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ムーン・ライト  作者: 武池 柾斗
第三章 退魔師編
29/95

第六話 想い(下)

 三月二日、水曜日、朝。

 昨晩も夜遅くまで訓練があったにもかかわらず、山坂浩二はこれまでのように午前六時に起床して朝食を作っていた。いや、目を閉じてはいたものの、実際には一睡もしていないので、午前六時に布団から抜け出したというのが正しい。

 朝食を作っているといっても、彼が作っているのは目玉焼きのみ。熱したフライパンに卵を落とし、白身の上に水を少しかけて蓋をするのみという簡単な作業だ。味噌汁にいたってはインスタントなのでお湯をかけるだけで完成する。しかし、今日の山坂浩二はいつもと様子が違っていた。

 上の空だ。睡眠をとっていないからかもしれない。動きが鈍いのだ。ここ一年近くやってきたことを彼はうまくできていない。

 まず、卵にひびを入れる際に勢い余って卵を割ってしまい、卵黄と卵白が殻とともに流しの排水口へ向かって行った。卵を一つ無駄にした上に掃除をする手間が増えてしまったが、山坂浩二は気を取り直して再挑戦した。

 今度はフライパンの上で卵を割ることができたものの卵白に殻の破片がいくつか混ざり、それらを取り除こうとして躍起になっているうちに目玉焼きを焦がしてしまった。火力が弱いのに蓋をしておらず、蒸すことができなかったので卵黄はほとんど固まっていない。

 山坂浩二はため息をつきながら、目玉焼きを皿へ移した。すると移動したときの衝撃で黄身が崩れ、粘り気のある黄色い液体が白身と皿の上に流れ出し、目玉焼きとは言えないものになってしまった。

 彼は舌打ちをした後に目玉焼きの乗った皿をこたつの上に置いた。その後、山坂浩二は汁椀にインスタントみそ汁の粉末を入れ、右手に持ったヤカンを傾けた。

 透明な液体が注がれていくが、湯気が立たない。

「ってこれ水じゃねーか!」

 彼は注ぎ終わった後にようやく気付いた。ヤカンに水を入れたのはいいのだが、沸かすのを忘れてしまい、そのまま注いだのだった。

 しかし、使ってしまったからには仕方がない。

「まあ、いいか……」

 山坂浩二はそう呟いてヤカンをコンロの上に置いた。次に、左手に茶碗を、右手にしゃもじを持って炊飯器のふたを開けた。米の匂いを含んだ水蒸気が立ち上がり、彼の鼻腔をくすぐる。

 山坂浩二は米を茶碗によそった。

 ここで違和感。

 米粒が異常なほどに水分を含んでいることに気づく。

「水の分量、間違えた……」

 昨晩炊飯するときに使った水の量を確認しなかったということを山坂浩二は思い出し、大きくため息をついた。

 炊飯器のふたを閉め、冷蔵庫を開ける。中身が少なくなったケチャップの容器を取り出して冷蔵庫を閉め、こたつの近くに腰を下ろした。

「いただきます」

 山坂浩二は弱々しくそう言って、ケチャップを目玉焼きのようなものにかけようとした。しかし、中身が少なかったためかケチャップが四方に勢いよく飛び出てこたつの上にまで飛び散った。

 山坂浩二はもう何も言わなかった。

 ケチャップをひねり出して目玉焼きらしきものにかけ、食べた。食べられないことはなかった。卵の殻を噛んだ。

 味噌汁。粉末が溶けていない。ざらざらする。まずい。

 ご飯。水っぽい。

「なんか、今日は失敗してばっかりだな、俺」

 山坂浩二はそう呟いて冷たい味噌汁を一気に飲み干した。眉間にしわを寄せながら口の中の不快感に耐え、口直しにご飯を口にかき入れる。目玉焼きモドキの食べかけを一口で食べ、その勢いのまま茶碗も空にした。

「ごちそうさまでした」

 完食した後、山坂浩二は両手を顔の前で合わせた。彼の表情は決して明るいものではない。ほんの少しだけ頬が赤みを帯びている。

 彼は立ち上がって食器を流しまでもっていき、いつものように昼食用のおにぎりを四つ作ってから調理場の簡単な掃除と食器洗いを済ませた。その後はトイレで用を足し、洗面台で歯を磨いて、部屋で制服に着替えた。

