平家の寺
部誌用に書き上げた物です。
秋の日はつるべ落とし。秋になると日は井戸のつるべのように早く落ちていく。
まさに、日没が近付いている。
***
日はすでに沈み、山は黒々とした巨体へと姿を変え、燃えるたき火は荒れた広い庭に濃い闇を誘いこむ。厚い雲に隠れた月は鴟尾を照らさず弱光のみが降り、山寺は廃れ往く気配を隠そうともしない。
「昔は栄えたんだろうな」
空は一日中鉛色の雲に覆われ、思ったよりも早くに夜が覆いかぶさってきた。「これは何もない山の中で野宿か」と思ったが、運よくこの山寺を見つけた。遠目から見ても朽ちていたので「これ都合良し」と遠慮なく上り込んだ。
縁側に腰かけ、足元ではその辺りに転がっていた廃材でたき火をしている。
ここに来た時にはすでにほとんど何も見えない状態であり、山寺の全体像は分からない。しかし、山門を見た限りは随分と立派な山寺であったとうかがえる。わざわざこんな山奥にこれほどの山寺を造ると言う事は、この山にはそれなりの霊験があるはず。それが今ではこの有様。一体何があったのだろうか。
「廃寺か。珍しいがないことでもないな。」
今まであちこちを旅してきて、このような寺をいくつか見ている。特にここ最近、帝の後継争いとやらで京の都が廃れている。その影響で、今ではどの国に行っても人々の心は荒んでいる。荒んだ心を持つ人は、本来心の拠り所になるべき仏さえも信じない。そしてまた、人知れず寺が廃れる。
「まあ、俺が考えてどうなるものじゃない。取りあえず食うか。」
先程から串刺しにし、たき火で焼いていた川魚ときのこに食らいつく。秋の風味とえぐみが口内に広がる。
今の俺にできることと言ったら飯を食べて、しっかりと寝て、怪我をせず、旅に生き続けるだけ。それだけであり、それだけで十分だ。
食べ終わると、急に眠気が襲ってきた。いつもならばもう少し起きているのだが、今日は気づかぬ内に疲れていたようだ。しかしこのまま寝る気にもならなかったので、しばらくたき火を見つめていた。
この寺に生きた人たちも、こんな風に火を見つめていたのだろうか。たき火でなく灯台の小さな灯でもいい。とにかくこの濃い闇を必死に押し退ける火を、どんな事を考えながら見つめていたのだろう。
きっと、明日の修行や苦しむ民衆を考えていたのだろう。きっと、この山寺が朽ちるなど思いもしなかっただろう。
思いを馳せていく内に、俺は燃えるたき火に意識を吸い取られ、そして、知らぬ間に寝てしまった。
***
深い谷間から意識が吊り上げられる。何やらうるさい。
瞼を上げると、燃え尽きたたき火が見えた。雲が薄くなったのだろうか。心なし明るくなっている。縁側に腰かけたまま寝たせいで、背中と首が痛い。動かそうとすると調子の悪い水車のように軋む。
「…………」
何の音だろうか。軋みに堪えながら周囲を見渡す。耳を澄ます。
「……受想……亦復……」
どこからか静かに音が流れてくるが、よく分からない。もう少しで聞き取れそうだ。
「……是諸法空相不生不滅……」
経だ。読経の声だ。
声はこの御堂の奥から聞こえる。廃寺かと思っていたが、まだ僧がいたのだろうか。
雲越しに届くわずかな月明かりを頼りに、目を凝らして御堂の奥を見る。しかし、奥の闇は依然として濃く何も見えない。
「……乃至無意識界無無明亦……」
正体のわからない読経は続く。
今ここから声を掛ければ気が付くだろう。だが読経の邪魔になる。どうしようか。
「いいか」
どうやらあちらはこちらに気が付いていないようだし、このまま放っておいても問題はないだろう。
しばらく読経に耳を傾ける。逆立っていた神経がなだめられる。淡々と流れ出てくる経は俺を通り過ぎ、荒れた庭を越えて、黒い山々へ向かい、冷たい空気に溶けて消える。その響きはとても細く、どこか弱く、どこか強く……
