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ムーン・ライト  作者: 武池 柾斗
第二章 残党編 
15/95

第三話 訓練開始

 太陽が沈みかけた頃。西の空からは、なんとも言えない色合いの暖かな光が差し込み、世界をその色で染めていく。

 銅鏡川の水面が揺れるたびに、光の不規則な反射が次々とあらゆるところで起こり、まるで川全体が輝いているかのようだ。

 そして、そんな銅鏡川に沿う道路を、山坂浩二は歩いていた。制服姿で、黒のスポーツバッグを右肩にかけて背中にまわしている。

 彼は体を縮め、ズボンのポケットに両手を入れていた。

 夕日が暖かくても、寒いものは寒い。

「今日もまた災難だったなぁ」

 山坂浩二はため息混じりに呟いた。

「相変わらず香子以外の女の子には避けられるし、ヘンタイ六人衆と村田と永山はギャーギャーうるせぇし。おまけに柳川さんは何度も俺をにらみつけてくるし……」

 再びため息。

「もうヤダ」

 彼は空を見上げた。

「ってか、なんで今日に限って柳川さんは俺をにらんできたんだろう。なんか、怒ってるって感じじゃなかったよな……。監視員? みたいな感じ」

 山坂浩二は目線をもとに戻した。

「でも、俺、ホントに何かしたか? まさか、俺に霊力が備わったことがわかったとか? ……まさかね」

 腕組み。

「……でも、柳川さんと香子は昔からの知り合いってことだから……ひょっとすると、柳川さんも実は退魔師とか! ……ってそんなばかな。ないない」

 山坂浩二は首を左右に振った。

「まあ、このことはあんまり考えないようにしておくか。……それよりも! 今日からは、俺が香子の足手まといにならないようにするための訓練だ。まあ、頑張りますかぁ」

 山坂浩二は両手を組んで腕を高く挙げた。




 そして、午後八時。

 山坂浩二は買い物や洗濯などの用事を済ませ、夕食をとった後、制服を着たまま、こたつで宿題に取り掛かっていた。

 彼のこたつは数日前に故障してしまったため、今や完全にテーブル扱いである。コンセントも抜かれている。

 中途半端な寒さを、山坂浩二は毛布と掛け布団でしのいでいた。暖房がなくても、温暖な地域ではこれでやっていける。

 それでも、寒いときは寒い。

 訓練を終えてから風呂に入ろうと思っていたため、山坂浩二の体は冷えたままで、寒くて面倒だからという理由で着替えなかった制服も、ひんやりと冷たかった。そのためか、彼は時折くしゃみをした。

 いつもはついているテレビも、作業効率が落ちるからという理由で今日は電源をオフにされている。

 山坂浩二は黙々と宿題と格闘していた。

 すると、彼の後ろから扉をノックする音がした。

 山坂浩二は手を止め、こたつに置いてあった黒色の折りたたみ式の携帯電話を手に取って時刻を確認した。

「……来たかな」

 彼はそう呟くと、携帯電話をこたつの上に置いて立ち上がった。

「はいはーい。今開けまーす」

 彼は玄関まで歩き、ドアをゆっくりと押して半分ほど開けた。すると、外には見馴れた少女が立っていた。

 紺色のセーラー服に、膝を完全に隠す長さのスカート。白いハイソックスに、白を基調としたスニーカー。腰を少し通り過ぎる黒髪。

「あ、香子」

 月影香子の姿を確認すると、一瞬だけ彼の心拍数が増加した。

「こんばんは、浩二。中、入っていい?」

 月影香子が尋ねた。

「あ、ああ、いいぞ」

 山坂浩二はそう言うと、ドアを全開にして月影香子を部屋に入れた。

「おじゃましまーす」

 月影香子は玄関でスニーカーを脱ぎながら整えると、部屋を見回し、

「やっぱり狭いね。浩二んち」

 と、微笑みを浮かべて言った。

「住めば都だよ」

 山坂浩二はドアを閉め、

「ほら、とりあえず奥のほうに座れよ」

 と、部屋の奥を指差した。

 月影香子は「わかった」と言うと、山坂浩二に背を向けて歩き出した。山坂浩二はドアを閉め、鍵をかけた。

 すると後ろから、

「寒っ!? このこたつ、スイッチ入ってるの!?」

 という月影香子の声。

 彼女はすでにこたつの奥の面に腰を下ろしていた。文句を言ったということは、脚を中に入れているのだろう。眉間にシワが寄っている。

「あー、それ? この前から壊れたまんまなんだよ」

「まだ直してなかったの!?」

「金がねぇんだよ、金が」

 山坂浩二はそう言うと、こたつの横まで歩いてふすまを開け、押し入れから毛布と冬用の掛け布団を抱えて取り出した。

 そしてそれを月影香子のそばに置き、押し入れに背中を向けながら左手で襖を閉めた。

「ほら。これで我慢しろ」

 山坂浩二は、カーペットに座っている月影香子を見下ろしながら言った。彼女は布団を見た後に山坂浩二の双眸に目線を移し、

「……なんで一人暮らしなのに冬布団と毛布が二つあるの? この前から思ってたんだけどさ。なんで?」

 と、尋ねた。

「来客用だそれは。まあ、香子が来るまで使わなかったけどな」

 山坂浩二がそう答えると、月影香子は、

「へぇ、そうなんだ」

 と呟き、毛布と布団を自らの脚に被せた。

「寒い。冷たい」

「……我慢しろ」

 山坂浩二は静かにため息をつくと、先程まで座っていた位置に戻り、腰を下ろして毛布と布団を脚に被せた。

 かすかに暖かい。

 そして、彼は向かいに座っている月影香子に目を向けた。学校のときとは違って髪を留めていないので、そのときとはまた違った印象を受ける。

 さすがに、別の女の子というほどではないが。

(個人的にはこっちのほうが好みかも……)