 山坂浩二はテレビをつけていつもと同じチャンネルのボタンを押した。画面の左上に表示された時刻は午前七時ちょうど。

 月影香子と登校を始める前までは、彼が部屋を出る時刻だった。

 山坂浩二たちの通う高原高校では朝のホームルームの開始が八時半。それに間に合うように、月影香子と柳川友子との待ち合わせの時間が七時五十分となっているので、山坂浩二は七時四十五分に部屋を出ればいい。

 つまり、あと四十分は自由に過ごせるわけだ。

 山坂浩二はこたつのそばに座り、黒色のスポーツバッグから勉強道具を取り出してそれらをこたつの上に広げ、朝のニュース番組を見ながら勉強を始めた。

 これもいつものことなのだが、今日に限っては勉強がなかなかはかどらなかった。ずっとテレビを眺めていた。

「俺、どうすればいいのかな」

 テレビを眺めながら山坂浩二は呟いた。

「香子に、好きって言えばいいのかな」

 首を横に振る。

「できないよそんなこと。もしかしたら、今の関係が壊れるかもしれないし。断られて、気まずくなって、香子が俺から距離をとるようになったら……そんなのは絶対に嫌だ。今までのように、香子とは気兼ねなく接したい。そのためには、できるだけいつものようにしていればいいんだ。香子に、気づかれなければいいんだ。うん、そうだ。心に秘めておけばいいんだ」

 彼は自分に言い聞かせるように言葉を並べ、勉強にとりかかった。

 時間になると山坂浩二は勉強道具を片付けてテレビを消した。立ち上がり、黒色のスポーツバックを右肩にかける。今日も重い。彼はガスの元栓や電気の消す忘れを確認してから部屋を出ていった。

 鍵をかけたかどうかも確認してから、アパートの外階段を降り、銅鏡川に沿う道路を歩いて未来橋に向かう。

 五分ほど歩くと未来橋に着いた。いつものように、月影香子と柳川友子の姿はない。山坂浩二はズボンの左ポケットから黒色の折り畳み式携帯電話を取り出して現在の時刻を確認した。

 七時五十分。

 待ち合わせの時間だ。

 またいつものように、あの二人を待つために、この場所に立っていなければならないのだろう。山坂浩二はため息をついた。

「また遅刻かよあいつら」

 彼はズボンの右ポケットに右手を入れ、背中を未来橋の柱にもたれかけた。携帯電話を開いたまま空を見上げる。どこまでも澄み渡るような青色。それが、山坂浩二の視界のほぼすべてを覆い尽くした。

(どうせ、香子と柳川さんはいつものように五分くらい遅れてくるんだろうなあ。香子のせいで遅れるんだろうけど)

 我がパートナーながら情けない。

 山坂浩二は目を閉じて息を吐いた。

(まったく、時間くらい守れよな。……まあ、いつものことだからいいか)

 自らの思考の中に出てきたある言葉が、山坂浩二には引っかかった。

(いつものこと、か。それができればどれほど幸せなことだろう)

 いつものように香子と待ち合わせる。

 いつものように香子と話しながら学校へ歩く。

 いつものように香子と軽口を叩き合いながら昼休みを過ごす。

 いつものように香子と、遠慮なく接したい。

 けれども、今の二人には距離がある。月影香子は山坂浩二とまともに接しようとはしない。山坂浩二は彼女への恋心を自覚したことで、月影香子をまっすぐに見られないかもしれない。

 もう、今までのような二人ではいられないのかもしれない。親友で、戦友で、相棒で、距離なんて感じさせない二人には。

 もう、戻れないのかもしれない。

 柳川友子が二人の間にいなければ、山坂浩二と月影香子は一緒にいられないのかもしれない。お互いの恋心による、あまりの恥ずかしさによって。

 山坂浩二は目を開けた。少しの間目を閉じて考え事をしていたからか、ついさっきまで見ていた青い空が彼の目には新鮮な風景に映った。

 そして、待ちに待った声が山坂浩二の耳に入った。

「おーい! 山坂! ごめん! また遅れた!」

 その声は、柳川友子のものだった。

 自らのパートナーである月影香子の声はなかった。

(香子は、来てないのか?)

 山坂浩二は自分が残念がっているのか安堵しているのかわからないまま、柳川友子の声がした方向に目を向けた。

 未来橋を紺色セーラー服姿の二人の少女が小走りで渡ってきている。一人は小柄でショートカットの柳川友子。そしてもう一人は、背が高くて太ももまで下りたポニーテールの月影香子。

(香子も来てたのか!?)

