第六話 霊力操作
河川敷広場では、山坂浩二と柳川友子が向かい合って立っていた。訓練開始という柳川友子の合図があったにもかかわらず、山坂浩二には動く気配はない。
いや、動こうとする意志はあった。
攻撃を仕掛けるつもりもあった。
しかし、自分と比べて圧倒的な戦闘力を誇る柳川友子に、どのように当たっていくべきかわからなかった。
彼女はかすかな笑みを浮かべて立っているだけなのに、その小さな身体からは得も言われぬ威圧感が放たれている。そして、隙がない。
正面から行くだけでは、返り討ちにあうことは明らかだった。
「あれ? かかってこないの?」
柳川友子の声。彼女は余裕の表情を浮かべたままだ。山坂浩二は何もできない。何をするべきかもわからない。
依然として動く気配のない山坂浩二。柳川友子は眉間にしわを寄せた。
「アンタ。なにビビってんの? アタシは山坂にナイフを突き刺すつもりはないし、アタシから攻撃するつもりもないから。アンタが動かないと、訓練は終わらないよ」
彼女は山坂浩二の双眸に、自らの視線を突き刺す。
「そして、訓練が終わらないと、アンタのところに香子は戻ってこない」
彼女の言葉に、山坂浩二は目を見開いた。
そう。
そうなのだ。
山坂浩二が今までのように月影香子の隣にいるためには、柳川友子の背中を地面につける以外に方法はないのだ。
月影香子に関しての主導権は完全に柳川友子らに握られている。自分の力が不足しているのだから、彼女の言うことに従うほかなかった。
山坂浩二は歯をくいしばった。
そうだ。
とにかく、やるしかない!
山坂浩二は両手に男の霊力を、両脚に女の霊力を集め、左手を眼前の柳川友子に向けてすぐさま霊力を放った。ソフトボール大の青い光弾が柳川友子に襲い掛かるが、彼女は体をわずかに動かしてそれを回避した。
山坂浩二は続けざまに右手から光弾を放つ。柳川友子は先程と同じようにそれをかわした。しかし、一回目よりも動作が大きく、隙ができる。
今だ!
山坂浩二は女の霊力を頼りに身体を動かし、柳川友子に迫った。そのまま彼女の両肩を掴んだ。
手段は選ばない。彼は自分の全体重を乗せて彼女を押し倒そうとした。柳川友子の体が後ろに倒れていく。
いけるか。山坂浩二がそう思った瞬間。柳川友子の体がびくともしなくなった。彼女はリンボーダンスのような体勢のまま、動かない。
山坂浩二に押さえつけられているはずなのに、彼女は何事もなかったかのように涼しい顔をして彼に目を向けている。
「だめだね。今のアンタじゃ、力押しでアタシを倒すことなんてできない。もう少し、頭使ったらどう?」
柳川友子は右手の人差し指で自らの頭を数回突いた。山坂浩二は馬鹿にされたように感じ、女の霊力を込めて柳川友子を押し倒す力を大きくした。
しかし、彼女はほとんど動かない。ため息。そして。
山坂浩二の体が地面から離れた。
山坂浩二の顔が驚きで満たされる。自分の体が空中で前方に回っていく。いや、それだけではない。柳川友子も山坂浩二に合わせて空中で後方に回っていた。
山坂浩二はなす術もなく背中を地面に叩きつけられる。衝撃で咳き込みそうになるが、なんとかしてそれを抑えつけた。
目の前にいるのは、山坂浩二の両肩を押さえつけて微笑を浮かべる柳川友子。一瞬の内にして形勢は逆転していた。
「こんなもんなの? 山坂浩二。アタシの背中を地面につけるはずなのに、なんでアンタが倒れてんのかなぁ?」
彼女は山坂浩二を嘲るかのようにそう言うと、山坂浩二の肩から手を離して立ち上がり、彼から距離をとった。
山坂浩二は悔しさを噛み締めながら立ち上がり、柳川友子を見据える。
「さあ、山坂。何度でも相手になってあげるから。トライアゲイン」
彼女は愉快な調子で語尾を上げた。なんだかんだで柳川友子はこの訓練を楽しんでいるのかもしれない。
対して、山坂浩二の思考のほとんどは焦りで埋めつくされていた。どうすればいいのかわからない。焦る。柳川友子を倒せない。焦る。月影香子を助けにいけない。焦る。霊力があまりにも少ない。焦る。
落ち着きを失った山坂浩二は、馬鹿正直に向かっていくことしかできなくなった。
二回目は、殴りかかったが避けられ、背中を蹴り飛ばされた。
