第四十四話 決戦当日
翌朝。三月二十日、金曜日。
退魔村跡地で一夜を明かした山坂浩二と月影香子は、ほぼ同時に目を覚まして起き上がった。昨日のこともあり、二人の間には気まずい雰囲気が漂っていた。
山坂浩二は月影香子を避けるように動いた。月影香子もまた、山坂浩二に話しかけたりはしなかった。
川での水分補給を終えた月影香子は、
「食料を探してくるわ」
とだけ言って、川から離れていった。
遠ざかっていく月影香子の背中を眺めながら、山坂浩二はため息をついた。
「今日は満月の日か……俺はどうすればいいんだろうな」
彼はそう言って焚き火の跡を見下ろした。昨夜は火が灯っていたが、今はもう消えてしまっている。残っているのは灰と焼け焦げた枝だけだった。山菜を茹でるのに使った片手鍋は、その近くに置かれている。鍋の中には何も入っていなかった。
喉の渇きを感じた山坂浩二は、片手鍋を持って川に向かった。ぎりぎり濡れない場所に立つと、透き通った水がそれなりの速度で流れているのがわかる。
彼は片手鍋で川の水を汲み取った。そして、目に見える異物が入っていないことを確認してから、鍋の水に口をつけた。
よほど水分不足になっていたのか、飲むたびに喉が鳴った。川の水は冷たくて、飲み続けていると頭が痛くなってくる。それでも、水を飲みたいという欲求は止まらなかった。
五百ミリリットル以上は飲んだだろうか。山坂浩二はそのくらいで鍋から口を離した。大きく息を吐くと、体に力が入ってくるのがわかる。彼はそのことを意識しながら、鍋に残っている水を川に流した。
喉の渇きが治まると、次は尿意を感じた。山坂浩二は川から離れて焚き火跡の近くに行くと、片手鍋をその場に置いた。そして、少し離れた場所まで歩き、茂みの中で用を足した。
それから、山坂浩二は焚き火跡のそばに座り、ひたすら空を眺め続けた。
そのなかで、彼は考える。
今日は三月二十日、満月の日。山坂宗一と月影さくらが圭市に攻撃を仕掛ける日。ついにその時が来てしまった。
あと十時間もすれば、満月が出る。圭市を守りたい気持ちと霊力の暴走を恐れる気持ちに決着がつかないまま、その時を迎える。最弱の退魔師である山坂浩二に、戦うか戦わないかの決断など出来るはずもなかった。
しかし、満月の夜になれば、彼の霊力は一つの村を物理的に破壊するほどに大きくなる。もしかしたら、それ以上の力を持っているのかもしれない。無力な存在から最強の霊能力者に変わったとき、自分の心がどのようになるのかは見当もつかない。
満月時の高揚感で戦いに参加するかもしれない。
自分の体に宿る莫大な霊力に恐れをなして動けなくなるかもしれない。
山坂浩二がどのような行動をとるのかは、月の出を迎えてからでないとわからなかった。
しかし、彼がどうなろうと、月影香子が圭市に向かうのは確定事項だった。それでも、彼女が山坂浩二を圭市防衛に連れていくのかどうかは定かではなかった。
山坂浩二の意思を尊重するのか。
それとも無理矢理に圭市へ連れていくのか。
月影香子がどのような行動をとったとしても、山坂浩二が自らの意思で参戦しない限り、彼女の気持ちを裏切ることになるのは変わりなかった。
月影香子は山坂浩二を救った。自分が何者なのかもわからず、満月の夜に見える幽霊に怯えていた。そんな彼にとって、彼女は光そのものだった。
だが、山坂浩二は月影香子を拒絶した。
もう一度暗い世界に落ちた山坂浩二にとって、月影香子は眩しすぎた。彼女の期待を裏切ることよりも、彼女のそばに居ることのほうが苦痛だった。
山坂宗一の手により、今は強制的に月影香子と二人きりになっている。この状況が、山坂浩二の心を苦しめた。
暗い思考ばかりが頭の中を駆け巡っていると、やがて何もかもがどうでもよく感じられてきた。
山坂浩二は大きく息を吐くと、それまでの考え事をすべて抑え込んだ。何も考えず、雲一つない空を眺めるだけにした。