 自分のパートナーの姿を認識した瞬間、山坂浩二の心臓が暴れ出した。心拍数が激増し、体に電流が走ったかのような感覚が山坂浩二を襲う。息が荒くなり、体のいたるところから汗がにじんでくる。

 そして、まるで拘束されたかのように月影香子へ目線が向いてしまう。

 月影香子と柳川友子の二人が山坂浩二のそばに来ると、柳川友子は左手で自らの頭を掻きながら、

「あははー、毎朝遅れてごめん、山坂」

 と、山坂浩二を見て言っているのに対し月影香子は、

「……ごめん」

 と、彼から目を逸らして呟いたのであった。

 山坂浩二はというと、月影香子がそばに来ると彼女から目を逸らして柳川友子に目線を向け、

「おはようございます。まあ、そんなに気にしてませんよ」

 と、柳川友子のみに返事をして車道を横切っていく。柳川友子も彼に続こうと車道を横切り始めた。しかし、月影香子がある一点を見つめたまま動かないので、柳川友子は月影香子のもとへ引き返し彼女の左腕を掴んだ。

「ほら香子、行くよ」

 柳川友子が月影香子の腕を引っ張ると、月影香子は、

「あ、う、うん」

 と、上の空で返事をして柳川友子に引かれるままに車道を横切った。二人は早足で歩き、一人で歩き続ける山坂浩二に追いつく。山坂浩二が左、柳川友子が真ん中、月影香子が右という並びで横一列になって歩き始めた。

 三人の間に沈黙が訪れる。月影香子は右に流れる銅鏡川を眺めながら頬を紅潮させ、山坂浩二は顔の向きを上下左右にせわしなく動かしていて、柳川友子はそんな二人を交互に見ながら口元を上げていた。

 山坂浩二は唾を呑んだ。

(どうしよう……。香子と学校に行けるのは嬉しいけど、香子のことをまともに見れない。話しかけれない。柳川さんが間に入ってくれてるからまだ気は楽だけど。香子は俺のことを避けてるようにしか見えないし……)

 三人の足音だけが耳に届くなか、山坂浩二は悩んでいた。が、彼は何かを決心したようにズボンのポケットに突っ込んだ両手を強く握りしめた。

(よし! とりあえずこの重苦しい空気だけでも何とかしよう!)

 彼は意を決して柳川友子に顔を向けて口を開いた。

「あ、あの! 柳川さん!」

 しかしそこで、

「ね、ねえ! 友子!」

 と、もう一つの声が彼の言葉と重なった。

「「あっ」」

 山坂浩二と月影香子は思わず声を漏らした。また、月影香子も柳川友子に顔を向けていたために二人の目線が合流してしまう。

 見つめ合う山坂浩二と月影香子。月影香子への恋心を自覚して以来彼女と初めて目が合った山坂浩二の身体に電流が駆け巡る。頬が一瞬で上気し、息が詰まる。結果胸が苦しい。苦しいはずなのに、とても満たされた気持ちになる。

 しかし、そんな時間も一瞬で終わった。

 目が合った直後、山坂浩二と月影香子は二人同時にお互いから目を逸らして口を閉ざしてしまった。

 幸せなはずだったのにあまりの恥ずかしさから山坂浩二は月影香子から目線を逃がしてしまった。沈黙を破ろうとして柳川友子に話しかけたのだが、もう一度月影香子と目が合ってしまったらと思うと怖くて、もう話しかける気にもなれなかった。

「え? なに? 二人とも何なの?」

 山坂浩二と月影香子の二人から同時に話しかけられた直後に顔を背けられてしまった柳川友子は困惑した。首を左右に大きく振りながら二人を見るが、

「何でもないです」

「何でもないわよ」

と、彼らから帰ってきた言葉は実に冷たいものだった。

「そう、なんだ」

 柳川友子はうなだれてため息交じりにそう言うと、顔を上げて山坂浩二の横顔を眺め始めた。そして小さく一言。

「もしかして山坂も……」

 その言葉は山坂浩二にも月影香子にも認識されなかった。

 山坂浩二と月影香子はお互いから顔を背けながら、柳川友子はそんな二人に挟まれて笑みを浮かべながら、沈黙を保ったまま高原高校へと向かった。

 今日の昼休みも二人は顔を合わせることなく、山坂浩二は村田と永山と過ごし、月影香子は柳川友子と過ごした。




 そして放課後。

 月影香子は校門付近に立っていた。学生鞄を右手に持ち、左手を腰に当てている。彼女は自動車が何台も通り過ぎていく目の前の道路を、焦点が定まらない視界のなか眺めていた。

