エピローグ 光と影
三月七日月曜日。正午。
四限目の授業に出席していた山坂浩二は、椅子に浅く腰かけて黒板を眺めていた。科目は数学。教師の谷口正也が説明する内容も耳には入ってこない。
それもそうだ。昨日は日曜日だというのに休日ではなかったのだ。保護者が来校しやすいように、彼が住む県では、公立高校の卒業式は基本的に日曜日に行われることになっている。例年のように、彼が通う県立高原高等学校もそれに従って、昨日の三月六日に卒業式を執り行った。もちろん卒業式には、三年生だけでなく一、二年の生徒も出席しなければならず、山坂浩二も疲労困憊のなか、退屈な卒業式に顔を出した。
部活や委員会に所属していない山坂浩二には、親交のある先輩などいなかったため、他の生徒のように別れを惜しんだり、卒業生と戯れたりすることもなかった。
彼は、昨日は独りだった。
そして今日もまた、山坂浩二は独りで学校に顔を出す。
卒業式の代休は正式な春休みの一日前に振り当てられ、さらにその前日は日曜日のため、実質的な春休みは正式的なものよりも三日長くなっている。学校によっては今日が代休のところもあるが、高原高校はいつも通りに授業があった。
山坂浩二は浮かない表情のまま、前の席に座っている柳川友子に目線を移した。彼女は、一昨日に四肢を骨折するという重傷を負い、昨日は身体の修復のために卒業式を欠席していた。担任には体調不良という連絡を入れていたようだが、それはあながち間違いではなかった。
霊力による自己回復を一日かけて行った柳川友子は、本日から出席することができていた。だが、彼女の表情は曇っている。大量に霊力を消費する自己回復を一日中行ったのだ。体の損傷を直すことはできても、疲労は取り除かれておらず、本調子ではないようだ。
山坂浩二は机に広げられたノートと教科書に視線を落とした。だが、それは勉強するための行動ではなかった。
二日前の出来事が、山坂浩二の脳内で何度も再生される。
悪霊からの逃走。屋根が消え去った訓練場。そこで倒れ伏す残党。山坂宗一と月影さくらとの対峙、戦闘。惨敗。戦意の喪失。そして、彼らの口から語られた事。宣戦布告。
山坂浩二は実の兄である山坂宗一の言葉を頭の中で反芻する。
山坂浩二だけでなく月影香子も月の満ち欠けで霊力が変動する。二人のその特質は、生まれつきではなく、山坂宗一と月影さくらが村を抜け出した直後に発現したもの。山坂宗一と月影さくらの退魔村襲撃時に、山坂浩二は二人と戦っている。そして、山坂浩二の霊力が暴走して退魔村にとどめを刺した。また、山坂宗一は、山坂浩二が女性対象の人払いの霊力を微量に放っているとも言った。
(宗一とさくらは、いったい何を知ってるんだ? もしかしたら、俺と香子の両親の死からこれまでの出来事の中で、真実に一番近いのはあの二人なのか?)
山坂浩二は右ひじを机につけ、シャープペンシルを持った右手の甲を額に当てる。次に、満月の夜の決戦について、思い浮かべる。
決戦は月の出から開始。山坂宗一と月影さくらは圭市全域に悪霊を放ち、二人は圭市のどこかに身を潜める。残党は悪霊から街を守りつつ、二人を捜し当てなければならない。もし、捜し当てることができないまま月の位置が低くなり始めてしまったら、つまり時刻二十四時を過ぎてしまったら、月影さくらが圭市に降り立ち、無関係な市民を皆殺しにする。
(秀さんや紗夜さんが思っていたようには戦えないのか。全員であの二人を倒しにかかることはできないんだ。街を守る人と二人と戦う人に別れなくちゃならない。当然のように、香子やみんなは俺に期待するだろうな。満月の夜だけは霊力が反則的に強いからね)
山坂浩二は両目を閉じた。
(でも、俺は、戦いたくない)
山坂浩二は奥歯を噛みしめる。
(俺が戦わないとみんなが死ぬかもしれない。でも、戦っている最中に何かの拍子で霊力が暴走したら、俺がみんなを殺してしまう。たぶん、宗一の言ってたことは本当だ。この前の満月の夜、自分の力が怖かったのは、霊力の暴走を体が覚えていたからなんだ。そんな力を、俺は扱いきれるのか?)
