第四話 想い(上)
話は任務から少しさかのぼる。
二月二十三日水曜日午前八時。黒の学ランとスラックスに身を包んだ平均的な体格の男子高校生が一人、朱い色をした未来橋の端に立っている二メートルほどの柱に、背中をもたれさせて携帯電話を操作していた。
学ランの第一ボタンをはずし、黒のスポーツバッグを肩から提げている彼の名は山坂浩二。彼は、雑霊や悪霊を浄化する退魔師である一方で、月影香子以外の女性からは無自覚に避けられてしまうという一面を持つ少年である。
そんな彼は、左手に持った黒色の折り畳み式携帯電話の画面を見ながらため息をついた。
「遅いな」
山坂浩二は未来橋の道路に目を向けた。その片側一車線の車道では自動車が何台か走行していて、両端の歩道ではスーツ姿の大人や学校の制服を着用した少年少女が自転車を漕いでいたりまた歩いたりしていた。
彼は視線を携帯電話の液晶画面に戻し、
「時間なのに来てないのかよあいつら」
再びため息をつく。
山坂浩二は携帯電話を閉じてズボンの左ポケットに突っ込み、両手をポケットに入れた状態で青空を見上げ始めた。
(今日も雲一つないなあ。てか、なんであいつらは時間通りに来ないんだよ。あいつらのせいで、朝は早めに行って学校で勉強するっていう俺の習慣が崩れちゃったじゃないか。どうしてくれんだよまったく)
彼は眉間にしわを寄せた後、ふっと表情を緩めた。
(まあ、その習慣を犠牲にするくらいの価値はあるけどな。香子と一緒にいるのは楽しいし、それに今日からは……)
と、彼が物思いにふけっていると、未来橋のほうから聞き覚えのある少女たちの声が山坂浩二の耳に入ってきた。
「あー! いたいたー! おはよー! 浩二!」
「山坂! ごめん遅れた!」
山坂浩二は声のした方向に顔を向けた。未来橋の歩道を軽く走りながら、月影香子と柳川友子の二人の少女が近づいてくる。山坂浩二はその光景を目に入れると、背中を柱から離して二人に身体を向けた。
二人のうち、一人は山坂浩二の退魔師としてのパートナーである月影香子。そして、もう一人は彼のクラスメートであり退魔師残党の仲間である柳川友子。
二日前の月曜日から山坂浩二は月影香子と共に登校していたが、二人と退魔師残党との件で月影香子と柳川友子の関係が良好な状態に戻ったため、今日からは柳川友子もその登校メンバーに加わることになっていた。
月影香子と柳川友子が彼の近くまでたどり着くと、二人は足を止めた。月影香子は頭を少し下げ、顔の前で両手を合わせて右目を閉じ、柳川友子はかすかに笑った。
「ごめん浩二。また遅れちゃったわ」
「あはは、初日からごめんね山坂。秀さんと紗夜さんを起こして朝ごはん食べさせてたから、香子を迎えに行くのが遅くなったの。遅れたのはアタシのせいだから」
走ってきたにも関わらずまったく息の上がっていない二人が口々に謝罪した後、山坂浩二は柳川友子を見て笑い、顔の前で右手を左右に振った。
「いや、いいんですよ柳川さん。そんなに気にしてませんから。ここで話すのもなんですし、学校行きながら話しましょう」
そう言って山坂浩二は二人に背中を向けて首を左右へ動かしながら車の通行を確認し始めた。その一方で、月影香子は両手を合わせたまま顔を上げて右目を開き、
「あれ、あたしは?」
と呟いて山坂浩二に向き直った。
「ねえ、あたしには何の言葉もかけないわけ? 怒ってるの? あたしちゃんと謝ったわよ! あたしあんたのパートナーじゃないの! なのに何この扱いの差」
月影香子は文句を垂れる。山坂浩二は彼女に背中を向けたまま笑い、
「そんなに怒るなって。香子は遅れてばっかりだから、ちょっとからかいたくなっただけだって。あ、今なら渡れますよ柳川さん」
「言われなくてもわかるよそれくらい」
月影香子の相手をした後、柳川友子と車道を横断し始めた。歩道に取り残された月影香子はわずかに固まっていたが、すぐに我に返って二人の後を追った。
「ちょっと待ちなさいよあんたたち!」
月影香子はそう叫びながら車道を走って横切る。山坂浩二の確認からあまり時間が経っていなかったので、彼女が車に衝突される危険はなかった。
