第二話 築かれた信頼(中)
空中。
山坂浩二を背負って、月影香子は飛行していた。二人とも不可視の状態であるので、一般人に見つかることなく街を離れることができ、今は山地の方向に向かっている。
空気を裂くかのような速さで進んでいるため、冷たい風が容赦なく吹き付けてくる。山坂浩二の背中の後ろで、月影香子のポニーテールが暴れていて時折彼の右頬に触れてくる。月影香子は平然としているが、山坂浩二は彼女にしがみついて震えていた。
(寒い! ダウンでも着てくればよかった! そして高い速い怖い!)
彼が誰かに掴まって空中を移動するのはこれで三回目であるが、月影香子に身を任せるのは今回が初めてであった。
柳川友子のときは気分が高まっていたせいか、生身のまま飛行することに恐怖をほとんど感じていなかった。少し眠るほどの余裕があったくらいだった。
しかし今回は違う。この前ほど高揚していないために寒さと恐怖を感じざるを得なかった。今、彼の感覚はその二つに支配されている。
山坂浩二はそれを紛らわすために口を開いた。
「なあ香子。目的地って、確か県外だよな。山を越えて行くんだよな。それで、依頼主の家って海の近くなんだよな」
彼が声を震えさせながらそう言うと、月影香子は前を向いたまま答えた。
「そうよ。依頼主って、お金持ちらしいわね。海の近くにお屋敷みたいな家を建てて、そこに住んでるくらいだしね。あと、危険度の割に報酬も高いし」
「なんか、ありそうだな」
「気にしすぎじゃない? 気前がいいだけよ」
山坂浩二はため息をついた。
「そうだといいけどな」
「そんなに気になるなら、依頼内容でも思い出してみたら? なんならあたしに話してみれば? いい暇つぶしになるかもしれないわよ」
月影香子は、自分の右肩越しに山坂浩二の体を見ながら笑った。
「でも、それじゃあ香子が退屈じゃないか?」
山坂浩二がそう尋ねると、彼女は顔を前に向けた。
「いや、あたしは気ままに飛んでるから退屈じゃないわよ。それに、あたしにとっても任務内容の復習になるわ。遊びじゃなくて、仕事なんだから。悪霊との戦いは絶対にあるから気を抜いたら死ぬかもしれないし、なによりお金もらうんだから、しっかりしておかないとだめでしょ?」
彼女の言葉の後、山坂浩二は月影香子の後頭部を見つめながら瞬きを数回繰り返し、
「香子って、意外と真面目なんだな」
と感心したように言った。
すると、月影香子の顔に少し赤みが帯びた。
「う、うるさいわね! これくらい当たり前よ! それに任務に失敗したら秀さんと紗夜さんがいままで築いてきた信頼がなくなっちゃうかもしれないんだから!」
彼女は早口にそういった後、口を尖らせた。
(あ、香子照れてる)
山坂浩二は小さく笑った。すると、
「なんで笑ってるのよもう! いいから早く任務の内容を言いなさいよ!」
と、月影香子は声を上げた。
「はいはい」
山坂浩二はため息交じりにそう言って、呆れたように笑みを浮かべた。そして、先日の柳田秀との会話を思い出すのだった。
二月二十二日火曜日、訓練後。
柳田秀は、山坂浩二と月影香子の二人に対して任務内容を説明すると言った後、黒色ジャージのポケットから何回も折りたたまれた白い紙を取り出し、二人に手渡した。
「このプリントに、今回の任務の概要が書かれています。承諾していただければ、明日詳しい資料をお渡ししますので、今日は僕の話を聞いて、任務を受けるか受けないかを決めてください」
柳田秀が笑みを浮かべたままそう言うと、二人は、
「わかりました」
と、口をそろえて返事をして、手渡された紙を広げた。A4のコピー用紙にワープロソフトで書かれている文章に二人は目を通していく。
その様子を見た柳田秀は、
「では、それを見ながら、僕の話を聞いてください」
と言い、咳払いをした後、説明を開始した。
「今回、浄化の対象となるのは、依頼主のお孫さんに憑依している悪霊です。依頼人は井口広志さん六十三歳男性。井口海運という中小企業を経営しています。そして、悪霊にとりつかれているのは、広志さんの孫娘の井口明日嘉さん九歳、現在小学校三年生です」