 山坂浩二と柳川友子と月影香子の三人で登下校を共にするようになってから、下校の集合場所は校門付近となっていた。たまに山坂浩二と柳川友子が待つこともあるが、月影香子が二人を待つことが大半だった。

 月影香子の在籍する一年一組は学年内でも比較的帰りのホームルームと掃除が終わるのが早く、山坂浩二と柳川友子のいる一年五組は学年内でもホームルームと掃除の終わりが遅いため、月影香子が先に校門に着くことが多い。

 そして今日も月影香子が二人を待つことになったのだ。

 月影香子がしばらくの間道路を眺めていると、不意に彼女の背中に何かが触れた。彼女が我に返ったかのように振り向くと、そこには月影香子を見上げる柳川友子と地面のコンクリートを見下げる山坂浩二がいた。

「おまたせ、香子。じゃあ、帰ろうか」

 柳川友子がそう言うと、月影香子は無言で頷き、山坂浩二を一瞥した後に歩き出した。並んで歩く月影香子と柳川友子の後を追うように山坂浩二も歩き始める。また、山坂浩二と月影香子が会話しないという昨日と同じような下校が始まるかと思われた。

 しかし、今日は違った。校門を通り過ぎたところで柳川友子が足を止め、スカートのポケットからスマートフォンを取り出して液晶画面に映るものを目で追い始めたのだ。他の二人もつられて足を止める。

 画面に映るものに一通り目を通した柳川友子は山坂浩二と月影香子に向き直った。

「ごめん二人とも。アタシちょっと用事ができちゃったから、今日は二人で先に帰ってて」

 柳川友子は微笑みを浮かべる。

 そして、山坂浩二と月影香子の反応がある前に、

「じゃ、そういうことだからー」

 と言って、柳川友子は笑いながら帰り道とは逆方向に向けて走り出した。そこで山坂浩二と月影香子の二人は事態を飲み込めたらしく、

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ友子!」

「え、え、え、ちょっ、ちょっと待ってくださいよ柳川さん!」

 と彼女を引き止めようとするが、そう言っている間に柳川友子は曲がり角に消えて行ってしまった。

 残された二人はしばらく無言のままでいたが、やがて月影香子が目を合わせることなく山坂浩二に顔だけを向けて、

「仕方ないわね。あたしたちだけで帰るわよ」

 と不愛想に言った。

 山坂浩二も彼女の目を見ることなく、

「そうだな」

 と抑揚のない声で返事をした。

 緩衝材の役割を果たしていた柳川友子がいないまま二人は歩き出す。ついこの間までは二人で歩くときは横に並ぶのが当たり前だった山坂浩二と月影香子であるが、今は縦に並んで歩いている。月影香子が前を行き、山坂浩二が彼女についていく。二人に笑顔はない。

 山坂浩二は月影香子の表情が見えないので不安でたまらなかった。彼女が笑っているのか落ち込んでいるのか怒っているのかさえもわからない。背中で語られても、山坂浩二にとっては、発せられるその言語を理解するのは至難の業だった。

(香子と二人きりになれるのは嬉しいけど、今は恥ずかしい。香子とどう接していいのかわからない。何を話せばいいんだ? どうやって話しかければいいんだ? そもそも香子は何を考えてるんだ?)

 山坂浩二の手のひらに湿り気が生じる。思考を緊張に邪魔される。同じ言葉が何度も彼の頭を駆け巡る。

 二人は無言で、距離を開けている。

 そして、そんな二人を背後から物陰に隠れて見守る人影が一つ。

「もう、じれったいなあ」

 用事があると言ってどこかへ消えてしまったと思われた柳川友子である。

「もう。アタシがせっかく小芝居をして山坂と香子を二人きりにしてあげたのに。なんで一つもアクションがないの? 山坂はチキンなの? ヘタレなの? 香子も待つだけじゃなくてなんらかのアプローチをかけたらいいじゃん。乙女かっての」

 彼女は小声で文句を言いつつ、無言のまま歩く二人を尾行する。霊力で二人に気づかれるのはまずいので、彼女はできるだけ霊力を作り出さないように注意しながら移動する。もちろん二人の間にこれといった変化はない。

 そうこうしているうちに、二人は無言のまま未来橋のところまで来ていた。そのことを理解した山坂浩二は、ある言葉を心の中で繰り返していた。

(告白しようかな。でも怖いな。でもずっとこんな感じでいるのも嫌だしな。やっぱり告白しようか。いやでもちょっと。ああ、今するべきなのかな別に今じゃなくてもいいよな、また今度でも。でも今は柳川さんいないし……)

