第五話 分裂②
樹海から水谷紗夜を残して飛び去った柳田秀は、地上から五百メートルほどの高度を保って飛行していた。彼は立方体型の結界内で左ひざをつけたまま、進行方向を睨んでいた。彼を乗せている結界の速度はそれほど大きくない。飛行開始時点から比べると、その半分以下の速度に落ち込んでいる。
柳田秀は憤ったように大きく息を吐き、右手で頭を掻きむしった。オールバックに整えられたダークブラウンの長髪が乱れ、前髪が目にかかる。
「ああ、もう! なんで僕は、紗夜さんに当たったりしたんですか!」
彼は右ひじを右ひざに乗せ、表情を歪めながら口を開いた。
「これでは、十年前と何も変わらないじゃないですか……。自分のことにしか気が回らなくて、紗夜さんに迷惑をかけ続けていたあの頃と、ほとんど同じじゃないですか。村が滅んだ後、悪霊を浄化することしか頭になかった頃から、僕は成長していないのですね」
柳田秀は目線を落とした。半透明の青い結界越しに眺める景色は、結界が移動するにしたがって緩やかに変化していく。山地の上空を通過しているため、景色の大半は緑だが、田畑や市街地もわずかながら視界に入っている。
柳田秀は目を閉じた。何かを考えているのだろうか。
そこで不意に、乾いた音が鳴り、結界に振動が生じた。その音は二回。まるで扉をノックするような音だった。
柳田秀はまぶたを上げ、ゆっくりと頭を上げて右側に顔を向けた。
彼の目がさらに開く。
「紗夜さん?」
柳田秀が目にしたのは、結界にと並行して空を翔ける水谷紗夜の姿だった。セミロングの髪を激しく揺らし、彼女は左手で結界に触れていた。
「秀ちゃん」
彼女の穏やかな声が結界内に浸透していく。愛しい者を包み込むような優しい笑顔を、水谷紗夜は柳田秀に向けていた。
「紗夜さん。どうして?」
柳田秀は困惑を隠せないようだった。
そんな彼に対し、水谷紗夜は笑みを崩さなかった。
「どうしてって。そんなの言わなくてもわかるでしょ。とりあえず、私も結界の中に入らせて欲しいわ」
「でも」
「いいから中に入らせて」
水谷紗夜の声は穏やかだったが、芯が通っていた。彼女に逆らえなくなったのか、柳田秀は水谷紗夜から目を逸らした。
「わかりました」
彼がそう呟くと、水谷紗夜が触れている面の結界が無数の青い光の粒子へと分解され、柳田秀の体に取り込まれていった。
「素直でよろしい」
水谷紗夜は満面の笑みを見せた。そして、彼女は漂うようにして、柳田秀が開けた面から立方体型の結界へ乗り込んだ。
結界の中は一人で居るには広い空間だった。立ち上がったりはできないが、二人で腰を下ろして足を伸ばしても少し余裕があるほどだ。
水谷紗夜は柳田秀の右隣に腰を下ろした。
柳田秀はわずかに左に寄って、彼女が座るスペースを確保した。その後、自らの胸の前にある右手から霊力を放出し、先ほど開けた面に再び結界を張った。
結界内に沈黙が訪れる。
柳田秀は気まずそうに水谷紗夜から顔を背け、水谷紗夜は微笑を浮かべて進行方向を眺めていた。
それから十数秒後、柳田秀はおそるおそる口を開いた。
「あの、紗夜さん」
「どうしたの? 秀ちゃん」
相変わらず水谷紗夜の声は穏やかだった。柳田秀は言葉を選んでいるようで、なかなか声を出せずにいたが、決心したかのように小さく息を吐き出した。
「これから、僕の言うことはただの独り言です。気にしないでください」
彼の呟きに、水谷紗夜は反応しなかった。風に流されているだけかと思えるほど、結界の飛行速度は落ち込んでいた。そのなかで、彼女はただ前を向いているだけだった。
柳田秀は言葉を紡ぎ始めた。
「僕には、今でも疑問に思っていることがあります。本当に僕が『浄化の退魔師』のリーダーを務めていいのか。退魔村では平凡だった僕が、かつての仲間たちから奪った力で、自分の本来の力ではないもので戦っていいのか」
ぽつり、ぽつりと。
「僕は、退魔師であることを捨てた人たちから奪った力で戦っていることに、罪悪感を抱いています。生き残った中では僕が最年長だからというだけの理由で、山坂宗一と月影さくらに紗夜さんと二人で立ち向かうことを決めて、みんなの力を奪い取りました。今思えば、僕よりも優秀な方にリーダーを任せて、生き残ったみんなで戦うことを選べばよかったのです」
一人の男の口から。
「でも、現実は上手くいかないものですよね。僕たち退魔師残党のメンバー以外に、戦う意志を持った方なんて一人もいませんでしたからね。みんな、謝ってはいましたけど、ためらいもなく僕と紗夜さんに力を渡していきましたから。でも、強い力で戦えるのは嬉しくもありました。あの二人による最初の犠牲者は僕たちの両親でしたからね。憎い親の仇に立ち向かえるのは喜ばしいことでした」
言葉がこぼれていく。
「しかし、三日前の戦いで思い知らされました。僕は無力だと。それでも、僕は退魔師残党のリーダーとして圭市を守らなければならないと。今の僕は、一人で責任を抱え込んで、それに押し潰されています。リーダーの僕がこんな調子だから、他のメンバーの子たちは戦う気を失ったままなのですね。やはり、僕はリーダーとしての器ではなかったのですね」
