第五話 月影香子
「……今日はマジで疲れた」
山坂浩二は銅鏡川の河川敷を歩いていた。
夕日が反射し、水面はきらきらと輝いている。
彼はいつもよりも重く感じられる脚を懸命に動かして、一歩一歩前へと進んでいく。
彼の右側には建物が並んでおり、左側には桜の木が河川に沿って一列に並んでいる。
この銅鏡川の両岸には桜の木が植えられており、春になるとこの県で有数の桜の名所となる。
ただ、今は葉を一つたりともつけていないので、それらは人々にどこか寂しさを感じさせる。
もちろん、山坂浩二も例外ではない。
「はあー」
彼は大きなため息をついた。
「今日は本当にひどい目にあった。抵抗したあげく、結局殴られたし、気絶して授業に遅れるし、生徒指導の先生には三十分も説教されるし、相変わらず女子は俺から遠ざかるし、月影さんは意味がわからないし、『捨てチョコ』も貰えなかったし。ついてないなぁー」
と、彼は昨日と同じくして、なにやらぶつぶつと呟きながら歩いていく。
歩いていると、彼は自分の体がさらに重くなったと感じた。
「あ、もうこんな所か」
彼の目の前には、距離の短い急な坂道がある。
その坂道を上ると、すぐそばに『未来橋』が銅鏡川の上に架かっており、そこを過ぎるとすぐに急な下り坂がある。
山坂浩二は少し息をあげながらも、やっとのことで上り坂を制覇し、橋のそばを通り過ぎ、下り坂を歩いていく。
下り坂を歩き終えると、彼は後ろへ振り向いた。
赤い色をした未来橋が、夕日に照らされてオレンジ色を帯びているのが彼の目に映る。
彼の頭には昨日の出来事が鮮明に浮かんできていた。
月影香子との出会い。
そして、彼のたわいもない願い。
「出会い、か」
彼は呟く。
昨日、彼が願ったこと。
それは『空から女の子が落ちてくること』。
すなわち出会い。
「そうか、忘れてたけど、あのくだらない願いは叶ったんだ」
じゃあ、俺はどうするべきなんだろうか。
あの人に対してどう接するべきなんだろうか。
わからない。
女の子とまともに接したことのない自分に、わかるはずもない。
それに、俺は女の子が怖い。
自分の存在が否定されそうで。自分が傷つきそうで。相手を傷つけそうで。
だから、あの人のことも怖い。
だからといって、自分に対して積極的に接してくる月影さんを、邪険にするわけにもいかない。
……どうすればいいんだろう。
彼は未来橋を見つめながら考えた。
だが、やがて彼は首を横に振り、
「だめだ。考えても仕方ない。とりあえず早く帰ろう」
と言って歩き出した。
「そうだ、買い物しに行かないと」
彼は思い出したように呟き、歩くスピードを上げた。
彼は彼自身の家へと歩いていく。
ただ、疲労のせいか、彼は走ることができず、また、速く歩いているつもりであっても結局はいつもと同じ速さであった。
三分ほど歩くと、山坂浩二は河川敷の広場の隣を通る道路に着いた。
広場の道路側にはこれまた桜の木が並んでいる。
ただ、今はその枝のみを見せるだけである。
山坂浩二は一度立ち止まって、その広場を横目で見る。
そして、再び歩き出した。
いつも一人で暮らしている場所へ。
彼が十歩ほど進んだとき、彼の耳に女の人のもののような声が聞こえた。
わりと大きな声が、
後ろから。
山坂浩二の名を呼んだようにも聞こえたが、彼は振り返ることなく歩いていく。
(そうだ。月影さんは『空から』は落ちてないから、あの願いは完全には叶ってないんだ)
もう一度、彼の後ろから声のようなものが聞こえてくる。
しかし、山坂浩二はそれを無視して歩んでいく。
(まっ、いいか。とりあえず『出会い』はあったんだし。でも、変な人だよな)
もう一度声が聞こえるが、山坂浩二は無視する。
(俺と十年前に『退魔師』やってたなんて言うし、身体能力は高すぎるし、第一俺に近寄るなんてね)
彼は歩いていく。
もう一度、声が聞こえる。
山坂浩二は、その声が自分の名前を呼んでいるかのように聞こえた。
彼は立ち止まる。
「浩二!」
今度ははっきりと聞こえた。
自分の名前を呼ぶ、
女性の声が。
彼は後ろへ振り向いた。
そこには、小さな箱のようなものを胸に抱えて走ってくる人の姿があった。
長い髪をポニーテールに留めている、紺色のセーラー服姿の女の子。
(あれ? あの人ってもしかして……月影さん?)