三回目は、投げ飛ばそうとしたが逆に投げ飛ばされた。
四回目は、光弾を数発放ったがすべてかわされ、足を払われて頭を押さえ付けられた。
五回目は、女の霊力を込めて回し蹴りをしたが足を掴まれ、そのまま地面に倒された。
六回目は、後ろに回り込もうとしたが逆に回り込まれ、腕で首を締められてギブアップ。
七回目は、錫杖で撲りかかるが簡単に受け止められ、腹部に蹴りを入れられて倒れた。
八回目は、光弾の発射と同時に撲りかかったが避けられ、側頭部を殴られて倒れ込んだ。
九回目は、光弾を放つが受け止められ、頭部を蹴り飛ばされた。
そして十回目は、ただ突っ込んでいくことしかできなかった。攻撃は避けられ、顎を殴り上げられた。山坂浩二の体が浮き上がり、放物線を描いて背中から着地した。
山坂浩二は立ち上がれなかった。立ち上がろうとしても、受けたダメージがあまりにも大きすぎて体が言うことをいかない。
精神的にも限界がきていた。何度やってもできない。これ以上やっても無理そうな感じがしたから、このまま倒れていたいとさえも思った。
勝てるわけがない。相手は霊力も戦闘力も経験も山坂浩二を上回っている。身のこなしから、柳川友子は幾多の修羅場をくぐり抜けてきたということが想像できる。
対して、山坂浩二は霊力や戦闘力も低く、経験もゼロに近い。男と女の霊力を両方使えるとはいっても、結局はどちらの能力も中途半端なものだった。
結果など、見え透いたものだった。山坂浩二は月影香子のもとへは行けず、彼女の解放は柳川友子たちしだい。
それに、仮に柳川友子の背中を地面につけることができたとしても、彼女が約束を果たしてくれる保証はどこにもない。
やっぱり、やるだけ無駄なんだ。
山坂浩二は夜空を見上げていた。夜空のなかから月を探し出し、夜の暗闇を薄めるその天体を見つめ始めた。右側がほんの少し欠けた月。山坂浩二の視線はそれに吸い込まれた。不思議と、疲労が取り除かれていく。そんな気がした。
山坂浩二は安息を覚えた。しかしその直後、銀色に光る何かが突如視界に入り、その先端は山坂浩二の右目に向けられた。何か固いもので頭を挟まれ、切っ先が眼球に迫る。
戦慄が走る。先程まで感じていた安らかさは一転して緊張へと姿を変えた。そうだ。今は柳川友子による訓練中なのだ。山坂浩二が終了の条件を満たすか、柳川友子が訓練の終わりを告げるまで、これは続くのだ。
そして、柳川友子は終わりなどとは一言も言っていない。山坂浩二の頭を両膝で挟んで正座をしている彼女は、ナイフを突きつけたまま頭を前に出して山坂浩二と目線を合わせた。
「休憩はちゃんととれた? 山坂。この程度でへばってもらっちゃこまるのよねぇ。アンタには、アタシを倒せるくらいの戦闘技術を取り戻してもらわないといけないんだからさぁ。山坂が倒れたの、これで何回目だっけ?」
「じゅ、十回目です」
柳川友子のわかりきった質問に、山坂浩二は声を震わせて答えた。柳川友子は「ご名答」と言って山坂浩二からナイフを遠ざけ、立ち上がった。
山坂浩二は安堵から息を吐いた。とりあえず失明の危機は去った。しかし、やるべきことはまだ残っている。このままでは、山坂浩二は月影香子と会うこともできず、ただサンドバッグになるだけ。それだけは絶対に避けたかった。
自身を奮い立たせるような大きな一呼吸。山坂浩二はそれをした後に立ち上がり、柳川友子と相対した。少し休んだおかげで霊力はほとんど回復し、疲労もなくなったため、錫杖に体重を預ける必要はなかった。
柳川友子はそんな山坂浩二の様子を見ると、感心したように表情を緩めた。
「へぇ、さすがに霊力の回復だけは早いようね。まだやる気はあるの?」
「当たり前です」
山坂浩二は強い返事とともに錫杖を両手で構えた。しかし、霊力は回復したものの、それ以外に変化が見られないことに、柳川友子は不快感を感じて眉をひそめた。
「アンタさぁ、そのままただ突っ込んでくるだけじゃ何度やっても結果は同じだよ。そこんとこわかってんの?」
「わかってます!」
山坂浩二は彼女の問いを間髪入れずに答えた。そしてそれと同時に青い光弾を数発放った。標的は柳川友子。彼女は向かってくる光弾をバックステップでかわしていく。
