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ムーン・ライト  作者: 武池 柾斗
第四章 悪霊使い編
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第二十三話 諦観②

 少し歩くと、職員室の扉の前にたどり着いた。

 山坂浩二は緊張をほぐそうとして深呼吸を行い、柳川友子は自らの両頬を両手で二回同時に軽く叩いて引き締まった表情を作る。

 扉からは中の様子はわからない。山坂浩二は右手を汗で湿らせながら拳を作り、扉を二回ノックした。続いて扉を横に滑らせる。

「失礼します。一年五組の山坂浩二です。クラス担任の中林先生に用があってきました」

 山坂浩二はその場で名乗り出る。無いに等しい気力を振り絞って出した声は大きく、はきはきとしたものだった。

 職員たちは入口の山坂浩二を一瞥するが、すぐにそれぞれの行動に戻っていく。

「同じく、一年五組の柳川友子です。クラス担任の中林先生はいらっしゃいますか?」

 山坂浩二に次いで柳川友子も名乗り出る。

 二人とも、先ほどまでとは違って模範的な生徒を演じることができていた。

「あ、はーい。こっちこっち」

 職員室の中から男性の低い声が二人に向けられる。

 山坂浩二はその声の方向に目を向けた。彼の視線の先には、左手を挙げて手招きをする中林の姿があった。

 中林正之は山坂浩二の所属する一年五組の担任で、担当教科は日本史。柔道部の顧問をしており、身長は百八十センチメートルを超える。筋肉質で坊主頭。外見は厳つい中年だが、中身は穏やかだ。

 山坂浩二と柳川友子は顔を見合わせる。

 行きましょう、という意味を込めて頷き、山坂浩二は中林正之の机へと向かった。柳川友子も彼に続く。

 目的地に着いた山坂浩二は、少し緊張しながら、

「あの、谷口先生に言われて来たんですけど、僕と柳川さんに何かご用ですか?」

 と、中林正之の鼻を見て尋ねた。

 控えめな声の山坂浩二に、中林正之は明るく、軽い調子で答える。

「あー、うん、急に呼び出して悪かったな。実は、そのことなんだけど。山坂、柳川、お前ら二人と話したいことがあるんだ」

「話したいことって、何ですか?」

 柳川友子は、以前の明るい柳川友子を装いながら、そう訊いた。

「ここじゃちょっと山坂と柳川に悪いから、隣の生徒指導室に行こう」

 中林正之は二人から目を逸らしてそう言い、立ち上がった。彼の目線が一気に高くなり、山坂浩二は不覚にも怯えてしまう。

「え?」

 中林正之の立派すぎる体格もあって、何か起こられるのではないか? という不安が膨らんでいく。

「そんなに身構えることじゃないから、安心しろよ」

 そんな気持ちを見透かされていたのか、中林正之は山坂浩二を見下ろしながら優しく声をかけた。彼はそのまま職員室の出口に向けて歩き始める。

「は、はい」

 安心しろと言われても強張ってしまうものは仕方がない。山坂浩二は堅い声色で返事をして、中林正之の後ろを歩いた。

「ねえ、山坂。アタシたち大丈夫かな?」

 柳川友子が山坂浩二の隣に並びながら、前を歩く中林正之に聞えない声量でそう尋ねる。

「だ、大丈夫ですよ、たぶん」

 山坂浩二は明らかに動揺しながら答えた。

 その数秒後に中林正之は職員室の扉をスライドさせて廊下へと出ていった。山坂浩二は職員室を出る前、扉に背を向けて一礼をし、

「失礼しました」

 と声を張って踵を返し、職員室の敷居を越えていった。

「失礼しました」

 柳川友子も彼と同じように職員室を後にし、扉をゆっくりと閉めた。

 生徒指導室は職員室の隣にある。職員室の扉が閉められた時には、中林正之は生徒指導室の前に立って二人を待っていた。

 山坂浩二と柳川友子は同時に歩き出し、中林正之のそばに寄った。

 筋骨隆々のクラス担任は両手に腰を当てて山坂浩二と柳川友子に視線を交互に移しながら口を開く。

「それじゃあ、二人別々に話すから、まずは山坂から入ってくれ。なあに。五分もかからないよ」

「は、はい」

 気楽な調子で話しかける中林正之と、相変わらず不安を拭いきれない山坂浩二。まさか殴られはしないだろうな? と怯えてしまう。この男に殴られればひとたまりもない。

 緊張で息を呑む山坂浩二から目を離し、中林正之は柳川友子に目を向ける。

「柳川とは山坂の後に話すから、すまないけど、ここで待っていてくれるか?」

「はい、わかりました」

 柳川友子の声は依然として明るかった。

「じゃあ、山坂、入って」

 中林正之は進路指導室の扉をスライドさせ、中へと入っていった。

「し、失礼します」

 山坂浩二は彼に続いて進路指導室に足を踏み入れる。そして、体を反転させて扉に手をかけた。扉を閉めているとき、柳川友子の顔が彼の目に移った。陽気な仮面は無残にも剥がれ落ち、目から光が失せていた。