昼前になると月影香子が帰ってきた。彼女は昨日と同じように火を起こし、収穫した魚や山菜を加熱して昼食とした。
山坂浩二は食べないつもりでいたが、月影香子は彼の分も用意していた。食材を無駄にするのは気が引けたので、山坂浩二は大人しく食べることにした。
食事中の二人に会話はなかった。
その後も、山坂浩二と月影香子には距離があった。
山坂浩二は焚き火の場所からは動かず、体育座りをしてうずくまっていた。月影香子は退魔村跡地からの脱出を何度か試みたが、すべて悪霊に阻まれていた。
やがて太陽が下がり、夕方になった。
そして日が沈み、東の空に満月が浮かび上がった。
金色に輝くそれが姿を現した直後、山坂浩二と月影香子に異変が訪れた。二人の心拍数が急増し、霊力が跳ね上がるように大きくなる。自然と力が入り、山坂浩二は座ったまま全身を震わせる。月影香子は立った状態で月を見上げた。
「いよいよ、このときが来たのね」
そう彼女の声は力強かった。自身の霊力が大きくなったこともあり、気分が高揚しているのだろう。
しかし、そんな彼女に対して、山坂浩二は怯えていた。自分のものとは思えないほどの莫大な霊力が体を駆け巡り、全身が熱くなる。全能感が湧くと同時に、その力に対する恐怖心が生まれる。
動けなかった。
自分ではない何かが体の中をうごめいている。そう思ってしまうほど、通常時の霊力とは比べものにならない。
自分が自分でなくなるような気がして怖かった。
自分ごと爆発してしまいそうで恐ろしかった。
そのはずなのに、心のどこかでは、この力を使って暴れまわりたいと思っている。自分でも訳が分からなかった。
山坂浩二は恐怖で膝を抱えることしかできなかった。
二人の霊力が急増してから数分後、退魔村跡地を包囲していた悪霊の気配が消えた。山坂浩二もそれは感じ取った。まるで、山坂宗一が二人に向けて圭市へ来いと言っているかのようだった。
自分たちが解放されたことを知り、月影香子は口元を上げる。
「やっぱり、さくらと宗一はあたしと浩二に来てほしいのね」
彼女はそう言うと、山坂浩二に目を向けた。
「あたしは圭市に行くわ。浩二はどうするの?」
月影香子はそう尋ねたが、山坂浩二は言葉を返さなかった。彼には月影香子に返事をする余裕さえもなくなっていた。
「浩二?」
月影香子は眉をひそめ、山坂浩二に歩み寄った。彼の側にしゃがみ込み、その顔を覗き込もうとした。しかし、山坂浩二は顔を膝で隠していた。そのため、その表情を見ることはできなかった。
それでも、月影香子は山坂浩二を見つめてもう一度問いかけた。
「あたしは圭市に行く。圭市の人たちを守って、宗一とさくらを倒すために行くわ。浩二はどうするの?」
彼女は山坂浩二に言い聞かせるように、ゆっくりとその言葉を口にした。山坂浩二にもそれは聞こえていた。だが、彼はそれに答えられなかった。
圭市の人々を守りたい。今の自分であればそれができる。しかし、自分の霊力が暴走するかもしれないのが怖かった。山坂宗一と月影さくらを止めたい。でも、自分たちに残された最後の肉親を殺すのが怖かった。彼らに殺されるかもしれないのが怖かった。
山坂浩二にはもう、どうすることもできなかった。
心が決まらず、月影香子の質問には答えられなかった。だが、今の山坂浩二に出来ることが一つだけあった。
それは自然と言葉になり、彼女の問いの答えの代わりとして、口から出ていった。
「助けてくれ……」
「……え?」
山坂浩二のその言葉に、月影香子は唖然とした。その答えは予想もしていなかったのだろう。返事は行くか行かないかの二択だと思っていたのだろう。しかし、彼の出した結論はそのどちらでもなかった。
言葉を失う月影香子を前にして、山坂浩二は膝を抱えて顔を隠したまま、もう一度、叫ぶように言った。
「俺を助けてくれよ!」
彼の悲痛な声が周囲に響き渡り、辺りは静けさに包まれた。