プロローグ 兄と姉
三月八日、火曜日。朝。
澄んだ風が、空気を冷やしながら通り過ぎていく。清浄された空気は朝日に照らされ、しだいに暖かみを帯びてくる。雲がまばらに浮かぶ空は青く、活動を始めた小鳥たちのさえずりが、圭市の住民に新たな一日の到来を知らせてくれる。
すがすがしい朝だ。
黒衣に身を包んだ山坂宗一は、朝の空気を鼻から深く吸い込みながら思った。彼が立っているのは、圭市の中央付近にある高台の崖近く。圭市の北半分を一望できる位置だ。もちろん銅鏡川や未来橋を見下ろすこともできる。
山坂宗一は新鮮な空気を肺に目一杯入れ、濁った空気を口からゆっくりと吐き出した。
「よっと」
深呼吸をした後、彼は勢いよく草むらに腰を下ろした。草丈は短い。だが、衝撃を吸収するのには十分だった。
山坂宗一は両足を伸ばし、両手を背中の後ろで草むらにつけた。黒衣の隙間から黒い衣服が姿を現す。全身を黒で統一した彼は、穏やかな表情で空を見上げた。
長い前髪の間から見える空は、気分まで晴れやかにしてくれる。
「朝から機嫌いいね、宗一」
凛々しい声が山坂宗一の耳に届く。女性のものだ。山坂宗一は右に振り返った。上は白い和服、下は赤い袴の女性が、彼に歩み寄ってくる。非常に整った顔立ちをしており、長身でなおかつ女性的な体つきをしている。肩にかかる黒髪は白いうなじを際立たせ、その少女から官能的な魅力を引き出している。
「よう、さくら。昨日はちゃんと眠れたのか?」
山坂宗一は月影さくらを見つめながら尋ねた。彼女は山坂宗一の右側に立ち、顔を左に向けて彼と目を合わす。
「うん、おかげさまでね。今日は、くまもでていなかったよ」
月影さくらは頬を緩ませた。風がまた、あらたにさわやかな空気を運んでくる。目線を合わせる二人から、暖かな雰囲気が作り出されていた。
「そうか。それはよかった」
山坂宗一は月影さくらから視線を逸らし、眼下に広がる圭市の街並みに目を向けた。一応、この県の中心地ではあるのだが、お世辞にも都会だとは言えない。
彼は首をわずかに動かして、ある一点を見つめ始めた。
「あいつら、今日からテストなんだよな」
山坂宗一は呟く。月影さくらは彼に目を向けたままでいる。
「そうみたいだね。わたしたちには、生徒だったときがないから、浩二や香子がちょっとだけ羨ましいんだよね」
「そうか? いろいろとめんどくさそうだぞ」
「確かに、宿題とかテストとか面倒だろうけど、でも、友達がいっぱいいるでしょ。なんだか楽しそうだよね。わたしも学校生活してみたかったな」
「おれも、してみたかったかもな。さくらと、登下校したり……」
山坂宗一は小さな声で恥ずかしそうに言った。すると、月影さくらが腰を曲げて彼の顔を覗き込み、にやにやしながら山坂宗一の目を見つめた。
「ねえ宗一、あなた、今なんて言ったの? ねえねえ」
月影さくらが声のトーンを上げて山坂宗一に迫る。彼は月影さくらから顔を背け、目を閉じて舌打ちをした。
「な、なんでもねえよ」
山坂宗一は不機嫌そうにごまかす。だが、月影さくらは退かなかった。
「ねえ、なんて言ったの? よく聞こえなかったから、もう一回聞かせてくれないかな?」
「ああ、もう、うるせえ! そんなこたどうでもいいだろ!」
山坂宗一は月影さくらと顔を合わせて声をあげた。照れ隠しにしか見えなかった。
「はいはい」
月影さくらは楽しそうに微笑みながら、曲げていた腰を伸ばした。目線は高くなり、人工物がたくさん視界に入る。
数秒後、月影さくらが思い出したように呟く。
「あれから、残党の様子がおかしくなったね。浩二も顔色が悪いし。少し、やりすぎたかな」
彼女の表情が曇る。月影さくらの視線の先には、山坂浩二の住む古いアパートがあった。彼女と同じところを見つめる山坂宗一が口を開く。
「やりすぎてなんかいねえ。死んでいない限り、残党は何度でも立ち上がるさ。今の浩二はどうなるかわからねえが、それでも俺は信じているぜ」
彼はうっすらとした笑みを浮かべた。
「浩二が、最後には葛藤を乗り越えて、戦ってくれるってな」
月影さくらは小さく笑う。
「たいした自信だね。もちろん、そう言える根拠があるんだよね?」
頷く山坂宗一。
「ああ。あいつは、俺の弟だからな」
「はは、なにそれ。全然根拠になっていないよ、宗一」
月影さくらは少しの間、笑いを堪えきれなかったようだが、笑いが止まると、山坂宗一に優しい目を向けた。
「でも、わたしもそう思う。浩二は宗一の、ううん、わたしたちの弟だからね」
日本最悪の霊能力者たちは、穏やかに笑った。
二人が圭市を襲撃するまで、あと、十二日。