山坂浩二は放った光弾のうちの一つの動きを操り、柳川友子の背後へ向かわせた。それを察知した彼女は空中で体を左にひねってかわすが、体勢が大きく崩れる。山坂浩二は女の霊力を最大限に込めて錫杖を彼女の右頬へめがけて振るが、右腕でガードされた。
その直後、柳川友子は左手で錫杖を掴み、そのまま錫杖を引いた。錫杖を手にしていた山坂浩二の体は彼女のもとへと引き寄せられる。彼女は跳び上がって山坂浩二の左頬を右手で殴打。錫杖が彼の手から離れ、柳川友子の手へと渡る。山坂浩二の体がよろめいたところを、柳川友子は奪った錫杖の柄で右側頭部を撲りつけた。
山坂浩二の体が右肩から倒れる。彼はすぐに上半身を起こすが、喉元に錫杖を突きつけられた。その持ち主は柳川友子。彼女は山坂浩二のような素人くさい姿勢ではなく、安定した体勢で錫杖を扱っている。山坂浩二は反射的に動きを止め、その先端を凝視した。
「はい、これで十一回死んだね、山坂」
柳川友子の冷たい声が、山坂浩二の耳に突き刺さる。彼は柳川友子の双眸を見上げた。鋭い視線。目を逸らしたくても逸らせなかった。
「全然わかってないじゃない。男の力も女の力も中途半端なまま。そんなのじゃまともに戦えるわけないじゃないの。今の山坂が、満月のときのような戦い方ができると思わないで」
「そんなこと、思ってません」
山坂浩二は息を切らしながら反論した。彼としては、今のままでも十分に自分の特性を活用しているつもりだった。あのときのように力ずくではなく、両方の力を組み合わせて戦っているつもりだった。
彼の言葉の直後、柳川友子の言葉が返ってきた。
「じゃあ、なんでそんなに弱い力で向かってくるわけ? アタシにはアンタの行動がまったく理解できないんだけど」
弱い力。それは山坂浩二が戦えない最大の理由だった。どうしようもない理由だった。霊力がもっとあれば、まともに戦えた。満月の夜のような霊力があれば、今の状況などいとも簡単に切り抜けられる。でも、今は霊力があまりにも弱い。弱すぎる。だから自分は弱い。戦えない。あの時と今との激しすぎる落差から、山坂浩二はそう感じてしまいざるを得なかった。
「僕の霊力は、もともと弱いんですから、仕方ないじゃないですか」
彼の口から漏れ出したのは、諦め以外のなにものでもなかった。彼がそう言った後、柳川友子の目つきがさらに鋭くなった。
「でも、山坂は山坂だけの特性をまだ使い切れてない。そんなんじゃ、訓練はいつまで経っても終わらないし、香子のところに行くことなんてできないからね」
彼女の口調が、強くなっていた。香子という言葉に内心ドキッとした。山坂浩二には彼女に言わなければならないことがあった。いや、それ以前にただ彼女に会いたかった。彼女の近くで時間を過ごしたかった。だから、こんなことをやっているのだった。
しかし、いくらやっても終わりが見えない。もう、彼の心は折れかけていた。
「僕の特性? 男と女の力を両方扱えることですか? 僕は今、それを最大限に使っているつもりなんですが」
山坂浩二の声は、卑屈なものへと変わっていた。ひどく反抗的だった。だが、柳川友子は表情をきつくするどころかむしろ表情を緩めていた。
「そんなふうには見えないなあ。アンタはまだ十年前の山坂浩二には程遠い。霊力は同じくらい、いや、強くなってるくらいなのにさ」
彼女の口から放たれたことは、山坂浩二にとっては驚くべきことだった。もしそれが真実ならば、霊力が少ないことぐらいでいじけていた自分が馬鹿みたいだ。
「十年前の僕? どんな感じだったんですか?」
山坂浩二はたまらず尋ねた。柳川友子は呆れたように眉間にしわを寄せ、山坂浩二に向けていた錫杖を彼から遠ざけて左手に持ったまま地面に立てた。立つ姿勢もまっすぐになった。錫杖は彼女より頭二つ分ほど高く、柳川友子が持つと随分と長く思えた。
柳川友子は答える。
「そういうことは、アタシよりも香子のほうが詳しいよ。アタシは山坂のパートナーじゃないんだからさ」
「そうです……よね」
山坂浩二の声が弱くなった。誰が見ても、彼が落ち込んでいることは明らかだった。
