第十四話 変わらないもの⑦
「そ、そんな、別に僕は気に入られるようなことなんて何もしてませんよ」
山坂浩二は店長に向き直り、両手を小刻みに振った。
「素直じゃないな、君も」
店長は口元に右手を当てて微笑む。
そしてわずかな間を置いて、
「でも、浩二君が元気そうでよかったよ。店に来た時の浩二君、なんだか浮かない顔をしてたからねえ。何か良くないことでもあったのかと思っちゃったよ」
と、柔らかな口調で店長は言った。
何か良くないこと。
山坂浩二はその言葉が引っかかった。やはり、何も知らない他人から見ても彼の変化はわかってしまうようだ。
山坂宗一と月影さくらによる圭市襲撃の日が近づくごとに、山坂浩二の心は曇っていく。どうしようもない、死ぬ日が決まってしまっている。それだけで生きる価値を見失ってしまう。浮かない顔をしてしまうのも無理はなかった。
だが、山坂浩二はその事情を他人に知られたくはなかった。
彼は右手を自らの後頭部に置いて、引きつった笑みを作った。
「いや、少し緊張してたんですよ。久しぶりに来る『ひとやすみ』がどんな感じになってるのかなーって」
山坂浩二は表情を柔らかくして、腕を机にのせる。
「でも、島崎さんが真面目になったこと以外はあまり変わっていないようで、安心しました」
頬を緩ませ、退魔師関連の事情を悟られないように振る舞った。何も悩んでいないと、店長に思わせたかった。
山坂浩二の言葉の後、店長はゆっくりと目を閉じた。
「そうだねえ。世の中は変わっていくけど、変わらないものも欲しいよね。まあ、無理な話だろうけどさ」
店長はしばらくの間、頬を緩ませてまぶたを下ろしたままでいた。感慨にふけっているのだろうか。
山坂浩二は壁に掛けられている時計を見上げた。時刻は二時を過ぎたあたりだ。あまり長居するつもりはなかったので、彼は申し訳なさそうに店長に声をかけた。
「すみません、店長」
「ん? なんだい?」
店長は両目を開けて山坂浩二と目線を合わせた。
「僕、そろそろ帰りますんで、会計よろしくお願いします」
山坂浩二はそう言うと立ち上がり、右の席に置いてあった黒色のスポーツバッグを右肩にかけて背中に回した。
「もう帰るのかい? 浩二君」
店長は残念そうな表情で山坂浩二を見つめるが、
「すみません。このあとちょっと用事があるので」
彼がそう言うので、
「それなら仕方がないね。では、レジへどうぞ」
と、おとなしく引き下がった。
すると、
「浩二君、せっかく来たんだから、もう少しゆっくりしていきなよー」
常連客の一人が山坂浩二を引き止めようと声をかけた。山坂浩二は彼に体を向けるもどう対応していいのかわからず、その場に留まっていたが、
「まあまあ小杉さん、浩二君も忙しいんです。わざわざ遠いところから来てくれただけでもありがたいと思いましょうよ」
と、店長が助け舟を出してくれた。
「じゃあ仕方ねえな。浩二君、俺らは毎日のようにいるから、また顔を出してくれよ」
その常連客は山坂浩二にそう言うと、冷めてしまったコーヒーに口をつけた。常連客の他の二人も、山坂浩二に小さく手を振った。
「わかりました。また近いうちに顔を出しに来ます。みなさん、今日はありがとうございました」
山坂浩二はそう返事をしてレジに向かった。
レジでは店長がすでに会計の準備を済ませていた。彼は山坂浩二に小声で伝えた。
「三百円です」
「え? 気まぐれランチセットって、六百円じゃなかったですっけ?」
山坂浩二は困惑したように小声で返す。
「いいんだよ。浩二君、生活苦しいんでしょ?」
「で、でも」
「気にしないで。わざわざ来てくれたお礼だと思って」
店長は軽快なウインクをした。山坂浩二は彼の好意を受け取ることにし、ポケットから取り出した黒色の財布から三百円を取って、店長に手渡しした。
「ありがとうございます」
山坂浩二はささやいた。
店長は頭を軽く下げ、上げた後にもう一度下げた。
「ありがとうございましたー」
店長の声は、普段の声量に戻っていた。
山坂浩二は店長に背中を向けて歩き出した。出口に向かう途中、作家の若い男性と目が合った。彼は山坂浩二と目を合わせたまま右手を小さく挙げた。
彼なりの挨拶なのだろう。
山坂浩二はその返事として頷いた。
出口の扉を開けて、外へ出る。後ろに振り向きながらドアを閉める最中、店長がこちらに向けて手を振っているのが見えた。山坂浩二はお辞儀をして、扉を閉めた。
彼は喫茶店『ひとやすみ』から離れ、帰路についた。
彼の頭に浮かんでくるのは、先ほどの喫茶店の風景。懐かしさが胸にこみ上げてくるとともに、あそこにいた人たちにもそれぞれの生活があるのだということも感じた。
その生活を守りたい。
不意に、山坂浩二はそんなことを思った。
山坂宗一と月影さくらのことを知らず、平穏に暮らしている人々。二人の襲撃によって失われるのは、退魔師残党の命だけではない。圭市全域の人たちだ。
彼らの生活を一夜で奪ってしまうのは、あまりにも理不尽なこと。関係のない人々を巻き込んでしまうことが、山坂浩二には許せなかった。
圭市市民には抗う力が無い。しかし、山坂浩二にはある。
大きな災いを起こしてしまえるほどの莫大な力が、山坂浩二には満月の夜にだけ宿る。守るための力が、彼にはあるのだ。
「戦おう」
山坂浩二の口から、決意にも似たものが漏れる。
「宗一とさくらの襲撃から、この街を守ろう」
山坂浩二は拳を握り締め、家路を急いだ。