山坂浩二はその女の子をじっと見る。
やがて、はっきりとその姿が見えるようになった。
(あ! やっぱり月影さんだ。いったい何の用なんだ?)
彼はそこから一歩も動かない。
そしてその女の子、月影香子は山坂浩二に追いついた。
息は少しもあげていない。
「ど、どうしたんですか。月影さん」
山坂浩二は一歩身を引く。
月影香子は胸に抱いていたものを胸から離し、それを持つ両手をへその位置まで下げた。
山坂浩二は彼女が抱えているものをじっと見た。
彼が箱だと思っていたそれは、紙でできた袋だった。
黄色と白のチェック模様で、口は赤いリボンでくくられ閉じられている。
「ごめんね、浩二。遅くなっちゃって」
月影香子は柔らかな微笑みを浮かべて言った。
ほんの少し、頬が朱く染まっている。
「えっ? 遅くなったって、なにがですか?」
山坂浩二はまぶたを何度も開けたり開いたりしながら尋ねた。
月影香子は少し体を揺らしながら答えた。
「……バレンタインデー」
「えっ?」
「だから、バレンタインデーよ。昨日は二月一四日だったじゃない」
「えっ、バッ、バレンタインデー!?」
山坂浩二は大声を上げる。
「なに驚いてんのよ」
「えっ、だって……」
山坂浩二は戸惑った。
『バレンタインデー』は自分とは無関係なものとばかり思っていたのだから。
「はい、これ」
月影香子はそう言って、小さな紙袋を両手で彼の胸の前に差し出す。
山坂浩二は驚きのあまり声が出せない。
「昨日、浩二の家から帰った後に作ったの。今日学校で渡そうと思ってたけど、あんなことがあったて無理だったから」
彼女は一呼吸置いて、
「ストーカーみたいになっちゃったけど、受け取ってくれるかな?」
微笑む。
「……あ、あ?」
山坂浩二はしばらく目を見開いて固まっていた。
(う、嘘だろ。俺が、貰うなんて……どうしよう)
彼は差し出された紙袋を凝視していたが、やがて両手を伸ばして紙袋に触れる。
「あ、ありがとうございます」
月影香子の手から紙袋が離れる。
彼女は伸ばしていた両手を引いて、背中の後ろで組んだ。
「あまり上手くできなかったけど、全部食べてね」
夕日に照らされた彼女は満面の笑みを浮かべる。
とても幸せそうに。
「……あ、はい」
山坂浩二は紙袋を持った両手を伸ばしたまま立っていた。
「じゃあ、今日はすることあるから、もう帰るね」
彼女はそう言うと、顔の横で右手を振って、
「またね、浩二」
と言うと、山坂浩二に背中を向けて走り出した。
とても、速かった。
すぐに彼女の姿は見えなくなった。
山坂浩二は彼女の姿が見えなくなるまで両手を胸の前で伸ばしたままだった。
そして、彼は紙袋を左手に持って体の横に両手を戻す。
彼は月影香子の走っていった道を眺めながら、昔のことを思い出し始めた。
記憶にある時点では、彼がバレンタインデーを初めて経験したのは七歳のときだった。
もちろん、チョコレートを貰えるはずもなく、その日は過ぎていった。
その次の年も貰うことなく二月一四日は過ぎていった。
彼は、日頃女性から遠ざけられている自分が、チョコレートを貰うことなど無いとわかっていた。
わかってはいた。
わかってはいたのに。
その日は心に穴が空いたようなむなしい気持ちがした。
それが毎年、毎年。
そして、今年もそんな気持ちになって帰り道を歩いていた。
バレンタインデーは今年も『暗黒の日』のまま過ぎ去って行くはずだったのに。
今、彼の手には小さな紙袋が握られている。
女の子からの初めてのプレゼント。
自分の手に決して渡るはずのなかったもの。
彼は嬉しかった。
とても嬉しかった。
涙が出るくらい嬉しかった。
