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ムーン・ライト  作者: 武池 柾斗
第三章 退魔師編
31/95

第八話 新月の夜(中)

同日午後8時。

 圭市からやや離れた山のふもとにある倉庫。その中で、退魔師残党は訓練を行っていた。ここ二週間は山坂浩二と月影香子が訓練に加わっていたが、今回の訓練に二人の姿はない。

 月影香子と満月時の山坂浩二の力は絶大だ。だからといって、その二人だけに頼るわけにもいかない。自分の身は自分で守る。そのための訓練だ。

 山坂浩二と月影香子がいると、自然とその二人が中心の訓練となってしまう。それでは、残党全体としての力は伸びない。

 確かに、月影香子を月影さくらに見立てて戦闘訓練をすることは、集団での戦闘力を伸ばしている。しかし、残党に不足している個の力を成長させているとは言い難い。個々の力が不足していれば、どれだけ彼らの連携が優れていようと、山坂宗一と月影さくらにとって残党は烏合の衆でしかない。連携を崩されたらそこで終わりだ。

 残党のなかでは霊力と戦闘経験が飛び抜けている柳田秀と水谷紗夜であっても、個の力では宿敵二人には遠く及ばない。浄化任務でのエースである柳川友子も、不意打ちができなければ戦力にはなれない。

 自分たちの弱点を補うように、今夜はそれぞれのパートナーと二人一組で厳しい訓練を行っている。浄化任務から帰還したリーダー二人も、結界と大斧を組み合わせた攻撃の演習をしており、柳川友子は倉庫内を高速で飛び回っている。内容はそれぞれに一任されていた。

 各自に疲労が見えてきた頃に、柳田秀の号令によって残党の退魔師たちは一時的な休憩をとることにした。月影香子中心の訓練よりも個々の負担が大きいのか、ほぼ全員が床に座り込んでいた。

 主力の三人もさすがに疲弊したのか、自主的な訓練はせずに立ち話をしていた。

「なかなか、皆さん頑張っていますね」

 柳田秀は残党のメンバーを見渡しながら感心したように言った。任務を終えてすぐに訓練場に来たのか、彼の服装はスーツのままだ。

 彼に続いて水谷紗夜も口を開く。

「そうね。みんな気合い入っているわね。浩二くんと香子ちゃんに刺激されたのかしら。目の輝きがあの二人にそっくり」

 スラックスタイプのスーツ姿の彼女も、退魔師の少年少女たちを眺めながら柔らかい笑みを浮かべた。上下赤色ジャージの柳川友子は、袖で額の汗をぬぐいながら、

「まあ、香子に負けっぱなしなのもなんだかムカつきますからね。次の満月の夜までには、秀さんと紗夜さん抜きでも、香子に勝てるようにはなっておきたいんですよ、みんな。月影さくらがどこまで強いのかわからない以上は」

 と、柳川友子はリーダー二人に目線を向ける。

「それに、相手は月影さくら一人じゃありませんからね。あの山坂宗一もいるんで、生半可な覚悟では返り討ちにはできませんよ」

「しかし、僕たちには香子さんと浩二さんがいます。香子さんの強さは皆さんが知ってのとおりですし、浩二さんは成長がめまぐるしいです。それに、決戦は満月の夜ですから、浩二さんはきっと僕たちが思う以上の活躍を見せてくれますよ」

「悪霊使い二人と私たちの戦力は、五分五分と言っていいところよね」

「浩二さんと香子さん頼みのところはありますが、あの二人であれば心配することはないでしょう」

「ところが、そうでもないんですよね」

 柳川友子は肩をすくめた。

「秀さんと紗夜さんも気づいてはいると思うんですが、あの二人、お互いのことを妙に意識し始めちゃったみたいで、今ちょっとギグシャクしてるんですよ。戦いに支障が出るレベルです」

 そしてため息。

「まったく、間に立ってるアタシの身にもなって欲しいところです」

 少し口を尖らせて悪態をつく柳川友子。そんな彼女に、柳田秀と水谷紗夜は苦笑交じりの表情を見せた。

 そして水谷紗夜が口を開く。

「友情が愛情に変わるときには、ほとんどの人が、相手とどう接すればいいかわからなくなるものなのよ」

「そうですね。僕にも覚えがあります」

 彼女に続いて柳田秀も柳川友子に話しかけた。微笑む二人を前にして困惑した彼女は、眉間にしわを寄せて二人に背を向けた。

「はいはいノロケですか。もういいですよ。アタシは十分休んだんで、休憩終わります。別に気にしなくてもいいんで、もう少し二人でいちゃこらしててください」

 柳川友子はそう言い残し、倉庫の出口へと向かっていく。

「別にのろけているわけじゃないわよ」

 水谷紗夜は苦笑して彼女に優しく声をかけ、

「あ、ちょっと友子さん、どこ行くんですか」

 柳田秀は彼女の背中に問いかけ、

「外で飛行訓練してきます」

 柳川友子は端的に答えた。

 遠ざかっていく彼女の後ろ姿を眺めながら、柳田秀と水谷紗夜は申し訳なさそうに、哀しげな笑みを浮かべた。

「僕らも配慮が足りませんでしたね」

「やっぱり友子ちゃん、あのことをまだ気にしているみたいね」

「誰にも話したくはないようですね。記憶を失ってしまった山坂さんにはもちろん、知っている僕たちにでさえ話してくれたことは一度もありません」

「そうよね。でも、誰にだって触れてほしくないことはあるわ」

 柳田秀は少しの間、何も言わなかった。

「友子さんは、やはり誠実な方ですね」

 不意にそう言った彼に、水谷紗夜は同意する。

「ええ」

 リーダー二人の会話は柳川友子の耳には入っていなかった。彼女はやや憤った足取りで出入り口の扉に向かっていく。

「まったく。山坂と香子にもイライラするけど、秀さんと紗夜さんにもイライラするなあ。あの二人、早く結婚すればいいのに」

 扉の前まで行き着いた彼女は、そこで立ち止まった。

「まあ、まだ結婚しない理由はわかってるんだけどね。たぶん、宗一とさくらのせいなんだろうけど、返り討ちできたら解決するよね」

 柳川友子は小さく息を吐いてドアノブに手をかけた。

 その時だった!