孫娘、小学校三年生という言葉で、山坂浩二は目を細めた。
(幼い女の子が犠牲者か。つらいだろうな)
彼は心の中でそう呟いた。柳田秀は続ける。
「広志さんの妻である幸さんは今から半年前に心筋梗塞で他界しています。今は広志さん、明日嘉さん、そして明日嘉さんの両親の四人で暮らしていますね。明日嘉さんの両親は、広志さんが経営する海運会社に勤めています。家庭環境は、一言で言えば広志さんの言動に他の三人が振り回されているといったところでしょうか」
山坂浩二は柳田秀の説明を耳に入れながら眉をひそめた。
(わがままなジジイか……。同じ会社で働いているから、井口夫婦は依頼主には逆らえないってか。逆らったらクビになるかもしれないし。困ったもんだよね)
彼は静かにため息をついた。
柳田秀の説明は続く。
「では、本題に入りましょう。今から二か月ほど前に明日嘉さんは原因不明の高熱に襲われました。複数名の医師から診察を受けたようなのですが、誰もその原因がわからず、明日嘉さんは高熱に苦しみ続けました。明日嘉さんが高熱を出してから一週間後に、とある医師から、原因は霊的なものかもしれないと言われ、後日、広志さんは霊媒師の方を自宅に呼び、明日嘉さんを診てもらったところ、高熱の原因は彼女に憑依した霊だということがわかりました」
(……なんか、よく聞く話だな)
山坂浩二はわずかに笑った。柳田秀は少し間を置いて話を再開させた。
「その霊媒師は、霊能協会から霊能力者であると認められている方です。彼は、その日のうちにお祓いをしました。そして、明日嘉さんの熱は下がったそうです。しかし翌日、明日嘉さんは再び高熱に襲われました。その知らせを聞いた霊媒師が再び駆けつけて調べたところ、祓ったはずの霊が明日嘉さんにとりついていたようです。そして、もう一度お祓いをしましたが、翌朝には明日嘉さんは高熱を出しました。それ以降は、霊媒師が他の霊媒師を紹介して失敗し、霊媒師が除霊師を紹介して失敗するという、紹介と失敗の繰り返しでした。そして今回、ようやく霊能協会が浄化の必要性を考え、我々のところにバトンが回ってきたのですよ」
柳田秀は説明を一通り終えると、大きく息を吐いた。
その後、山坂浩二に目線を向けた。
「これで以上です。何か質問はございませんか? 浩二さん。まあ、いろいろとあるとは思いますがね」
柳田秀は、くくくと小さく笑った。
山坂浩二は概要が記述された紙から目線を上げ、柳田秀に視線を移した。
「え、ええと。そうですね。たしかにたくさんあるんですけど、とりあえず、霊媒師と除霊師は僕たち退魔師とどう違うんですか? それと、危険度6というのはなんですか?」
山坂浩二がそう尋ねると、柳田秀は、
「やっぱり。そうきますよね。ですが、浩二さんの質問にはまとめてお答えすることができます。少し長くなりますが我慢していただけますか」
と尋ね返してきたので、山坂浩二は頷いた。
柳田秀は口を開く。
「まず、霊は大きく二種類に分けられます。生前の人格が残っているものと残っていないもの、の二種類です。人格が残っているものは精霊、純霊、怨霊の三つに分けられます。清い心と強い霊力を持ったものを精霊、悪い心と強い霊力を持ったものを怨霊、霊力の弱いものを純霊と言います。これらに対して、人格が失われたものは雑霊と悪霊の二種類に分けられます。雑霊は人格を失っていること以外に特徴はありません。悪霊は穢れと霊力をため込み続けた雑霊のなれの果てです。強い霊力を持ち、周囲に穢れをばらまき、霊力あるものを襲い、霊力を喰らうことだけを求め続けます。ひとまず、ここまでご理解いただけましたか?」
「まあ、一応……ですね」
山坂浩二がそう答えると、柳田秀は再び話し始めた。
「霊媒師、除霊師、そして我々浄化の退魔師は、それぞれ相手にする霊の種類が違います。霊媒師が相手にするのは純霊で、役目は霊的カウンセリングによる浄化です。場合によっては怨霊を相手にすることもありますね。除霊師が相手にするのは聞き分けのない怨霊で、役目は実力行使、力で懲らしめることでその場から引き離すことです。運が良ければ浄化します。普通の退魔師も除霊師に含まれます。そして、我々浄化の退魔師、単に退魔師と言ったり浄化師と言ったりすることもありますが、我々の相手は自らが人であったことを忘れた雑霊と悪霊で、役目は穢れを強制的に取り払うことで魂を浄化することです。ここまで大丈夫ですか?」
