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ムーン・ライト  作者: 武池 柾斗
第一章 覚醒編
10/95

第九話 約束の時

「……やっぱり。やっぱりあんただったのね。この霊力」

 月影香子は左半身を山坂浩二に向けた。そしてため息をつく。

「なんか損した」

 山坂浩二は月影香子を無言のまま見つめていた。彼女の姿は透け、両手には銀色に光る日本刀が一本ずつ握られている。そしてその日本刀も透けていた。

「浩二?」

「……は、はい」

 月影香子の呼びかけに、山坂浩二はやや間を置いて反応した。彼女は山坂浩二に体を向けて口を開いた。

「見えるんだね。……満月の夜だけ幽霊が見えるっていうのは嘘じゃないんだね」

「……はい、見えてます」

 山坂浩二は返事をした後、

「でも月影さん。それって……」

 なにかを尋ねようとしたが、山坂浩二はその先が言えなかった。月影香子は自らの胸を見下げた後、再び彼に目線を向ける。

「ああ、これ? これが不可視の状態。これで普通の人間に見られることはないし、あたしが言ったこととか、あたしが出した音とかも聞こえない。便利でしょ?」

 月影香子は微笑を浮かべて山坂浩二に問いかけた。しかし、彼はあいまいな笑みを浮かべるだけで何も言わない。

「……なによ? なんか文句あるの?」

「い、いや、ないです。ありません」

 山坂浩二は数回首を横に振りながら否定した。

「ふぅん。あ、でも、あんたがあたしに話しかけても、普通の人には浩二が独り言を言ってるようにしか聞こえないから気をつけて。……まあ、今はいないけど」

 月影香子はため息をつく。

「あと少ししたら悪霊たちがあたしを追ってここにくるから。今、あいつらの強さは別格だから、五分したらあたしは逃げる。まともに戦っても、あたし一人じゃ勝ち目ないからね。それに、女だけじゃあいつらをこの世から消すことはできない。だから、五分の間にあたしの戦いを目に焼き付けておくこと。いい?」

 月影香子はよほど焦っているのだろうか、間を開けずに言った。山坂浩二はわずかに間を置いて、

「……つまり、今の悪霊は強すぎて、存在を消せなくて、女一人じゃ太刀打ちできないってことですか?」

 と尋ねた。月影香子は一度だけうなずいた。

「そう。だから五分だけ。……ちなみに、満月の夜じゃなくても、あたしには逃げるしか方法がないの」

「……やっぱり、存在を消せないから、ですか?」

「そう。浄化できないから」

 月影香子はそう答えると、腰まで届く髪を揺らしながら山坂浩二に背を向けた。彼女は空を見上げる。

「……そろそろ来るわよ」

 彼女の声はやや震えていた。

「見てなさいよ。ちゃんと、あたしが『退魔師』ってことを証明してあげるから。絶対に信じてよね、浩二」

「……は、はい。あ、あの……」

「なに?」

「僕は、悪霊に襲われたりはしないんでしょうか?」

 山坂浩二は寒さと恐怖で体を震えさせながら尋ねた。彼の質問に、月影香子は背を向けたまま答える。

「そんなわけないでしょ。あんた今、あたしより遥かにデカイ霊力持ってるんだから。絶対に襲われない」

「……だ、大丈夫なんですね」

「……多分、ね」

 月影香子は自信をなくしたのか、あいまいな返事をした。

「でも、たった五分だから。大丈夫」

 彼女の言うことに、山坂浩二は小さくうなずいた。

「…………もう、のんきにおしゃべりしてる場合じゃないわね」

 月影香子は空を見上げながら呟く。

 山坂浩二は満月の浮かぶ空を見上げた。すると、月の光に照らされたなにかが、無数の黒い点となって浮かんでいるのが見えた。

 月影香子は夜空を見上げたまま、腰を少し落として二本の刀を構えた。

「…………来る」

 そして、彼女の呟きと同時に。


 黒い点となっていたものが二人に向かって急降下を始めた。


 山坂浩二と月影香子はその集団を凝視する。やがて黒い点にみえていたものたちの姿が明らかになった。

 人型。赤く光る目。服のようなものは着ておらず、全体的に黒色をしている。両手の指の先からはかぎ爪が生えていて、この世のものとは思えないほど歪んだ表情をしていた。

 山坂浩二は震え上がった。

(こ、これが悪霊。……まさか、月影さんは本当にあんなのと戦うのか!?)

 彼は月影香子の後ろ姿に目線を移した。冷たい風によって腰まで届く黒い髪が揺れている。彼女は構えを崩さない。

 そして、五階建ての建物ほどの高さまで悪霊たちが降りてきた。月影香子は腰をさらに落とし、地面を蹴って跳び上がった。

 彼女は悪霊たちと同じくらいの高さまでたどり着くと、目の前にいた人型の悪霊を右手の日本刀で外から内へと横一文字に切りつけた。

 悪霊の身体から黒いものが、まるでそれが血であるかのように噴き出す。

 しかし、悪霊はその姿を揺らがせただけですぐにもとに戻った。そして再び月影香子にかぎ爪を突き立てようと襲い掛かる。

 月影香子はその悪霊の右手を霊力で作った左手の日本刀で受け止め、それを力づくで払いのける。

 そして、彼女を取り囲んでいた悪霊たちを右手の日本刀で一斉に薙ぎ払った。その後すぐに右方向に空を翔ける。

 五、六体ほどの黒い姿が切り口を中心に揺らいだが、すぐにその姿を整えて月影香子の後を追い始めた。

 月影香子は空中で急停止すると、右後ろに体をねじり、右手の日本刀で追ってきた悪霊たちを横一文字に切り伏せる。

 そして、姿が揺らいでいる悪霊の間を猛スピードで突破する。すれ違いざまに彼女はそれらを両手の日本刀で切り払っていった。


 山坂浩二は見とれていた。

 月影香子と異形のものたちが繰り広げる、満月を背景にした空中戦に。そして、空中を縦横無尽に翔ける月影香子に。

「……すごい」

 山坂浩二の口から思わずため息が出る。

「……月影さん、……本当に空を飛んでる。本当にあの刀で戦ってる」

 彼は空を翔けながら二本の刀を振るう月影香子を眺める。すると、彼は彼女の周りにいる悪霊の数が減るどころか増えていることに気がついた。

 戦いの始まりに比べて、月影香子が攻撃を防ぐ回数が増えている。

「……月影さんだけじゃ無理なのか。……あいつらを消すことはできないのか」

 山坂浩二は拳を握りしめた。

 自分はただ見ることしかできない。

 何もできない。

 それが悔しかった。


 月影香子の周りには、始めに比べて約二倍の数の悪霊がいた。それらは切っても切っても消滅せず、距離をとったところでまた別の悪霊が前に現れる。

 もう、彼女から攻撃を仕掛けることはできなくなっていた。

 防戦一方。

 月影香子は悪霊の攻撃を片手の日本刀で防ぎ、もう片方の日本刀で切った後、距離をとる、ということを繰り返していた。

 疲労の色が見えてきた。

 彼女は息を切らす。

 また悪霊の攻撃が彼女を襲った。二体同時攻撃。彼女は両手の日本刀でその攻撃を防ぐ。しかし、逃げられない。

 それらの腕を払いのけた直後、二体の間からもう一体の悪霊が彼女に向けて突進してきた。

 防御が間に合わない!