両目を開き、彼はノートのある一点を見つめる。そこには何も書かれていない。その箇所だけでなく、そのページ全体が白いままだった。記述は金曜日の授業内容で終わっている。本日の板書はまったく写されていなかった。
(それに、もし戦って俺が勝ったとして、俺は宗一とさくらを殺せるのか? いくら親と村の仇で、俺たちを殺そうとしているとはいえ、あの二人はまぎれもなく人間で、しかも実の兄と香子の姉なんだぞ? 俺に香子みたいな殺意はないんだ。無理に決まってる)
山坂浩二は姿勢を変えずに考え込む。
(でも、俺に関係あるのは満月の夜だけだ。どれだけ頑張っても、あの二人にとって満月の夜以外の俺はどうでもいい存在なんだ。結局、俺が活躍できるのは満月の夜だけなんだ。だったら……)
顎の力が抜ける。
(俺はもう、満月の夜まで頑張らなくていいんじゃないのか? いや、圭市が滅ぶ可能性のほうが高いんだ。あと二週間で全部終わってしまうんだ。なら)
俺はもう、頑張らなくていいんじゃないのか?
そうだ。圭市民全員の命を自分が背負わなくてもいいんじゃないのか? そんな重責なんか投げ捨てて、日常の些細な出来事を楽しみながら、残り二週間の人生を楽しめばいいじゃないか。永山とか村田とかヘンタイ六人衆とかとバカ騒ぎしていればいいじゃないか。
山坂浩二は、自らの運命から逃避しようとしていた。それが、今の彼にとっては唯一の救いだった。
だが、彼の脳裏にある人物が浮かぶ。
柳田秀と水谷紗夜。山坂浩二にたくさんのことを教えてくれた、二人の、尊敬できる人生の先輩。
柳川友子。クラスメイトで、四月当初から山坂浩二と交流を持とうとしてくれた唯一の女の子。退魔師残党の大切な仲間。
そして、月影香子。彼女と出会わなければ、山坂浩二は退魔師の力を取り戻すことはなかった。彼女と共に悪霊を浄化したいと願ったからこそ、彼は退魔師の力を取り戻した。また、彼女の存在は、彼の世界から闇を消し去ってくれた。彼女と過ごした日々は、とても輝いていた。山坂浩二の親友で、頼れる戦友で、初恋の相手。
(みんな、ごめんなさい。もう、俺は、どうすればいいかわからないから、戦いたくない。何もしたくない)
額に当てている右拳を左手で握り込む。
(だからもう、関わらないで)
山坂浩二の脳裏に、もう一度月影香子の笑顔が浮かぶ。
(ごめん、香子。ほんとうに、ごめん)
山坂浩二には、もう、なにも聞こえなかった。
そのとき、彼の右肩に何かが触れた。山坂浩二は何事かと思って顔を上げると、視界に数学教師の谷口正也の姿が入った。彼は山坂浩二の右斜め前に立ち、愉快そうな笑みを浮かべて山坂浩二を見下ろしていた。
「山坂くうん? まさか、寝ていたんじゃないだろうな?」
「あ、いえ、寝てないです」
おどけた調子の声で話す谷口正也に対し、山坂浩二の声は沈んでいた。いつもと違う反応に谷口正也は彼の異変に気がついたのか、怪訝そうな表情を浮かべた。
「山坂お前、なにかあったのか?」
「いえ、なんでもないです」
谷口正也の声が優しくなるが、山坂浩二の調子は変わらない。彼の目には、光が宿っていない。谷口正也は「そうか」と苦い表情で呟いて山坂浩二に背を向けた。
山坂浩二は谷口正也の行動に何の感情も抱かなかった。もう、何もかもがどうでもよかった。
谷口正也はそのまま教卓に戻り、生徒たちのほうに向き直った。彼は山坂浩二と同様に浮かない顔をしている柳川友子には話しかけなかった。彼女が体調不良で卒業式を休んだことを知っているのだろう。谷口正也のなかでは、彼女はまだ病み上がりなのだ。だから、彼はあえて話しかけなかった。
柳川友子は確かに浮かない表情を浮かべている。だが、彼女のそれは山坂浩二のような無気力顔ではなく、まるで何かを思い詰めたかのようなものだった。
谷口正也は口を開いた。
