離縁されたと思ったら国が滅亡しましたので、元夫が王になるようです
離縁されました。
それからしばらくして、
私の知る国が、滅びました。
私は小さめのトランクに服を適当に突っ込む。膨らんで閉まりそうにないトランクに乗って体重をかけ、無理やり鍵をかけた。
そして、ローブを深くかぶり、駆け出した。
「ジュリアン! 行くよ!」
「はいはい! 姉さん、少し待って!」
屋根が辛うじてある小型の馬車。トランクを投げ込み、御者席に乗り込む。元近衛騎士の弟も同じようにトランクを荷台に投げると、私の隣に飛び乗り、私の手から手綱を取り上げた。
「姉さん! 全速力でいくよ!」
「えぇ、お願い! 間に合うといいのだけど……」
辺境の小さな邸宅。前庭さえないその家から、馬車が走り出す。
蹄と軋む車輪の音。
見上げた空は曇天。
「シリル……」
私の声は、馬が蹴り飛ばした砂利に砕かれていく。
――元夫が、もうすぐ処刑されてしまう。
体の前で祈るように強く組んだ指先が、白くなる。
――どうか。
――どうか、間に合って……
あれは、数ヶ月前のこと――
「オデット。
突然だけど、離縁してもいい?」
「え」
昼のバルコニー。
彼の透き通るほどの白金色の髪は、癖があってふわふわと柔らかそうだった。空気を含むような緑がかった青い瞳も、優しそう。だけど、その奥には氷のような冷たさが沈んでいる。
「シリル殿下がそう望まれるのであれば……私に拒否など……」
「そう。
じゃあ、離縁しよう」
二人して欄干にもたれ、眼前に広がる王都の街並みを眺めていた時。突然、離縁の話になった。
シリルは、欄干に肘をつき、街へと目を向ける。その瞳は、あまりにも遠くを見ているように感じてしまった。
「元第三王子妃が王都をうろうろしていたら、さすがに不届き者が現れるだろう。
君の親戚に、辺境の管理人補佐をしている者がいたよね。その者のところへ行きなよ。
君の弟。兄の近衛だったけど、彼もクビ。
だから、二人揃って王都からすぐに出てって」
喉が張り付く。
彼が、ゆっくりとこちらを向いた。
「君にはもう――」
――会いたくない?
青い瞳。それは残酷なほどに、美しいのね。
「……わかったわ」
私は瞳を伏せる。
衣擦れの音。
彼が、バルコニーを離れる。
その背を追うことは、きっと許されない。
彼と入れ違いに入ってきた従者が書類を差し出す。
――シリルの署名済みの離縁状。
それから、
――財産分与の名目一覧。
彼らしいわ。
すべて、手配済みなのね。
紙を持つ手が震える。
――泣かない。
――元王子妃であるこの私が、泣いてたまるものですか。
紙の文字が、雫で滲んだ。
これは、涙じゃない。
きっと雨が降ってきたのよ……。
第三王子シリルの王子妃だった私は、翌日には弟と王都を出た。私物も、与えられた財産も、使用人の手によってすべて馬車に積まれていた。
辺境には、小さな屋敷がすでに用意されていた。元王子妃が身を隠すための新しい名前も、身分も。
何もかも。
用意されていた。
そうやって、新しい生活を粛々と送っていたある日、街の人から聞いた。
王都が火の海だと。
市民革命が起きて、王が斃されたと。
――そして、その他の王族の処刑も、もうすぐ行われるのだ、と。
だから私は、王都へ行く。
生きている彼を見るために。
一目でいい。
言葉を交わせなくても、いい。
一目で、いいの。
王都、石畳の中央広場。
そこに誇るように置かれた絞首台。
私は、それを前に、膝をついた。
ジュリアンが隣にしゃがみ込み、私の肩を抱いた。
――間に合わなかった。
王都と辺境は遠い。噂が届いた時点で、処刑は済んでいた可能性だってある。
分かってはいた。
だけど。
――願わずにはいられなかった。
「……シリル」
「姉さん」
肩を抱く腕に力がこめられる。
「城壁に死体が吊るされているみたいなんだ……。
どうする?
見たって、決して気分の良くなるものではないけど」
「……行くわ」
「……付き合うよ」
ジュリアンに支えられるようにして、立ち上がった。
街の喧騒が、耳障りに感じる。
脚が震えてしまう。
私を支える弟の腕の力強さだけが、今、信じられる唯一のもの。
王都は、浮足立っていた。
噂通りに、火は街の多くを焼いたようだった。だが、焼かれたそのほとんどは王国騎士団の詰所や、役所などの王国管理の施設。それから貴族邸宅だった。
庶民街は抵抗する騎士団による破壊行為の被害を受けてはいるものの、市民たちは半ばお祭りであるかのように、歌い、笑いながら復興に取りかかっている。
私は、ジュリアンを離れ、一人で歩いた。
「……姉さん」
「大丈夫。ありがとう」
ローブのフードを目深に被る。
第三王子妃の顔など、庶民のほとんどは覚えていないだろう。だが、今私がここにいることが知られれば、暴動が起こりかねない。
そのくらいには、王都の街は喜びと緊張の間で揺れていた。
城壁。
灰色の石が積まれたその壁の上から、遺体が見せしめとして吊り下げられていた。
「多いのね」
「王族だけではないようだね。
公爵や、中枢に近い貴族たち。甘い汁を吸っていた役人や使用人たちも……」
「……腐っていたものね。王国は」
王が斃されたことにより、王政のこの国は消えるのだろう。
新たな誰かが王として立つのか。
別の国に飲み込まれるのか。
それはまだ、誰にもわからない。
遺体が、風にわずかに揺らされている。
寒い季節ではない。
温かい季節。
風雨にも晒され、鳥にいじられ、それらはすでに傷んでいた。
それでも、一つひとつ、視線で確かめる。
――あれ?
