第九話 新月の夜(下)
訓練場に降り立った山坂浩二と月影香子は、倉庫内の光景に息を呑んだ。戦闘不能に陥った残党の仲間たちと、見知らぬ男女二人組。その光景は、山坂浩二がこれまで生きてきたなかでは最も衝撃的なものだった。
そして、顔を合わせるのは初めてであるはずの女に、山坂浩二は名前を呼ばれ、さらには「久しぶり」と声をかけられた。
現在、自分が置かれている状況を、山坂浩二はしばらく把握できなかった。
(何が起きてるんだ? みんながあの二人にやられたと考えるのが普通か。でも、秀さんと紗夜さんと柳川さんまでやられるなんて信じられない)
山坂浩二は、こちらに微笑みかけてくる巫女風の女を凝視した。
(でも、実際にみんなやられてるんだ。まずはそれを受け止めないと。誰だがわからないけど、あの二人はとんでもなく強いって認めないと)
あの二人が誰なのか、山坂浩二にはわからなかった。いや、見当はついている。しかし、それを認めなくはなかった。わかりたくなかった。
考えを巡らせることしかできない山坂浩二。そんな彼の右隣に立っている月影香子は、水谷紗夜の髪を掴んだままでいる女をしばらく睨み付けていた。
不意に、彼女は目を見開いて声を漏らした。
「さ、く、ら?」
彼女の言葉が耳に入った瞬間、山坂浩二の背筋が凍りついた。認めたくなかったことが、自らのパートナーによって真実味を帯びる。
あの白い上衣と赤い袴の女を見るのは初めてだ。しかし、彼女の顔立ちや雰囲気には、山坂浩二のよく知る人物の面影があった。一目見た瞬間から、彼女があの月影さくらだということは、山坂浩二は直感的に気づいていた。
柳田秀から聞いていたあの超危険人物。退魔村百年に一度の二人組の片割れ。自らの両親を殺害して村から抜け出し、その後山坂宗一とともにたった二人で退魔村を壊滅させた。二人に刃向う霊能力者は例外なく行方不明になっている。今の二人は存在さえも隠蔽されている、近接戦闘では日本最強の霊能力者の、あの月影さくらが目の前にいる。
そして、彼女が月影さくらであるということから、男の正体にも想像がついてしまう。
日本最悪の悪霊使い、山坂宗一。
彼の経歴は月影さくらと同じ。
山坂宗一は、莫大な数の悪霊を操り、彼自身の戦闘力も高い。彼が支配下に置いている悪霊のすべてが解き放たれれば、数日を待たずして日本は滅びるとも言われている。そのうえ、彼は山坂浩二の実の兄であった。
山坂浩二は長髪の男を見据えた。
彼の目は髪の毛によってはっきりとは見えない。しかし、かすかに捉えることのできるその目や鼻、唇や輪郭は、山坂浩二に馴染みのあるものと重なる。
(あいつが、宗一。俺の兄貴)
山坂浩二は自分の手のひらが湿ってきたことに気づく。いずれは戦う運命にあった人物との邂逅。
山坂浩二は、今ここでどのように動くべきか判断できなかった。
月影香子も彼と同じなのか、自らの姉を見続ける以外の動きを見せない。
そんな膠着状態のなか、月影さくらはわざとらしく盛大にため息をついた。あきれたような笑みを見せて首を左右に振る。
「やれやれ。せっかくの山坂兄弟と月影姉妹の十年ぶりの再会だというのに。わたしは、香子が感極まって抱き付いてくるのを期待していたんだけどね。なのに無視するなんて、さすがのお姉ちゃんも傷つくな」
月影さくらは、月影香子に聞えるような声量で言った。だが、姉からの言葉を聞いても月影香子にはほとんど変化はなかった。両拳を握りしめる程度だ。
月影さくらは右手を後頭部に添えて妹から目線を逸らし、微笑みながら山坂宗一に意識を向けた。
「ねえ、宗一は浩二に何か言うことはない? 生き別れの弟なんだよ? あ、なるほど。香子はわたしのことを覚えているけど、浩二は宗一のことを覚えていないから、冷たくされるのが怖くて話しかけられないんだね」
「うっせえ黙っていろ」
山坂宗一は横目で月影さくらを睨みながら低い声を出した。
月影さくらは落胆したように両手を腰につけた。
「はいはい。ごめんね。愛する我が妹と弟にようやく会えたから、勝手に盛り上がってしまったんだよ。無視されているけどね」
月影さくらは軽口を叩く。
しかし、山坂浩二には、そんな様子の彼女でさえも尋常ではない威圧感を放っているかのように思えた。
その時、少し前から見開かれていた月影香子の目に再び鋭さが宿った。威嚇するかのような目を月影さくらに向け、歯を食いしばる。
「さくら……」
月影香子は重たい声で姉の名前を呟く。同時に、握っていた両拳が震え始める。彼女の隣にいた山坂浩二が感じ取ったのは、ただならぬ殺気だった。
そして。
「さくらあああああああああああああああ!!」
月影香子の怒号が倉庫内に響き渡り、夜空に突き抜けた。叫ぶとともに彼女は床を蹴りつけ、月影さくらに向かって駆け出した。
月影香子は一瞬にして二本の刀を作り出した。怒りと憎しみが彼女の感情を支配し、体の底からさらなる力を引き出していく。
月影さくらは妹の異変にすぐさま気がついた。別人と見間違えるほどの表情で、月影香子が迫ってくる。
だが、まるでこうなることを望んでいたかのように、月影さくらは口元を上げた。
月影香子は親と村の仇である自らの姉に、右の日本刀で斬りかかった。月影さくらは後退してそれをかわす。月影香子はすぐに一歩踏み込んで右の斬り返しを行い、続けて左の斬撃を繰り出す。二本の刀による連続攻撃が月影さくらを追い詰めていく。
月影さくらは妹の猛攻をただ回避するだけだった。しかし、彼女の表情からは余裕が消えていた。妹の猛攻は止まない。がむしゃらに斬りかかっているように見えるが、隙がない。攻撃は最大の防御という言葉を、今の月影香子は体現していた。
月影香子の横一文字の斬撃が月影さくらを捉えた。回避が間に合わず、右の刀による内から外への斬り払いを姉は右腕で防ごうとした。
