第四話 乱入者
山坂浩二は混乱した。
とにかく助かったことは事実。あのままでいたならば、彼は再び月影香子の助けを借りなければならなかった。
自分の情けない姿を彼女に見せ続けなければならなかった。
そしてもし、この場に月影香子がいなければ。
確実に殺されていた。
そんな状況下でのいきなりの出来事。雑霊たちの浄化。そして、見計らったかのようなタイミングで現れた謎の三人。
真ん中の一番大きい人物の周りには青い膜のようなものが張られていて、その両側の二人の姿は透けている。三人のシルエットから、真ん中の人物は男、両側の二人は女だと推測できる。
雑霊に襲われるという恐怖から解放された山坂浩二は、枯れた芝生に手をつきながらよろよろと立ち上がり、三人に体を向けた。そして息を切らしながら彼らを見上げた。
月明かりによって夜の闇が薄められているとはいっても、離れた位置にいる人の顔が見分けられるほど明るくはない。あの三人が誰であるのかは、山坂浩二にはわからない。
一方、月影香子は眉間にしわを寄せ、歯をくいしばりながら、まるで怒っているかのようにあの三人を睨んでいる。
山坂浩二は月影香子に顔を向けた。
(香子は、あいつらが誰なのかわかっているのか……? 少なくとも、退魔師かそれに近いものだということは確かなんだけど)
彼は唾を呑んだ。
「なあ、香子」
「なに?」
月影香子は山坂浩二には目を向けず、きつい口調で応えた。彼女は依然として正体不明の三人を睨み続けている。山坂浩二は言葉を発するのを一度ためらったが、意を決して口を開いた。
「誰なんだ、あの三人は?」
月影香子は動かない。答えてくれない。山坂浩二の表情が曇る。
「誰だよ、あいつらは」
先ほどよりも強い口調で、山坂浩二はもう一度尋ねた。すると、月影香子は三人を見上げたまま歯軋りをし、
「ただのむかつくやつらよ」
と答えた。あの三人が誰なのかを知っているにもかかわらず、自分にはそれを教えてくれない月影香子に対して、山坂浩二は苛立ちを覚えた。自分がろくに戦えない状況下では、せめて彼らが味方であるのか敵であるのかだけは知っておきたかった。そして怒りの感情は膨らんでいき、ついには爆発した。
「だから! 誰なんだよ!」
山坂浩二は叫んだ。
月影香子の退魔師としてのパートナーであるはずの自分が、彼女に信用されていない気がして。それが原因で山坂浩二にはある種の喪失感が芽生えていた。そしてその喪失感をごまかすかのように山坂浩二は叫んだ。
だが。
「うるさい!」
月影香子も叫び返した。今度は山坂浩二に顔を向けていた。彼女の表情は歪んでいて、とてつもないほどの怒りを表していた。
山坂浩二は一瞬のうちにして震え上がった。怒りの感情が消え失せ、ただ彼女を見ることしかできなくなった。彼女は相当苛立っている。それでも、あんな表情の月影香子に怒鳴られたくはなかった。そんな思いが、山坂浩二の思考を支配した。
目を見開いて固まっている山坂浩二をよそに、月影香子は視線を三人に戻した。
「あんたたち! いったいなにしに来たの!」
月影香子は大声を上げた。不可視の状態では、普通の人間には見られないし、声や物音も聞かれない。それを熟知している彼女が大声を上げるのだから、山坂浩二が予測したように、あの三人は只者ではないのだろう。
一方、三人はその場に留まったまま、沈黙を守り続けている。月影香子は日本刀を握り締め、両手をわなわなと震わせた。
「こたえなさいよ!」
月影香子はもう一度大声を上げた。だが、三人が動くことはない。山坂浩二と月影香子を見下ろし続けている。
月影香子は舌打ちをした。そして、膝を少し曲げて腰の位置を低くしたその瞬間。
三人の周りに無数の青い光の玉が浮かび上がった。
バレーボールほどの大きさのそれを見た途端、月影香子は目を見開いた。半ば放心状態だった山坂浩二も、突然の霊力放出によって我に返った。そして三人を見上げる。
(あいつら、今度はなにをするつもりなんだ?)
山坂浩二は唾を飲み込んだ。あの三人の意図が見えない。不安でたまらない。どうすればいいのかわからない。
山坂浩二はなにもできない。
月影香子はその場に留まったまま、目を少しだけ細めて眉間にしわを寄せた。
「まさか、あいつら……」
彼女が呟いた。
その瞬間。
無数の青い光の玉が、山坂浩二と月影香子に向かって猛スピードで動き出した。
速い。数が多い。山坂浩二のものとは比べものにならないほど力が大きい。今の山坂浩二の力ではどうにもならない。
山坂浩二は動けなかった。
ただ、青い光弾が迫りくるのを見ることしかできない。
かろうじて、両腕を顔の前で交差させることはできた。
でも。
それが何になる?
