第七話 苦痛
河川敷広場では激しい戦闘が繰り広げられていた。いや、これは戦闘と言っていいものなのか。片方が一方的に攻撃を仕掛け、もう片方がその攻撃を全て最小限の動きでかわしているという状況を、果たして戦闘と呼んでもいいのだろうか。
殴りかかっているのは、平均的な体格の男子高校生、山坂浩二。それをかわしているのは、彼よりも頭一つ分小さい小柄な女子高校生、柳川友子。
山坂浩二は焦っていた。
これまで以上に焦っていた。
柳川友子のヒントによってたどり着いた十年前の戦い方。それを実践しているはずなのに、彼女に指一本も触れることができない。拳を当てようとしても涼しい顔で避けられる。掴みかかろうとしても簡単にかわされる。
相手があまりにも速すぎる。
そして、長時間の戦闘では、霊力変換の負担が大きすぎた。
山坂浩二は柳川友子を攻めるのをやめて彼女から距離をとった。霊力の割合を元に戻し、呼吸を整える。体の中の痛みが引かない。汗が乾くと急に寒くなる。
疲弊した山坂浩二とは対称的に柳川友子は疲れを見せず、笑みを浮かべて彼を眺めている。山坂浩二は、自分と彼女との間にある大きな差を改めて認識せざるを得なかった。
柳川友子は口を開いた。
「あれ? もう疲れちゃったの? 山坂」
山坂浩二はただ彼女を見ることしかしなかった。
それが、彼からの返答だった。
「まあ、そりゃそうだよね。あんな、がむしゃらに向かってくるだけじゃ、アタシに触れることなんてできないし、体力を消耗するだけだね」
柳川友子は眉間にしわを寄せた。
「一つ言っておくけど、山坂、アンタには無駄が多すぎる。出せる力が大きくなったとはいえ、霊力量は変わらないんだから、もっと見極めてから攻撃しなさいよ。使う霊力を最小限にとどめることは、アタシたち退魔師でもそうだし他の霊能力者にとっても重要なことなの。アンタは霊能力者としては最低ラインの霊力しかないんだから、霊力の無駄遣いは戦いにおいてはそのまま死に繋がるんだよ」
山坂浩二は無言のまま頷いた。彼の表情には怯えが見られた。一度死の感覚を味わった彼としては、彼女の言葉がとてつもなく重い。
彼の様子を見た柳川友子は、表情を緩めた。
「まっ、アタシは丸腰じゃ今のアンタに対抗できないから、避けることしかやんないよ。まあ、あまりにもひどかったら反撃するかもしれないけど。とにかく、山坂はもっと冷静になって。どのタイミングで本命の一撃を出すか、ちゃんと考えなさい。どんなに力があっても、当たんなきゃ意味がないんだから」
彼女の言葉に、山坂浩二は反応を見せなかった。彼女は簡単そうに言うが山坂浩二にとっては困難なことだった。女の力が格段に上がったとはいえ、柳川友子の動きは彼を遥かに上回っておりとてもそれについていくことはできない。
触れることさえできないのなら彼女の背中を地面につけることなど到底できない。だが、ここで何もしなければそれができるかもしれないという可能性さえも消え去ってしまう。
とにかく、やれるだけのことはやらなくてはならない。
山坂浩二は歯を食いしばり、苦痛に耐えながらも体中の霊力を赤で染め上げた。そして地面を蹴りつけて柳川友子に真正面から向かっていく。
そのスピードに乗せて右腕を振り下ろす。空を切る。柳川友子は視界の右側に移動していた。すぐさま左フック。彼女が左腕の下を潜り抜けていくのが見えた。彼女が向かったであろう方向に向けて右の後ろ回し蹴り。柳川友子が視界に再び現れる。しかし彼女は体を低くして彼の右脚をかわし、左足で山坂浩二の足を払った。
彼の体が地面から離れ、刹那の後、地面へと吸い込まれた。背中から着地し、全身に衝撃が伝わっていく。今夜で幾度となく経験した感覚だったが、いまだに慣れなかった。