山坂浩二は無言で頷く。
「では、次に危険度について説明いたしましょう。危険度というのは霊能協会が定めたものでして、数字だけで霊の種類と任務の難易度を表すことができます。十段階に設定されていまして、霊の種類は1~3が純霊、4~5が怨霊、6~10が雑霊もしくは悪霊となっています。それぞれの種類のなかで数字が大きいものほど難易度は高いですが、難易度を種類別に比べることはできません。今回の危険度は6なので、我々が担当するなかでは最も楽な部類に入りますね」
柳田秀は咳ばらいをし、
「ちなみに、危険度6の報酬の基準は一万円ですので、今回の任務はかなりおいしいですよ」
と口元を上げて付け加えた。
「とまあ、僕からの説明は以上ですが、浩二さんからは何か質問はございませんか」
柳田秀がそう尋ねると、山坂浩二は数秒考えた後、
「難易度の基準はあるんですか?」
と答えた。
柳田秀は彼の質問に素早く反応した。
「ありますよ。僕自身も詳しくは知らないのですが、簡単に言うと、6が雑霊レベル、7が普通の悪霊、8が強力な悪霊もしくは普通の悪霊の群集、9が強力な悪霊の群集、10が絶望的と言ったところです。10は滅多にありませんし、僕らは一度も経験したことがありません。9は何度かありますが」
彼はため息をつく。
「まあ、十年前の浩二さんと香子さんは危険度10の任務を受けていたという話もございますがね」
柳田秀は呆れたようにそう言い、
「他に、何か質問はございませんか?」
と再び尋ねた。
山坂浩二は首を横に振って「いいえ」と答えた。月影香子はプリントに目を通し始めてから一度も顔を上げておらず、今回も無反応だった。
柳田秀は続ける。
「では最後に、僕ら浄化の退魔師が他の霊能力者たちからどのように思われているかをお話ししておきましょう。僕らが相手にしているのは人格を失った霊たちですから、僕らの任務は穢れ仕事と言われています。また、他の霊能力者たちは僕らを『死者の意思を尊重せず、魂をあの世へ無理矢理送りつける非人道者』と思っているようですね。人格を失っているものの意思を尊重しろだなんて、随分と無茶なことを言ってくれますよね。自分たちは雑霊や悪霊の相手もしないくせに」
山坂浩二が気付いたときには、柳田秀の表情から笑みが消えていた。
「今回の任務が、僕らの力が必要であるにも関わらず、今まで僕らのところまで話が来なかったのは、僕らに対するそういった差別意識のようなものがあったからでしょう。他の霊能力者も霊能協会もできることなら僕らの力は借りたくないのでしょう。それに、あの二人組のこともありますし……」
「秀さん」
柳田秀の口が月影香子の声によって閉じられた。
今まで顔を上げていなかった月影香子が、プリントを持った手を下げ、柳田秀の目を睨み付けている。その威圧感に柳田秀だけでなく山坂浩二も恐怖心を感じた。
「そのことは今関係ないでしょ」
三人の間に重い空気が漂う。
何が彼女の逆鱗に触れたのか山坂浩二には分からない。他の霊能力者から自分たちに向けられる差別意識かあの二人組か、あるいはその両方か。
山坂浩二が戸惑っていると、
「すいません香子さん。そんなつもりはなかったのですが、少し余計なことをしゃべってしまいましたね」
柳田秀がそう言って頭を下げた。
「わかってくれればそれでいいんです。あたしも言葉がきつかったわ」
月影香子も素直に謝る。
「で、任務の話はこれで終わりですか?」
彼女がそう尋ねると、柳田秀は頭を上げた。
「そうですね。これで以上です。この依頼、受けていただけますか。浩二さん、香子さん」
山坂浩二と月影香子は互いに目を合わせて数回頷いた後、柳田秀に顔を向けて、
「はい」
と答えた。
「……まあ、だいたいこんなもんだったかな」