月影さくらの皮膚硬化は水谷紗夜の全力をも防ぐ。そして案の定、彼女の右腕は月影香子の刃を通さなかった。顔の前にある右手を刀の進行方向とは反対方向に押し出し、月影香子の右の日本刀をへし折った。
そこで、へし折ったことで月影香子に好機が訪れる。月影さくらに隙が生まれ、月影香子は勢いに乗ったままだ。月影香子はその勢いのまま左の刀を横一文字に振る。月影さくらは一歩退くがわずかに遅れる。
刀の切っ先が月影さくらの右頬を斬りつける。これまで無傷だった彼女だが、ここで顔に一本の赤い筋が通った。おそらく皮膚硬化が甘かったのだろう。
その状況で、月影さくらは不敵な笑みを浮かべた。月影香子は折れた右の刀を霊力の粒子に変え体に吸収する。それと同時に左の刀を両手で持ち、右からの斬り返しを月影さくらに向ける。月影さくらは回避しようとしなかった。
月影香子の斬撃が姉に届く直前に赤い何かに阻まれる。月影さくらが赤い棒状のものを作って攻撃を防いだようだ。
月影さくらは、すぐさま右足で月影香子を蹴り飛ばした。腹部に受けたあまりの衝撃に耐えられず、月影香子は空中で日本刀を手放してしまう。彼女は背中から着地し、数回転がった後、腹を押さえてせき込みながら立ち上がった。
月影香子は、依然として殺意に満ちた目を姉に向ける。
月影さくらは、右手で武器を持ったまま左手で右頬の傷を拭った。鮮血が手の甲に塗り付けられるのを見た彼女は満足そうに微笑み、妹を見つめた。
「新月の夜なのに、なかなかやるね香子。昔と比べて確実に強くなっているみたいで、わたしは嬉しいよ」
彼女がそう言うと、右頬の傷が赤い光を発した。光はすぐに消え、頬の傷は跡形もなくふさがっていた。
月影さくらは両手で武器を構える。はっきりと形を現したそれは、彼女の身長とほぼ同じ長さの日本刀だった。
「さあ、これからが、本番その二だね」
正眼の構えで、月影さくらは凛々しい笑みを見せた。
月影香子が月影さくらに斬りかかっている頃、山坂浩二と山坂宗一は十メートルほどの距離をとって対峙していた。
「おい、さくらと香子のほうは戦い始めたぞ。浩二、俺たちはどうする?」
山坂宗一は山坂浩二に問いかける。山坂浩二は返事をせずに考えを巡らせる。
(どうする? ここで戦っても勝ち目がないことは明らかだ。こいつらは、今日は俺たちを殺すつもりはないっぽいな。なら、一度戦ってみて宗一の戦い方を探るのも一つの手か)
山坂浩二は息を吐いた。
そして、男の霊力の一部を女の霊力に塗り替えた。
割合は一対一。霊力変換に伴う痛みも少ない。これなら、どんな戦況にもある程度対応できる。彼は錫杖を作り出して構えた。
山坂浩二の霊力の変動を感じ取った柳田秀はすぐさま叫んだ。
「浩二さんいけません! 今のあなたがいっても勝ち目は」
しかし、彼の叫びは強制的に止められてしまう。青い光が彼の口を覆ったのだ。
「うるせえな。てめえは黙っていろ」
山坂宗一は後ろを振り向いた。柳田秀の右半身が山坂宗一に向いている。柳田秀は、かろうじて二人の動きを目視できる位置にいた。
柳田秀は何かを言いたそうにしているが、結界で声を遮断しているため、今は唸り声さえも聞こえない。
「ったく、遅れてきたヒーローにちょっとは花を持たせてあげろよ。ここでおれと戦わずに逃げるようじゃ、ヒーロー失格だ。どんなに絶望的な状況でも、立ち向かうのがヒーローってものだろ?」
山坂宗一は柳田秀にそう話すと、彼に背を向けて自らの弟と相対した。
「さてさて、ここにいる全員の希望であるお前は、踏みつぶされても立ち上がれるか、それとも、潰れたままでいるのか」
日本最悪の悪霊使いは口元を釣り上げる。
「無責任な期待をかけられた浩二は、いったいどっちなんだろうな」
彼のその言葉を聞いた山坂浩二は、意を決したように唯一の肉親に向けて駆け出した。
月影姉妹の戦闘は再び膠着状態に陥った。これまでは素手で戦ってきた月影さくらが、ついに武器を作り出したのだ。
月影さくらの両手に握られているのは、彼女の身長とほぼ同じ長さの日本刀。月影香子が扱うものよりも二倍の長さがある。
正眼の構えで、姉は妹の月影香子を見つめる。月影さくらの表情には余裕のある笑みが浮かび、月影香子の両肩は深い呼吸で穏やかに上下している。月影香子は鋭い視線を姉に向けた。
「そうだったわね。さくらは、長い刀を使うんだったわね」
月影香子はどこか緊張した面持ちで口を開く。
「確か、お母さんは、鞘が付いてるちょっと長めの刀だった気がするわね」
緊迫した空気をまぎらわせるかのように、彼女は口元を上げた。月影香子の言葉に、月影さくらは驚いたようにまぶたをわずかに上げて、微笑んだ。
「へえ、わたしのことも、お母さんのことも覚えてくれているんだ? そうだよ。お母さんは鞘付きの刀で、居合切りが得意だった。でも、片手で持った鞘を防ぐのに使って、もう片方の手に持った刀で斬りつけるのが基本戦法だったけどね。それこそ香子みたいに」
「あたしみたいに?」
月影香子は眉をひそめた。月影さくらは続ける。
「そう。香子は基本的に、左の刀で防御して、右の刀で攻撃しているよね。両方攻撃に使ったり防御に使ったりすることもあるみたいだけど。それでも、動きはお母さんに似ているな。さすがは親子って感じだね」
彼女は小さく息を吐いた。
「わたしは、鞘がなくなって刀が伸びたって感じだね。動きはそんなに似ていないはず。霊力操作の得意不得意はお母さんに似ているみたいだけど」
「なんで、十三年間も会わなかったあたしのことを知ってるのよ」
月影さくらの語りに、月影香子が口をはさむ。
「まるでずっと見てきたみたいじゃない」
妹は憤りを隠せなかった。強く噛み合った白い歯を晒し、親と村の仇である姉を睨み付ける。そんな妹を前にして、月影さくらは口元を釣り上げた。