「ああ、でも、一応アタシにもわかることがあるから、多少のヒントくらいはあげられるよ」
柳川友子は、慌てた様子で答えた。山坂浩二の落胆ぶりがあまりにもわかりやすかったので、慰めないといけないような気になったのだろう。
「ほんとですか!?」
山坂浩二の目に輝きが戻る。彼の変わり身の早さに柳川友子は少したじろいだ。彼女はそれをごまかすかのように咳払いをする。
「ま、まあ、たいしたことは言えないんだけどね」
柳川友子は右手を顔の高さまで上げ、人差し指を立てた。
「ヒントその一。山坂は今と比べてもまだ男の力に関しては1.5倍、女の力に関しては3倍くらいの力はは出せるはず」
「え? そんなに、ですか?」
山坂浩二は思わず訊いてしまった。そんなに力が出せるのならば、訓練を終わらせることも不可能ではない気がした。
「うん、これだけは間違いないかな。十年前の山坂は今の山坂と比べてもそれくらいの力は出せていたから。ただ、やり方はアタシにはわからない。これだけは、山坂が自分で見つけなきゃね」
「そうなんですか……」
二人の間に、静寂が訪れる。柳川友子は小さく息を吐いた後、右手の中指を人差し指に続けて立てた。
「ヒントその二。女の霊力は使っても全部消えるわけじゃなくて、いくらかは体の中に残ってリサイクルできる」
柳川友子の右手の薬指が立つ。
「ヒントその三。身体能力の向上、肉体強化は、その人本来の身体能力や体の強さに大きく影響される。もっと言えば、もとの身体能力が高ければ高いほど、大きな効果を得られる」
柳川友子の右手の小指が立てられる。
「ヒントその四。百グラムの鉄球と、一キログラムの綿玉、当たったらどっちが痛い?」
柳川友子は右手を下ろした。
「まあ、これくらいかな。あとは山坂が自分で考えて。アタシはいつまでも待ってあげるから、頭をひねって方法を改善してから攻撃を仕掛けてね。もし今までと比べて何の変化もなかったら、アタシはアンタを本気でぶっ飛ばすから」
彼女はそう言うと、錫杖を山坂浩二の前に置き、彼を見たまま後ろに下がった。そしてある程度の距離をとると、夜空を見上げ、「やっぱり冬は月が高いなあ」と呟いた。
柳川友子はそのまま空を眺めていた。一応、山坂浩二にも意識を向けているのだろうが、その視線は遥かかなたの天体たちに向けられている。まるで山坂浩二の長考を許しているかのようだ。実際、彼女がそうすることによって山坂浩二は焦らずに考えることができた。
まずやるべきことは、柳川友子の言葉を理解すること。四つのヒントの意味を考えること。一つ目は、男の力は今の1.5倍、女の力は今の3倍出せると言うこと。意味はわかるのだが、まずそのやり方を導き出す必要がある。だが、検討がつかない。これは後で考えることにする。
ヒント二つ目。女の霊力は使ってもいくらかは体に残り、リサイクルできる。これはおそらく、男の霊力ではなく女の霊力を主力にして戦えということなのだろう。霊力が少ない山坂浩二にとっては、その消費をなるだけ抑えることが重要なのだ。確かに、遠距離攻撃をしたとき、かなりの疲労感に襲われる。これではまともに戦えるはずがない。
たぶん、三つ目のヒントも同じことを言いたいのだろう。もとの身体能力が高いほど、霊力による強化で得られる効果は高いというヒント。山坂浩二も男であるのだから、普通の女の子よりは身体能力は高いつもりだ。春のスポーツテストではABCDEの五段階評価でCだったが、あれは適当にやったので本気でやればはもう少し高いはず。具体的に言えば、運動部でもそこそこ活躍できるくらいの、Aに近いBはあるに違いない。適当にやった結果がBに近いCだったのだから。
ここで四つ目のヒントを考える。百グラムの鉄球と一キログラムの綿玉、当たったらどっちが痛いか? というもの。それはもう、鉄球に決まっている。鉄球と綿玉では密度が違いすぎる。綿をいくら集めたところで、体積が大きくなるばかりだ。当たっても、痛くない。ふわふわしてるから痛くない。
(ん? ちょっと待てよ。これが退魔師としての能力に何の関係があるんだ? 関係があるからこそ柳川さんは言ったんだろうけど、なにを示しているのかさっぱりだよ)
