第二十四話 諦観③
彼はそのまま歩みを進め、中央階段に差し掛かった。一段ずつゆっくりと上がっていく。もう以前のように寒くはないので、ズボンのポケットに手を入れたりはしていない。
三十秒ほどかけて二階に上がった山坂浩二。
そこで彼は最も出会いたくなかった人物を目にしてしまう。
腰を通り過ぎる長さのポニーテール。その辺りの男子とほぼ同じ身長。背筋は伸び、堂々とした姿勢。全体的に細いが筋肉質な体つきで、非常に整った顔立ちをしている。さらに、長さの不揃いな前髪が彼女の凛々しさを際立たせている。また、ほとんどの女子生徒が校則すれすれの膝上五センチメートルまでスカートを上げているなか、彼女の紺色のスカートは膝を完全に隠している。
周りの生徒とは一線を画した雰囲気を醸し出す少女。
(きょ、香子!?)
山坂浩二の退魔師としてのパートナーである月影香子が、向かい側から歩いてきているのが見えたのだ。山坂浩二はそれにひどく動揺してしまう。
そして最悪なことに、
「あ、浩二」
と、月影香子が彼に気づいてこちらに駆け寄ってくるではないか!
(どうする! どうする? どうすりゃいい!?)
山坂浩二は平静を保てなくなる。それもそうだ。恋愛感情を抱き、毎晩のように妄想の中で汚している少女が近くに寄ってくるのだ。退魔師関連のこともあり、山坂浩二にとって月影香子は眩しすぎる存在。
全身から汗が滲み出してくる。
だが、山坂浩二は動揺を隠し通そうと努める。
「よ、よう」
そっけない返事のつもりで山坂浩二は声を返した。だが、ここでは周りの目がある。非常に気まずい。
「テストどうだった?」
山坂浩二から距離を置いていたときとは違う。今の月影香子は、山坂浩二が力を取り戻した頃と同じような調子で明るく話題を振った。
そんな月影香子に、山坂浩二は照れくさくなって目線を左上に逸らしてしまう。
「ま、まあ、そこそこかな?」
ついでに頭を無意識的に右手で掻いた。
「香子は?」
「ん? あたし? あたしはね、今回はいい感じよ。余裕で平均点は超えてる自信あるわ」
彼女は平坦な胸を張った後、穏やかな笑みを浮かべた。
「これも、浩二があたしの勉強を見てくれたおかげね。ありがとう。これで、残りの授業も全部出席すれば、あたしも浩二と友子と一緒に二年生になれるわね」
こいつは嫌味を言っているのか? 彼女の自慢も感謝も希望も素直に受け入れることができず、山坂浩二はそう思わざるを得なかった。
だが、思いを寄せている相手に冷たい言葉を浴びせることなど、山坂浩二にはできなかった。したくても自分自身が許してくれなかった。
「そ、そうか。そりゃ、よかったな」
反応に困った彼は、とりあえずそう口にして、
「もうすぐ予鈴鳴るから、俺は教室に戻るよ」
歩き出して、月影香子の左横を通り過ぎた。山坂浩二は彼女への恋心を隠すために顔をしかめていた。
(赤点すれすれだなんて、口が裂けても言えないよな……)
山坂浩二は月影香子への劣等感に苛まれていた。
そして、今さらのように実感したのだ。
彼女と自分とでは釣り合わない、と。
見た目も、頭脳も、戦闘能力も、何一つ月影香子には勝てない。確かに満月の夜ならば山坂浩二のほうが圧倒的に強大な霊力を持っている。それでも、山坂浩二には戦う意志など無く、月影香子は自分の使命を全うしようとしている。
力があってもそれを使おうともしない。そんな自分を山坂浩二は嫌悪していた。
こんな弱い自分は、強い月影香子の隣に居てはいけない。
たとえ、パートナーであったとしても。
