表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ムーン・ライト  作者: 武池 柾斗
第四章 悪霊使い編
41/95

第七話 分裂④

 話は三月八日火曜日に戻る。

 この日は学年末試験の初日。この朝、一人の少女が一年一組の教室に足を踏み入れた。非常によく整った顔立ちに、凛とした瞳。全身は細いが、華奢というよりは引き締まっている印象。紺色のセーラー服に身を包み、スカートは膝を完全に隠している。白いハイソックスに白を基調としたスニーカー。

 校則を厳守した服装だ。この少女の名前は月影香子。

 彼女は、浄化の退魔師としての山坂浩二のパートナーであり、また退魔師残党のうちでは飛び抜けた霊力と戦闘能力を有する。

 そんな月影香子が教室に現れたときには、まだ他の生徒の姿はなかった。

 それもそうだ。時刻はまだ午前七時。電車通学の生徒はおろか、家が近い生徒もまだ登校する時間ではない。早朝に出勤してきた教員が、校内を順次歩いて見回りをしていくだけの時間だ。

 腰を少し通り過ぎる長さのポニーテールを揺らしながら、月影香子は教室を歩いていき、中央付近の席に腰を下ろした。

 彼女の動作とともに発生する音が、早朝の静寂をかき乱す。だが、月影香子が学生鞄から勉強道具を取り出し、それらを机の上に広げてからは、再び静かな時が流れ始めた。

 彼女は教科書やノートのうち、テスト範囲と思われる個所を何度も繰り返し目を通していく。眼球が左右に激しく動き、回数を重ねるごとにページをめくるペースが加速する。月影香子は真剣なまなざしを教材に向けていた。

 月影香子の着席からおよそ三十分後、教室の近くで誰かが歩いている音がした。その足音は徐々に近づいてくる。階段を上がる音だ。

 彼女は教室の前扉の方向を一瞥した。扉は開いたまま。

 教室内からでは、廊下の様子はほとんど確認できない。

「見回りの先生かしら」

 月影香子はそう呟いて、開いている教科書のページに目線を落とした。

 その間にも、人の気配はこちらへ近づいてくる。

 そして、彼女の教室の前で足音は止まった。

「おっ、月影じゃないか。珍しいな、こんな朝早くから学校にいるなんて」

 男性の声。それは一年一組の前扉の付近から聞こえてきた。月影香子は頭を上げて背筋を伸ばし、その方向に顔を向けた。

「あ、谷口……先生」

 そこに立っていたのは、数学教師の谷口正也だった。山坂浩二がいる一年五組の数学の授業を担当している彼だが、月影香子が在籍する一年一組のクラス担任でもあった。平均的な身長で小太りな体型。メガネに、後退し始めている頭髪。加齢によって隠れてしまっているが、じっくり観察すると目鼻立ちが良いことがわかる。

 月影香子は彼の姿を確認すると、わずかに目を細め、椅子の背もたれに背中を預けた。その後に少しだけ口元を上げる。

「見回りと窓開けご苦労様です。……で、あたしに何か用ですか?」

 彼女の口調はまるで挑発しているかのようだった。

 しかし、ベテラン教師一歩手前の谷口先生はその程度の悪態には動じなかった。スーツのボタンをすべて外し、スラックスのポケットに両手を突っ込んだまま、問題児に対して穏やかな表情を向ける。

「いや、特にこれといった用事はないんだけどな。中学では成績だけは優秀な暴力生徒、高校ではサボり魔の月影が、教室で黙々と勉強しているのが珍しくてな。つい声をかけてしまったんだよ」

 月影香子は鼻で笑う。

「あたしだって留年なんてしたくないですからね。ほとんどの教科で出席数がぎりぎりなんで、せめて今回のテストだけでも頑張らないと、って思いまして。あと、勉強を教えてくれた人のためにも、結果は出さないといけませんからね」

「それって、山坂浩二か?」

 谷口正也はニヤニヤしながら尋ねた。

 月影香子の顔に赤みが帯びていく。

「な、なんであんたがそんなこと知ってるのよ!?」

 彼女の声が裏返る。谷口正也は苦笑しながら言葉を紡いだ。

「それがな、ここ最近うちの学年団でな、山坂と月影のことがしょっちゅう話に出るんだよ」

「そ、そうなの!?」

 谷口正也は頷く。

「ああ。どうやって知り合ったのかは知らんが、とにかく、不良少女の月影と、女性教諭から近付きがたい雰囲気を出しているって言われている山坂、お前ら二人と柳川が一緒に行動しているってな。それで、お前らが前よりも明るくなっている。そんな感じの話だな」