眉を寄せた。
「……いない?
それとも……」
もう一度、一つひとつ、じっくり眺める。
だが――
シリルの遺体は、見つからなかった。
見つからないのか、分からないのか。
判断さえつかない。
「……姉さん。行こう。そろそろ宿を取ろう」
ジュリアンが私の肘を引く。
「……そうね」
日が暮れようとしている。
気づけば、真っ赤な夕陽が城壁を舐めていた。
まるでそれは、たった今流された血のように
――あまりにも鮮烈な赤だった。
宿。
ベッドの縁に腰掛け、縦長の窓を眺めた。
こんな時に旅で訪れる者なんていないと、宿の店主は驚いていた。
「王都に恩人がいるから、心配になっちゃって! 元気そうだったわ」
なんて笑って応えると、老店主も豪快に笑う。
「腐った貴族どもをぶちのめした祝いだ。食事はサービスしてやるよ」
辞退するのも不自然かと思って、ありがたく食事は頂いた。
ため息をつく。
窓の外からは、市民たちの歌声が聞こえてきた。
ザラリとした、質の悪いシーツに指先で触れる。
――シリルとは、白い結婚だった。
「君はまだ若いから、しばらくは白い結婚でいようよ」
初夜の日。
夫婦の寝室に入ってくるなり、彼はそう言った。
手に持っていた燭台の火がゆらゆらと揺れている。
私とシリルは互いに十六歳。
成人が十八であるこの国であっても、十六での結婚は早く、王族ならではの特例だと言えた。
「……そうですか」
シリルは淡く笑みを浮かべたまま、頷く。
「おやすみ。オデット。
朝食は一緒にとろう」
「はい」
彼は踵を返し、部屋を出ていこうと扉を開けた。
振り返る。
「……いい夢を」
ふっと笑った。
扉の向こう、彼の私室に姿が消える。
扉が閉まった。
――王命で結婚したのに、大した理由もなく“白い結婚”?
「いい夢を見られるほど呑気に眠れると思ってるの?」
私も、ベッドサイドに置いていた燭台を手に取ると、隣の自分の私室へと向かった。
――変な人。
王族の中で、シリルは最も容姿端麗だった。少なくとも私の中では。
王太子である第一王子はみるからに傲慢。
第二王子は怠惰。
第三王子であるシリルは、いつも淡く笑んでいて、何を考えているのか分からない。どこか飄々としている男だった。
彼は、兄二人との折り合いは良くなかった。半ば冷遇されていたとも言える。
だからこそ、歴史ばかりで金も権力もない我がマーロウ家に白羽の矢が立ったのだ。
家族は王族とつながりの持てるこの結婚を、喜んだ。
――そして、私も喜んだ。
婚約者として会う彼は、いつも美しくて、会話も楽しく、素敵な人だったからだ。
だから“白い結婚”と言われて、正直、がっかりしてしまった。
街には、夜になってもあちこちで篝火が焚かれているらしかった。
その明かりのせいで、夜空には星が見えない。
喧騒と消えない灯火。
私は薄いカーテンを引いた。
ベッドに寝転がり、腕で目を覆う。
城壁に吊るされた遺体たちが、瞼の裏に浮かんだ。
――今夜もきっと、まともに眠れはしないだろう。
朝食をとったあと、私はジュリアンと街を歩いた。
シリルの噂を少しでも集めたかったからだ。
街は、相変わらず雑然としていた。
抜けるように青い空が嘘のように、ごっちゃごちゃだった。
もともと、警らを担っていたはずの王国騎士団も腐敗していた。代わりに市民による有志の治安隊が守っていたような街だ。一目見ただけでは、人々が少し浮足立っていること以外はあまり変わらなく見える。
だが、物流は滞り始めているようだった。
店に並ぶ商品は少なく、値が上がっている。
それから、庶民のなかでも高位に当たるものは、ここぞとばかりに権勢を張り巡らせようとするか、亡命するかの二択を迫られているようだ。夜逃げするかのように、夜間に大型の馬車が駆ける音がひっきりなしに聞こえてきていた。
「第三王子? そりゃあんなかにいただろう?」
広場に集まって会合していた男性たちに声をかけた。政治に関心の高い者たちだ。きっと、知っているのではないかと声をかけたのだが――。
「数が多かったからな!
王太子と王妃くらいしかもともと顔は知らん!」
男たちは笑っていた。
――国は、腐っていたのだ。
王家は、王城から出ることはほとんど無かった。他国の貴族や王家がしているような、福祉や産業の施設を視察することも無かった。
王族の顔を知る貴族たちも処刑されたか、おそらく亡命したのだ。
第三王子について知る者など、この街にはもういないのかもしれない。
私はジュリアンと目を合わせ、あえて、愉快そうに笑った。
「そうだよな!
