第一話 打ち解けた二人
二月二十一日。あの満月の日から三日の時が経ったその日の朝。日の出を迎え、通勤、通学、散歩などで行き交う人々が増えてきた頃。
百メートルはあるであろう横幅を持つ『銅鏡川』に架かる、緩やかなアーチ状の朱い色をした『未来橋』を渡る人もちらほらと見えてきた。
片側一車線ずつの道路。車道と同じ幅の歩道。等間隔に並んだ街灯。朱い色の手摺り。銅鏡川から生えた三つの土台。
これらの要素のためか、銅鏡川に架かる他の平凡な橋に比べて、この未来橋は地元の人々に愛される存在である。
そんな未来橋の始点に立つ、ニメートルほどの高さの柱にもたれ掛かる一人の男子高校生がいた。そこそこ整った顔立ちで、目と耳に少しかかるくらいの長さの髪はところどころが逆立っている。上は学ラン。下は黒の制服ズボン。背中に収まる大きさの黒のスポーツバッグ。外された第一ボタン。
制服のズボンに両手を入れ、白い息を吐きながら雲一つ無い青空を見上げている彼の名は、山坂浩二。
一見、普通の男子高校生に思えるのだが彼には少々変わった特性がある。
一つ目は、ある人物を除いて、女性から避けられてしまうこと。この理由は山坂浩二も、避けている女性自身でさえもわからない。
二つ目は、六歳以前の記憶を失っていること。自動車事故が原因だと彼は育ての親に聞かされていたのだが最近、とある人物の話によって、記憶喪失の原因が本当に自動車事故だったのかどうかに疑問を抱き始めた。
また、ついこの間、彼は六歳以前の記憶の断片を取り戻してもいる。
そして、三つ目は、満月の夜だけ幽霊が見えること。いや、正確に言えば『満月の夜だけ幽霊がみえた』か。
三日前の満月の夜、ある人物がきっかけとなって今では山坂浩二は『満月の夜でなくても幽霊が見える』ようになった。
また、幽霊が見えるだけでなく、悪霊を本来あるべき場所にかえす能力も手に入れたのだが、ある人物によると、その能力は山坂浩二がもともと持っていたものらしい。
また、山坂浩二自身もそう確信している。
さて、そんないろいろと問題ありな山坂浩二は、ズボンの左ポケットから黒色の折りたたみ式の携帯電話を取り出して現在の時刻を確認していた。
そしてため息をつく。
「……ちょっと早く来すぎたか」
山坂浩二はそう言うと、携帯電話を持っていない左手で頭を弱く掻いた。彼の目の前を自転車が通り過ぎていく。
「待ち合わせまであと十五分か……。こんなに早く来るなんて、やっぱり浮かれてんのかなあ、俺って」
山坂浩二は再びため息をついた。
「まあ、仕方ないよな。女の子と待ち合わせをして、それから二人で一緒に登校! ……なんて、香子と出会う前にはありえなかったことだからなあ」
山坂浩二は空を見上げ、目を閉じた。
「……そう。香子と出会ってから俺はあいつに振り回されてきた。初めのうちはわけのわからない電波少女だと思ってた。『退魔師』だの『浄化』だの『十年前の知り合い』だの、信じられないようなことばっかり話すし、俺に近づけるし、なんだかよくわからないうちに事が進んで、それで最終的にあいつが言ってたことは全部本当っていうんだから……」
山坂浩二はため息をついて、目を開けた。
「まったく、やってられねぇっての」
彼は自らの左手を見る。
「それに、霊力が戻ってきたあとも、やっぱりあいつに振り回され続けているんだよな。……いや、むしろもっとひどくなってる気がする」
山坂浩二は、さっきから開きっぱなしだった携帯電話を操作し始めた。
「でもまあ……」
彼がそう呟いたあとには、携帯電話の画面に一つの写真が映し出されていた。
男女二人。
なにもポーズをとらずにただ半分飽きれ顔をしている男が山坂浩二。
そして、彼の肩に手をまわし、その手でVサインを作って笑っている、ポニーテールの女の子が、月影香子。
ポニーテールにまとめた髪でさえも腰まで届く長さ。男子平均身長の山坂浩二よりもほんの少しだけ低い背丈。すれ違った男性の十人に九人はおもわず振り返ってしまいそうなほど美しく整った顔立ち。