「いよいよ明日からテストだな。前回は難しくしすぎたせいで赤点追試が大半だったから、今回は少し簡単にしておいたぞ。赤点をとらないように頑張ってくれ。追試する俺もめんどくさいんだ」
(そうか、そういえば、明日から学年末試験だったな)
谷口正也の話を聞き流しながら、山坂浩二は窓のほうを向いて空を眺め始めた。
(まあ、どうでもいいか)
移動してきた雲が太陽の前を通り、光を遮った。
同時刻。高原高校一年一組の教室。
英語の授業が行われているこの教室で、月影香子は教室のちょうど中央の席に座っていた。椅子に浅く腰かけ、背もたれに胴体を預けた姿勢で腕を組み、英文が書かれた黒板を眺めていた。
彼女の顔つきは険しい。机の上に教材を広げてはいるものの、それらに授業内容を書き込んでいる様子はない。ただ、何かを考えているようだった。
二日前の新月の夜。突如姿を現した山坂宗一と月影さくらに、退魔師残党は呆気なく敗れ去った。その二人の強大な力を目の前にして、月影香子以外のメンバーは動く気力さえも失ってしまっていた。
そのため、月影香子は訓練所と各々の住処を何度も往復して、残党の仲間たちを家に送り届けた。山坂宗一によって過度の精神的負荷を掛けられた柳田秀も、月影さくらによって深手を負った水谷紗夜と柳川友子も、月影香子のおかげで帰宅することができた。
そして、山坂浩二も、彼女の世話になった。
昨日の卒業式は山坂浩二と同様に月影香子も出席していた。しかし、その日、二人は行動を共にすることもなく、言葉を交わすこともなかった。山坂浩二が、月影香子から避けるようにしていたからだ。
今日も、二人は顔を合わせていない。
もう距離をとったりはしないと誓った月影香子だったが、一昨日の夜以来、山坂浩二との溝は深まるばかりだった。
山坂浩二だけではない。月影香子は、他の残党のメンバーとも距離を感じていた。彼女以外は全員、表情に影が差している。彼女だけが、依然として喜怒哀楽を表すことができた。
月影香子は自らのノートに目線を落とした。今日の授業は少し難しめの英文を和訳するというものだった。一応、予習という名の宿題を課せられてはいるのだが、彼女は英文のプリントをノートに張り付けただけで、日本語訳は一文字たりとも書いていない。
彼女はつまらなさそうに息を静かに吐いた。
そのとき、教壇に立っている女性教師が月影香子に目を向けた。視線を感じた月影香子は顔を上げる。
目が合った。
女性教師はにやりと笑う。
「それでは月影さん。この一文はどのように訳しましたか?」
彼女にそう尋ねられ、月影香子は眉をひそめた。
「この一文って、どの一文ですか?」
心底だるそうに問い返す月影香子。
女性教師は呆れたように、教卓の上に置いてあったプリントに目を通して答えた。
「下から三行目の途中からです。Thisから始まる英文ですよ」
月影香子はそう言われると、腕組みをやめて背もたれから離れ、両肘を机につけた。指示された英文を読み、不機嫌そうに目を閉じる。彼女はもともと、頭はいいのだ。呑み込みは遅いとはいえ、一度理解して覚えてしまえば、暗記も知識の応用も難なくこなせる。この英文も、山坂浩二と一緒に勉強した構文や単語が含まれており、彼女にとってこの文章を和訳するのは難しいことではなかった。
しかし、
「わかりません」
彼女はそう言って、また背もたれに身体を預けた。今度は太ももの上で両手を組む。
「予習してないの?」
女性教師は不機嫌そうに問いかける。
月影香子は小さく舌打ちをして、彼女を睨み付けた。
「してません。すいませんでした」
月影香子がそう言うと、女性教師は苦い表情をして、焦るように彼女から目線を逸らした。
「そ、それじゃあ、後ろの席の土田さん。月影さんの代わりに訳してくれますか?」
