プロローグ とある授業風景
お久しぶりです。今日から第三章スタートです。次話は再来週までには更新します。投稿日時が確定しだい、小説情報に書き加えますのでよろしくお願いします。
昼休み前の授業。
それは、他の時間帯に行われる授業よりも頑張れるものである。もう少しで昼休み、もう少しでお昼ご飯、もう少しで長めの自由時間。個人差もあるだろうが、そんな理由で、退屈な授業でもわりとやる気が湧いてきてしまうものだ。
昼休みが学校での一番の楽しみである、あるいは楽しみだったという人も少なくないだろう。
山坂浩二もその一人である。
そこそこ整った顔立ち。目と耳に少しかかる長さで、ところどころが逆立った黒髪。男子高校生としては平均的な体格。
見た感じ彼は普通の高校生に思えるが、実は普通とは言い難い人物なのである。どういう理由で普通ではないかと言うと、彼は幽霊が見えるのだ。
もちろん、それだけではない。彼は悪霊などの魔物と言われる存在を浄化し、本来あるべきところへかえす力を持っている。
彼は退魔師、あるいは浄化の退魔師と呼ばれる集団の一人だ。
かつて、日吉村というところがあった。そこは退魔村とも言われ、そこで生まれた村人全員が退魔の力を持っていた。山坂浩二もその村の出身である。しかし、今から十年前に退魔村は悪霊の大群に襲われて壊滅し、彼はそのときに記憶と退魔の力を失い、彼のパートナーである月影香子とも離れ離れになってしまった。
遠い親戚と名乗る人物に引き取られて十年の時を過ごし、今から一週間前に、山坂浩二は月影香子と再会し、紆余曲折を経て、失った記憶の一部と退魔師としての力を取り戻した。
そして昨日、退魔村の生き残りである『残党』との出会いを果たした。
今日は二月二十二日、火曜日。今は、昼休み前である四限目の授業中。科目は数学。特別な力を持つとは言っても、山坂浩二は高校生であるから、当たり前のように授業に出ていた。彼の席は窓際の列の真ん中あたりという、なんとも微妙な位置にある。
彼は右手で口を覆い隠し、大きなあくびをした。
(……眠い)
山坂浩二は細くなった目で黒板を見つめた。黒板には、暗号のような文字や数式が書かれているが、ひときわ目立っているのは『虚数』という文字と、黒板のいたるところに登場している『i』というアルファベット。
(くそっ。眠たいけど、数学で寝るなんてできねえ。寝たら谷口の野郎にいじられる。それだけは避けたい)
山坂浩二は教壇の上で声を発している人物に目を向けた。身長は平均的で小太りの男性。四十代。メガネ。後退し始めている髪の毛。よく見ると、わりと目鼻立ちがいいとわかるその男性の名は、谷口正也。高原高校の数学教師で、月影香子が在籍する一年一組の担任でもある。教え方がわかりやすく、宿題も少量しか出さないので生徒からの人気も高いのだが、一部の生徒にとっては厄介な存在なのである。
山坂浩二も、その一部の生徒のうちに入っている。
どうして厄介なのか。
理由は簡単。
授業中に標的にされるからである。
(ちゃんと授業受けねーと、またいろいろ言われそうだな。でも、さすがに今日は勘弁して欲しいよ。家に帰ってからは三時間しか寝てないし、一時限目から三時限目まで眠っても、まだ眠いからなあ。体もだるいし)
山坂浩二は前の席の女子生徒、柳川友子に目を向けた。彼女は真面目に授業を受けているようで、目線がノートと黒板を往復するような頭の動きをしている。
(柳川さんは疲れていないのかな。昨日はあんなことがあったのに)
山坂浩二は彼女の背中を眺めながら、昨日の出来事を思い出し始めた。
(そう。昨日は香子との訓練中に、秀さんと紗夜さんと柳川さんが俺らを襲ってきて、香子をさらっていって、俺は雑霊に追い回された後に柳川さんにしごかれ、柳川さんの次は秀さんと戦って負けた。香子も、さらわれた後は紗夜さんたちと戦ってたみたいだしなあ)
彼はため息をついた。
(それに、最後に秀さんから聞いたことには驚いたなあ。まさか俺に兄貴がいるなんて。しかも香子にはお姉さんがいる。そんでもって、その二人は日本を滅ぼせるほどの力を持った悪霊使いで、十年前に退魔村を滅ぼした後、俺と香子を引き離して、今は一ヵ月後の満月の夜に俺たちを殺そうとしている、ってか)
山坂浩二は手の上でシャープペンシルを一回転させた。黒板の前で解説をしている谷口正也の声は山坂浩二の耳を通り過ぎていく。
(あの二人がなんで俺たちを殺そうとしているのかは謎だけど、物騒な話だよな。……でも、兄貴か。ちょっと会ってみたい気もするな。なんせ今の俺にとっては唯一の肉親なわけだし。兄貴の名前、宗一だっけ? だから俺の名前は浩二なのか。なんとなく、俺の親って適当なやつらのように思えてくるんだけど、そんなことはないと信じたいな)
山坂浩二は両目を閉じた。
(でも、やっぱり怖いな。命を狙われるなんてね。それも悪霊じゃなくて人間で、血の繋がった兄弟に、だしな。もう一人は香子のお姉さん、か。なんかやな感じ)
彼は再びため息をついた。
(香子のお姉さんの名前、さくらさんだっけ? どんな人なんだろう。やっぱり、香子に似てるのかな。だとしたらすごい美人だよね。身長も高そうだし。胸は……考えないでおこう)
山坂浩二は目をつぶったまま左手で頬杖をついた。
(まてよ。俺の兄貴のパートナーが香子のお姉さんなら、俺と香子は五歳でペアを組む前に会ってたかもしれないな。あの二人が村から抜け出したのは俺が三歳のときだから、会ってたとしてもそれ以前だから、香子が覚えてなくても不思議じゃないよな。まあ、どうでもいいか)
山坂浩二は小さく息を吐いた。
その時だった。
「おい山坂ぁ!」
突然大声で名前を呼ばれた山坂浩二は体をびくつかせると同時に目を見開き、
「は、はい!」
と返事をしながらその声の主へと目線を向けた。
もちろんその人物は、数学教師谷口正也だった。
(し、しまった!)