彼は立ち止まったまま、月影香子が走っていった道を見つめ続ける。
「ありがとう、月影さん」
そう言うと、彼は後ろを向いて歩き出した。
自分が暮らす家へと。
紙袋を握り締めたまま。
今日は二月一五日。
一四日に贈り物を貰えなかった男性たちが、「昨日は渡し損ねただけで、今日こそは貰えるかもしれない」と淡い期待を持ってしまう日。
その日の贈り物は、この地域では余り物の意味を込めて『捨てチョコ』と呼ばれる。
また、『捨てチョコ』を渡されることなど滅多にない。
それでも、希望を持ってしまう。
だから、貰えたら嬉しいのだ。
女性に縁のない男性にとっては。
それが例え『義理』でも『いたずら』でも、
『贈る』という行為自体が最も大切なのだから。
山坂浩二は家に着くと、鞄を床に降ろし、紙袋をコタツの上に置いた後、冷蔵庫と財布の中身を確かめた。
そして、何を買うべきかを小さな紙にメモをとりながら決めていく。
メモを書き終えると、彼はデパートなどで使われる大きな紙袋を二つ持って脱衣所に入った。洗濯物カゴに入っている衣類を紙袋に入れていく。
もちろん一つ一つ丁寧に畳んでから。
全て入れ終えると、紙袋は二つとも少し膨らんでいた。
彼は紙袋を両手に持って脱衣所から出ると、メモを制服のズボンのポケットに入れ、電気を消して家から出ていった。
ドアの鍵を閉め、歩き出す。
アパートの階段を下りて、河川敷広場の前の道路に出ると、辺りはすでに暗くなっていた。
街灯には明かりが灯り、月と数多くの星が夜空で輝いている。
山坂浩二はほとんど欠けていない月を見つめる。
まだ満月ではない。
「確か、今月は一八日が満月だよな。また、『あれ』が見えるのか。見たくもないのに」
彼は立ち止まったまま、夜空を見上げて呟く。
「まあ、見えるだけだからいいか。べつに襲われるわけでもないし」
山坂浩二はそう言うと、夜空を見上げるのを止め、河川敷を歩き出した。
いつも学校へ行くときに使っている道を歩きながら、彼は満月の夜のことについて思い出していた。
彼が、初めて霊を見たのは、小学一年の夏のことだった。
その夜、山坂浩二は育ての親から、
「今日は満月だから、外に出て見てきたら? とてもきれいよ」
と言われ、一度は「別にいい」と断ったが、何度も薦められ、仕方なく外へと出て行った。
「まあ、あんなに言うんだからすごいきれいなんだろうな」とか、「蚊に刺される」といった考えしか彼の頭にはなかった。
だか、外に出た途端、彼は悲鳴をあげた。
その悲鳴を聞いて、彼の育ての親はすぐさま家の外へ駆け込んだ。
彼女の目には、玄関先で尻餅をついて空を指差しながら震えている山坂浩二の姿が映った。
「浩二君!? なにがあったの!」
彼女は山坂浩二のもとへ駆け寄った。
ただ、彼女も山坂浩二には触れようとはしない。
彼女が見た山坂浩二の顔は、目は見開いて、口は大きく開かれたまま顎が震えていた。
「あ、……あ、……あれ、……なんなの? ……なに……あれ」
山坂浩二は震える声で必死に訴えていた。
彼女は不審に思って、山坂浩二が指差す方向を見上げた。
そこには夜空に浮かぶ満月。
何もおかしなところはない。
「え? お月様以外なにもないじゃない。なにをそんなに怖がってんのよ。きれいじゃない」
彼女は山坂浩二に向けて優しく言った。
だが、山坂浩二の怯えは止まらない。
(違うんだよ、ちがうんだよ、おばさん!)
彼は目を見開いたまま、
(月はきれいだよ! 確かにきれいだ! でも!)
口を大きく開いて、
(そうじゃないんだよ!)
ガタガタ震えながら、
(あれは……)
心の中で叫んだ。
声に出せない。
(なんなの!?)