何にもならない。
山坂浩二は反射的に両目を閉じた。
その瞬間。
轟音が山坂浩二の両耳を貫いた。
鼓膜が破けるかと思うほどの凄まじい音が、波のように連続して広場を埋めつくしていく。あまりの衝撃に、平衡感覚がおかしくなる。
だが、山坂浩二の身に起こったのはそれだけだった。そのことに疑問を抱いた彼はゆっくりと目を開け、そして一気に見開いた。山坂浩二は目の当たりにした光景に愕然とし、交差させた両腕をそのまま首の前まで下ろした。
青の光で埋めつくされた視界の中で、月影香子が目の前に立っている。
日本刀をもったままの両腕を顔の前でクロスさせて、山坂浩二に背を向けて立っている。
青い光の猛攻を、彼女が受け止めている。無数の蛇が暴れるかのように、彼女の長い黒髪が揺れている。
「香子!」
山坂浩二は思わず叫んだ。しかし、青い光の玉の破裂音に掻き消され、月影香子の耳には入らない。
眩しい。目が痛い。耳が痛い。
それだけで山坂浩二は苦しくなった。しかし、月影香子のほうがよっぽど苦しいはずだ。かなりの力が込められた攻撃を、すべてその身で受け止めている。まるで山坂浩二の盾になったかのように。
「香子……」
思わず声が漏れた。
そして。
砲撃が止んだ。
先程までの轟音が嘘のように思えるほど、静寂が河川敷広場を支配した。山坂浩二は耳の痛みを感じながらもその場に立ち止まることができていた。
月影香子は体勢を保ったまま、二本の刀を持った手を下ろした。肩を上下させながら荒い呼吸を繰り返している。
「香子!」
山坂浩二は数歩先にいる月影香子のもとへと駆け寄った。そして、彼が見たのは、袖の布が破けたセーラー服と、彼女の頬を伝う大粒の汗だった。山坂浩二の表情が悲痛なものに変わっていく。
月影香子は山坂浩二と目を合わせた。そして、微笑み、
「大丈夫? 浩二」
息は荒いままで、
「さっきは怒鳴ったりしてごめんね」
無理をしているかのように思えた。
「……あ、ああ」
山坂浩二は頷いた。でも、それ以外なにもできなかった。言いたいことは山ほどあるのに、言葉にできなかった。
「なんて顔してんのよ」
月影香子は優しく声をかけた。
「前にも言ったでしょ。浩二はあたしが守るって。だから、そんな顔しないで」
彼女はそう言うと、アパートの屋根に立つ三人に目線を移した。彼らが動く気配はない。山坂浩二は三人を一瞥した後、月影香子に視線を戻した。
「なあ、香子。あいつらいったい何者なんだよ。いきなり攻撃してきたり、使う力も俺のと同じような感じがした。何なんだよあいつらは」
山坂浩二は真っ先に浮かんできた言葉を口にした。
すると、月影香子は、
「今は説明する暇がないし、第一あいつらのことは話したくない」
と言った。
「なんだよ、それ」
山坂浩二は眉間にしわを寄せた。だが、
「よそ見しないで」
月影香子の言葉が会話を断ち切った。山坂浩二はただならぬ雰囲気をあの三人から感じとり、目線を彼らに向けた。
その時。
多数の青い光の玉が再び三人の周りに浮かび上がった。
山坂浩二は目を見開く。月影香子は歯ぎしりをする。そして彼女は、膝を少し曲げて腰の位置を低くした。
「どうやら、シュウさん一人じゃないみたいね」
彼女が呟き、不敵な笑みを浮かべた瞬間。
青い光弾が一斉に襲い掛かってきた。
今度のは連続的ではない。光弾すべてが集まり、大きな一つのものとして迫ってくる。スピードは遅い。だが、絶望的なほどの破壊力を秘めていることは山坂浩二でもわかった。
(こんなの、香子でも防ぎきれない!)