集中が途切れたため、堰を切ったように霊力が赤から青へと塗りなおされていく。それと同時に痛みもやわらいでいくが、完全には抜け切らない。
山坂浩二は仰向けに倒れたまま息を荒げていた。すると、
「あ、ごめーん山坂。あまりにも隙だらけだったから、つい勢いで手ぇ出しちゃった。いや、この場合は足出しちゃった、かな?」
という柳川友子の声が聞こえた。その声は普段の彼女の口調とは違っていて、まるで山坂浩二を挑発するかのようだった。
山坂浩二はそれに反応するかのように顔をしかめ、立ち上がろうとしたが突然のめまいに襲われた。しかし彼はそれを気力で押さえつけ、よろめきながらも立ち上がった。
霊力が足りない。
山坂浩二は自分に限界を感じていた。いや、すでに限界を超えてしまっていることを理解していた。霊力で強化しなければ立っていることさえも満足にできない。霊力を作るためには、精神と身体の力を使わなければならないが、精神の力はともかく、身体の力はすで体に悪影響を及ぼす程度にまで消耗していた。
体のあらゆるところが痛む。
しかし、山坂浩二はここで折れるわけにはいかなかった。何度も諦めかけたとはいえ、ここでやめるわけにはいかない理由が山坂浩二にはあった。
彼は激痛に耐えながらも霊力変換をおこなった。しかし、そのあまりの痛さのために表情が歪む。それを見た柳川友子は小さく息を吐いた。
「随分と苦しそうだね、山坂。もうやめたら?」
彼女が呆れるように言ったことに、山坂浩二は、
「いえ、ここでやめるわけにはいかないんです。ここでやめたら、僕はまた、香子との約束を破ることになるんで」
と苦悶の表情の中に笑みを含ませて答えた。
「まあ、アンタがそう言うなら」
柳川友子は目を細めて山坂浩二から視線を逸らし、小さい声でそう言った。
その言葉の直後、山坂浩二は突然彼女に向けて右ストレートを放った。彼としては不意打ちを狙ったつもりだったのだが、柳川友子は頭を数センチ横に移動させてそれを難なくやり過ごした。山坂浩二は眉をひそめる。その後、彼は軽めのパンチを次々と繰り出していくが、やはり柳川友子はそれらをやすやすとかわしていく。
だが、それは彼の作戦だった。彼はただのパンチを数回打った後にパンチと見せかけて至近距離で光弾を放った。凝縮されたいくつもの小さな青い光の玉が、右の手の平から放たれ、一斉に柳川友子に向かっていく。その光景は散弾銃のようだ。
攻撃範囲が広いためか、柳川友子はこれまでよりも体を大きく動かしてそれを避けた。しかし、それでも足はほとんど動いておらず、最小限の動きだった。
山坂浩二は不安定な体勢になった彼女に向けて左手から同じように光弾を放った。やはり彼女はその場からほとんど動かずにそれらをかわした。
しかし山坂浩二の猛攻はこれでは終わらない。彼は右手を腰の位置まで下ろし、そこから彼女のあごに向けて光の散弾を撃った。柳川友子は大きくのけぞってそれをやり過ごす。ここで山坂浩二は彼女の体を正面から掴みかかった。
いける! 山坂浩二はそう思った。
しかし、柳川友子はのげぞったまま跳び上がり、山坂浩二のあごに蹴りを入れた。そしてそのまま飛行能力を使って空中を移動しながら後ろに一回転し、山坂浩二から十メートルほど離れて着地した。
一方、重心が前に大きく出ていた山坂浩二は腹から地面に落ちた。着地の衝撃が内臓に伝わり、さらなる痛みが彼を襲う。
山坂浩二はたまらずうめき声を上げた。内臓の痛み。打撲による鈍い痛み。体を刺すかのような鋭い痛み。神経に傷がついたかのような痛み。さまざまな痛みが彼を苦しめていた。しかし、彼はそれらに耐え、震えながらも立ち上がった。
柳川友子は目を見開いた。
「アンタ、まだやる気なの? もうやめたほうがいいって」
彼女の言葉は、挑発などではなく警告だった。山坂浩二が痛みを我慢していることは、柳川友子の目にも明らかだった。