 その悪霊の拳が月影香子の腹部に直撃した。

 強烈な一撃!

 耐え切れず、彼女はビル五階建ての高さから真っ逆さまに落下を始めた。

「月影さん!!」

 山坂浩二は叫んだ。

 しかし、月影香子は頭を地面に向けたまま落ちてくる。

 もうだめだ!

 山坂浩二はきつく目を閉じた。

 しかし、月影香子は地面からわずか二メートルほどのところで後方宙返りをして両足から着地した。彼女は地に足をつけて体勢を立て直す。

 山坂浩二は目を開けた。

「月影さん! 大丈夫ですか!?」

 山坂浩二は月影香子のもとに駆け寄った。しかし彼女は山坂浩二に顔を向けない。腰まで届く黒髪を風で揺らしながら空に浮かぶ悪霊を睨み続ける。

「うるさいわね。今の浩二に心配なんかされたくないわよ」

 彼女はそう言い残し、空に向かって再び跳び上がった。月影香子の前に異形のものが立ち塞がるが、彼女はそれを右手の日本刀で切りつける。

 その直後、二十体ほどの悪霊が彼女を取り囲んだ。

 そして一斉に襲い掛かる! 

 月影香子は咄嗟の判断で遥か上空を目指して、上方向に飛んだ。上がる。上がる。山坂浩二からは黒い点にしか見えなくなるところまで上がる。

 悪霊たちも彼女を追う。

 月影香子は上昇をやめ、振り向いた。両目を閉じ、呼吸を整える。満月に照らされた黒髪が風で揺れる。

 一瞬の静寂。

 彼女は目を開ける。

 そして、日本刀を持った両手を真横に広げ。

 急降下!

 彼女を追って上昇していた悪霊たちに向かって、月影香子はただ突き進むのみ。

 そして、彼女と悪霊の集団が衝突!

 彼女の二本の刀が、悪霊たちを容赦なく分断していく。

 それらの姿が大きく揺らぐ。

 月影香子は悪霊の集団を突破した後も降下を続け、やがて山坂浩二の前へと降り立つ。彼女は息を切らしている。

「浩二」

 彼女は山坂浩二の目を見つめる。

「は、はい」

「あたしもう逃げるから。あんたはさっさと家に帰りなさい。もう信じたでしょ。あたしが退魔師ってこと」

 山坂浩二はうなずいた。

「はい。……今まで疑ってすいませんでした」

 彼は頭を下げる。

 月影香子は微笑んで、

「いいのよ、べつに」

 と言ったが、ため息をついた。

「まあ、ほんとは浩二も退魔師なんだけどね。女と男の両方の霊力をもった、普段は霊力最弱、満月の夜だけ霊力最強のね」

 月影香子は山坂浩二を見つめて言った。彼は何も言わない。

「バイバイ。浩二。……また、今度」

「……さようなら。月影さん」

 山坂浩二は手を振らない。ずっと月影香子を見つめていた。

 彼女は髪を揺らして山坂浩二に背中を向けた。満月の浮かぶ夜空を見上げる。彼女の視線の先では、悪霊たちがうごめいていた。

 月影香子は顔を下げた。

「……浩二」

 彼女は右半身を山坂浩二に向けながら言った。

 二人の目が合う。

 一瞬の静寂。

 そして……。


「浩二!!」


 月影香子は叫んだ。

 山坂浩二は、なぜ彼女が自分の名前を叫んだのかがわからず、眉をひそめながら月影香子を見つめる。

「後ろ!!」

 月影香子は叫ぶ。山坂浩二は顔を後ろに向けようとした。

 しかし。

 彼は背中になにかの衝撃を感じ、続いて胸の辺りが熱く感じた。口から温かいものが溢れてくる。彼は自らの胸を見下ろした。


 …………腕?


 腕のようなものが生えていた。

 それは指先に長い爪を持ち、腕全体が赤い色をしている。

 それが、学生服の第二ボタンを飛ばし、服の間を通って自分の胸から生えていた。


 ……生えている?

 違う。これは。

 貫通している。

 背中から胸へ、と。

 体を突き破って。


 山坂浩二はその腕を、信じられないといった目で見下げる。口から赤黒い液体が勝手に流れ出てくる。


 声が出ない。

 胸が熱い。


 山坂浩二は顔を上げて少し離れたところにいる、月影香子に目を向けた。

 彼女もまた。

 信じられないといった目で彼を見つめていた。

 山坂浩二は思う。


 例えどれだけ力を持っていたとしても。

 使えないのならば。

 戦えないのならば。

 意味がない。

 だから。

 そんな自分を誰かが。

 襲ってみようという気になっても。

 不思議じゃない。

 だから自分は襲われたんだ。と。

 今の自分は。

 悪霊にとって。

 ただの御馳走でしかないのだ、と。


 山坂浩二の胸から腕が引き抜かれた。

 口から血が溢れ出る。目の前の景色が霞んでいく。山坂浩二の体からは完全に力が抜け、ゆっくりと地面に膝をついた。

 彼は不明確な視界の中でも月影香子を見つめる。彼女もまた、山坂浩二を見つめたまま立ち尽くしていた。

 山坂浩二は月影香子の姿をその目に焼き付けようとする。


 死ぬことはわかっていた。

 もう、生きられないのはわかっていた。

 でも。

 なぜか。

 最期の最後のまで彼女を見ていたかった。

 目が離せなかった。


 しかし。彼の体は重力に従って地面と接触した。うつぶせの状態になり、もう顔を上げることもできない。

 力が入らない。

 それでも山坂浩二は。

 意思の力で右手を動かし、月影香子へとその手を伸ばす。

 少しでも二人の距離を縮めようと。


 せめて最後に。

 彼女に触れたかったから。


 彼女の手に。

 触れたかったから。


 だが。その願いは叶わなかった。

 彼の腕は重力に逆らえずに地面に落ちた。

 もう。動けない。

 意識が薄れていく。

 そして。

 月影香子の絶叫が聞こえた。

 長い。長い絶叫。

 だが。もうそれさえも聞こえなくなっていく。

(……つ、き、か、げ、さん……)

 彼は心の中で彼女の名前を呼んだ。

 それを最後に。


 山坂浩二の意識は途切れた。










 暗い。

 暗い海の底にいるような感じ。

 どっちが上かもわからない。

 ここは…………どこだ?

