第二話 変わり果てた日常②
スポーツバッグを右肩にかけ、山坂浩二は教室の後ろの扉から出ようとして後ろを振り向いた。
「よっ!」
振り返った先には昼食仲間である永山と村田の姿があった。くせ毛以外に特徴はなく、初見であれば一卵性双生児かと思ってしまうほど二人は外見が似ている。中肉中背で、中の上程度の顔。永山と村田も教室に残って勉強をしていたようだ。二人や昼食休憩をしている女子三人組のほかにもヘンタイ六人衆や数人の女子が教室に残って、勉強したりイヤホンをつけて音楽を聞いたり机に伏していたり、思い思いに過ごしている。
「ああ、永山、村田」
近づいてくる二人に、山坂浩二は力なく言葉を返した。
二人の要件はなんとなくわかる。山坂浩二はその場から動かずに永山と村田の言葉を待った。
「山坂、飯行かね?」
やっぱり。永山の言葉に山坂浩二はそう思いながら軽くうなずいた。
「いいよ。俺もちょうど飯食べに行こうと思ってたところだし。今日は学食はやってないから、どこ行く? 高瀬市場か?」
山坂浩二は頬を緩めた。彼が言った高瀬市場というのは、学校の近くにある小さな飲食店が十店ほど入った建物、いわばフードコートのような施設のことだ。酒のつまみをメインにした店が多いため、夜はもちろんのこと昼も酒を飲む人でごった返す。定食を出すところもあるので、家族連れや高校生にも頻繁に利用されている。
「いや、そこもいいけどさ、商店街のほうの定食屋にしようぜ。あの、この前のテストの時に行ったところ」
山坂浩二が提案した後、村田が新しく案を出した。永山はもとからその定食屋に行く気だったのか、口角を上げて山坂浩二に熱い視線を送っている。
山坂浩二は少し間記憶の糸を手繰り寄せ、その時の情景を思い出して眉を少し上げた。
「ああ、あそこか。いいよ。安いしうまいし高瀬市場よりは静かだし」
彼がそう言うと、永山と村田はすぐに反応する。
「よし、決まりだな」
「そうと決まれば早く行こうぜ」
二人は山坂浩二に背を向けて歩き出した。彼らは荷物を持っていない。学校の外へ出るときは荷物を教室に置いていくつもりなのだろう。
(俺も荷物置いてくか……)
山坂浩二は机の上にスポーツバッグを置き、永山と村田に続いた。その時、永山はヘンタイ六人衆の一人に声をかけていた。
「なあ、中谷。昼飯食べに行かない? 俺と村田と山坂でこれから川上定食に行くんだけど、よかったらお前らも来ないか?」
彼の誘いに、中谷と呼ばれた男子生徒はノートの上を滑らかに動いていた右手を止め、シャープペンシルを置いて顔を上げた。短髪で銀縁メガネの、インテリの雰囲気を出しているその男は朗らかに笑った。
「川上定食か。あそこうまいけど、夜はサラリーマンがいっぱいいて入りずらいんだよな。昼間に行けるのはテスト中くらいだもんな。……よし、のった! あいつらも行っていいよな?」
中谷はヘンタイ六人衆の残り五人を指差した。五人は、これまでの話を聞いていたのか、すぐにある者は顔を上げ、ある者はイヤホンを外す。
永山と村田は大歓迎と言わんばかりに、二人同時に親指を立てた。ヘンタイ六人衆も昼食へ行くことに賛同し、山坂浩二と永山、村田、ヘンタイ六人衆の計九人で定食屋へ突入することが決まった。
「なっ、山坂も文句ないよな!」
笑顔で話す村田に、山坂浩二は小さく笑って肯定した。
男子生徒九人がそれぞれの準備を終え、会話をしながら教室の外へ向かっていった。中央階段を下り、校門を抜け、学校を少し離れてアーケード街に入り、脇道へと足を踏み入れる。普通自動車がかろうじて一台通れる道幅。軒を連ねる二階建ての木造住宅。その脇道の風景は、ここ何十年かは変化していないようで、訪ねてきた者に過去へタイムスリップしたかのような錯覚を抱かせる。