苦痛によって歪んだ彼の表情。
弱々しい彼の立ち姿。
そして、もはや不可視の状態を保つことさえ、危ぶまれるほどに少なくなった彼の霊力。
だが、山坂浩二の目だけは変わらなかった。まっすぐに立てない状態になっても、訓練開始当初から柳川友子に向けてきた、決意を宿したその目だけは彼女の双眸をまっすぐに貫いていた。彼女の警告にも、山坂浩二は反応しなかった。
柳川友子は両拳を握り締めて叫んだ。
「もうやめようよ山坂! これ以上やっても無理だって! アンタどう見ても戦える状態じゃないから! 霊力使いすぎだって! 休憩したところで今さらどうにもならないレベルだから! そんなこともわかんないの!」
彼女がそう言っても、山坂浩二は何も言わなかった。
柳川友子は歯を食いしばった。
「アンタ、仮に、アタシの背中が地面につかなくても、香子が戻ってくるって言われたら、さすがにもうやめるよね?」
彼女は体を強張らせて山坂浩二を見つめ、ただ、彼の返答を待った。
少しの静寂の後、山坂浩二の声が聞こえた。
「いえ、やめませんよ」
その声は弱々しいものだったのにもかかわらず、河川敷広場に透き通り、柳川友子の耳にもはっきりと入ってきた。
フッ、と、彼女の体から力が抜けた。山坂浩二に視線を向けたまま、口が少し開き、あっけにとられたような顔になった。
しかしそれもつかの間。彼女は一瞬にしてその表情を怒りで染め上げた。
「なんで! アンタ香子を取り戻したいからこんなバカらしいことやってきたんでしょ! 不可能に近いのに、痛い思いして! 香子っていう目的がなくなったら、アンタがこんなことする理由がないじゃない! なのにどうして続けるの! 続けたいの!」
柳川友子の怒声は、声の大きさのわりに山坂浩二には静かに聞こえた。彼は目を閉じてそっと息を吐いき、再び彼女に視線を向けた。
そして、答える。
「理由なら、ちゃんとありますよ。柳川さん」
「言ってみなさいよ!」
二人の声は対照的だった。山坂浩二の声は静かで、柳川友子の声はうるさい。それでも、なぜか二人は対等だった。
山坂浩二は続ける。
「香子との、約束がありますから……」
「約束?」
「はい。僕が、香子を守れるくらい強くなること。僕が、二人で守り合えるくらい強くなること、です」
「……アンタ、今だけ頑張ったって、すぐに強くなれるわけないんだよ」
「それは、わかってます」
「じゃあなんで!」
「もう一つ、理由があるんです」
柳川友子は眉間にしわを寄せた。
「なんなの? それ」
「……僕自身の問題なのですが、僕は記憶を失ってからは、何一つとして、やり遂げたことはありませんでした。途中でつまずいたらそのまま投げ出して、何をやっても中途半端なままでした。だから、退魔師としての力を取り戻しても、ここでやめたら、結局は前の自分と何にも変わらないんですよ。自分でやると決めたことを途中でやめる。今までの山坂浩二と、変わらないんです。そんな僕なんかに、香子の隣に居る資格なんてありませんから」
山坂浩二は残りわずかな霊力を女の霊力にしていく。
「だから、僕は。やめません!」
彼はそう叫び、柳川友子に向けて走り出した。
「山坂……」
彼女は悲痛な表情を浮かべた。彼の走りは、もはや「走り」と呼べるものではなかった。山坂浩二と柳川友子の距離が縮まっていく。
そして、二人の距離がもとの半分ほどになったとき、山坂浩二の全身から力が抜け、彼は崩れ落ちるようにしてうつぶせに倒れた。すっかり枯れて緑色が抜け落ちてしまった芝生が、彼の頬を刺していく。霊力がもとの割合に戻る。痛みが感覚を支配して、それ以外どうでもよくなる。もう、動けなかった。
動き気にもなれなかった。
「山坂!」
柳川友子は倒れこんだ山坂浩二のもとへ駆けつけた。そして彼の肩に手を置いて軽く揺らした。