 とてつもない悪寒が彼女を襲う。全身が粟立つ。心臓が止まったかのような錯覚を覚える。手のひらが湿る。目が見開かれる。体が震える。歯が互いを打ち付け合う。

「これ、まさか悪霊の」

 彼女がそう呟いた時、轟音が彼女の聴覚を塗りつぶした。平衡感覚を失い、危うく倒れそうになる。しかし、なんとか持ちこたえた。耳鳴りがする。だが、聴覚を奪われたわけではないらしい。不快感に耐え、彼女は倉庫内を見渡す。薄暗い。どうやら先ほどの轟音と同時に、倉庫内にある大半の照明が消えたらしい。薄闇が空間を支配し、柳川友子の恐怖心を煽る。

「屋根が……」

 残党の誰かが呟いたその言葉が彼女の耳に入る。屋根がどうしたというのか。柳川友子は視線を上方に向けた。

 夜空に輝く無数の星。常人よりも視力が高い彼女たちにとって夜空はもっとも身近な絶景だった。きれいだな。柳川友子はそう思った。だがすぐに疑問が頭をよぎる。

「なんで、屋根がないの?」

 そう、屋根がない。跡形もなく消え去っていた。他の場所は損傷がない。屋根だけが取り外されたかのようだ。

「なにが起きたの?」

 柳川友子の問いかけに答えるものは誰もいない。みな、我が目を疑うことしかできなかった。柳田秀と水谷紗夜でさえも事態を把握できていないようだ。

 とにかく、何があったのかを調べることが先決だ。そう考えた柳川友子は、かつて屋根があった場所へ飛び上がろうとした。

 しかしそこで再び強烈な悪寒が彼女を襲う。その出所は倉庫の中央。彼女は震えて使い物にならない体を酷使して、その場所に体の正面を向ける。

 そこには床に倒れる四人と、彼らのそばに立つ二人の姿が見えた。初めはほとんど判別できなかったが、目が薄闇に慣れるとはっきりとわかった。

 倒れているのは、大剣を扱う少女と薙刀を扱う少女。彼女たちのパートナーの少年二人。そして、立っているのは、二人の男女だった。

 男は全体的に細く、身長は柳田秀よりも少し低い。黒い髪は目と耳を完全に隠している。衣服はすべて黒色で、足首まで届くコートによってその全貌はわからない。なかなかに整った顔立ちをしているようで、二十歳くらいに見える。

 女は月影香子とほぼ同じくらいの身長で、出るところは出で、引っ込むところは引っ込んでいるというスタイル。艶のある黒髪は肩まで伸びていて、彼女の白いうなじを際立たせている。衣服は、上衣は白く、下は赤色の袴で、地下足袋を履いている。目鼻立ちが非常に整っており、凛々しい目つきをしている。歳は隣の男と同じくらいに見える。

「誰? あの二人」

 柳川友子は体の震えを抑え込みながら、見知らぬ二人を凝視した。

 誰かに似ている。

 よく知った誰かに、それぞれ似ている。

 そこで彼女は二人の正体に見当がついた。そして、屋根を消し去ったのがあの二人であることにも察しがついた。抑え込んでいた震えが解き放たれ、恐怖が脳を支配していく。

「まさか……まさか……」

 彼女の声も震えていた。

 柳川友子と同様に、柳田秀と水谷紗夜もあの二人が誰なのかわかっていた。だが、いざ実物を目の前にするとその名前を出すことさえもためらわれる。

 だが、柳田秀は恐怖を抑えきって口を開いた。

「山坂宗一と、月影さくら……っ」

 その名前は残党全体をさらに震え上がらせた。村の仇にして、日本で最も危険な霊能力者。その二人が圧倒的な威圧感を漂わせながら、自分たちの目の前にいる。次の満月の夜には相対すると思っていた。覚悟はできていた。しかし、どうして今、新月の夜にこの二人が目の前にいるのか。

 残党たちは動けなかった。しかし、柳田秀はリーダーとしての意地を見せる。

「皆さん! 臨戦態勢をとるのです! いつものように!」

 普段は使わない大声で柳田秀は残党の少年少女たちに号令をかける。彼の一喝で我に返った構成員たちはすぐさま戦闘準備に入った。

 山坂宗一と月影さくらを取り囲むように彼らは瞬時に動いた。前線は女。後方は男。そして、さらに後方で二人の様子をうかがう柳川友子。鎖鎌の少女が分銅を回し始める。倉庫内に緊張が走る。その間、山坂宗一と月影さくらは一歩も動かなかった。