車道を横断した月影香子は、山坂浩二のほんの少し前を歩いている柳川友子の左隣まで走り、それから二人に歩調を合わせた。
「もう、友子もひどいわよ。嘘ついてあたしをかばってくれたのはいいけど、なんで浩二の茶番に付き合うのよ」
「いいじゃん別に」
「よくないわよ」
月影香子は肩を落とした。彼女の隣を歩いている柳川友子はニヤニヤと怪しい笑みを浮かべながら月影香子を見上げる。
「あ、そんなこと言うんだ。じゃあ、なんで香子が遅れたのか山坂に言っちゃおっかな。あのね、山坂。今日遅れたのは、香子のトイレがなが」
「わーわーわーわー!」
「んぐっ!?」
柳川友子の言葉を、月影香子が遮った。彼女は顔を紅潮させて慌てた様子で柳川友子の口を左手で塞ぎ、山坂浩二に顔を向けて苦笑いをした。
「な、何言ってるのかなこの子。友子の言うことは信じちゃだめだからね浩二。わかった?」
「んー! んー!」
必死で弁解する月影香子と、口だけではなく鼻までも手で覆われて彼女の腕の中でもがく柳川友子。仲良くじゃれ合うこの二人が二日前までは険悪だったということは、山坂浩二には信じがたい話だった。
彼は笑いながらため息をついた。
「わかったから、離してやれよ香子。柳川さん苦しそうだよ」
「ぷはあ!」
山坂浩二の言葉の後、月影香子はにっこりと笑って手を緩め、柳川友子を解放した。柳川友子は呼吸を整えて月影香子を睨み付けた。
「ちょっと! 死ぬかと思ったよ!」
「別に、殺す気はなかったわよ? 変なこと言い始める友子が悪いのよ」
「言ってないよ!」
と、微笑を浮かべる月影香子と涙目になりながら彼女に反抗する柳川友子の二人はかしましいやり取りをし始めた。
その二人の少し後ろを歩く山坂浩二は、仲間外れにされちゃったなあと思いながらも彼女たちのやり取りを眺めていた。月影香子は、山坂浩二よりもわずかに背が低くスレンダーな体型で、腰を通り過ぎるポニーテールが特徴的な、顔立ちのかなり整った少女。柳川友子は、月影香子よりも頭一つ分背が低く全体的に細い体型で、肩にぎりぎりかからない長さの髪型の、大きな目が特徴で活発な印象を受ける顔立ちの少女。
どちらも美少女である。
もちろん、山坂浩二にとってはそれだけではなかった。月影香子は退魔師としてのパートナーで、柳川友子は大切な仲間。それに、女性から無条件に避けられてしまう彼に接することのできる数少ない存在。
この二人に目線が自然といってしまう。
楽しそうに話す月影香子と柳川友子を後ろから見つめながら、山坂浩二は学校へ続く道を歩いて行った。
三人が校門を抜けて本校舎の中央階段を上って二階へ行くと、月影香子は文系クラスの一組へ向かい、山坂浩二と柳川友子は理系クラスの五組へと向かった。
授業中、山坂浩二は前の席に座っている柳川友子の背中を眺めながら、月影香子のことも考えていた。月影香子と再会する前から関わりのあった柳川友子と、力を取り戻して以来一緒にいることが当たり前であるかのように過ごしてきた月影香子。どちらも気になって仕方がなかった。
今日も授業内容は耳から入っては抜けていくばかりだった。
昼食は三人で食堂に行って食べた。献立は相変わらず、山坂浩二のものは塩おにぎり四つで、月影香子のものは特大のラーメンだった。柳川友子は自作の弁当で、山坂浩二と月影香子を感心させた。食事中、山坂浩二は隣にいたヘンタイ六人衆と彼の友人である永山と村田に絡まれたりもしていたが、適当にあしらってやり過ごした。
そして放課後、下校中。夕日によって赤く染まった道を、山坂浩二は月影香子と柳川友子の三人で歩いていた。銅鏡川に沿う道路に着いたとき、山坂浩二が口を開いた。
「あと二週間後にはテストだな。香子、今回はちゃんと勉強して受けろよ?」
山坂浩二が嫌味なように笑うと、月影香子はふてくされたように腕組みをしてそっぽを向き、口を尖らせた。
「わ、わかってる。今回のテストは、浩二に勉強見てもらってるし、前と比べてかなり自由な時間ができたから、自分でも勉強してるわよ。今回も赤点すれすれ、なんてことはないから。覚えるだけならなんとかなるはずよ」