 …………ああ、そうか。

 俺は死んだんだ。

 胸に穴が空いて死んだんだ。

 悪霊に殺されたんだ。

 今まで幽霊が見えても襲われることなんてなかったのに。

 …………違う。

 幽霊に襲われることがなかったから、

 俺は今まで生きてこれたんだ。

 襲われたらその時点でもう死んでる。

 実際、死んでるし。

 …………なるほど。

 だからか。

 だからあんなに幽霊が怖かったんだ。

 襲われたら死ぬことが本能的にわかっていたから怖かったんだ。

 だから俺、山坂浩二は死んだんだ。

 でも。

 やっぱり。


 もっと生きていたかった。


 人生の終わりがこんなにも唐突に訪れるなんて。

 ……最悪だよ。

 人生を振り返って、その振り返った人生を噛み締めながら最期を迎えたかった。

 ……もっとも。


 噛み締めるほどの人生じゃないけどね。


 目覚めたら知らないおばさんが目の前にいた。

 その時俺は六歳だった。

 自分の名前が『山坂浩二』ということしか覚えてなかった。

 両親はいなかった。

 おばさんも積極的に俺に近づこうとはしなかった。

 ……してくれなかった。

 寂しかった。


 小学校に通うようになってから、男友達はたくさんできた。

 楽しかった。

 寂しくなかった。

 でも。

 女の子の友達は誰ひとりとしていなかった。

 みんな、俺に近づかなかった。

 みんな、俺が歩いていると離れていった。

 女の先生も俺に近づこうとはしなかった。

 どの女性も俺に近づこうとはしなかった。


 つらかった。


 ほんとにつらかった。

 理由がわからないから余計につらかった。

 高校生になっても相変わらずだった。

 慣れてても、つらいものはつらい。

 柳川さんが話しかけてきたときは、心臓が破裂するかと思うぐらいびっくりした。

 でも、柳川さんもあんまり長くは話してくれなかった。

 俺に女の子は近寄らないということを改めて感じた。


 付き合ってるやつらを憎む気持ちさえ生まれて来なかった。

 だって。

 いくら妬んだって。

 自分には関係なかったから。

 でも。つらかった。


 満月の夜はもっとつらかった。

 その時だけ幽霊がみえてそれに怯えて。

 みんなのように満月を楽しむこともできなかった。

 自分がわからなくなった。


 今思い出してみると、なんだか記憶が薄い気がする。

 いい記憶がほとんどなくて、悪い記憶ばっかりだ。

 ……だから、記憶が薄いのだろうか。

 人の記憶の割合は、いいものが悪いものより圧倒的に高いらしい。

 ……だから、記憶が薄いのだろうか。

 じゃあ、なんで。


 四日前からの記憶が鮮明に残っているんだろうか。


 月影さんと出会ってから。

 あの人に振り回された。

 振り回され続けた。

 あの人が何を考えているのかがわからなかった。

 正直言って意味がわからなかった。

 なのになんで。

 こんなに覚えているんだろう。


 …………ああ、そうか。


 楽しかったんだ。


 あの人に出会ってからの日々が楽しかったんだ。

 あの人は俺に積極的に接してくれた。

 もう。それだけで十分だよ。

 それだけで楽しかったんだよ。

 あの人が近くにいるとそれだけで。

 暖かくなった。

 心躍った。

 どきどきした。

 この気持ちがなんなのかはわからない。

 だけど。たしかに言えることがある。


 あの人ともっと一緒にいたかった。


 今さら気づいても遅いよな。

 なんで今まで『楽しかった』って気づかなかったんだろう。

 気づけよ、俺。

 気づけよ馬鹿。


 もしかして……これが噂の走馬灯ってやつか。

 たいしたことないな。

 だって俺の人生だもん。

 嫌な思い出ばっかり。

 人生って、いいことと悪いことの割合は同じじゃなかったのだろうか。

 もしかして、これからいいことが沢山あるのだろうか。

 ……あったのだろうか。

 だとしたら心残りがあるよな。

 でも。俺はもう死ぬ。

 ……諦めようか。

 おとなしく運命に従おう。

 ……それでいい。

 結局。俺があの時、ヘンタイどもに追いかけられた時に、月影さんに言おうとした言葉の意味がわからなかったけど。

 なんで俺が女の子に避けられるのかがわからなかったけど。

 なんで満月の夜だけ幽霊が見えるのかは、はっきりとはわからなかったけど。


 ……もう、いいや。


 バイバイ。この人生。

 バイバイ。みんな。


 ……さようなら。月影さん。





 なんだ? あれ。

 ……光?

 なんだろう。

 なんだか俺を包み込もうとしているみたいだ。

 どんどん大きくなっていく。

 目の前が白い光で満たされていく。

 そして、光が俺を飲み込んだ。










 夕日に照らされ、俺は坂道を上っていく。

 道は褐色の土からできていて、道の両側には少し丈の高い草が並んで生えている。そして草の向こうには木々が乱立している。

 どこだろう、ここは。

 …………山の中か?