この月影香子が、山坂浩二自身がうんざりしていた彼の人生に、大きな変化をもたらすきっかけとなった女性である。
山坂浩二は月影香子と二人で映っている写真を見ながら、微笑みを浮かべた。
「香子が嬉しそうにしている。……俺には、それだけで十分だよな」
今から二日前の土曜補習の後。
お昼ご飯を食べさせてあげるという名目で、山坂浩二は月影香子の家に連れて行かれたのだった。
未来橋から歩いて十五分ほどの場所にある彼女の家は、二階建てのアパートで、比較的新しいものだった。
一階と二階にそれぞれ四つずつ部屋があり、月影香子の部屋は二階の奥から二番目の二○三号室だ。
二人が二○三号室の前に着くと、月影香子はスカートのポケットから鍵を取り出し、ドアを開けた。
「ここがあたしの家よ」
月影香子は山坂浩二に顔を向け、
「どうぞ」
と、部屋の中を手で示しながら言った。
山坂浩二は言われたとおりに、月影香子の部屋に足を踏み入れた。
「おじゃましまーす。……って広っ!」
山坂浩二は部屋を見渡した後、率直な感想を述べた。
おそらく山坂浩二の部屋の二倍の広さがあるだろう。入口の左側には仕切りのあるキッチンが設置されていて、部屋にはベッドとこたつまでもが置かれていた。
山坂浩二がまばたきを繰り返していると、後ろのドアが閉まる音がした。
「浩二の家が狭いだけよ」
彼の後ろで月影香子は呟き、
「あ、待って。こたつの電源入れるから」
と言ってスニーカーを脱ぎ、それを整え、フローリングの床を歩き、こたつのコンセントを接続した。
そして彼女が部屋の奥のカーテンを全開にすると、ガラス戸から日光が差し込んできて部屋が一気に明るくなった。
ガラス戸の向こうにはベランダが見える。
月影香子は山坂浩二に体を向け、
「で、今からお昼ご飯作るから、浩二はこたつに入って待ってて」
「えっ、俺もなにか手伝おうか?」
「いいからいいから。今日はあたしが浩二にご馳走してあげるんだから」
「はあ。じゃ、お言葉に甘えて……」
山坂浩二は月影香子の申し出をしぶしぶ承諾すると、白いスニーカーを脱ぎ、整えて、部屋に上がった。
すると、月影香子は部屋の奥のカーテンを指差し、
「そうだ。浩二は一番向こうの面に入ってて」
と言った。
「えっ、なんでだよ?」
山坂浩二が尋ねると、月影香子は彼の後ろに回り込んだ。そして山坂浩二の両肩に手を当てて、
「そういうもんなのよ。さ、早く早く」
と言って彼の体を弱い力で押し始めた。
山坂浩二はため息をつき、
「……はいはい」
と、月影香子に抵抗することなく部屋の奥まで歩き、スポーツバッグを下ろして、カーテンに最も近いこたつの面に座り込んだ。
そして、布団をほんの少し持ち上げて両足をこたつに突っ込んだ。
(あたたかい……)
冬の外気にさらされて冷え切った足をこたつに暖めてもらい始めた山坂浩二は、思わず顔をほころばせてしまう。
そして彼は部屋を見渡した。
彼の右側にはシンプルな作りのベッドがあり、左側には標準よりは小さいサイズの液晶テレビが置かれている。
その二つがこたつを挟んでいる。
ベッドの上には、デジタルの目覚まし時計があった。
部屋の入り口付近には、仕切りのあるキッチンが設置されていて、立派な冷蔵庫も備えつけられていた。
また、真上を見上げると、そこには山坂浩二の家には無い、エアコンという名の贅沢品まであった。
「……すげぇな」
あまりの格の違いに、山坂浩二は呆れてため息をついた。
月影香子は山坂浩二がこたつで落ち着いたのを確認すると、黒色の学生鞄をベッドの上に放り投げた。
そして、山坂浩二をじっと見つめ、
「ねえ、浩二。あたしがいいと言うまで目をつむってて」
と言った。すると山坂浩二は顔を少し赤らめた。
「えっ、な、なんだよ急に」
山坂浩二は慌てる。
「いいから早く!」
「お、おう」
月影香子の一言で、山坂浩二はとりあえず彼女に従うことに決め、両目を固く閉じた。すると、一瞬の静寂の後。
金属が擦れ合う音。
かしゃん。
布が擦れ合う音。
するり。
……なんだかとっても。
気になる!