「ほんとに大丈夫か?」
山坂浩二は眉をひそめた。すると、柳川友子は自分のななめ後ろを歩いている山坂浩二に顔を向け、彼を扇ぐように右手を上下に動かして、
「そんなに心配しなくても大丈夫だって山坂。香子って、こう見えて実は頭いいんだから。今のところ現代文以外は平均よりめちゃくちゃ下だけど、ちゃんと勉強すれば平均点より上は絶対にいけるはずなんだよ」
と笑みを浮かべながら月影香子にフォローを入れた。それを聞いた月影香子は得意げな顔をして腕組みをする。
「ふふん、友子の言う通りだわ。あたしはね、やればできる子なのよ」
「……まあ、呑み込みが遅い、ってところが弱点なんだけどね」
力を抜いたように笑いながらため息をつく柳川友子。彼女のその言葉に、月影香子は素早く反応した。
「うるさいわねえ!」
彼女は顔を紅潮させて声を上げた。すると、柳川友子は表情を緩めながら左手で月影香子の右肩を数回軽く叩いた。
「まあまあ。確かに香子は、呑み込みは遅いけど、呑み込んでからの伸びがすごいからね。そのあたりは心から尊敬するよ」
「そ、そう? あ、ありがと」
柳川友子がそう言うと、月影香子は先ほどとはまた違った意味で顔を赤らめて、右手で自らの後頭部を弱く掻いた。
そして三人の間に静寂が訪れる。
山坂浩二は、月影香子と柳川友子のやり取りを微笑ましく思いながらも、また少し妬ましく思っていた。
(へえ、香子って呑み込みが遅いのか。まあ、確かに言われてみれば、勉強を何回教えてもできないことが多いからなあ。特に数学とか。でも、できるようになれば信じられないくらいにできるようになるよな。最近、因数分解を間違えることなんてほとんどないし。そう、数学に関しては因数分解だけ)
ため息。
(やっぱり、柳川さんは俺が知らない香子を知ってるんだよなあ。この二人、十年前から友達もんな)
山坂浩二は、自分の目の前で楽しそうに会話していた二人を思い出して、形容しがたい気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
(ちょっとうらやましいな。香子の親友である柳川さんと、柳川さんの親友である香子の二人が、うらやましい)
自分が思うことであるはずなのに、なぜ自分がそう思うのか、山坂浩二にはわからなかった。月影香子は、十年前に山坂浩二と生き別れ、最近再会した退魔師としてのパートナー。そんな彼女と親しく、また彼女について自分よりもよく知っている柳川友子に嫉妬するのはわかる。
では、どうして月影香子にも嫉妬しているのだろうか。
柳川友子と親しい彼女を妬ましく思うのだろうか。
確かに、柳川友子は月影香子の暗黒時代を支えた少女で、月影香子にとっては大切な友人だ。柳川友子を含む退魔師残党の行動が原因で、彼女たちの関係が一度は険悪になったものの、今こうして二人で笑い合える仲になっている。
月影香子が怒りで柳川友子を殺そうとしたこともあった。柳川友子のとった行動は彼女自身でさえ許されないことだと思っていた。自らの保身のために月影香子と山坂浩二を再会させないようにした。二人を暗黒に閉じ込めたままでいようとした。それでも最終的に月影香子は柳川友子を許した。柳川友子でなければ許されなかったかもしれない。それだけ彼女の存在は月影香子の中では大きい。もし彼女がいなければ、月影香子は今頃どうなっていたか見当もつかない。
山坂浩二にとっても柳川友子の存在は大きなものだった。山坂浩二は力と記憶を失ってから異性に避けられ続けた。その原因は誰にもわからなかった。理由がわからないまま異性に避けられ続けた結果、山坂浩二は半ば女性不信になっていた。
そんな彼に、初めてといって言いほど接してくれたのが、高校に入学してから知り合った柳川友子だった。彼女が山坂浩二に接する度合いは月影香子の足元にも及ばないものだったが、その当時の山坂浩二には十分すぎるくらいだった。
