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ムーン・ライト  作者: 武池 柾斗
第四章 悪霊使い編
62/95

第二十八話 リーダーの責務④

 同日、午後八時。国内某所の山奥。

 木々が乱立しているなかで、一つの建物がまるで取り残されたかのように佇んでいた。それは五階建てで、各階の外壁には窓が規則正しく並べられている。外装は剥がれ落ちた箇所が目立ち、人の気配は感じらない。

 この廃ホテルもかつては人の活動領域だった。だが、現在は単なる人工物でしかない。

 人が近寄ることもなくなったはずのこの廃墟。

 しかし、今夜はいつもとは様子が違っていた。

 スーツ姿の二人組が、ゆっくりとした足取りで廃ホテルへと近づいているのだ。

 一人は男。

 彼は、ダークブラウンの長髪をオールバックに整えている。長身で線は細く、さわやかな顔立ち。黒色のスーツを身に纏い、茶色のネクタイを締めている。

 もう一人は女。

 スラックスタイプの黒色スーツを着用し、その姿からは柔らかな印象を受ける。豊満なバストとヒップから想像もできないほど、ウエストや腕、脚は引き締まっている。セミロングでダークブラウンの髪は、肩のあたりからウェーブしている。

 荒れたアスファルトの上を歩きながら、男が口を開いた。

「今日は、ここで最後ですね」

 退魔師残党のリーダーである柳田秀は、そう言って、左隣の女に顔を向けた。

「ええ。そして、ここが今日で一番危険な場所ね」

 退魔師残党の副リーダーである水谷紗夜は、そう言葉を返して夜空を見上げた。

 彼女が見上げた先では、高く浮かんだ月が青い光を放っている。月は半分以上満ちているものの、まだ左側に欠けた部分がある。

 柳田秀も彼女に続いて月を見上げた。

「今日はレベル6が二か所、レベル7が一か所でしたね。最後の任務はレベル8ですが」

 軽い調子で話す彼の頬に汗が伝っていく。よく見ると、彼のワイシャツは汗で湿り、肌に密着していた。

「そうね。確か、もともとはレベル3の場所だったのだけど、霊媒師たちの手が回らなくて放置されていたのよね」

 水谷紗夜は廃ホテルに視線を向ける。柳田秀に比べると程度は軽いが、やはり彼女の肌にも汗の流れた跡があった。

 柳田秀は月を見上げたまま、口を開いた。

「はい。その結果、このホテルの地縛霊が穢れを溜め込んで、悪霊化してしまったようですね」

「そして、危険度がレベル8に跳ね上がった。ふふっ、霊能者協会もまぬけだわ」

 そう口にして微笑を浮かべる水谷紗夜。柳田秀も彼女につられて口角を上げ、力を抜くように両目を閉じ、ゆっくりとまぶたを上げた。

「そうですね。ですが、人里離れた場所に留まっている純霊には害などありません。放置していても特に問題はありません。まあ、今回の悪霊化は運が悪かったとしか言いようがないでしょう」