 俺は首を動かそうとした。しかし、動かない。他の場所も自分の身体のはずなのに、思った通りには動かない。それに、手足も短い気がする。

 夢のような感じ。

 俺の身体は、俺を無視して坂道を上っていく。



 やがて平らな場所にたどり着いた。

 褐色の部分が円形に広がっていて、中央には幹が太く背の高い木が一本、堂々と立っている。広場は草と木に囲まれている。

 そして、その大きな木にもたれ掛かって立っている、一人の少女がいた。五歳ぐらいだろうか。あと、髪は腰ぐらいまである。彼女はうつむいている。


 どこかで見たような気がする。


 俺は彼女に向けて歩いていく。

 その少女と二メートルほど離れたところまで来ると、俺は歩くのをやめた。

「……きみが、つきかげきょうこ?」

 俺の口から出た音は、女の子のように高かった。

 少女は顔を上げて俺を見る。

「……やまさか、こうじ?」

 少女は尋ねた。

「そうだよ。よぶときはしたのなまえでいいからね」

 俺は答えた。すると、少女は木にもたれ掛かったまま後ずさりを始めた。怯えたように彼女は頭を左右に振る。

「い、いや。……こないで」

「どうして?」

 俺は少女との距離を詰める。彼女は後ずさりを続けたが、足がもつれたのだろうか、尻餅をついた。

 少女は褐色の土に両手をつけ、怯えたように俺を見上げる。

「……だ、だって。あなた、みんながあなたをまものだっていってる。……まんげつのよるだけ……つよくなるから」

 彼女は震える声で言った。

「……ぼくは、まものじゃないよ。にんげんだよ? それに、つよくなるのはあのときだけ。いまはさいじゃくだよ?」

 俺は続ける。

「それに、きょうこだってつよいんでしょ? おとなにまけないくらいつよいんでしょ? なんでこわがるの?」

「……だって……あなたもわたしを、いじめるつもりなんでしょ?」

「……なんで、そうおもうの?」

「みんなが、わたしをいじめるから」

 彼女の目に、涙が溜まる。

「……それじゃあ、きょうこもぼくをいじめるつもりなの?」

「な、なんで?」

「だって、ぼくもいじめられてるよ。むらのみんなにきらわれてるよ?」

「……あ、あたしだって」

「それに、おとうさんも、おかあさんも、おにいちゃんもいないよ」

「……あ、あたしだって」

「ぼく……すごくさみしいんだ」

「わ、わたしもさみしい」

 俺達の間に、つかの間の静寂が訪れる。


「ぼくね、きょうことペアになれっていわれてうれしかったんだよ」

「な、なんで?」

「……ひとりぼっちじゃなくなるから」

「……それだけ?」

「うん。きょうこはどうおもったの?」

「…………こわかった」

「はは、やっぱり」

 俺は頭をかいた。

「ねえ、きょうこ?」

「……なに?」

「そのかみ、きれいだね」

 俺がそう言うと、少女は顔を赤らめて俺から顔を背けてしまった。彼女は無言のまま、大木と地面の境目を見つめている。

「ねえ、きょうこ?」

 俺は名前を呼んだが、少女は反応しない。俺は一呼吸置いた。


「ぼくと、ペアになってくれるかな?」


 少女は顔を上げた。驚いたような顔をして俺を見つめている。

「……あ、あたしなんかで、いいの?」

「うん。『たいまし』、がんばろうよ」

「ほんとに? いいの? わたしでいいの?」

「いいよ。ずっといっしょだよ。きょうこ。いっしょにいてあげるよ」

 俺は彼女に手を差し延べた。

「……あ、ありがとう」

 少女は両目から涙を流し始めた。さっきまで地面についていた両手を離し、土をはらって服の袖で涙を拭った。

 そして、彼女は俺の手を掴んだ。

 立ち上がった。俺と同じぐらいの身長だった。

 俺達は見つめ合う。

「……よろしくね。きょうこ」

「よろしく。…………こうじ」

 少女は少しの間うつむいた。そして顔を上げて俺の目を見つめる。

「ねえ、こうじ?」

「なに?」

「……ずっといっしょにいてくれるんだよね?」

「うん」

 少女は笑みを浮かべる。

「約束だよ」

「うん。約束する」

 俺達はお互いの手を握って、見つめ合った。






 暗転。






 目の前には褐色の平らな道、右側には田んぼが広がり、左側には木々が並んでいる。辺りは夕日に染まり、ヒグラシの心地よい鳴き声が聞こえてくる。

 なんだろう。地に足がついている感じがしない。誰かが俺をおんぶして歩いているんだろうか。体が揺れている。

 ……また。夢なのか。

 いや、記憶かもしれない。

 夢にしては鮮明だし、記憶だったら動こうとしても動けないことの理由になる。よくわからないけど。

 多分、記憶だと思う。

 さっきのやつも記憶なんだろう。

 そんなことを考えていると、いつの間にか俺を背負っている人の頭に目線が動いていた。つやのある黒い髪が頬に触れる。

「……ったく、ほんとになさけないわね。こうじ」

 俺をおんぶしている人はそう言った。だいたい五歳ぐらいだろうか。

「……だって、まんげつじゃないもん」

 俺の口から言葉が発せられた。やはり女の子のように高い声だった。

「だから、そういうとこがなさけないの」

「……だって、ぼく、よわいもん」

「はあ。だいたい、なんであんなやつらなんかにまけてるの? あいつらだってよわいじゃないの」

「……きょうこはつよいから。……そんなことがいえるんだ」

「うるさい。よわいこうじがいけないの」

「……だって」

「だってじゃないの。あたしがきたから、こうじはたすかったんでしょ?」

「……う、うん」

「なんでしかえししないの? こうじがよわいから、みんなこうじをいじめるんでしょ? あたしはしかえししたから、みんないじめなくなったよ」

「……でも、きょうこは、おとなにおしおきされたんでしょ?」

「あれはいいの。あんなの、たいしたことない」

「でも、きょうこ、ないてたよ」

「……あれは、……こうじがきてくれて、うれしかったの」

「ぼくがくるまえからないてたよ。いっぱいけがしてた」

「ああ、うるさい! いいでしょ。べつにないたって!」

「……う、うん」

「だいたい、こうじも、きょう、ないてた」

「……う、うん」

「なんにんいたっけ。じゅうにん? そいつらにやられてた。こうじはないてただけだったじゃない」

「……だって、ぼく、よわいから。しかえしなんてできないよ。きょうこみたいにつよくないんだから」

「はあ」

 俺を背負っていた髪の長い少女は膝をまげて腰を落とし、俺を背中から下ろした。地に足がつく感じがした。

 少女は腰まで届く髪を揺らしながら振り向き、俺と向かい合う。

「いい?」

 少女は右手の人差し指を顔の横で突き立て、左手を腰に当てて言った。

「こうじはよわいからいじめられるの、わかる?」

「……う、うん」

 少女は右手を降ろす。

「だったら、つよくなっちゃえばいいのよ」

「え?」

「こうじがつよくなれば、みんな、あたしたちをいじめなくなる」

「む、むりだよ」

「どうして?」

 少女は眉をひそめた。

「……だって、ぼく、れいりょくは、さいじゃくなんだよ。まんげつのときぐらいしかつよくなれないんだよ」

「……はあ」

 顔を少し下に向けて、少女はため息をついた。

 そして、再び俺と目を合わせる。

「れいりょくだけがつよさだって、かんちがいしてない?」

「……そうじゃないの?」

 少女は首を左右に振る。

「ぜんぜんちがうわ。たたかいかたとか、きもちとかがたいせつなの」

「そ、そうなの?」

「そうよ。だから、こうじもつよくなれる」

