだったというわけらしい。もともと、この世界に特別なこだわりを持っているわけでもない私は彼女の言うことを全て受け入れた。凛乃自身に呆れられるくらあっさりに。
「友愛、そろそろ行こう。時間が惜しい」
「あ、うん、ごめん。そうだね。行こ」
私は起き上がり、凛乃に続いて部屋から出た。部屋を出ると狭い廊下へと出る。両隣や向かい側にも同じような部屋の入口が幾つもあった。凛乃いわくここは建造の際に用いられた居住空間なのらしい。
私たちはいま塔の約中程にいる。
塔の頂上を目指しているわけなのだが、どうにもなかなか進めない。
天にも届かんばかりに高い塔であるということがまず第一の問題。しかし、それは私と凛乃、双方の持つ力――テレポーテーションのようなものでなんとかショートカットできる。どのフロアでも使えるわけじゃないっていうのが悩みどころだけれども。
第二の問題が塔の内部構造だ。迷路のように入り組んでいて、全くわからない。そうして私たちは塔の中で十七日も過ごしているわけだ。食料は塔のあちこちに残っているし、それについては事欠かない。周りが単調だということは面白くないけれど、時々変なフロアに紛れ込むこともあるし、少しばかり巨大なアトラクションというイメージ程度しか持てない。凛乃が言うにはこの塔は危険で満ち溢れているという。まだその危険には遭遇していないのだけれども。
とりあえず、あとすこし進めばまたテレポーテーションが使える地点に出るという。私たちはゆっくりと歩いてその場所へ向かうことにした。
カツカツと二人の足音が響く。
ここには私たち以外誰もいない。私たちだけしかいないのだ。静かな世界。ついこの間までの私であればこんな場所、誰かと一緒にいてもすぐに参ってしまっただろう。
でも私は今凛乃とともに耐えている。いや、耐えてすらない。何も苦に感じていないのだ。この自分たち以外なにもないような空間で、私の心は何故か充足していた。
そう、紛れも無く彼女のおかげだった。
でも、それでも私にはいまだに彼女に対して疑問に思うことがいくつかあった。この十七日の間、その疑問を少しずつ消化してきた。
彼女の正体や、私や彼女の超能力のこと。いろいろと教えてもらった。
「ねえ、凛乃」
私は前を進む彼女に声をかけた。
「何?」
凛乃は振り向きもせず静かに答える。
「また質問してもいいかな」
「……ええ」
「本当に今さらなんだけどね。この塔ってなんのために創られたのかなって」
「なんのために?」
凛乃はそう返すと、はたと歩みを止め私の方を見た。
「理由なら、話したはず」
彼女の顔はどこか不機嫌そうだ。凛乃は他人から何かを尋ねられること自体には寛容だが、同じことを二度とわれることを異様に嫌っているのだ。なぜかは知らないけど、それもいつか解決すればいい疑問だ。
「うん。確かに聞いたね。この塔を崩壊させるということだって教えてくれた。でも、その目的は? それは聞いていないよ」
凛乃はちょっとだけ困った表情になった。これまでで初めて見る表情だ。それから向こうを向くとまた歩き始めた。
「この塔がどんなものかは話したよね、友愛」
「うん」
「この塔は、かつて世界を、人類を一つに統べようと考えた一つの機関によって建てられ、でも、やがて塔は塔自身の力で忘れられた」
「うん……」
バベルと呼ばれるこの塔は、にわかには信じがたいことだけれども、全てを統御する力を持っているのらしい。詳しくは教えてもらえなかったのだけど、百年ほど前にこの世界はおかしくなってしまったらしい。その異変を正すために建てられたのがこの塔ということだ。
塔は全てを操る。だから人々の記憶や歴史からも塔の存在は消え去った。
「私がこの塔を壊したいと思うのは、別にこの塔が嫌いだからとかじゃないの。私にはそういった感情というものが一切ないから。でも、それが私の意志なのはたしかなの。私がこの塔を壊さなければならないと思った。それ以外には理由なんて、ない」
「そっか」
凛乃はそれっきり黙り込んでしまった。なにか話したくないことがあるらしい。私もそれ以上は何も聞かなかった。
凛乃はこの塔に来てからしばしば、自分には感情というものがないということを口にしていた。
だけども、私からすれば単に静かな印象なだけで、そのほとんどかわらないポーカーフェイスは、だれよりも表情豊かに、彼女自身を表しているように思えた。