「山坂! 山坂! 起きて! ねえ! 起きてってば山坂!」
彼女は必死に声をかけた。数回体を揺らされた後、山坂浩二は顔を上げた。彼の目に映ったのは、心配そうな目を自分に向けている柳川友子。
その瞬間、彼の気が変わった。
(そうだ。そういえば。まだ、訓練中だったな……)
山坂浩二はそんなことを心の中で呟き、力を振り絞って立ち上がろうとした。彼の上半身が少しずつその位置を高くしていく。
「やまさ、か?」
柳川友子は彼から手を離し、彼の行動をただ見ることしかできなかった。山坂浩二の上半身が完全に起き上がる。しかし、彼はそこで力尽きてしまい、今度は仰向けに倒れた。
「山坂!」
柳川友子は再び彼の肩に手を置いた。すると、今度は彼女が体を揺らす前に山坂浩二は彼女に目を向けた。その目には力が宿っていなかった。
山坂浩二は、どこか笑っているかのように見えた。
「すいません。柳川さん。休憩、もらえますか?」
柳川友子の表情が、悲痛なものになる。
「アンタ、何言ってんの? もうそんなの必要ないでしょ」
「でも、これじゃまともにできませんよ。まだ、訓練は終わっていませんよね?」
「アンタ、バカ? もう、訓練は終わりよ」
柳川友子の声が震える。彼女は、こう言えば山坂浩二が無理をするのをやめると考えていた。教官役の自分が終わりといえば終わりなのだ。しかし、
「……いやです」
山坂浩二は首を小さく横に振った。彼女の表情が歪む。
「は? 嫌ってなに? これ以上やったらアンタ体壊すよ! アンタが痛みを我慢してるのなんてバレバレなんだから! アンタは最低限のことは達成できたんだから。必死に戦って、霊力変換もできるようになったんだから。朝には香子も解放してもらうから。明日も二人で学校に行けるようにしてもらうから。もう、無理しなくていいよ。もう、訓練は終わりだから。だから、もうやめよ?」
柳川友子はやさしく声をかけた。ここでやめても、月影香子は山坂浩二のもとへ戻ってくると言ったのに、
「いやです」
山坂浩二はそれを拒否した。その言葉を聞いた柳川友子は一瞬目を見開き、そして眉間にこれでもかというほどしわを寄せた。
「なんで! アンタ、バカじゃないの!? 香子は戻ってくるんだよ? 山坂はもう戦える状態じゃないんだよ? なのになんでまだ続けたいの? もう訓練は終わったんだよ? もうアンタが戦う相手なんてどこにもいないんだよ? バカ言わないで。アンタをいたぶり続けるこっちの身にもなってよ!」
気づけば、柳川友子の目には涙がにじんでいた。
(柳川……さん?)
山坂浩二のまぶたがほんの少しだけ上がる。
柳川友子は、拘束から解き放たれたかのように話し続けた。
「いくらみんなの命に係ってくることだからっていってもね、山坂が力を取り戻すまでにアタシが香子にしてきたこともそうだし、今やってることもそう。山坂と香子を離れ離れにして、二人ともボコボコにして。運命に抗いたいから、心を鬼にしてたけど。もう限界! アタシは、アンタたちふたりが苦しんでるところはもう見たくないの! 見せて欲しくないの! だから」
彼女の目尻から、一粒の水滴が零れ落ち、山坂浩二の学ランの袖を濡らした。
「もう」
彼女は目を閉じ、
「やめて」
体を前に倒して山坂浩二の腕に顔を押し当てた。彼女の声は、今まで以上に震えていた。
「お願いだから、もう、無理はしないで。アタシに、これ以上、ひどいことをさせないで。運命の時まで時間はまだあるから、焦らなくていいよ。すぐに強くなれるわけ、ないんだから。だから、もう、やめて。やめさせてよ」
鼻をすする音が、聞こえ始める。
「お願い、だから……」
それから、柳川友子は話さなくなった。その代わり、肩を揺らして断続的に声を小さく出し、時折鼻から息を吸い込んでいた。彼女が涙を流していることは、意識が朦朧としている山坂浩二でもわかった。