ああ、何だろうか。この読経を聴いていると何故か悲しくなる。いや違う。哀しくなるのだ。先ほどうるさいと感じたが、声はうるさくない。経が心の底にしみ込んで中で反響するんだ。
何がこの経をこれほど哀しくさせるのか。
「すみません・・・・・・」
俺は読経の響きに耐え切れず、経の流れてくる方向に声をかけた。すると、読経の声はぴたりと止んだ。
「どなたでしょうか」
代わりにこんな声が返ってきた。その響きはどこか弱く、かすかに揺れ動いていた。
「旅の者です。今夜一晩お寺の屋根をお借りしております」
「ああ、それは。このように粗末な屋根で良ければ」
若い声のようだ。しかし、同時に年寄の声にも聞こえる。はきはきと言葉を発しているようだ。しかし、穏やかにゆっくりと話しているようにも聞こえる。
不思議な声だ。
「そのような場所では風に吹かれます。どうぞ、奥へいらしてください」
「い、いえ。俺のような世俗の人間はここで十分です」
とは言ったものの、実際は入る気がしなかったのだ。この不思議な声を持つ僧に少しでも近づいてしまうのが怖かったのである。
「そうですか……」
僧は残念そうに言った。その声は俺に、若い顔と老いた顔を浮かばせる。
そして再び、読経が始まる。
そして再び、経が空気へと溶ける。
そして再び、哀しい響きが俺にしみる。
「……是大神呪是大明呪是無上呪……」
俺は縁側に腰かけたまま思う。
聞きたい、聞きたい。
何故、読経がこれほど哀しいのか。
何が、読経を哀しくさせるか。
「何が……」
読経が止んだ。
「何が、それほど哀しいのでしょうか。」
冷たい風が吹き始め、雲が流されていく。
返事は何も返ってこなかった。
さすがに邪魔をしすぎた。機嫌を損ねてしまったか、と思って少し身を縮こめた。
「この寺は、」
その時、あの不思議な声が返ってきた。
「神佑地であるこの地を修行の場とする、修行僧や修験者たちのために建てられました。多くの寄付があったおかげで、規模は小さいながらも立派な造りとなりました。そして、多くの修行僧や修験者が訪れては修行に明け暮れ、寺は大いに栄えました」
昔を懐かしむ、そんな声音だった。
「御堂に響く読経の声は心地よく、その中でこの世を苦しみながら生きる衆生を救わんためにと日夜修行に明け暮れました。」
急に辺りから読経の声が聞こえ始めた。あたりを見渡しても誰の姿も見えないが、声は御堂に反響し、等しく空に溶けていく。
「食料を得るために山に分け入れば、あちらこちらで修験者を見かけました。滝行をする者や一心不乱に真言を唱え続ける者、断崖絶壁の上で瞑想する者」
背後の山から声が響く。これが真言だろうか。
「そして年に数回、一同がこの寺に集まり日々の労をねぎらいあう」
読経の声が小さくなり、背後の山から真言が聞こえなくなり、代わりに御堂の奥からやいやいとにぎやかな声が聞こえ始める。相当の人数がいるようだが、明かりがひとつも見えない。
「暖かな春が過ぎ、盛んな夏が過ぎ、紅い秋が過ぎ、静かな冬が過ぎ、また春が過ぎて……しかし」
いきなり声が消えた。読経の声も、にぎやかな声も、すべて止んだ。
「十年ほど前、この地で立て続けに地震がありました。更に長雨もあり、地滑りが何度も起こりました」
地面が大きく揺れ動き、突然雨が降り始めて山を濡らす。すぐに縁側から離れ、地面にしゃがむ。どこか遠いところの地響きが体に伝わる。
「多くの修行僧と修験者が亡くなりました。山は形を変え、神佑地としての力も失われました」
揺れが収まり、雨が止む。地鳴りもしない。濡れたはずの着物は、何も無かったかのように乾いている。