彼は唾を飲んだ。右隣りの月影香子は動かない。
何をするべきか。何をするのが最善なのか。山坂浩二はごくわずかな時間でその答えを導き出した。
そして。
彼は左側に走り出した。
それを見た月影香子は山坂浩二に素早く顔を向けた。
「浩二!?」
彼女は叫ぶが、その声は山坂浩二の耳には届かなかった。彼の頭には、青白い光弾から逃げることしかなかった。
香子に防いでもらうなんて嫌だった。
香子の足手まといになるなんて嫌だった。
山坂浩二は自らの判断に従った。それが最善だと信じて。自分が避けることで、香子も攻撃を避けることができると信じて。
だが。
現実は彼の予想を裏切った。
光弾が軌道を変えて山坂浩二に向かってきたのだ。彼が走る速さよりも光弾のほうが速い。山坂浩二が右を見ると、光弾がすぐそこまで迫ってきているのがわかった。
そして。
月影香子が動いた。
山坂浩二が気づいたときには、彼女は山坂浩二と光弾の間にいた。不安定な体勢のまま宙に浮かぶ、彼女の後ろ姿が見えたその瞬間。
光が。音が。
暴れた。
目が眩む。耳がおかしくなる。なにも考えられなくなる。体のバランスがとれなくなる。山坂浩二は走っていた勢いのまま倒れ込んだ。顔の皮膚と枯れた芝生がこすれあう感覚がした。
光と音の爆発は一瞬だった。
だが。山坂浩二はわずかな間、視覚と聴覚を失った。何も見えない、何も聞こえない。頬のあたりがチクチクすることしかわからない。
そんななかで、山坂浩二の考えることは一つだった。
(香子……!)
彼は拳を握り締めた。そして、立ち上がろうとして両腕に力を込めた。
(俺が動かなかったら、香子はあんな体勢で攻撃を受けることはなかったのに……。俺には何もできなかったんだ。俺は何もしないでよかったんだ。あのまま、香子に守ってもらえばよかったんだ)
彼は歯をくいしばった。自分の行動を悔やむ山坂浩二は、震えながらもゆっくりと立ち上がった。徐々に目が見えるようになり、音も聞こえるようになった。
不明瞭な視界のなか、山坂浩二は目の前の光景を必死に理解しようとした。始めのうちはわからなかったが、視界がはっきりしてくると理解できた。
少し距離のあるところに見える月影香子の後ろ姿。彼女の手に日本刀はない。荒い呼吸をしているのか、肩が上下している。そして、セーラー服の右腕部分が無いに等しい状態となり、右腕の肌があらわになっていた。
無駄な筋肉などはついていない、すらりと伸びた健康的な腕。傷一つない滑らかな素肌。
(香子、無事なのか……?)
山坂浩二はその場に立ち止まったまま、彼女を見続けた。すると、彼女の右腕に赤い何かが付着していることに気がついた。その途端、彼の頭に一つのことが浮かび上がり、
(違う。これは……)
山坂浩二は目を見開いた。
(自己回復能力を使ったんだ!)
彼はそう考えた。すると、
「浩二」
月影香子は後ろに振り向いて山坂浩二に顔を向けた。彼女は微笑んでいたが、疲労の色が見えていた。光弾を防げたものの、不安定な体勢だったために右腕一本でそれを受け止めることになり、右腕にかなりの痛手を負い、霊力を大量に使う自己回復能力を使ったのだ。おそらく、攻撃を受け止める際にも大量の霊力を消費したと思われる。
山坂浩二は罪悪感に襲われた。
そして、自分の勝手な行動を謝ろうとした瞬間。
「よかった……」
と、月影香子が息を吐くように言った。また怒られると思っていた山坂浩二は、彼女の意外な言葉に何も言えなくなった。
月影香子はそれだけ言うと、再び山坂浩二に背を向けた。
そして、これまで一歩も動かなかった正体不明の三人に動きが見られた。最も背の高い人物を除いた二人が、アパートの屋根から跳び上がり、河川敷広場の、山坂浩二から右側五十メートルほど離れたところに着地したのだ。
どう考えても人間業ではない。
それを確認した月影香子は、降り立った二人に体を向けた。山坂浩二は二人の動きを目で追った後、残った一人が気になり、アパートの屋根に佇む人物に再び目を向けた。
男であると思われるその人には動きはない。
だが、次に何をしてくるのか、不安でたまらなかった。
それと同時に、動きのあった二人に対しても、注意を向けないわけにもいかなかった。むしろ、動きがあった分、あの二人のほうが気になった。
山坂浩二は月影香子と同じ方向に体を向けた。二人の位置は変わっていない。夜の静寂に、動いてはいけないという脅迫にも似た緊張感が漂う。
しかし、その静寂は月影香子によって破られた。彼女は二本の刀を作り出し、それを両手で握り締め、大きく息を吐いた。