 十数秒間の膠着状態。その後、月影さくらが不敵な笑みを浮かべた。

「挨拶をしにきたよ、残党のみんな」

 山坂宗一もかすかに笑う。

「なかなかいいタイミングで来たとは思わないか?」

 余裕の笑みを見せる二人に対し、残党はみな目がすわっていた。女は武器を構え、男は二人に手のひらを向けている。彼らは仕掛ける時期を待っていた。

 月影さくらは残党のメンバーを一通り見渡した後、あきれたようにため息をついた。

「無視されちゃったね、宗一」

「そうみたいだ。だが、おれはどうでもいい。こいつらにおしゃべりする気がねえんなら、さっさとやっちまえばいいだけの話だ」

「じゃあ、さっそくやってもいいんだね」

「もう四人やっているだろ。挨拶代わりだから軽くやれよ」

「わかっているよ。わたしって信用ないね」

 山坂宗一と月影さくらは表情を変えずに淡々と会話をした。そして、月影さくらは不敵な笑みを浮かべたまま再び残党の構成員を見渡す。

 そして。


 気づいた時には、日本刀を扱う少女が月影さくらに頭を掴まれて仰向きに倒れていた。


「よし、気は失っていないみたいだね」

 月影さくらはそう言って立ち上がった。残党はそこでやっと事態を呑み込んだ。彼女のその言葉が起爆剤となり、残党が彼女に攻撃を仕掛け始める。月影さくらは余裕の表情を見せながら呟く。

「少しは……楽しませてくれるよね?」

 彼女の笑みが、狡猾なものに変わった瞬間だった。






 同時刻。帰宅して夕食や入浴を済ませた山坂浩二はこたつの上にノートや教科書を開いてテスト勉強をしていた。

 学年末の試験が近いのだ。いくら山坂宗一と月影さくらとの決戦が近いとはいえ、学生としてやるべきことはやっておかなければならない。

 そう考えた山坂浩二は、自主的な訓練もほどほどにして、壊れたままのこたつに向かって勉学に励んでいた。家事以外の時間はほとんど試験対策に費やしていたので、彼の表情には疲労の色が見えていた。

 キリのいいところでシャープペンシルをノートの上に置いた山坂浩二は、床に両手をついて天井を仰いだ。

「はあ、さすがに疲れた。これだけやっておけば、赤点なんてことにはならないよね。成績は少し下がるかもしれないけど、うちの学校は推薦で大学に行かせようとはしないから、ぶっちゃけ学校の成績ってあんまり関係ないんだよね。むしろ校内模試のほうが大事な感じあるし」

 山坂浩二は両目を閉じる。

 学年末試験のことも気がかりだが、自分たちにはそれよりもさらに重要なことがある。日本最悪の霊能力者である山坂宗一と月影さくらのことだ。その二人に比べれば、学年末試験など些細なものにすぎない。

 彼は両目を開いて、天井を眺め始めた。天井は少し古びてはいるが、以前から大切に使われていたようなので清潔感はある。

「俺に兄貴がいて、しかもそいつが俺たちを殺そうとしてるなんて、今になっても実感が湧かないな。血は繋がってても、家族じゃない。それどころか、俺は山坂宗一の顔さえも知らない。記憶がないから、俺にとっての山坂宗一はただの他人だ」

 今の山坂浩二にとって、家族と呼べるのは元退魔師であり育ての親である山中久美子とその夫と息子ぐらいだ。

「でも、俺は憎くもない他人と殺し合いなんてできるのかな? 宗一と戦う理由なんて、俺には自分たちの身を守るため以外にないんだよな。別に殺す必要なんてない」

 山坂浩二は右手を顔の前にかざす。

「でも、殺意を持った相手と、そんなぬるい気持ちで戦えるわけもないか」

 彼はため息をつく。

「香子は、迷わず殺せそうだよね。特に、お姉さんの方は。香子は記憶を失ってないから、両親の顔も月影さくらの顔も覚えてるんだろうな。もちろん、自分の親を殺された憎しみと、故郷を潰された怒りも」

 山坂浩二は右手を床に下ろし、眼前のノートに目線を落とした。そして、ノートに書いてある文字を見つめながら力なく笑う。

「香子との妙な距離感も何とかしないと。香子と協力できなかったら、間違いなくあの二人に殺される。殺すのも嫌だけど、殺されるのはもっと嫌だ」

 互いの恋心によって現在の山坂浩二と月影香子の間には溝ができていた。山坂浩二はそれを解消したいと思ってはいるものの、女性に対するトラウマが原因で行動に移せずにいた。月影香子には、彼の行動を待ち、自らは決定的な行動をしないという意思があるため、この問題は山坂浩二しだいとなっている。