 こたつの上に広げられた教材を見つめている月影香子を、山坂浩二はぼんやりと眺めていた。すると、そのことに気づいたのか、彼女は顔を上げた。

「ん? どうしたの浩二?」

 突然のことに山坂浩二は我に帰り、首を横に振る。

「あ、いや、なんでもない」

「そう? じゃあいいや」

 月影香子は再び教材及びノートに目線を移した。数字やら日本語やらアルファベットやらがごちゃごちゃと並んでいる。

「理系って、もうこんなとこまでいってるのね、数学」

「まあ、文系クラスより数学の授業が多いからなぁ」

「……全然わかんない。ってかあたし数学苦手」

「この前やっと因数分解ができるようになったレベルだもんなぁ。もう高一も終わりに近いというのに」

「ふんだ……。あたしは理系科目は苦手なのよ」

「理系科目は? 香子ってこの前の校内模試でワースト2じゃなかったっけ?」

「文系科目は、理系科目に比べればまだマシなほうなのよ……」

「……よくそれで高原高校入れたな」

「中学までは勉強しなくても余裕だったの! 高校からいきなり難しくなりすぎなのよ!」

「それについては同感……」

「で、先生は誰?」

「……谷口先生」

「えっ? 浩二も谷口先生なの? あたしも谷口先生なのよ。しかも担任」

「まじかよ」

「ほんとよ」

「あの先生、授業はわかりやすいんだけどなぁ。ちょっと変というか、なんというか……。クラス担任とか、大変だろ?」

「まあ、いろんな意味でね……」

 二人の会話が途切れたところで、山坂浩二は一度咳ばらいをして目の前の月影香子をまっすぐに見つめた。

「で、こんな話をしに俺の家に来たわけじゃないよな、香子。今日から霊力操作の訓練を始めるんだろ」

 山坂浩二がそう言うと、月影香子の眉がほんの少しだけ動いた。

「……えぇ。そうよ」

「で、最初は何をするんだ?」

 山坂浩二は尋ねた。

「そうねぇ。まずは退魔師について少しおさらいした後、ここで不可視の練習をして、それから外に出て本格的に霊力を使う訓練をする……ってことでいいかしら?」

 月影香子が話し終わるまで、山坂浩二は口を半開きにして彼女を見つめたままでいた。彼は頷き、

「ああ、……ってか、ちゃんと考えてあるんだな」

 と感心した。

「当たり前よ。言い出したのはあたしなんだから」

 月影香子は口元を緩ませた。

「で、まずはおさらいからね。まあ、今初めて言うこともあると思うけど、とりあえず聞いてね」

「わかった」


「まず、あたしたち退魔師は、十年前までは退魔村と呼ばれるところに住んでいて、村の人全員が強い霊力を持っていた。……ここまではいい?」

 月影香子が尋ねると、山坂浩二は首を縦に振った。

「ああ、なんとなく覚えてる」

「うん。で、今から十年前に悪霊の大群集に攻撃されて村は滅んだ。それで村の大人たちは全員死んで、生き残った子供たちの一部が集まって、再び退魔師としての活動を始めた。あたしはそれには加わらなかった」

 月影香子は一度唾を呑んだ。

「で、退魔村が滅んだときに、あたしと浩二は離れ離れになった。あたしは霊力を持っていない遠い親戚の人に引き取られて今までを過ごした。……ちなみに、あたしと浩二の両親は退魔村壊滅の三年前に死んでるの」

 月影香子は後頭部を右手でかき、

「とまぁ、今までのことはこのくらいかな。あたし、村のことはあんまり詳しくは知らないからさ」

 と、表情を緩めて言った。

 山坂浩二は両手を床につけて重心を後ろに移した。

「……なるほどね。俺の親がそんな前に死んでたってのは驚きだけど、とりあえず、俺は退魔村が悪霊の襲撃を受けて滅んだってことだけ知っときゃいいんだな?」

「まあ、とりあえずは、ね」

 月影香子は前髪を払った。

「次は退魔師の能力についてね。男と女で使える力と霊力の種類が違うから、男と女が協力しなくちゃいけないってのはもういいわよね」

「ああ」

 山坂浩二は頷いた。

「まず、男は霊力を体の外で作用させることができるの。主な能力は魔物を本来あるべきところにかえす『浄化』なんだけど、その他にも、遠距離攻撃や遠くにいる仲間との意思疎通、結界を張るなんてこともできるの」