そして、あの二人にも変化が見られた。それぞれの手に赤い光を放つ粒子が集まり、別々にある形を作り出した。二人のうち、身長の高いほうは、二メートルを超える、諸刃の巨大な斧を右肩で支えた状態で右手に持ち、身長の低いほうはナイフのようなものを右手で逆手に構えている。
二人が武器を持ってから数秒後。
月影香子が二人に向かって動き出した。
突然のことに山坂浩二は戸惑った。彼女の速度は人間のレベルを、そして霊力で身体能力を上げた状態の山坂浩二をも遥かに凌駕している。彼は目の前のことを認識するので精一杯だった。
月影香子は身長の低いほうに右手の刀で斬りかかった。しかし相手のほうが素早いのか、相手のバックステップでその攻撃は避けられてしまう。
が、彼女はそうなるのをはじめからわかっていたかのように、右手に少し遅れて左の斬撃を繰り出していた。相手は体を動かしきれず、右手のナイフでそれを防いだ。
しかし、月影香子の力はすさまじく、ナイフの刀身が破片を散らしながら真っ二つに折れた。残ったナイフも手から離れ、赤い光を放つ粒子となって消えた。相手は月影香子の攻撃を受け止めきれずによろめく。
そして、月影香子は地面から両足を少しだけ離し、攻撃の勢いを利用して相手を地面にたたきつけるように右の後ろ回し蹴りを繰り出した。
それは相手の右腕をとらえ、相手は枯れた芝生の上をすべり転んだ。月影香子が攻撃を仕掛けてから相手を転げさせるまで、五秒もかからなかった。
だが、もう一人のほうは、彼女が不安定な体勢になったのを見逃さなかった。月影香子が回し蹴りをお見舞いした直後に彼女に向けて大斧を横一文字に振っていた。
とてつもない破壊力を秘めた斬撃が月影香子を襲う。しかし、これで終わる彼女ではない。霊力の使用量を一気に高めることで、宙に浮いたまま体を半回転させて後ろへと移動させた。
すれすれのところを斬撃が通り過ぎていく。
髪の毛が数本切断され、宙を舞う。
月影香子は向きを変えずに飛行を続け、斧を持った女から十メートルほど距離をとった。そして河岸のコンクリートの部分に足をつけた。
彼女が立ったときには乾いた音がした。
相手の女は、月影香子を追ってこなかった。両手で持った大斧を地面につけたまま月影香子を見据えている。
また、相手の女の足元には、月影香子の攻撃を受けた小柄な少女がうつぶせに倒れている。起き上がろうとしているのか、頭の位置が少しずつ高くなっている。
月影香子は二本の刀を握りしめ、膝を曲げて腰の位置を少し落とした。いつでも行動に移せるその体勢によって、空気が張り詰める。
そして。
月影香子が動いた。
が。
それと同時に。
倒れていた少女が駆け出した。
少女は月影香子に勝るとも劣らないスピードで、月影香子とは別方向に向かっていく。その先には。
「浩二!」
月影香子は猛スピードまま霊力を右足に集中させ、地面を蹴りつけて方向転換した。そして少女を追いはじめた。
だが、どこからともなく飛来した青い光弾が、彼女の行く手を阻んだ。月影香子は二本の刀でそれを斬って霧散させたが、彼女のスピードはかなり落ち込んだ。
山坂浩二はどうすればいいのかわからなくなった。少女が高速で迫ってくる。頼りの月影香子は追いつけていない。
もう、反射的に動くしかなかった。
山坂浩二は右に上半身をずらした。だがその瞬間、体が軽くなったような気がし、気づけば右半身全体が地面についていた。
視界が九十度反転した。鈍い痛みが絶え間無くやってくる。右足首が特に痛い。なにが起こったのかわからない。
すると、
「山坂、今は寝てなさい」
という声が聞こえた。女性のものだった。
(この声、どこかで……?)
山坂浩二は立ち上がろうとした。しかし、上半身を起こし終える直前に彼の背中に衝撃が走った。山坂浩二は腹を地面に打ち付けられた。
体の中が痛い。
たまらず咳込む。
動こうとしても、体がいうことをきかない。それでも、山坂浩二は状況を知るために意志の力で顔をあげた。
彼の目に、青い光弾を斬り裂く月影香子の姿が映った。次々と降り注ぐ青い光弾によって彼女のスピードは大幅に落とされている。
月影香子は枯れた芝生の上にに突っ伏している山坂浩二の姿を確認すると、眉間にしわを寄せて目つきを鋭くした。
「浩二!」
彼女は叫んだ。
その時。
「よそ見してていいのかしら?」
大斧を持った女が月影香子の真っ正面に現れた。
少女を追う月影香子を女は追跡していたのだ。そして、光弾によって月影香子が足止めをくらった際に女は月影香子を追い越した。
女はかすかに笑みを浮かべていた。両手で持った巨大な斧を右脇に寄せて月影香子を見据えている。