「だって、ずっと見てきたから」
姉のその言葉で、月影香子の全身に波打つように鳥肌が立った。月影さくらに対する嫌悪感は最高潮に達し、殺戮衝動を抑えられなくなる。我慢しきれなくなった月影香子はありったけの力を込めて月影さくらに斬りかかった。
月影さくらの表情から笑みが消える。眉間にしわをよせ、目つきが鋭くなる。彼女は襲い掛かってくる妹めがけて容赦なく長刀を振り下ろした。
月影香子は長刀の切っ先を反射的に左の刀で防ごうとする。二つの刃が衝突し、火花が散る。二人の距離では、月影香子の右の斬撃は届かない。彼女が距離を詰めようと右足を踏み込んだとき、左の刀が強引に切り裂かれた。
勢いを完全に殺された月影香子は後ろによろめき、長刀の切っ先は彼女の目と鼻の先を通過していく。だが、通り過ぎたと思った直後、長刀は月影香子の喉もとに向けて突き出されていた。
月影香子は反応できない。だが、幸いなことに、長刀の先端はぎりぎり届かない。月影香子は後ろに跳んで月影さくらと距離をとった。
折れた左の刀を一度霊力粒子に戻したあと、日本刀に再構築する。自然と荒い呼吸になる。月影さくらは追撃してこなかった。彼女は長刀を右手に持ち、腕は下げていた。一瞬のうちに反撃された妹に対して、姉は冷たい視線を突き付ける。
「戦いで冷静さを失くしてはいけないよ、香子。今のあなたでは、わたしに力で勝つことなんてできないから。今日は体が思ったように動かないの、香子自身もわかっているんでしょ? だったら、もっと工夫しないといけないよ」
「うるさいわね! あんたにあたしの何がわかるって言うのよ!」
激昂した月影香子は月影さくらに向かって突進する。月影さくらはあきれたように一瞬目を閉じ、目を開くと同時に長刀を両手で持って右から左へと薙ぎ払った。
月影香子は身をかがめてその斬撃を回避し、低い体勢のまま月影さくらの懐に入って反撃しようとした。
だが、それが通用するほど月影さくらは甘くなかった。彼女の右側に迫ってくる月影香子の姿を捉えた直後、長刀を握っていた右手を逆さまに持ちかえ、間髪入れずに長刀を逆方向に振る。長刀の峰が月影香子の後頭部を直撃した。月影香子は前進していた勢いのまま顔から床に激突し、体と床がこすれ合う。
右手の日本刀が月影香子から離れていき、床を転がる。
月影香子の体が止まった。彼女は立ち上がらなかった。
月影さくらは後ろに振り向き、うつ伏せになっている月影香子に歩み寄った。妹の後頭部を見下ろし、姉は口を開く。
「ねえ、香子。体が重いんだったら、無理に突っ込んでくることないよね? 最初は受けに回った方が良かったかもしれないのに」
彼女は左目を閉じ、左手を後頭部に当てる。
「でも、今日は新月だから防ぎ切れない、か」
月影さくらは興醒めしたかのようにため息をついた。その刹那、うつ伏せ状態の月影香子が体を左にねじって上半身を起こし、左の刀で月影さくらに襲い掛かった。
だが、その攻撃も、まるで見透かされていたかのように月影さくらに防がれてしまう。長刀を握った右手を顔の前に置き、切っ先を床に向けて、彼女は妹の斬撃をいとも容易く止めていた。
月影さくらは鼻で笑う。
「不意打ちなんて、らしくないね、香子」
余裕を見せつける月影さくらに対し、月影香子は険しい顔つきを向けた。舌打ちをし、体を右にひねり戻しながら左の刀を数十メートル先へ放り投げる。そのまま床に両手をつけて跳ね上がり、月影さくらと距離をとった。
投げた日本刀のそばに着地した月影香子は、日本刀を右手で拾い上げた後、月影さくらを睨み付けた。彼女は先ほどの場所から移動していない。冷めた目で妹を見ている。
「なんなの? いったい何がしたいの? さくら。あんたたち二人の行動が理解できないわよ。あたしたちの親を殺して、村から抜け出して、村を壊滅させて、あたしと浩二を十年間引き離して、最後にあたしたちを殺そうとしてる。どれもこれも繋がらないわ」
月影香子は重く静かな声で姉に問いかける。
月影さくらは、戦いの相手にならない妹に対し、見下すような笑みを見せた。右手に持った長刀の峰を右肩において、彼女は口を開いた。
「それは、今は話せないな。次の満月の夜に話してあげるつもり。もちろん、冥土の土産としてね。でも、そのすべてに繋がるようなヒントは今日話してあげるよ。もともとそのつもりで来たんだし。宣戦布告も兼ねてだけど」
そこで月影さくらは息を吐いた。これからそのヒントとやらを言い、宣戦布告もするのだろうか。月影香子には襲い掛かる気がなかった。
だが、次の瞬間、月影さくらが一瞬で彼女との距離を詰めてきた。月影香子は両手で一本の日本刀を握り締め、姉の斬撃に対応した。
甲高い金属音が倉庫内に響き渡る。一本に集中しているためか、刀身は折れていない。月影姉妹の刀はお互いから離れ、もう一度打ち付け合う。そして鍔迫り合いに持ち込まれた。姉は不敵に笑い、妹はいきり立っている。
「いいね、香子。今のあなたが一本で戦うのは正解だよ。でも、一本じゃわたしに勝てる要素なんてないから、次の満月の夜は、ちゃんと二本で戦ってね」
「だから! さっきから何なのよ! 新月だからとか満月だからとか! あたしと何か関係あるの!?」
月影香子は押し切ろうとするが、月影さくらは足が固定されているかのようにまったく動かない。
月影さくらは涼しげな顔で口を開く。
「大いに関係あるんだよ。それより、香子、自分のことなのに気づいていないの?」
「知らないわよ!」
吠える月影香子の前で、姉はため息をついた後に話を続けた。
「香子。あなたは、新月のときは霊力が落ちて、満月のときは霊力が格段におおきくなるんだよ。月が欠ければ欠けるほど霊力は小さくなって、満ちれば満ちるほど霊力はおおきくなるんだ。とくに、新月と満月のときの変動は格別なんだよね」
