第四十七話 飛翔①
月影香子は言葉を失った。
圭市に行くか行かないかの決断を迫られていた山坂浩二。彼が出した答えは「自分を助けてくれ」という、月影香子の予想とは大きく異なるものだった。
退魔村跡地の河川敷が静まり返る。
二人の間を冷たい風が通り抜け、そこでやっと月影香子は口を開くことができた。
「浩二、あんた今……なんて、言ったの?」
だが、彼女はもう一度聞き返すことしかできなかった。
彼女の問いに対し、山坂浩二は小さな声で言う。
「助けてくれって言った」
「え?」
「助けてくれって言ってるんだよ!!」
山坂浩二の悲痛な叫びが、河川敷に響き渡る。彼の表情は歪んでいるが、月影香子からは見ることが出来ない。
彼の言葉を受けて月影香子は息を呑み、うなだれた。
「そんなこと言われても、何をすればいいのか、あたしにはわからないわよ……」
「俺だってわかんねえよ!」
山坂浩二は下を向いたまま、彼女に言葉をぶつけた。
両膝を腕で抱えて座り、顔を見せないようにしていても、山坂浩二には月影香子の表情が予想できた。彼の頭の中では、月影香子が悲しそうに困惑している。
彼女に怒鳴っても意味はない。
そう思いながらも、山坂浩二は叫ぶことをやめられなかった。
「宗一とさくらを止めに行きたい! でも霊力の暴走が怖い! 戦うのが怖い! どうすればいいのかわからない! もうなにもかもが嫌なんだよ!」
彼はそう言って、顔を上げた。
「だから、頼むから、俺を助けてくれ……」
震えた声で山坂浩二は月影香子と視線を合わせる。
彼女は予想通りの顔をしていた。
「浩二……」
月影香子は、ただ彼の名前を口に出すことしかできなかった。
静寂が訪れると同時に、彼女の中に怒りが湧いてくる。退魔村での思い出。彼を探し求めた十年間。再開してからの一か月。それらをすべて否定されるような感覚に陥った。
それでも、目の前にいるのは間違いなく山坂浩二という、彼女のパートナーだった。
月影香子はその怒りを抑え込み、静かに息を吐いた。
「わかった。でも、どう助ければいいのかわからないから、まずは浩二の気持ちを聞かせて」
彼女はそう言って精一杯微笑み、山坂浩二のそばにしゃがみ込んだ。
月影香子は歩み寄ったが、山坂浩二は彼女から目を逸らした。
「どうせ、言ったら昨日みたいに叩くだろ」
「叩かないから」
「ほんと?」
「本当よ」
拗ねた声で言う山坂浩二に、月影香子は優しく微笑みかける。山坂浩二は彼女の目に視線を向けてみる。嘘を言っている目ではなかった。
それでも、言うのをためらってしまった。だが、話すことで何かが変わるかもしれない。やっと助けを求めることができた。そして、彼女はそれに応えようとしてくれている。
自分と彼女の気持ちを、無駄にするわけにはいかない。
山坂浩二はそう思い、ゆっくりと口を開き、淡々と言葉を紡いだ。
「俺は香子と再会するまでは暗い日々を送ってたんだ。女子からは理由もなく避けられて、記憶の中に親がいなくて、満月の夜だけ幽霊が見えて。自分が誰だかわからなかったんだ」
「それが、香子と会って変わった。自分が誰かわかって、隣に香子が居て、退魔師であることに誇りが持てて、楽しかった。満月の夜だけしか強くなれないけど、満月の夜じゃなくても戦えるって自信があった」
「でも、宗一に手も足も出なくて、自分は満月の夜以外は無力なんだって思い知らされた。自分の努力が否定されて、自分が戦えるのは満月の夜だけなんだってわかったら、そのとき以外はなにもしなくていいんだって思うようになった」
「努力しなくていいって思ったら、今まで一緒に頑張ってきた香子に申し訳なくなって。一緒に居たくなくなってきて。それに、自分の力の暴走で退魔村が滅んだのなら、圭市も壊しちゃうんじゃないかって怖くなって」
「でも、俺は圭市を守りたいって気持ちはあった。退魔師だという自覚もあった。宗一とさくらを止めたいって気持ちもあった。でも、もし霊力が暴走したら、もし満月の夜でもあの二人に勝てなかったらって思うと怖くなって」
「そんな自分が情けなくて。自分が香子のパートナーだってことが香子に悪いと思っちゃって。自分が何をすればいいのかわからなくなって。全部が嫌になったんだ」