聞こえるのは僧の声のみ。
「修行僧や修験者は一人、また一人とこの寺を去っていきました。」
その声は悔やみや哀しみに溢れている。
「彼らが力のない土地に留まる理由はありません。仕方のない事でした」
しかし、その声は諦めきれていなかった。
「そして、この寺には私たちだけが残りました」
向こうですっと立ち上がり、こちらに向かってくる気配がした。
俺は話に聞き入り、動くことを忘れていた。僧に対して抱いていた恐怖さえも忘れていたのかもしれない。
「私たち一人一人はとても薄い存在です。でも、全員が集まれば存在していられる」
いつの間にか雲は流され、月の光が何の障害もなく寺を照らしていた。
「そうして私たちは今もここで、修行を続けています」
僧が姿を見せた。月明かりの中のその姿は、いかつい修験者だったり、優しそうな若僧だったり、厳格そうな老僧だったり。その姿は瞬き一つや少し目を動かすたびに変わる。
「私たちはこの寺が再び栄えるまで、私たちが悟りの境地に至るまで、そして苦しむ衆生を救うまで、この世に留まり続けます。例え、それが輪廻転生の輪を歪める罪であろうとも」
「苦しく無いんですか?」
反射的に問い掛ける。
「苦しいですよ。しかし、衆生の苦しみに比べれば小さなものです」
俺は心にどうしようもない痛みを感じた。なんとも形容しがたい痛み。しかし、だからと言って僧に何か言えるという訳でもなかった。
僧は月をしばらく眺めて、そして俺の上を通って、荒れた庭を越て行く。
「さあ、滝行をしましょう」
その姿が、満月の中に浮かび上がる。
彼は、彼らはとても強いのだろう。死してなお、自分たちの想いを貫こうとする彼らは強いのだろう。しかし、同時に弱いのではないだろうか。ひとつの想いにしがみつき、昔の栄光に囚われている彼らは弱いのではないだろうか。
僧は俺が思案している間に黒い山々へと向かい、ゆっくりと霞み、冷たい空気に溶けて消えた。
***
縁側の奥においてある荷物の中から焼き物の杯を取り出し、紐でくくり付けてある瓢箪を手に取る。縁側に腰を下ろす。
季節と月の高さからして、今は丑の刻過ぎか。
草木も眠る丑三つ時。荒れ庭の盛んな草木も眠りについている。今日は、月見酒をしよう。山々が寝入り、起きる者が自分だけとなった夜の酒は美味いのだろうか。見上げる空には白く輝き、山々と庭を冷たく照らし続ける満月がある。
ふと、向こうの御堂の鴟尾が目に入った。崩れかけた御堂の屋根に、しがみつくように残っていた。
傾いた鴟尾は悲しげに月を眺めている。
「祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり……」
月はいつの時代も変わらずに輝き続ける。その光に照らされる鴟尾は、かつての栄華を思う。
「沙羅双樹の花の色。盛者必衰の理を表す……」
しかしどれほど栄えようとも、それは一時の事に過ぎずいずれは朽ち果てて消える。
「おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし……」
人の作る物など、自然の理の前では力無きに等しい。
「たけき者もつひには滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ……」
彼らが一番良くわかっているはずなのに。
鴟尾は世の理を嘆き、今日も変わらず輝き続ける月にため息を吐いた。
~補足事項~
この作品は水原秋櫻子氏の「月幾夜 照らせし鴟尾に 今日の月」と言う俳句からイメージをいただいています。
私は二次創作には当たらないと判断して掲載しましたが、何か問題等があればご連絡をください。すぐに修正します。