月影香子は目を見開いた。しかし、彼女は何も言わない。月影さくらの言葉に聞き入っていた。
「浩二や悪霊のせいで気づかなかったかもしれないけど、香子も満月の夜は強くなるんだよ。霊力はわたしと同じか、もしかしたらわたしよりも少し大きいかもしれないね。今は新月で霊力が弱くなっているから、わたしがちょっと本気を出した程度で無様な姿を晒すことになるんだけど」
月影さくらはそう言うと、刀を押して月影香子を弾き飛ばした。月影香子は尻餅をつく。すぐに立ち上がろうとするが、月影さくらが鼻先に長刀を突き付けてきた。月影さくらが見下ろしてくる。動けない。主導権は姉が完全に握っていた。
「よく聞いて、香子」
かつての憧れだった姉が月影香子に優しく声をかける。月影香子は両手を床につけたまま彼女を見上げ、目線を合わせた。
「あなたはね、呪われた子どもなの。浩二も、それから宗一とわたしも、たぶん呪われている」
「ど、どういう意味よ」
月影香子は震える声で尋ねた。
「別に、深い意味はないよ。ただ、不幸だった。それだけだよ」
近接戦闘では日本最強の霊能力者と言われる月影さくらは、悲哀に満ちた笑みを浮かべる。まるで自分が悲劇のヒロインであるかのように。
「かわいそうな香子。香子にだけ、特別に教えてあげるよ」
彼女は一呼吸置いて続ける。
「香子が大きな霊力を持っているのと、女の霊力なのに青いのは、生まれつきではないんだよ。わたしが村を抜け出すまでは、香子の霊力はお母さんと同じで平凡だったし、赤かった。得意なのも、身体能力の向上くらいだった」
月影香子は眉をひそめたが、姉は話すのをやめなかった。
「残党とは次元が違うけど、わたしもお母さんに似て身体能力の向上以外はあまり得意じゃないね。でも、香子は、わたしが村を抜け出してから、飛行と自己回復が急に得意になっていた。霊力も格段に大きくなっていた。霊力も青く光るようになっていた。つまり、あなたの今の力は、後付けのものなんだよ」
彼女の言葉を聞いて、月影香子は首を左右に小さく振った。怯えるように姉の目を見つめ続ける。
「なによ、それ? あたし、あんたがいた頃なんてほとんど覚えてないし、生まれつきの力じゃないとか意味わかんないし、あたしと浩二が呪われてるなんてバカみたいだし、なんでそんなことを話すのかも、しかも大事なところは隠して話すのも、全部理解できないわよ……」
そして、月影香子の顔つきが険しくなる。
「どうして、知っても役に立たないことばかり話すのよ!?」
妹の咆哮は、姉に対してはあまり威力がないようだった。月影さくらは再び不敵な笑みを浮かべて妹の問いに答えた。
「言ったでしょ。これは、ヒントだって。自分でいろいろ考えてみるのもいいものだと思うんだけどね。どうせ満月の夜には答えを出してあげるんだから」
彼女はそう言って目を閉じた。
「それより、ほら」
月影さくらは目を開けた。長刀を右手に持って月影香子の動きを牽制したまま、左半身を後ろに向ける。
「そろそろパーティもお開きのようだね」
そう言う月影さくらの表情は、少し物悲しそうだった。
月影さくらが長刀を使い始めた頃、山坂浩二は山坂宗一との距離を詰めていた。二人の霊力差は一目瞭然だが、山坂浩二は実の兄と戦うことを決めた。
山坂浩二が間近に迫っても、山坂宗一はまったく動きを見せない。山坂浩二は兄に錫杖を突き付けようとした。案の定、結界で防がれる。山坂浩二は後ろに跳んで山坂宗一と距離をとりつつ、空中で右手から光弾を二発放った。ソフトボール大の青い霊力の塊が山坂宗一に迫る。だが、それらも山坂宗一の結界によって阻まれてしまう。
しかし、これは様子見だ。消費した霊力量も少ない。やはり山坂宗一の周りには、彼を包むように球状の青い結界が張られていた。想像以上に頑丈だ。柳田秀の結界が可愛く思えてくる。これでは、霊力を凝縮した光弾はおろか、霊力の針でさえも、あの結界を崩すことはできないかもしれない。
だが、やってみるしかない!
山坂宗一と十数メートル離れた位置に着地した山坂浩二は、右手に集めた霊力を限界まで圧縮し、霊力の針を撃った。山坂浩二の切り札であるそれは空中を高速で突き抜け、山坂宗一の結界に衝突した。
霊力の針が結界に突き刺さる。障壁を破壊するまでには至らない。山坂浩二は攻撃の第四波として、もう一度霊力の針を射出した。
彼はそれと同時に山坂宗一に向けて突進した。二本目の針も結界を貫くことはできない。しかし、山坂浩二は結界のある一点が脆くなっていることを見逃さなかった。彼は全速力のまま錫杖を結界へ突き出した。
錫杖の先端は見事結界の弱点を突いた。結界にひびが入る。山坂浩二は結界に留まっている針を、二本とも爆発させた。
爆発の衝撃が山坂浩二を襲うが、彼は耐える。結界は破壊され、ガラスを割ったような音とともに破片が飛び散る。
しめた!
山坂浩二は内心高揚しつつ、山坂宗一に向けて錫杖を突き出した。日本最悪の悪霊使いといえども、もとは山坂浩二たちと同じ男の退魔師だ。体を強化できないため、女の霊力を込めた物理攻撃を一回でも受ければひとたまりもない。
そして、結界が破壊された今となっては、山坂宗一を守るものは何もない。山坂浩二はかすかな希望を持った。
だが、山坂浩二は甘かった。
山坂宗一の直前、皮膚からわずか数センチのところで錫杖は再び進路を妨げられた。結界だ。彼の体を一回り大きくした形の結界が、山坂宗一を守っていた。
山坂浩二は息を呑んだ。希望が絶望に塗り替えられていく。相手は退魔村百年に一度の天才と言われた二人組の片割れだ。これくらいの芸当ができても不思議ではない。
そこで、山坂宗一が口元をわずかに上げた。
その瞬間!
