第三十九話 誘導②
体が宙に投げ出される。山坂浩二の視界に映るのはアスファルトの道路。そこに悪霊はいない。自分の判断が正しかった。彼はそう思いながら、両足で着地した。
衝撃が脚だけにいかないよう、山坂浩二は体を前に倒し、そのまま道路の上を転がった。そうすることで着地の衝撃を殺した後、すばやく立ち上がった。
悪霊がアパートの二階から迫ってくる。今は逃げるしかない。山坂浩二は街中に続く道に向かって駆け出した。
逃げ道が多い分、銅鏡川に沿って走るよりはいい。
市民を巻き込むかもしれないが、知った事ではなかった。それに、この悪霊たちはおそらく山坂宗一が仕向けたものだろう。満月の夜でもないのに、彼が一般人を襲わせるとは思えなかった。
山坂浩二は曲がり角に差し掛かった。この先を行けば圭市の中心にたどり着く。彼はわずかな希望を胸に、その道を曲がった。
しかし、その先には悪霊が待ち構えていた。
悪霊の数は五体。強行突破できる数ではなかった。山坂浩二は退路を防がれ、反転した。だが、彼を追ってきた四体の悪霊もすでに近くまで迫ってきていた。
山坂浩二は観念して体中に霊力を循環させ始めた。半霊体化と不可視化結界の形成が同時に起こり、彼の身体能力が一気に上昇する。
街の方向には逃げ道はない。山坂宗一は、弟を街中に逃がすつもりなど無いのだろう。山坂浩二にはもう、銅鏡川沿いに走って、逃げられるだけ逃げる以外の選択肢は残されていなかった。
山坂浩二は錫杖を作り出し、襲い掛かってきた一体の悪霊を薙ぎ払った。悪霊が山坂浩二から離れ、退路がわずかに開ける。
彼はそこを駆け抜け、河川敷広場へ避難した。
九体の悪霊が山坂浩二を追跡する。彼はここで迎え討つことも考えたが、すぐに思い直した。今の自分と悪霊とでは戦力差がありすぎる。仮に戦ったとしても、その結果は容易に想像できる。
山坂浩二は未来橋と反対方向に走り出した。
彼は自分が逃げているということに驚きを隠せないでいた。死ぬ覚悟はできていたはずだが、いざ悪霊を目の前にすると死が怖くなった。生き延びるために、吐き気を我慢してでも霊力を使っている。そのことが不思議でたまらなかった。
山坂浩二は走り続けた。息を荒げ、必死で悪霊から離れようとする。悪霊が近づいてきたときは錫杖を振り回し、その音で敵を追い払った。
だが、その間にも彼の体力は消耗し、脚の回転が遅くなっていった。
そして、一体の悪霊が山坂浩二を追い抜き、彼の前に回り込んだ。山坂浩二は錫杖で対処しようとするが遅れる。突き出された悪霊の拳が山坂浩二の胸に激突し、彼の体は後ろに飛ばされた。
山坂浩二はアスファルトの上を転がる。その間に、他の悪霊も彼に追いつく。山坂浩二が痛みに耐えながら立ち上がったときには、九体の悪霊に包囲されていた。
この状況では逃げられない。山坂浩二は錫杖を両手で握り締めた。
負けるとわかっていても戦うしかなかった。山坂宗一が悪霊を仕向けてきたのには、なにかの意図があるはずだった。おそらく山坂浩二を殺すことはないだろうが、悪霊を使って山坂浩二に何かをさせようというのは見当がつく。
山坂浩二と悪霊はその場に留まった。彼は緊張の汗を流しながら周囲の悪霊を見渡す。地上に六体、頭上に三体。それらはまるで弱った獲物で遊んでいる猛獣のようにも見えた。
膠着状態が続くが、それは一体の悪霊によって破られる。
山坂浩二の前方にいた悪霊が彼に襲い掛かる。山坂浩二は振り下ろされた悪霊の腕を錫杖で防ぐと、柄の後端で胴体を突いた。
悪霊がわずかによろめく。山坂浩二はその隙をついて悪霊を右脚で蹴り飛ばした。しかし、そこで後方の悪霊が動き出した。それに気づいた山坂浩二はすばやく振り向き、錫杖の先端で悪霊の首元を貫いた。
山坂浩二の背後が無防備になる。先ほど彼が蹴飛ばした悪霊が、再び襲い掛かる。その背中に向けて拳を突き出し、山坂浩二は前方に倒れた。
山坂浩二は受け身をとってダメージを軽減し、すばやく立ち上がった。
彼と悪霊は再び膠着状態に陥った。山坂浩二は息を荒げ、新月の夜に見た兄の顔を思い出す。山坂宗一は悪霊を使うことにより、山坂浩二を強制的に戦わせている。それだけではない。わざわざ彼を包囲して逃げ場をなくしているという事は、他に別の目的もあるのかもしれない。
山坂浩二は疲労のなか考える。
山坂宗一と月影さくらの一番の目的は、圭市を襲撃することではなく、退魔師残党を全滅させること。いや、それだけなら、既に実行していてもおかしくない。あの二人が固執していること。それは、他ならぬ山坂浩二と月影香子だった。
そこで、山坂浩二は退魔師としてのパートナーだった少女の顔を思い浮かべた。もしかしたら今、彼女も同じように悪霊の襲撃を受けているかもしれない。
山坂浩二がそう考えた直後、周囲の悪霊が一斉に動き出した。
一体や二体であれば身を守る程度のことはできた。しかし、今は九体同時に迫ってきている。悪霊すべてから放たれる殺気で、山坂浩二は悟った。
殺される、と。
彼の霊力は満月の夜だけ莫大なものになる。それ以外のときは霊能力者の最低ライン。それでも、以前の山坂浩二であれば、二つの霊力を駆使してそれなりの戦いができたはずだった。
この戦いぶりでは、たとえ満月の夜になったとしても、山坂宗一が満足できるほどの相手にはなれないだろう。
自分は兄に見限られたんだ。
もう、用済みなんだ。
山坂浩二はそう思いながら、静かに目を閉じた。