「そ、そう……」

 月影香子は安堵したかのように声のトーンを落とした。わずかな静寂が二人の間に訪れるが、谷口正也がそれを破った。

「ところで、昨日の授業のことだが、卒業式を病欠した柳川はいいとして、山坂に元気がなかったんだけど、お前らケンカでもしたのか?」

「そ! それは……まあ、似たようなものです」

 月影香子の目が見開かれ、彼女は肩を落としながらまぶたを下げていく。谷口正也は眉をひそめる。そして小さく息を吐いた後、

「そうか。ならいい。勉強の邪魔をして悪かったな。テスト頑張れよ。あと、友達はちゃんと大切にしろよ」

 と言い残して廊下を歩き始めてしまった。

「はいはい、わかりました」

 月影香子が態度の悪い返事をしている間に、谷口正也は彼女の視界から抜け出していった。月影香子は息を大きく吐き出すと、教科書に向き直った。

「なによ谷口……。わかったような口きいて。あたしたちのは、ケンカみたいに簡単なことじゃないわよ……」

 歯ぎしりとともにしわが眉間に寄っていく。自然と拳を握り込んでしまっている。感情が高ぶっているようだが、彼女は数秒でそれを抑えつけ、頭を左右に振った。

「だめだめ。今はテストに集中、集中」

 彼女の目つきが鋭くなる。揺るぎない決意が表情に表れていく。そして、その志は言葉となって漏れ出る。

「浩二と友子と一緒に、ちゃんと二年生になるんだから」

 その言葉以降、月影香子はテスト終了まで一言もしゃべらなかった。


 学年末試験一日目の日程が終了すると、月影香子の教室も喧騒に包まれた。だが、彼女は誰とも会話を交わさず、席に着いたまま一度だけ伸びをするとすぐに机の上に教材を広げて勉強を始めた。

 教科書、授業ノート、問題集、自主学習ノート。

 彼女の机は勉強用の道具で溢れていた。

 月影香子の表情は、悪霊や雑霊と戦うときのような凛々しいものになっていた。簡単な問題を次から次へと解いていき、ある程度進んだところで答え合わせ。そのたびに教科書と授業用ノートを見返し、また次の問題へと取り掛かっていく。

 彼女の集中力は凄まじいものだった。

 教室から大半の生徒が出ていっても、彼女はそれに気づいていないようだった。

 問題集がひと段落ついた頃、月影香子がふと顔を上げて教室の時計に目を向けた。

「ふう。もう十二時なのね。どおりでお腹が空いてるわけだわ」

 彼女はそう呟くと両手を組んで頭上高く伸びをし、ゆっくりと息を吐きながら円を描くように両手を下ろした。

「帰ってお昼ご飯にしましょうか」

 月影香子は教科書類を学生鞄の中にすばやく片付けて、荷物を右手に持って立ち上がった。椅子の位置を整え、教室の前出入り口へ歩いていく。

 彼女の歩行は堂々としたものだった。

 月影香子が廊下に一歩踏み出したと同時に、廊下のやや離れた場所から聞き覚えのある男子生徒たちの話し声が聞こえてきた。

 多数の生徒が下校して学校からいなくなっているので、普通の声量でも今日に限っては騒音に等しい。

 月影香子は足を止めてその声の方向に顔を向けた。

「ああ、ヘンタイ六人衆ね」

 彼女はかすかな笑みを浮かべる。

 しかし、その直後、目つきが険しくなった。隠れるように一歩下がり、教室から覗き込むようにして、ヘンタイ六人衆を含む男子生徒九人グループの最後尾を凝視する。

「……浩二」

 月影香子の呟きは他の誰にも聞こえていないようだった。

 このとき、山坂浩二は月影香子の存在を認識していなかったが、月影香子は山坂浩二の様子をうかがっていたのだ。

 彼の目は垂れ下がっており、立ち振る舞いからは気力を感じられない。退魔師として向上心に溢れていた頃とは別人のようだった。

 月影香子は中央階段へ消えていく彼の姿を見送りながら、短く歯ぎしりをした。

 教室を駆け出すが、数歩進んだところで走るのをやめて立ち止まり、首を左右に振った。

「だめよ。今はまだ、そっとしておいてあげたほうがいいわ」

 ため息をつく月影香子。彼女は左手を握り締め、歯を食いしばり、自らの感情を抑えつける。数秒後に息を吐いて全身の力を抜き、ゆっくりと歩き始めた。

 月影香子は山坂浩二の後を追わずに、帰路へ着いた。


 帰宅して昼食をとった後、月影香子は自室のこたつで試験勉強にとりかかっていた。教科書を読み、理解した後は問題集と自主学習ノートのみを開いて、簡単な問題を解きながら試験範囲の内容を確認していく。