回想を終え、月影香子にその内容を話した山坂浩二はそう呟いた。任務内容の確認のおかげか、生身のまま空中を高速で移動するという恐怖も少しは和らげることができた。
「あんたねぇ、余計なことまで思い出さなくていいわよ」
月影香子は少し不機嫌そうだった。彼女の言う余計な事とは、おそらく彼女の言葉によって三人の空気が重くなってしまったことだと思われる。
「ああ、悪い悪い。でも、任務内容自体は間違ってなかったよな」
月影香子は微笑んだ。
「そうね。ていうか昨日はあたしと浩二で何回も確認したから、間違うほうがおかしいと思うわよ」
山坂浩二は眉間にしわを寄せる。
「うるせえ。秀さんにもらった資料なくしたのはどこのどいつだ」
「悪かったわね。学校のプリントと一緒に捨てちゃったわよ」
月影香子は口を尖らせてそっぽを向いた。
山坂浩二は呆れたようにため息をつく。
「その言い訳、昨日も聞いたよ」
「はいはいそうでしたね」
月影香子の言葉の後、二人の間にわずかな静寂が訪れる。あれこれ話しているうちに二人は山地を越えようとしていた。
山坂浩二が右に顔を向けると、眼前には海が広がっていた。おだやかな波をたてていて、海がどこまでも続いているかのような錯覚を覚える。空から降り注ぐ日光を反射することで宝石のように輝き、その青色を目に焼き付けさせようとしてくる。
「なあ香子。そろそろ着くよな」
山坂浩二は海を眺めながら尋ねた。
「そうね。このペースで行けば、あと五分くらいで着くと思うわ」
月影香子も海を見下ろしながら答えた。
「いよいよか……。なんか緊張するな」
「今回はさすがにあたしでも緊張するわよ。人に憑依した悪霊を相手にするだなんて初めてのことよ。なんで秀さんはあたしたちに任せたのかしら。人が関わってくるものこそ秀さんと紗夜さんが行くべきだと思うのよね」
月影香子は前を向いた。
「まあ、秀さんには秀さんの考えがあるんだろうね。人と関わる任務を受けることもいい経験になると思うよ」
「浩二のくせに、偉そうなこと言うわね」
「なんだよ悪いか」
月影香子に鼻で笑われ、山坂浩二は顔をしかめた。
「ううん。そんなことないわよ」
彼女は声を出しつつ小さく笑う。そんな彼女を見た山坂浩二は表情を緩めてため息をついた。彼女とのくだらないやり取りがとても楽しいものに思えた。
少しの間二人は無言だったが、やがて月影香子が口を開いた。
「そういえば浩二、あんた、秀さんにもらったあのお札みたいなやつ持ってきてる?」
彼女がそう訊くと、山坂浩二はわずかに間を置いて答えた。
「ああ、あれ? なんか、俺が霊力を少し注ぐだけで、結界が簡単に張れるあの紙のこと? 一応渡された分は全部持ってきてるけど。全部と言っても二枚だけだけど」
「持ってきたなら安心だわ。悪霊が逃げ出そうとしても、あのお札を使えば結界の中に閉じ込められるし、あのお札は秀さんが作ったものだから、結界のクオリティーは保証できるわ」
月影香子は自信ありげに口元を上げた。
「まあ二枚しかないから、使い場所は慎重に見極めないとね」
「二枚もあるんだから、そんなに慎重にならなくてもいいわよ」
「そう、かな……」
山坂浩二はため息をついた。二枚しかないと捉えるか、二枚もあると捉えるか。人によって価値観は違うものだと彼は実感した。
わずかな静寂の後、月影香子は飛行速度を落とし、あごで何かを示しながら口を開いた。
「あ、ほら見える? あの大きな家」
山坂浩二は彼女の左肩から覗き込むように眼下の景色を視界に入れた。相変わらずの高度に腰が引けそうになるが、彼は自分を奮い立たせ、彼女の言う家を目で探した。
もうすでに山は越えたようであり、大半が土で覆われた田園風景が二人の真下に広がっていた。民家が数軒集まった場所がいくつかある。そしてその近くには波の弱い海があり、田園と海の間には片側一車線の道路が延びている。
そんな風景の中で、ひときわ目立つ建物があった。塀で囲まれた広大な庭。職人が定期的に手入れしているかのようにその庭は整っていて、一つの作品であるかのように思わされる。家は一階建てで、瓦で覆われた屋根は自らを主張するかのように大きく、ところどころに装飾がなされていた。