飛び散った結界の破片が、一斉に爆発を起こした。
青い閃光と轟音が山坂兄弟を呑み込む。視覚と聴覚が狂い、爆発の衝撃が山坂浩二の前面に襲い掛かる。
山坂浩二は吹き飛ばされ、床に転がり落ちた。霊力の大量消費も相まって、痛みが全身を駆け抜けていく。体の位置が落ち着くと同時に目と耳が正常に戻り、自分の意思で体を動かせるようになる。
うつ伏せになっていた山坂浩二は顔を上げる。山坂宗一は無傷で、先ほどの場所から一歩も動いていない。
「浄化の退魔師最弱の霊力で、よくここまでできるようになったもんだな、浩二。兄として誇りに思っているぜ」
山坂宗一は二十メートルほど離れたところで倒れている山坂浩二に向けて言葉を送る。
「今のてめえの実力はよくわかった。だから」
兄は一呼吸置いた。
「次は俺の力を、体で実感させてやるよ」
山坂宗一は邪悪な笑みを浮かべ、山坂浩二のもとへ歩き出した。
山坂宗一の歩みはゆっくりとしたものだった。山坂宗一から山坂浩二まで約二十メートル。その距離を、山坂宗一は遅い足取りで徐々に詰めてきている。
山坂浩二は、背筋が凍るような感覚に襲われながら立ち上がった。集中が一度切れてしまったため、錫杖は赤い光の粒子となって霧散してしまう。山坂宗一が一歩踏み出すごとに、山坂浩二が感じる悪寒は強くなっていく。そして、その悪寒は、悪霊と接近したときに感じるものと酷似していた。
そこで、山坂浩二は数時間前の出来事を思い出した。
(今日の夕方、未来橋で俺とすれ違ったあの男は、宗一だったのか? 今思えば、あいつの姿も宗一にそっくりだった。あの時感じた悪寒と、今感じてるものもほとんど同じだ)
山坂浩二は近づいてくる実の兄に鋭い視線を向ける。
(でも、なんであの時、宗一は俺とすれ違うような真似をしたんだ? それも、未来橋に人がいない時と俺が未来橋の近くにいる時を見計らって。……いや、俺とすれ違うためだけに、未来橋に人が近づかないように霊力を使っていたのか?)
山坂浩二の全身が粟立つ。あいつはそれだけのことを易々とやってのけるのか? 山坂浩二は唾を呑んだ。
今、自分は日本最悪の霊能力者と対峙している。そして彼の力は未知数だ。ただ、近くにいるだけで体の震えが止まらなくなる。強大なる力に対する純粋な恐怖が脳を支配する。厳しい訓練を行い、精神的にも肉体的にも急激な成長を遂げ、山坂浩二は慢心していた。今の自分たちなら、山坂宗一と月影さくらに立ち向かえると。
だが実際のところどうだ? 残党の仲間たちは無残にも敗北し、遠くで戦っている月影香子も月影さくらにもてあそばれ、そして自分は、全力攻撃をいとも簡単に防がれて反撃され、攻撃宣言をしてきた山坂宗一を目の前にして怯えて震えることしかできない。
「くそ」
山坂浩二の口から声が漏れる。
「くそっ」
無力な自分に対する怒りの声が。
「くそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
その怒りと、満月の夜以外の自分は無力だ、ということを認めたくない想いが咆哮となり、山坂浩二の理性を奪い去った。体に残る男の霊力のほとんどを赤色に染め上げる。山坂宗一との力の差を忘れ、雄叫びを上げ終えた山坂浩二は、自分への怒りに任せて山坂宗一のもとへ駆けていく。
二人の距離は約十メートル。女の霊力で身体を強化させた山坂浩二ならば一瞬で詰めることのできる距離だ。だが、山坂宗一は弟が動き出した直後に、ソフトボール大の青い光弾を十発、山坂浩二に向けて一斉射していた。
襲い掛かる光弾を山坂浩二はサイドステップですべてかわした。光弾は進路を変えてどこかへ飛んでいく。山坂浩二はそれを気にもかけずに正面から山坂宗一に殴りかかった。全力を込めた一撃だったが、あえなく球状の結界に阻まれる。理性を一時的に失った状態の山坂浩二は、右拳に続いて左拳を結界に激突させた。山坂宗一を守る結界はびくともしない。山坂浩二は自分で自分を痛めつけるかのように拳をぶつけていた。
「ばかかてめえは」
山坂宗一がそう呟くと同時に、どこからともなく飛来したソフトボール大の光弾が山坂浩二の右側で爆発を起こした。その衝撃によって山坂浩二は飛ばされ、床を転がる。だが、山坂浩二は床を転がる勢いを利用してすぐに立ち上がり、山坂宗一に向けて走り出した。その直後、再び光弾が山坂浩二の前方に迫り、破裂した。彼は後方に飛ばされる。そして、山坂浩二の体がまだ宙に浮いているときに別の光弾が彼に接近して爆発する。その後、山坂浩二は空中で立て続けに七回の爆撃を受けることとなった。
この光弾はすべて、山坂宗一が先ほど放ったものだった。彼は、山坂浩二に回避された光弾の進路を変え、倉庫内に分散させた後、再びそれぞれの軌道を変えて山坂浩二に向かわせたのだった。
山坂浩二は床に背中から叩きつけられるように落ちた。お気に入りの黒色パーカーはあらゆるところが破け、黒色ジャージも裾がちぎれていた。
多大なダメージを負ったはずの山坂浩二だが、彼は気絶していなかった。わずかに残った霊力を使って立ち上がり、約二十メートル離れた山坂宗一に向かって、よろめきながらも歩き出した。
(満月の夜じゃなくても、俺は強くないとだめなんだ。香子と約束したから。それに、これまでの努力を無駄にはしたくない)
山坂浩二を突き動かしていたのは意地だった。
まともに歩けないのにもかかわらず向かってくる山坂浩二に対し、山坂宗一はあきれたようにため息をついた。
「あのな、浩二」
そして一言。
「俺が戦いたいのは、今のザコのお前じゃねえ。満月の夜のお前なんだよ」
この言葉が、山坂浩二の内側にある何かを、破壊した。目を見開き、足が止まる。全身から力が抜けていく。立っているので精一杯だった。
山坂宗一は、自身を包み込んでいる球状の結界から、人と同じ程度の幅をもつ青白い触手を伸ばした。その触手は山坂浩二に巻き付き、彼の体を持ち上げ、山坂宗一のすぐそばまで運んできた。
触手に持ち上げられた山坂浩二は理性を取り戻したものの、その表情からは生気を感じられなかった。そんな彼を見上げながら、山坂宗一は口を開いた。