でも、やっぱりダメだ!
……でも、やっぱり。
気になる!
少しの間の葛藤を経て、誘惑に負けた山坂浩二は唾を飲み込み、目をうっすらと開けようとした。
「……言っとくけど、途中で目ぇ開けたら……刺すわよ?」
その言葉と同時に、山坂浩二は開きかけたまぶたを再び固く閉じた。
(もう、いったいなんなんだよ。気になって気になって仕方がねぇよ。早くしてくれよ)
固く目を閉じたまま待ち続ける山坂浩二。すると、それから一分もしないうちに数歩分の足音が聞こえ、
「おまたせー。もういいわよ」
と、目を開けていいという月影香子のお許しがでたあと、山坂浩二は固く閉じていた目をゆっくりと開けた。
「どう? あたしのエプロン姿は?」
月影香子はその場で一回転してみせた。腰まで届くポニーテールの黒髪が回転に少し遅れて揺れる。
セーラー服の上に黄緑色のエプロン、という格好の月影香子を見た山坂浩二は固まったまま何も言わない。
(やべっ。こ、こんなとき、な、な、なんて言ったらいいんだ?)
今まで女の子と交流する機会のなかった彼は、女性への言葉のボキャブラリーが圧倒的に少ない頭から必死で言葉を探した。
しかし、見つからない。
月影香子は彼を睨みながら目を細めた。
「なに? その反応? あんたねえ、ちょっとは『似合ってる』とか『かわいい』とか言ったらどうなのよ」
両手を腰に当て、少し呆れ顔の月影香子。
山坂浩二は何かに気づいたかのように体をビクつかせると、顔をわずかに赤らめ、本音を口に出す。
「そ、その……す、すごい似合ってる」
すると月影香子の頬は一瞬のうちにして赤くなった。
「もう! いまさら言っても遅いのよこのヘタレ!」
そう言うと、彼女は背中をむけてキッチンへと歩いて行ってしまった。
山坂浩二はカーペットに両手をつけ、月影香子の後ろ姿を見つめながら静かにため息をついた。
(じゃあ、どうしろっていうんだよ。……ほんと、女ってわかんねーな)
山坂浩二の無言の愚痴。
もちろん誰にも聞こえない。
「はあ」
彼は再びため息をついた。
そんな山坂浩二を放置してキッチンへと向かった月影香子は、冷蔵庫から材料を取り出して料理に取り掛かろうとしていた。
ちょっとした仕切りのせいで、山坂浩二からは胸から上しか彼女が見えないが、彼はなんとなく月影香子を見つめていた。
聴いたこともないような曲の鼻歌。
包丁がまな板を叩くときの軽快なリズム。
揺れるポニーテール。
いつのまにか山坂浩二は、キッチンで作業をしている月影香子から目が離せなくなってしまっていた。
見ていると心地よかった。
自然と頬が緩む。
そして、何度か彼女と目が合ったが、月影香子は視線が山坂浩二と合う度に微笑みをこちらに送ってきた。
しばらくすると、包丁とまな板が織り成すリズムは聞こえなくなったが、そのかわりに換気扇の音が部屋を満たしてきた。
そして、なにかを炒めるような音が山坂浩二の耳に届いてくる。
(なに作ってんだろうな。うわぁー、なんか香ばしい匂いがしてきた。ああ、落ち着かねー)
山坂浩二の“ごちそう”への期待はますます膨らんでいった。
しばらくすると、何かを炒めるような音も聞こえなくなり、月影香子もキッチン内を動き回り出した。
そして換気扇の音もしなくなった。
月影香子はなにか重いものを持ち上げるような動作をすると、キッチンからこたつへと向かい始めた。
(ん? なんだあれ?)