「ほ、ほんとに?」

「それに、こうじだけのちからだってあるでしょ?」

「え? なにそれ。わかんないよぉ」

「あんたねぇ、じぶんのことなのにおぼえてないの?」

「……わかんない」

「はああぁ」

 目の前の少女は大きくため息をついた。

「……おとことおんなのちから。どっちもつかえるんでしょ?」

「あっ。そうだね。……でも、よわいよ」

「ちからのつよさはかんけいないの。どっちもつかえるなんてひきょうよ」

「そう……かな」

「そうよ。こうじはつよくなれるんだから。ぜったいにつよくなれるんだから」

「……ほんとに?」

「うん。だから……」

 少女は両手で俺の右手を包み込む。そして、俺の目を見つめて微笑んだ。俺の心臓は動きを早め、その鼓動は全身に伝わっていった。

「まんげつのよるじゃなくてもつよくなって」

 少女は俺を見つめ続ける。

「あたしをまもれるくらい、つよくなって。ふたりでたすけあえるくらい、つよくなって」

 少女は目線を下げた。

「……おねがい」

 しばらくの間、無言のまま俺は立ち尽くしていた。

 そして。

「うん。わかったよ。きょうこ。ぼく、がんばってつよくなるよ」

 少女は目線を上げ、対等な高さで俺の目を見る。

「ほんと!?」

「うん。やくそくするよ」

 少女はにっこりと笑った。

「やくそくだよ。こうじ」

 少女の笑顔は、幼い俺の心を引き付けていた。






 暗転。






 夜空に満月が浮かび、辺りは青い光に包まれている。目の前には、桜の咲き誇る山が見えている。

 ……また、記憶か。

 俺はそう思いながら首を動かそうとしてみた。しかし、動かない。やはり、自分の身体を自分の意思では動かせないみたいだ。

 でも、感覚はある。

 感情もある。

 なにか棒のようなものを俺は右手で握っている。

 あと、よくわからないが、身体から溢れ出してしまいそうなほど大きな力が、今の俺に宿っている感じがする。

 ……そしてなぜか。

 悲しい気持ちがした。

 それだけじゃない。

 怒りも感じる。

 憎しみも感じる。

 何かの使命感を感じる。

 そして。


 誰かへの罪悪感で胸がいっぱいだった。


 俺は一歩、前へ進んだ。

 すると、なにも持っていない左手を誰かに掴まれた感じがした。しかし、俺は前を見続けていた。

 罪悪感が、更に増した気がした。

 俺の後ろから、啜り泣く声が聞こえる。

 ……多分。女の子のものだろう。

 聞き覚えのある声だった。

「……うぅ……ひっく……い、いかないで」

 俺は左腕を引っ張られた。身体は動かない。

「……いかないで。……おねがいだから……ひっく……いかないでよぉ」

 だめだ。

 俺はそう思った。

「こうじがいくんだったら、わたしもいっしょにいく。……だから……おいてかないで。……ひとりでいくなんてだめだよぉ」

 俺の後ろにいる少女は泣きながら、必死に俺を引き止めようとしている。

 罪悪感が込み上がってきた。

 俺は口と目を固く閉じた。そして、開いた。

「だめだよ。きょうこをつれていくわけにはいかない。きょうはまんげつだから、むらはぼくがまもらなきゃ」

「だめ! いかないで! いくんだったらあたしもいく!」

 少女は叫んだ。俺の目から、涙が出そうだった。

「だめだよ。きょうこがきたら、ぼくはきょうこをまきこんじゃうから。あぶないから。……こないで」

 俺は必死に涙を堪えていた。

「そんなんだったらこうじもあぶないよ! おねがいだから! あたしをつれていって! いかないで!」

 少女は泣き叫んだ。

 俺は一度目を閉じた後、左手を掴まれたままゆっくりと後ろに振り向いた。見慣れた少女がそこにいた。

 その少女は涙目で俺を見つめていた。俺を引き止めようと、俺の左手を握り締めながら見つめていた。


 胸が締めつけられる思いがした。

 苦しかった。


 俺は、少女の小さな両手を振りほどいた。彼女の顔を見ないように、俺は目を閉じて彼女に近づいていく。

 右手に握っていた棒のようなものを地面に投げ捨てる。

 そして、少女を抱きしめた。

 力いっぱいに抱きしめた。

「……ごめん」

 俺は少女の耳元でささやいた。

 それ以外の言葉が思いつかなかった。

 俺は彼女から離れた。その直後、俺は左の拳を少女のみぞおち付近に叩きこんだ。彼女は苦しそうに声を上げた。

 そして、少女の身体から力が抜けていくのがわかった。

 崩れ落ちそうな彼女を、俺は抱き留めた。抱きしめた。もう彼女の意識はないだろう。俺は届かないと思いつつも、少女の耳元で口を開いた。

「……ごめん。きょうこ。ぼくはいかなきゃいけないんだ。きょうはまんげつだから、きょうだけぼくはむらでさいきょうだから、ぼくがいかなきゃ」

 俺は少女を力強く抱きしめた。

「……ごめん。きょうこ。……ぜったいにもどってくるから。やくそくする。ぜったい、もどってくるから」

 搾り出した声は震えていた。

 届くはずもないのに。

 でも。


「……やくそく……だよ?」


 少女の声が、聞こえた。

 ほとんど無意識に言ったようだった。

 堪えていたものが溢れ出した。頬が濡れる感覚がする。嗚咽。俺は精一杯の力を込めて少女を抱きしめた。

「……うん……やくそくする」


 そこで俺の視界は闇に包まれた。










 あれ?

 なんだ?

 この記憶。

 なんだろう。

 なんかとても。

 なつかしい記憶。

 失ったはずの記憶。

 謎に包まれた自分の、

 記憶を失う六歳以前の、

 信じられない自分の過去。

 でも。嘘だとは思えないな。

 夢とは思えないほどの明確さ。

 あの視点。あの景色。あの感情。

 月影さんと一緒に生きて行こうと、

 あの時俺は言葉とともにそう誓った。

 でも実際のところどうだったんだろう。

 必ず戻ってくると約束したはずの自分は。

 その後十年間、彼女の事を忘れていた。

 初めて会った時。いや、再会した時。

 あの人はどれほど傷ついただろう。

 十年間捜し求めた自らの相棒が。

 自分の事を忘れていたなんて。

 あのときの彼女の気持ちは。

 馬鹿な俺にはわからない。

 いや、想像もできない。

 強がっていたんだよ。

 あの時は、必死に。

 さとられまいと。

 悲しみを全て。

 自分の中に。

 しまって。

 耐えた。

 ただ。

 俺は。


 気づかなかっただけだったんだ。




 ごめん。

 月影さん。

 交わした約束。

 今思い出したよ。

 


 

 一つ目は『ずっとそばに居ること』

 これは、守れてないね。

 十年間もできてない。

 約束を破った。

 はは。最低。

 俺って。

 最低。




 二つ目は『強くなること』

 ごめん。

 これも守れてない。

 俺はずっと弱かった。

 女の子に避けられて。

 何をやっても平凡で。

 自分をあきらめていた。

 六歳以前の記憶を失って。

 血の繋がらない人に育てられて。

 満月の夜だけ幽霊が見えてしまって。

 そんな自分がわからなくなって。

 ただ、怯えていた。

 それだけだった。

 約束を破った。

 またかよ。

 俺って。

 最低。




 三つ目は『必ず戻ってくること』

 これは、

 今からでも。

 できるんじゃないだろうか。

 死の淵から戻って来ること。

 月影さんのもとに戻ってくること。

 でも、胸にぽっかり穴が空いて。

 出血多量で意識を失って。

 普通の人間にできるか?