山坂浩二は柳川友子を一瞥した。彼女は相変わらず夜空を見上げている。答えが出ないまま攻撃したところで、彼女に返り討ちにされる。何の変化も見られなかったら本気でぶっ飛ばすと言われたが、彼女の本気がどれほどのものかは検討がつかない。
月影香子のように強大な霊力は感じられない。むしろ、退魔師のなかでは霊力は弱い部類に入るのではないかと直感ではそう思う。しかし、自分よりも強いのは明らかだ。本気の一撃を食らえば、よくて病院送りかもしれない。
山坂浩二は柳川友子が与えたヒントから離れて別のことを考えてしまっていた。しかし、それが功を奏したのか、彼は突然ひらめいた。
四つ目のヒントは、男の力について言っていたのではないか、と。
つまり、「遠距離攻撃をするときは、使う霊力を少なくして、霊力を凝縮しろ」と彼女は言いたかったのだ。山坂浩二の遠距離攻撃には霊力の無駄が多く、当たってもあまり効果はないということだったのだ。
これまでの結果を一言で言えば、女の力を軸にして、男の力を使う場合は霊力を圧縮して戦う。これで基本戦法はできた。
問題は一つ目のヒントである。どうやって力を強くするのか。山坂浩二はこれの方法がわからなかった。彼女が一番目に出してきたのだから、もっとも重要なことなのだろう。これができないことには、ろくに戦うことはできない。逆に言えば、これさえできてしまえばまともに戦えるかもしれない。女の霊力が今の3倍あれば、戦局は大きく変わる。
ここで、山坂浩二はあることに引っかかった。
(どうして、女の力は3倍で、男の力は1.5倍なんだろう。それに、柳川さんは霊力じゃなくて『力』って言ったのはなぜなんだろう)
つまり、山坂浩二自身の霊力は大きくならないということなのだろうか。霊力の量はそのままで、力だけ強くなるのだろうか。そんなこと、できるのだろうか。もしかしたら、片方の能力だけならばできるということなのだろうか。
そうだ。彼女は「同時に強くできる」なんて一言も言っていない。そして、女の力の伸び幅が大きいのはどうしてなのか。男の力の伸び幅が小さいのはどうしてなのか。
自分は今までどちらの力に頼ってきた? ……男の力だ。
ならば、どうしてその力に頼ってきた? ……男の霊力のほうが大きいからだ。
具体的には、どれくらい大きかった? 男と女の霊力の割合は?
……七対三だ。
そうだ。男の霊力が全体の七割で、女の霊力が三割。大体それくらいだ。仮に霊力のすべてが男の霊力だった場合、男の霊力は今の何倍になる?
ほぼ、1.5倍だ。
そして、仮に霊力のすべてが女の霊力だった場合、女の霊力は今の何倍になる?
ほぼ、3倍だ。
ここでつながった。やり方は本当に簡単なことだった。女の霊力を男の霊力に、男の霊力を女の霊力に変換すればいいだけの話だったのだ。戦いの最中は女の霊力の割合を高め、必要に応じて男の霊力に変えればいいのだ。
これで状況は変わる。霊力量は変わらない。それでも、能力を高めることはできる。同時にはできないが、変換をうまくやれば実質、霊力が大きくなることと変わらない。
山坂浩二は柳川友子に視線を向けた。彼女はいまだに夜空を眺めている。足先がパタパタと動いていて、少し暇そうだ。
「柳川さん」
「ん?」
山坂浩二の呼びかけに、彼女は反応して彼に顔を向けた。微笑んでいる。山坂浩二は心臓の動きが加速するのを感じながら、大きく息を吐いた。
「僕なりに考えた結果、少なくとも前よりはまともに戦えるようになったはずです」
「へえ。じゃあ、みせてもらおうかな。どんな感じになったのかをさ」
柳川友子は笑っていたが、その笑みは他の種類のものに変わっていた。彼女は右の手の平を上に向け、人差し指から小指までの四本で空を扇いだ。「かかってこい」という意味なのだろう。
山坂浩二は立ち上がり、足元に置かれていた錫杖を赤い霊力に戻して体内へとり込んだ。そして両目を閉じて、体中に存在する霊力に神経を集中させる。男の霊力を女の霊力に変換するなんて初めてのことだった。できるかわからなかった。それでもやるしかなかった。青の霊力を赤に塗りつぶそうとする。