「告白した方がいいよな。でも、怖いな。嫌われたらどうしよう。……でも、言わないで終わるよりは言った方がいいよな」

 山坂浩二は少しの沈黙の後、

「ちょっと練習してみよう」

 と呟いて床から両手を離し、背筋をまっすぐに伸ばした。そして、目の前に月影香子がいる状況を想像しながら頭をフル回転させる。

「どんなふうに言えばいいのかな? 自然な感じで言ったほうがいいよね。あと、なんて言えばいいんだろう? とりあえず、まずは直球な感じでいってみよう」

 山坂浩二は息を深く吸って吐いた。

 そして口を開く。

「あ、あの、香子。俺、香子のことが……」

 一人で練習してるのに緊張してどうすんだよ、と心の中で自分にダメ出しをしつつ、次の言葉を出そうとしたその時、何の前触れもなく扉を強く叩く音が聞こえた。

「ひっ!?」

 緊張していたこともあってか、突然の出来事に山坂浩二は、のどが詰まったような悲鳴を上げて背中を反らしてしまう。

「なっ、なんだいきなり、なんだよ」

 瞬間的な膠着状態から解放された山坂浩二は、床に腰を下ろしたまま後ろを振り向いた。扉の打撃音はさっきから続いている。どうやらいたずらではないらしい。

「誰だよ、もう」

 山坂浩二は悪態をつきながら、来訪者を迎えるために立ち上がろうとした。すると、扉を殴打する音に混ざってまくしたてるような声が聞こえてきた。

「浩二! いる!? いたら返事して! ドア開けて!」

「香子!?」

 その声の主が月影香子だとわかって、山坂浩二はその名前を呼んだものの、身体を動かせなくなった。想い人の突然の訪れに、困惑するばかりだった。

 しかし、

「浩二!? いるの!? だったら早く開けて!」

 彼女のただならぬ様子から、自分の思うような甘い展開は訪れないと悟った山坂浩二は、思考を切り替え、外に繋がる扉へと向かった。

「わかった! 今開けるから少し離れてて!」

 鍵を開け、すぐさまドアノブを握ってドアを押し開く。山坂浩二の目に入ったのは、紺色ジャージに黄緑色のパーカーで、ひざ裏まで届く黒髪を下ろしている月影香子だった。彼女は息を切らしながらまっすぐに山坂浩二を見つめる。

「よかった! 無事だったのね!」

 彼の心臓が活動を激しくする。月影香子の不意の訪問に山坂浩二は心を躍らせながら、彼女の様子に困惑しながら尋ねる。

「ど、どうしたの?」

「今すぐ鍵だけ閉めて部屋から出て!」

 彼女は間髪入れずに返事をした。しかし、彼女の言葉は山坂浩二の問いに対する答えではなかった。

 なにか、大変なことが起きている。そう察した山坂浩二は再び問う。

「何があったんだよ!」

 山坂浩二も焦り始めたのか、彼は声を荒げてしまう。しかし、月影香子はひるむことなく言葉を返す。

「説明は後! 今はとにかく逃げるわよ!」

 切羽詰った彼女の言葉に、山坂浩二はひとまず疑問を置いて頷き、鍵だけを取りに行った。すぐに戻ってきた彼は靴を履き、扉を閉めて鍵をかけ、黒色パーカーの内ポケットに鍵を突っ込んだ。

「準備はいい!? このまま不可視化して飛ぶわよ!」

 月影香子がそう言うと、山坂浩二は頷かずに不可視の結界を作り出した。月影香子も彼に続いて半霊体化した。

 だが、山坂浩二はそこから行動しようとはしなかった。彼は自らの力では飛行することができない。空中浮遊が限界だ。何かから飛んで逃げるためには、月影香子に背負われなければならない。そこに、彼は羞恥を覚えてしまい、彼女に近づけなかった。

 月影香子の眉間にしわが寄る。

「なにやってるのよ! 早く掴まって!」

 怒号のようにも聞こえる彼女の声に、山坂浩二は我に返ったかのように動き始めた。すぐに月影香子の背中側に回り、彼女に背負われる。

「全速力で行くわよ。落ちないようにしっかり掴まってて!」

 彼女は叫ぶように言うと、星々が輝く夜空に飛び上がった。信じられないほどの空気抵抗が山坂浩二を襲う。女の力で身体を強化しなければ、月影香子の肩を掴むことさえもできそうになかった。

 そして、飛び上がってすぐに、彼女が何から逃げているのかが理解できた。あらゆる方向から黒い何かが猛スピードでこちらに向かっている。それらの形は定まっていない。目のような赤い点が二つあり、それらからは特有の悪寒を感じる。

「香子! もしかして、俺たち悪霊に追われているのか!?」

 山坂浩二は叫んだ。並の声量では至近距離でも彼女の耳に届きそうにないと思ったからだ。もちろん、月影香子も叫ぶように返答する。

「そうよ!」

 彼女は速度を緩めない。山坂浩二を背負っているため攻撃を仕掛けることができない。襲われても防げない。逃げる以外に選択肢がない。悪霊の大群を避けるように何度も何度も方向転換を繰り返す。そのたびに山坂浩二は振り落とされそうになるが、月影香子が彼の両足を支えてくれているため落ちることはなかった。山坂浩二も彼女の肩から手を離さない。幾度となく繰り返される急旋回、急上昇、急降下。体にかかる重力の差が激しい。女の力があるからこそ、山坂浩二は耐えることができていた。

 さすがの月影香子にも疲労の色が見えている。呼吸は荒く、彼女の頬から汗が容赦なく振り落とされていく。

 気づけば、周りは無数の悪霊で埋め尽くされていた。暗闇の中で不気味に光る赤い目が全方位から二人を睨み付ける。悪霊と悪霊のわずかな隙間にしか逃げ道はなく、その隙間を通ってもすぐに目の前を阻まれる。

 月影香子も精神的に参ったのか、この場にはいない誰かに向けて怒声を上げた。

「なんで今になって悪霊を仕向けてくるのよ宗一! 最近はまったく攻撃してこなかったくせに! ふざけんじゃないわよ!」

 彼女の言葉が山坂浩二の耳に入る。疑問を感じると同時に、彼はその疑問を口に出していた。

「宗一が仕向けたって! どういうことだよ香子!」

 月影香子は襲い掛かってきた悪霊の触手を回避して答える。

「かなり前だけど! あたしは! 退魔村が滅んでからはずっと悪霊に襲われ続けてきたって話したわよね!」

「ああ!」

「そのあたしを襲ってきた悪霊は! 全部宗一が操ってたのよ! この前の満月の夜もそう! 今日のも宗一のしわざ! あいつの霊力を感じるわ!」

「俺の兄貴はなんでそんなことしてきたんだよ!?」

「あたしが訊きたいわよそんなこと!」

 二人は言葉をぶつけ合う。余裕がない。山坂浩二は月影香子にしがみつくので精一杯。月影香子は悪霊からの逃避で精一杯。

 不規則な飛行に山坂浩二は限界を感じていたが、状況を把握することだけは怠っていなかった。悪霊と悪霊の間から見える景色の断片。それだけで、自分たちの位置を掴んでいた。

(大きく見れば、北に向かってる? まさか、どこかへ誘導されているのか? 逃げれば逃げるほど、宗一の思うつぼなのか?)