王家には三人王子がいたような気がしたけど、第三王子ってどんなやつだったかと思ってな」
「そうなの。ふと、名前さえ思い出せないわと思って」
男たちも、腕を組んで愉快そうに笑っている。
「とにかく、王家も貴族も粛清された!
国が生まれ変わるのさ!」
ひとしきり、笑い合う。
「ねぇ、国をまとめる人は誰になるの?
リーダーみたいな人は、やはり必要でしょう?」
「そりゃあ、彼だろう」
男たちの視線が、ふと、広場の外に滑る。
人だかり。
その中央で、笑顔で手を振っている背の高い男がいる。
「ガレス・モーン。
俺たちのリーダーさ」
別の男も話し出した。
「意外とシンのほうかもしれないぞ」
ガレスの周りには市民革命を起こした中心となる人物たちが揃っているようだった。あのように頻繁に人々に声をかけて周り、人気を集めているという。おそらく、治安維持にも一役買っているのだろう。
「どうだろうな。
ガレスいわく、ブレーン役はシンだとよく話しているが、シンはあまり俺たちの前に出てきたがらん」
「ひょろひょろの男なんだと。書類仕事をもともとしていたような男で、荒くれ者たちの前には出たくねぇとか抜かしてたとか」
男たちが揃って笑いだす。
「シンはあの中にはいないの?」
男たちは、人だかりをじっくりと見るが、やがて首を振った。
「人が多くてわかんねぇが、いねぇんじゃねぇか?
シンはあまり人前に出てこねぇ」
「俺は、ガレスと一緒にいるところを見たことがあるけど、ローブを着てたし顔の印象はないな。線は細かったと思う」
男の一人が、にっと笑って私の目を見る。
「ガレス・モーンとシンの名前をこの街で知らない者はいない。
王家がいなくなっても、国はどうにかなるさ。むしろ、王家がいなくなったからこそ、うまく回るようになると、俺たちは思ってる。
奴らがいるからな」
私は、口角を上げた。
「そうね」
人々に囲まれている男。
頭一つ分背の高い筋肉質の彼――ガレス・モーンの視線が、こちらへ向く。
一瞬だけ。
私とジュリアンを見て、目を見開いたように見えた。
だが、顔はすぐにそらされ、人ごみのなかにガレスの姿は飲み込まれていく。
ジュリアンが私の肘を引く。
目を合わせ、頷き合う。
ガレス・モーン。
知らない顔だった。
きっと、貴族ではない男なのだろう。
「レディース・アンド・ジェントルマン!
こんな天気の良い日は、音楽でもいかが!?」
広場に飛び出してきた男が、突然そう声を張り上げた。手にはヴァイオリン。
「お、きたきた」
私たちと話していた男の一人がニヤリと笑う。
「曇りの日も同じこと言ってたぞ!」
「うるせぇ!」
笑い声があがった。
ヴァイオリンの男が、奏で始める。調子外れの軽やかなワルツ。
母親の手を引く子どもが一人、踊り出した。そこに、また一人、一人と集まってきては、ステップもリズムもめちゃくちゃのダンスを踊り始める。
笑い声。
手拍子。
男たちも声を合わせて歌い出した。
「姉さんも、踊ってきたら?」
ジュリアンが口端を片方だけ持ち上げて、私を見下ろす。
「私が?
一人だけ優雅すぎてバレてしまうわ」
ジュリアンは声を立てて笑った。
「優雅?
“激しすぎて”の間違いじゃない?」
「あれは、私のせいじゃないのよ。
彼のせい」
私が唇をギュッと結ぶと、ジュリアンは私の背を叩いてさらに笑った。
――シリルは、飄々とした男だったけど、負けず嫌いの男でもあった。
彼と踊るダンスは、はじめは教科書通りで、ただ、優雅だった。
でも、結婚してから迎えた初めての舞踏会。
向かい合い、彼が私の腰に手を添え、言ったのだ。顔を寄せて、耳元で。
「オデットってさ。
ダンスがすごく上手だよね。得意なの?」
私の頬は赤かったかもしれない。至近距離の彼の青い瞳を、睨みつける。
――白い結婚のくせに、この距離感はおかしいでしょ。
「えぇ、そうです。得意なの」
「そうなんだ。
じゃあさ、僕についてきてみなよ」
突然右腕をぐいと引かれる。
シリルは口角をあげて、不敵に、だけどすごく楽しそうに笑っていた。
変則的で複雑なステップ。
私も必死でそれを追いかける。
また腕を引かれ、ぐるりと回される。
私のドレスの裾が大理石の床の上で美しく舞う。
また、難易度の高いステップを踏む。
貴族たちの視線。
みな、私たちから離れて、ダンスフロアを譲った。
ほとんど、二人だけのダンス。
弦楽隊も、私たちに合わせてテンポを上げていく。
エンディング。
曲の終わりに合わせて、ぴたりとポーズを決めた。
拍手。
私は隣のシリルを唖然として見上げた。
二人とも、呼吸が上がっている。
「楽しかったね」
「……は?」
彼の青い瞳と淡い白金色の髪に、シャンデリアの明かりが弾かれていた。
私の腰を支えていた手のひらが、少しだけ熱い。
「またやろう」
ダンスフロアをゆったりと離れれば、退いていた貴族たちがまた集まり始めた。
「またやるつもり? あれを?」
二人の間にだけ届く声。
彼が私を抱き寄せる。
不敵なその瞳は、じっと私を見つめていた。
「諦めちゃうの?