彼女が接してくれる回数は少なく、一回当たりの時間も短かった。それでも、彼女が話しかけてくれたことが、彼女が笑いかけてくれたことが、山坂浩二にとっては大きな救いだった。
月影香子と再会する前は柳川友子とまともに会話すらできず、慌てることしかできなかったが、それでも彼にとっては嬉しいことだった。
山坂浩二は、自分が月影香子に対して抱いている気持ちの正体をいまだ掴めていない。ただ、それに近い気持ちを柳川友子に対して感じていることはわかっていた。
その気持ちは柳川友子と出会った時から芽生えていた。ただ、彼女が山坂浩二を避けることもあったため、その気持ちが大きくなることはなかった。今こうして同じ時を過ごすようになっても、その感情はあまり膨らまない。
それに対して、月影香子へ対する彼の気持ちは日を追うごとに大きくなっていた。そしてその感情は、柳川友子に対して抱くものとは似ているようで、なにかが違っていた。
山坂浩二は、二人の少女を後ろから眺めながら歩いた。未来橋で彼女たちと別れ、自分の部屋がある低家賃アパートへと帰っていった。
そしてその日の夜。山坂浩二と月影香子を含む退魔師残党十九名は、山のふもとにある倉庫に集まって訓練を行っていた。山坂浩二は昨日と変わらず、倉庫の外で柳田秀と水谷紗夜から個別に指導を受けていた。
月影香子は倉庫内で残党のメンバーと実戦形式で訓練をしていた。昨日は柳川友子を含めた十五人が一斉に月影香子へ攻撃を仕掛ける形であったが、今夜は残党のメンバーが彼女と一組ずつ戦う形だった。何度やっても月影香子が負けることはなかった。彼女とまともに戦うことができたのは柳川友子ただ一人だった。
訓練が終わると、山坂浩二と月影香子の二人は、日曜日に実行する浄化任務についての資料を柳田秀から受け取った。
そうして、二月二十三日は終わった。翌日も、山坂浩二は月影香子や柳川友子と登下校や昼食、訓練を共にした。その次の日の放課後、残党のメンバーは山坂浩二と月影香子を置いて、浄化任務のために空港から日本のどこかへと飛び去って行った。柳川友子は今週の土曜補習には出席しないと言い、柳田秀は結界を張るためのお札を山坂浩二に二枚渡した。この日は、山坂浩二と月影香子の二人で訓練を行った。
二月二十六日土曜日。浄化任務の前日。
土曜補習が終わると、山坂浩二と月影香子は山坂浩二の家で、彼が保存食として買っておいた安売りの大盛りカップ麺を昼食として食べた。そして学校の宿題を終わらせた後、明日の浄化任務の内容を二人で確認した。月影香子は柳田秀から渡された資料を学校のプリントと一緒に捨ててしまったため、山坂浩二の資料で確認せざるを得なかった。山坂浩二は彼女の行為にあきれた。
「香子、お前なあ、住所とか履歴とか家族構成とか地図とか、そういった個人情報が書かれた紙をそのまま捨てるなんて、今の世の中だと大問題だぞ」
「う、うるさい! どうせ燃えるんだから関係ないでしょ!」
月影香子は顔を赤くした。
「捨てるならシュレッダーにでもかけないとダメだろ」
「だから間違って捨てちゃったって言ってるじゃないの!」
「なんでこんな大事なもんを捨てちまうんだよ」
「だって学校のプリントと似てるんだもん」
「ちゃんと確認しろよ」
「もう捨てちゃったんだから仕方ないでしょ!」
自分の非を一向に認めようとしない月影香子の態度にあきれて、山坂浩二は壮大にため息をついた。
「はいはいそうですね仕方ないですね。今さらどうにもならないですからね」
このやり取りに終わりが見えないと感じた山坂浩二は、もう終わったことは議論すべきでないとしてこの会話から引き下がった。
月影香子は満面の笑みを見せる。
「そうよ。わかればいいのよ。過去のことは過去のことだから、今を生きるあたしたちには必要ないわよ」
彼女が穏やかな声で言ったその言葉が、山坂浩二の心に妙に残った。
任務内容を確認した後は、山坂浩二が腕を振るって夕飯を作った。彼が作ったのはチャーハンで、具は大量のもやしと消費期限間近の少量の豚肉という、低予算な雰囲気漂うものだった。
山坂浩二がチャーハンを乗せた皿をこたつの上に二枚置くと、月影香子は眉をひそめた。