 ……無理だろうな。

 でも。仮に、

 俺が。

 退魔師だったなら。

 彼女の言う通りに退魔師だったなら。

 満月の夜だけ反則的に強くなるのなら。

 自己回復能力を使えば、

 可能かもしれない。


 だから俺は願う。


 自分が退魔師であることを。

 自分が退魔師の力を取り戻すことを。

 そして、彼女を助けたい。

 いや、助ける。

 だから。

 どうか。

 月影さんの言うことが。

 本当であってほしい。

 ただ、彼女を助けたい。

 だから思う。


 俺は退魔師。 

 俺は月影さんの相棒。

 俺は男と女の両方の力をもつ退魔師。

 俺は満月の夜だけ最強になる退魔師。

 俺は魔物を浄化したい。

 俺は彼女と共に。

 戦いたい。

 ただ。

 それだけ。

 だから。

 もう一度。

 願わせてもらう。




 俺は退魔師になって。

 あの人を助けたいと。




 強く願う。










 ドクン。ドクン。

 心臓の鼓動が聞こえる。

 なんだろう。この感じ。

 久しぶりのような。

 懐かしいような。

 この。

 力がみなぎってくる感じ。

 鼓動。拍動。躍動。興奮。希望。

 だめだ。抑えきれない。

 我慢できない。

 もう。

 待てない。



 今日は満月。

 とてもきれいな満月。

 あの人は。

 満月の夜じゃなくても強くなってって。

 言ったけど。

 それは、難しいね。

 でも、頑張るから。

 満月の夜じゃなくても強くなるから。

 でも、今日は満月。

 だから。

 今日だけは。

 今日だけは満月に頼らせて。

 お願い。



 そうだ。俺はまだ死んでいない。

 こんなところで死ぬわけにはいかない。

 やり残したことがたくさんあるから。

 できなかったことがたくさんあるから。

 ここで死んだらあの世で後悔する。

 だって、やっと自分がわかってきたから。

 少しはわかるようになってきたから。

 だから自分をもっと知りたい。

 謎だらけの自分をわかりたい。

 なぜ女性に避けられるのか。

 どうして満月の夜だけ幽霊が見えるのか。

 いったい、十年前になにがあったのか。

 柳川さんと月影さんの関係とか。

 わからないことがたくさんある。

 だから、それを知りたい。


 でも。わかったことだってある。


 月影さんは俺の大切な人だということ。

 月影さんは退魔師だということ。

 そして。


 俺は退魔師で。

 俺は彼女の相棒だということ。


 ありがとう。月影さん。

 あなたは俺の暗い人生に差し込んだ、

 一縷の光だった。

 楽しかったよ。

 だからね。

 もっと。

 あなたと一緒にいたいよ。

 楽しい時間を過ごしたいよ。

 これから。ずっと。


 だって。俺は約束したじゃないか。

 ずっと一緒だよって。

 だから。今からそれを守ろう。

 今からあの人のところに帰ろう。

 そして。強く生きよう。

 退魔師として。

 彼女のパートナーとして。

 強くあろう。



 ああ。……なるほど。

 あの言葉の意味がわかったよ。

 絶対に俺から言わないといけない、

 あの言葉。

 言わなきゃ。

 言いに行かないと。

 言いに行こう。

 彼女を助けてから。

 面と向かい合って言おう。




 今行くよ。

 月影さん。




 いや。







 香子……。










 気づけば立っていた。

 山坂浩二は立っていた。

 青白い光の爆発と一瞬の爆風の後、地面に倒れていたはずの山坂浩二は、両足を地につけて立っていた。

 彼を包み込む青白い光は、まるでそれが炎であるかのように揺らめいている。ときには山坂浩二の二倍ほどの高さまで届くこともあった。

 五つあったはずの学生服のボタンは全て弾け飛び、学生服の裾は光の炎に合わせてはためいている。

 そして、山坂浩二の右手には錫杖しゃくじょうが握られている。それは山坂浩二の身長よりも頭一つ分長い。

 頭をうつむけたまま山坂浩二は地に立てられたその錫杖に体重を掛けた状態で、震える左手を前へ突き出した。

 彼は頭を上げた。彼の目に映ったのは、空中で戦いを続けている月影香子と大量の悪霊。そして、月影香子は山坂浩二を見ていた。

 呆気にとられたような。

 驚いたような。

 とにかく複雑そうな表情をしている。現状を把握しきれていないのかもしれない。しかし、無理もない。

 死んだとおもった山坂浩二が立っている。

 胸に空いていたはずの穴が塞がっている。

 莫大な霊力の放出。

 退魔師としての山坂浩二の象徴。錫杖。

 そして、山坂浩二は左手を月影香子に向けて突き出している。


 山坂浩二は考えた。

 浄化の仕方を。

 悪霊を本来あるべき場所に還す方法を。


 山坂浩二は考えた。

 黒い霧のようなものが悪霊を取り巻いている。

 黒。悪霊の黒。邪悪な黒。

 ならば、黒の反対。

 ……白。

 白のイメージ。


 山坂浩二は自身の体を駆け巡る莫大な霊力を左手に集約し始めた。

 全て白のイメージで。

 黒を取り払うイメージで。


 山坂浩二は月影香子に視線を移した。彼女は空中に浮かんでいるだけ。そして、そんな彼女を悪霊たちが包囲している。

 彼は口を開いた。

「香子!」

 月影香子は驚いたような表情で山坂浩二を見つめた。

 山坂浩二はもう一度叫ぶ。

「そこから離れて!」

 月影香子は一瞬動きを止めたが、すぐに頷き、周りの悪霊を薙ぎ払い、遥か上空を目指して飛び上がった。

 山坂浩二は左手の先から白い浄化の霊力が放出されるイメージを持った。そして、集約した莫大な霊力を解き放つ!

 白い光を放つ、巨大な球状の霊力の塊。それは、夜の闇を引き裂き、やがて二十体ほどの悪霊を包み込んだ。

 破裂!

 悪霊を取り巻いていた黒い霧は、白い光によって取り払われていく。そして悪霊たちはその姿を維持することができず、弾けとぶようにして姿を消した。

 粉となった白い残骸が雪のように舞い降りる。

 悪霊がいなくなったと思った矢先、また次の悪霊が十体ほど現れた。しかし山坂浩二は怯まない。

 錫杖を強く握り締め、地面を蹴って跳び上がった。

 わずかな霊力の放出によって彼の体は宙を自由自在に駆け巡ることができた。山坂浩二は悪霊の集団の中央に到達。

 そして右手に持った錫杖で周りの悪霊を薙ぎ払った。

 悪霊の黒い姿が大きく揺らぐ。

 山坂浩二は再び白のイメージを持った。体中の霊力が浄化に特化していく。

 そして放出!

 全方位に解き放たれた浄化の光は悪霊たちを包み込んだ。それらは本来の居場所に帰り、雪のように舞う光の粉を残していく。

 山坂浩二は息を切らしていた。先程から霊力の消耗が激しすぎる。すべて莫大な力に頼っているだけだった。


 でも、それ以外に方法はない!