つまり、僕に負けを認めたってことでいいのかな」
私は眉を寄せた。
「……受けて立つわ」
「そ。
良かった」
シリルが声を立てて笑い、私から体を離した。
それから、舞踏会のたびに、私とシリルはダンスの腕を競いあった。
近衛騎士として遠巻きに見ていたジュリアンにはよく言われたものだ。
「何あのダンス。競技?」って。
王都の石畳の広場。
未だ置かれたままの絞首台の前で、人々が思い思いに、歌い、踊っている。
いつの間にか、太鼓を持ち出してきた者まで増えていた。
私はジュリアンの手を取る。
「ジュリアン。私たちも踊りましょ」
「……俺?
いやいや無理無理。彼みたいなダンスは俺には――」
「普通でいいのよ。普通で」
私が笑うと、ジュリアンも笑った。
人の輪に入る。
めちゃくちゃなステップ。
ずれた手拍子。
――ねぇ、シリル。
あなた、本当に死んでしまったの?
空が青い。
人々の笑い声が、青空に吸い込まれていく。
大衆食堂へ入る。
もちろん、シリルの噂を集めるためだ。
食堂は人でごった返していた。女性や子どもも多い。店の奥の方であいていた席に、二人で座る。
「この店、人気なのね」
近くにいた赤子を抱く女性に声をかけた。
テーブルも椅子も年季が入り、椅子は特にぐらついている。テーブルの上にはいくつものシミ。油が染み込み、少しベタつく。
「外のひと?」
「あぁ、王都に恩人がいてね。その人の様子を見に来たの。その人は元気そうだったわ。
――外からきたから事情は詳しくなくて……」
女性は柔らかく笑った。
「ここはね、革命軍が出資してるのよ。女子供は、ほとんど無料で食べさせてもらえる。男もほんの少し安いの。
下級騎士の家族たちは無事だけど、夫を亡くした人も多いわ。だから……みんながすごく助かってる」
「……あなたも?」
静かに首を振る。
「うちは、無事だった。騎士じゃなくて、下級の文官だったの。でも、怪我はしたし、仕事も失った。今、うちで寝てるわ」
「そう」
女性は小さく頭を下げて、席を立った。食堂の女将が彼女に包みを渡す。家で待つ夫のための食事だろうか。
「……手厚いわね。革命軍とやらは」
「姉さん、リンゴあるよ。甘く煮たやつ。注文する?」
ジュリアンは壁に殴り書くように並んだメニューを眺めている。
「注文する」
弟は、ふっと笑った。
「……何よ」
「好きだよねぇ。二人とも、リンゴ」
私は眉を歪める。
ジュリアンは手慣れた様子で店員を呼ぶといくつか注文した。
――私もシリルも、リンゴが好きだった。
「もっと食べたくない?
リンゴ」
私の私室に遠慮なく入ってきたシリルは、我が物顔でソファに腰掛ける。私は書き物机に向かっていたが、手紙を書いていた手を止め、椅子に座ったまま彼を振り返った。
「……どういうこと?」
「なんか楽しいことをしたいなと思って」
羽根ペンを置き、インク壺の蓋を締める。
「こっちおいでよ」
私に向かって手を振ったシリルの指先にも、わずかにインク。
彼は、基本的に忙しい人だった。兄たちとも、父王ともあまり仲は良くなく、嫌がらせのように仕事を押し付けられていたからだ。かといって、外から人が来るような外交の場に彼は呼ばれない。
言われるままに、人一人分の距離を空けてソファに腰を下ろすと、彼は滑るように移動して私のすぐ隣に座り直した。
手を握られる。
自分の指先の汚れに気づいた彼が、インク汚れを私の手の甲に擦り付けるようにした。
「……ちょっと」
「あはは。白魚の手が穢れてしまったね」
しようもないことで、楽しそうに笑っている。握られた手を引き抜こうとしたが、強く握りしめられ、断念した。
彼はそのまま、立ち上がる。
「行こう。僕のお妃様」
青い瞳に、部屋の白い光が差し込み、キラキラとしていた。
「……どこへ?」
「僕たちがあまり日頃行かないところ。
珍しくてきっと楽しい」
彼に引きずられるようにして、部屋を出る。
たどり着いたのは、調理室。
すれ違う使用人たちはぎょっとして私たちを見たが、シリルが人差し指を唇に当てて微笑むと、みな、見なかったふりをした。
シリルは歩き慣れた様子で調理室の奥へと進み、生ゴミの入れられた木箱を覗き込んでいる。
「朝食にリンゴが出ただろう?