「それもそうね」

 柳田秀の言葉に水谷紗夜は同意する。彼女は小さく笑ったまま、あきれたようにため息をついた。

「でも、手が回らないと言うわりには、悪霊が発生したら、すぐに私たちにやらせるわよね。雑霊の相手もしないといけないし」

「確かに。霊能者協会の僕たちへの扱いは酷いですよね。ですが、悪霊は早めに浄化しなければ、被害が大きくなってしまいますからね。仕方のないことです」

 柳田秀はやれやれといった様子で両手を肩の高さで空に向け、水谷紗夜は眉をひそめた。

「私たちだけだわ、こんなにこき使われるのは」

「そうですね」

 ため息をつく水谷紗夜に、柳田秀は苦笑を返した。

 ここで、二人の間に静寂が訪れる。廃ホテルの正門前に着いたのだ。そろそろ悪霊との戦いが始まる。いつまでも談笑しているわけにもいかない。

 柳田秀は表情を引き締める。彼は体力を消耗しているのか、早くも呼吸が大きい。柳田秀は自信の状態には目を向けず、水谷紗夜に顔を向けた。

「では、行きましょうか」

「……」

 柳田秀が声をかけたのにもかかわらず、水谷紗夜はそれに反応を示さなかった。自らの足元を見つめたまま黙っている。何かを考えているかのようだ。

「紗夜さん? どうかしましたか?」

 柳田秀が怪訝そうに尋ねると、水谷紗夜は我に返ったように、

「あ、いえ、何でもないわ」

 と首を左右に振り、

「ええ、気を引き締めましょう」

 と言って、柳田秀と目を合わせた。

 柳田秀は水谷紗夜に向かって一度頷くと、ホテルの正門に向けて歩き始めた。水谷紗夜は柳田秀の後ろをついていくが、そのときにも何かを気にしているかのように、後ろを振り返ったり、周りを見渡したり、夜空を見上げたりしていた。

 ホテルの正門にたどり着くと、二人は扉の両側に別れて外壁に背中をつけた。沈黙を保ったまま、柳田秀が扉に手をかける。

「ふう」

 柳田秀は呼吸を整えるかのように息を吐くと、水谷紗夜に目を向けた。水谷紗夜も柳田秀に視線を向け、互いに頷き合う。

 もう一度、柳田秀は息を吐く。そして、

「いち、にの、さん!」

 と声を上げて合図をし、扉を勢いよく引いた。その直後、開かれたホテルの中に水谷紗夜が突入する。顔の前に両拳を構え、重心を低くする。彼女に続いて柳田秀もホテルの中に足を踏み入れた。

 水谷紗夜は周りを見渡す。

 暗闇の中、放置されて汚れたソファーや、受付が目に入る。だが、悪霊らしき姿は見当たらない。

 水谷紗夜は力を抜いて膝を伸ばした。

「ロビーにはいないみたいね」

 落ち着いた声で水谷紗夜はそう言って柳田秀に目を向ける。柳田秀は水谷紗夜と目を合わせて頷き、口を開いた。

「そのようですね。とりあえず、予定通り、一階から順に調べていきましょう。そして、悪霊を見つけしだい、すぐに浄化しましょう」

「ええ、わかったわ」

 二人はこれからの行動を確認し、一階の調査を進めていく。レストランだった部屋や厨房、スタッフルームに足を踏み入れるが、悪霊の姿はない。

 スタッフルームからロビーに戻った二人は、足を止めた。

「一階にはいないようですね」

「そうみたいね。そこの非常階段から二階に上がりましょう」

 柳田秀と水谷紗夜は短く言葉を交わした後、一階の奥にある非常階段へ繋がる扉を開けた。屋内にあり、窓がないので暗くて先が見えない。柳田秀は右手から青い霊力を放出させて明かりを灯した。薄汚れた階段で、いたるところに蜘蛛の巣が張られている。

 二人は足元に注意しながら非常階段を上り始めた。

 二階から上は客室となっているようだ。二階にたどり着いた二人は扉を開け、廊下へと侵入した。柳田秀は明かりを灯したまま、廊下から客室までくまなく調べていく。だが、最後の客室まで確認しても、悪霊は見当たらない。