やはり男子高校生が大勢集まると賑やかになるようで、山坂浩二以外の八人は教室を出たときから会話に花を咲かせている。山坂浩二は集団の最後尾で一人歩いていた。
近くにいるはずの彼らの声が遠い。
男友達と行動を共にすれば気分も晴れるだろうと思っていたが、実際にはそう上手くはいかなかった。楽しもうとしても、不意に倦怠感が全身に覆い被さる。胸に穴が開いたかのような虚しい気持ちになり、ため息が止まらなくなる。自分の前を歩く八人との間に壊すことのできない壁が存在しているように感じてしまう。
もう、以前のように楽しめないのか。
女性に避けられても男友達といれば楽しかったのに。
月影香子や柳川友子といても楽しかったのに。
今は、誰といても、どこにいても、ただ虚しいだけ。
(どうせ十二日後に世界が終わるんだ。宗一とさくらにみんな殺されるんだ。もうすぐなにもかも無くなるんだから、何をしても無駄じゃないか)
山坂浩二は両手をスラックスのポケットに入れたまま、男友達の後を無言でついていった。
脇道を少し歩くと、古びた家屋の正面扉に暖簾が懸っているのが見えた。紺色の生地に白く『川上定食』と書かれている。目的地だ。閉まった扉に営業中の札が垂れ下がっているが、本当に店は開いているのかと疑わざるを得ない雰囲気。しかし、山坂浩二たちはこの店の料理人は腕がいいことを知っているため、知る人ぞ知る名店であることを理解していた。
先頭を歩いていた永山が川上定食の扉を横に滑らせた。秘境が外界と繋がる。店の中から「いらっしゃい!」という野太い声が聞こえてきた。続いて、
「あら、海斗くん。いらっしゃい。ひさしぶりだねえ」
という中年女性の柔らかな声が聞こえてきた。
「お久しぶりです、川上さん。今日は九人で来ました。うるさくなると思いますが、そこは大目に見てくださいね」
永山が珍しく柔らかな口調で言葉を並べる。低俗な男子高校生だったはずが、いつのまにか好青年に変化しているような気がしてならない。
見た目五十代半ばの女性店員が微笑む。
「まあ、九人も来てくれたの? だったら机をくっつけないと!」
彼女は店内に二つある四人用の机を隣り合わせ始めた。常連客らしい永山も彼女の作業を手伝う。
「昼間はお客さん、あまり来ねえからいくら騒いでも大丈夫だぜ。まあゆっくりしていってくれ」
厨房内にいる店主らしき男性が笑いながら話した。この二人の中年男性と中年女性は平均的な体格で、しわが少し目立ってきているが目鼻立ちは良い。店内には四人用の机が二つとカウンター席が七つ用意されていて、壁のいたるところに写真が貼ってある。それらの写真から、店員二人は夫婦で、この店を始めてから三十年は経っていることが推測できる。若かりし頃の二人はなかなかの美男美女だった。
二つの机が接すると、永山以外も店内に入ってきた。山坂浩二も暖簾をくぐって一番手前の椅子に座った。ちょうどヘンタイ六人衆と、永山と村田と山坂浩二が固まる構図になる。席に着いた九人は水を飲みながらメニューを見て注文する品を決めた。料理が出来上がるまでは山坂浩二も談笑に参加した。男子高校生たちの元気な声に包まれながら、店員二人はせっせと調理に励んでいた。
料理が出来上がると、大盛り無料サービスという店主の一言で店内は喝采で溢れた。時期的にテストであることを知っているのか、女性のほうは「試験頑張ってね」という言葉を永山たちに送った。
食事を開始してからも店内は喧騒に包まれていた。ヘンタイ六人衆はいつものようにある一つの話題で盛り上がり、永山と村田はそれに参加しつつも二人で最近面白い漫画などの話をしていた。店主もその妻も、彼らの様子を微笑ましそうに眺めていた。
スタミナ定食を注文した山坂浩二だけが、もくもくと食事に専念していた。しっかりと味付けされているにもかかわらず飽きのこない工夫。非常に多くの調味料を使い、繊細なバランスで作り上げられている。箸がすすむ。無気力状態から立ち直れなくなった山坂浩二だったが、このときだけは純粋に食事を楽しむことができていた。