だから、あると思うんだ」
「……何が」
「あったあった」
彼は躊躇なく、ゴミに手を突っ込んだ。
「何をしてるの!?」
彼が取り出したのは、リンゴの欠片。黄色みのある断片に、黒い種がついている。
「種」
「……たね」
「これをさ、植えようよ」
「……正気?」
シリルは爽やかに笑った。
「僕はいつでも正気だよ。
あぁ、でも兄上達にはよく“お前は狂ってる”と言われるから、狂ってるのかもしれない」
「それに関しては殿下たちに同意するわ」
彼はゴミの中からさらにいくつか種のついたリンゴの欠片を拾い出すと、しゃがみ込み、種だけを取り出した。実をまた木箱に放り投げる。
彼は種を手のひらで握り込んで、立ち上がった。
「行こうか」
「……今度はどこへ?」
「庭園」
「……もしかして」
シリルがさっさと歩き出すのを、慌てて追いかける。
案の定、庭園の端に彼は座り込み「植えよう」と言い出した。
「私ドレスなのよ!?」
「……僕だって、高級素材のコートとベスト着てる。
大丈夫大丈夫。
早くしゃがんでよ」
彼は庭師小屋に忍び込んでくすねてきたスコップの一つを私に手渡す。
「ほら、掘って」
「土なんて触ったことないわ……」
「これだから、お嬢様は……。
ちゃんとやってくれないと困るよ。
でないと、僕だけが後で叱られるじゃないか」
「誰に?」
「庭師に。
僕たち夫婦なんだから運命共同体だろう?」
「白い結婚なのに……」
「リンゴ食べたくないの?」
しゃがみ込んだまま、視線が絡む。
飄々とした、彼の青い瞳。
「あなた、王子なのよ?
もっとリンゴが食べたいと素直に言えば、食事に出してもらえるはずよ」
「それの何が楽しいのさ」
「……は?」
シリルが土を掘り始める。
「欲しいものは自分の力で手に入れたいんだ」
私は顔を上げる。
少しだけ不敵に笑んだ彼と、目が合う。
その瞳の奥には、静かな熱。
だが、シリルは急ににこっと笑った。
「今、格好いいって思った?」
「……台無しだわ」
私がため息をつくと、彼は声を立てて笑った。
ちなみにスコップを小屋に返しに行ったところで庭師と鉢合わせ、事はすぐに露見した。
シリルの予想通り、私たちは庭師のベテラン老人に二人揃って叱られたのだった。
「リンゴの木を植えたいのなら相談してくだされ!」
「あ、相談したら植えさせてくれたの?」
飄々とシリルが言う。
「もちろんじゃ!
この庭園はどこに、何を、いつ植えるか徹底的に管理しておるんじゃ!
勝手に手を出すのは許されんのですぞ!」
「なんだ。そっか。
だってさ、オデット」
シリルが笑う。
呆れて彼を見つめると、庭師は耐えられずに吹き出した。
それを見て、私もつい、笑ってしまった。
傷だらけのテーブルの上に、ジュリアンが注文した品々が並ぶ。
「姉さんがいるおかげで、安く食えそうだ」
「……良かったわね」
香草入りのスープの香り。だが、具はほとんど入っていない。
塩で焼かれただけの肉。
蒸された芋。
黒い、硬いパン。
薬草茶は、独特の香り。
煮込まれたリンゴだけは、トロリとして美味しそうだった。
「美味しそうね」
「早く食べよう」
私は、ふと、顔を上げた。
喧騒の向こう。
開け放たれたままの店の扉の向こうに、人がいる。
「……ガレス・モーンだわ」
ジュリアンも振り返って入り口を見た。食堂の様子を見に来たのだろうか。一歩だけ店に入り、店主と話をしはじめる。
ガレスの視線が、店内をゆっくりと見回す。食事にありつく人々。少しだけ、彼らを見るガレスの頬は緩んで見えた。
その瞳が、店の奥へ。
私たちの方まで、届く。
私は慌ててローブのフードに手を添えた。
ガレスは、ちらと後ろを振り返った。
彼の後ろから、一人の男が店内を覗き込む。
くすんだ汚れたローブ。
フードは目深に被られ、その髪も瞳も見えはしない。
だが、シミ一つない白い頬。
貴族的な仕草。
ローブの男は店内をサッと見渡すと、すぐに踵を返して通りへ戻って行った。
「シン!」
ガレスの声。
――今の方が“シン”?
ガレスは店主に短く頭を下げると、シンを追いかけて店を出ていった。
ジュリアンと私は目を見合わせる。
「ジュリアン……」
「姉さん、だめだよ」
弟の瞳が沈む。
「期待してはだめだ。
彼は……死んだんだ」
「……そうよね」
――もしかして……。
そう思ってしまった。
――どこかで、生き延びていてくれたらいい。
その気持ちが、そう思わせてしまうだけだ。
そんなこと、わかっている。
大好きなリンゴ。
「このリンゴ。少ししょっぱいわね……」
ジュリアンがハンカチを私に押し付けてきた。
「少し、宿に戻って休もうか」
「……えぇ」
――本当に。
――もう、会えないのね……
鼻をすする。
食堂の喧騒は、どこか、遠い。
◇
「シン! 待てって」
ガレスが早足で離れようとするシンの腕を掴む。
「……いいのか?」
「いいも何もないだろう」
「ちょっと事務所に戻ろう。二人で話したい」
「食堂も上手く回ってる。
孤児の受け入れも、問題なさそうだ。
治安維持には人手が足りないが、なんとかなってる。
何を話す」
「……個人的なことだ」
ガレスはシンの肩を抱くと、逃げられないようにして歩き出した。
「……おい!」
「今は“不敬”だとかなくて、いい時代になったな」
シンは、舌打ちをする。
二人は、小さな一軒家に入っていった。革命軍の戦略室として利用している拠点の一つだが、今は誰もいない。
その部屋の一つに入る。
ほとんど物置と化している部屋であり、密談するにはもってこいの狭い部屋だ。
鍵を閉め、ガレスは声を落とした。
「……殿下」
シン――シリルは粗雑な椅子に腰を下ろし、フードを指先で払った。顕になる、淡い白金色の柔らかい髪と、緑がかった青い瞳。
ガレスは、シリルの前に片膝をついた。
「彼女……あなたの想い人でしょう?