 月影香子は一度咳ばらいをした。

「次に、女は体の中に霊力を作用させることができるの。具体的には、武器の精製、身体能力の向上、自己回復能力、それに、皮膚を鉄みたいに固くする皮膚硬化もできるわね」

「で、不可視の状態は男と女もなれる、と」

「そうよ。でも、やっぱりやり方は男と女で違うの」

 山坂浩二は床から両手を離し、背筋を伸ばした。

「え、そうなの?」

「うん、男は霊力を全身にまとうんだけど、女は体を半霊体化させるの」

「え? 半なんて……」

「半霊体化。文字通り、体を不完全な霊体にさせるの。霊体は周りのものと溶け合うことができる。だから、女は空を飛べるの」

 ここで月影香子はため息をついた。

「まあ、さすがに壁をすり抜けるなんてことはできないけどね。あれは完全な霊体じゃないと無理」

「……なるほど。で、この前の満月の夜、俺はどうやって戦ってたんだ? どういうふうに霊力を使ってた?」

 山坂浩二がそう尋ねると、月影香子は左手の人差し指を口元に当て、下を向いて少しの間唸った。

「たしか……女の力でやってたのは、武器の精製と身体能力の向上ぐらいだったわね。あとは男の能力よ」

「……じゃあ、俺が飛んでいたのは?」

 山坂浩二が聞くと、月影香子は呆れたように表情を緩めた。

「桁外れな大きさの霊力を放出していたわ。あんなの、多分、あの時の、満月の夜のときの浩二にしかできないと思う」

「はぁ……」

 山坂浩二はため息をついた。

「まあ、こんなもんね。一言で言っちゃえば、男は魔法使い、女は戦士ってところよ」

「……ずいぶんとアバウトな例えだな」

 山坂浩二がそう呟くと、月影香子は眉間にシワを寄せた。

「なに? 間違ってないでしょ?」

「まぁ、そうだけど……」

(魔法使いって、それはあんまりだろ……)

 山坂浩二は脳内で不満げに呟いた。すると、

「なに? 文句あるの?」

 と、月影香子は眉間にシワを寄せるのをやめて言った。山坂浩二は下がり気味になっていた目線を彼女に向けた。

「ない」

 すぐに否定する山坂浩二。一方、月影香子は両目を一度閉じて静かに息を吐き出し、

「そう。じゃあ、とっとと訓練始めるわよ」

 と言いながらゆっくりと立ち上がった。その言葉を聞いた山坂浩二はカーペットに腰を下ろしたまま、

「おう。……ところで、飯は食ったか? あと、何にも持ってきてないのか?」

 と尋ねた。

 月影香子は山坂浩二へと目線を下げ、

「食べたよ。荷物は、必要ないから何も持ってきてないわ。あと、訓練終わってからお風呂入るつもりだから着替えてないわよ」

 と答えた。

「着替えについては聞いてねえよ」

 山坂浩二は口をへの字にし、

「まあ、俺が制服なのも似たようなもんだ。それじゃあ、始めますか」

 と言って立ち上がった。彼の脚を冷気が襲う。

 ちょっと寒い。

 山坂浩二は月影香子に目を向けた。すると、そのことに気づいた彼女は彼と目を合わせてかすかな笑みを浮かべた。

「まずは男の不可視からね。霊力で体を包む感じらしいけど、できる?」

「やってみるよ」

 山坂浩二はそう答えた後、両目を静かに閉じた。そして彼は、あの満月の夜から自分に存在する霊力に神経を集中させる。

 イメージとしては青と白の色。その霊力を捉え、自らの制御下におく。ある程度の量が掴めたところで、その霊力が自分を包み込むようなイメージを持った。実際に霊力が体から抜け出し、イメージ通りに体を覆っていく感覚がある。

 彼は両目を開いた。すると、目の前が少し青くなっていた。

(満月のときも、こんな感じだったな)

 山坂浩二は、師匠が弟子を教えているかのような目で自分を見つめている月影香子に目をやった。

(これでいいのか?)

 やや不安になる山坂浩二。これで強い霊力を持たない普通の人間には見えないのだろうか。しかしそんな不安も、

「へぇ。これはすんなりとできちゃうのね」

 という月影香子の呟きで消し飛んだ。

「ほんと!?」

 彼は思わず声を上げた。しかし、

「うん、でもね」

 月影香子は右手を腰に当てて目を細め、

「それは霊力の使いすぎ。不可視でそんなに霊力使っちゃったら、悪霊と戦えないし浄化もできないわよ」

 と言った。

 この言葉に山坂浩二は肩を落とす。

「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」

 ややいらつき気味になった山坂浩二からの質問に、月影香子は彼からこたつに目線を移し、

「そうねぇ」

 と呟き、ほんのわずかな時間口を閉じた。

「……男の不可視って、一種の結界らしいから、薄い膜を張るくらいでいいんじゃないかしら。たしか、十年前の浩二もそれくらいだったよ」

「なるほど。わかった」

 山坂浩二は月影香子のアドバイスを聞いて気を取り直し、再び霊力に神経を集中させた。体を包み込む青い霊力をほんのわずかな量だけ残し、あとは彼自身の体に戻した。

「これくらいか?」

 そう尋ねる山坂浩二に月影香子は、

「うん、それくらいね」

 と声のトーンを少し上げて言った。このことで山坂浩二は嬉しくなってつい頬が緩んでしまうが、

「まぁ、これは基本中の基本だからね……。今は意識しながらでもいいけど、そのうち無意識的にやれるようにならないと、戦いに集中できないわよ」

 と、もとのトーンで言われ、山坂浩二は再び肩を落とした。ついでにため息をつく。これを見た月影香子は左手を少し前に出して、

「ま、まあ、始めのうちにここまでできるなんてたいしたものよ。そんなに落ち込まないで、頑張ろ」

 と山坂浩二を励ますように言った。

 すると彼は一度彼女に目線を向けた後、自らの右手にも目を向けた。

(……たしかに、あの夜に比べれば霊力が扱いやすい気がする。単に俺が慣れてきただけなのか、それとも霊力が小さいからなのかわからないけど)

 彼は右手を握り締め、

(やってやる!)