月影香子は目を見開いた。
その刹那。
大斧が月影香子を襲った。
月影香子は咄嗟に左の刀を構えた。しかし、斧に触れた瞬間に刀身は折れ、斧の軌道を変えることはできなかった。
その斬撃は月影香子の左腕を捉えた。その瞬間、彼女の右隣に突如半透明の青く薄い壁が現れ、月影香子はそれに打ち付けられた。
斧は彼女の皮膚で止まっていた。月影香子の左腕には傷一つなかったが、打ち付けられた際に受けた想像しがたいほどの衝撃が彼女を苦しめていた。
刀の折れた部分が地面に落ちた。
女は月影香子から斧を離した。青い壁も消える。月影香子はふらふらになりながらも、なんとかその場に立ち止まっていた。
月影香子は体勢を立て直そうと、踏ん張った。
だがその時、ナイフを持った少女が月影香子の後ろに回り込んだ。月影香子はそのことを察知したものの、対応できなかった。
そして。
少女はナイフを両手に持って大きく振りかぶり、月影香子の右肩に容赦なくそれを突き刺した。
月影香子の短い悲鳴があがる。
鮮血が右腕を伝っていく。
月影香子の体が痙攣する。彼女の体から力が抜けていくのが、遠くから見ている山坂浩二からもわかった。
月影香子は崩れるように両膝を地面につけた。彼女の日本刀は青い光の粒子へと姿を変えて霧散していった。
少女は依然として月影香子の右肩にナイフを突き立てている。月影香子の指先から、赤い雫がしたたり落ちる。月影香子の意識が朦朧としていく。目が虚ろになっていく。山坂浩二には、なにが起こっているのか見当もつかなかった。
月影香子の右肩からナイフが引き抜かれた。流血量が増大する。彼女は意識を失い、うつぶせに倒れ込んだ。
女と少女はそれを確認すると、それぞれの武器を赤い光の粒子へと変えて体の中に取り込んだ。そして、少女は自分よりも体の大きい月影香子を軽々と肩に担ぎ、二人は山坂浩二に体を向けた。
「ごめんね、浩二くん。香子ちゃんはしばらく私たちが預かっておくから」
女がそう言うと、二人は山坂浩二が住むアパートの屋根へと跳び移った。女は残っていた男を背負い、三人は月影香子とともに空へと姿を消した。
山坂浩二は歯をくいしばった。
「くそ、……香子」
彼は力を振り絞ってなんとか立ち上がった。三人の消えた方向を睨みつける。両拳をにぎりしめる。
自分は何もできなかった。月影香子の足手まといにしかならなかった。彼女がやられていく姿を、ただただ見ることしかできなかった。
山坂浩二は三人を追いかけたいと思った。あの三人が何者なのかはもう今さらどうでもよかった。香子を傷つけた彼らが許せなかった。
そして、なによりも許せなかったのは、自分自身だった。
山坂浩二は大きく息を吐いた。
あの方向に向かっていけば、見つかるかもしれない。できるなら、力づくにでも香子を取り返したい。
それが、たとえどんなに難しいことであろうとも。彼女が連れ去られたのは他でもない山坂浩二自身のせいなのだから。
そしてなにより、香子といられなくなるのは嫌だった。
(香子を、助ける)
彼は重たい足を一歩動かした。
だが。
悪寒が全身を襲った。
山坂浩二は後ろを振り向いた。すぐに空を見上げる。上空では、十体は超えるであろう雑霊が赤い目のようなものを山坂浩二に向けながら浮遊していた。
そして。
雑霊たちは山坂浩二へと降下を始めた。
「ふざけんな……」
頼れるもののない、たった一人の過酷な戦いが、幕を開けた。
「ここは、どこ?」
月影香子は目を覚ました。辺りは暗く、自分が今いるところの様子がわからない。一応、自分が寝ているのはコンクリートの上だということだけは感覚でわかった。床は冷たく、体温をじわじわと奪いとっていく。
彼女はとりあえず、立ち上がろうとした。しかし、身動きがとれない。両手は背中にまわして縛られていて、両足も縛られていることがわかった。なにで縛り付けられているのかは、触れた感じからして縄や紐の類いではないことが想像できた。
「くそ、なんなのよこれ」
月影香子はもがいた。なにも得られないとわかっていても、この状況ではそうせずにはいられなかった。
彼女がその場で動き続けていると、乾いた音が突如彼女の耳に入った。その音はある一定のリズムを刻みながら近くなっていることから、誰かの足音であると思われる。音から判断して、その足音の主は革靴を履いていると考えられた。
足音が少し離れたところで止まった。静寂が訪れるが、それはすぐに破られた。
「気がついたようですね。香子さん」
若い男の声。ドラマや映画でよく聞くような紳士的なものだった。