 二人は肩をすくめ、非常階段へと向かい始めた。

 その途中で、水谷紗夜が口を開く。

「秀ちゃん」

「なんですか?」

 水谷紗夜の呼びかけに、柳田秀は前を向いたまま言葉を返した。彼の隣を歩く水谷紗夜は、眉をひそめながら尋ねる。

「おかしいとは思わない? いくらなんでも静かすぎるわ」

 それに対し、柳田秀は左手を顎に当てて小さく唸った。

「確かに妙ですね。悪霊の姿も見えませんし、なによりあの悪霊特有の悪寒が感じられません」

「任務自体が間違っていたのかしら。あの協会長でも感知ミスなんてするのね」

「その可能性もありますね」

 二人は揃って苦笑する。

「ですが、五階まで調べてみないとわかりませんからね。もしかしたら、上の階にいるのかもしれません。悪霊が留守にしている可能性もありますが」

「どこかに出ていっている可能性のほうが高そうだけど」

「そうですね」

 ここで、二人の間に沈黙が訪れる。非常階段へ再び足を踏み入れた柳田秀と水谷紗夜は、霊力の明かりを頼りに階段を上っていく。

 息が上がっている柳田秀を、水谷紗夜は心配そうに見つめていた。柳田秀は彼女が見ていることには気がつかず、二人は二階と三階の間の踊り場へと足を乗せた。

 そのとき、二人の背中に強烈な悪寒が襲いかかった。

「これは……」

 水谷紗夜の表情が険しくなる。

 柳田秀は水谷紗夜に目を向け、わずかに口元を上げた。

「ええ、間違いありません」

 柳田秀と水谷紗夜は同時に後ろへ振り向いた。目の前にあるのは先ほど上ってきた階段。悪霊の姿は見当たらない。しかし、その気配は下から確実に近づいてくる。二人の全身はすでに汗で湿っていたが、また新たな分泌液が皮膚を濡らしていく。

「どうやら、お帰りのようだわ」

 水谷紗夜は小さく笑いながら言葉を吐いた。

 柳田秀は重心をわずかに下げて両手を前に突き出し、臨戦態勢に入る。彼に続くように、水谷紗夜も霊力を体内で循環させる。霊力が活性化し、柳田秀からは青い光が、水谷紗夜からは赤い光がうっすらと浮かび上がった。

「そろそろきますよ」

 柳田秀の一言で、その場の空気が一気に張り詰めた。浄化対象の悪霊がすぐ近くまで迫っている。心臓が激しく鼓動し、その拍動は体の末端まで伝わっていく。血液の循環音がやけに騒がしく感じた。

 その刹那、階段の角から不気味なほどに赤く光る目が二人に向けられた。

 樽状の黒い塊が姿を現す。全長は三メートルほど。全身は黒い霧に包まれ、四本の短い脚が申し訳程度に生えている。体の一部は壁をすり抜けている。赤い二つの目はこちらを向いたまま、その悪霊はゆっくりと距離を詰めていた。

 浄化対象を確認した柳田秀は、表情を険しくして叫ぶように号令をかける。

「浄化任務を開始します!」

 その直後、柳田秀の両手に霊力が集められた。彼はその霊力を可能な限り凝縮させ、ソフトボール大の光弾を悪霊に向けて二発放った。

 青い光弾は高速で突き進み、二発とも悪霊に命中する。その衝撃で悪霊はその姿を揺らめかせた。これだけでもかなりの威力だが、柳田秀は二発の光弾に霊力を送り、それらを破裂させる。

 耳をふさぎたくなるほどの爆音が広がり、爆発の衝撃がこの場のすべてに襲い掛かる。霊力の爆発をもろに受けた悪霊は、体の数か所から黒い霧を噴き出していたが、行動不能には陥っていなかった。むしろ興奮したようで、四本の短い脚を酷使し、スピードを格段に上げて柳田秀と水谷紗夜に迫ってくる。

 悪霊の行動が急変したにもかかわらず、柳田秀は顔色一つ変えなかった。悪霊が二人に激突するかと思われた瞬間、柳田秀の横にいた水谷紗夜が動きを見せた。彼女は重心を低く保ち、腰を入れた状態で右の拳を悪霊めがけて突き出した。

 水谷紗夜の強烈な一撃が悪霊の全身を揺さぶる。彼女は拳をさらに押し出して、悪霊を一つ下の踊り場の壁へと吹き飛ばした。

 壁と衝突し、一時的に身動きの取れない状態になった悪霊。しかし、穢れを削り落とすまでには至っていない。

「ここじゃ狭すぎるわ!」

 この悪霊を浄化するためには大斧が必要。そう悟った水谷紗夜は、柳田秀に向けて声を張り上げた。

「そうですね、上に行きましょう!」

 柳田秀は彼女の言葉を瞬時に理解し、指示を出す。今にも動き出して二人に襲い掛かろうとしている悪霊を、彼は立方体形の結界で閉じ込め、身動きを取れないようにした。

 悪霊が結界内で暴れ出すと同時に、柳田秀と水谷紗夜は階段を駆け上がり始めた。途中、細長い悪霊が現れて二人に襲い掛かってきたが、柳田秀の光弾と水谷紗夜の打撃で足止めをし、二人は上へと進んでいった。