山坂浩二は月影香子が持っているものを凝視した。
大皿の上で、なにかが山を成している。
(あれ? なんか、イメージと違うぞ……)
山坂浩二が月影香子の料理を眺めていると、月影香子は両手に持った大皿をこたつの上にドン! と置いた。
山坂浩二は“ごちそう”を間近に見る。
……やきそば?
ごちそうを見つめる山坂浩二を無視して月影香子は、
「ちょっと待ってて。お皿とお箸とコップ持ってくるから」
と言い残して再びキッチンへと歩き出した。
「そうそう。飲み物は水でいいよね?」
彼女はそう言いながらエプロンを外してハンガーに掛け、悠々とキッチンへと足を踏み入れた。
その間、山坂浩二は我が目を疑っていた。
なにかの見間違いだろうと思って目をこすってみるが、何度やっても目の前にあるのは大量のソース焼きそばだった。
「……」
言葉を失う山坂浩二。
彼が固まっている間に、月影香子は食器を乗せたお盆を持ってキッチンからこちらへと歩いてきた。
「おまたせー、って、どうしたの浩二?」
彼女は立ったまま、水入りのコップと普通サイズの皿と箸を二つずつこたつの上に並べながら尋ねた。
お盆もこたつの上の隅に置いた。
そして彼女はその場に座り、うなだれたまま固まっている山坂浩二をまっすぐに見つめ始めた。
「どこか具合でも悪いの?」
月影香子がきょとんとした様子で尋ねると、山坂浩二はこうべを垂れたまま、
「やきそばっておまえ……やきそばだけっておまえ……」
彼は顔を上げ、
「俺がどれだけ期待したと思ってんだよ香子!」
キレた!
すると、思わぬクレームをつけられた月影香子は両手でこたつのテーブル部分を叩いて膝立ちになり、
「だけってなによダケって!」
目の前にある山盛りのやきそばを指差し、
「ほら! ちゃんとモヤシとかキャベツとか、それにお肉だってこんなにあるんだよ!? そなえつけの紅ショウガだってあるんだからね!」
料理紹介!