「あれか……。本当にお屋敷みたいだな。見栄っ張りの結晶みたいにも見えるんだけど」
山坂浩二がそう呟くと、月影香子も、
「まあ、否定はしないわ」
と言ってため息をついた。
「さてと、そろそろ地面に降りるわよ。別にかまわないわよね? 浩二」
「ああ、降りてもいいぞ。てか早く降りてくれ、怖いから」
山坂浩二は月影香子にしがみついた。下を見ることで恐怖が倍増されたのだ。霊力が少なく、さらに自分の力ではろくに飛べない彼のことだ。
落下したらただの怪我ではすまない。
「はは。浩二って、やっぱりヘタレなときはヘタレね」
月影香子はそう言って笑い、ゆっくりと降下を始めた。目標落下地点は依頼主の家の前を通る、アスファルトでできた一本道だ。
「う、うるせえ。落ちたら俺死ぬぞ冗談抜きで!」
山坂浩二は目を閉じて反論した。落ちないように、恐怖心を紛らわせるかのように、自らの胸を月影香子の背中に押し付ける。
すると、月影香子はふと優しい笑みを浮かべた。
「安心しなさいよ浩二。あたしはあんたを絶対に落とさないし、仮に落としてしまったとしても、浩二が地面に着くまでに必ず助けてあげるから」
彼女は一呼吸置いた。
「だから、そんなに怖がらなくていいわよ、浩二」
山坂浩二ははっと気づいたかのように目を開けた。恐怖心を表に出すということは、彼女を信じていないことにつながる。
そう考えた山坂浩二は、しがみつく力を弱めた。
「わかった。もう怖いとか言わないから、俺が落ちたら絶対に拾ってくれよ。約束だからな!」
彼は必死だった。
その一方で、月影香子は落ち着いていた。
「わかってるわよ。あたしは浩二を死なせたりしないから。どんな状況でも、絶対に助け出してあげる。約束するわ」
「ほんとだよな」
「当たり前でしょ。あんたはあたしのパートナーなんだし」
「そ、そう、だな」
山坂浩二はなぜか急に恥ずかしくなり、顔を伏せた。妙に顔が熱くなり、心拍数も増える。これは、月影香子といるうちに何度も経験した感覚であった。
「なんで急に黙るのよ。ほら、もうすぐ地面だから安心しなさい」
月影香子はそう言うと、落下速度をさらに緩めた。そして、地面より数十センチ高いところで一度静止した後にふわりと地面に両足をつけた。
「はい、着いたわよ」
彼女のその言葉を聞いて、山坂浩二はゆっくりとアスファルトに右足をつけた。そして左足を地面につけて月影香子から少し離れた。
やはり自分の足で歩くというのは幸せなことだ、と山坂浩二が脚を震わせながら思っているそばで、月影香子は黄緑色のパーカーの内ポケットから赤い折り畳み式の携帯電話を取り出して時刻を確認していた。
「十二時五十三分か……ちょうどいい時間だわ。ほら、ぼけっとしてないで行くわよ」
彼女はそう言ってパーカーの内ポケットに携帯電話をしまい、目の前にある屋敷のような家に向かって歩き出した。
「はいはい」
山坂浩二はため息をつき、いまだ震えている脚を動かして彼女の後ろをついて行った。一時間ほど絶叫マシーンに乗っていたようなものだ。足が震えるのは仕方のない事である。
二人は歩き、やがて木で出来た門にたどり着いた。その門には瓦付きの屋根があり、その屋根を含めると高さは三メートルほど。
月影香子は門の柱に取り付けられているインターホンを押した。一回目は反応が無かったので彼女がもう一度ボタンを押すと、ボタン上のスピーカーから女の声が聞こえてきた。
『どちらさまでしょうか』
かなり高い声だった。多くの女性が家の電話に出るときは一オクターブほど上げるが、まさにそんな感じの声であった。
月影香子はインターホンに顔を近づけて答えた。
「今回、井口明日嘉さんに憑依した悪霊を浄化するという依頼を受けた、月影香子と山坂浩二というものです。明日嘉さんの様子を見たいので、家に入れてくれませんか?」
彼女の声はいつも通りで、初対面の相手や依頼主への態度としてはあまりよろしくないものであった。山坂浩二も呆れる。
(その口のきき方はないだろ)
彼は鼻で静かにため息をついた。
月影香子が話し終えた数秒後に、スピーカーから言葉が返ってきた。