 三階と四階の間にある踊り場までたどり着いたとき、水谷紗夜が、

「最初の作戦通りでいく?」

 と柳田秀に尋ねた。走りながらではあったが、彼はすぐに、

「はい。限界まで引き付けて屋上で戦いましょう」

 と作戦の確認をおこなった。

 二人は順調に四階まで上がったが、そのとき異変が起こった。下で捕えていた悪霊の気配が徐々に大きくなっているのが柳田秀には感じ取れた。

 そして。

「結界が破壊されました!」

 柳田秀は水谷紗夜に向けて叫ぶように報告した。

 霊力の流れで分かる。あの悪霊は、体を拘束していた結界を砕き、脚を激しく動かしながら階段を猛スピードで上がってきている。このままでは追いつかれる。

「秀ちゃん走れる!?」

 五階へ続く階段を走っていた水谷紗夜が、少し遅れて階段を上っている柳田秀に向けて言葉をかけた。

 追いつかれるわけにはいかない。

「まだいけます!」

 柳田秀は自らを奮い立たせるように答え、力を振り絞って階段を上がる足を速めた。

「屋上までもうすぐよ!」

「はい!」

 二人は五階にたどり着いた。あとは屋上まで行き、広い場所で浄化をおこなうだけ。柳田秀と水谷紗夜は、脚を緩めずに屋上への階段を上がろうとした。

 だが、上の踊り場から先ほどと同じ形状の悪霊が姿を現した。二人はすぐに足を止める。その悪霊は二人の行く手を阻み、赤い二つの目で見下ろしてくる。

「先を越されましたか……」

 柳田秀は思わず舌打ちをする。水谷紗夜は歯を食いしばり、眉間にしわを寄せながら首を左右に振った。

「いや、違うわ。これは」

 水谷紗夜は横に動いて下の踊り場が見える位置まで行った。すると、五階と四階の間の踊り場に、上の悪霊と同じものがどっしりと構えていた。

「挟まれましたね」

 柳田秀は両目を強く閉じて思考し、一瞬のうちに結論を叩き出した。両目を開くと同時に水谷紗夜へ指令を出す。

「プランBに変更です!」

「わかったわ!」

 短いやり取りの後、柳田秀と水谷紗夜は五階フロアへ続く扉を開けると、その先へと駆け出した。

「やっぱり協会長の感知ミスじゃない!」

 水谷紗夜が不満たっぷりに声を上げる。

「まだ予想の範囲内です!」

 柳田秀は自らの冷静さを保つために一喝し、廊下の突きあたりにある窓を指差した。

「あの窓から行きましょう!」

「わかったわ!」

 水谷紗夜は足を速めて柳田秀の前に出る。彼女は柳田秀の差した窓に向かっていく。その窓は、一人の人間が突き破って外に出るには充分な大きさがあった。

 右腕で顔を守りながら、水谷紗夜は右肩からその窓に飛び込んだ。黒ずんだガラスが音を立てて割れ、ホテルの外へ飛び散っていく。

 柳田秀も彼女に続き、ガラスのなくなった窓からその身を投げた。

 彼の体が落下を始めた直後、四階の高さに十メートル四方の青い半透明の足場が現れた。それは柳田秀の結界であり、彼が窓枠を飛び越えると同時に作り上げたものだった。

 空中で前に一回転した水谷紗夜は足場に両足で着地し、彼女の後ろにガラスの破片が降り注ぐ。それらは月の光を反射しながら、結界のそばを通り過ぎて地面に落ちていった。

 柳田秀は足場に両足をつけると同時に体を前に倒し、一回転して着地の衝撃をやわらげる。柳田秀と水谷紗夜が足場の中央に移動して後ろに振り返ると、樽状の悪霊が二体続けて五階の壁をすり抜けているところだった。

 柳田秀はすばやく両手を前に突き出した。

 先に降下を始めた一体の悪霊に対して、バレーボール大の光弾を放つ。悪霊はその砲撃を躱そうとするが、柳田秀は悪霊に届く前に光弾を破裂させた。回避行動に移っていた悪霊は爆発の衝撃をもろに受け、空中での自由を完全に失う。