 だが、逃げる以外に方法はない。山坂浩二は歯ぎしりをした。

(なにか、嫌な予感がする……)






 浄化の退魔師残党の訓練場。そこでは、月影さくらによる虐殺とも形容できる一方的な戦いが繰り広げられていた。

 山坂宗一と月影さくらの侵入直後に行動不能に陥った、大剣を扱う少女と薙刀を扱う少女、そのパートナーの少年二人の計四人は意識を取り戻したものの、山坂宗一による霊力の輪で床に固定され、さらには霊力の縄で手足の自由を奪われていた。

 次に月影さくらが頭を押さえつけた、日本刀を扱う少女も意識を保ったまま同様に体の自由を奪われていた。

 その他の退魔師も次々と月影さくらによって素手で行動不能にされていた。山坂宗一は少年少女たちを拘束する以外は彼女に手を貸さない。月影さくらは、いかにも手加減しているといった様子で涼しい顔をしている。

「まあ、期待していた程度には頑張ってくれたみたいだね」

 月影さくらは鎖鎌の少女の首を、鎖鎌の鎖で後ろから締め上げながら、そうささやいた。月影さくらは、少女が意識を失う直前に彼女を解放した。鎖鎌が少女の手から離れ、赤色の光の粒子となって霧散していく。床に倒れ込んだ少女はそのまま山坂宗一によって拘束される。

「さてと、ここからが本番その一だね」

 月影さくらは、柳田秀、水谷紗夜、柳川友子の順に、戦力として残った三人を見渡していく。いや、残ったというよりは意図的に残されたというべきか。

 月影さくらと残党の戦闘は呆気ないものだった。残党の攻撃は彼女には一つも当らず、月影さくらは丸腰の状態で残党の主力三人以外を戦闘不能に追い込んだ。

 柳田秀、水谷紗夜、柳川友子は月影さくらの強さに驚愕していた。彼らも攻撃には参加していたのだが、やはりそのすべてが回避されていた。想像以上だ。ここに満月の夜の山坂浩二と月影香子が加わったとしても、月影さくら一人と同等の戦力なのではないだろうか。そんなイメージが勝手に作り出されていく。

 主力三人は虚勢を張ることしかできなかった。その手段も、臨戦態勢をとるだけだった。彼らは、自分たちが勝てないことを悟っている。

 月影さくらは力を抜くように息を吐き、後ろを振り返った。そして、彼女から少し離れたところにいる山坂宗一に顔を向ける。

「宗一。あなたは、柳田秀と遊んであげてよ。わたしは水谷紗夜と遊んであげるから」

 彼女が優しい声で発した言葉に、山坂宗一は不愛想に

「ああ」

 と答え、柳田秀のもとへゆっくりと歩み始めた。

 月影さくらは水谷紗夜に向き直る。

「というわけで水谷紗夜。わたしたちが楽しみにしていることまで、まだ少し時間がかかりそうだから、暇つぶしに付き合ってもらえないかな」

「暇つぶし?」

 水谷紗夜はその言葉を復唱するとともに眉をひそめた。その言葉には聞き覚えがあった。月影香子を限界まで追い込んだ後に実戦訓練を行った時だ。山坂浩二が訓練場にたどり着くまで時間があったため、その間の暇つぶしとして、殴り合いを月影香子から提案されたのだった。

「なるほど。やっぱり、姉妹なのね」

 水谷紗夜は微笑んだ後、月影さくらを見据えた。彼女は相変わらず武器を作り出そうとはしない。完全になめられている。

(違う。もしかしたら、私のように素手で戦った方が有利な場合もあるのかしら?)

 彼女は自らのパートナーである柳田秀を横目で見た。目が合う。近づいてくる山坂宗一を警戒しつつ、水谷紗夜にも注意を向けているようだ。

 水谷紗夜は視線を月影さくらに向け、何かを確信したかのような笑みを見せて大斧を作り出した。全長二メートルを超える両刃斧だ。一撃の威力は、あの月影香子に致命的なダメージを与えられるほどである。

「ふーん、そっちの戦い方でくるんだね。だったら、そっちに見合った潰し方をしないといけないね」

 対する月影さくらは余裕の表情を崩さない。だが、少しの変化が彼女にあったかと思うと、次の瞬間には柳川友子のすぐそばに月影さくらの姿があった。

 想定外の出来事。柳川友子の反応が遅れる。月影さくらは右手で柳川友子の右手首を掴むと、そのまま握力を加えた。手首より少し下から腕が曲がり、遅れて柳川友子の悲鳴が上がる。月影さくらはさらに右足で柳川友子の左わき腹に蹴りを入れる。少女は数メートル飛ばされ勢い余って床を滑るように転がる。