月影香子は寝返りをうって、声のした方向に顔を向けた。暗闇が視界を遮っているため、声の主の姿は見えない。
しかし、
「秀さん? あなた、柳田秀さんよね」
月影香子は確信を持って口を開いた。
すると、
「ええ、そうですよ」
と、柳田秀と呼ばれた男は肯定の返事をした。その直後、空間内がうっすらと明かるくなり、その場所の様子がわかるようになった。
広い。コンクリートの床と、それと同じ色をした壁と高い天井。夜の暗闇を映し出す窓。床にはなにも置かれていない。月影香子が今いるのは、倉庫のような建物の中で、その中央付近だと思われる。
そして、月影香子から十歩分ほど離れたところに、柳田秀と呼ばれた男が彼女に目をやりながら立っていた。
ワイシャツに、首もとでしっかりと締められた茶色のネクタイ。きれいに折り目のついた黒いスラックスを着用し、黒い革靴を履いていて、茶色がかったやや長めの髪をオールバックにして整えている。目鼻立ちがよく、見ようによっては就職活動中の大学生のようにも、若手のビジネスマンのようにも思える。
月影香子はその男性の姿を確認すると、彼を睨みつけた。
「秀さん。これはいったいどういうつもりなの?」
少し低くした声で彼女がそう尋ねと、柳田秀はうっすらと笑みを浮かべた。
「これ、とは?」
「言わなくてもわかるでしょ!」
建物内に月影香子の怒声が響き渡った。柳田秀はその余韻が消えるまで待ってから、大袈裟にため息をついた。
「やれやれ。香子さんは相変わらず気が短いですねぇ」
「うるさいなぁ」
月影香子は柳田秀を睨み続ける。
すると彼は、
「ああ、そんなに睨まないでくださいよ香子さん」
と言った。
「睨まれて当然でしょうが。こんな真似して許されるとでも思ってるの?」
月影香子の言葉に、柳田秀はため息をついた。
「そんなこと、思ってませんよ。それに、僕らが今までやってきたこともありますしね。今回の件も、本当に申し訳なく思っています」
「じゃあなんで!」
「あなたにお願いしたいことがあったからですよ」
月影香子の声を、柳田秀が遮った。月影香子は一度口を閉じたがすぐに次の言葉を紡ぎ始めた。
「じゃあ、こんなことする必要なかったじゃない。頼み事があるなら、いつものように直接言いにきたらよかったのに」
「あ、いや、今回はですね、霊力のほとんどを消費してしまった香子さんに用事があったんですよ」
柳田秀がそう言うと、月影香子は眉をひそめた。
「はぁ? どういうことよ?」
月影香子がそう尋ねると、柳田秀は少しだけ間を置いてから、言葉を発した。
「香子さん。あなたは浩二さんを守るために肉体強化と自己回復能力で大量の霊力を使いましたよね。それに、友子さんに霊点を突かれて霊力を失い、右肩の傷口を癒すために自己回復能力を無意識的に使ってしまって、今のあなたにはいつもと比べて一割から二割ほどの霊力しか残っていないと思われます」
「だから何?」
「あなたには、そのかなり弱った状態でわれわれ退魔師残党の女性たちと戦っていたたきたいのです」
「なんで?」
「理由は、戦いを終わらせることができたら教えてあげます。また、そのついでにここから解放してあげますよ」
月影香子は、眉間にしわを寄せるのをやめた。
「ふうん、そう。つまり、あいつらと戦って、さっさと勝てばいいのね」
「そういうことです。ずいぶんと物わかりがいいですね」
「どうせ、秀さんのことだから何か考えがあるんでしょ?」
「さあ、どうでしょうかね」
二人の間に、わずかな沈黙が訪れる。
「それより、どうして浩二に攻撃したりしたの?」
月影香子は尋ねた。柳田秀は腕組みをして、彼女の目を見つめた。
「あなたの霊力を削り落とすためですよ。香子さんは必ず、浩二さんを守ろうとして自分を盾にすると、僕は思いましたからね。あと、浩二さんにあなたの注意を向けて、紗夜さんにたちに勝機をもたらすためです。僕たち退魔師残党の全員でかかったとしてもあなたには勝てませんから、そうするしかなかったんですよ」
「全員でも勝てないってのはさすがに言いすぎよ」
月影香子はため息をつき、
「でもまあ、はじめから浩二に危害を加えるつもりはなかったのね。友子の蹴り以外は」
と、語尾を強めて言った。
「あれは、彼女の判断です。少なくとも、僕はそういう指示はしていませんよ」
柳田秀は冷静に切り返した。
「じゃあ、あれは友子が勝手にやったことなのね?」
「そういうことです」
月影香子は床に目線を向けて歯ぎしりをした。ついでに拳を握り締める。彼女が相当苛立っていることは、誰の目から見ても明らかだった。