 ここで、水谷紗夜は体の右側で両手を低く構えた。彼女は二メートルを超える両刃斧を作り出し、それを握り締める。

 柳田秀の攻撃によってひるんだ悪霊が足場に落ちた。それと同時に水谷紗夜は突進し、悪霊めがけて右から斧を振る。超重量の水平斬撃が樽状の悪霊を容赦なく真っ二つにした。爆発するかのように黒い霧が全方位に吹き出す。

 水谷紗夜は体の左側へ斧を振り切り、足場に大斧の刃をつけた。

 彼女は上半身を左へひねり、後ろの柳田秀と視線を交わす。言葉はなくとも二人は次の行動を確認し合っていた。

 水谷紗夜は上半身の向きを前に戻す。それと同時に大斧を振り上げながら大きく跳び上がった。その直後、柳田秀が突き出した両手から白い光弾を撃ち出した。

 浄化の霊力が足場の悪霊に命中し、黒い塊は白い光に包まれる。それははじけ飛ぶようにしてこの世から姿を消し、白い光の粒子を残していった。

 だが、これで終わったわけではない。

 まだ樽状の悪霊が一体残っている。

 跳び上がった水谷紗夜が向かったのはもう一体の悪霊だった。五階の壁をすり抜けた直後の悪霊と水谷紗夜は空中で対峙する。悪霊が攻撃に移るより先に、彼女は凶悪なまでの威力を誇る大斧を振り下ろした。

 樽状の悪霊が縦に割れ、周囲に黒い霧をまき散らす。

 水谷紗夜は空中で一時停止した後、両刃斧を赤い光の粒子に変化させて体に取り込んだ。彼女が重力に身を任せて降下を始めた直後、柳田秀がほぼ休む間もなく、樽状の悪霊に向けて浄化の霊力を放った。

 上空の悪霊が浄化されると同時に水谷紗夜は結界へと降り立った。

 結界近くにはまだ細長い悪霊が四体残っている。しかし、柳田秀と水谷紗夜にとっては造作もない相手。水谷紗夜は両手に霊力を回して皮膚硬化をおこない、一斉に襲い掛かってくる四体の悪霊を手刀で次々と薙ぎ払っていった。

 そして、柳田秀による浄化が終わり、二人の緊張は解かれた。

戦闘が終わったと思うと、疲労感が急に襲ってくる。柳田秀は肩を上下に動かしながら荒い呼吸をして必死に酸素を求めていた。

 一方、水谷紗夜は、息は上がっているものの表情は依然として険しく、周囲に悪霊がいないかどうか注意を向けていた。

 ただ、一つのヤマを越えて疲労しているのも事実。ペース配分を考慮して浄化任務にあたっていた水谷紗夜はともかく、冷静さを欠いて初めから全力で戦ってきた柳田秀の体力は限界を迎えてもおかしくない。まだすべてが終わったと決まったわけではないが、一つの区切りはついている。疲れ切った柳田秀をねぎらうため、水谷紗夜は安堵の笑みを浮かべた。