 山坂浩二は空を見上げた。遥か上空では、月影香子と悪霊の大群集が激戦を繰り広げているのがわかった。

 明らかに月影香子が不利だ。五十体ほどの悪霊を相手に、彼女は二本の刀を振り回しながら逃げているようにしか見えない。

 助けなきゃ!

 山坂浩二は霊力を放出して空を駆け上がった。彼を包み込んでいた霊力の炎は小さくなり、もうわずかしかない。

 しかし、山坂浩二は確信した。

 これは無駄な霊力の放出が抑えられているだけだということを。彼の体内には、莫大な霊力がまだまだ残っている。

 いつの間にか、山坂浩二を包み込む光には、青白いものだけでなく赤色のものまで混ざり込んでいた。

 しかし、山坂浩二は気に留めない。

 ただ、月影香子のもとへと向かう。

 そしてたどり着いた!

 山坂浩二は月影香子を追う多数の悪霊に、青白い霊力の光弾を左手から撃ち込んだ!

 何発も。何発も撃ち込んだ。

 悪霊たちの動きがしだいに鈍くなっていく。

 そして、白のイメージ!

 山坂浩二は一体ずつ、白い浄化の光を差し向けた。それらは確実に悪霊を包み込み、本来在るべき場所へと導いていく。

 霊力の雪が舞い降りる。

 山坂浩二はその雪を浴びながら、遠くで佇んでいる月影香子に向けて叫んだ。

「香子! お願い、手伝って!」

 山坂浩二は激しい呼吸を繰り返していた。途切れ途切れに言うことしかできなかったが、それでも彼は叫んだ。

 頼んだ。

 月影香子は困惑したような表情をしていたが、やがて山坂浩二をまっすぐに見つめて首を縦に振った。

 そして彼女は山坂浩二のもとへと向かった。空を翔る彼女は、笑っているようにも見えた。

 山坂浩二も彼女のもとへと向かう。

 そして、二人はお互いに手を伸ばせば届くほどの距離まで近づき、無言のまま空中で見つめ合った。

 そうしている間にも、二人の周りには悪霊たちが集まってきており、攻撃する機会をうかがっていた。

 百体ほどはいるのだろうか。それらは二人を球体の中心にするようにして取り囲んでいる。

 二人は頷き合った。

「浩二」

「なに?」

 二人は口を開いた。

「悪霊を浄化するには、浄化の霊力が悪霊の霊力を上回ってないとだめだよ」

「……わかった」

 山坂浩二は頷いた。


 その時。

 悪霊たちが二人に向かって一斉に襲い掛かった。


 悪霊と二人の距離が徐々に縮まっていく。

 絶望的な数の差。

 それでも二人は。


 笑っていた!


 山坂浩二と月影香子はお互いに逆方向へと分かれ、悪霊たちを迎え撃った。山坂浩二は錫杖を手に。月影香子は二本の刀を手に握り締めて。

 立ち向かった。

 山坂浩二は錫杖で悪霊たちを横一文字に薙ぎ払った。それだけで五体ほどの悪霊の姿が大きく揺らいだ。

 すかさず白のイメージ。

 彼は左腕を内から外へと振りながら、左手の先に集めていた浄化の霊力を悪霊たちに向けて放った。

 白い光の波が、悪霊たちを包み込んだ。

 消滅。

 山坂浩二は息を切らしながら少しの間だけ安堵した。

 しかし。それもつかの間。

 新たな悪霊の集団が山坂浩二に迫ってきた。先程の三倍はいる。彼は舌打ちをした。

(やっぱり。力の消耗が激しい)

 山坂浩二の額には汗が浮かび上がっている。彼を襲うのは疲労。力技でしか戦えない彼にとっては当然の報いだった。

(浄化は霊力を大量に使うみたいだ……)

 山坂浩二は錫杖を両手で持って構えた。

(……だったら)

 山坂浩二は悪霊に向かって空を翔けた。

(限界まで霊力を削り取る!)

 山坂浩二と悪霊の集団が激突した。




 月影香子は満月に照らされた空を縦横無尽に翔けながら、悪霊たちの攻撃を防いでは反撃し、そして距離を取るということを繰り返していた。

 彼女は山坂浩二のように悪霊を浄化することはできない。悪霊の数が減っているのは、すべて山坂浩二の浄化によるものだった。

 しかし、彼女は劣等感などを持たない。

 なぜなら。

(霊力を削り取るのが私の役目!)

 月影香子は危険を冒さず、一体ずつ確実に霊力を削り落としていく。力技の山坂浩二と比べて、彼女の戦いは見ているものを魅了するほどの美しさがあった。

 月影香子は空を翔け回った。

 彼女の役目はただ一つ。

 悪霊たちの霊力を削って山坂浩二に浄化してもらうこと。

 ただ、それだけで構わない。




 山坂浩二は錫杖を振り回し、悪霊の霊力が弱まったところで浄化を行うということを繰り返していた。

 月影香子と比べて、彼の戦いは荒々しい。莫大な霊力に頼ることしかできず、無駄な霊力の消耗が激しい。


 それでも彼は戦う。

 ただ、月影香子を助けるために戦う。


 山坂浩二は目の前にいる悪霊を錫杖で撲りつけ、左手を突き出して浄化の光を放った。

 悪霊は霊力の雪を残してこの世から去っていく。

 山坂浩二は左腕の袖で額の汗を拭った。冷たい風が彼の額から熱を奪いとっていく。山坂浩二は息も絶え絶えになっていた。

(……まだ、力が沸き上がってくる)

 山坂浩二はまだ戦う気でいた。

 しかし、彼の周りには悪霊の姿はない。山坂浩二が力技で全てを浄化していた。

 彼は辺りを見渡した。

 月影香子の様子をうかがおうとした。

 しかし、彼女の姿はない。

「あれ? 香子は? 香子はどこだ」

 山坂浩二は自分の戦いに夢中になり、助けるべき彼女の姿を見失ってしまっていた。後悔が彼を襲った。

「まさか。死んだとか、ないよな……」

 彼は夜空に浮かぶ満月を見上げた。見る者を高揚させるそれは、ただ静かに、山坂浩二を照らしているだけだった。

「香子……」

 彼は自らのパートナーの名を呼んだ。しかし、反応はない。

 山坂浩二はうなだれた。

 その時!


「浩二!」


 山坂浩二は後ろを振り返ると同時に顔を上げた。

 遥か上空に、二本の刀を持って空を翔けてる月影香子がいた。腰まで届く長い髪が揺れている。満月に照らされて揺れている。

「香子!」

 山坂浩二は叫んだ。

 彼女の名前を呼んだ。

(よかった……)

 彼は安堵した。

 しかし、それもつかの間だった。

 悪霊の大群が月影香子の後ろを追ってきているのを山坂浩二は目で捉えた。

 彼女が危ない!