「挨拶代わりの襲撃はこれで終わりだ。これから、お前だけに教えてやることがあるから、よく聞いておけよ」
そう言って兄が浮かべた笑顔は、少し優しさを感じさせるものだった。
山坂宗一の圧倒的な力を前にして、完全に戦意を喪失した山坂浩二は実の兄に虚ろな目を向けた。山坂宗一の長い前髪の隙間から見える目に、山坂宗一は親近感を抱く。毎日鏡で見るものとそっくりだ。
(ああ、こいつは、本当に、俺の、兄貴なんだな……)
どれだけ努力しても、山坂宗一とは満月の夜にしかまともに戦うことができないという事実を突き付けられた山坂浩二は、諦めとともに安堵を覚えた。肉親から感じる独特な雰囲気を初めて体験し、敵であるはずの山坂宗一に対して、一種の家族愛のようなものを山坂浩二は抱いてしまっていた。
敗北により無気力状態となった山坂浩二は口を小さく開いた。
「教えたいことって、なに?」
彼がそう尋ねると、山坂宗一は優しい笑みを崩さずに答えた。
「記憶を失う前のてめえについて、だ。十三年前におれたちの親が死んでから、おれとさくらと浄化の退魔師の周りでたくさんのことが起きた。俺たちと残党にとっては、俺がてめえらを満月の夜に殺してやろうとしていることはその延長でしかない。でもな、今のてめえにとっては、なにもわからないまま、いきなり物事の中心に放り出されて、訳も分からずもがいている最中なんだろう? 違うか?」
そうだ。彼の言う通り、山坂浩二は月影香子と出会って力を手に入れてからというもの、パートナーである月影香子や残党のメンバーに支えられて訓練をしてきた。知識であれ戦闘技術であれ、周りの人間から得られるものは必死に吸収しようと尽くしてきた。それは、彼が自分の置かれた状況を把握し切れていなかったからだ。そして、その様は、まさにもがいていると言って間違いないものだった。
山坂浩二は首を縦に軽く振った。
山坂宗一の笑みが薄れる。
「そうか。だが、てめえの戦う理由がなんであれ、兄として、おれにはてめえが知らない浩二のことを教える義務がある。おれと、命を懸けた戦いをするのなら」
兄はそう言ったが、山坂浩二は黙っていた。彼にはもう、喋る気力さえ残っていなかった。話すのであれば、早く話してほしいと彼は思っていた。
反応を示さない山坂浩二を無視して、山坂宗一は言葉を紡ぎ始めた。
「浩二の力は、生まれつきじゃねえんだ。おれとさくらが村から抜け出す前は、霊力の強さは親父とお袋に似て平凡だったし、満月の夜に爆発的に霊力が強くなることもなかった。もちろん、女の霊力を扱うこともできなかった。今のお前の力は、おれとさくらが村から抜け出した後に発現したんだぜ」
自分を知りたいという欲求により、山坂浩二は山坂宗一の言葉に引き込まれていった。山坂宗一は続ける。
「それと香子も浩二と同じように今の力は生まれつきのものじゃねえ。浩二とほとんど同じ時期に発現したんだ。何の運命か知らねえが、おれとさくらは百年に一度の天才と言われた挙句に悪霊使いになっちまったし、おれたちの弟と妹は魔物みたいに月の満ち欠けで霊力が変動するようになっちまったし、おれたち四人は呪われているのかもしれないな」
山坂宗一は自嘲気味に笑った。
「ついでに教えといてやるが、おれと浩二が命を懸けて戦うのは次の満月の夜が最初じゃねえ。十年前、おれとさくらが退魔村を襲撃したときに、浩二はおれとさくらと戦っているんだ。そして、その時、浩二の馬鹿でかい霊力が暴走して、退魔村という場所は荒れ地に変わった。退魔村の人間を殺しまくったのはおれとさくらだが、退魔村にとどめを刺したのはてめえなんだよ、浩二」
山坂浩二は目を見開いた。霊力の暴走という言葉が彼の脳に新たな恐怖を刻み込んでいく。この前の満月の夜に、自らの身体を駆け巡る霊力が怖かったのは、体が霊力の暴走を覚えていたからなのだろうか。霊力が暴走することに身体は怯えていたのだろうか。また、満月の夜に山坂宗一と戦えば、もう一度霊力の暴走が起きてしまうのではないだろうか。そして、そうなってしまえば……。
山坂浩二の体が小刻みに震え始めた。想像したくないことが鮮明に、頭に浮かんでくる。青い光が街を呑み込み、一瞬にしてすべてを消し去ってしまう。そう考えると、彼は山坂宗一の力だけでなく、自分の力にさえ恐怖を感じざるを得なかった。
「ああ、それと」
震える山坂浩二を尻目に山坂宗一は口を開く。
「てめえ、自分が知らないうちに人払いの霊力を周りに出していたみたいだな。しかも女限定の人払いで、雰囲気と呼べる程度に微量の霊力を」
彼は何気なくそう言うと、山坂浩二を捕縛していた触手を動かして、山坂浩二を投げ飛ばした。うねるような動きを見せる青白い触手から山坂浩二が離れていき、彼は背中から床に衝突し、数回転がる。彼の体が止まったのは、月影さくらの後方約十メートルの場所だった。
「さて、宴もいよいよフィナーレだな」
遠くに転がった弟を眺めながらそう呟く山坂宗一は、邪悪な笑みを浮かべていた。
うつ伏せになった山坂浩二は、コンクリートの床に体温を奪われていくのを感じながら、状況を把握するために顔を上げようとした。だが、山坂宗一との戦闘で霊力を使いすぎたため、体は疲労しており、思ったように首が動かない。しかし、頭の位置が徐々に高くなるにつれて、ゆっくりと視界が開けていく。
残党の仲間たちが床に伏している。月影香子の姿が見当たらない。しかし、彼の正面方向のやや離れた場所に月影さくらが立っていることはわかった。
そして、月影さくらと目が合った。
彼女は左半身を山坂浩二に向けている。それ以上は山坂浩二にはわからない。月影香子の姉である彼女は、少し物悲しい表情を浮かべていた。
「そろそろパーティーもお開きのようだね」
落ち着きのある声が山坂浩二の耳に入る。月影さくらのものだ。彼女は山坂浩二に視線を向けたままだ。
山坂浩二はこれ以上動く気になれず、月影さくらの顔を眺めていた。目鼻立ちが良く、澄んだ瞳からは揺るぎない強さを感じられた。
そのとき、
「浩二!」