 決意した。

「おー。なんかやる気出てきたみたいだね、浩二」

 月影香子は腕組みをしておどけた口調で話し、

「じゃあ次は、女の不可視をやってみようか。ちょっと難しいと思うけど……」

 最後に眉をひそめて言い淀んだ。

「なんだよ。なにかまずいことでもあるのかよ」

 自信を無くしたかのように声を小さくした月影香子に、山坂浩二は目を細めて不満そうに尋ねた。彼女は険しい表情をしたまま、

「ええとね。男の不可視はさっきやったように自分と自分の手持ちのもの、例えば服とかケイタイみたいなものを霊力で覆い隠すんだけど、女の不可視はそういったものを霊力で周りと溶け合わせるってちょっと前に言ったわよね」

 と言った。山坂浩二は無言のままうなずく。

「でね、女の不可視のやり方は、霊力を体中に駆け巡らせるの。女の霊力はもともと自然と一体化しやすいらしいから、全身を霊力で満たしてあげればかってに半霊体化するわよ」

 そんな単純なものなのだろうか? 自然との一体化なんてものはもはや悟りの境地じゃないか。と心の中で呟いた山坂浩二だったがそれを口には出さずに、

「わかった。やってみる」

 と答えて両目を閉じた。

 先ほどの不可視のときのように彼は神経を研ぎ澄ませ、霊力を掴み取っていく。今度は男の霊力ではなく、女の霊力で、赤のイメージ。

 山坂浩二が男であるためか、女の霊力は男のものよりも少ない。三対七ぐらいの割合だと山坂浩二は感じ取り、まぶたをきつく閉じ、よりいっそう集中力を高めていく。

 そして目的の霊力が掴み取れたところで、彼はその力を全身に循環させ始めた。月影香子からの言葉を待ちながら、徐々に加速させていく。

 そして、これほどかというほどまで循環スピードをあげたところで、

「あ、できてる」

 という月影香子の呟きが聞こえた。

 しかし、それと同時に山坂浩二の集中が切れた。彼は両目を見開き、両手を膝につけて荒い呼吸をし始めた。

「だめだ。難しい。すぐに、集中が、途切れちまう」

 あんなに速く霊力を流さないといけないのかと山坂浩二は思いながら顔を上げた。視線の先では、月影香子がいつものように右手を腰に当てて微笑み、自分を見つめていた。

「まあ、最初は誰にとっても難しいものよ。慣れたら自然とできるようになるから」

 その言葉が救いのように思えた山坂浩二は目を輝かせた。

「ほんとか!?」

「うん! 多分」

「多分って……」

 落ち込む山坂浩二。すると月影香子は笑って右手首から上をゆっくりと前後に振りながら、

「まあまあ、気にしないで、言葉のあやだから。十年前の浩二にはできてたんだから、今の浩二にだってできるわよ。それに、男と女の霊力を両方持ってて、使い分けるなんてことは浩二にしかできないんだから。これってすごいことなのよ。自信もって」

 と励ますように言った。

 そしてこのとき、山坂浩二の脳裏にあの約束のことが浮かんだ。遠い昔に彼女と交わした二つ目の約束のこと。満月の夜じゃなくても強くなるというあの約束。二人で助け合えるぐらいに強くなるという約束。

 そしてあのとき、目の前のパートナーは今と同じようなことを言って、自分を励ましてくれた。

 香子のために強くなりたい。

 あのときそう思った記憶がある。

 そして、今もそう思っている。

 その気持ちが、彼を奮い立たせた。

「ああ、わかった。やってやるよ」

 山坂浩二は膝から手を離して背筋を伸ばし、月影香子の目をまっすぐに見つめた。すると、彼女は不敵な笑みを浮かべた。

「そうそう。その意気よ」

 彼女の言葉を合図に、山坂浩二は不可視の訓練を再開した。




「まっ、不可視の訓練はこれくらいにしておきましょうか」

 月影香子のこの言葉が聞こえた瞬間、山坂浩二は大きく息を吐きながら崩れるように腰を曲げて両手を膝につけ、荒い呼吸を行い始めた。彼が着ている学ランの袖は肘までまくり上げられていた。かなりの精神力を消費したようで、彼の額や腕には汗が浮かんでいる。

 山坂浩二が訓練を再開させてから三十分ほど経っただろうか。その間女の不可視を中心に行い、時折男の不可視をするといったことを彼はしていた。

 月影香子はそんな彼を見守りながら、時に的確なアドバイスを与えていた。そのこともあってか、山坂浩二はもうすでに男の不可視については容易にできるようになり、女の不可視についても初めのころよりは集中しなくてもできるようになっていた。

 彼女は息を整えている山坂浩二を見ながら数回うなずき、

「まあ、よく頑張ってるわね。この調子なら、あと一週間くらいで自然とできるようになるわよ。女の不可視もね」

 と言葉をかけた。

 すると、山坂浩二は顔を上げ、

「本当か?」

 と尋ねた。目の前のパートナーからは肯定の返事が返ってきた。今度は「多分」といったものが聞こえてこなかったので、彼は心の底から嬉しくなった。

「はは」

 思わず笑い声が出る。

 月影香子もどこか安心したように口元を緩めた。

「じゃあ、次は外に出て本格的に霊力を使ってみましょうか」

「おう」

 山坂浩二はやる気をこめて返事した。




 その後、二人は外に出て扉の鍵を閉め、二つの扉の前を横切り、アパートの外階段を下り、一つの列を作るかのように並んでいる木々の間を抜けて河川敷広場へとたどり着いた。あたりは暗く、冷たい風が吹いている。東の空には、右側が少し欠けた月が浮かんでいる。周りに霊的存在は見当たらない。

 二人が広場に踏み入れた後、月影香子は腕組みをして体を縮め、

「やっぱり寒いわね」

 と呟いた。

「まあ、冬だし、夜だからな」

 山坂浩二は捲り上げられた学ランの袖をもとに戻しながら答えた。

「ってか月出るの遅くない? 今やっと出ましたって感じなんだけど」

 月影香子は左を向く。山坂浩二も左に顔を向け、彼女の黒髪を眺める。

「ああ、それね。月って、出てくるのが一日ごとにだいたい五十分ぐらい遅くなるんだよ」

「へえ、知らなかった。あたし、満月にしか興味なかったから」

「そうか」

 山坂浩二は静かにため息をついた。そして彼女の言うことに納得する。月影香子はこの十年間、悪霊に追われ続けていたのだ。さらに満月の夜には悪霊たちの力が格段に上がる。だから満月にしか興味がないというのはわからないことではなかった。