「ひとまず、これで終わりね」

 彼女がそう言葉をかけると、柳田秀は疲労を誤魔化すかのように口元を緩めた。

「そうですね」

 両手を腰に当ててホテルを見上げる。

「今回の任務は、なかなかに刺激的でしたね」

「そうね。秀ちゃん怪我していない?」

「大丈夫ですよ。紗夜さんが守ってくれましたから。紗夜さんこそ、お怪我はありませんか?」

「大丈夫よ」

「それは、よかったです」

 二人の会話はここで途切れた。水谷紗夜は再び表情を引き締めて周囲を警戒する。柳田秀は右手を顎にあてて視線を下げ、何かを考えているかのようなそぶりを見せた。

「秀ちゃん? どうかしたの?」

「いえ、レベル8にしてはあっさりしすぎているような気がしまして」

 水谷紗夜の問いかけに、柳田秀は下を向いたまま呟くように答えた。

 感心したかのような表情を見せる水谷紗夜だったが、すぐに顔つきを元に戻し、

「一応、あれでもレベル8の範囲内よ。考えすぎじゃない?」

 と、柳田秀を気遣うかのように柔らかい声でそう言った。

「そう……かもしれませんね」

 柳田秀は深く息を吐くと、ホテルに背を向ける。

「では、任務完遂ですね。帰りましょう」

「はあ……」

 水谷紗夜は柳田秀の背中に目を向けながら、あきれたようにため息をついた。

「秀ちゃん、あなたは、こんなことも予想できなくなるくらい、弱っているのよ。前はこんなことなんてありえなかったのにね」

 どこか哀愁を漂わせながら彼女がそう言うと同時に、凶悪な悪寒が二人を襲った。

「っ!?」

 柳田秀の全身が強張る。顎が震え、上下の歯が打ち付け合って音を鳴らしていく。冷たい汗が額から浮かび上がり、頬を伝い落ちる。

 明らかに動揺している柳田秀に対して、水谷紗夜は目を閉じ、静かに霊力操作をおこなって戦いの準備を始めていた。

「い、いったい何なのですか!」

 柳田秀は後ろを振り向く。

 ホテルを見上げると、球状の悪霊が外壁をこちらに向けてすり抜けようとしているのが確認できた。その悪霊は半径十メートルを超えるほどの大きさを持ち、全身は深い黒色。無数の赤い目がいたるところに存在し、他の悪霊とは一線を画するモノであることを示していた。

 喉から絞り出した声が震えていることを認めたくない。目の前の悪霊に怯えていることを、パートナーに悟られたくない。

 できる限り冷静になろうと、柳田秀は腹の底から声を出す。

「単体でレベル8相当です!」

 今度は震えていなかったが、恐怖心は隠しきれていなかった。それでも、柳田秀・水谷紗夜ペアの司令塔としてやるべきことはやらなければならない。

「おそらく、このホテルの親玉です! この悪霊を浄化しなければ任務成功とは言えません! 任務を続行しましょう、紗夜さん!」

 柳田秀は水谷紗夜に向けて次の行動案を提示したが、彼女はすぐには反応を示さなかった。悪霊を背にしたまま、水谷紗夜はゆっくりと両目を開け、冷たい目で柳田秀を見据える。

 そして、落ち着いた様子で口を開く。

「だめよ、秀ちゃん。今日は引き上げましょう」

「なぜですか!?」

 険しい表情で異議を唱えてきた彼女に対し、柳田秀は問いを投げかけた。

 水谷紗夜は変わらない表情で淡々と答える。

「今の私たち二人じゃ危険すぎるからよ。秀ちゃんが思っている以上に、私たちは消耗しているのよ。ここに友子ちゃんや香子ちゃんがいれば話は別かもしれないけど、私たちだけじゃ浄化しきれないわ」

「ですが! 今やらなければ、悪霊がこれ以上に成長して浄化が困難になります! それに、引き下がったところで僕たちに協力してくれる方なんていません!」

 水谷紗夜は、自分たちの身を第一に考えていたのだが、柳田秀は任務遂行のことしか頭にないようだ。

 歯を食いしばり、水谷紗夜は問いかける。

「秀ちゃん……本気で浄化するつもり?」

「当たり前です!」

 即答だった。

 柳田秀がそう言った直後、球状の巨大な悪霊が結界の足場に着地した。逃げるか戦うかの選択を急がなければならない。

 柳田秀は戦うことを即座に選択し、悪霊に向けて光弾を一発放った。

 こちらの意見も聞かずに戦闘を開始した柳田秀を一瞥し、水谷紗夜はため息をついた。

「やっぱり、こうなるのね……」

 彼女は仕方ないなあと言わんばかりに口元を緩める。

「まあ、見捨てるわけないけど」

 そう呟き、水谷紗夜は百八十度回転して悪霊と向き合う。悪霊は多数の触手を生やしており、それは大型の悪霊が使う攻撃手段としては最も多いもの。彼女はこれまでの経験を頭の中で呼び起こし、この状況下での最適な戦略を一瞬のうちに編み出した。