月影香子が自らのパートナーの名前を叫んだ。彼女は立ち上がろうとするが、月影さくらは右手に持った長刀の切っ先をさらに近づけ、月影香子の行動を阻んだ。
月影さくらは視線を山坂浩二から月影香子に移し、微笑む。月影香子は歯を食いしばり、月影さくらを見上げる。
「だめだよ、香子。動いたらどうなるか、賢いあなたならわかるよね?」
月影さくらのその言葉に、月影香子は握り込むように両手の指先を床に押し当てた。強者が支配するこの空間では、弱者は従うしかない。月影香子は、今の自分では月影さくらに敵わないということはわかっていた。だからこそ、どれだけの屈辱を感じようと、抵抗はできなかった。
月影さくらは妹から目を離し、山坂宗一に顔を向けた。彼は山坂浩二には目もくれず、残党の全員を見渡せる位置に移動していた。
「宗一」
月影さくらが透き通った声でそう言うと、
「わかっている」
山坂宗一は月影さくらに目線を向けず、残党全員を見渡しながら答えた。
そして、
「いいか、浄化の退魔師ども」
山坂宗一の口から、
「おれとさくらは、十年前に言った通り、今日から十五日後の満月の夜に、お前らを殺す」
宣戦布告がなされた。
彼は続ける。
「ただ殺すだけじゃあ面白くねえから、月が出ると同時に、てめえらが住む街、圭市全域に悪霊を向かわせる。おれとさくらは圭市のどこかに隠れているから、全力でおれたちを捜して殺しに来い。それができないなら、てめえらは無関係な市民と一緒に悪霊に殺されて餌になるだけだ。無関係な市民を巻き込みたくなら、市民を守りながらおれたちを捜すしかねえ。まあ、せいぜい頑張るこったな」
山坂宗一が淡々と言葉を並べた後、付け加えるように月影さくらが口を開く。
「わたしは、退魔村のときみたいに、率先して殺しに行ったりはしないから安心して。でも、月が低くなり始めたら遠慮なく圭市の人間みんなを殺しに行くから。それまでにはちゃんと見つけ出してね」
彼女が言い終えると、月影香子が引き攣るような笑みを見せた。
「なに、それ? 関係ない人まで巻き込んで、時間内にあんたたちを殺せなかったら、圭市の人を皆殺しにするって。さくら、あんた頭狂ってるわよ。本当に何がしたいの? あたしたちを殺して、圭市の人を皆殺しにして、その後どうするつもりなの?」
彼女の声は震えていた。力への恐怖が原因ではない。理解不能なものへの恐怖が原因だ。その恐怖を取り除くために、月影香子は尋ねた。
月影さくらは目線を下げ、月影香子と目を合わせる。
「さあ? どうするんだろうね。本当に日本を滅ぼして、世界をぐちゃぐちゃにするのかもしれないね」
月影さくらは脱力したように笑う。
「どっちにしても、わたしたちがとった行動の理由が知りたいのなら、次の満月の夜に私のもとへ来ればいいんだよ。退魔村壊滅の真相も教えてあげるから」
彼女はそう言うと顔を上げて退魔師残党を見渡し、何かを思いついたように不敵な笑みを浮かべた。そして、倒れ伏している山坂浩二と目線を合わせて、言葉を紡ぎ始めた。
「そうそう、浩二。あなたが尊敬している退魔師残党の人には、あなただけにしている隠し事があるんだよ。柳田秀と水谷紗夜、それと、あなたの同級生である柳川友子にはね」
月影さくらがそう言うと、柳田秀はもがき始めたが、山坂宗一に口まで拘束されているため、彼女の口を止めることができない。
顔面を血だらけにして倒れている水谷紗夜は、朦朧とした意識の中で言葉を聞き取ることくらいしかできない。
四肢の骨を折られて仰向けに倒れている柳川友子は、小さな声で「やめて……」と漏らすことしかできない。
「まあ、浩二に限らず、誰にも話していないみたいなんだけど。でも、みんな知っているんだけどね」
月影さくらは長刀を持っていない左手の人差し指を立てる。
「まず、一つ目。十三年前、わたしたちが村を抜け出したときに殺した四人の退魔師っていうのは、柳田秀の両親と水谷紗夜の両親なんだよ。だから、あの二人がわたしたちに向ける敵意は、他の子たちよりも大きいんだね」
月影さくらは間髪入れずに左手の中指も立てた。
「二つ目。柳田秀と水谷紗夜の霊力は、退魔村があったときならエース扱いされるほど大きいけど、実はあの二人の霊力は、もともと大きかったわけじゃないんだ。あの二人の霊力が大きいのは、退魔村が壊滅したときに、退魔師の力を捨てていった人たちから霊力を吸い取って増幅させたからなんだよ」
薬指が立つ。
「そして、最後、三つ目。柳川友子についてなんだけど」
月影さくらがそう言うと、柳川友子は声を振り絞って「やめて」を連呼していた。それが聞こえているのか、月影さくらは楽しむように間を置いた。
「……柳川友子は浩二に、『パートナーは最初からいなかった』って言ったと思うけど、実は違うんだよね。柳川友子にはね、幸村一っていうパートナーがいたんだよ」
その言葉を聞いた柳川友子の顔が青ざめていく。月影香子に口止めしていたことが、彼女の姉によってあっさりと暴かれてしまったのだ。
月影さくらは続ける。
「その幸村一って子はね、不幸なことに六歳の時に死んだんだよね。それも、浄化任務中の戦死じゃなくて、一人で村の外に行った時に自動車に轢かれて死んじゃったんだよ。退魔師として活躍することなく交通事故で人生の幕を閉じたんだ。だから、柳川友子は言ってみれば未亡人なんだね」
彼女はそう言い終えると、右手に持った長刀を赤い光の粒子に戻して体内に取り込んだ。
「とりあえず、今日話せることはこんなところだね。じゃあ、浩二、十五日後の満月の夜に会いましょう」
月影さくらはそう言って、月影香子に振り返った。
「じゃあ、香子も。満月の夜を楽しみにしているよ」
彼女は一方的にそう告げて妹から離れ、山坂宗一のもとへ歩き出した。山坂宗一は残党の全員をもう一度見渡す。
「これで挨拶は終了だ。満月の夜にまた会おうぜ」
彼はそう言うと、歩み寄ってきた月影さくらの手を取った。それから、二人は音も立てずに一瞬で消え去った。
倉庫内に、静寂が訪れた。
少しの沈黙の後、倉庫内で変化があった。