彼が指差していたのは満月ではなく、
ヒトや蛇や深海魚のような姿をした、夜空に漂う異形のものだった。
彼はしばらく震えた後、気を失って倒れた。
その次の日の夜、彼は恐る恐る外に出てみたが、昨日見たようなものは見当たらなかった。
その次の夜も、その次の夜も、
結果は同じだった。
しかし、次の満月の夜にはそれらの姿が見えた。
だが、次の日からはまた見えなくなった。
その次の満月の夜も異形のものたちの姿が目に映った。
それでも、次の日からは見えなくなった。
そうしたことを何度も繰り返すうちに、彼はようやく確信した。
自分は満月の夜だけ霊が見えるのだと。
それからずっと、彼は満月の夜を怯えながら過ごしてきた。
山坂浩二は回想しながら歩き、やがて小さなコインランドリーの店にたどり着いた。
彼は店の中に入り、奥に置かれているやや大きめの洗濯機へと脚を進める。
目的の洗濯機まで着くと、彼はそのとびらを開け、紙袋から衣類を取り出して中に入れた。
そして、とびらを閉め、とびら横の硬貨入れに百円玉を数枚入れ、洗濯開始のスイッチを押した。
スイッチ上のモニターに時間が表示される。
「あと一時間ぐらいか。スーパー行って帰ってきたらちょうどそれくらいの時間だな」
彼はそう呟くと、運転を開始した洗濯機に背中を向け、店から出て行った。
二十分ほど歩くと、彼は駅前のスーパーマーケットに着いた。
この店は、彼が住む地域では商品の価格が最も安く、品揃えも良いことで有名である。
そのため、学生からお年寄りまで、幅広い年代層に支持されている。
山坂浩二もまた、その一人である。
彼は店に入ると、買い物カゴを手に取った。
一階建てで、店内はあまり広くないので、山坂浩二にとってカートを使う必要はない。
彼はズボンのポケットからメモを取り出し、それを見ながら店内を歩き、商品をカゴへ入れていく。
カゴの中には、肉類や野菜、果物、缶詰などが入っている。
店内を歩いていると、彼はパンコーナーに見覚えのある人物の姿を見つけた。
セーラー服に腰まで届くポニーテール。
(あれ? 月影さん?)
彼はそう思うと、その人物に近づき、
「月影さん、何してるんですか?」
と尋ねた。
すると、その人物、月影香子は山坂浩二に顔を向けた。
彼女の顔が驚きに変わる。
「えっ、わっ、わっ、こ、浩二!? いきなりなによ、驚かさないでよ!」
彼女は山坂浩二から一歩距離を置いた。
「いや、そんな、驚かすつもりなんて……」
山坂浩二はほんの少し苦笑いをして言った。
彼が月影香子の顔をじっと見つめると、彼女の顔は段々と赤くなっていった。
「な、なによ」
「い、いや、月影さんもこの店に来ているんだなと思いまして……」
山坂浩二はカゴを持っていない右手で、自分の後頭部を掻いた。
すると、月影香子は少し不機嫌そうに口を尖らせた。
「なによ、来ちゃいけないの?」
「いや、そんなことはありませんよ。むしろ大歓迎です」
「そう?」
「そうです」
「「…………」」
二人の間に沈黙が訪れる。
(なんか、気まずいな……)
山坂浩二はパンコーナーに並べられている菓子パンに目を向ける。
すると、月影香子は呆れたように一度大きなため息をついて、
「まあ、いいわ。あたしはもう買う物無いから。浩二はまだ買い物するの?」
と尋ねた。
「いえ、もう必要なものは全部カゴに入れましたから」
山坂浩二は自分が持っている買い物カゴに目線を向けて答えた。
「ふうん。じゃ、一緒に帰ろっか」
「あ、はい。………………えっ!?」
「なに?」
「……な、なんでもないです」
山坂浩二は目線を月影香子に向けた後、首を左右にブンブンと振った。
「じゃ、レジ行くわよ。浩二!」
「は、はい!」
山坂浩二は背筋を伸ばして言った。
「……ったく、なにやってんだか」
月影香子は小さくため息をつき、山坂浩二に背中を向けて歩き出した。
彼女が五歩ほど進んだところで、山坂浩二も遅れて歩き出す。
彼は月影香子の後ろ姿を眺めながら歩く。
彼女の身体は起伏には乏しい。
だが、平均よりも高い身長や、
動きのしなやかさ、
腰まで届く、さらさらの髪など、
世の男性を魅了する要素は十分にあった。
もちろん、山坂浩二とて例外ではない。
正直に言えば、
(……けっこう、好みのタイプかも)
である。
彼は五メートルほど距離を置いて歩いている。
彼は月影香子の後ろ姿を眺めた後、彼女が左手に持っている買い物カゴに目を向けた。
(月影さんは何を買ったんだろう?)