 その直後、水谷紗夜は悪霊より高く跳び上がった。

 悪霊が触手を動かす前に霊力を削れるよう、彼女は予備動作をほとんど見せることなく攻撃に移る。

 あらかじめ両手を振り上げた状態で大斧を作り出し、自身の落下とともにその斧を振り下ろす。大斧の刃はいとも簡単に悪霊へ入り込み、そのまま悪霊の前面を縦に斬り裂いていく。

 爆発するかのような勢いで黒い霧を噴射して悶え苦しむ悪霊。

 巨大な両刃斧とともに水谷紗夜は結界に足をつけた。斧が足場に叩きつけられて轟音が発生し、それもまた衝撃となって悪霊の穢れを祓っていく。

 着地後、水谷紗夜は右に体をひねって柳田秀の目を一瞥した。

 光弾による支援は必要ない。

 だけど、得意なアレを使ってサポートして欲しい。

 そんな思いを視線で伝え、水谷紗夜は柳田秀から見て右方向に跳躍した。

 彼女は斧による攻撃もせずに悪霊の中心部から離れていく。水谷紗夜が高さを変えずに飛ぶ先には、ただ空間があるだけで特筆すべきものは何もなかった。

 悪霊からわずかに離れたところで、水谷紗夜は空中移動をしながら前に一回転をした。無意味に見える行動だが、彼女の頭が下を向いたとき、進行方向に青い半透明の壁が現れた。水谷紗夜は水泳のクイックターンの要領でその結界を蹴りつけ、勢いをつけて方向転換をすることに成功した。

 豪速で空中を翔けながら、彼女は大斧を体の右側に構え、全力で前に押し出す。水谷紗夜の大斧が横一文字に深い切れ込みを入れていく。刃が通ったところから黒い霧が噴き出し、撒き散らされた穢れは霧散して跡形もなく消えていった。

 斧が悪霊から抜けると、水谷紗夜は右から左へと斧を振りながら方向転換を始めた。彼女の体は勢いに乗ったまま悪霊から離れていく。そして、半回転した直後、水谷紗夜の背後に再び結界の壁が出現。彼女はその結界を後ろ向きのまま両足で蹴り、勢いを利用して悪霊の中央部まで戻っていった。

 空中移動中に大斧を霊力に戻して体内へ吸収した水谷紗夜は、悪霊の前面中央部で空中停止し、間髪入れずに両足で蹴りつけて飛び、悪霊から距離を取った。

 悪霊から二十メートル先、そこには三つ目の結界の壁があった。柳田秀が自分の行動を予測して最小限のサポートをしてくれていることに、水谷紗夜は笑みをこぼす。空中を進みながら前回転をして結界を蹴り、方向転換後に勢いをつける。

 水谷紗夜は悪霊に向けて突進していく。

 彼女の目標地点は、縦の切れ込みと横の切れ込みが交わっているところ。そこを狙って、水谷紗夜は身をかがめて右肩を前に突き出した。

 水谷紗夜は、切れ込みの交差点に激突した。自身の体を砲弾のように扱った彼女は、悪霊の体に穴を開け、その中を銃弾のように突き進んでいく。

 悪霊の体から抵抗を受け、水谷紗夜の体が止まる。彼女は反転し、悪霊にできた穴から脱出しようと試みる。悪霊の中は黒一色だったが、出口のほうから月の光が差し込んでくるので進むべき方向はすぐに掴めた。

 水谷紗夜は悪霊の体内で走り、出口へと到達した。

 視線の先には、悪霊の穴に向けて両手を構えている柳田秀の姿がある。水谷紗夜は飛び降りるかのように悪霊の体内から抜け出した。

 それとほぼ同時に柳田秀がバレーボール大の青い光弾を発射。柳田秀のコントロールによってそれは軌道を変えていき、水谷紗夜が空けた穴から悪霊の体内へと侵入していった。

 水谷紗夜は不敵な笑みを浮かべた。

 柳田秀の霊力が核近くで爆発を起こせば、悪霊の霊力は充分に削り落とせる。そのあとは彼が浄化の霊力を放つだけ。

 一時はどうなることかと思ったが、柳田秀の霊力節約のおかげで被害もなく任務を成功させられる。

 そう考えた水谷紗夜だったが、現実は非情だった。

 悪霊の体内で光弾が爆発を起こす。いたるところから黒い霧が噴き出し、悪霊の姿が揺らぐ。しかし、触手の動きがほとんど鈍っていなかった。戦闘開始から攻撃する機会を与えられなかったそれらが、本領を発揮しようとうごめいている。