山坂浩二が食事に夢中になっているとき、村田が山坂浩二に話しかけた。
「なあ、山坂。ちょっといいか?」
「ん?」
山坂浩二は口に含んだものを咀嚼して喉に通し水を流し込んだ。少し急いだせいで喉を押し広げられるような感覚があったが気にしない。
「どうした、村田?」
久しぶりに上等な食事にありつけた山坂浩二は、充実した気持ちのなか口を開いた。村田は気まずそうに尋ねる。
「山坂、最近元気ないみたいだけど、月影さんとか柳川さんとなにかあったのか? 最近は俺たちとばかり昼めし食ってるし、一昨日も昨日も今日も一人で学校来たり家に帰ったりしてるし」
騒がしさは収まらないが、山坂浩二の周辺だけは少しだけ落ち着きを取り戻したようだ。ヘンタイ六人衆の話し声を遠くに感じながら、山坂浩二は答える。
「いや、なにもないよ。俺はただ、あんまり調子が良くないだけだから」
山坂浩二はそう言いながら自分を嘲笑う。
なにもない? あっただろ。山坂宗一と月影さくらにボロ負けして、一瞬で世界が闇に染まってしまったんじゃないのか? そのせいで月影香子とも柳川友子とも接しないようにしているんじゃないのか? あと二週間も経たないうちに殺されてしまうから人生を諦めているんだろ?
なぜか、自分の心の声であるはずのそれが山坂宗一のものと重なった。
そうだ。自分を責め立てているのは退魔師としての自分だ。そして山坂宗一も元は退魔師だ。つまり、自分は退魔師たちに笑われているんだ。
黒い感情が山坂浩二を支配していく。今の自分が何かに押しつぶされていっている。乗っ取られようとしている。そんな気さえした。
山坂浩二が返事をして数秒後、村田が言葉を返した。
「まあ、お前にもいろいろあるんだろうから、他人である俺は山坂のことをとやかく言うつもりはないぜ。ただ、言うことがあるとすれば」
いつになく真剣な表情の村田。彼はわずかに間を置いた。
「どんな結果になったとしても、後悔しないような道を選んでいけってところか」
山坂浩二はわずかに眉を上げた後目線を落とした。この村田和正という男は、ただの昼食友達ではなく、高校生活の中で最も交流のある同級生の一人であり、山坂浩二をちゃんと見てくれている大切な友人なのだ。そんなことに、山坂浩二は今さら気づき、恥ずかしくなって返す言葉が思いつかなかった。
すると、
「おい、そんな辛気臭い顔すんなって。せっかくの美味い飯がまずくなっちまうだろ」
話を聞いていたのか、永山が山坂浩二の左肩を軽く突いた。山坂浩二は顔を上げた。永山は笑っている。
「あ、ああ。そうだな」
山坂浩二は力を抜いたように笑ってみせた。
永山と村田も口元を上げる。
「ほら、さっさと食うぞ」
永山の言葉に応えるかのように山坂浩二は食事を再開した。みそ汁をすする。ぬるくなってきているが先ほどよりもおいしく感じる。
山坂浩二の表情が自然な笑みに変わる。
この永山海斗という男も自分にとっては大切な友人なんだなと山坂浩二は気づいた。この定食屋に誘ってくれたのも、自分を元気づけるためだったのだろうか。自分が他人には言えない事情で悩んでいても、二人は必要以上に詮索せずに、ただ励ましてくれる。そして、店主まで巻き込んで舞い上がっているヘンタイ六人衆も自分のために明るく振る舞ってくれているんだろうか。
(……いや、それは考えすぎか)
いずれにしても、退魔師の力を取り戻すまでにも、自分は大切なものを築き上げてきたのだなと山坂浩二は思う。失いたくないと思う。退魔師としての誇りをほとんど失い、また戦意を完全に喪失した山坂浩二の深奥部で、何かが、ひっそりと、芽生えた。
そのことに、山坂浩二自身は気づいていなかった。