柳田秀の四肢を拘束していた青い輪と、彼の口を塞いでいた青い膜が、霧散して消え去ったのだ。柳田秀の両足がコンクリートの床につき、続いて彼の体が崩れ落ちるように倒れた。柳田秀は、乱れた呼吸をする以外に動きを見せない。
残党の少年少女の動きを封じていた霊力の輪も消滅するが、誰一人として動こうとはしない。重傷を負った水谷紗夜と柳川友子も、光の宿っていない目で虚空を見つめるだけだ。
山坂浩二はうつ伏せの状態で震えるのみ。
重苦しい空気が訓練場を支配するなか、その静寂を破ったのは月影香子だった。彼女は、山坂宗一と月影さくらが完全に撤退したことを理解した後、立ち上がって山坂浩二のもとへ駆け寄った。
月影香子は山坂浩二のそばにしゃがみ込み、彼の右肩に左手を置いた。山坂浩二の体を揺さぶり、声をかける。
「浩二、浩二。ねえ浩二ってば。大丈夫?」
山坂浩二は反応を示さない。山坂浩二を何度も安心させてきた彼女の声だが、今回は彼の耳に届いていないようだった。
「浩二、ねえ、浩二ってばっ!」
月影香子は再度呼びかけるが、やはり山坂浩二には動く気配がない。彼女は憤りを隠しきれず、山坂浩二の左肩を右手で掴み、強引に彼の正面を自分に向けさせた。
山坂浩二の目は虚ろだった。目線は中空をさまよい、パートナーである月影香子にでさえ焦点を当てようとはしない。
「浩二……?」
月影香子は山坂浩二の異変に気づき、彼の首に左手を当てた。拍動を感じる。脈はあるようだ。呼吸もしている。
「良かった、生きてるわ」
月影香子は安堵のため息をついた。最悪の事態には陥っていないようだ。長時間気を張っていたためか、疲労が押し寄せ、肩から力が抜ける。
彼女は数秒間山坂浩二の体を見つめていたが、あることに気がついたように目を見開いた。
「あれだけやられたのに、服がきれいなままだわ。浩二のも、あたしのも」
月影香子はそう呟いて顔を上げ、残党の仲間たちを見渡した。
「やっぱり、みんなのもきれいになってるわ……。それに、床の壊れた場所も壁のへこんだ場所も、全部直ってる。まさか」
彼女は顔を上に向ける。彼女の視線は、かつて天井があった場所に向けられていた。
「やっぱり……」
彼女は何かを確信したと同時に歯ぎしりをする。
「宗一、壊れたものを一瞬で直すだなんて、そんな芸当もできるのね、あんた。さすが、百年に一度の天才と言われただけはあるわ」
月影香子の表情に笑みが漏れていた。彼女の右手に自然と力が入り、その手に収まっていたものにさらなる握力を加えることになる。
すると、虚ろな目をしていた山坂浩二の顔に苦悶の表情が浮かんだ。
「痛いよ、香子」
山坂浩二のかすれた声で、月影香子は我に返った。とっさに彼の左肩から右手を離し、山坂浩二と目を合わせる。
「良かった。意識が戻ったのね。ごめんね、痛かったわよね? 大丈夫だった?」
月影香子の表情が緩む。必要以上に心配する彼女を目の当たりにして、山坂浩二もつられるように口角をわずかに上げた。
「大丈夫だよ。それに、気絶はしてない。ちょっと、返事をする元気がなかっただけ。俺のことはいいから、秀さんとか紗夜さんとか柳川さんの面倒を見てあげて」
山坂浩二はそう言うと、月影香子の目から目線を逸らした。自分には構わずに、残党の主力三人のところへ行ってほしいという合図のつもりだった。月影香子はそれを察したのか、「わかったわ」と言って立ち上がり、柳川友子のもとへ歩き出した。
自分から離れていく月影香子の背中を眺めながら、山坂浩二は安堵した。正確に言えば、今の自分には構わないで欲しかったのだ。
山坂宗一には手も足も出なかった。それも、彼が恐れられている最大の要因である悪霊を、まったく使われずに、だ。圧倒的な力を体感し、満月の夜の自分でさえも敵わないかもしれないと思わされ、訓練や実戦を通じて培った自信を完全に打ち砕かれてしまった。自分には力があると思うからこそ、山坂浩二は複数の戦う理由を持つことができた。
だが、今はもう、山坂宗一と月影さくらの手によってすべてが無に帰すと考えてしまい、あがいたところで無駄だと思うようになってしまった。
強大な力が、月影香子との大切な約束を守るという意思を、いとも簡単に潰してしまう。
どれだけ強くなったところで、やはり自分は、満月の夜以外は役立たず。
そして、山坂宗一の口から聞かされた、「満月の夜の山坂浩二に宿る魔神並みの霊力が暴走して、退魔村を壊滅に導いた」という話が、山坂浩二にさらなる恐怖を与え、満月の夜でさえも戦う気を削いでしまった。
満月の夜、力が暴走してしまえば、山坂宗一と月影さくらが手を下す前に圭市の人々は死亡してしまう。
だから、もう、戦いたくない。
悪霊を浄化するという使命も、もうどうでもいい。
戦意を喪失し、退魔師としての誇りもほとんど失ってしまった山坂浩二は、月影香子に顔向けできなかった。
だが、自分が戦わなければ身近な人たちの命が奪われてしまう。三十万を超える人間の命が自分の双肩にかかっているということも、山坂浩二はわかっていた。
自分が戦わなければみんな死ぬ。
霊力が暴走しても死ぬ。
戦わなければならない。でも、戦いたくない。
山坂浩二は、自分がどうしたいのか、わからなくなってしまった。今はもう、思考を放棄して、天井を眺めることだけが彼の救いとなっていた。
山坂宗一が言った山坂浩二についての事柄も、今は考えたくなかった。
主力三人の様子を一通り伺った月影香子は、残党や山坂浩二から距離をとって彼らを見渡していた。
「みんな、死んだような目をしているわね。でも、こんなにボロボロにやられたなら仕方ないのかもね。あれだけ訓練してきたっていうのに」
彼女は目線を床に落とした。唇を噛みしめ、両拳を握り込む。
「あたしだって、悔しいわよ。でも、あたしがここで立ち止まっちゃだめだわ。みんなはあの二人に心を折られた。あたしが頑張らないで、誰が残党を立ち直らせるって言うのよ」
握り込んでいた手に爪が食い込み、血が滲んでいく。
「誰も、殺させはしないわよ」
月影香子は顔を上げ険しい表情を見せた。
「宗一、さくら」
闇に包まれたこの空間の中で、月影香子という一人の少女の存在が、唯一の光だった。