第四十三話 故郷②
月影香子が夕食の準備を始めたときには、山坂浩二はすでに目を覚まして起き上がっていた。しかし、彼は寝ていた場所から動かず、ただ座っているだけだった。
夕食の準備は山坂浩二の近くで行われた。
月影香子は周辺の木から集めた枝と葉を積み上げ、それを周りの石で囲った。比較的大きめの枝を刀で調整して板を作る。その板にいくつかの穴を開け、綺麗な円柱状に整えた枝をその穴に差し込む。月影香子はその棒を両手で激しく回転させて火を起こした。
付いた火を積み上げた葉に移し、彼女は手で仰ぎながら空気を送った。そして数分後、火は他の葉や枝にも移り、暖を取れる程度には大きくなった。
「無理かと思ったけど、霊力を使えば案外できるものね」
月影香子は感心したようにそう言って、捕まえてきた四匹のヤマメを一匹ずつ串刺しにした。ヤマメを刺した枝を火の回りに立て、次の作業に取り掛かる。
彼女は居住区跡地から回収した片手鍋を手に持ち、川の水を汲み上げる。続いて、その鍋の中に土を落とした山菜を全部放り込むと、柄を両手で持って火の真上に持っていった。
鍋の水が沸騰し、山菜が茹で上がるまで月影香子は動かなかった。彼女はここでも霊力を使って身体能力を向上させていたため、疲労を顔に浮かべることはなかった。
ヤマメにも火が通り、雑な調理が完了した。
月影香子は鍋を火から遠ざけて石の上に置き、ヤマメを刺した枝も焦げないように移動させた。そして、コンクリートの上で座っている山坂浩二に向かって歩き始めた。
「浩二、夕食出来たわよ」
彼女はそう呼びかけるが、山坂浩二は何も反応せず、ただ体育座りをして小さくなっているだけだった。
月影香子は再度話しかけた。
「お腹減ってまともな判断が出来なかったから、調理も雑だし味の保証もないけど、一応食べれると思うから」
彼女は申し訳なさそうにそう言った。それでも、山坂浩二は一度目を向けただけで言葉を返そうとはしなかった。
月影香子はため息をついた。
「食べないの?」
「……食べない」
山坂浩二は下を向いたまま、彼女の質問に答えた。しかしその直後、彼の腹が大きな音を立てる。香子には頼らないと意地になっていた山坂浩二だったが、体のほうは正直に空腹を訴えかけていた。
頬が勝手に赤くなり、山坂浩二は居心地が悪くなった。
そんな彼に対し、月影香子は力を抜くように笑った。
「なんだ。浩二もお腹空いてるんじゃない。一緒に食べよ」
「いや、いらない」
「食べないと体壊すわよ」
「食欲ないよ」
山坂浩二は目を合わせることなく月影香子の誘いを断った。彼女に対する罪悪感や恥ずかしさが、彼に意地を張らせ続けていた。
月影香子は顔をしかめ、踵を返した。そして、ヤマメを刺した枝を一本手に取ると、山坂浩二のもとに駆け寄って、彼の顎を掴んだ。
「いいから食べなさいって!」
彼女はそう言って山坂浩二の口を強引に開かせ、その中にヤマメを突っ込んだ。しかし、そうしたところで食べられるはずもなく、彼は声にならない声を上げてもがくしかなかった。
山坂浩二が食べようとしないので、月影香子はさらに押し込んでくる。これでは咀嚼どころか胃液を吐き出してしまう可能性もある。
彼女の横暴をやめて欲しかったが、言うことに従わないと解放してくれそうにもなかったので、山坂浩二は月影香子の背中を叩いてギブアップの意を示した。
すると、彼女は勝ち誇ったように山坂浩二の口からヤマメを引き抜いた。
「ごほっ、がほっ。わかった食べるから。もう勘弁してくれ」
山坂浩二はそう言うと、月影香子から焼き魚を刺した枝を受け取った。火が強すぎたのか、表面には焦げている箇所が多くあった。両面には刀でバツ印の切れ込みを入れているので、中には火が通っているように見える。頭部には彼の唾液がべっとりとついていた。
焼いた魚の香りが今さらのように鼻腔をくすぐる。味付けはされていないようだが、この一日間は何も口にしていないこともあって、よだれが出てくる。
山坂浩二は月影香子に見られながら、焼いたヤマメをかじった。
魚の味しかしなかったが、今の状況では十分すぎるくらいの食料だった。
「おいしい?」
月影香子がそう尋ねてくる。山坂浩二は素直に応えようと思った。
「まあまあ」
「そう、よかった。どうせなら焚き火のところで食べましょ。ここだと寒いでしょ」
彼女は笑ってそう言うと、山坂浩二の手を取って火の近くまで歩いていった。そして、二人で山菜の煮たものと焼いたヤマメを黙々と食べ進めた。