 彼はそう思った。

 しかし、すぐに違和感を感じた。悪霊の動きが鈍い。

 これは、追われているのではない。

(まさか……)

 山坂浩二は月影香子に目線を向けた。彼女はほんの少し、笑っていた。

「浩二!」

 彼女は叫んだ。

(香子は追われているんじゃなくて……)

 山坂浩二は月影香子を見つめていた。遥か上空を翔ける彼女は、山坂浩二の真上を通るときに叫んだ。

「お願い! 浄化して!」

 山坂浩二は首を動かしながらその声を聞いて確信した。

(悪霊を弱らせてくれたんだ!)

 山坂浩二は錫杖を持ったまま、両手を重ね、悪霊の大群に向けて両手を突き出した。月影香子を追って飛行を続ける悪霊たちに狙いを定める。

 体中の霊力を両手の先に集中させていく。

 白のイメージ。白のイメージ。

 山坂浩二の額に汗が浮かぶ。

 月影香子は遠く離れたところで大きくUターンをした。そして、斜めに降下しながら山坂浩二に向かってくる。悪霊たちも山坂浩二に向かって直進してきた。

 月影香子は山坂浩二の前まで来ると、一度彼と目を合わせてから無言のまま彼の後ろにゆっくりと移動した。

 そして。耳元で。


「頑張って。浩二……」


 ささやいた。

 その瞬間、彼の霊力が一気に高ぶった。そしてそのほとんどが両手の先に集まって、浄化の霊力に変わっていく。

 悪霊の大群は、斜めに降下しながら山坂浩二に向かってくる。

 山坂浩二は悪霊の大群に向けて斜め上に両手を突き出している。


 彼は無数の赤い目に怯えたりはしない。

 ただ、使命を果たすのみ!


 山坂浩二は目を閉じた。そして静かに告げる。

「お前らがここにいる必要なんてないだろ?」


 山坂浩二はゆっくりと目を開けた。

「この世界にいると苦しいだろ?」


 山坂浩二は満月を背に迫ってくる悪霊にむけて両手を伸ばす。

「だから……」


 静寂。


「苦しくない場所に還してやるよ……」


 そして。

 彼の両手から。

 浄化の光が放たれた。

 それは、夜の闇を切り裂いて。

 苦しむ悪霊たちを包み込んで。


 彼らを本来の居場所へ還していった。


 霊力の雪が降った。

 満月の光を反射しながら地上へと降りていった。

 山坂浩二は倒れ込むように地面に背中を向け、降下を始めた。ゆっくりと地上に向かう彼は、少し上にいる月影香子に向けて左手を伸ばした。

 月影香子は呆気にとられた表情をしながらも、両手に持った二本の刀を青白い光を放つ霊力に戻した。そして、下にいる山坂浩二のもとへ向かい、彼が伸ばした手を、左手で握ろうとした。

 一度目はかすった。思った通りには握ることはできない。

 でも。二度目は。


 ちゃんと握ることができた。


 二人は、少しだけ時が止まったような気がした。

 山坂浩二は微笑み、錫杖を青と赤と白の光を放つ霊力に戻して自らの体に取り込んだ。月影香子と同様に手ぶらになる。

 二人はそのまま、ゆっくりと落ちていく。



 やがて、二人は河川敷広場へと降り立った。

 もう、悪霊の姿はなく、ただ、風が二人の頬をなでていくだけだった。風が、二人の髪を揺らしていくだけだった。

 二人は向かい合った。

 その瞬間。


 月影香子の表情が崩れた。

 両目から涙が溢れ出てきた。


「こうじ……」 

 彼女は嗚咽を漏らした。


「こうじ……」

 涙が彼女の頬を伝っていく。


 そして。


「わあああああああああぁぁぁあぁあ!!」

 彼女は叫び出した。

 泣き叫び出した。

 山坂浩二に飛びつき、彼の胸に顔を埋めて泣き叫んだ。

 山坂浩二にしがみつくようにして泣いた。叫んだ。

「わあああああああああああああああ!!」

 彼女が流した涙は山坂浩二の胸を濡らしていく。

 彼女は泣き叫び続けた。

 山坂浩二にしがみついて泣き叫び続けた。

 山坂浩二の胸に顔を埋めて泣き叫んだ。

 山坂浩二は両腕を垂れたまま、ただ静かに空を見上げた。


 あんなに強く振る舞っていた彼女が。

 悪霊に怯えず、勇敢に立ち向かっていた彼女が。

 一度も涙を見せたことのなかった彼女が。

 今。こうして泣いている。

 泣き叫んでいる。


 どれだけつらかったのだろうか。

 どれほど寂しかったのだろうか。

 山坂浩二にはわからない。

 でも。

 自分よりは辛い思いをしてきたことぐらいはわかった。


 ごめん。香子。

 信じてあげられなくて。


 ごめん。香子。

 冷たい態度を何度もとって。


 ごめん。香子。

 ずっと、一人にさせて。つらかったよね?


 ほんとにごめん。


 山坂浩二は青い光に照らされた空を見上げたまま、まるでそれがうわごとであるかのように謝った。

 月影香子は反応しなかった。血で赤く染まり、胸の部分に穴が空いている山坂浩二のシャツにしがみついて泣き叫んでいる。

 でも。届いただろう。

 彼の言葉は届いただろう。

 そして、山坂浩二は思う。


 今こそ、あの言葉を言おうと。

 あの約束を果たそうと。


「香子……」

 山坂浩二は彼女の背中に腕を回して彼女を抱きしめた。悪霊と激戦を繰り広げていたあの姿からは想像もできないほど細く、頼りない身体をしていた。


 彼女は、とてもいい香りのする、

 ただのか弱い、女の子でしかなかった。


 さっきまで大声で泣き叫んでいた月影香子だったが、その声は今はもう小さくなり、彼女の鼻をすする音が聞こえるだけだった。

 山坂浩二は月影香子を抱きしめたまま、背中を丸めている彼女に向けて言った。



「……ただいま」



 山坂浩二は彼女から手を離し、いまだ泣き止まない月影香子を見つめながら、一歩下がった。

 彼の身体には、まだ彼女の温もりが残っている。月影香子はその場から動かず、ただ両手で目をこすって涙を拭うだけだった。鼻をすする音が聞こえる。

 月影香子は涙を拭い終わると、まっすぐに山坂浩二の目を見つめ始めた。彼女の目は、まだ少し赤い。

 それでも彼女は山坂浩二を見つめる。

 そして、精一杯の笑顔を山坂浩二に向けた。


「お帰りなさい……浩二」


 山坂浩二は笑みを浮かべる。





 満月のムーン・ライトが、見つめ合う二人を優しく包み込んでいた。







 エピローグは二日後、水曜日に投稿します。






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