彼は柳川友子に身を任せた。彼女が落ち着くまで待った。何もかける言葉がなかったから、何も言わなかった。
でも、山坂浩二は少しだけ彼女の苦しみが理解できた。彼女が言ったことの一部はよくわからなかったが、それでも想像はできた。
彼女は、まだ退魔村にいた頃の自分と香子について知っているのだろう。村中から嫌われていた自分たちをずっと見ていたのだろう。お互いにしか味方のいなかった二人が引き離され、それぞれが暗い道を歩むさまを、彼女は見ていたのだろう。苦しむ香子にさらに苦しみを与え続け、そして今も香子がつらい思いをするようなことをしている。
柳川友子が言う『運命』とは、山坂浩二には何のことかさっぱりわからないが、自分や香子、彼女や彼女の仲間の命に係るということだけはわかる。
そんな運命に抗うためとはいえ、苦しめたくない相手を苦しめ続け、ようやく出会えた二人を再び引き離してさらなる苦しみを与える。こんなこと、つらくないわけがない。山坂浩二自身だってそんなことは絶対にしたくはない。罪悪感に苛まれるだけだ。
活発で、クラスでも人気のある柳川友子が、自分なんかの前で際限なく涙を流し続けているのだ。よほど溜め込んできたのだろう。
山坂浩二には、言いたいことがあったが、今の彼女には満足するまで泣いて欲しかった。今まで押さえ込んできたものを、ここで全部発散して欲しかった。彼女がこうなったのは、自分が無理を言ったからだとも思った。だから、山坂浩二は微笑んで、彼女が泣き止むのをただ静かに待っていた。
しばらく経つと、柳川友子の泣き声は聞こえなくなった。そして、彼女は我に返ったかのように、短く、大きく息を吸って体を起こした。
彼女は仰向けに寝ている山坂浩二に目を向け、何かをごまかすかのような笑みを浮かべた。その目は、少し赤かった。
「ごめんね、山坂。急に取り乱したりしちゃって。びっくりしたよね。ほんと、ごめん」
「あ、いえ、僕のほうこそ、わがまま言ってすいませんでした」
二人は謝りあった。少し前までは二人の間の空気は張り詰めていたほどだったのに、今はそれが嘘だったかのように和やかな雰囲気になっている。
「あ、あのさあ」
柳川友子は山坂浩二から視線を逸らし、人差し指で頬を軽く掻きながら山坂浩二に話しかけた。彼女の顔は、少し赤みがかっていた。
「なんですか? 柳川さん」
山坂浩二はごく自然に返事した。柳川友子は彼の対応に少し疑問を感じたのか、眉を少しひそめた。しかし、すぐに表情を元に戻し、
「アタシ……どれくらいの間、山坂に顔当ててた?」
と尋ねた。山坂浩二は少し考えて、
「結構短かったですよ。だいたい五分ぐらいじゃないでしょうかね」
と答えた。すると、柳川友子は目線を山坂浩二に戻し、
「ああ、なーんだ。それくらいか。じゃあ、いいや。とりあえず、ありがとう、山坂。なんだかすっきりしたよ」
と、彼に微笑みを向けながら答えた。山坂浩二は急に恥ずかしくなり、彼女から顔を背けてしまった。
「どう、いたしまして」
そう言うので精一杯だった。とても彼女の顔なんか見てられない。急に親近感が沸いてきて、妙な感じがするのだ。なんとなく恥ずかしい。
それと、彼女に言ったことは嘘だった。本当はもっと長かった。五分どころではなかった。十分は超えてたんじゃないかと山坂浩二は思う。「よくそんなに泣けるなあ」という感想を抱いたくらいだった。
そういえば、月影香子もあの満月の夜は大泣きしていた。二人とも、号泣の理由はなんとなくわかる気もするがわからない気もする。そういうことは、泣いた本人でなければわからないのだろう。
(俺にも、香子や柳川さんみたいに、誰かにすがり付いて、長い時間涙を流し続ける時がくるのかなあ?)