抵抗を感じる。だが、できないことはなかった。体内の霊力が、男の霊力が、徐々に女の霊力へと変わっていく。青が抵抗する。抗う。しかし、それ以上に赤が侵食していく。
体に痛みが走る。変換が進むにつれて痛覚への刺激が大きくなっていく。だが、自分に無理をさせていることは承知の上。決して耐えられない痛みではない。
体内の霊力のほとんどが女の霊力へと変化した。霊力が青に戻ろうともがく。だがそれを抑え付ける。一割ほど男の霊力が残ったが、もうそれ以上は変換できなかった。
山坂浩二は女の霊力を体中に廻らせた。全身を強化する。痛い。つらい。苦しい。だが、どういうわけだかそこに混ざって、『懐かしさ』のようなものがこみ上げてきた。
山坂浩二は両目を開けて柳川友子を見据えた。汗がにじむ。呼吸が荒い。そのなかで、彼は声を絞り出した。
「お待たせしました、柳川さん。いきますよ」
「どうぞ」
彼女は満足そうな笑みを浮かべて答えた。
山坂浩二は柳川友子に向かって走り出した。以前よりも速い。柳川友子は目を見開く。山坂浩二はそのスピードに乗せて右の拳を振り下ろした。ぎりぎりでかわされるが、すぐに左の拳を当てにいく。しかしこれも左腕の下にもぐりこむようにして避けられた。
ここで後ろに回った彼女に裏拳。だが再びもぐりこむようにしてやり過ごされる。そして柳川友子は跳び上がって山坂浩二の左頬に右拳を入れ込んだ。裏拳の勢いもあり、山坂浩二の体は右にもっていかれる。だが、彼女の拳は以前と比べてかなり軽く感じた。反撃する余裕があるくらいだった。
彼の顔に拳をねじ込んでいる柳川友子の左頬に、彼は右の拳を叩きつけようとした。彼女はそれに気づく。しかし、拳が山坂浩二の頬に深々と突き刺さっているので対応できなかった。山坂浩二の体は彼女から離れていっていたため、拳が届かない。しかし、山坂浩二はここで瞬間的に右手に男の霊力を集め、それを一気に凝縮して放った。大きさはゴルフボールほど。それは柳川友子の左頬を捉え、破裂した。光弾に込められた霊力が勢いよく飛び散る。
柳川友子の体が宙を移動する。山坂浩二はよろめいたがすぐに体勢を立て直す。彼女も芝生の上に両手をつけて側転。その途中に体をひねり、山坂浩二と向き合うような形で着地した。
彼女は先ほど攻撃を受けた左頬に手をあてる。
「いてて。まったく、乙女の顔に乱暴するなんてひどいなあ、山坂」
彼女は冗談っぽく笑い、山坂浩二に目を向ける。
「すいません、でも、訓練ですから」
彼も笑いながら言った。息は切れ切れだ。
「でもまあ、まさかいきなりここまで強くなるとわね。予想以上だよ山坂。反撃したら反撃される。こりゃあアタシは避ける以外に方法はなくなったかな?」
柳川友子は笑みを崩さない。
「アタシねえ、実は正面から殴り合うの、退魔師のなかでは最弱なのよ。体小さいからリーチは短いし、力もないし、打たれ弱いし。皮膚硬化も自己回復も満足にできないしさ。長所といえば速さだけ。得意技ぐらいはあるけど、あれはナイフがないとできない。だから、アタシはこれから、アンタの攻撃を避けることに専念する。あ、でもそれじゃあ」
彼女の笑みが不敵なものに変わる。
「山坂の攻撃は一つも当たらないかもね」
自信に満ち溢れた声だった。山坂浩二は痛みに耐えながらも再び女の霊力を増やし、彼女に鋭い視線を向ける。十年前の自分が行っていた戦い方。その断片が掴めた山坂浩二としては、一刻も早くこの訓練を終わらせたかった。
山坂浩二は小さな教官に向けて攻撃を仕掛けていった。
思いは一つ。月影香子と共にいたい。
それだけだ。
結界内では、月影香子が紗夜の攻撃から逃げ回っていた。弱っているために日本刀による斬撃が効かないと判明した今、そうする以外に手段はなかった。刀は二本とも体に取り込んでいる。とにかく、霊力の使用は身体能力の向上と飛行能力にあてることが優先されるべきことだった。
紗夜が振り回しているのは二メートルほどの大斧。速くはないが、その一撃にはとてつもない破壊力が込められている。月影香子が霊力を失った主な要因の一つとして、この大斧による斬撃を受けたことが挙げられる。