少しの沈黙の後、彼女は怒りを抑え、体から力を抜いて息を吐き出した。そして柳田秀をゆっくりと見上げた。
「てかさあ、浩二は大丈夫なの? あんな状態で一人にして。悪霊のえさになっちゃったらどうしてくれんのよ」
月影香子がそう言うと、柳田秀はうっすらとした笑みを保ったまま、
「ええ、それについては安心してください。彼には優秀なボディガードをつけてありますから。心配ありませんよ」
と、落ち着いた声で答えた。
「誰?」
「それも終わってから話しますよ」
月影香子は舌打ちをした。
「めんどくさい。そういうことならさっさと戦わせなさいよ」
柳田秀は目を閉じ、
「……わかりました」
目を開けた。
そして彼は月影香子に背を向けて歩き出した。革靴が床を叩く音が一定のリズムを刻みながら建物内を伝わっていく。
月影香子は遠ざかる彼の背中を睨みつけていた。
「そうそう」
柳田秀はそう言うと同時に足を止めた。月影香子と彼の間には二十メートルほどの距離がある。月影香子は睨むのをやめた。柳田秀は続ける。
「一応、忠告しておきますが、あまり調子に乗らないでくださいね。あなたがわれわれ退魔師残党のなかで、ずば抜けた霊力量と戦闘技術を持っているといっても、今のあなたはかなり弱っていますのでね。油断すると危ないですよ」
「ふん、余計なお世話よ」
月影香子は強がるように言い放った。
「そうですか」
柳田秀は左下に顔を向けた。
「では」
彼は再び歩き出す。
「ごゆっくり」
その言葉の直後、青い膜が現れて月影香子を取り囲んだ。それは四角柱を形作っていて、一辺あたり三十メートルほどで、高さは天井とほぼ同じくらいだ。外は膜にさえぎられて見えない。膜というよりも薄い壁といったほうがいいかもしれない。
月影香子が青い空間に閉じ込められたと同時に、彼女の手足を拘束していたものが青い光の粒子となって霧散した。体が自由になった月影香子は立ち上がる。
「秀さんお得意の結界術かぁ」
彼女はそう呟くと、青い壁に近づいて左肘をそれにぶつけた。鈍い音がしただけで他には何も起こらない。
月影香子は目を細めた。
「思ったよりも頑丈そうね。範囲も広い。これはたぶん、男全員でつくってるわね。あたしが調子いいときでもこれは破れそうにない。戦うにしても、場所まで制限つきとはね」
彼女はため息をついた。
「まあいいや。早く終わらせて浩二のところに行かなくちゃ」
月影香子がそう呟いた後、結界内に異変が起きた。それを察知した彼女は後ろを振り返る。すると、七人の女の子が結界をすり抜けて一斉に空間内に入ってきた。彼女たちは、月影香子を中心にして半円状に並んでいる。
全員が学校の制服と思われるものを身に着けていて、そのデザインはそれぞれ異なっている。彼女らは月影香子とほぼ同じ年齢に見える。
そして、七人の少女たちは。
それぞれ武器を手にしていた。
月影香子から見て左から、十文字槍。薙刀。レイピア。鎖鎌。大剣。日本刀。薙刀の柄の両端に刃をつけたもの。
月影香子は首を動かして彼女たちの姿を順番に確認すると、
「あら、ずいぶんとお久しぶりなメンツじゃない? まあ、あまりにも久しぶりすぎて名前は忘れちゃったけどさ」
と言ってため息をついた。
「てかさあ、なめてるの? あんたたちごときが男なし、友子なし、紗夜さんなしであたしと戦えると思ってるわけ?」
月影香子の挑発的な言葉に、七人の少女たちは何も言わない。指一本も動かさない。ただ立ったまま彼女に目を向けているだけだった。
「無視?」
月影香子は眉をつり上げた。
そして静寂。
「……まあ、別にいいけど」
彼女は表情を緩めてため息をついた。
「あーあ。浩二のため息癖がうつっちゃったかなぁ。あたし、ここに来てから何回ため息ついたっけ」
月影香子は両目を閉じ、右手で後頭部をかいた。
「で」
彼女は右手の動きを止めて右目を開いた。
「かかってこないの?」
月影香子がそう尋ねても、七人は動かない。月影香子は口元を上げて獰猛な獣のような笑みを浮かべ、右手を下ろした。
「じゃあ」
彼女の両手に青い光の粒子が集まり、それは銀色に輝く日本刀へと姿を変えた。鎖鎌の少女が顔をしかめ、右手に持った鎖を回転させ始めた。
「あたしからいかせてもらおっかなあ!」
雄叫びとともに、月影香子は駆け出した。
月影香子の狙いは鎖鎌の少女だった。鎖鎌の少女は迫り来る月影香子に向けて反射的に分銅を放った。鎖とともに重量のある物体が月影香子に接近する。彼女は右手の刀でそれを防ごうとするが鎖が刀に巻きついた。