山坂浩二はふと、そんなことを考えた。
一方、柳川友子は山坂浩二から手を離し立ち上がった。両手に腰を当てて山坂浩二を見下ろし、口を開いた。
「で、これからどうする? 山坂?」
「どうするって、なにがですか?」
山坂浩二は尋ね返した。柳川友子の権限で訓練は終わってしまった。月影香子は朝には解放されるらしいから、もうやることはないように思えた。
しかし、彼女は意気揚々と答えた。
「なにって。このままおうちに帰ってぐっすり眠るか、それとも、今から香子のところに行くか。それとも他のなにかをするか。この三択だね」
彼女の言葉に、山坂浩二は戸惑った。その理由は、今から香子のところに行くという選択肢があることだった。
「香子のところに行くって、どういうことですか!?」
山坂浩二は声を上げて尋ねた。
「え、いや。文字通り香子のところに山坂を連れて行ってあげるってことなんだけど。それがどうかしたの?」
彼女は平然としていた。
「え、ほんと、ですか?」
「ほんとよ。訓練が終わったら連れて行ってあげるって約束したでしょ。今はその最終確認をしてるだけ。で、行きたいの? 行きたくないの?」
山坂浩二には、彼女の言っていることがはじめのうちは信用できなかった。しかし、なぜだか今は信用できる。喉から手が出るくらい嬉しいことだった。
「行きます。行きたいです」
山坂浩二は上半身を起こして答えた。緩まる柳川友子の口元。
「そう。そういうと思った。じゃあ、お約束どおり連れて行ってあげることにしよっか。アンタの霊力も、ちょっとは回復したみたいだしね」
彼女はそう言うと山坂浩二に向けて右手を伸ばした。山坂浩二はそれを掴むかどうか迷ったが、断るのは失礼だと思い、彼女の手を握って立ち上がった。
柳川友子の手は、思った以上に小さかった。
小さくて、柔らかくて、少し冷たくて。
でも。
その奥には強さを感じた。
山坂浩二が立ち上がると二人の身長差がはっきりとわかる。頭一つ分ほど違う。山坂浩二の身長は男子高校生の平均値であるから、目測でいくと柳川友子の身長は百四十センチ台前半。彼女は山坂浩二たちのクラスの中でも一、二を争う小柄さなのだ。
などと山坂浩二が考えていると、柳川友子は彼をジト目で見始めた。
「山坂。アンタ、もしかして今、アタシの身長のこと考えてなかった?」
「い、いや。そんなこと考えてませんよ」
山坂浩二は首を小刻みに振って全力で否定した。
「ああ、そう。ちなみに、アタシはアンタとの身長差を考えていたんだけどね。香子がいる場所ってここから結構遠いから、アタシが山坂を運んでいかなきゃいけないし」
柳川友子は表情をもとに戻した。
「で、考えた結果。山坂を運ぶ方法は、アタシが山坂を背負って、出せる限りのスピードで飛行する。これで文句ないよね?」
山坂浩二は、柳川さんはそんなことを考えてたんだー、と感心しながら「はい」と言ってその方法を承認した。
「じゃ、さっさと行こっか」
柳川友子は山坂浩二から手を離し、彼に背を向けた。しかし、山坂浩二はそこで妙な寒気とともに、いまさらのように恥ずかしさを感じた。
(自分よりも小さい女の子におんぶされるなんて。よく考えれば、なんで俺こんな方法にオッケー出しちゃったんだろう)
山坂浩二は彼女に近づくことに戸惑いを覚えた。彼が柳川友子の背中に触れることをためらっていると、彼女は苛立ったように、
「ちょっと、まだ? 行くのやめるの?」
と言葉を発したので、山坂浩二は、
「行きます行きます」
と言って、急いで柳川友子の背中に触れた。その時。
「ちょっと待って。出発するよって言いたいところなんだけど、ちょっとやらなきゃいけないことができたみたいだね」
柳川友子はそう言った後、体を山坂浩二の方向に向けて不敵な笑みを浮かべ、右手の人差し指で夜空を指した。
「上見て。山坂」
山坂浩二は彼女の言葉を理解できなかったが、とりあえず言うことを聞いて後ろを振り向き、空を見上げた。すると、今の山坂浩二には厄介なものたちがそこには存在していた。
「帰ってきたみたいだね。あのときの雑霊たちがお仲間を引き連れてさ。山坂が絶好のえさだっていう口コミでもあるのかね。いいじゃん山坂。雑霊たちにモテモテで。うらやましいよ」