あれを今の状態で受ければひとたまりもない。もしそうなれば、よくて気を失う程度。確実に、山坂浩二のもとへは行けなくなる。そんな恐怖心から、月影香子は必要以上に避けて霊力を消耗していた。気温はもうすでに十度をきっているはずなのに汗が吹き出てくる。息も荒い。
逃げ回る月影香子の耳に、紗夜の柔らかい声が突き刺さった。
「あら? 香子ちゃん。さっきまでの威勢は、一体どこへ行ってしまったのかしら? 私を負かして浩二くんのところに行くんじゃなかったのかな?」
月影香子は結界の天井付近の隅で壁に両手両足をつけて体を支えていた。そして床に立って余裕をかましている紗夜を見下ろしている。
「それができないからこうやって逃げ回ってるのよ。できたらとっくの昔にやってるわよもう」
彼女は呟いた。もちろん、紗夜には聞こえていない。
「それにしてもむかつくわね。あたしが弱ってるのをいいことに好き放題やってくれちゃってさぁ。相性もあるだろうけど、いつものあたしなら、紗夜さんになんて余裕で勝てちゃうのに。……それとどうでもいいけど紗夜さんの胸むかつくわね。あのでっかい斧振り回すときにこれ見よがしに揺らして。あー、あの中のもの全部吸い出してあたしと同じ無乳に等しいものにしてやりたいわ」
月影香子がなにかぶつぶつと不満げに言っているが、聞かなかったことにする。とにかく、彼女にとっての現在の問題は、逃げ回っているだけの状況を何とかしなければならない、ということである。
紗夜が言っていた「もう一つのことが終わるまで待つ」という選択肢は彼女の頭にはない。いつまでかかるかわからないし、その内容すらもわからないものにすがるのは彼女のプライドが許せない。しかし、ある程度のことは検討がついていた。
「紗夜さんが言ってたもう一つのことって、まさか浩二に関係してることじゃないでしょうね」
彼女は紗夜を睨みつける。
「あと、秀さんが言ってた優秀なボディーガードって、友子しか考えられないわ。ここで顔見せてないのあいつだけだもんね」
月影香子の目が見開かれる。
「まさか、友子のやつ、浩二になにかしてるんじゃないの? ちょっとかわいいからって調子に乗って。もしこれが本当だったら許せないわ」
彼女は表情を引き締めた。
「ああ、うかうかしてられないわ。さっさと紗夜さんをぶちのめして次のステップに進まないと。……いや、友子が浩二のところに行っていたとすると、紗夜さん倒したら終わりじゃない? よし! なんだかやる気がでてきたわ」
月影香子は地上にいる紗夜に再び目線を向けた。彼女は優雅に鼻歌を奏でながら斧を楽しそうに振り回している。怪力にも限度がある。
そんな紗夜を眺めながら、月影香子は対策を練り始めた。このまま向かっていっても彼女には攻撃は通じないだろう。
「確か、紗夜さんが得意なのは、身体能力向上のなかではパワー系統。あとは皮膚硬化。改めて考えると、なんか紗夜さんって格闘ゲームの典型的なパワータイプのキャラみたいね。まあ、それをいうなら友子はスピードタイプよね。あたしはなんだろう。……バランス型?」
考えが脇に逸れたので、月影香子は首を左右に振って考えをリセットした。
「とにかく、紗夜さんはあの大きな斧のせいでスピードが殺されてる。これが唯一の救いって所よね。あと、あの斧に大量の霊力がつぎ込まれてるはず。だったら」
月影香子は壁から離れ、降下を始めた。
「とりあえずはあの斧を紗夜さんの手から離して紗夜さんの霊力を削る!」
やるべきことは決まった。月影香子は一度深く息を吸って吐いた。そしてゆっくりとコンクリートの床に足をつけた。
紗夜が大斧を振り回すのをやめて月影香子に視線を向けた。
「あれ? 香子ちゃん。もう休憩はいいの?」
彼女は穏やかな声でそう尋ねた。月影香子は青い霊力から二本の刀を作り出し、それらを両手でしっかりと握る。
「ええ、もちろんよ」
自信ありげな月影香子の言葉。紗夜は柔らかい笑みを浮かべた。
「それじゃあ、つづき、はじめましょ」
紗夜が大斧の柄を両手で握りなおす。一瞬の静寂。紗夜が動き出す。身構える月影香子。最初の斬撃。水平。バックステップでかわす。その後も紗夜の猛攻は続くが、月影香子はそれらをすべて避けていく。反撃の機会をうかがいながら、紗夜の攻撃をやり過ごす。