 彼は、昨日自覚したばかりの感情を月影香子に伝えるかどうかで迷っていた。今朝誓ったはずの「気持ちを秘めておく」ということが早くも揺らぎ始めていた。

『告白』という言葉が彼の頭をかき混ぜていく。

(でも、俺と香子じゃ釣り合わないよな。俺なんかに好きになられたら嫌じゃないのかな。告白した後に、もう二度と口きいてくれなくなったりしたらどうしよう)

 女性不信である山坂浩二は迷う。

 自分なんかが香子と釣り合うのか。

 自分なんかに好かれて香子は気分を害さないか。

 自分に近づけるってだけで、香子が自分なんかに好意を持っていると自分は勘違いしてしまっているんじゃないだろうか。

 そして、山坂浩二が判断に迷っているうちに別れの場所へとたどり着いてしまった。月影香子は山坂浩二に身体を向けてはいるものの、目は合わせない。

 それは山坂浩二も同様だった。

 月影香子は何も言わない。その場から立ち去ろうともしない。何かをためらっているのか、それとも何かを待っているのか。

 山坂浩二はのどに引っかかっている言葉を吐き出そうと奮闘していた。好きだと言いたくても、恐怖心がそれを邪魔する。肺が締め付けられるような感覚に襲われ、その言葉を音として出せない。

 物陰から見守る柳川友子は興奮していた。

「おっ、おっ? 山坂、さっそくコクるのかな?」

 三人がそれぞれ違う行動をとるなか、ついに山坂浩二の口が開いた。

「あ、あのさ……香子」

「な、なに?」

 山坂浩二の震える声に乗せられた言葉に、月影香子はぶっきらぼうに言葉を返す。しかし、彼女の頬は赤く染まっていて、何かを期待するような表情をしている。

 柳川友子も手に汗を握り山坂浩二の行動を見守る。

「あ、あのさ」

 山坂浩二の言葉に柳川友子は身構える。

 彼はのどに引っかかっている言葉を吐き出そうとする。

 そして。

「今日の訓練、頑張ろうな」

 山坂浩二の逃げの発言に柳川友子は落胆のあまり身を隠していた塀に思いっきり頭をぶつけてしまう。頭が跳ね返り、柳川友子は背中をアスファルトに打ち付ける。もちろん霊力による肉体強化はしていないため、彼女は痛みによって悶え苦しむことになった。

 幸い、通行人はいなかったため、彼女の無様な姿を目撃する者はいなかった。

 山坂浩二自身も、

(バカか俺は! なに逃げてんだよ!)

 と自分の勇気のなさに怒りを感じていた。

 彼の心のどこかにあった、秘めておきたいという気持ちが告白という行為を邪魔したのかもしれない。

 身構えるようにしていた月影香子も、山坂浩二の言葉に拍子抜けしたのか、数秒の沈黙を作り出してしまった。彼女はその沈黙の後、

「ああ、そうね。頑張るわよ」

 と返答したもののどこか居心地が悪そうに目を泳がし、

「じゃ、じゃあ、あたし帰るわ。また訓練で。バイバイ」

 と言って山坂浩二に背を向けて駆け足で未来橋を渡り、去って行った。

 その場に取り残されてしまった山坂浩二と柳川友子は、お互いが知らないうちに同時にため息をついたのだった。




 そしてその夜。訓練後。

 自宅に帰った山坂浩二は黒い折り畳み式の携帯電話を握りしめていた。右手で握ったその携帯電話をしばらく見つめた後、山坂浩二はその携帯電話を開いて操作し始めた。その画面に映ったのはある人物の連絡先。

 月影香子の携帯電話番号だった。

「今日もろくに話せなかったし。それより、やっぱり本人を目の前にすると緊張してうまく喋れないんだよなあ。電話だったら、喋れるかもしれない」

 山坂浩二はその電話番号を眺める。

 一応連絡先は交換しているものの、コミュニケーションをとるには電話やメールは効率が悪すぎるという理由から、なるべく電話やメールをしないという約束を山坂浩二と月影香子は交わしていた。

 ただ話すだけでは、月影香子に迷惑がかかるかもしれない。

 月影香子が不機嫌になるかもしれない。

 山坂浩二は迷っていた。しかし、このまま重い空気のままで過ごすのはこれから先のことを考えると不利益にしかならないため、彼は何とかして二人の距離感を元に戻したいと思っていた。