山坂浩二は反撃しようとしたが、これ以上文句を言うと昼ご飯を取り上げられてしまうと彼は考え、さらに月影香子との関係に亀裂が入ってしまうと彼は予測し、それだけは絶対に避けたいと思った彼は、
「はいはいわかった。じゃ、いただきます」
と潔く降伏を宣言した。
すると、さっきまで眉間にしわを寄せていた月影香子もまた、山坂浩二と同じようなことを考え、表情を緩めた。そして彼女は、腰を下ろしてこたつの中に両足を入れた。
「そうよね。冷める前に食べちゃわないとおいしくないわよね」
月影香子はそう言うと両手を顔の前で合わせて、
「いただきます」
と食事の始まりを宣言した。
しかし、二人とも両手を下ろした状態から動かない。
お互い、相手が食べ始めた後に自分も食べ始めようと思っていたため、二人は動かず、部屋に沈黙が訪れた。
「……食べないのか?」
山坂浩二が沈黙を破った。彼はまだ動かない。
「……浩二こそ。てか浩二から食べなさいよ! あんた今お客様なのよ! ゲストなのよ!」
月影香子も譲らない。
二人は睨み合う。
しばらくすると、山坂浩二が先に折れて、
「はいはい、わかりました」
と言い、取り皿にやきそばをしぶしぶ乗せた。そして、五本ほど麺を箸でつまんでゆっくりと啜った。
そして噛む。
月影香子は固く握った拳を膝にのせてまっすぐに山坂浩二を見つめ続ける。彼女は唾を飲んだ。少し緊張しているようだ。
山坂浩二は口の中にあるものをある程度噛み終えて飲み込むと、取り皿の上のやきそばをまじまじと見つめ、
「……うまいな、これ」
「でしょ!? でしょ!?」
月影香子は目を輝かせた。
「う、うん」
「やったあ! 浩二に喜んでもらえるなんて、苦労して作ったかいがあったわぁ」
「あ、う、うん」
山坂浩二はほんのわずかに顔を赤らめた。
「じゃ、あたしも食べるとしますか!」
月影香子はお箸と取り皿を手にとって、大皿からやきそばを取り皿に移し始めた。やがて彼女の皿でもやきそばが山を成した。
月影香子は豪快にやきそばを口に入れ、しばらくの咀嚼の後、飲み込むと、山坂浩二の目の前で笑顔を見せた。
「うーん、おいしい!」
そして、二人は特に会話もなく目の前の大量のやきそばを食べることに専念した。
「ごちそうさまでした!」
山坂浩二と月影香子は顔の前で両手を合わせ、口を揃えた。目の前の大皿の上にはもうなにものっていなかった。
「ちょっと食べ過ぎたかな」
「そうよね。あたしもお腹いっぱいだわ」
彼らは二人揃ってお腹をさする。
山坂浩二は満腹感で幸福そうな顔をしている月影香子を一瞥した後に空になった大皿を眺めながら、
(……ったく。俺の十倍は食べやがって。どこのソネだよこいつ)
と思いながらカーペットに両手をつけた。
すると、
「あ、浩二。あたしお茶入れてくるね」
月影香子はそう言って立ち上がり、背中を向けてキッチンへと歩き出した。
しばらくすると、月影香子は二つの湯呑みを持ってこちらに歩いてきた。意外と渋いデザインの湯呑みからは湯気がひっそりと立ちのぼっている。
「はい、おまたせ」
彼女はこたつの上に湯呑みを置いた。
「あ、ありがとう」
「いいのよ、これくらい」
月影香子はこたつに足を入れると、湯呑みを両手で持ってお茶をすすった。山坂浩二も湯呑みをしっかりと両手で持ってお茶を飲んだ。
二人がお茶を飲み終わると、月影香子はこたつから足を出して立ち上がり、山坂浩二のもとへ歩き出した。
「ねえ浩二」
「な、なんだよいきなり」
山坂浩二は顔を赤らめる。月影香子は丈の長いスカートのポケットから赤色の携帯電話を取り出すと、
「写真撮るわよー」
と言って山坂浩二のそばに座り、彼の肩に腕を回した。そしてその手でVサインを作り、もう片方の手で携帯電話を前に突き出す。
「えっ、えっ?」
山坂浩二は突然のことに戸惑った。月影香子の体が自分に密着しているせいか、頭が正常に動作しない。
「ほら、笑って笑って」
月影香子はそう言うと笑顔を作ったが、山坂浩二は下手に笑おうとしたために呆れ顔のようになってしまった。
「ハイ、チーズ!」
月影香子はシャッターを押した。
「ファぁ!」という意味不明なシャッター音が部屋中に響いた。
「なぁんてことが……あったんだよな」
山坂浩二は、携帯電話の液晶画面に映る、その時に撮った写真を眺めながら二日前の回想を終えた。
「それで、あの後はアドレス交換をして一緒に宿題やって一日が終わり、その次の日、つまり昨日の日曜日はあいつの家で勉強会やったり、あと、満月の夜はあいつが俺ん家に泊まったりしたっけ……」
そう呟くと、山坂浩二は携帯電話を閉じてズボンの左ポケットに入れ、両手をポケットに突っ込んで空を見上げた。
「……って」
するとなにを思い出したのか、ただ空を見ているだけの山坂浩二の顔がみるみる赤く染まっていく。
そして、
「わああああああああああああああ!!!」
叫び出した!