「こうなると、柳川友子は邪魔くさくなるからとりあえず退場。宗一、お願い」

 月影さくらは柳川友子を蹴飛ばした後、柳田秀からやや距離をとって立ち止まっている山坂宗一に顔を向けた。

「必要ねーよ。さくら、あれはやりすぎだ。たぶん、しばらく起きないぜ」

 山坂宗一は無表情にそう返すと、柳田秀に目線を戻した。男二人は膠着状態だ。柳田秀は仕掛けるタイミングを見計らい、山坂宗一は彼の攻撃を待っている。

 月影さくらは床に転がっている柳川友子を一瞥した。彼女はまったくと言っていいほど動かない。月影さくらはため息を漏らした。

「はあ、やりすぎたようだね。まあ、いいよ。メインはこっちだから」

 彼女はそう呟いて水谷紗夜に向き直ろうとした。その時、柳田秀が動きを見せた。霊力を瞬時に月影さくらの周りに送り込み、四つの霊力の輪によって彼女の身体を抑え込んだのだ。これには月影さくらも虚を突かれたようで、彼女は目を見開いた。

 好機! 水谷紗夜は大斧を振りかざし、月影さくらめがけて飛び上がった。大斧の重量を生かし、身動きの取れない月影さくらを頭から両断する。柳田秀と水谷紗夜が多用する戦法だった。どれだけ固い結界だろうと、どれだけ強い皮膚硬化であろうと、この斬撃を防げるものはない。対処法はただ一つ、避ける以外にない。

 月影さくらは動けない。水谷紗夜は一か八かの攻撃が成功することを確信していた。思わず口元が上がる。

 だが。

 月影さくらは狡猾な笑みを浮かべた。

 その直後、彼女は体を拘束していた四つの霊力の輪を、己の力だけで内側から押し砕いたのだった。

 水谷紗夜と柳田秀の表情に緊張の色が見える。これでは避けられてしまう。だが、この振り下ろしを中断するのは至難の業だ。ここは回避してもらい、着地してからの次の一手で決める。ここは思いっきり振り下ろし、柳田秀からの援護を受けるのがベストだと判断した水谷紗夜は、無駄だとわかりながらもその斬撃に全力を注いだ。

 しかし、月影さくらはその場から動かなかった。

 左腕を挙げ、腕一本で水谷紗夜の渾身の一撃を受け止めたのだった。轟音と共に途方もない衝撃が月影さくらを襲うが、彼女は平然としていた。手のひらの皮膚も無傷だった。

 水谷紗夜は何が起きたのか理解できなかった。

 規格外。

 月影さくらを表すには、その言葉が適当だと思った。

 目の前の光景が信じられないのは柳田秀も同じであった。しかし、彼は水谷紗夜への援護を忘れていなかった。

 柳田秀から不意に発射された霊力の光弾五発が月影さくらに襲い掛かる。あれだけの衝撃を受けたのだ。外傷はないが、内側のダメージは相当なはず。今度こそ動けまい。

 だが、突如として月影さくらの側方に青色の薄い壁が現れ、光弾をすべて防いだ。その直後、柳田秀の知覚から男の声が聞こえてきた。

「まさか、おれの存在を忘れているわけじゃないよな?」

 その瞬間、柳田秀に戦慄が走る。山坂宗一は柳田秀の結界に触れていた。忘れていたわけではない。むしろ、水谷紗夜の援護以上に注意を払っていたのだ。いつどんな攻撃を仕掛けられても対応できるように幾重にも結界を張っていた。

 それが無駄だったと悟るのと、柳田秀の結界が破られるのは、ほぼ同時だった。

 圧倒的火力を誇る青い砲弾によって、柳田秀の結界が破壊され、柳田秀は爆風と衝撃によって吹き飛ばされた。かろうじて受け身をとることができた彼は、数回床を転がった。そして、せき込みながら立ち上がる。

「へえ。なかなか丈夫じゃないか、柳田秀。さすがは残党リーダーってところだな」

 山坂宗一は柳田秀に歩み寄りながら彼を褒め称えた。

「はは、一応鍛えていますからね」

 柳田秀は笑みを作って答えた。その直後、彼は不意打ちを仕掛けた。ありったけの霊力を込めた光弾を目の前の山坂宗一に向けて放った。

 柳田秀の視覚と聴覚が一時的に失われる。それの対策をとる時間などなかった。山坂宗一が油断している隙にやらなければ勝算はなかった。薄い結界で爆風と衝撃を防げただけでも幸運だと思わなければならない。

 しかし、柳田秀が見たのは残酷な真実だった。

 どんな小細工も、圧倒的な力の前では無力なのだと。

 柳田秀は体から力が抜けたかのように、床に膝をついた。山坂宗一はあきれたように笑いながら、穏やかな声で柳田秀に語り掛ける。

「男の退魔師なら、結界を張っておくのは基本中の基本だろ?」

 柳田秀の体が震え始める。圧倒的な力を前にして、抗う気など起きるはずもなかった。今まで積み重ねていったものが崩れ落ちるかのようだった。

「ちっ、もう終わりか。つまんねえーの」

 山坂宗一は悪態をつく。柳田秀は反応もしない。震えてばかりだ。

「じゃあ、見世物になってもらおうか」

 日本最悪の悪霊使いは、霊力の輪を四つ作り、それぞれ柳田秀の両手両足首にはめた。まるで合図をするかのように、山坂宗一が右手を自らの胸の高さまで挙げると、柳田秀の体が浮き上がった。床から十センチ程度浮いた状態で、彼の両腕は高く挙げられ、脚も肩幅ほどに開かれていた。