「ああ、霊能者の方ですね。わかりました。門の鍵は空いていますので、恐れ入りますが玄関まで来ていただけますか?」
「わかりました」
月影香子は即答して門に左手をかけた。そこで山坂浩二が右手で彼女の左肩を押さえた。
「おい待て香子。いくらなんでも失礼すぎるぞ」
彼がそう警告すると、月影香子は彼を一瞥して鼻で笑い、
「別にいいわよ。向こうもちゃんと出迎えていないんだから。ほら、もうあそこから声なんて出てないでしょ?」
彼女は右手の人差し指でインターホンを指し示した。
確かに、彼女の言う通りスピーカーから音は聞こえてこない。しかし、問題はそこではないのだ。
「確かに声は出てないけどなあ、話し方ってもんがあると思うんだけど?」
山坂浩二がそう言ったものの、月影香子は彼を無視し、左手で門を押し開けて敷地内に入っていってしまった。
彼も慌てて敷地内に足を踏み入れる。そして開いた門を両手を使って閉め、月影香子の後を追った。飛び石に足を置きながら走り、月影香子に追いつく。
「なあ、香子。どうして俺の話を聞かないんだよ」
山坂浩二はイラついた様子で言った。
大股で歩く月影香子は、前を向いたまま口を開いた。
「確かに、あたしの口のきき方は悪かったと思ってるわよ。でもね、さっきの人の話し方も悪いわよ。なんていうか、あたしたちのことを信用してないって感じがしたのよ。あたしたちを信用しない奴なんかに礼儀正しくなんかしたくないわよ。ほんとになによ、ああ霊能者の方ですかって」
彼女は相当苛立っている。
月影香子の言いたいことは分かる。だが、山坂浩二はここで折れるわけにはいかなかった。月影香子の態度が原因で依頼が破棄されたら、五万円という報酬がなくなってしまう。それに、柳田秀や水谷紗夜が今まで築いてきた信頼をここで崩すわけにはいかない。
「香子。お前の言うこともわかるけど、俺らは仕事でここに来たんじゃないのかよ。雇い主がどう言おうが、雇われたからにはちゃんとした態度をとるべきじゃないのか?」
山坂浩二は歩くスピードを速めて月影香子の左隣に並んだ。
月影香子の表情は依然として不機嫌なままだ。
「でも、あたしはちゃんと任務は成功させるわよ」
「そんな態度じゃ任務を受けられるかどうかも怪しいんだぞ」
月影香子は目を細めた。
「それもそうだけどさあ」
「ちょっとの間くらい我慢しようよ。報酬がなくなるよ」
山坂浩二がそう言うと、月影香子は諦めたかのように表情を緩めてため息をついた。そして歩く速度も緩める。
「それもそうね。それに、一番苦しんでるのは明日嘉ちゃんだもんね。明日嘉ちゃんを助けられるのはあたしたちだけだし。ここで門前払いされるのはまずいわよね」
山坂浩二は頷く。
「そうそう。早く助けてあげないとね」
と、話しているうちに二人は玄関の前まで来ていた。
玄関は引き戸で、荒い網目状に組まれた木の間に曇りガラスが設置されている。これまたいい素材を使っていそうだ。山坂浩二はそんなことを思いながら玄関の戸を軽くノックした。
すると、二人が声を出さないうちに戸が開いた。
山坂浩二は少し驚いて一歩下がったが、横にいた月影香子は動じなかった。出てきたのは、三十代前半と思われる女性だった。髪型はショートカットで、体型はごく普通だが落ち着いた雰囲気があった。
山坂浩二はその女性に向かって会釈した。
「退魔師の山坂浩二です。今日はよろしくお願いします」
月影香子も彼に続いて軽く頭を下げた。
「同じく月影香子です」
二人が軽く自己紹介をすると、その女性も頭を下げて自己紹介をした。
「井口秋穂と申します。明日嘉の母です。よろしくお願いいたします」
井口秋穂と名乗る女性は、頭を上げると、
「ささ、お二人とも。どうぞ中へ。お義父様と夫が応接間で待っていますので」
と言って戸を全開にし、二人を中へ招いた。山坂浩二と月影香子は軽く頭を下げて玄関の敷居をまたいだ。井口秋穂は戸を閉め、
「どうぞ上がってください。応接間まではわたくしが案内しますので」
と言って屋外用のスリッパを脱ぎ、段差を上がって屋内用のスリッパに履き替えた。そして二人の前にスリッパを二足並べた。