 今のような状態では、あの天才二人に対抗できるわけがない。

「ふう」

 山坂浩二は息を吐いて心を落ち着けさせた。そして、発信ボタンを押す。呼び出し音が耳を通り抜けていく。

 山坂浩二の心拍数が上昇する。息が詰まる。しかし、彼は、顔を合わせなければ今まで言えなかったことも言えるかもしれないと思っていた。そこに望みをかけていた。そして、あわよくば、自分の気持ちを伝えることができるかもしれないとも思っていた。

 成功しても、失敗しても、この微妙な距離は変わるはずだ。

 二人の距離が近づくか、それとも離れるか。

 電話のコール回数が重なる度に心臓の拍動が激しくなっていく。

 できることなら早く出てほしい。

 山坂浩二は緊張と戦いながらひたすら待った。

 そして。

『もしもし?』

 繋がった!

「あ、もしもし香子? 浩二です」

 山坂浩二は少し声を上ずらせたが、聞き取れる発声ではあった。

『あ、浩二? どうしたの? なんかあったの?』

 スピーカー越しなので正確にはわからないが、月影香子の声のトーンが低い。

「いや、そんな、なんかあったってわけじゃないけど……」

 山坂浩二は月影香子からの質問に答えた。

 すると、

『用事がないなら電話しないでよ。あたし相手の顔が見れないから電話嫌いってこの前言ったわよね?』

 と、明らかに不機嫌な様子の声がスピーカーを通して聞えてきた。山坂浩二は慌てて訂正する。

「た、確かに聞いたけど、今日はちょっと話したいことがあったんだよ」

『なに?』

「その……なんか香子ってさ、俺から変に距離取ってるよね」

『……確かにそうね。でも、今日は浩二だってあたしを避けてたわよ』

 図星をつかれた山坂浩二はうろたえる。

「う、それはそうだけど、でも、最初に距離を取り始めたのは香子の方だろ? どうしてそんなことするようになったの?」

『言えるわけないじゃない、そんなの。教えてほしかったら、浩二があたしから距離を取り始めた理由を教えなさいよ。そしたら教えてあげるわよ』

「俺だって、そんなの言えるわけない……」

 そう。やっぱり言えるわけがない。

 異性として好きだって気づいてしまったとか。それに気づいたから香子に近づくのが恥ずかしくなったとか。好きだという気持ちを悟られたくないからだとか。

 そんなの、言えない。

 たった三文字「好きだ」と言うだけでこの距離感は簡単に解決できそうなのに。

 難しい言葉じゃないのに。

 言えない。

 言ってしまったら、今の関係が壊れそうで怖い。

 言ってしまったら、二人の間の空気がさらに悪化しそうで怖い。

 言ってしまったら、軽口を叩き合える関係に戻れなさそうで怖い。

 だから、何も言えなかった。

 長い沈黙の後、スピーカーから月影香子の声が聞こえてきた。

『話は終わり? だったら切るけど、切る前に一つ言っておくわ。あたし、別に浩二のこと嫌いになったわけじゃないから、勘違いしないでほしいのよ。ただ、今はちょっと距離が欲しいだけなの。気持ちの整理がついたら、また前みたいに接するわよ。それじゃ、おやすみ』

「お、おやすみ」

 通話は非常に短い時間で、半ば強制的に終了してしまった。

 山坂浩二は結局、言いたいことを言えずに終わってしまった。収獲と言えば、月影香子が山坂浩二を嫌悪しているから距離を置いているのではなく、あの居心地の悪い距離感は気持ちの整理がつくまでの一時的なものであるということだ。

 ただ、やはり電話でさえも何も言えなかったという事実は残ってしまったが。

 そして、香子への気持ちを心に秘めておきたいと思いながらも、相手に伝えたいという矛盾した気持ちも知ってしまった。

「俺って、臆病者だな」

 山坂浩二は空虚に笑いながら、携帯電話を耳から下ろした。




 一方、月影香子は山坂浩二との通話後、自宅の床を見下ろしながら歯を食いしばっていた。そして右手に持った赤色の折り畳み式携帯電話を握りしめる。

「……意気地なし」

 その言葉は、誰に向けられたものかはわからなかった。

 携帯電話は、握りつぶされることはなかった。




 そして、山坂浩二と月影香子の距離は縮まることなく、木曜日、金曜日が過ぎ去り。


 三月五日、土曜日。新月の日を迎えることとなる。





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