 そして、山坂宗一は右手から青い縄のようなものを作り出し、それを右手に持って、柳田秀の目の前で掲げた。

「これ、なんだかわかるか?」

「なわ……ですか?」

 醜悪な笑みを浮かべて問う山坂宗一に、柳田秀は力のない声で答えた。

 山坂宗一は首を横に振る。

「惜しいな。これは、ムチだ。安心しろ、特別性だから、これで傷がつくことはない。痛覚だけを刺激する、そういう仕様だ」

 自慢げに語る山坂宗一に、柳田秀は何も言葉をかけなかった。

「立派に育った退魔師の少年少女たちに、お前の悲鳴をたっぷりと聞かせてやるよ」

 山坂宗一はそう言って、柳田秀の十メートル後ろに立った。



 場面は少し遡る。柳田秀からの援護射撃が失敗に終わり、後がなくなった水谷紗夜は、すぐさま大斧を霊力の粒子に戻して体内に取り込み、皮膚硬化による素手攻撃へと移行した。月影さくらは素手のままなので、必然的に殴り合いとなった。

 一対一なので戦いやすいのか、スピードが格段に増した水谷紗夜は月影さくらに打撃を防がせるほどの戦いぶりを見せた。だが、やはり月影さくらのほうが上手なようで、途中からは月影さくらが一方的に水谷紗夜を殴るようになっていた。

 月影さくらの右フックが水谷紗夜の左頬に直撃する。彼女がよろめいたところにみぞおちへ拳を入れる。さらにもう一撃。前傾姿勢になっている水谷紗夜の顎に、左拳が下から入ってそのまま振り上げられる。水谷紗夜の体が宙に舞い、放物線を描いて背中から床に落ちる。水谷紗夜はせき込んだ

「ねえ、早く立って。わたしはあなたに合わせて素手でやってあげているのに、あなたはボロボロにされるの?」

 月影さくらは立ち止まって水谷紗夜を見下す。水谷紗夜の顔は一部が腫れ上がり、唇の端が切れて出血している。彼女はよろめきながらも立ち上がった。だが、月影さくらは彼女に容赦なく歩み寄り、

「そんなんじゃ、あなたたちに未来はないよ!」

 怒号とともに、右脚で直線的な蹴りを彼女の腹にお見舞いした。

 水谷紗夜の体は弾丸のような勢いで何度も床ではね、倉庫の壁に激突して止まった。彼女の意識はかろうじて残っているようだ。

 水谷紗夜を蹴り飛ばした月影さくらには隙ができていた。ここで、あの少女がこの絶好の機会を逃すはずがなかった。意識を失ったふりをしていた柳川友子は、折られた右手首を自己回復能力によって治し、ナイフを両手で持って月影さくらの霊点めがけて突進した。

 狙いやすい霊点は背中にあるようだった。霊力の密集点を見極めながら柳川友子は全速力で駆け抜ける。

 月影さくらには気づかれていなかった。しかし、柳川友子は自らの弱点を忘れていた。ナイフが月影さくらの上衣に触れる。衣服を貫通し、皮膚へたどり着く。

 だが、そこまでだった。

 ナイフはそれ以上通らず、衝撃は両手首に返ってくる。勢い余って月影さくらに体当たりをすることになったが彼女はびくともしなかった。

 月影さくらが左手で柳川友子の左手首を掴んだ。近接戦闘では日本最強と言われる女の顔が、左半分柳川友子に向く。少女の全身から血の気が引いていく。

「あなた、根性あるんだね。意識がないふりをして機会をうかがうなんてね。スピードも文句なし。霊点の場所も完璧。でも、非力で霊力も弱い。よくそれでわたしと一対一で戦おうと思ったね。雑魚のくせに」

 月影さくらは冷めた目で柳川友子を見つめた後、左手一本で彼女を自らの頭上高く振り上げ、そのまま前方へ背中から叩きつけた。

 柳川友子はせき込む。月影さくらは彼女の左腕の骨を両手で折った。柳川友子の悲鳴が上がる。続いて右腕も本来曲がらない方向へ曲げる。悲鳴が強くなる。次に右脚。すねを左足で踏みつけて右手で足先を上に持ちあげる。悲鳴。最後に左足も同様に使い物にならなくさせた。

 柳川友子は痛み止めで霊力をほぼ使い果たし、動けなくなってしまった。意識だけは、かろうじて保てている程度だった。

 月影さくらが柳川友子の四肢の骨を折った直後、水谷紗夜が力を振り絞って彼女に襲い掛かった。しかし、彼女の最後の力を込めた右拳はあっけなく回避された。

 その後、月影さくらは水谷紗夜のダークブラウンの髪を右手で掴み、彼女の顔面を自らの右ひざに叩き込んだ。

 鈍い音とともに水谷紗夜の鼻がへし折れ、前歯が二本強制排除される。血液がとめどなく流れ、彼女の顔と倉庫の床を赤く染めていく。

 月影さくらは水谷紗夜の髪をつかんだまま彼女をいたぶり続けた。

 そして、この時に柳田秀の鞭打ちが始まった。

「うがあああああああ!!!」

 肉を削がれる痛みが柳田秀を襲う。だが、気絶するほどの痛みではない。気絶寸前の痛みを際限なく味わわされる。回数を重ねるごとに悲鳴が悲痛なものに変化していく。

「うわああ……」

 途中から、もはや悲鳴を上げる力さえもなくなったのか、ただうめき声を漏らすだけになった。水谷紗夜も顔を血で真っ赤にされた後も殴り続けられている。

「もう、やめてくださあい……」

 リーダー二人がいたぶられる光景に耐えられなくなったのか、十文字槍を扱う少女が泣きながら虐待の中止を懇願した。彼女は目を逸らして極力見ないようにした。だが、山坂宗一の力によって、彼女の顔がひとりでに、リーダー二人が視界に入る位置に向いた。もちろん目も強制的に開けさせられる。