 無感情に、山坂浩二は扉を閉めきった。

 後ろを振り返る。生徒指導室は八畳ほどの広さで、長机が二つにホワイトボードが一つ、それにパイプ椅子が六つ。小さな会議室と言っても違和感はない。

 中林正之は奥のパイプ椅子を長机の間に二つ置いた。それらは向かい合っており、中林は奥の椅子に腰かけながら、

「そこに座って」

 と、右手で手前のパイプ椅子を示しながら言った。口調は職員室の時から変わっていない。いや、むしろ優しくなっていると言ったほうがいいか。

「はい」

 山坂浩二は小さく頷いて手前の椅子に腰を下ろした。

「それじゃあ、さっそく本題に入るんだけど」

 中林正之は笑みを浮かべながら口を開いた。

「その前に山坂。お前がここに呼ばれた理由はわかるか?」

「いえ、わかりません」

 山坂浩二は不安を押し込めて答えた。だが、少しうつむいてしまう。

 すると、中林正之は少しだけ真面目な表情になった。

「そうか」

 不安が最高潮に達する。

「まあ、たいしたことじゃないんだけどな。今日呼んだのは、この前のテストで少し気になったことがあったからなんだ」

「テスト……ですか」

 山坂浩二はうつむいたまま、全身の緊張が解けていくのを感じた。生活指導ではなく、勉学の指導なのだ。

(なんだよ、テストの話か。心配して損したよ)

 彼は内心、悪態をついた。

 中林正之は前かがみになり、左右の膝に右肘と左肘をそれぞれ乗せ、指を組んだ。彼は山坂浩二を見つめながら、口調は変えないで話を続ける。

「そう。山坂、お前、いろんな教科の先生から聞いたんだけれども、どのテストも赤点すれすれらしいじゃないか」

「そう、ですか」

 気の抜けた声で合いの手を入れる山坂浩二。それもそうだ。彼自身はテストのことなど微塵にも気にかけていないのだから。

「これじゃ、一学期の頃と同じだぞ。せっかく夏休みから頑張って定期テストも校内模試も学年で中の上で安定してきたのに。この前の全国模試だって偏差値上がってたのに、ここで元に戻ってしまったらもったいないぞ」

「すみません、気をつけます」

 山坂浩二は顔を上げない。

「一年後にはもう受験生なんだから、今のうちに勉強しておいたほうが役に立つと思う。学力をつけておけば、選択肢も多くなるしな」

「はい」

 消え入りそうな声で、山坂浩二は返事をした。

「まあ、今回は今回でいいとして。最近、山坂の元気がなくなった気がするんだけど、何かあったのか? 谷口先生とか他の先生も心配してたよ」

 彼のその問いに、山坂浩二は床を見つめたまま目線を左にずらした。

(何かあったか? ね。あったけど、一般人のお前には言えることじゃないんだよ。言ったところで、どうせ、こいつは何もできやしない)

 山坂浩二は頭の中でどうしようもない気持ちを巡らせながら、表面的には黙ったままでいた。無言の彼に、中林正之は組んでいた指を離し、右手を左右に小さく振りながら、

「い、いや、話しづらいことなら別に話してくれなくてもいいんだ。ただ、少し気になっただけだから」

 と、居心地が悪そうに言葉を紡いだ。

 口調自体は明るいが、不快な雰囲気が出ていることは山坂浩二にもわかった。

「そうですか。お気遣い、ありがとうございます」

 彼はそう言って、頭をさらに深く下げた。

 手応えのない山坂浩二の様子に、中林正之は困ったようにため息をつく。

「お前にもいろいろあるんだろうから、もう、うるさいことは言わないよ。赤点を取らなかっただけでもよく頑張ったと思う。とりあえず進級できるから、そこは安心してほしい」