二人が食事を始めたときには、日は沈んで辺りは暗くなっていた。空では、ほとんど欠けていない月が闇を照らしていて、二人の前では小さな火が周囲を明るくしていた。
質素な夕食が終わり、山坂浩二と月影香子は火の前で座り込んでいた。
山坂浩二は腹を満たせたこともあって、心が少し落ち着いていた。揺らめく火を眺めていると、安心感が得られる。隣に月影香子が居ても、それほど緊張はしなかった。
二人は無言だったが、やがて月影香子が口を開いた。
「ごめんね、浩二。無理矢理食べさせちゃって」
「いいよ、それくらい。俺だって悪かった。香子がせっかく苦労して準備してくれたのに、それを台無しにするようなことした。悪かった」
「浩二は悪くないわよ。あたしがお腹空いてただけなんだから。あたしは、自分の食事にあんたを付き合わせただけ」
「そう、か」
二人は小さな声で言葉を交わした。二人とも互いのほうには向かず、火を眺めていた。時間がゆっくりと流れるなかで、山坂浩二が気まずそうに声を出す。
「あの、香子」
「なに?」
「その、すまなかった。昨日の昼休みに、水なんかかけて」
その言葉を聞き、月影香子は一呼吸置いて口を開いた。
「そのことについては、怒ってないわよ。ただ、謝ってくれただけでも嬉しいわ」
「ありがとう」
月影香子の落ち着いた声に、山坂浩二も穏やかな声で返す。
昨日から気にしていたことを話すことができ、山坂浩二は心が軽くなった。山坂宗一が何のために自分たちを退魔村跡地に誘導したのかは不明だが、こうして二人で話す機会が生まれたのは幸いだった。
月影香子は月を見上げ、小さく口を開く。
「明日は、満月なのよね。宗一とさくらが、圭市を襲撃するのよね」
彼女の口調は穏やかなものだった。しかし、その言葉で空気が張り詰める。山坂浩二は火を眺めたまま顔を歪ませた。
「その話はやめろよ」
低い声で彼はそう言った。山坂浩二は退魔師についての話を避けたかった。それでも、月影香子は話題を変えようとはしなかった。
「何万何十万の人が死ぬかもしれないのに、やめるわけにはいかないわ」
「俺たちに何ができるって言うんだ? こんなところに閉じ込められてるのに」
「あの二人のことだから、どうせ明日の夜になったら解放するわよ」
「もしそうじゃなかったら?」
「悪霊の包囲網を強行突破する。結界が張られてたら壊して無理矢理進むわ」
「そこまでしてあの二人を止めたいのか?」
「当たりまえよ。あと、止めるんじゃなくて殺すのよ。親を殺し、村を滅ぼして多くの命を奪った最悪の霊能者は、妹のあたしが始末しなきゃいけない」
そう言う月影香子の目つきは鋭かった。彼女は今、憎き姉の姿を思い浮かべているのだろう。山坂浩二もまた、あの不敵な笑みを浮かべた巫女装束の月影さくらを思い出した。
「香子は、お姉さんに勝てると思ってるのか?」
山坂浩二は声の調子を変えずにそう尋ねる。すると、月影香子は表情をますます険しくして口を開いた。
「勝つわよ。確かにこの前は全然敵わなかったけど、それはあたしの霊力が急激に落ちてたからよ。満月の夜なら、勝ち目はある。浩二と同じようにとまではいかないけど、あたしだって満月の夜には霊力が急増するみたいだから」
「でも、向こうには宗一がいるんだぞ。あいつ単体でもめちゃくちゃ強いのに、悪霊まで使われたら無理だよ」
「何言ってるのよ。満月の夜なら、あんたは誰よりも霊力が大きくなるんでしょうが。悪霊使いとしての宗一にだって負けない。浩二が弱気になってどうするのよ」
「別に、俺には関係ねえよ。だって、俺には戦うつもりないし」
山坂浩二は何気なく言ったつもりだった。しかし、彼のその言葉に、月影香子は顔を歪ませた。歯を食いしばり、眉間にしわを寄せる。彼女は山坂浩二に顔を向けると、怒りを露わにして彼を睨み付けた。
「浩二。あんた、まだそんなこと言ってるの? 明日の夜には圭市が襲われるのよ! あんたが戦わなかったら、みんな死ぬの! 殺されるの! あんたのクラスメイトだって、先生だって、圭市に住んでいる人は全員殺されるのよ! あんたはそれがわかってるの!?」
「それくらいわかってんだよ!」
口調を荒げて詰め寄ってきた月影香子に対し、山坂浩二も怒声を上げた。
月影香子は歯ぎしりをする。
「だったらどうして戦わないの! 浩二には何十万人の命が懸かってるのよ! あんたは無関係の人たちを見殺しにするつもり!?」
「俺の霊力が暴走したら悪霊関係なく全員死ぬだろうが!」
「退魔村壊滅のときの浩二がおかしかっただけよ!」