 基本問題を解き終わると、答え合わせをする。理解度を確認した後、教科書を再び開いて知識の定着を図る。

 難しい問題には取り掛からない。

 応用力を身につけるには時間が足りない。

 彼女の目標は留年を回避すること。高得点を狙う必要はないので、勉強していれば正答できる問題さえ完璧にこなしてしまえばよい。

 彼女の集中力は凄まじかった。夕方になる頃には、明日の試験科目の勉強は一通り終了していた。

「もうこんな時間なのね」

 月影香子は座ったまま伸びをして、立ち上がった。

 彼女はカーテンを開け、茜色に染まった空を見上げる。

「これだけ勉強してれば大丈夫だわ。平均点くらいはとれるはずね」

 セーラー服姿のまま、月影香子は少しの間、窓の外を眺めていた。やがてカーテンを閉め、部屋の出入り口へと歩き出した。

 ポニーテールに留めていた髪ゴムを滑らかな動きで外し、頭を左右に振る。彼女の黒髪が、それに合わせてうねり、毛先同士の距離が広がって閉じる。

「体がなまるのは避けたいし、日が沈むまで体を動かしてきましょう」

 彼女はこたつの上から鍵だけを掴みとり、扉のそばでスニーカーを履いた。扉を開けて外へ足を踏み出し、部屋の鍵を閉める。鍵はスカートのポケットに収められた。

 外の階段を下りて物陰に移動し、誰もいないことを確かめてから半霊体化を行った。これで、彼女の姿や彼女が発生させた音は、強い霊力を持たない者には認識できなくなる。月影香子は間髪入れずに空へと舞い上がった。

 未来橋付近にある高台よりも上に到達すると、彼女は高速で空中を縦横無尽に翔け始めた。月影香子の艶やかな黒髪が激しく揺れる。

 彼女の顔つきは険しい。圭市上空を翔けながら、月影香子は夕日に照らされた街並みを見下ろして呟く。

「この街は、あたしたちが守る。宗一とさくらに好き勝手はさせないわよ」

 月影香子の訓練は日没まで続いた。


 翌日も、その次の日も、月影香子は朝早く登校して勉強し、全力で試験に取り組んだ。試験の後は学校で少しだけ勉強し、帰宅したら昼食をとってテスト対策をした。日没前には飛行や刀の素振り、霊力を使わない走り込みや筋力トレーニングを行い、その後は夕食をとって、寝る前まで勉強という生活を送った。

 そして三月十一日金曜日、学年末試験最終日。

 午前六時半ごろ、セーラー服に身を包んだ月影香子は、未来橋を一人で渡っていた。側面が赤く塗られた未来橋には片側一車線の道路が通っていて、その両端には車線とほぼ同じ幅の歩道。街灯は等間隔に並んでいる。

 月影香子の他にも、自転車や自動車が未来橋を通行しているが、それらと歩行者を合わせても両手の指で数えられる程度だ。

 彼女は静かに足を前に出していく。目線はまっすぐで、表情は引き締まっている。上り坂でもそれは崩れない。

 橋の中央までたどり着いたとき、月影香子は立ち止まって橋の終着点を見つめた。その直後にため息をついて肩を落とし、両目を閉じた。

「こんな朝早くに、いるわけないわよね」

 彼女は目を開けるとあきれたような笑みを浮かべた。そして再び凛々しい顔つきになる。歩き出した月影香子の表情には曇りなどなかった。

 未来橋を渡り終えると、彼女は歩くのをやめて左に身体を向けた。月影香子が足を止めたこの場所はかつて山坂浩二との待ち合わせに使った所であり、彼女が目線を向けているのは山坂浩二のアパートがある方向だった。

 月影香子は小さく息を吐いた。

「浩二。今はあんたのしたいようにすればいいわ。あたしはテスト勉強で忙しいし、満月の夜に向けて訓練もしないといけないから、戦う気のないあんたに構う暇はないの」

 彼女の両拳に力が入る。

「あたしには浩二が必要だし、みんなにも浩二の力が必要なの。それでも、浩二にとっては、それがとてつもなく重いのよね? 圭市の住民みんなの命があんたの両肩に乗っかってるって考えてしまって、押し潰されそうになってるのよね? 満月の夜の自分の力がとても怖いのよね? だから、戦おうとはしないのよね?」

 拳から力が抜ける。

「だから、今のあたしは、浩二を必要としない。あんたを心の支えにしない」

 月影香子はそう言い切ると、踵を返して車道を横切り始めた。

「あたしにはやることがあるわ。秀さんと紗夜さん、それから友子を立ち直らせる。あの三人さえ元に戻れば、残党は自然と息を吹き返すわ。浩二がいなくても、残党とあたしがいればなんとかなるかもしれない」

 車道を渡り切った月影香子は下り坂に差し掛かり、銅鏡川に沿う道路を歩いていく。

「でも、やっぱりあたしは浩二に戦って欲しいから、その三人を何とかした後はあんたにも接していくわよ。それまでは一人で悩んでいなさい、浩二」

 月影香子は空を見上げた。

「浩二がちゃんと考えて決めたことなら、どんな結論でもあたしは許してあげるから。……でもね」

 彼女の眉間にしわが寄る。

「中途半端な気持ちのままでいるなら、あたしは許さないわよ。浩二」

 月影香子の視界に映っていたのは、雲一つない青く澄み渡った空だった。


 山坂宗一と月影さくらの圭市襲撃まで、この日を含めて、あと十日。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