「じゃ、訓練始めようぜ」

 月影香子が過ごしてきた地獄のような日々を想像した山坂浩二は、気分が落ち込んでしまう前に言った。

 彼女も彼の言葉にうなずき、腕組みをやめて山坂浩二に顔を向ける。

「それもそうね。じゃ、まずは不可視の状態になって」

「え? また?」

 山坂浩二は不満そうに尋ねた。さっきまでさんざん不可視の訓練をしていたのだ。いい加減他のことをやりたいと思っていた。すると、月影香子はわざとらしく大きなため息をつき、

「人に見られたら面倒でしょ。特に霊力で武器作るときとか。今日は男の不可視だけでいいから。さっ、早く」

「わかった」

 納得した山坂浩二は首を縦に振ると、体に存在する青の霊力を体の外に出して自分を包み込ませた。もう目をつぶらなくてもできる。

 月影香子は山坂浩二が不可視の状態になったのを確認すると、彼女も不可視の状態になり、山坂浩二からはその姿が透けて見えるようになった。これで二人は普通の人間からは見えなくなった。

「じゃあいい? まずは遠距離攻撃と浄化から。これは男の力だし、満月の夜にもやってたからできると思うけど」

「やってみる」

 山坂浩二は待ってましたといわんばかりに両手を重ね、空へと向けた。青の霊力を手の先に集め、それを放出するイメージをした。

 すると、手の平からソフトボールほどの大きさの青い光の玉が飛び出し、遥か上空へと去っていった。

 次に両手の先に集めた青の霊力を、白の霊力へと変化させていく。変換過程である程度の霊力が失われるが、山坂浩二はさほど気にせず、白の霊力、すなわち浄化の霊力を空へ向けて放出した。やはりこれもソフトボールほどの大きさで、すぐに見えなくなった。

 どちらも満月の夜のときと比べると非常に弱く、また疲労の程度も大きかった。山坂浩二はたまらず腰を曲げ、両手を膝につけて喘ぎ始めた。

 そばで山坂浩二を見ていた月影香子は感心したように右手を腰に当て、

「へえ、やればできるものねえ。やっぱりあの戦いのおかげかしら」

 と言った。

 山坂浩二は両手を膝につけたまま顔を上げて月影香子と目を合わせた。

「ああ、多分な。感覚がつかめてるから、できないことはないな」

 しかし、力は比べ物にならないほど弱く、スタミナもすぐに切れるため、どう考えても実戦で役に立つとは思えなかった。

(十年前の自分は、こんなに少ない力でどうやって戦っていたんだろうか)

 彼は右手を膝から離し、その手の平に視線を移した。

 汗がにじみ出ているそれからは、もちろん、答えなど出てこない。訓練を続けるうちに自分で見つけ出さなければならない。

 そう思った山坂浩二は左手も膝から離し、腰を伸ばして月影香子と向き合った。

 月影香子はかすかに笑う。

「じゃ、次は武器の精製と身体能力の向上ね。それが終わったら、ちょっと休憩しよっか」

「ああ」

 山坂浩二はうなずくと、両目を閉じた。今度は赤の霊力を右手の先に集めていく。すると、錫杖のかすかなイメージが勝手に浮かび上がった。右手の先から赤の光の粒子が両方向に伸びいていき、棒状になる。そして錫杖らしき形になると、それは赤から一気に色を変えて完全に錫杖へと姿を変えた。

 木でできたような茶色の柄。先端には金色の輪がついていて、その輪にも数個の小さな輪がかけられている。さらに金色の棒状のものが大きい輪を貫き、槍のようになっていた。ただしその先端は丸みを帯びている。その錫杖は山坂浩二よりあたま一つ分長い。

 山坂浩二は少し息を乱しながら、月影香子に見せびらかすように、右手に持った錫杖を地面に突き立てた。軽い金属音がする。

「へえ、やるじゃない」

 月影香子は感心したように言った。彼女は相変わらず腰に右手を当てたままでいる。

「じゃあ、次は身体能力の向上よ。これは不可視とは違って、能力を高めたい部分に霊力を集めることでできるわよ。もちろん、全身もオッケー」

 月影香子がそう言うと、山坂浩二は首を傾げ、

「それって、霊力を集めたとこだけ半霊体化したりとかしないのか?」

 と尋ねた。すると月影香子は首を左右に振った。

「そんなことないわよ。半霊体化は全身でしかできないの。だから余計な心配しなくていいわよ」

「なるほど……」

 山坂浩二がそう言うと、月影香子は腰から右手を離した。

「まあ、この際ついでだから言っておくけど、全身を強い霊力で強化したら勝手に半霊体化するから。でもかなりの霊力を使うから、浩二はやらないほうがいいわよ」

 彼女は一呼吸置いて、続ける。

「あと、使う能力によっても必要な霊力は変わってくるわ。人にもよるんだけど、基本的には自己回復能力が一番霊力を使うわね。次に皮膚硬化。その次が飛行。武器の精製。身体能力の向上。んで、一番使わないのが半霊体化。つまり不可視。でもこれは程度によっても変わるから、あんまり当てにしないでね。……特に身体能力の向上とかはね」