柳田秀は一呼吸置いた。
「そして、僕は無力だから、最終的には浩二さんと香子さんに頼るしかありません。十三歳も下の子に、戦いを強いることに罪悪感があります。あと、その二人の力は僕なんかよりも圧倒的に大きいという劣等感もあります。だから、非常に大きなストレスを感じていました。それをまぎらわせるために、浄化任務に躍起になってしまいました」
柳田秀は右に顔を向け、水谷紗夜の横顔を見つめた。
彼女は依然として前を向いたままだった。
「……なにも、聞いていないわ」
彼女は小さな声で言った。
「寝ていたから、なにも」
穏やかな笑顔で、彼女はそう呟いた。
「そうですか」
柳田秀は安堵したかのように頬を緩める。
「受けた任務はすべて終えましたし、僕はもう疲れましたから、今回はこれで切り上げて帰宅することにします。次の戦いに備えて休むことにしましょう」
彼はいつものように、明るく、軽快な口調でそう言うと、水谷紗夜は「そうね」と同意した。柳田秀は結界の進行方向を大きく変更し、飛行速度を格段に増大させた。眼下の景色がめまぐるしく変わっていく。
帰路についた二人を待っていたのは、穏やかな夜だった。
柳田秀と水谷紗夜が帰宅したのは、翌日、三月九日の午前八時過ぎのことだった。日本中を駆け回る二人にとって、朝帰りは珍しいことではなかった。消耗が激しく、帰宅直後は足もとがおぼつかない状態になっていた柳田秀は、着替えも入浴も食事もせず、すぐに自室で深い眠りに落ちていった。
水谷紗夜はシャワーで汗を流し、着替えを済ませてから自室のベッドに潜り込んだ。彼女もすぐに眠りについた。
水谷紗夜が眠りから覚めたのは午後五時のことだった。彼女はパジャマからジーンズと長袖の白いワイシャツに着替えると、二階の自室から出て、柳田秀の部屋へと向かった。彼女が扉を開けると、柳田秀の寝息が聞こえてきた。
クスッと彼女は笑い、そっと扉を閉めた。次に柳川友子の部屋に向かったが、通学用のカバンはおいてあるものの柳川友子の姿は見られなかった。
水谷紗夜は落胆した表情で階段を降りた。家中を捜したが、柳川友子は見つからなかった。その後、水谷紗夜は洗面所で身支度をし、台所へ向かった。今日は使われた形跡がなかった。新月の夜の惨敗後、主力三人のなかで最も早く回復した柳川友子が台所を掃除して以来、この場所はまったく使用されていなかった。彼女が作った『ごちそう』も、柳田秀と水谷紗夜が見ることなくゴミ箱行きとなっていた。
「三人でご飯を食べたのって、いつだったかしら」
水谷紗夜は殺伐とした光景を眺めながら呟いた。
「家族みたいだった私たちも、今となってはもうバラバラね」
彼女の表情は、ひどく曇っていた。
水谷紗夜は家から出て、人目のつかないところで半霊体化して空へと飛び立った。彼女の飛行速度は月影香子や柳川友子ほどではないが、十分に戦闘できる速さだった。
四十分後。彼女が降り立ったのは退魔師残党の訓練場だった。その頃にはもう日は沈み、三日月よりわずかに満ちた月が西の空で輝いていた。バスケットコートが八つ入る大きさの倉庫の前で、水谷紗夜は佇んでいた。目の前にあるのはただの無機物でしかないということを悟った彼女は、倉庫の非常口を開けて中へと足を踏み入れた。
なにかの期待は抱いていたのだろう。
しかし、そこには誰もいなかった。
四日前までは残党のメンバーが訓練に励んでいたのに。
山坂宗一と月影さくらに負けないためにみんなで頑張っていたのに。
今となってはもう、それは過去の光景でしかなかった。
「秀ちゃん。昨日は弱音を吐いていたけど、あなたが思っていることは私も思っているわよ。でも、私は秀ちゃんのパートナーだから、秀ちゃんを支えないといけない。だから、私は秀ちゃんの前で弱音は吐けないの。私だって無力で、みんなを立ち直らせることもできないから、副リーダーとして失格なのはわかっているわ」
彼女はため息をついた。
「私も、どうすればいいかわからないわ。力もつけないといけないし、みんなを元気づけないといけない。でも、私には自信がないの。なりゆきでここまできてしまったわけだから。秀ちゃんと同じように、圭市を守らないといけないという責任感も、浩二君と香子ちゃんに頼らなくちゃいけないという罪悪感も、それに、あの子たちには敵わないという劣等感もある。たぶん、秀ちゃんは言わなくてもわかっているのでしょうけどね」
水谷紗夜はそこで何かを感じ取ったのか、目を見開いた。外へと駆け出し、山を見上げる。彼女は唾を呑んだ。
「友子ちゃん。あなたはどこまで頑張り屋さんなの? そんなに無茶したら、強くなる前にあなた自身が壊れちゃうわよ」
彼女は柳川友子の霊力を感じ取っているのだろう。そして柳川友子が何をしているのかも見当がついているのだろう。水谷紗夜は悲痛な表情を浮かべていた。
「でも、私には、リーダーとしての資格がないから、何も言えないわ。みんなには戦って欲しいのだけれど、私が言ったところで誰も耳を貸しはしてくれないでしょう」
その漏れ出た言葉とともに、水谷紗夜は笑みを浮かべた。
彼女には相応しくない、哀しい笑みだった。