山坂浩二は歯を食いしばり、歩みを進めた。残り少ない学園生活を、あと一週間しかない人生を普通の高校生として過ごすために、彼は一年五組の教室に向かっていく。
そのとき、山坂浩二の左手首が何者かに掴まれる。
「待って」
後ろから来た少女の透き通った声が、彼の耳を突く。
振りほどこうと思ったが、彼女の握力は予想以上に強く、彼の腕を離さなかった。周りの目もあるので無視することもできず、山坂浩二は精一杯に冷ややかな目をして、後ろに振り向いた。
「なに?」
低い声を出して、山坂浩二はその少女に氷のような視線を向ける。
その少女は月影香子だった。
彼女は山坂浩二の左手首を右手でしっかりと握りしめ、引き締まった表情で彼の双眸をまっすぐに見つめていた。
ほんのわずかな静寂の後、月影香子は口を開いた。
「あたしは諦めないから」
芯の強い声だった。その声は山坂浩二の鼓膜を震わせ、脳内に浸透していく。気高く、澄んだ瞳が、山坂浩二の視線を釘付けにする。
心臓の鼓動が激しくなる。
全身がしびれる。
強い信念を持った人間は、ここまで美しいのか。山坂浩二はそう感心しながらも、月影香子と関わってはいけないという自制心を働かせる。
「ふん、そうかよ」
彼は目一杯、無関心を装い、左手首を掴んでいる手の指先の間に向けて力を入れ、そのまま抜くように月影香子の左手を振りほどいた。
「あっ」
月影香子は呆気にとられた表情になる。
山坂浩二は彼女の顔を一瞥すると、かつての戦友に背中を向けて無言で歩き始めた。彼は浮かない表情で教室へと向かっていく。
表情を引き締め直した月影香子は、頼りない山坂浩二の背中を睨んだ後、そっと目を閉じて踵を返し、彼とは反対方向へと歩いていった。
教室の前にたどり着いた山坂浩二は、月影香子の居た方向に目を向けることなく、扉に手をかけて横に滑らせた。
彼が教室内中央の永山の席に目を向けると、そこには少し前まで一緒に昼食をとっていた永山と村田だけではなく、学食から帰って来たであろうヘンタイ六人衆の姿もあった。彼らは山坂浩二の帰還に気づき、八人がほぼ同時に山坂浩二へと顔を向ける。
「おう、山坂おかえりー」
村田が右手を左右に振りながら気楽そうな調子で声をかける。
山坂浩二は八人のもとへ歩き出した。
彼が歩いている最中に、永山が問いかける。
「いったい何の話だったんだ? ってか、柳川さんは?」
八人のそばに歩み寄った山坂浩二は、あきれたようにため息をついた。
「別に。ただ、テストの点が急激に下がったから、もっと勉強しろって言われただけだよ。二人同時じゃなくて別々に話してたから、柳川さんはまだ中林と話してんじゃないの?」
「なんだ、そんなことか。つまんねーな」
山坂浩二の言葉を聞いて、村田は笑う。
「でも、一学期の山坂なら赤点すれすれでも不思議じゃないけど、今の山坂がテストの点が悪いなんてねえ」
永山は山坂浩二を眺めながらにやにやする。
「仕方ねえだろ。あんときは風邪引いてて気分悪かったんだから」
山坂浩二がそれらしい言い訳をした直後、昼休み終了五分前を知らせる予鈴が鳴った。音色は授業の始まりと終わりのチャイムと同じだ。
「じゃ、俺は席に戻るよ」
予鈴が鳴り終わると、山坂浩二は永山と村田にそう伝えて窓際の席に向かった。列の真ん中にある席に着くと、山坂浩二は背もたれにもたれながら空を見上げた。
彼の気持ちとは裏腹に、空は青く澄んでいた。
「……確かに、つまんないよね」
山坂浩二は中林正之との面談を思い出し、呟いた。
そのとき、教室の後ろの扉が開かれた。昼休み終了前の喧騒の中、かすかに聞こえてきた扉の開閉音に山坂浩二は気づき、なんとなくそちらに目を向けてみた。