柳川友子が冗談みたいに笑う。
しかし、山坂浩二にとっては冗談ごとではなかった。雑霊の数、およそ二十。長い時間休んだため霊力は半分ほど回復したが、やはりあのものたちを相手にするのには霊力が足りないように思えた。そして、霊力は回復したものの、まだ痛みと疲労感は彼の体を蝕んでいる。彼はつばを呑んだ。
一方、柳川友子は余裕の表情で雑霊たちを眺めていた。そして。
「山坂。アイツら、浄化するよ」
その一言は、冗談なんかではなかった。
「いや、無理ですって。一体浄化するだけでも一苦労だったのに、あんな数、浄化できるわけないじゃないですか!」
山坂浩二は当然のごとく反論したが、柳川友子はそれを聞き入れる耳を持たなかった。彼女は無視して話を始めた。
「つべこべ言わずに聞いて。とりあえず、アンタはアタシの言うとおりにすればいいの。ここでアイツらを浄化してやらないと、そのうちアイツらは悪霊になってしまうから。そんなのアイツらがかわいそうだし、なにより悪霊の相手は本当にめんどくさいからできるだけ避けたいの。あと、飛行中に追われるのも気持ちのいい話じゃないしね」
彼女の言葉には、山坂浩二を黙らせるほどの力があった。彼は黙って頷き、彼女の言うことを信用して聴くことにした。
柳川友子は続ける。
「じゃあ、今から指示するよ。まず、アタシが雑霊たちの霊力をできるだけ削る。このとき、山坂はただひたすら浄化の準備だけをしていて。次に、弱った雑霊を、山坂が直接手を触れてから浄化する。これの繰り返し。アタシが全力でサポートするから、アンタは浄化と身体能力の向上だけに意識を集中させて。まだ体が思うように動かないかもしれないから、絶対に無理はしないこと。以上。わかった?」
彼女は一通り言い終えると、山坂浩二に確認した。しかし、山坂浩二本人はどこか釈然としない様子で、
「直接手を触れて浄化するって、何か意味あるんですか?」
と尋ねた。その質問に、柳川友子はすぐさま答える。
「あるよ。大有りだよ。アタシ達の頼もしきリーダーの秀さんによると、直接手を触れることで浄化に必要な霊力が大幅に減るんだって。そしてそれは、男と女の力を両方持つ、山坂浩二にしかできない芸当だってね。そして、それは霊力変換や光の散弾ができる今の山坂浩二になら、必ずできるとアタシは信じてる」
「そう、なんですか」
山坂浩二はそう返事することしかできなかった。彼女の言ったことが、にわかには信じられなかった。だが、彼女がこの状況で嘘をつくとは思えなかった。
「やりましょう! 柳川さん」
彼は右拳を握り締め、高らかに言った。柳川友子も声のトーンを上げる。
「オッケー!」
そして彼女は山坂浩二に顔を向け、
「それと、念のため身を守る武器ぐらいは作っておきなさい。それと訓練のときのような無茶な霊力変換を長く続けないこと。あとは」
ほんの少し笑った。
「お互いを信じあうこと。いい?」
山坂浩二はその言葉に、威勢よく「はい!」と答えた。柳川友子は鼻を鳴らして視線を山坂浩二から雑霊たちへと戻した。
「さあ、本職の時間だよ。気合入れていこう!」
柳川友子は、そう檄を飛ばして雑霊たちの群れへと向かっていった。
柳川友子のスピードは予想以上だった。そして、雑霊をナイフで一回突くだけで灰色の何かが大量に噴出し、霊力もかなりの量を削っていた。
彼女は雑霊たちの間を高速で翔け巡りながら、雑霊にナイフを刺しては神速で移動し、別の雑霊を攻撃している。スピードだけなら、強大な力を持つ月影香子をも凌ぐかもしれない。雑霊たちを、山坂浩二に寄せ付けない。
彼女はあっという間に全ての雑霊に対して一回目の攻撃を済ませていた。もちろん山坂浩二も見ていただけではない。全身を駆け回る痛みに耐えながら男と女の霊力の割合をほぼ五分五分にし、青の霊力の一部を浄化の霊力、白の霊力に変換していた。
一通り霊力を削って雑霊たちを弱体化させた柳川友子は、一体の雑霊に深々とナイフを突き刺し、その動きを止めた。
「山坂! コイツをお願い!」