彼はその買い物カゴをじっと見つめる。
肉のパック。
生活雑貨。
お菓子。
野菜。
そして、
(………………ハチミツと大量の食パン?)
山坂浩二は目を疑った。
食パンとハチミツ自体は問題ない。
ただ、その量が問題なのである。
(食パンがカゴの半分を占領してるってどういうこと!? 明らかに買い物の比率がおかしいから!)
彼は心の中で叫んだ。
ただ、声に出してツッコミを入れることはなかった。
なんか、
怖かったから!
山坂浩二は疑問を抱いたまま月影香子の後ろをついて歩いていると、やがてレジに着いた。
十つほどレジが並んでいる。
月影香子は手前から五つ目のレジに列んだ。
順番待ちの客が最も少なかったからである。
山坂浩二もその後ろに列ぼうとしたが、レジ係の店員が女性だとわかると、列ぶのをやめ、レジ係の店員を一通り見渡した後、男性の店員がいるレジへと歩いていった。
彼はレジに列ぶときも、なるべく男性の店員がいる所へ行くようにしている。
初対面の女性も彼からは距離を置くからである。
当然のことながら、山坂浩二はそれを快く思っていない。
店員についても同様であろう。
ただ、女性の店員しかいないときは、仕方なくレジを選ばずに列ぶ。
店員の顔が、不快そうに見えるのを我慢しながらだ。
これも、彼の日常である。
山坂浩二がレジ袋を持ってスーパーマーケットから出ると、出口にはレジ袋を片手からぶら下げ、もう片方の手を腰に当てて立っている月影香子がいた。
彼女は目を細めて山坂浩二を睨むように見る。
「…………遅い」
彼女は普段よりも低い声で言った。
「す、すいません!」
山坂浩二は腰を曲げて頭を深々と下げた。
「いいって、もう。恥ずかしいから」
月影香子はそう言うと山坂浩二に背を向けた。
そして、首だけを動かして後ろにいる彼を見る。
「ほら、さっさと帰るわよ」
「は、はい」
山坂浩二は頭を上げ、腰を伸ばし、彼女のもとへと歩き出した。
店内から漏れる人工の光が二人を照らしている。
山坂浩二は月影香子の一メートルほど後ろに来ると、そこで立ち止まった。
月影香子の顔にシワがよる。
「なにやってるのよ」
「……はい?」
「なんで後ろに立つのよ」
「えっ?」
月影香子はレジ袋を持っていない手で頭を激しく掻き、
「ああ、もう、イライラする!」
と言って、空いているほうの手で山坂浩二の腕を掴み、
「隣にきなさいよ!」
と叫び、彼を自分の隣へ引き寄せた。
そしてそのまま歩き出す。
「…………ったく、女の子にこういうことさせないでよ」
彼女は非常に小さな声で呟いた。
山坂浩二には聞こえていない。
彼はキョトンとした表情のままなんの反応も示さなかったが、十メートルほど歩いたところで、
「……わっ、わ!?」
ようやく事態が飲み込めたようだ。
「っ!?」
月影香子は山坂浩二の突然の発声に驚き、その弾みで彼の腕から手を離してしまった。
「なっ、なによ! いきなり!」
月影香子は山坂浩二と向き合って叫んだ。
「びっくりするじゃない!」
「……すいません」
月影香子は山坂浩二を睨みつける。
山坂浩二は彼女から目をそらす。
しばらく二人はそのままでいたが、月影香子はこの状況に耐え切れなくなり、両目を閉じて両肩を上下に大きく動かしながらため息をついた。
「まぁ、いいわ。早く帰ろう」
彼女はそう言うと再び帰り道を歩き始めた。
山坂浩二は黙って彼女の横に並んで家路についた。
歩くにつれて、スーパーマーケットから漏れてくる光の量も少なくなっていく。
彼らを照らすのは街灯の明かりと、夜空に浮かぶ星と月だけになっていった。
二十分ほど歩くと、山坂浩二行きつけのコインランドリーの店が接している道路に入った。
この道に入るまで、彼らの間には一言の会話もなかったが、
「すいません、ちょっと寄るところあるんで」
と山坂浩二が片手で手刀をつくり、それを顔の前で立てながら言葉を発した。