「……なるほど。ちょっと聞くけど、香子は能力に得意なものとか苦手なものとかあるの?」

 山坂浩二がそう尋ねると、月影香子は両手を腰に当てて小さく息を吐いた。

「あたしは……自己回復と飛行はそんなに霊力を使わなくてもできるけど、そのかわり皮膚硬化はかなり霊力を使うわね。自己回復ぐらい使うかな」

 山坂浩二はここで眉間にしわを寄せた。

「苦手なものと得意なものが同じって、自己回復っていったいどれくらいの霊力をつかうんだ?」

「基本的に、自己回復能力に必要な霊力はほかのものよりも圧倒的に高いの。だから戦闘中はよほどの怪我でなければ使っちゃいけないの。もちろん、このあたしもね」

 月影香子は目を閉じてかすかに笑った。そして目を開けてため息をついた。

「ちょっと、おしゃべりが過ぎたようね。続きをしましょ」

 この言葉を聞いた山坂浩二は、

「そうだな」

 と呟き、右手で握っている錫杖を赤い霊力に戻して体の中に取り込んだ。そして、その霊力を自らの制御化に置こうと、目を閉じて神経を集中させる。

 そんな彼を見ている月影香子は頬を緩ませ、右の手の平を顔の横で開いた。ちょうど山坂浩二に手の平が見えるようになっている。

 ある程度の霊力がつかめた山坂浩二は目を開けて月影香子を見た。彼女の謎の行動に、彼は眉間にしわを寄せて首を傾げた。

「準備はいい? 浩二」

 突然の彼女の発言に山坂浩二は戸惑い、少しの間無言になるが、彼はその言葉を自分が霊力を掴めたかどうかを聞いているものと解釈し、

「ああ、いいぜ」

 と目つきを鋭くした。

「じゃ、あたしの右手に思いっきりパンチしてみて」

 月影香子の言葉に山坂浩二は目を丸くした。いくら彼女が強いと言っても、男が女を叩くということには抵抗がある。

「……いいのか?」

 山坂浩二は戸惑いながら尋ねた。

「いいわよ。助走つけて思いっきりよ」

 彼女は大真面目に言っているようだ。これも彼女にしてみれば山坂浩二の訓練の一環なのだろう。

「わかった」

 山坂浩二は頷き、彼女と向き合ったまま後ろにさがり始めた。五十メートルほど距離をとったところで彼は立ち止まり、ありったけの霊力を全身に満たし始めた。

 勝手に半霊体化するほどの量ではではないが、ほぼすべての赤い霊力が身体能力の向上に使われている。山坂浩二は月影香子の右手を見据えながら、自らの右拳に力を込めた。

 彼女に自分の力を見せようと、彼は意気込む。もはや、男子が女子を殴りに行くといった考えは浮かんでこなかった。

 そして。


 山坂浩二は駆け出した!


 すでに人間を超えたスピードで月影香子のもとへと突き進む。これほどの力ならば強大な戦闘能力を持つ彼女でも無傷では済まないだろう。そう考えた山坂浩二だったが、その考えを捨て、目前に迫った標的に向けて渾身の一撃を放った。

 乾いた音がした。右の拳が痛む。真剣な表情の月影香子が見えた。そして、彼の出した結果は。


「え……?」


 月影香子の横をほんのわずかに通り過ぎた彼は、後ろを振り向いて愕然とした。

 たったの数センチ。

 そう。

 女の霊力のほとんどをつぎ込んで出した結果が、月影香子の右手を後ろに数センチ動かしただけだった。そのほかの部分は微動だにしなかった。

 山坂浩二は我が目を疑った。

 そこらあたりの桜の木の幹ならばへし折れるくらいの力だった。生身の人間ならば打ち所によっては命に危険が及ぶほどの力だった。

 なのに。

 彼女は平然としている。

 これは、自分が弱すぎるのか。または彼女が強すぎるのか。もしくはその両方なのか。

 山坂浩二は月影香子を見つめたまま固まった。

 一方山坂浩二の渾身の一撃を受けた月影香子は、右手首から上を振りながら山坂浩二へと体を向けた。彼女は少し、笑っている。

「いやー。身体能力だけは十年前より高くなってるみたいね。まあ、もとの身体能力が上がってるからだろうけど、ちょっと痛かったわよ」

 無邪気に笑ってみせる月影香子。そんな彼女の言葉を聞いた山坂浩二は、褒められたことに安堵し、それと同時に改めて彼女の強さや優しさを知り、枯れた芝生の上に崩れるように腰を下ろした。

 今さらのように疲労が彼を襲う。

 山坂浩二は目線を下げて芝生を眺めた。すると、

「そんなに落ち込まないで。浩二は本当によく頑張ってるわよ。正直、ここまでできるとは思ってなかったよ」

 と、月影香子は言った。山坂浩二は顔を上げる。

 彼女はいつものように、微笑んでくれていた。

「……そっか」

 山坂浩二はそう呟くと、再び顔を伏せた。

(強くならなきゃ。強くならないと。このままじゃ、俺は悪霊のえさになっちまうし、俺が悪霊に襲われたときに香子に迷惑をかけてしまう。それだけは、絶対にいやだ)

 彼は両拳を強く握り締める。

(香子の退魔師としてのパートナーにふさわしい男にならないと、香子の隣に居続けることなんて到底できねぇ)

 彼は月影香子を見上げた。

 彼女と目が合う。

 心臓の鼓動が激しくなる。

 息が詰まる。

 そして、なぜだかわからないが目を背けてしまった。どうしてそんなことをしたのか、山坂浩二にはわからなかった。

 すると、

「じゃ、ちょっと休もうか。浩二もヘトヘトだしね」

 と月影香子から声がかかった。すると今度は体中を電気が走るような感覚が山坂浩二を襲った。

(なんなんだよこれ。さっきからどうしちまったんだよ俺は……)