会わなくていいんですか?」
シリルはガレスを見ることはなく、カーテンが引かれたままの窓を見つめる。
「会えないよ。
王族の子どもを孕んでしまわないように、白い結婚を貫いたんだ。辺境に追いやってまで逃がしたというのに。
それを……。
危険にさらしてしまうだけだ」
「しかし――」
ガレスが膝のうえに置かれたシリルの手を取る。
シリルは奥歯を噛み締めた。
「……それに。
僕の手は血塗れだ。
実の親も、兄弟も、僕の手で殺した。
関係のない貴族だって殺したんだ。
こんな手で、二度と彼女の白い肌に触れられるわけないだろう」
「何のために、革命を起こしたんですか?
回り回って彼女のためなのでは?
彼女の生きるこの国を、良くしたかったのでは?」
シリルはちらとガレスを見ると、手を振り払って立ち上がった。
「……違うよ。市民のためだ。
それから、僕をまともに評価しない王や貴族を懲らしめたかっただけだよ……」
「……本当に?」
窓際に寄る。
カーテンを指先でわずかに開けた。
「ガレス。
早く王位につけ。
もたもたしていると近隣国が手を伸ばしてくる」
ガレスも立ち上がると、シリルの脇に立ち、壁にもたれた。
「殿下は俺を評価してくれているみたいですけど――」
「お前は背が高い。見目も悪くない。武力もあって声もデカい。人目を引くんだ。
人の上に立つのに、それは重要なことだ。
僕が君を生涯影で支えてやる。
玉座についてくれるだけで……いいんだ。
今はとにかく、表に立てる人間が必要だ」
「俺より相応しい人がいるのに……。
俺はせいぜい市民革命軍のリーダーが関の山ですよ」
「ガレス」
ガレスは壁を離れると、扉に向かった。
「じゃあ、あのお嬢さん、俺が口説いちゃおうかな。
すごくいい女だった」
「おい!
だめに決まってるだろう!」
「でもあの子今、誰のものでもないんでしょう?」
ガレスは不敵にふっと笑うと、部屋を出ていった。
「ガレス!」
扉が閉まる。
シリルは舌打ちをした。
そして、拳で壁を殴りつける。
「……オデット。
何故戻ってきてしまったんだ……」
窓の外からは街の喧騒が聞こえてくる。
シリルは、大きくため息を吐いた。
◇
宿に戻ると、ジュリアンは私を部屋まで送ったあと、すぐには自分の部屋には戻らなかった。
ベッドの縁に腰掛ける私の隣に座り、そっと背を撫で続けてくれた。
「シリルは……」
「うん」
「ふとした時に、遠くを見るの」
思い出してしまう。
空気を含んだような緑がかった瞳。
いつも、どこか飄々として、不敵に笑ってるような男。突拍子もないことを言い出しては、私を巻き込む。
「いつもは、子どもみたいなところがある人なのに」
「俺は第二王子の近衛だったから、あまりそばに寄ったことはないけど、姉さんから聞く話はいつも可笑しかったからね」
「ふふ。そうでしょ?」
窓の向こう。
今日は曇っていて、外は白い。
「いきなり書類をたくさん持ってきて、どちらが先にサインし終えるか勝負しよう……なんて言い出すのよ」
腕で書類を抱える仕草をしてみせると、ジュリアンがふっと笑った。
「あれは仕事を押しつけたかっただけだわ」
「姉さんと一緒にいたかっただけかも」
「そうだったら……嬉しかった。
でも……結局離縁されてしまったし」
ジュリアンが私の背をトントンと、宥めるように優しく叩く。
「彼が遠くを見ていた時。
怖かったの。ずっと。
彼を失ってしまいそうで。
いつも、手を伸ばしたかった。
でも、私はこれでも王子妃で、彼は王子よ。妙な矜持があって、私から彼には触れられなかった。
――触れてしまえばよかった」
「姉さん」
「縄でぐるぐる巻きにして、馬車に乗せて、辺境に誘拐したら良かったのよ」
「姉さんなら、やりかねないな」
二人で声を立てて笑う。
「私……愛してたのね、彼を」
頬を、涙が伝う。
「どうして……離縁を簡単に受け入れちゃったのかしら……」
ジュリアンは一度立ち上がると、私の前に片膝をついた。
まるで近衛騎士だった頃のように、凛とした面差しで私を見つめる。
「姉さん」
「……どうしたの? ジュリアン」
「殿下が、例えば、一人だけ逃げた卑怯者で、臆病者だったとしても、気持ちは変わりませんか?」
遠くで、馬車の音がした。
「ジュリアン。
歴史はね、生者が作るのよ。
あの状況で逃げられるだけの能力があるのなら、それは素晴らしいことだと思うわ。
情勢を見極める力、人脈、運、ありとあらゆる色んなこと。そのすべてが揃わないと、きっと逃げることなんでできなかった。
生きているのなら、それは彼が、歴史を紡ぐ資格を有しているということよ」
ジュリアンはまっすぐに私を見つめると、ふっと笑った。
「さすが、姉さん。
あなたは王族の妻たる器の女性だ。
普通じゃない」
私は口端を持ち上げる。
「褒めてるのよね?」
「褒めてるさ」
彼は立ち上がった。
「いろいろとあって、俺も少し疲れた。
今日はゆっくりしようよ。
夕飯時に、また迎えに来る」
「……わかったわ」
ジュリアンが踵を返す。
木床を踏む音。
そして、扉が開く。
少し冷えた空気が滑り込んできた。
扉が、閉まる。