入ってきたのは柳川友子だった。
彼女は以前のように明るい表情を繕っていたが、誰とも話すことなく自身の席に向かっている。山坂浩二の隣を素通りし、柳川友子は彼の一つ前の席についた。
このまま授業の開始を待っていてもよかったのだが、山坂浩二は柳川友子と中林正之の面談の内容について気になったので、思い切って彼女に話しかけてみることにした。
「あの、や、柳川さん?」
彼は他の生徒の声にかき消されない程度の声量で柳川友子に話しかけた。
わずかな間を置いて、柳川友子が気だるそうに振り向く。
「なに?」
明らかに不機嫌そうな低い声を返される。暗く淀んだ瞳からは、敵意さえも感じられるような気がした。
山坂浩二は一瞬戸惑ったが、勢いに任せて尋ねる。
「中林先生には、その、なんて言われましたか?」
柳川友子は表情を変えない。
「ああ、そうだね。体調とか、そのあたりを心配されたよ。あとは、テストのことくらい」
「そうですか。僕とほとんど同じですね」
山坂浩二は場を和まそうとして薄く笑った。だが、彼の思惑とは反対に、柳川友子は眉間にしわを寄せて彼を睨み付ける。
「同じ?」
彼女は言葉を漏らすとすぐに表情を戻した。
見間違いかと思えるほど、彼女が険しい表情をしたのは一瞬だった。
「そうだね。ていうか、今は勉強とかどうでもいいじゃん」
柳川友子はそう言って、山坂浩二に背中を向けた。そして、後ろの山坂浩二には悟られないように歯ぎしりをする。
「アンタは、力があるくせに戦おうとしない。そんなアンタとアタシが同じ? そんなわけないじゃん。アタシはアンタみたいな軟弱者とは違う」
柳川友子はそう呟くと、机の横に掛けてあったバッグから教材を取り出し始めた。彼女の声は周りの音に呑まれて山坂浩二には聞こえなかった。
山坂浩二は柳川友子の後頭部を眺める。
(勉強とかどうでもいい、ね。確かにそうだけど、俺と柳川さんじゃ意味がまったく違うよね。俺は諦めていて、柳川さんは立ち向かう。そして、俺は諦めているから、柳川さんは俺のことを快く思っていない)
彼は自らの左手に目を向けた。
(香子も、やっぱり立ち向かうんだろうな。訓練してるのか、手首を掴まれたときに、霊力が少なくなってるのが感じ取れたし。まあ、どうせ戦ったところで負けて殺されるんだ。無駄だ無駄。それに、宗一とか、さくらとか、俺にはもう関係ないんだ)
山坂浩二は机に突っ伏す。
(くそ。香子があんなこと言うから変に意識してしまったじゃないか)
不意に月影香子の姿が頭に浮かび上がってくる。整った顔。艶やかな黒い長髪。白く滑らかな肌。そして、意志の強さを表した、あの二つ目。
山坂浩二は全身が火照ってきたことに気づく。雄としての欲望が湧き上がり、下半身が落ち着かない。
だが、ここは学校。欲望に忠実になるわけにはいかない。
(帰ったら抜くか……)
彼がそう思うと同時に、授業開始のチャイムが鳴り始めた。
そこで気づいたように、
「あ、準備してなかった」
と気の抜けた声を出して上半身を起こし、机のそばに置いてあったスポーツバッグから教材を慌てて取り出した。
教室内で談笑していた生徒や廊下から教室に急いで入ってくる生徒が席についていくなか、柳川友子は後ろの山坂浩二を一瞥し、鼻で笑った。
退屈な時間が、また始まった。
放課後、山坂浩二は帰宅すると、荷物を床に下ろし、制服のままカーペットの上に寝転んで仰向けになった。
担任の中林正之には勉強に励むとは言ったものの、やはりそのようなことをする気にはなれず、天井を眺めることしかできなかった。