 山坂浩二の頭は混乱する。

 そして彼は、それを振り払うかのように、

「うるせー。ってかまだできるし」

 と言って立ち上がった。しかし立ち上がったまではよかったが、山坂浩二は立ちくらみに襲われてよろめいてしまった。

 その様子を見た月影香子はあきれたような笑みを浮かべて小さく息を吐いた。そして彼のもとまで歩き、両手で彼の両肩を押さえた。

「ほら、しっかりしなさい。焦る気持ちもわかるけど、休むことも訓練のうちよ」

 彼女はそう言って山坂浩二の肩から両手を離した。立ちくらみが収まった彼は、目の前にいる月影香子と目を合わせた。

 今度は、何も起こらなかった。

「ああ、そうだな」

 山坂浩二の前髪が、冷たい風でなびく。月影香子の腰を少し通り過ぎる黒髪も、風に身を任せて揺れている。

「そういえば、十年前にもこんなことがあったわね」

 月影香子は山坂浩二に背を向けて、まだ出て間もない月を見上げた。

「そうなのか?」

 山坂浩二は彼女の後頭部に視線を向けて尋ねた。

「うん。なんだか、とても懐かしいわ」

「……そっか」

 山坂浩二はそう呟くと、月影香子と同じように月を見上げた。満月ではないものの、夜の闇を薄めるのには十分すぎるくらいの光を放っている。

 思わず見とれた。

 しかし。



 妙な悪寒が二人の背中を襲った。



「っ!!」

 山坂浩二と月影香子は同時に後ろに振り向いた。続いて空を見上げる。そして、悪寒の原因を突き止めた。

 灰色で透けた姿。赤い光を放つ、目のような二つの何か。大きさや形は定まらず、丸くなったり細長くなったりしながら、地上十メートルのところを浮遊している。その数五体。それらの赤い点はすべて山坂浩二に向けられているようにも思えた。

「ちっ、何でこんなときに!」

 月影香子は突如現れたそれらを睨みつけた。

 山坂浩二は霊的存在を確認した後、彼女に顔を向けた。

「香子、あれって……」

 彼の声は震えていた。無理もない。もともと霊力が少ないうえに訓練でかなりの量を使い、もうほとんど残っていない。さらに、霊力操作もままならないままだ。

 どう考えても戦える状態ではない。

 襲われたら最後、確実に死ぬ。

 その恐怖が、彼を縛り付けた。

 月影香子は怯える山坂浩二には目を向けず、威嚇するかのように五体の霊的存在を見つめ続ける。

「心配しないで。あれは悪霊じゃなくて、悪霊になる前のただの雑霊だから。霊力も悪霊みたいに強くないから。今の浩二でも一撃で死ぬなんてことはないから怖がらないで」

 彼女はそう言うと、山坂浩二に顔を向けて彼と目を合わせた。

「さっさと片付けるわよ、浩二」

 彼女の双眸から恐怖などは微塵も感じられない。自信に満ち溢れている。そんな月影香子の言葉に平静を取り戻した山坂浩二は、

「ああ」

 という強い返事とともに頷いた。月影香子は目線を宙に浮かぶ雑霊に戻す。そして、彼女の両手の先から青い光の粒子が伸びていき、その光は瞬時に日本刀へと姿を変えた。長さは二つとも月影香子の身長の半分ほどであり、刀身は月明かりに照らされて銀色に輝いている。

 彼女は二本の刀を握り締め、

「浩二は無理をしないで浄化に専念して。霊力を削り取るのはあたし一人で十分だから」

 と言い、わずかに膝を曲げて腰の位置を低くした。

「わかった」

 山坂浩二は月影香子におとなしく従い、浮遊する雑霊に目を向けた後、両手を重ねて手の平を地面に向けたまま手の先に霊力を集め出した。

 月影香子は目つきを鋭くし、

「たぶん、あいつらの狙いは浩二ね。向こうが来る前に、決着をつけたほうがよさそうね」

 と言い残し、雑霊に向けて跳び上がった!

 敵の集団の中に入り込んだ彼女は、目前に迫ったうちの一体を右の刀で裏拳のごとく横一文字に斬り裂き、その勢いを利用して左の刀で袈裟斬りを繰り出した。

 雑霊の姿が大きく揺らぐ。

 そして彼女は両手首を返しながら上半身を左にねじり、後ろにいた一体の雑霊を二本同時に横一文字に斬り付けた。この間にほかの三体は、山坂浩二のそばに強大な力を持つ月影香子がいなくなったのを好機と見たのか、彼に向かって降下を始めていた。

 しかし、それを見逃す彼女ではない。

 月影香子は二体目に攻撃をしかけた動作に続くように、雑霊たちを超える速さで空中を下に駆け抜け、そのまま一体の雑霊を二本同時に縦に斬り伏せた。

 彼女は降下を続け、山坂浩二に襲いかかろうとした雑霊を二体同時に二本の刀でハサミのように斬り裂いた。そして月影香子は山坂浩二の二メートル上で前方宙返りをし、彼の後ろ側の少し離れたところに両足で着地した。