それ以上、言葉が出てこなかった。
山坂浩二はそこで口を閉ざす。話している途中に月影香子から目線を逸らしたことは、今気づいた。しかし、そのようなことはどうでもよかった。
やっと素直に話すことが出来て、山坂浩二の心は少しだけだが軽くなった。
山坂浩二と月影香子の間に、沈黙が訪れる。
今度の沈黙は、どこか心地の良いものだった。
「浩二の気持ちは、それで全部?」
「うん」
「わかった。浩二は圭市を守りたいけど、戦うのが怖くて、そんな自分が情けなくて、どうしようもない状態なのよね」
「うん」
山坂浩二の声に、わずかながらも気力が戻って来ていた。そして、月影香子からは、刺々しさが消え去っていた。まるで、恋心を自覚する前の二人に戻ったかのようだった。
月影香子がしっかりと自分の話を聞いてくれていたことに、山坂浩二はどこか満たされたような気がした。それだけで、救われたような気がした。
だが、それだけではなかった。
月影香子は山坂浩二の顔を胸に抱き寄せ、彼の頭を優しく包み込んだ。山坂浩二は驚いて目を見開いたが、抵抗する気にはなれなかった。
彼女は微笑んだまま、穏やかに語りかけた。
「浩二……つらかったね。でも、よく頑張ったね」
そこで、山坂浩二の何かが決壊した。自然と涙が溢れ出てきた。自分がどうしてしまったのかわからないまま、ただただ声を押し殺して泣くことしかできなかった。
月影香子は目を閉じ、言葉を続ける。
「ごめんね。あたしが最初に助けるべきだったのは、浩二だったのよね。あたしのパートナーなのに、何もしてあげられなくてごめんね。あたしの存在が浩二を苦しめてたのよね。本当にごめんなさい」
「あたしだって、浩二にいっぱい助けてもらったのに。あたしが浩二を助けないなんて、パートナー失格ね」
「浩二は、あたしのそばに居たくないのよね? でも、あたしは浩二がそばに居て欲しい。これからもあたしを助けてほしい。今更かもしれないけど、あたしも浩二が困ったときは助けるから」
彼女の懺悔の言葉に、山坂浩二は首を横に振った。
「違う。本当は、香子と、もっと話したかった。一緒に歩きたかった。二人で戦いたかった。もっと早く、香子に助けてと言えればよかった。香子は俺を待っててくれてたのに。これじゃ、一か月前までと同じ。俺は、香子のことを、何も考えてなかった……」
涙声でそう訴えるが、月影香子は優しく笑うだけだった。
「もういいわよ。あたしだって浩二を助けられなかったんだから。でも、浩二はずっと悩んでくれた。あたしのパートナーでいたいと思ってくれてた。それだけで、充分だわ」
「うん」
二人はそれ以上話さなかった。穏やかな空気の中で、山坂浩二がすすり泣く音だけがしていた。
一か月前の満月の夜、退魔師の力を取り戻した山坂浩二の胸を、月影香子の涙が濡らした。今度はその逆だった。二人は互いに救い、互いに救われていた。
やがて、山坂浩二は泣くのをやめた。
彼を苦しめていたものが涙とともに流れ落ちたのか、山坂浩二の目に光が灯っていた。その表情は気力に満ち溢れ、ようやく立ち直ることが出来たようだった。
山坂浩二は月影香子の胸から離れ、彼女の目を見つめた。
「行こう」
その声は力強かった。
「行くって、どこに?」
月影香子はおどけたように尋ね、山坂浩二は小さく口元を上げる。
「そんなの決まってる。圭市に行って、宗一とさくらを止める。あの二人は、俺と香子を待ってる」
「ほんと?」
「うん。まだ少し怖いけど、今度は大丈夫。十年前とは違って、今は隣に香子が居るから」
「嬉しいこと言ってくれるわね」
月影香子は山坂浩二の言葉に思わず笑ってしまったが、すぐに表情を引き締めた。
「あたしだって、浩二と一緒なら、どんな相手でも戦えるわ」
それ以上は、二人に言葉はいらなかった。
顔を合わせて不敵な笑みを浮かべ、同時に立ち上がる。青々と輝く満月を見上げ、気分を高揚させる。
そして、二人は青い夜空に向かって飛び上がった。
目的地は圭市。宗一とさくらを止め、二人の真意を確かめる。
満月が最も高くなるまで、あまり時間がない。
山坂浩二と月影香子は、退魔村跡地から全速力で翔け出した。