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ムーン・ライト  作者: 武池 柾斗
第四章 悪霊使い編
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第三話 変わり果てた日常③

 昼食後、川上食堂から教室へ戻った山坂浩二は、机に三十分間ほど向かってみたものの勉強する気がまったく起こらず、友人たちより先に帰宅することにした。

 山坂浩二は帰宅後、黒色の長袖シャツとジャージに着替え、カーペットの上で仰向けになって体に布団をかけ、三時間以上天井を眺めたままでいた。それ以外は何もする気が起きなかったのだ。

 空腹を感じて体を起こしたときには、外はすでに暗くなっていた。山坂浩二は流しの下にある戸棚からカップラーメンを取り出してそれを夕食とし、その後はシャワーを浴びた。そして再びカーペットの上で仰向けになって眠気が訪れるのを待った。

 山坂浩二は帰宅してからというものの、何もしていなかった。

 やるべきことはたくさんあったのに。

 山坂浩二は自身に問いかける。

 毎朝のように食事を作っていた自分はどこへ行った?

 毎朝のように弁当を用意していた自分はどこへ行った?

 毎朝のように勉強をしていた自分はどこへ行った?

 買い物をして節約料理を夕食にしていた自分はどこへ行った?

 家でも勉強していた自分はどこへ行った?

 掃除洗濯もこなしていた自分はどこへ行った?

 ……退魔師としての山坂浩二はどこへ行った?

 山坂浩二は焦点の合わない目を天井に向けながら数日前までの自分と今の自分を比較し、力なく笑う。

 (そうだ。今までがどうかしていたんだ。一人暮らしなのに夜更かししなかったのも。飯は自分で作ってたのも。それなりに勉強していたのも。ちゃんと家事をやっていたのも。全部異常だったんだ)

 山坂浩二は寝返りを打って床に目線を向けた。

(この部屋の中で、俺を見ている奴なんていないじゃないか。だったらもっと、堕落した生活を送ってもおかしくないじゃないか。今の俺が正常なんだ)

 山坂浩二は目を閉じた。

(何もしないまま、終わりを迎えるのもいいかもな)

 彼の頭の中であの二人の姿が浮かんだ。日本最悪の悪霊使い、山坂宗一と月影さくら。圧倒的な戦闘力を誇るその二人が圭市を滅ぼしに来る。二人が日本を壊滅させるのには三日もかからないのだ。たかだか人口三十万強の圭市など、一時間もあれば滅亡するだろう。一国を崩壊させてしまうほどの力があるのだ。日本最悪どころか世界最悪の霊能力者と言ってもいいだろう。そんな二人に、退魔師残党は立ち向かえるのだろうか。

 山坂浩二の答えはノーだ。柳田秀や月影香子の算段は、満月時の山坂浩二があってこそのもの。しかし、当の本人には戦う気がないのだ。戦ったところで勝てないかもしれない。戦闘中に霊力が暴走してしまうかもしれない。山坂浩二の戦意を喪失させたのは、紛れもなく怯えだった。

 そして、山坂浩二を堕落させたのは、山坂宗一の言葉だった。

『おれが戦いたいのは、今のザコのお前じゃねえ。満月の夜のお前なんだよ』

 兄の言葉が山坂浩二の脳内で再生される。その一言が彼を否定した。山坂浩二は満月の夜だけ霊力の強さが跳ね上がる。その強大な霊力は災いを起こす神である魔神と同等とも言われ、日本中の霊能力者の間では有名なようだ。

 だが、満月の夜以外は霊力が非常に弱く、山坂浩二が霊能力者として戦うには厳しいものがあった。そのうえ、浄化の退魔師が行うのは雑霊や悪霊の浄化任務。人格を失い、穢れを溜め込んだ霊を相手にするので、霊能界では汚れ仕事の扱いを受けている。そのように過酷な使命を果たせてきたのは、いつも隣に頼れるパートナーがいたからだ。

 力を取り戻してからの戦闘、記憶にはない幼少期の頃の浄化任務。男と女の力が両方使えるとはいえ力不足な山坂浩二を助けてくれたのは、月影香子だった。

 彼女と交わした約束が、満月の夜でなくても山坂浩二を奮い立たせてきた。満月の夜じゃなくても強くなるという約束。これがあったからこそ、山坂浩二は強くあろうと努力を重ねてきた。

 だが、山坂宗一はその努力を一瞬で打ち砕いた。

 どれだけ頑張っても、満月の夜でなければ弱いままなんだ。満月の夜でなければ戦えないんだ。今までやってきたことは無駄だったんだ。山坂浩二はそんな思いを抱き、そして無気力状態となった。その影響は日常生活にまで及び、山坂浩二の日常は変わり果ててしまった。

 今はもう、一番大切な人でさえも隣にいて欲しくない。

 世界に光をもたらしてくれた人のそばにはいたくない。

 戦わないこと、圭市を守らないことを決めた山坂浩二は、退魔師としてのパートナーである月影香子との接触を拒み始めた。退魔師としての誇りをほとんど失ってしまったことが申し訳なくなってしまったからだ。

 だが、彼女から遠ざかろうとするほど、月影香子への恋愛感情は強くなっていく。本当は一緒に話したい。本当は一緒に食事したい。本当は一緒に戦いたい。本当は触れ合いたい。

 そして、本当は……。

 山坂浩二はそこまで考えて頭を抱えた。

(違う! 香子をそんな目で見たくない! そんな対象にしたくない! 好きだから、そんなことはしたくない!)