だが、月影香子はとっさの判断で鎖が巻きついた右手の刀を手から離し、青い光の粒子へと変化させた。そして彼女は猛烈な速さで突き進み、鎖鎌の少女の額に頭を振り下ろした。
鈍い音がした。よろめいた少女は後ろに二、三歩足を動かした後、気を失い、背中から地面に倒れこんだ。彼女が鎌を振ることはなかった。
月影香子の右手に先ほど変化させた青い光の粒子が集まり、日本刀へとその姿を戻した。
「一人目」
彼女の冷たい声が空間内を突き通った。月影香子は後ろを振り返る。
「本気でこないと、話にならないわよ。あたし、手加減できるほど器用じゃないからね」
その言葉の後、他の六人の少女が月影香子に一斉に襲い掛かった。
月影香子の頬を、一粒の汗が伝っていった。
河川敷では、山坂浩二が雑霊の群れから逃げ回っていた。
「くそ! くるなあ!」
山坂浩二は両手で持った錫杖を振り回しながら逃げていた。錫杖を振ることによって金属音がするたびに雑霊が彼から距離を置いたからである。
だからといって、雑霊に追い回されることに変わりはない。さらに雑霊から「霊力をよこせ」だの「食わせろ」だの言われている気がして、山坂浩二はますます落ち着きを失っていった。
攻撃なんてできない。
ましてや浄化なんてもってのほか。
そんなことができる霊力なんてほとんど残っていない。そんなことをした時点で逃げる体力を失ってしまう。逃げられなくなったら、もうそれが山坂浩二の人生閉幕のとき。
彼はとにかく走った。広場を抜けて河川に沿って走り続けた。自分の無様な姿を人に見られたくないという思いからか、彼は不可視の状態だけは保っていた。
逃げ続ける。逃げ続ける。
しかし、走り続けるだけでも体力が削ぎ落とされていく。汗が吹き出てきて、息もかなり上がっている。女の霊力をわずかに使っているとはいっても、時間が経つにつれて走る速さも落ちていく。
止まりたくなった。
足を止めたくなった。
何度もそう思った。何度も弱い自分が現れた。いっそのこと、雑霊に襲われたほうが楽なんじゃないかとさえも思った。
しかし、死への恐怖がその欲望を抑えつけた。ここで死んだら月影香子に申し訳ないと思った。育ての親に対しても何か悪い気がした。
それでも。
気持ちだけではどうにもならないこともあった。
山坂浩二は足をもつれさせて転んでしまった。すぐに立ち上がろうとするが、一度走るのをやめて気持ちが途切れてしまったためか力が入らず、上半身までしか起こせなかった。
彼は体を地面につけたまま反転して体を空に向けた。上空では十体ほどの雑霊が赤い目のようなものを光らせている。
そして雑霊たちの遥か後ろの空では、右側がわずかに欠けた月が少し高い所まで移動していた。もちろん、月はどちらの味方もしない。ただ、下界を見下ろすだけ。
山坂浩二はつばを飲んだ。
ゴクリ。
その音が、嫌というほど鮮明に聞こえた。
そして。
雑霊たちが山坂浩二に向けて降下を始めた。
自分では何もできないということは、山坂浩二はわかっていた。でも、生きたかった。だからこそ、彼は助けを願った。誰も助けに来ないことはわかっていたのに、それでも願わずにはいられなかった。できるなら。
(香子……!)
山坂浩二は声にならない声でその名前を呼んだ。自分のせいで連れ去られたパートナーの、来るはずのない人の名前を呼んだ。
その瞬間。
雑霊全ての姿が大きく揺らいだ。
山坂浩二は我が目を疑った。雑霊たちが逃げるように自分から遠ざかっている。そんな光景が信じられなかった。
そして。
「まっ、とりあえずはこんなもんよね」
という言葉とともに一人の少女が背中を向けて山坂浩二の目の前に降り立った。見慣れた高原高校の制服。紺色セーラー服に紺色スカート。
「香子……?」
山坂浩二は自分にだけ聞こえる声で呟いた。少女は続ける。
「あんまり無理して浄化しようとしなくてもいいのに。自分の身を守るだけだったらこうやって追い払っちゃえばいいのになぁ」
(この声、まさか……!)
山坂浩二は目を見開いた。少女は後ろを振り向いて山坂浩二に微笑みかける。
「アタシたち、『退魔師』なんだから」
肩にぎりぎりかからないほどの長さの黒髪。活発そうな目つきに高原高校の制服。校則違反の丈の短いスカート。白いスニーカーに隠されてほとんど見えないくつ下。小柄な体格。そして、透けた姿に、右手に逆手で握られたアサシンナイフ。
山坂浩二はこの少女に見覚えがあった。原因は不明だが、女性から極端に避けられる彼に近づける数少ない女子生徒であり、彼のクラスメート。
彼女の名は。
「柳川、さん?」
そう呼ばれた少女は月を背に、山坂浩二に向かってもう一度微笑みかけた。