あと一週間で死んでしまうとわかっているのに、こんなに落ち着いていられる自分が山坂浩二には不思議でならなかった。もっと破壊的な行動をしてもおかしくはないのに。
「いや、落ち着いているというか、ただ単に諦めているだけか」
そう。諦めてしまえば楽だった。
なら、いっそのこと今死んでしまえばいいんじゃないのか? 山坂浩二はそう考えることもあった。しかし、自ら死に踏み切ることはできなかった。
死が怖かった。
もう一度あの冷たさを経験するのが恐ろしかった。
そして、この世に未練があった。
山坂浩二は目を閉じる。自然と一人の少女が浮かんでくる。月影香子。山坂浩二に退魔師としての力を取り戻させる鍵となった少女。
溺れていた彼女を銅鏡川から助け出し、突拍子もない話を聞かされた後から交流を持ち、満月の夜に死に際で霊力を取り戻して彼女と共闘し、戦友となった。それからは二人で過ごすことが多くなり、一悶着あって他の退魔師とも仲間になった。学園生活、訓練、浄化任務と時間が経っていき、いつしか彼女に恋をしていた。
彼女の弱った顔。唖然とした顔。怒った顔。笑った顔。凛々しい顔。泣いた顔。そして、わずかに思い出した幼少期の記憶。山坂浩二はしだいに惹かれていった。
山坂宗一と月影さくらに惨敗し、立ち向かうことを恐れ、生きることを諦めた。それでも、月影香子の存在が、彼女を想うことが、それだけが山坂浩二にとって唯一の救いだった。できる限り、彼女のことを想い続けたい。
彼女の隣にいてはいけないということがわかっていても。
月影香子の存在が、山坂浩二を現世に繋ぎ止めていた。
山坂浩二はいつものように欲情する。目の前に彼女がいると想像して、うつ伏せになる。カーペットに口づけし、左手を円形に動かしてざらざらとした感触を楽しむ。彼女との行為をより明確に思い浮かべるため、右手を自らの下半身に移していく。
「香子、きょうこ」
体が火照ってくる。息が荒くなる。
想像の中だけでいい。彼女を汚す。そして自分を慰める。
こんな姿を彼女が見たら、きっと自分は嫌われるだろう。軽蔑されるだろう。でも、それでもいい。どうせ実際に肌を重ねることもできない。以前のような関係になることさえできない。この想いは死ぬまで守り切ってやる。
自分を保つために、山坂浩二はわずかな快楽にすがる。
どれだけ虚しい行為でも、残り少ない時間を過ごす活力にはなっているのだから。
「もう限界だ」
山坂浩二は右手をズボンに入れたまま立ち上がり、トイレへと駆け込んだ。誰がいるわけでもないのに扉の鍵を閉め、両手でベルトを外してズボンと下着を下ろす。
それから、彼は一時の悦びに浸った。
そして襲い掛かってくる虚無感。自分は何をやっているんだろう。そう考えながら山坂浩二は衣服を整えて部屋に戻った。
室内灯は点けていないので部屋は薄暗い。
山坂浩二はフローリングの部分で仰向けになり、気力を失った顔に右腕を置いた。
自ら進んで死にたくはない。
だからといって、戦うのも怖い。
なので、諦める。
圭市を守るために戦いたいという気持ちも心のどこかにはある。
でも、莫大な霊力が暴走するのが怖いから、戦いたくない気持ちもある。
どうすればいいかわからない。
わからないから苦しい。
苦しいのは嫌だ。
だから、悩みたくないから、諦める。
あともう少しで世界が終わる。
そう考えれば楽だから。
山坂浩二は感情を押し殺したつもりになって、天井を眺め続けた。
山坂宗一と月影さくらの襲撃まで、あと六日。
第四章第五節はこれで終了です。