 山坂浩二の表層的意識が自らの妄想を必死に拒絶する。必死で理性を保とうとする。だが、彼の、男としての深層意識がよからぬ光景を脳裏に映し出していく。山坂浩二はその映像を取り払おうとする。それでも、どこかでその妄想に溺れてしまっていた。

 そして、虚しくも体が反応した。

「くそっ!」

 山坂浩二はたまらず掛け布団を払いのけて立ち上がり、トイレへ駆け込んだ。素早く扉の鍵をかける。せわしなく動く気配と山坂浩二の荒い息遣いが扉の向こうから感じ取れる。彼の呼吸はしだいに大きくなり、やがて最高潮に達した。呼吸が徐々に小さくなっていく。水の流れる音がした後に、山坂浩二がトイレから姿を現した。

 彼は扉を閉めて、そのまま扉に背中をもたれさせた。顔はひどく青ざめている。

「なにやってんだ? 俺」

 山坂浩二は顔の右半分を右手で覆った。

「香子をオカズにして、恥ずかしくないのかよ」

 彼の声は震えていた。

 妄想の中でとはいえ、初恋の相手を汚してしまったのだ。獣の衝動に駆られ、いかがわしい妄想の中の月影香子を慰みものにしてしまった。誇り高き退魔師である少女が快楽に溺れる光景を山坂浩二は想像して、性欲処理を行った。

「バカだ。俺……」

 罪悪感が胸に満ちてくる。一度してしまったものは元には戻らない。一時的な欲求のために、大切な人を汚したのだ。尊厳を踏みにじったのだ。そしてこれからも妄想の中で彼女を汚し続けるのだろう。

「うっ」

 強烈な自己嫌悪が山坂浩二に襲い掛かる。過剰なストレスを感じ、両手で頭を抱え、頭を掻きむしった。いつ頭皮が破れてもおかしくはないくらい強く激しく自らを痛めつける。彼の足元に髪の毛が数本舞い落ちる。

「うあああああああああああああああああああああああああああああ!」

 山坂浩二は悲鳴を上げた。幸い隣の部屋と下の部屋にだけ住人がいないので近所迷惑にはならないようだった。

「ああああああああああああああああああああああああああああ!」

 彼は喉の奥から声を絞り出す。罪悪感や自己嫌悪感を体から追い出すかのように叫び続ける。頭を掻きむしるのもやめない。山坂浩二は一時的に狂った。

 やがて狂乱にも限界が訪れる。力を使い果たしたかのように、山坂浩二はトイレの扉に背中をこすりつけながら腰を下ろした。目線は下を向き、呼吸は整っていない。

 呼吸が正常に戻る頃には、山坂浩二は落ち着きを取り戻していた。顔を上げ、天井を眺める。

「俺、いったいどうしちゃったんだろうな」

 山坂浩二はため息をついた。

「もう、どうすればいいのかわかんないよ。みんな」

 彼は力なくそう言って目を閉じた。

 浮かんできたのは、理系クラスの男友達だった。力を取り戻す前までも、彼らといるうちは自分らしくいられた。同性の友人。その存在がかけがえのないものであると気づくには、少し遅すぎたのかもしれない。

 彼らの人生もまた、山坂浩二と同様に満月の夜でその幕を閉じる。命日が三月二十日になるか三月二十一日になるかの違いはあるだろう。だが、それは些細なことにすぎない。もうすぐですべてが終わってしまうのだから。

 次に、退魔師残党の仲間たちの姿が浮かんできた。彼らはどうするのだろうか。山坂浩二が参戦しない以上山坂宗一と月影さくらに勝てる見込みはないのだ。おとなしく死ぬのか、それとも無駄な抵抗をするのか。だが、どっちにしても結局は死ぬのだ。いろいろと世話になったとはいえ、今の山坂浩二には彼らのことなどどうでもよかった。

 最後に月影香子の姿が浮かんだ。彼女は最後まで抗い続けるのだろう。月影香子が諦めるなんて、山坂浩二には想像できなかった。彼には、月影香子の存在が眩しすぎる。彼女への恋心は秘めたまま死のうと、山坂浩二は思った。

 そして、山坂浩二はまどろみに落ちていった。

 ある感情を自覚しないままに……。





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