そして彼は回れ右をして、今までもたれ掛かっていた朱い柱に両手をつけて頭を何度もぶつけ始めた。
「これじゃまるで俺と香子がカ、カ、カップルみたいじゃねぇかよ! わああああ!!」
山坂浩二は頭を柱にぶつけながら叫び続ける。
すると、彼の背後で自転車のベルのような高い音が鳴った。山坂浩二はふと我に返り、顔を後ろに向けた。
そこには、かなり年季の入った自転車にまたがった年配の男性が山坂浩二を見つめながら止まっていた。
「兄ちゃん」
その人は自らのこめかみを指差し、
「ここ、大丈夫か?」
と言って去っていった。少し遠くでさっきと同じベルの音がする。
「……」
朝っぱらから自分の発狂した姿を他人に見られた山坂浩二は、あまりの恥ずかしさになす術もなく、両手を柱につけた状態で固まる。
つまり、放心状態。
しばらく彼がそのままでいると、
「あー! いたいたー! 浩二ー! おはよー!」
という、女の子の元気な声が未来橋の向こう側から聞こえてきた。その声で山坂浩二は我に返り、声のしたほうに体を向けた。
彼が見る方向には、通常のジョギング程度の速さでこちらに向かってくる一人の女の子の姿があった。
紺色のセーラー服。黒の学生鞄。白いソックスに白いスニーカー。そして、ポニーテールにまとめられた腰まで届く黒髪。
その少女はやや大袈裟に手を振りながら橋を渡ってくる。
「あ! きょ、香子……。お、おはよ」
近くまで来たその少女、月影香子に山坂浩二は挨拶を返す。
彼女は山坂浩二のそばまで走ってくると足を止めて腰をわずかに低くした。そして両手を顔の前で合わせて左目を閉じる。
「ごめんね。ちょっと遅くなっちゃった」
「いいって、いいって。というより全然遅れてないから! 大丈夫大丈夫」
「そう? じゃあ」
月影香子は腰を伸ばし、両手を体の横に戻して山坂浩二に笑顔を向ける。
「行こっか!」
「お、おう」
二人は横に並んで歩き出した。
特に会話のないまま二人は歩いていく。女の子との登校は初めてなので、山坂浩二は緊張していて話しかける余裕はない。
一方、月影香子は微笑みを浮かべて前を向いているだけだった。彼女も彼女なりに緊張しているのかもしれない。
山坂浩二は横目で月影香子を見た。
(そういやぁ、なんで香子は平気な顔して俺に近づけるんだ? こんなに近くに居続けられるのは香子だけだし……)
山坂浩二は月影香子の笑顔に引き付けられるように彼女を見続ける。
(それに、こんなにも好意的? に接してくれる理由がわからない)
山坂浩二の顔が段々と月影香子のほうに向いていく。
(やっぱり、退魔師としてのパートナーだからか? だとしても度が過ぎて俺にはもったいないくらいだよな。……十年前の俺は、それに見合うくらいのことをしたのか?)