「威力が足りなかったの!?」

 水谷紗夜は目を見開いて悪霊を見上げる。間髪入れずに臨戦態勢をとる。

 が、突然足場が崩れた。

「っ!?」

 青い霊力が霧散していく。対応しきれず、重力に身を任せることになった水谷紗夜は、反射的に後ろに体をひねった。

「秀ちゃん!」

 彼女は叫んだ。

 結界の足場が崩壊したのは間違いなく柳田秀の衰弱によるものだ。残りの力を振り絞った攻撃で悪霊の核を破壊しきれなかった。これではもう、浄化は絶望的だ。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 今はパートナーを助けることが先決だ。

 水谷紗夜は柳田秀のもとまで飛んで行った。距離はそれほど遠くなかったので、地面から三メートル以上の所で抱き留めることができた。

 柳田秀は水谷紗夜の腕の中で荒々しい呼吸を繰り返していた。額には汗が浮かび上がり、両目は閉じて眉間にしわが寄っている。

 まだ意識はあるようだったが、限界が近い。

 浄化だけならできないこともなさそうだったが、悪霊の霊力を削るのは難しい状態だ。せめてこの場にもう一人いてくれればと思ったが、そんなことは期待できそうもない。

 やむを得ない。

 水谷紗夜は、退却して柳田秀の回復を待つことを選んだ。

 しかし、悪霊がそれを許してくれるはずもなかった。

 彼女が空中で後ろに振り向くと、人とほぼ同じ太さの触手が二人に向かって突き出されているのが見えた。

「しまった!」

 水谷紗夜は退却の判断が遅れたことを悔いる。

 だが、後悔しても意味はない。ここでできることをやらなければ、戦況はさらに悪化してしまう。

 水谷紗夜は左の手刀で内から外へ触手を薙ぎ払った。

 悪霊の触手は、その軌道を大きくずらされ、あらぬ方向へと動いていく。

 ひとまずの防御はできたが、その反動で水谷紗夜は大きくバランスを崩してしまう。柳田秀を抱えた状態で、かつ自身の疲労が溜まっていたのだ。体の制御がききづらくなり、退却に移ることができない。

 そこに、別の触手が襲い掛かってくる。

 回避が間に合わない!

 水谷紗夜は柳田秀を抱えたまま、触手に背中を向けて彼をかばった。

 歯を食いしばる水谷紗夜。体の自由がほとんど奪われたなかで、柳田秀を守ることが彼女に残された唯一の選択肢だった。

 触手によるダメージは避けられない。

 攻撃を受けた後に隙を見て逃げることくらいしか、水谷紗夜には考えつかなかった。多少の怪我は覚悟の上だった。

 しかし、触手による衝撃はいくら経っても彼女を襲ってはこなかった。

 代わりに、彼女の背後を何かが猛スピードで通り過ぎていった。水谷紗夜が不審に思って後ろを見ると、彼女に激突するはずだった触手の先が切り落とされて霧散し、残された部分はその場で暴れるかのように振り回されていた。

「え?」

 水谷紗夜は驚きを隠せなかった。

 また別の触手が柳田秀と水谷紗夜に向けられる。水谷紗夜は回避行動に移ろうとするが、彼女の前に何者かが現れ、触手の先端を切り落とした。

 水谷紗夜の目の前には、一人の少女がいた。少女は柳田秀と水谷紗夜に背を向けて悪霊と対峙し、二人を守るかのように空中で構えていた。

「間に合った」

 ひざ裏まで届く黒髪を揺らし、右手と左手には日本刀が一本ずつ握られている。膝を隠す長さのスカートを履いた、紺色のセーラー服の少女は、月の光を浴びながら澄み切った声で二人に言葉をかける。

 そしてその少女、月影香子は、後ろの水谷紗夜に顔を向けて柔らかな笑みを浮かべた。

「遅くなってすみませんでした、紗夜さん」





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