◇
裏口の木戸が叩かれた。
市民革命軍の拠点。
小さく扉を開けた男が、眉を寄せる。
「……どちら様?」
「“ジュリアンがきた”と伝えてください。シンという方なら、分かるはず」
男は頷くと、一度扉を閉めた。
襤褸切れを頭から被っていたジュリアンは、しばらくそこで待った。
夕刻。陽が赤い。
街のどこもかしこも、赤く染まっている。
扉が開く。
向こうにいたのは、ガレスだった。
ジュリアンが目礼すると、ガレスはふっと笑う。
「覚悟したほうがいいよ。
すっごく怒ってるから」
ジュリアンは眉を下げながら、家の中に滑り込んだ。
通された部屋は壁際に木箱がいくつも積まれていた。一つだけある窓からは赤い日差しが差し込んでいる。
部屋の中央で、シリルは立ったまま、腕を組んでジュリアンを待っていた。
ジュリアンは部屋に入ると、シリルに跪く。ガレスは興味深そうに壁際に寄り、二人を眺めた。
「……殿下」
シリルは無言で腕を振り上げると、拳で彼の頬を強かに打った。ジュリアンの体が一瞬傾く。
「貴様は元騎士のくせに、王族の命令一つさえこなせないのか!」
ジュリアンは口元を拭い、シリルに向かって頭を下げた。
「……殿下のお怒りはご尤もです」
「僕はオデットを連れて逃げろと言ったんだ!
何故連れてきた!
彼女を危険に晒すつもりか!
この役立たずが!」
「殿下」
ジュリアンが顔を上げる。二人の視線が強く、交差した。
「姉は、辺境で燻ぶらせておいていい女ではないのです。
彼女こそ王族に嫁ぐべき女。シリル殿下の隣にいてこそ、輝くのです」
シリルは歯を軋ませる。
「……どいつもこいつも!」
「シン……。殿下」
壁際にいたガレスが声をかける。
シリルとジュリアンが彼の方を向く。
「諦めてください。
俺も、この騎士も、彼女も、みんな殿下を待ってる。
俺たちだけじゃない。この国に残された全ての人間が、まともな王を欲してるんです。
――それは、あなたしかいない」
「僕にはもう、ほかの道を用意したんだ。ガレスにも話しただろう」
「俺が思うに、殿下は独りよがりすぎる。
まず、聞いてみたら?」
「誰に……何を?」
「賢いあなたが分からないわけない」
ガレスがちらとジュリアンを見た。
そしてまたシリルに視線を戻す。
「今夜、殿下が行かなければ、俺は宵に彼女の部屋に夜這いに行く」
シリルが目を見開いた。
ジュリアンも驚いて口を開ける。
「俺は市民から人気者だ。
彼女は俺を受け入れてくれるかもしれない。
あぁ、わくわくするな。
あんな綺麗な女性を抱くのは初めてだ」
シリルはガレスに駆け寄り、拳を振り上げた。ジュリアンは慌てて、シリルを羽交い締めにして止める。
「よくもそんな下品なことが言えたな!」
「シンが彼女に会いに行くなら、結果はどうであれ、俺は大人しくしてますよ?」
シリルは体を振ってジュリアンを引き剥がすと、窓際に寄った。
「二人とも出てけ!」
「……はいはい。出ますよ」
呆然としているジュリアンの肘をガレスが引き、二人は部屋を出る。
扉が閉まる。
ジュリアンは口元を押さえながら、その木の扉を見つめた。
向こうからは、壁を打つような音が聞こえてくる。
「……殿下は物腰の穏やかな方かと……」
ガレスが肩をすくめた。
「俺が知ってる“シン”てやつは、苛烈な男だけどな」
ジュリアンが困惑してガレスを見る。
「姉は、絶対にあなたを受け入れませんよ」
「んなもん、わかってるよ。
早く帰ってやれ。姉ちゃんのもとに」
ガレスは踵を返した。声を立てて笑っている。
ジュリアンはその背を、呆れて見送った。
◇
宿屋の一階にある食堂。
宿利用者は少ないものの、食堂には人が多かった。
その隅の席をジュリアンと陣取り、注文する。
「姉さんも庶民の食堂に慣れてきたものだね」
「そう?」
どの店へ行っても提供される料理は似たようなものだ。
香草のスープ。焼いただけの簡単な肉料理。蒸し芋。黒パン。リンゴ。
そして安物のワイン。
時間をおかず、くすんだ木のテーブルの上に食事が並ぶ。カトラリーを手に取った。
「……でも、姉さんはやっぱり所作がきれいだね。こんなところにいる人じゃないよ……」
「ジュリアン。あなただってそうよ。
ただの騎士じゃない。選ばれた騎士だったのだから」
視線が交わる。
互いにふっと笑った。
「今そんなこと言ったって、詮無いわね」
食事を進める。
第三王子の噂はどこへ行っても、大して集められなかった。
もう、どこへ行けばいいのかも、わからない。
「姉さん、ワイン、おかわりする?」
顔を上げる。もう、食事は終わりそうだった。
「え? 別にいらないわ」
ジュリアンはソワソワと辺りを見回している。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないんだけどさ……」
彼の視線がふと持ち上がり、そして、すぐに手元に視線を落とした。口角がわずかに上がっている。
「……ジュリアン?」
影が差す。
私の隣に男が立った。
私が顔を上げるより早く、その男は椅子に腰かける。
「お嬢さん、美人だね。
良かったら、僕と結婚しない?」
――え?