「あんたこれ。もやしとご飯の量が同じくらいじゃない! こんなのチャーハンって言えるの!? 言えるわけないわよね!」
彼女がそう言うと、山坂浩二は得意げな笑みを浮かべながら彼女と向かい合わせに腰を下ろした。
「言えるね。これは、もやしチャーハンだ!」
「もやし多すぎ。これじゃチャーハンもやしって言った方がしっくりくるわ。主役がお米じゃなくてもやしになってるから」
「もやしの何がいけない?」
「普通、チャーハンにもやしは入れないでしょ。それに、こんなにあると貧乏くさいのよ」
山坂浩二の眉がピクリと動く。そして、彼は鋭い眼光を月影香子の双眸に向けた。月影香子は身の危険を感じて彼から目を逸らした。
「おい、香子。もやしを馬鹿にしてもらっては困るな。もやしは低価格で販売されるにも関わらず高栄養価でなおかつたくさんの料理に使える庶民の頼もしき味方でありしかも味も食感もよくて調理次第でいろいろな顔を見せる最高の食材でそのうえ水分が大量に含まれているために食べ終わると胃の中で食物が水を含んで膨らむことで満腹感を得られそして」
「あー! もうわかったから黙りなさいよ食べればいいんでしょ食べれば!」
庶民の味方であるもやしについて、山坂浩二からお経のように語られ、月影香子はたまらずに声を上げて彼の言葉を遮った。そして彼女はスプーンを使い、目の前のチャーハンを仕方がなさそうに口に入れ始める。
その様子を見た山坂浩二はどこか腹が立つような笑みを浮かべて二回頷いた。
「よろしい」
月影香子は眉間にしわを寄せながら口に含んだものを咀嚼し、表情を変えないまま呑み込んだ。皿に盛られたチャーハンに目を向けたまま彼女は口を開いた。
「味薄い。水分多い。まあ、シャキシャキしてて食感はいいから食べれないことはないけど」
彼女はそう言って再びチャーハンを口に入れた。
それ以降は黙々と食事をとるようになった月影香子を見ながら、山坂浩二は鼻で小さくため息をついた。
(食べれないことはない、ねえ。香子のためにかなり量を増やしたんだけどなあ。まあ、食べてくれてるからいいか。俺も冷めないうちに食べよう)
山坂浩二は顔の前で両手を合わせ、
「いただきます」
と言って、食事を開始した。
食べ終わるまで、二人は無言だった。
夕食後、二人は銅鏡川の河川敷広場で霊力操作の訓練を行った。日が沈んで暗くなった広場で一時間ほど体を動かした後、二人は枯れた芝生の上に並んで腰を下ろした。体の後ろで地面に両手をつけ、無数の星がまたたく夜空を眺めながら二人は休息をとっていた。
「ねえ、浩二」
「ん?」
山坂浩二は月影香子の呼びかけに反応して、左隣の月影香子に顔を向けた。彼女は星空を見上げたまま尋ねる。
「緊張してる?」
彼女の言葉が耳に入ると、山坂浩二は芝生に目線を落とした。おそらく、彼女は明日の浄化任務のことについて訊いているのだろう。そう考えた山坂浩二は芝生を見つめたまま答えた。
「まあ、な」
月影香子は表情を緩める。
「そうよね。あたしと浩二の二人で任務に行くなんて十年ぶりだし、あたしたちが再会してからで言うと初めての浄化任務だから、今の浩二にとっては初めてのお仕事だもん。緊張しないわけがないわよね」
山坂浩二は月影香子に目線を移した。いつか見た少女の柔らかな笑みが今の彼女の横顔と重なる。高校一年生である月影香子の顔には幼さがわずかに残っているが、こうして山坂浩二と二人きりでいるときだけはその幼さが大きくなって表へ出てくる。まるで幼稚園児のように感情を表へ出して彼につらく当たったり、彼に微笑みかけたりして、山坂浩二を振り回す。
山坂浩二には、その時の月影香子が十年前の彼女に戻っているかのように感じられた。どのような表情をしていても、どのような言葉を口から出しても、どのような行動をとっても、彼女の感情の中心には「楽」があるように思えた。
山坂浩二は少しの間月影香子を見つめた後、口を開いた。
「香子は、緊張しないのか?」
月影香子は目を閉じる。
「するわよ」
その穏やかな声と共に彼女は目を開けて、山坂浩二と視線を合わせた。