山坂浩二は目を閉じていたことを後悔したが、時すでに遅し。ロックオンは完了していた。前の席の柳川友子は肩を震わせながら笑いをこらえていた。
「あーあ、またいじられるなぁ。どんまい、山坂」
彼女は山坂浩二にぎりぎり聞こえる程度の声でそう呟いた。谷口正也の目があったために、彼は彼女の言葉に何も反応することができなかった。
谷口正也は山坂浩二を見つめる。
「お前、さっき寝ていなかったか?」
「い、いえ、寝ていません」
谷口正也の問いかけに、山坂浩二は首を振って答えた。しかし、谷口正也はそれで引き下がる教師ではなかった。
「でも、目ぇつぶっていたよな? 先生は見ていないようで見ているんだからな。ごまかそうと思ってもそう簡単にはできないぞ、山坂」
「す、すいません」
謝りながらも山坂浩二は内心、
(でたらめ言うな、寝てねーよ)
と文句を言っていた。谷口正也は続ける。
「まあ、お前はわりと数学ができるほうだから、今日の授業は分かりきっていることでつまらないだろうが、それでも先生としては話を聞いてほしいんだよなぁ。授業中に生徒の反応が無いことほどムナシイものはないんだぞ。山坂、お前授業してみるか?」
「いえ、結構です」
山坂浩二は右手を左右に振りながら断った。
「そうか。じゃあ、質問な。『i』ってなんのことかわかるか?」
谷口正也は表情を緩めて尋ねた。山坂浩二は少し間を置いた後、
「えーと、二乗したらマイナス1になる数のことです」
と答えた。
谷口正也は首を小さく縦に振る。
「まあ、そんなとこだな。実数は二乗したらプラスになるけど、虚数は二乗したらマイナスになる。基本的なことだから、覚えておけよ」
彼はそう言うと、山坂浩二から目線を外し、再びクラス全体に向けて話をし始めた。今度は数学とは関係のない事を言っている。いわゆる雑談というやつだ。
山坂浩二は胸をなで下ろした。
(ふー。ただの質問だけで済んだ。笑いの種にされなくてよかったあ。あいつ香子のクラスの担任だから何か言われると思ってたけど、何も言われなくてよかった……)
彼がそう思っていると、前の席の柳川友子が、
「おつかれさまです山坂浩二さん」
とささやいたので、
「い、いえ、ありがとうございます」
と、山坂浩二は小さな声で答えた。その後、山坂浩二は谷口正也に目を向け、授業とは全く関わりのない彼の話に耳を傾けた。
「俺の奥さんもなぁ、結婚する前はいい奴だったんだけどな。結婚した途端に態度がでかくなって、子供産んだらもっと態度がでかくなった。俺の意見は一つも聞かないし、家に帰ったら俺に冷たくするし、最近はクサいクサいたぬきさんって言われる。だから、お前らもっと俺にやさしくしろよ。やさしくしてくれなかったら俺は帰る!」
ここで笑いが起きた。
(なんだ、今日は自虐ネタかよ)
そう思いつつも、山坂浩二はわずかに笑っていた。
笑い声が静まると、谷口正也は再び口を開いた。
「あーあ、離婚したい」
再び笑いが起きる。
(おい、そんなこと冗談でも言うなよ。真に受けるやつがいたらどうすんだよ。奥さんと子どもがかわいそうだろ)
山坂浩二は呆れてため息をついた。
「いいか、お前ら」
谷口正也は黒板の文字を拳で軽く叩きながら、
「『アイ』は『虚ろ』なんだ!」
と言い放った。彼が拳で叩きながら示した文字は『i』と『虚数』だった。山坂浩二はうっすらと笑いながら、
(そういうことかよ……)
と心の中で呟いた。山坂浩二としてはさっきの発言は気に入ったのだが、クラス全体の反応はそれほど大きいものではなかった。
すると、谷口正也は山坂浩二に顔を向けた。彼はにっこりと笑う。
「な? 山坂」
(なんで俺なんだよ!)
山坂浩二は心の叫びを表には出さず、谷口正也の同意を求めるかのような笑顔と言葉に、
「そ、そうですね」
と苦笑いをしながら答えた。
彼の言葉を聞いた後、谷口正也は目線を彼からクラス全体に移して話を再開した。今度の話は、数学に関係するものだった。
山坂浩二は柳川友子に目を向けた。彼女は笑いをこらえているのか、体全体を震わせていた。
(何が面白いんですか、柳川さん)
山坂浩二はため息をついた。
(早く昼休みにならないかなぁ……)
彼は教室に掛けられている時計に目を向けた。時計の針は予想以上に進んでおらず、授業が終わるのはまだまだ先のことのようだった。