「ねえ香子ちゃん。いつまでこんなことするつもり? もうあきらめたほうがいいんじゃない?」
紗夜が大斧を振り回しながら話しかけた。しかし、月影香子はそれには答えず、ただ回避することに専念している。
「香子ちゃん。無視はよくないわよ」
月影香子は無言を保っている。紗夜の表情から笑みが消える。彼女は渾身の力を込めて巨大な斧を右から左へとスイングした。彼女が本日見せたなかで、もっとも動作の大きい一撃だった。
彼女が斬撃を繰り出した瞬間、月影香子の口元がほんのわずかに上がった。彼女はバックステップで大斧をかわすと同時に、日本刀を持った右手を振りかぶり、
紗夜の顔面めがけて日本刀を投げつけた。
日本刀は直線を描いて紗夜のもとへと向かっていく。日本刀を追いかけるかのように月影香子が高速で走り出す。大斧は床につき、その柄は紗夜の両手に握られていた。斧を振った直後に飛来した日本刀を、彼女は反射的に右手で払いのけた。
しかしそれとほぼ同時に、月影香子が紗夜の眼前へと現れた。彼女は残った一本の日本刀を両手で持ち、紗夜の左手首をありったけの力を込めて日本刀の柄で撲りつけた。
紗夜の左手が緩む。柄を手首に押し込むと、紗夜の左手は大斧の柄から離れ、大斧は赤い光の粒子へと帰して盛大に霧散していった。
月影香子は後ろに飛び退いて紗夜から距離をとった。彼女は達成感とともに笑い、「うまくいったわ」
と息を吐くように言った。
紗夜はわずかに眉間にしわを寄せて、大斧があった場所を見つめていたが、目を閉じて一度息を吐き、目を開けてやわらかい笑みを浮かべ、月影香子に目線を移した。
「なかなかやるじゃない、香子ちゃん。私の弱点をついてくるなんて。それに、私に隙を作らせるために武器を投げるなんてね。香子ちゃんにしかできない芸当よね」
「いや、そんなことないわよ。やろうと思えば浩二にだってできる。あと、あれはただ投げたんじゃなくて、ちゃんと紗夜さんの体勢が不安定になったときに顔を狙って投げたんだから。知ってる? 紗夜さん。本当かどうか知らないけど、人間って、顔への防御反射が優先されるらしいの」
「へえ、香子ちゃん、物知りね。確かに、あれはやってしまった感じがしたわね」
紗夜は自嘲するかのように笑う。
「ほんとうに、私、武器の精製に使う霊力が多すぎて困るのよ。武器も威力とリーチ以外殺してしまっているようなものだし」
紗夜は肩の辺りからウェーブのかかったセミロングの髪を右手で一回梳いた。
「ところで香子ちゃん。皮膚硬化って、何のためにあるか知ってる?」
紗夜は月影香子の双眸を見つめて尋ねた。
「何のためって、体に傷をつけないようにするためでしょ。そのための皮膚硬化じゃないの?」
「正解よ。……でもね、実は他にも使い道があるの。それはね」
紗夜がそこで言葉を止めた。月影香子が首をかしげる。
そして。
紗夜がいきなり月影香子に殴りかかった。
速い。月影香子は反射的に腕でガードした。殴打は一回。たった一回拳を当てて紗夜は月影香子から距離をとった。それだけだった。それだけなのに。
ガードに使った腕がとてつもなく痛い。まるで、金属バットのフルスイングを受けたかのような痛みだ。当たったものが、とてつもなく硬かった。人の手とは思えないほどに硬かった。
月影香子はいまだに痛みが引かない腕を下ろし、紗夜を見据えた。彼女は口を開く。
「もう一つの使い道。それは、自分の体そのものを武器にすること。私の場合、武器の精製よりも皮膚硬化のほうが使う霊力が少ないから、秀ちゃんのサポートがないときは素手で戦ったほうがやりやすいの。特に、今のような一対一の場合わね。スピードもちゃんと生きてるしね」
紗夜は微笑む。
「さ、私の武器が変わって身軽になったところで、第二回戦、はじめましょうか」
月影香子は頬に汗を伝わらせながら、「そんなのありなの?」と呟き、ただ単に笑うことしかできなかった。
更新遅くなりました。更新ペースが遅く、読んでくださっている方には本当に申し訳ありません。
来週の金曜日には、複数話更新する予定です。うまくいけば第二章《残党編》を完結させることができるかもしれません。
今までサボってきた分、死ぬ気で頑張ります。