月影香子は、はっとしたように目線だけを左側にいる山坂浩二に向ける。
「ん? いいわよ、べつに。でも、早くしてよ」
「ありがとうございます」
彼はそう言うと、月影香子を置いて走り出し、五十メートル先のコインランドリーに入っていった。
彼女は山坂浩二の姿が店の中に消えるのを見届けた後、彼女はため息をついた。
「まったく、記憶を失っているとはいえ、いつまで敬語を使うつもりなのかしら」
そう呟くと、彼女はゆっくりと歩き出した。
山坂浩二はコインランドリーの店に入ると、奥にある洗濯機まで歩いた。
彼が利用したその洗濯機はすでに仕事を終え、彼が来るのを静かに待っていた。
「お疲れ様。いつもありがとな」
山坂浩二は洗濯機に向けて言うと、そのトビラを開けた。
大量の衣類が水と洗剤で洗われ、脱水されていた。
彼は洗濯機の中からそれらを取り出して抱え込み、店内の中央に置かれている四角テーブル形の腰掛けの上に置いた。
そして、彼はそれらを一つ一つシワを延ばしては丁寧に畳んでいく。
全て畳み終えると、彼は制服のポケットから、それに詰め込んでいた二つの紙袋を取り出し、衣類を入れていった。
全て入れ終わると、紙袋は一時間前と同じように膨らんでいた。
しかし、異なる点が一つ。
紙袋が濡れてしまっていた。
原因は洗濯済みの衣類。
脱水されているとはいえ、まだかなりの水分を含んでいる。
「しまった。なんで紙袋にしてしまったんだろう」
山坂浩二はため息混じりに呟いた。
「いつもはレジ袋なのに」
彼は二つの紙袋を左手に持ち、レジ袋を右手にぶら下げ、店の出口へと歩き出した。
(まあ、無理もないか。非日常がたて続けに起こったんだから、疲れてるんだろうな)
帰ったら、やるべきことはやってさっさと寝よう。
彼はそう思いながら店の敷居をまたいだ。
店の外では、月影香子が店のドア横の壁にもたれ掛かって立っていた。
彼女は顔だけ山坂浩二に向け、
「あ、浩二」
ほんの少し笑みを浮かべて、
「終わった?」
と尋ねた。
山坂浩二は彼女を見ずに正面を向いたまま、
「あ、はい、終わりました」
と答えた。
すると、月影香子は背中を壁から離し、山坂浩二の前まで歩いた。
また、顔だけを彼に向ける。
「帰ろっか」
彼女は何気ない顔で尋ねた。
「そうですね」
山坂浩二の返事とともに彼らは歩き出した。
銅鏡川沿いの道路まで来ると、人通りがほとんどなく、車が一台通ることのできる道にも車は一台も走ってはいなかった。
やはり二人は無言のままだったが、未来橋が見える所まで来ると、月影香子が口を開いた。
「あっ。あたし、あの橋渡るから」
彼女は未来橋を指差す。
「あ、そうなんですか」
山坂浩二は強弱の無い声で言い、
「じゃあ、そろそろお別れですね」
となんとなく寂しさを感じさせる声で言った。
「まあね。でも、明日も会えるじゃない」
「それもそうですね」
「どうしたの。なんか元気ないわよ」
「そうですか」
「そうよ」
「…………緊張してるからでしょうかね」
「はあ? どこに緊張する要素があるのよ」
「女の子が僕の隣を歩いていることですかねぇ」
「と言ってもあたしよ、あたし」
「でも、昨日会ったばかりですよ?」
「いいや、本当は十年前に会ってるのよ。あんたが忘れてるだけ」
「本当ですか?」
「本当よ」
「「…………」」
二人の間に沈黙が訪れる。
山坂浩二と月影香子は無言のまま、並んで歩いていた。
そして、坂道に足を踏み入れた。
「あっ、もうこんなところまで来てたんだ」
「あ、本当ですね」
彼らは橋の近くにある坂道を上がっていく。
そして、未来橋までたどり着いた。
「じゃ、ここでお別れね」
月影香子はレジ袋を持っていない左手を腰に当てる。
「…………」
山坂浩二は彼女を見つめたまま立ち尽くしていた。
「あっ、満月の夜の約束覚えている?