わからん、と山坂浩二が心の中で呟くと、月影香子は彼が自分に顔を向けていることに気がつき、
「ん、なに? どうしたの?」
と言いながら山坂浩二に顔を向けた。
二人の顔が急接近した。
端整な顔立ちをした月影香子が、どことなく幼さを感じさせるその目で山坂浩二の双眸を見つめる。
山坂浩二の顔が徐々に赤くなっていく。
「なにか顔についてるの?」
月影香子が尋ねると、山坂浩二は彼女から顔を背けた。彼の顔はトマトのように赤く染まっている。
「い、いやあ。なんでもないなんでもない」
「そう? じゃあいいや」
月影香子は再び前を向いた。
山坂浩二は顔から熱が引いていくのを感じながら、赤くなった自分の顔を彼女に見せずに済んだことにそっと胸を撫で下ろした。
そして二人は再び無言となり、そのまま歩き続けた。
高原高校。そこは山坂浩二と月影香子が通う県立高校で、県内公立高校トップの進学校である。しかし、進学者が多いだけで全国的に見れば普通の学力レベルなので驚くことはない。文系クラスと理系クラスにわかれていて、一組から四組までが文系、五組から七組が理系で、文系理系の区別は入学出願時に決まっており変更はできない。ちなみに月影香子は文系クラスの一組、山坂浩二は理系クラスの五組である。
校内土足の高原高校に二人が足を踏み入れると、月影香子は山坂浩二に顔を向けて彼に話しかけた。
「そうだ。ねえ浩二。今日、食堂でお昼ごはん食べない?」
山坂浩二は彼女に少しだけ顔を向ける。
「え? でも俺弁当あるし」
「持ち込みオッケーだから大丈夫よ」
二人は中央階段を上り始める。
「でも……」
「いいからいいから」
山坂浩二はしばらくなにも言わなかったが、階段を上り終えて少し歩いたところで小さくため息をついた。
「わかったよ」
「じゃ、決まりね。お昼休みが始まったらすぐにこの場所に集合ね。いい?」
「わかった」
山坂浩二は頷く。
「うん、じゃあまた、お昼休みね」
「おう」
二人はお互いに背を向けてそれぞれの教室へと歩き出した。すると、
「忘れないでよ! 絶対だからね!」
と、山坂浩二の後ろの少し離れたところから月影香子の声が聞こえた。
(……はいはい)
山坂浩二は前を向いたまま心の中で返事をし、自らの教室である一年五組に向けて歩こうとした。
しかし、
「げっ!?」
彼の目に映ったのは、一年五組の入り口から顔を出す二人の男子生徒、彼の昼食仲間である永山と村田だった。
二人ともくせ毛以外にこれといった特徴はなく、初対面の人ならば一卵性双生児かと思ってしまうほど外見が似ている。
二人はハンカチをくわえながら山坂浩二を見つめ、
「そ、そんな……」
「ひ、ひどい……」
二人は口々に言った後、
「この裏切り者ー!!」
と叫んで教室から飛び出し、どこかへ走り去った。
面倒なやつらに見られてしまったなあ、と『理系男子最後の希望』と言われていた山坂浩二は思いながら、左手を頭に当てて深いため息をついた。
そして、彼が歩き出そうとすると、彼の背中に誰かがぶつかったような感覚がした。
「邪魔」
山坂浩二にぶつかったと思われる人物はそう言い残して彼のそばを通り過ぎていく。
山坂浩二より頭一つ分は低い身長。肩にぎりぎりかからないほどの長さの髪。紺色のセーラー服に校則を無視した丈の短いスカート。短い白のソックスとスニーカー。
「や、柳川さん!?」
山坂浩二は素っ頓狂な声を上げる。
柳川と呼ばれた女子生徒は教室のスライドドアを開けると、横目で山坂浩二を睨みつけて教室へと姿を消した。
自分に近づくことのできる数少ない女の子である柳川友子から睨まれたことに、山坂浩二は目を丸くして、
「えっ、俺、なんか悪いことした?」
と呟き、うなだれて、
「……もう、やだ」
と言って教室へと足を踏み入れた。
彼が教室へ入ると同時に朝の予鈴が校舎内に響き渡った。