ゆっくりと男の顔を見る。
彼はテーブルに肘をつき、私の顔をのぞき込むようにした。
汚れたくすんだローブ。
目深にかぶられたフードから覗く、その瞳。
彼が唇に人差し指を当てた。
変わらぬ瞳。
空気を含んだような、緑がかった柔らかい青。
「教えてほしいんだ。お嬢さんの男の好み」
「え?」
「まずはね。
遠い親戚に伯爵がいる。その男を頼って、彼の養子となり伯爵家の跡取りとなる、地に足のついた安定した人生を送る男」
彼がふと腕を伸ばし、私の手にその手を重ねた。
「それか――」
声を低くする。
「玉座に就く波乱万丈な人生を送る男。
――どっち?」
手を返して、彼の手を握る。
もう、二度と離さないように。
「強い男が好きよ。
それに、私は王家に嫁ぐ女なの」
彼は不敵に笑い、頷いた。
「わかった」
彼が手を伸ばす。
私の頬に触れ、顔を寄せた。
「君のために、僕はあの椅子に座ろう」
耳元に声を落とす。
「二度目の初夜では、手加減してあげられないかもしれない。
――僕はずっと我慢してたんだから。
覚悟してて」
彼が立ち上がる。
ジュリアンを見下ろすと、不敵に笑った。
「命令だ。彼女を守れ。
大丈夫。すぐに迎えに来る」
ジュリアンは瞳を伏せ、頭を下げる。
「御意」
シリルは、私に背を向けて颯爽と去っていった。
頬を抑える。
私を見てジュリアンは声を立てて笑った。
「顔真っ赤だよ!」
「うるさいわね!」
それからは、あっという間だった。
市民革命軍のブレーンとされていた“シン”が第三王子のシリル王子だったことを公表し、彼が新しく王位を継ぐことを表明。
日頃の彼らの働きを知っていた市民の多くは、これを受け入れた。
国にとどまったわずかに残った貴族たちも、粛々と新しい王を受け入れる姿勢を示すしかなく、大した反対もなく彼は玉座に就いたのだった。
国を立て直すのは、決して楽な道のりではないだろう。
忙しい日々がきっと長く続く。
豪奢なマントを纏ったシリルが私に手を差し出した。
それに、指先を添える。
私の背にも、彼と同じくらい豪華なマント。頭には、宝石のついたティアラ。
「オデット。いくよ」
バルコニーの扉が、従者の手によって開けられる。
眩しいほどの白い光。
王城の向こう。
バルコニーから見渡せる広場に集まった市民たち。
ゆっくりと歩き、欄干の前に立つ。
シリルが高く、手を上げた。
割れんばかりの歓声が沸く。
“シン!”と呼ぶ声も混ざっていた。
シリルは私を振り返って、笑う。
私を強く抱き寄せた。
「波乱万丈な人生を歩む男を選んだのは君だ。
後悔しても、もう離縁はしてあげないから」
私も、笑う。
「望むところだわ」
互いに顔を寄せ、唇を重ねた。
「あぁ……
今夜が楽しみだなぁ」
シリルが、ゾッとするほど艶のある笑顔で小さくこぼした。
恥ずかしいような。
怖いような。
「お手柔らかに……」
「え?
オデットは……早々に僕に負けを認めるつもりなのかな」
「そんなわけないでしょう!?」
「そ。
じゃ、激しくね」
「ちょっと!!」
シリルが笑う。
私も、つい笑ってしまった。
こうして私は、
かつて、離縁されました。
そうしたら、王政を誇っていた国が一度滅亡し、なんだかんだで夫が王になりました。
そして今夜、二度目の初夜を迎えます。
とても不安です。
でも、きっと、幸せになれる。
――そんな予感がする。