山坂浩二と月影香子は再び会釈し、スニーカーを脱いで揃え、屋内用のスリッパを履いた。井口秋穂はそのまま歩き出し、二人は彼女の後ろをついていく。
随分と広い家だった。豪邸というほどのものではないが、民家と呼ぶには少し広い。この家の特徴を一言で表すとしたら『和』だ。
とにかく日本風の建物だった。
フローリングの廊下を歩いていき、やがて井口秋穂はある部屋の前で立ち止まった。山坂浩二と月影香子も彼女につられて立ち止まる。
「ここが応接間です。では、わたくしはこれで」
井口秋穂はそう言ってどこかへと去ってしまった。
二人は取り残されてしまったが、意を決し、山坂浩二はふすまに手をかけた。そして「失礼します」の声とともに彼はふすまをゆっくりと開けた。
八畳一間の部屋。床は畳で、部屋の中央には脚の短い高級そうな机が置かれている。そして、二人の目線の先では、スーツを着たスリムな体型の中年男性と着物を着た小太りの白髪老人が、机の向こう側で正座をして二人を見ていた。
山坂浩二は思わず緊張してしまう。とてつもなく空気が重い。とりあえず自己紹介をしておくべきだろうと考えた彼は口を開いた。
「こ、今回依頼を受けました、退魔師の山坂浩二と申します」
そう言って頭を下げた山坂浩二に続いて、月影香子も自己紹介をする。
「同じく、退魔師の月影香子です。本日はよろしくお願いいたします」
山坂浩二が頭を上げて老人に視線を向けると、その老人は山坂浩二と目を合わせた後、
「ふん。まさか、こんな子供が除霊の切り札とはな。見たところ二人とも高校生か中学生にしか見えん。これまでの中では、最も信頼できそうにない。しかもそんな服装でわしの前に現れるとは、おぬしらふざけておるのか?」
と憎たらしく言い放った。
すると、
「父さん! それはいくらなんでも言い過ぎだよ! せっかく来てくださったのに!」
とスーツ姿の男性が叫ぶように言った。しかし、
「お前は黙っておけ!」
と老人に一喝され、スーツ姿の男性は口を閉じて身を縮めた。老人は立ち上がり、山坂浩二と月影香子に背を向けた。
「おぬしらが依頼を受けたのであれば、事情は知っておろう。ここでぐだぐだ話をするよりは、孫のところに連れて行き、おぬしら二人が本物であるかどうか試させてもらう。いいな?」
否定できる空気ではなかった。
二人は「はい」とだけ答えた。するとその老人、今回の依頼主である井口広志は無言で歩き出した。困惑した二人が助けを求めるかのようにスーツ姿の男性、井口広志の息子である井口実に目線を送ると、
「お父さんについて行ってください。できるなら、明日嘉を助けてあげてください」
と言ってくれたので、二人は彼の言うとおりに井口広志の後ろをついていくことにした。
山坂浩二は数メートル後ろから彼の背中を眺めながら思う。
(このジジイ。今までの霊能力者が失敗したから、霊能力者を信じられないようだな。それは俺たちも例外じゃない。それに、明日嘉ちゃんの両親も俺たちを完全に信用していない。信用しているかのようにふるまっているだけか……)
山坂浩二が考えていると、月影香子が小声で話しかけてきた。
「あの老人さ、予想通りわがままよね。子供みたい」
ただの悪口であったが、山坂浩二もそれには同感だった。
「そうだな」
山坂浩二がそう返事すると、井口広志が前を向いたまま、
「おぬしら、ひそひそといったい何を話しているのだ」
と言ってきたので、二人は急ぐように口を閉じた。とにかく、今依頼主の機嫌を損ねるのはまずい。しかし、我慢の限界を迎えていた月影香子は小さく舌打ちをした。
山坂浩二は彼女の行動にひやっとしたが、井口広志には聞こえていないようだったのでそっと胸をなで下ろした。
やがて異様な空気に包まれた一室の前にたどり着いた。入り口のふすまには数十枚ものお札が張られ、中からは幼い少女のうめき声が聞こえてくる。外にはよく手入れされた庭が見えるが、今はそれを楽しめるほどの余裕がなかった。
「ここだ。おぬしらには、わしの目の前で除霊をしてもらうぞ」
井口広志はそう言ってふすまを勢いよく開けた。
その瞬間!