「でも俺が退魔村にとどめを刺したのは事実なんだろ! 宗一とさくらと戦ってるときに霊力が暴走して、生き残ってた村の人を殺したんだ! 香子だって見ただろ! 村をあんな姿にしたのは俺なんだよ!」
「違う! 浩二じゃない! 村を滅ぼしたのは宗一とさくらよ! あんたがやったんじゃない! 霊力が暴走したのはただの結果にすぎないわ!」
「だから何だって言うんだ! 俺が村を潰したことには変わりないだろうが! 明日もし俺が戦って霊力が暴走でもしたら、退魔村と同じことになるだろ!」
「でも浩二が戦わなかったら間違いなく殺されるのよ!」
「俺抜きでなんとかしろよ!」
「出来ないから言ってるのよ!」
声を荒げて視線をぶつけ合う山坂浩二と月影香子。二人の話は平行線だった。山坂浩二は戦わないと主張し、月影香子は彼を戦わせようとする。焦りからか、月影香子は残党主力三人のときのような行動が出来なくなっていた。
相手の話を聞いたうえでその三人を説得をしたはずの月影香子だったが、山坂浩二に限っては口論で止まってしまっていた。
不意に、山坂浩二が力を抜くように笑った。
「結局、香子も秀さんも同じなんだろ?」
「なんのこと?」
彼の言葉に、月影香子は眉をひそめる。そして、山坂浩二は表情を険しくして月影香子の目に視線を突き刺した。
「お前らが求めてるのは俺の霊力だろ! しかも満月の夜だけの! 退魔村が俺と香子を悪霊浄化の道具として扱ったように、お前らは俺を宗一とさくらを殺すための道具としてしか見てない! そんな奴らに手なんか貸せるかよ!」
山坂浩二は叫ぶようにそう言った。
その直後、月影香子は表情を怒りで染め上げたかと思うと、山坂浩二の頬を強く平手打ちした。
乾いた音が辺り一面に響き渡り、場は静寂に包まれる。
山坂浩二は月影香子に顔を向け直そうとはせず、月影香子は我に返ったかのように目を見開いた。
「あ、ごめん、浩二……」
月影香子は後悔に押しつぶされそうな声でそう言った。しかし、彼女が謝っても、山坂浩二は話を続けようとする気にはなれなかった。
「もう、寝る」
彼は静かにそう言って、月影香子に背を向けてその場に横たわった。拒絶の意を示され、彼女は悲しげな顔をする。
月影香子は山坂浩二の背中を見つめながら口を開いた。
「確かに、あたしたちは浩二を大きな戦力として見てる。でも、道具だとは全然思ってない。秀さんと紗夜さんは教え子として、友子は友達として、残党のメンバーは仲間として、浩二を見てる。あたしは、浩二を大事なパートナーだと思ってるわ。それだけは、はき違えないで欲しい」
彼女は静かにそう言って立ち上がり、山坂浩二と火を挟む位置に移動して横になった。春が近いとはいえ、山の夜は気温がかなり下がる。月影香子でも、暖を取れる場所で眠りにつきたいのだろう。
石粒の上で体を寝かせた二人に、会話はなかった。二人とも火に背を向け、互いの顔が見えないようにしている。二人とも寝付けないようだった。
山坂浩二は下を向いて、自分の言動を後悔した。
悪霊の襲撃から命を救ってもらったにもかかわらず、月影香子を拒絶するかのような事を繰り返した。
食事を用意してもらったのに、食べようとしなかった。
食後の穏やかな時間を、台無しにした。
パートナーが自分を必要としてくれているのに、たった一つの恐怖からそれに応えられずにいる。
山坂浩二は自分を情けなく思った。山坂宗一と月影さくらのことに関しては、逃げても得をしない。周囲の人たちはもちろん、山坂浩二にとっても。それなのに、彼は逃げ続けている。たくさんの人々の思いを無碍にして、無関係な人々の命を見捨てて、退魔師関連のことを避けていた。
自分が加害者になりたくないという思い。それがすべてを妨げている。本当は圭市を守って、自分たちの兄と姉に引導を渡したい。それなのに、しようとしない。
満月の夜には強大な霊力が宿る。その力をもってすれば、日本最悪の霊能力者を止め、彼らの真意を突き止めることもできるはず。それなのに、しようとしない。
満月の夜だけ戦えばいいと思っていた時期もあったが、今に比べるとまだよかった。それが、いつの間にか霊力の暴走を恐れて、戦いを拒むようになった。
自分はなんて情けないのだろう。
彼は自分を呪うことしかできず、やがて眠りに落ちていった。
一方、月影香子は決意を示したかのような表情で夜空を見上げていた。初めは後悔に苛まれているかのような様子だったが、それは時間が経つにつれて消えていった。
そして、彼女は穏やかな顔で目を閉じる。
退魔村に誘導された山坂浩二と月影香子の一日は、こうして終わりを告げた。
満月の夜まで、あと一日……。