柳川友子がそう叫ぶと、山坂浩二は大きく息を吐いて自分を落ち着かせた後、彼女が選んだ雑霊に向かって女の霊力を使って跳び上がった。
もう人間の跳躍力を遥かに超えている。彼は地上から十メートルほどの位置にいる雑霊に左手をつけた。その瞬間、柳川友子が雑霊からナイフを抜いて離れていく。彼は落ちる前に、左手にため込んだ浄化の霊力を言われたとおりにほんの少しだけ放った。
すると雑霊から灰色のものが全方位に飛び散り、雑霊は白い光に包まれてその姿を消した。雑霊が、浄化された。
山坂浩二は落下しながら自らの左手を眺めていた。そして両足からきれいに着地した後も、柳川友子の合図があるまで左手を眺め続けた。
なんだか、不思議な気持ちがしたのだ。
雑霊から苦しみや悲しみ、痛みなどの負の感情が流れ込み、最後に安心感のようなものが伝わってきて雑霊はこの世を去った。
そして負の感情もどこかへ消え去ってしまう。
そんな感覚だった。
一体目を浄化してからも、山坂浩二と柳川友子はうまく連携して雑霊たちを浄化していった。浄化の最中に山坂浩二は何度か雑霊に襲われそうになったが、そのたびに柳川友子はすぐさま彼のもとへ翔けつけて彼の身を守った。
戦いの最中は、なぜか痛みと疲労を忘れることができた。
そして最後の一体を浄化し終え、山坂浩二が無事に着地すると、柳川友子も地上に降りてきた。そして彼女は山坂浩二のところに向かうと、右腕を高く上げて手の平を開いた。
「山坂、おつかれ!」
山坂浩二は彼女の行動の意味を理解すると、右手を自分の頭頂部あたりの高さまで上げて彼女と同じように手の平を開いた。
「おつかれさまです」
お互いがお互いの手を叩く。その音が、山坂浩二にはとても気持ちのよいものに感じた。
そして緊張がほぐれた瞬間、山坂浩二は思い出したかのように全身に現れた痛みと倦怠感に襲われ、地面に両膝と両手をつけた。
「山坂!?」
柳川友子は心配そうに声を上げた。山坂浩二はその声に応えるかのように体勢を変えて腰を地面に下ろし、彼女を見上げた。
荒いというほどではないが、彼の呼吸はいつもよりは大きかった。
「すいません、柳川さん。ちょっと、疲れただけですよ」
「もう、びっくりさせないでよ」
柳川友子は安心したかのように表情を緩めた。山坂浩二もそれにつられて笑う。
「すいません、ほんとに。でも、まさかあの数を浄化できるとは思いませんでしたよ。柳川さんが言ってたことは、本当だったんですね。霊力をほとんど使わずに浄化できるなんて。さすがです、柳川さん」
山坂浩二がそう言うと、柳川友子は口を尖らせてそっぽを向いた。
「別に、アタシは何もしてないし。やり方教えてくれたのは秀さんだし、浄化したのは山坂だし、秀さんだって、あのやり方は十年前の山坂が自分で編み出したものだって言ってたし。アタシは単に、それを伝えたに過ぎないんだから」
「でも、霊力を削ってくれたのは柳川さんじゃないですか」
山坂浩二のその言葉で、柳川友子の顔は少し赤くなった。
「あ、あんなの、べつに大したことじゃないから。香子だったら、あれが雑霊じゃなくて悪霊でも余裕勝ちなんだから。雑霊の数倍強い悪霊の相手なんて、アタシ一人じゃ無理だし」
彼女は途中から早口になり、謙遜し始めた。それが照れ隠しであることは山坂浩二にもわかっていたため、彼女の姿がなんだかほほえましく思えた。
「ほ、ほら! さっさと香子のところへ行くよ!」
柳川友子は山坂浩二に背を向けた。
「わかりました」
山坂浩二は笑みを含ませて言い、彼女の背中に触れた。肩に手を当て、彼女の腕に脚を乗せて背負われる。
彼女の体は本当に小さかった。
「重いね山坂。これじゃあ使う霊力が増えちゃうじゃん」
「す、すいません」
山坂浩二は笑って謝った。すると、柳川友子は小さくため息をついた。
「それじゃ、今から飛ぶから、落ちないようにちゃんとつかまっててよ。アタシも山坂を落とさないように最大限努力するから」
山坂浩二は彼女の肩を掴んだ。
「じゃ、行きましょうか」
柳川友子はそう言うと、月が浮かんでいる方向とは逆の方向へ飛び立った。大きな者が小さなものに背負われるという二人の姿は、とてもアンバランスなものだった。