「緊張するに決まってるじゃない」
「秀さんと紗夜さんの手伝いをするときも?」
「うん。だってお仕事だから」
「仕事か。だったら緊張するよな」
山坂浩二は頷く。月影香子は彼から目線を離して正面を向き、目を閉じた。
「でも、今回は特別。初めて浄化任務に連れていかれた時と、浩二と初めて浄化任務に行った時ぐらい緊張してるわ」
「なんだ? そんなに俺が心配か?」
「ううん。そういう意味じゃない」
首を横に振る月影香子。
「復帰戦だから。あたしたち二人の、浩二・香子ペアの復帰戦だから。ただそれだけ。初めてと久しぶりは緊張する。それだけの理由。別に深い意味はないわよ」
「……そうか」
山坂浩二は笑みを浮かべた。少しの静寂の後、彼は再び口を開いた。
「報酬、出るんだよな」
「出るわよ。あたしなんか、秀さんと紗夜さんの手伝いで貰ったお金で暮らしてるくらいなんだから」
「そんなに貰えるのか?」
「命懸けてるからね。それに、あたしが手伝うのはかなり危険な任務ばっかりだから、月に二、三回手伝ったら十分に暮らしていける分のお金は貰えるわよ」
「じゃあ、秀さんと紗夜さんは」
山坂浩二がそう言うと、月影香子は彼の言葉の続きを紡ぐかのように話し始めた。
「任務で日本中を毎日のように飛び回ってるから、年収は一千万を超えるらしいよ。まあ、下手をすれば死ぬような仕事を、ほとんど休みなしでやってるようなものだから、そんなに驚くことはないでしょ」
「そのわりには元気そうだけどな、あの二人」
山坂浩二は笑みを浮かべて息を吐いた。それにつられて月影香子も笑う。
「まあね。あの二人、思った以上にタフだから。最近は残党のメンバーにも任務を任せれるようになって、秀さんと紗夜さんが受ける任務の数は減ったみたいだけど、退魔村が滅んだ後の五年間くらいはあの二人だけで浄化をしてたらしいわ。しかも、最初のほうは任務じゃなくてボランティアだったから報酬も出なかったって。それでも、秀さんと紗夜さんは頑張って、地の底まで堕ちた信頼を村が滅ぶ前の状態にまで戻したのよ。あの二人のおかげで、あたしたちは命を懸ける代償としてお金を貰えるの」
「すごいな」
山坂浩二はそう呟いて目線を芝生へ落とした。
「俺、ちゃんとできるか自信ないよ。霊力も強くないし、力を取り戻してからまだそんなに時間経ってないし、あと人も関わってくるから」
彼は弱音を吐いて大きくため息をついた。
その時、乾いた大きな音とともに衝撃が山坂浩二の背中を襲った。隣に座っている月影香子が右手で彼の背中を思いっきり叩いたのだった。
「痛っ。なにすんだよ香子!」
山坂浩二は月影香子に顔を向けながら叫ぶようにそう言った。月影香子はあきれたような表情をしている。
「あんたこそ何言ってんのよ、浩二」
彼女は山坂浩二の双眸を見つめて微笑んだ。
「あたしがいるじゃない。あたしがいるから、失敗することなんてありえないわよ。だから、安心しなさい」
山坂浩二は呆気にとられた。彼女は先ほどまで幼さを感じさせていたはずなのに、それが今はまったく感じられなかった。根拠のない言葉でも、彼女の口から出たという事実だけで信憑性が生まれる。
任務に失敗する可能性はない。
彼女の言葉には山坂浩二にそう思わせるほどの力があった。
「そうだな」
彼は息を吐くようにそう言って夜空を見上げた。自らの存在を主張するかのように輝く星々と、それらを引き立てる黒。この二種類のものがあってこそ、彼はこの光景を目にすることができる。それと同じように、浄化の退魔師も男と女の二人が揃ってこそ悪霊を浄化することができる。例え山坂浩二のように男の力と女の力の両方を持っていたとしても、月影香子という存在がなければ満足には戦えず、浄化も思うようにはできない。
そして、彼女の存在が山坂浩二の支えとなる。
「香子が、いるもんな」
戦闘面でも。
精神面でも。
山坂浩二にとって、月影香子は非常に頼りになるパートナーだった。
昔も。そしてこれからも。
山坂浩二と月影香子はしばらくの間、微笑みを浮かべながら星空を見上げていた。