 彼女の白を基調としたスニーカーの底と地面の間から土埃がわずかにたちあがる。彼女は体勢を立て直すと後ろに振り返り、

「浩二! 今よ!」

 と叫んだ。

 彼女の要請に応えるかのように、山坂浩二は重ねた両手を浮遊する雑霊へと向けた。集まった青の霊力を浄化の霊力へと変換していく。

 彼の額に汗が浮かぶ。

 手の平が熱くなる。

 そして、手に集めた霊力のほとんどが白の霊力に変わると、山坂浩二は自らのもとへ向かってくる雑霊に狙いを定め、浄化の霊力を射出した。

 バレーボールほどの大きさの白い光の玉が一体の雑霊を捉え、破裂した。白い光が雑霊を包み込んで砕け散り、雪のように舞った。

 しかし、それと同時にとてつもない疲労が山坂浩二を襲った。

 息が荒くなる。

 平衡感覚がおかしくなる。

 体から力が抜けていく。

 腰を曲げて両手を膝につけたくなった。それでも、山坂浩二はその欲望を意思の力で抑えつけ、体勢を保った。そして、再び雑霊へと狙いを定める。

 だが、雑霊もやられっぱなしではない。月影香子に霊力のほとんどを削り取られてゼロに近い状態でも、どれだけ遅い速度でも、彼らは山坂浩二に向かっていく。他の存在の霊力への執念が雑霊たちを動かした。

 それほどに、山坂浩二の霊力は弱っていた。狩りやすく、収穫はそこそこ。すでに山坂浩二は彼らにとっては格好の獲物でしかなかった。

 彼自身もわかっていた。

 だからこそ。

 雑霊たちが向かって来るという事実だけで。


 山坂浩二は平静を失った!


 うまく霊力が集められない。うまく霊力変換ができない。うまく狙いを定められない。彼自身の心臓の拍動音が集中を乱す。

「浩二落ち着いて!」

 後ろから月影香子の声が聞こえるものの、山坂浩二にはそれがどんな意味を持つのかを理解することさえもできない。

 彼はがむしゃらに浄化の霊力を放った。大きさはソフトボールほどまで落ち込んでいる。そして、その光の玉は雑霊のそばを通り過ぎた。

「っ!?」

 山坂浩二は急いで白い光の玉に干渉を試みた。その軌道を変えようと力を込めた。しかし、ほんの少し曲がっただけで、またもや他の雑霊のそばを通り過ぎていった。

 無駄に無駄を重ねただけの霊力の消費。

 さらなる疲労。

 山坂浩二は耐え切れずに腰を曲げて両手を膝につけた。彼の顎から大粒の汗が滴り落ち、荒い呼吸を繰り返す。

「く、くそ……」

 彼は雑霊たちを見上げた。その途端。それらが降下速度を上げて一斉に山坂浩二へと襲い掛かった。さっきまでの雑霊たちの動きからは想像もできないほどの速さで向かってくる。

 山坂浩二は右に体を動かして避けようとした。

 しかし、疲労と恐怖が彼の動きを阻害した。

 山坂浩二は足をもつれさせて右肩から地面に倒れこんだ。立ち上がろうとするが、体が言うことをきかず、上半身までしか起き上がれない。

 その間に四体の雑霊が目前にまで迫っていた。

 山坂浩二は目を見開いた。そして死に物狂いで左手を雑霊たちに向けた。その瞬間、一つの何かが雑霊たちの間を通り抜け、雑霊たちの姿が大きく揺らいだ。

「浩二、早く!」

 月影香子の声が山坂浩二の耳に届いた。

 すると彼はその言葉に承知するかのように険しい表情になり、伸ばした左手から浄化の霊力を放った。ソフトボール大の白い光の玉が一体の雑霊に命中し、その姿を消した。

 しかし、まだ三体も残っている。

 雑霊たちは一度山坂浩二から少しだけ遠ざかった。彼は胸をなでおろしたが、それもつかの間、再び雑霊たちは山坂浩二に向かってきた。

 今度は別々の方向から襲い掛かってくる。

 山坂浩二はどう対処していいかわからず、三体の雑霊を見回していくことしかできない。浄化の霊力への変換も忘れている。かろうじて不可視の状態は保てていることが奇跡のように思えてくる。

 月影香子は戦闘が長引いていることに不満なのか、舌打ちをした。そして駆け出し、三体の雑霊にそれぞれ一撃ずつ日本刀を叩き込んでいった。

 彼女は芝生の上に着地すると、後ろを振り向いて叫んだ。

「浩二早く!」

「わかってる!」

 山坂浩二は叫び返すと、一番近くにいる雑霊に左手を向けた。しかし、霊力変換ができていないため、すぐに浄化することはできない。

 雑霊たちは山坂浩二に向けて動き出した。彼は焦る。

 うまく霊力操作ができない。

 霊力が少なすぎる。

 雑霊が迫る。

「ち、ちきしょう」

 山坂浩二が観念したその瞬間。



 三体の雑霊が白い光に包まれて姿を消した。



 山坂浩二は我が目を疑った。自分は何もしていないのに、雑霊たちが浄化された。しかも三体同時に。何が起こったのか、彼には理解できなかった。

 月影香子も我が目を疑った。浩二は何もしていないのに、雑霊たちが浄化された。しかも三体同時に。しかし、何が起こったのかは、彼女には想像がついていた。

「まさか……」

 月影香子は目線を下に移し、二本の刀を握り締めながら呟いた。そして両手を震わせながら歯軋りをした。山坂浩二はただ左手を伸ばして前を呆然と見ることしかできなかった。

 そして。


「やれやれ。なってないですねぇ」


 男の声であきれるように言い放たれた言葉。二人は同時にその声がした方向に振り向き、山坂浩二のアパートの屋根に目線を移した。

 そこには。

 山坂浩二たちから見て左から小大中と並ぶ、月明かりに照らされた三人の姿があった。








 

 大学がものすごく忙しいので、夏休み(7月〜8月)に入るまではひと月に一話か二話の投稿が限界のようです。


 詳しいことは活動報告でどうぞ。


 また、第二章《残党編》は夏休み終了までに書き終えたいと思っています。


 できる限り頑張りますので、これからもよろしくお願いします。




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