氏名された女の子、はショートカットの、真面目そうな生徒だった。彼女は文句も言わずに、和訳をすらすらと読んでいく。
月影香子は外に目を向けた。冬は乾燥して快晴の多いこの地域だが、今日は雲が少し浮かんでいる。彼女は何かを決意したように、誰にも聞こえないような声で呟く。
「あたしがやらなきゃ」
雲が、太陽の前を通り、教室がわずかに暗くなった。
「あたしが、みんなを立ち直らせるわ」
山坂宗一と月影さくらの訪問は退魔師残党に変化をもたらした。
絶望と重責が、彼らの世界を闇に染めていく。
彼らがどれほど願っても、時間は止まらない。
虐殺の時は近づいてくる。
それぞれの思いを嘲笑いながら。
満月の夜まで、あと、十三日。
第三章《残党編》はこれで完結です。
書き終えた感想は、短編は難しい、ですね。一応短編ということなので、あまり長くならないように文字数を調整するのが大変でしたね。僕の今の実力は本編から察していただけると嬉しいです。
さて、『ムーン・ライト』本編では唯一の短編集である、この第三章のテーマは、一貫して『自覚』というものでした。浩二くんは、一つ目の話の「築かれた信頼」では、退魔師の仕事としての側面とパートナーとの信頼関係を自覚し、二つ目の話の「想い」では、パートナーである香子さんへの恋心を自覚し、三つ目の話の「新月の夜」では、無力を自覚しました。また、「新月の夜」の裏テーマとして、退魔師は死と隣り合わせであるというものを考えて執筆しました。
また、第三章では、小説タイトルである『ムーン・ライト』が一度も登場しませんでした。ここでは、月光と訳しておきます。まあ、月は満ちたり欠けたりしますから、月が登場しないこともあるのです。
では、ちょっとだけ次回予告を。
次の章は、第一部の完結編となります。『ムーン・ライト』全体で見た中では、起承転結のうち、起の転と結です。ここまで書いてまだ「起」かよ、と私も頭を抱えていますが、めげずに執筆していきます。読了時間は500分程度になると予想しています。
退魔師残党と香子さん、そして浩二くんが、どんな葛藤を抱え、どのようにして決戦までの時を過ごすのか。満月の夜にそれぞれがどう行動するのか。山坂宗一と月影さくらは何を知っていて、何を目的にしているのか。第四章を楽しみにしてくださると嬉しいです。
第四話プロローグの更新は、10月16日(水)の午後10時頃の予定です。
それでは、ここで感謝の言葉を。
拙作をお気に入り登録してくださった方々、評価してくださった方、ありがとうございます。期待を裏切らないように、これからも執筆していきますので、今後ともよろしくお願いします。
今はもう懐かしい思い出と化してしまった高校時代の友人たち。私はまだ性懲りもなく構想を練って書き続けていますよ。あの時は原案を聞いてくれてありがとう。実は、もらったアドバイスのうち、作品に反映させたものも結構あるんですよ。
そして、ここまで読んでくださった方々。本当にありがとうございます。
『ムーン・ライト』はまだまだ続きます。全何部全何章構成なのかは、第四章の後書きにて明らかにしたいと思います。まだまだ力不足なところが目立ちますが、頑張っていきます。
ちなみに、次の章からは、一話ごとに数セクションに分けて更新いたします。小説の削除はなるだけしないでくださいとのことなので、第四章以降は結合いたしません。更新一回ごとに5000~7000文字を目安にしていきます。三日に一回は更新できるように尽くします。サボり体質な私が、できるだけ毎日書けるように工夫したつもりです。ご理解のほど、よろしくお願いいたします
では、今回はこのあたりで。また、次の章でお会いしましょう。
2013年10月11日(金) 武池 柾斗
※この物語はフィクションです。実在の人物、団体、事件等とは一切関係ありません。