「…………覚えてます」
「……場所決めてなかったね。どこにする? わたしはどこでもいいけど」
「……じゃあ、僕の家の前の広場で」
「おっけー。じゃ、集合時間は八時ね」
「……構いませんよ」
「うん。それと明日放課後、ジャージ返しに行くから」
「あ、はい」
「あと、チョコ食べてくれた?」
「あ、まだです。帰ってから食べます」
「そう。感想よろしくね」
「……はい」
「「………………」」
しばらくの間、二人の間に静寂が訪れた。
「それじゃあね、浩二」
月影香子は手を顔の横で小さく左右に振った後、山坂浩二に背を向けて歩き出した。
「それでは」
彼も自分の家へ歩き出した。
「浩二!」
彼はその声のした方向に目を向けると、そこでは月影香子が橋の上で山坂浩二に向けて腕を左右に大きく振っていた。
「おやすみ!」
彼女はそう叫ぶと橋の上を駆けていった。
「おやすみなさい、月影さん」
彼は彼女が見えなくなってから、彼女が走っていった方向を見つめながら言った。
そして、再び歩き出した。
山坂浩二は家に着くと、電気をつけ、荷物を一度床に降ろした。
洗濯物は狭い部屋の中に全て干し、食べ物は冷蔵庫や棚に入れた。
彼はスーパーで買ってきた三九八円の焼肉弁当をレジ袋から取り出し、こたつの上に置いた。
そして、カーペットの上に腰を下ろし、両足をこたつの中に突っ込んだ。
が、なぜかいつもの安らぎが訪れない。
いつもは温かく迎えてくれるのに。
冷えた足を暖めてくれるのに。
電源は入れたはずなのに。
「なぜだああああああああああああああああああああああああああ!」
山坂浩二は一人きりの部屋で叫んだ。
そして、彼はもしやと思い、こたつの上の亀裂をキッ、と睨んだ。
昨晩、月影香子が日本刀を刺したことによってできた傷。
彼は身体を乗り出して、その傷を上から覗き込んだ。
よく観察してみたものの、その傷はこたつの内部まではたどり着いていなかった。
この傷が原因ではない。
つまり、
偶然起きた故障。
「…………そ、そんな。なんで今壊れるんだよ。……ちくしょー」
彼は両手をこたつにつけたまま、うなだれる。
「……寒いじゃねぇかよ」
彼の嘆きが部屋で寂しく響く。
彼はしばらくそのままの体勢でいたが、やがて身体を震わせる。
「うぅ。やばい、寒い。なんとかしないと」
彼はそう呟くと、両手をこたつから離し、押し入れへと歩き、ふすまを開けた。
中をまじまじと眺めた後、そこから毛布と冬用の掛け布団を取り出し、両手で抱え込んだ。
そして、彼がいつも座っている場所へと運び、床に降ろして毛布を広げ、その上に掛け布団を広げた。
「これで、少しはマシにはなると思うけど」
彼は床に腰を降ろし、両足を布団に潜らせた。
暖かくない。
だが、それも始めのうちだけである。
時間が経つにつれ、段々と暖かくなっていく。
彼は布団を膨れ上がらせながら体をこたつへと近づけ、その上にある弁当のフタを開け、割り箸を袋から取り出して割った。
「……いただきます」
彼は顔の前で手を合わせた後、夕食を食べ始めた。
「……ごちそうさま」
山坂浩二は弁当を米粒一つ残さず食べた後、始めと同じように顔の前で手を合わせた。
彼はこたつの上に一つの小さな紙袋が置かれているのを見つけ、
「あっ、そうだ。月影さんからのチョコレートがあったんだ」
と思い出したように言うと、腕を伸ばしてその紙袋をつまみ、自分の体に近づけた。
リボンをほどいて袋を開けると、甘い香りが部屋いっぱいに広がる。
山坂浩二は袋の中を覗き込んだ。
そこにあったのは、球状にされた、柔らかそうなチョコレート。
いわゆる、『トリュフ』というやつである。
それが、十つほどビニールのフィルムに包まれて入っていた。
「うわ、うまそう〜」