 中林正之のその言葉が、山坂浩二の琴線に触れた。

 山坂浩二は膝にのせてあった両拳を握り締める。

 隠していた感情がついに表へと出てきてしまう。彼はもう、それには抵抗しなかった。

「どうせ、一週間後には死んでるんだ。進級とか勉強とか進路とか、もうどうでもいい」

 最後の理性が働いて、漏れ出てしまった声は山坂浩二以外には聞き取れない大きさになっていた。

 だが、何かしらの言葉を発したということは中林正之にもわかってしまう。

「ん? 何か言ったか?」

 彼は山坂浩二に余計な負担を与えないように、明るさを保って尋ねた。

 山坂浩二はそこで我に返る。

「あ、いえ」

 やってしまった。山坂浩二は自分の行いを後悔しながらも、言葉を繋げる。

「反省して、今日からちゃんと勉学に励みます」

「そうか」

 山坂浩二の口から出たものは建前でしかなかった。そうだとわかっていても、中林正之はそれを受け止めた。だが、返事は物悲しい表情とともに送られてしまう。

 二人の間にわずかな静寂が訪れる。

 山坂浩二は、この無駄な面談をいち早く終わらせたいという思いから、この沈黙を自ら破りにいった。

「それで、お話はこれで終わりですか?」

 嘲笑交じりに山坂浩二は尋ねる。

 中林正之は微笑みを作り上げた。

「あ、うん。せっかくの昼休みにわざわざ悪かったな。それじゃ、廊下に出たら柳川を呼んできてくれるか?」

「あ、はい、わかりました。ありがとうございました」

 ほとんど抑揚をつけずに山坂浩二は頭をもう一度下げ、ためらいもなくパイプ椅子から立ち上がった。中林正之に背中を向け、そのまま扉のほうへと歩いていく。

「あ、山坂」

 ふいに担任の声が背中にぶつかってきた。

「なんですか?」

 山坂浩二は心底だるそうに左から後ろを振り返る。

 教師と生徒の目線が交差する。

 ほんの少し間を置いて、中林正之が複雑そうな表情を浮かべた。

「あんまり、無理するなよ」

 それは、彼が言える精一杯の言葉だったのだろう。

 山坂浩二の空虚な心にさえ、何かを植え付けていく。だが、今の山坂浩二では、そこから芽を出すことなど到底できはしなかった。

 一瞬の静寂の後、山坂浩二は形式的に頭を下げる。

「はい。ありがとうございます。それでは、失礼します」

 頭を上げながら、山坂浩二は扉に体を向けていく。中林正之のことなど気にもかけず、彼はそのまま歩みを進め、扉をスライドさせ、生徒指導室から姿を消した。

 山坂浩二は気づいていなかったが、中林正之は背中を丸め、両手で頭を抱え込んでいた。扉が閉められると歯を食いしばり、中林正之はそっと、舌打ちをした。

 廊下に出て、背中に回した右手で生徒指導室の扉を閉めた山坂浩二。ため息をついた後、彼は右に顔を向けた。

 生徒指導室から数歩離れたところで、柳川友子が壁にもたれかかって立っている。彼女はうつむいているので表情はわからない。

 廊下に出たばかりの山坂浩二を、柳川友子は横目で発見する。

 彼女はゆっくりと頭を上げ、力なく壁から背中を離した。

「あ、山坂。終わったんだ」

 柳川友子はさして関心もないように言葉を吐きながら山坂浩二のもとへと歩いてくる。

「はい。柳川さん、先生が呼んでるので、中に入ってください」

 山坂浩二は事務的に声をかけ、扉の前を開けるように柳川友子へと近づいていく。

「わかった」

 柳川友子は山坂浩二に聞えるように呟き、彼の左横を通り過ぎて生徒指導室の扉に右手をかけた。

「あ、そうだ、山坂」

 彼女は何かを思い出したかのように、左に顔を向けて山坂浩二の双眸を見上げる。彼女の声は相変わらず抑揚に乏しい。

「なんですか?」

 魂の抜けたような声を返す山坂浩二。

 そんな彼に柳川友子は尋ねる。

「先生と何の話してたの?」

「ええと、テストの点が悪かったのでもっと勉強しろ。みたいな話でしたね」

 力なく笑みを浮かべながら、山坂浩二はそう答えた。

 柳川友子は眉間にしわを寄せた。

「そう。じゃあ、アタシも山坂と似たようなものだろうね」

「そうですか」

 山坂浩二は適当に相槌を打つ。

 柳川友子は表情を緩め、左手で追い払うかのような動作を山坂浩二に行った。

「ほら、アタシのことはいいから、山坂は先に教室へ戻ってなよ」

「あ、はい」

 相手に合わせて会話をするのにも疲れてきた山坂浩二は、とりあえず返事だけはして、ゆっくりと歩き始めた。

「まったく、テストごときに悩めるなんて、何も知らない連中はお気楽でいいな」

 後ろから聞こえてきた女性の声に、山坂浩二は足を止めた。

 さきほどまでも、生徒指導室にいる中林正之に聞えないよう声量を抑えて会話していたのだが、その声はより一層小さいものになっていた。

 山坂浩二は後ろを振り返る。

 柳川友子がちょうど生徒指導室の扉を開けているところだった。

「失礼します」

 彼女は再び模範的生徒の仮面を被っていた。

「おう。じゃあ、そこに座って」

「失礼します」

 一連の形式的な行動が終わると、生徒指導室の扉が閉められた。山坂浩二はその場に佇み、柳川友子が入った部屋の扉を眺める。

「何も知らない連中はお気楽でいいな、か……」

 柳川友子の独り言を彼は無表情に小声で復唱すると、後ろを振り向いた。そして、中央階段に向けて一階の廊下を歩き始める。

「いつ死ぬのかがわかってる分、俺らのほうが気は楽だと思うけどな」

 山坂浩二はため息をついた。

「いや、柳川さんは立ち向かう気でいるから、気が重いのかな」

 首を左右に振る。

「まあ、俺にはもう関係のないことだよね」

 山坂浩二は自分にそう言い聞かせると、天井を見上げた。





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