「目ぇ逸らしているじゃねーぞこら。てめーらが力不足なせいで、柳田秀と水谷紗夜がこんな目に合っているんだろうが。この二人クラスとは言わないが、せめて全員が柳川友子レベルの戦いができていたら、こんなことにはならなかったぜ」

「そうだね。力が弱いのに、なんでもっと早くに力をつけようとしなかったんだろうね。こうなっているのは、あなたたちの責任でもあるんだよ。無力は罪なんだよ」

 二人は残党全員の目を理不尽な暴力に向けさせた。涙を流す者、嘔吐する者、目を開けたまま失神する者。この場にいる残党全員が、強大な力がもたらす恐怖に支配されていた。

 柳田秀に鞭打ちを行っていた山坂宗一だが、不意にその手を止めて夜空を見上げ、顔をしかめた。

「それにしても、遅いな、あいつら」

 彼がそう呟くと、いまだに苦痛の波に耐え続けている柳田秀が反応した。

「あいつらって、誰のことを、言っているんですか?」

「決まっているだろ。次の満月の夜の主役がまだ来ていないだろ」

「ああ、浩二さんと香子さんですか」

 柳田秀は力なく笑う。

「あの二人なら、今夜は来ませんよ」

「甘い。おれを誰だと思っていやがる」

 今度は山坂宗一の顔に笑みが浮かんだ。柳田秀は怪訝そうな表情になる。

「え?」

「あいつらならもうすでに、おれの手のひらの上で踊っているんだよ」






 同時刻。悪霊の大群からの逃避行の果てに、山坂浩二と月影香子がたどり着いたのは退魔師残党の訓練場の上空だった。

 山坂浩二は自らの予想が遠からず当っていたことに舌打ちをしながら、悪霊と悪霊の間から訓練場の様子をうかがっていた。

 そして、悪い予感が的中していたことがわかると、山坂浩二は息を吐くように、

「訓練場の屋根がなくなってる」

 それは、月影香子も気づいていた。

「そうみたいね。それに、あそこで今とんでもないことが起こってる気がするわ。これからのあたしたちにとって、ターニングポイントになりそうなことがね」

「どうする? 行ってみるか? もしかしたら、秀さんとか紗夜さんとかがいるかもしれないよ」

「でも、すごい嫌な感じがするわよ」

 月影香子は回避行動をとりながらも冷静に状況を分析しようとしている。

「やっぱり、ここに誘われたって考えるほうが自然よね」

「俺も同じ意見だ」

 山坂浩二と月影香子の意見が一致する。

「よし、行ってみるわ。これから一気に下りるから、しっかり掴まっててね」

「了解」

 山坂浩二の返事の直後、月影香子は遥か上空から訓練場に向けて急降下を開始した。悪霊たちがまるで道を開けているかのように二人から遠ざかっていく。やがて二人の周りから悪霊が完全に消え去り、新月の夜空が姿を現した。

 悪霊が消え去ってから、月影香子はスピードを緩めた。もう戻れないことは山坂浩二にもわかっていた。彼も覚悟を決める。

「よし、このへんで俺は飛び降りる」

 山坂浩二は倉庫のかつて屋根があった場所でそう言った。

「いいの? あたしが背負って着地してもいいのよ」

「ああ、このくらいからの着地くらい、俺でもできるようになったから」

 山坂浩二のその言葉を聞いて、月影香子は優しく微笑んだ。

「わかったわ。じゃあ、覚悟はいい?」

「いいよ」

 山坂浩二は返事とほぼ同時に月影香子の背中から離れ、倉庫内へと飛び降りた。月影香子も彼の後を追って降下していく。

 着地前に空中浮遊の要領で落下速度を緩め、山坂浩二は倉庫内に降り立った。月影香子も彼に少し遅れて床に足をつけた。

 そこで二人が見たのは、手足を縛られて浮いたまま身動きがとれない柳田秀。彼の近くにいる黒服の男。巫女のような衣装の女になすがまま殴られ続けて顔が血で染まっている水谷紗夜。四肢が不自然な方向に曲がったまま仰向きに倒れている柳川友子。体を床に拘束されている残党の仲間たち。

 倉庫内の人間は山坂浩二と月影香子の登場に気づいた。柳田秀は悲痛な表情になり、水谷紗夜は虚ろな目で二人を眺め、柳川友子はあきれたように笑って「ばか」と呟く。

 そして、二人の姿を見た山坂宗一は狡猾な笑みを見せ、月影さくらは水谷紗夜の髪を掴んだまま二人に微笑みかけた。

「久しぶりだね、香子、浩二」

 これが、山坂兄弟と月影姉妹の、十年ぶりの再会だった。








 大変申し訳ないのですが、第九話の執筆が間に合わなかったので、第九話とエピローグの投稿はまた後日にさせていただきます。ただ、あまり日を空けたくはないので、これからは一話を分割して更新していきます。例えば、第九話であれば、「第九話 新月の夜(下)①」「第九話 新月の夜(下)②」(以下続く)といったようにします。一回あたり3000~5000文字が目安です。一話が書き終わり次第、分割していたものを結合しますので、最終的には今まで通りです。続きを楽しみにしてくださっていた読者さま、本当に申し訳ありません。これからは、更新一回あたりの文章量は大幅に減少しますが、更新頻度は上げていきます。これからも、この作品を読んでいただけると嬉しいです。

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