彼は紙袋からそれを取り出し、紙袋を平らにしてこたつの上に広げ、その上にチョコレートを置いた。
「……でもこれ、夏だったら溶けて一つの巨大なチョコになってるよな」
彼は部屋の隅にあるテレビの黒い画面を見つめながら呟いた。
「まっ、どうでもいいか」
彼はそう言うと、球状チョコレートを包んでいたフィルムを剥がし、トリュフを一つつまんだ。
「見た目はいいけど……」
彼はトリュフをまじまじと眺める。
「……味はどうかな」
初めての女の子からのプレゼントに、彼は緊張のあまり警戒してしまっているようだ。
そして、彼は球状チョコを口の中に放り込む。
そして、噛む。
静寂。
「…………うまい」
彼は身体を震わせながらもう一度言う。
「うまい」
彼はすぐさまトリュフをもう一つつまみ、口に入れる。
それは、口の中に訪れたその瞬間から、彼の味覚を甘さで満たしていく。
そして、甘すぎない。
「うん、うまい」
彼はもう一つつまみ、口の中に入れる。
隠し味でもあるのだろうか、チョコレートの味しかしないのにまったく飽きなかった。
そして、もう一つ。
また、一つ。
そこで、山坂浩二は異変に気づく。
「あれ、このチョコ、塩味がする。……やだなぁ月影さん。失敗作を入れるなんて」
彼は口直しにもう一つ口の中に入れた。
また塩味。
「あれ? おかしい」
彼は頬杖をついた。
手が濡れる感覚。
そこで、彼は頬杖を止め、その手をじっと見つめた。
かすかに濡れている。
「あ、なるほど」
そこで彼は、
自分が泣いていることに、
初めて気がついた。
あまりにも嬉しすぎて。
月影香子が自分のために作ってくれたことが。
そしてなにより、
彼女の気持ちも考えずに、
彼女に冷たい態度をとる自分が、
情けなかったから。
「馬鹿だな、俺って」
鼻をすする音。
「絶対俺を馬鹿にしていると思ってたけど」
もう一度鼻をすする音。
「あれが冷やかしのように見えるのかよ」
見えない。
絶対に見えない。
月影香子の言動。
その全てが、
演技であるはずがない。
山坂浩二が近くにいると嬉しそうで、
顔を赤らめたり、
笑ったりして、
『退魔師』だなんて変なことを言っても、
本当はただの、
女の子。
それ以外に適当な言葉は見つからない。
「明日、謝らないと。それで、もう少し距離を縮めよう」
女の子が怖くても。
他の女の子が近寄らなくても。
彼女だけは、
好意的に接してくれるのだから。
それに、山坂浩二も彼女と接することに悪い気分ではなかった。
彼女と会話すること。
彼女の隣を歩くこと。
慣れないことだったが、楽しかった。
彼女が近くにいることが、心地良かった。
新鮮で、
どこか、懐かしくて。
「懐かしい、か……」
山坂浩二は呟く。
「変なこと言うなあ。俺も」
彼はため息をついた。
確かに、十年より前のことは頭では忘れている。
でも、
彼の心は、
それを覚えていてくれたのかもしれない。
「じゃあ、退魔師のことについてはどうなんだ」
彼の頭にこびりつく言葉。
『退魔師』。
それについては、満月の夜に確かめる以外に方法が無い。
「早く、満月になればいいのに」
彼は初めて『満月の夜』を待ち遠しく思った。
「はやく、なってくれ……」
この時、
彼は、
今まで味わったことのない気持ちが湧き上がるのを、
感じた。
ようやく、次の章から『退魔師』についての話に突入します。
この第五章で山坂浩二は『すでに月影香子とは十年前に出会っていた』ということを信じました。
月影香子は本当に退魔師なのか、山坂浩二も退魔師だったのか、今後の展開にご期待ください。
※お詫び
先日、『ムーン・ライト』とは全く関係の無い小説を続きとして投稿してしまいました。現在は削除済みですが、ご迷惑をおかけしました。今後、このようなことが無いように注意します。申し訳ございませんでした。