第三十八話 誘導①
修了式の後、帰宅した山坂浩二は肩にかけていたエナメルバッグを床におろし、携帯電話や財布をこたつの上に置いて部屋の外に出た。
彼は制服のまま、扉の鍵もかけず、アパート二階の廊下から銅鏡川を眺め始めた。柵に両肘を置いて、夕日に染まった空や川に目を向ける。
景色を眺めるなかで、山坂浩二は再び自分について考えてしまう。
静かに暮らすと決めても、やはり圭市の人々のことが気になってしまう。自分が戦わなければ、関係のない彼らまで殺されることになってしまう。しかし、戦っている最中に霊力が暴走すれば、自分の力でその人たちを死に至らしめてしまうことになる。
何度考えたかもわからないことを、山坂浩二は幾度となく頭に思い浮かべる。
だが、どうしても結論は出なかった。
そうやって、これまで時間を無駄に過ごし、気づけば満月の夜まであと二日になってしまっていた。そして、これからも何をするわけでもなく、ただ山坂宗一と月影さくらの襲撃を待つだけになるだろう。
そして、いざ満月の夜になったとき、山坂浩二はどうするのだろうか。莫大な霊力を持ちながら、黙って殺されるのだろうか。
もともと彼が戦意を喪失したのは、山坂宗一に満月の夜以外は弱者であると言われたからだった。だから、普段どれだけ訓練しても無駄だと思ってしまった。
それだけなら、山坂浩二は迷うことなく戦うことを選んだだろう。しかし、彼が躊躇う理由は霊力の暴走の可能性だった。退魔村にとどめを刺した霊力の暴走。それが圭市で起これば、自分の手で何十万もの人を一瞬で殺してしまうことになる。
山坂浩二はそれを恐れていた。
やはり、彼はおとなしく殺されることを選ぶだろう。
そのことについては、山坂浩二の中ではほとんど結論が出ていた。
だが、気がかりなことがもう一つあった。月影香子のことだ。
彼女に対して恋心を抱いていたが、それを本人に伝えないことは決めていた。しかし、最後に目にした彼女の姿は酷いものだった。山坂浩二が一時的な怒りで水をかけたせいで、彼女は濡れたまま静かに目を閉じていた。
彼が見た月影香子の最後の姿がそれなのは、少し残念だった。
できれば、笑った顔が見たかった。
でも、あのような姿にしてしまったのは自分。諦めるしかなかった。
山坂浩二はため息をつき、後ろを向いた。扉を開けて部屋に戻るため、彼は古びたドアノブに手をかけた。しかし、それは回らなかった。
鍵をかけた覚えはなかった。だが、どれだけ力を込めても動く気配がなかった。何かがおかしいと、山坂浩二は焦った。
「おい、どうなってんだこれ?」
彼がそう呟いた直後、背筋に悪寒が走った。それは、退魔師の力が戻ってから高頻度で感じたものと同じだった。
山坂浩二は後ろに振り向いた。そして、恐れていたものを目の当たりにする。
ヒト型の黒い塊が、柵の向こう側に三体浮かんでいる。黒い霧のようなもので出来た体で、頭の部分には赤く光る二つの点だけが不気味に浮かび上がっている。
その悪霊の姿が視界に入り、山坂浩二は目を見開いた。
なぜこのタイミングで悪霊が襲ってくるのか、山坂浩二には理解できなかった。実の兄である山坂宗一の考えが読めない。どうしていいかわからず、彼は動けなかった。
そうしている間にも、三体の悪霊は迫ってくる。
山坂浩二は冷静さを失い、再び部屋の扉に体を向けた。
何度も何度もドアノブを回そうとするが、まったく動かない。焦りから全身に汗が滲み、手のひらがべたつく。どうして自分が開きもしないドアを必死に動かそうとしているのか。山坂浩二はそれすらもわからなくなっていた。
彼と悪霊の距離が縮まり、悪霊が柵を越える。
背筋が凍るような感覚に、山坂浩二は後ろに顔を向けた。悪霊の一体が腕を振り上げている。このまま振り下ろされれば、彼は殺されてしまう。
山坂浩二は声にならない悲鳴を上げ、扉から跳ぶように離れた。悪霊の腕が振り下ろされ、彼にはぎりぎり当たらず、扉をすり抜ける。
三体の悪霊に体を向けたまま、山坂浩二は荒い呼吸をする。しかし、その間にも目の前の悪霊は近づいてくる。
迷っている場合ではなかった。逃げなければ殺される。
山坂浩二は死が直前に迫ったところで、それを恐れた。後ろに方向転換すると同時にコンクリートの床を蹴り、悪霊から逃れようと階段に向けて駆け出した。
しかし、階段にたどり着く直前、新たな悪霊が彼の目の前に飛び出した。形は他のものと同じだった。
山坂浩二は急いで足を止める。
後ろからは三体、前からは一体の悪霊が迫ってくる。このままこの場所に留まっていては、いずれ悪霊に殺されてしまう。だが、逃げ場はない。
山坂浩二は逃げ道を探して辺りを見渡すが、移動できる足場など無い。混乱した彼の頭ではどうすることもできない。また、仮に退魔師の力を使って応戦しても、四体もの悪霊を退けられる能力など今の彼にはない。
必死になって視線を動かす。そこで、柵の向こう側が開けて見えた。
このまま足を止めていても仕方がない。
山坂浩二は覚悟を決めて両手で柵を掴む。全身をばねのように使い、その先へ勢いよく跳び出した。