とてつもない悪寒が山坂浩二の全身を駆け巡った。
ふすまのそばに立っているだけの井口広志のそばを通り過ぎ、山坂浩二と月影香子は問題のその部屋へと足を踏み入れた。
視界に入ったのは異様な光景だった。
壁、天井、床。いたるところにお札が張られており、明かりはついていない。六畳一間のその部屋の中央で荒い息をし、汗を流しながら寝込んでいる少女がいた。
布団に入ったまま苦しんでいる少女のもとへ二人は歩み寄った。月影香子がその少女、井口明日嘉の額に手を触れた瞬間、彼女の表情が一瞬にして悲壮なものに変化した。
「なにこれ!? すごい熱。こんな熱のまま、二か月も過ごしてきたわけ!?」
山坂浩二も明日嘉の頬に手を当てた。
彼は歯を食いしばった。
「これは、ひどい。確かに、悪霊みたいな感じの悪寒がする。これは、一秒でも早く浄化してあげないと!」
月影香子は少女の額から手を離し、その手を握りしめた。
「なんで、なんでこんな状態のまま放っておくのよ。霊媒師とか除霊師たちはいったいなにを考えてるのよ!? 妙なプライドのせいでこの子はこんなに苦しんで……!」
山坂浩二は明日嘉の頬から手を離した。
「香子」
「……なに?」
月影香子の目には水のようなものが溜まっていた。それは少女に対する哀れみからくるものか、それとも他の霊能力者たちへの怒りから来るものか、はっきりとはしない。
山坂浩二は彼女の様子を見て戸惑ったが、自らを奮い立たせて続ける。
「この子から、悪霊を追い出す方法は?」
山坂浩二がそう尋ねると、月影香子は顔をしかめた。
「詳しくはわからないわ。でも、秀さんは、憑代に浄化の霊力を流すことで憑依している霊を追い出すことはできるって言ってたわ。あと、追い出さない限り浄化は不可能に近いってことも言ってた気がするわよ」
「そうか! ありがとう!」
山坂浩二は叫ぶようにそう言うと、明日嘉の額に左手を当て、そこから浄化の霊力を少しずつ流し込み始めた。少女の体の中で、悪霊がもがいているのがわかる。彼女の体から出ようともしてるし、出まいと抵抗してもいる。
山坂浩二はとにかく霊力を流し続けた。汗が垂れてくるのも構わずに送り込み続けた。
そして悪霊の抵抗が最高潮を迎えた時だった。
山坂浩二の左手を激痛が襲った!
彼は反射的に少女から左手を離してしまった。あまりの痛さに耐えきれず、山坂浩二は左手を右手で押さえてのたうちまわった。
痛くて叫んだ。
「浩二!?」
月影香子も彼の様子に違和感を感じ、明日嘉の額に触れてみた。そして両目を閉じて彼女の体から何かを感じ取ろうとする。
そして、数秒後、月影香子は両目を開け、眉間にしわを寄せて歯ぎしりをした。
「やっぱり、そうなのね」
彼女はそう呟いて立ち上がり、井口広志の前まで歩いた。そして、彼女は少し高い目線から依頼主を見据え、口を開いた。
「浄化は夜にしか行えません。今夜、再び伺います」
その宣言は、依頼主にとっても、山坂浩二にとっても予想外の発言だった。山坂浩二には痛みに耐えながらも彼女の発言には何か理由があると考える余裕があった。
しかし、多数の霊能力者に裏切られた井口広志は違った。
「は? 何を言っているんだ! どうせできないんだろ! そう言って今までの霊能力者と同じように! 前金だけもらって逃げるつもりなんだろ! やっぱりインチキじゃないか! もう貴様らには頼まん! 医者になんとかしてもらう! 前金はくれてやるから貴様らはとっとと帰れ!」
「でもねぇ! 夜になれば浄化できるのは確かなのよ!」
「帰れと言っているだろう!」
月影香子はそこで何かを諦めたかのように歯を食いしばり、井口広志に背を向けた。彼女は畳の上で倒れている山坂浩二を起こし、彼の右手を掴んで出口へと向かった。
山坂浩二は、何も言わなかった。
「失礼します」
月影香子は依頼主のそばを通る時にそう言った。依頼主は高慢そうに鼻で笑うだけだった。そして、二人は明日嘉の両親に挨拶をして、そのままその家を出て行った。
庭を歩く。
山坂浩二の脳裏に浮かぶのは、任務失敗の四文字。信頼喪失の四文字。そして、苦しむあの少女を助けられなかったという、後悔。
何の会話もなく二人は庭を歩き、そして門をくぐった。